水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

新・しんぐるま解説(13)まとめ

2010-10-29 10:37:35 | 水車紙上解説
 一昨日、手前勝手に名づけた「三鷹ブラブラ散歩」に旧友二人をお誘いした。

 まず最初に駅前からバスで深大寺へ。ここには多数の観光バスが乗り付けていて、大変な人出であった。ゲゲゲの~、のおかげであろう。参拝・ソバを食べた後、天文台、野川の飛橋、飛燕の掩体壕、勇の竜源寺と歩いた。ちょっと肌寒かったが、好天で、静かで、快適な散歩となった。友人二人も、想定していたこと以上の散歩になったようで、満足してくれたようだ。
 途中、「しんぐるま」を横目で見ながら通り過ぎた。目前に迫った開館の準備のためであろう、市役所の担当職員が忙しげに作業していた。ずいぶんと気合が入っている、と見受けられた。


さて、

「これで、説明は終わらせていただきます。いかがなご感想をお持ちになったでしょうか。ご質問があれば、私のわかる範囲で、お受けします。

 機械遺産として認定されたことからもわかるように、200年前に建設され、しかも、完璧に動く、木製の、このような機構は、もう日本中どこをさがしてもありません。とても珍しい施設です。そのため、三鷹市は保存・維持に積極的に取り組んでいます。
温故知新といいます。新しい発見をさがしに、時々足をお運びください。また、お友達にも紹介してください。

 庭には、材料として使うために大切に育てられてきた、けやきやシラカシなどが生えています。お帰りの際、それらを見ながら、この家を代々継いできた峰岸家の方々にも思いを馳せていただければ幸いです。おわり」



新・しんぐるま解説(12)近代機器

2010-10-27 07:05:35 | 水車紙上解説
「こちら側にある一連の機械は、昭和10年ごろ、つまり、1935年、今から75年ほど前に、設置した、精米機、精麦機、製粉機、粉砕機などです。水車で発生させた動力をベルトで伝導させて動かしました。つまり、このころは、江戸時代の木製装置でも、近代機器でも、精米・製粉をしていた、わけです。
 この辺は、大正の始め頃、つまり、1910年ごろ、電気が通ったそうですが、これらの近代機器を電動で動かせるようにしたのは、野川の改修工事以後、つまり、1965年以後でした。
 ほんの短い期間、水でも電気ででも動かせた、今はやりのハイブリッドだった時期があるわけです。
そして、水が引けなくなった野川の改修以後、これらの機器は電気モーターでのみ動かしてきたのです。

そしてそして、約40年ぶりに、水車を水で回すように復元したわけです。

 まあそれにしても、これら近代機器でも、50年以上前の製品です。これらの機器も含め、江戸時代から昭和初期にかけての、精米・製粉技術の歴史を展示する場としても、ここが貴重なところだと、ご理解いただくと幸いです。」


つづく

新・しんぐるま解説(11)全自動小麦粉製造装置

2010-10-25 09:06:58 | 水車紙上解説
 先週の土曜日、しんぐるま公開記念式典があった、はずだ。
残念ながら参加できなかったが、さぞや盛大に催されたことだろう。
 同日行われたFCTOKYOの対新潟戦にも行けなかった。
引き分け。首の皮一枚、残った。ヒヤヒヤ、イライラが当分続く。

さて~っと!

「これは全自動小麦粉作り装置です。もちろん、水車の回転で得られた動力で動かします。
江戸時代末期にここまでの装置を作っていたとは、本当に驚きです。じっくりご覧ください。

 まず碾き臼。直径55cmの御影石です。重さはひとつ300kgはあると考えられます。万力の歯の数から推定しますと、1分間に20回転ぐらいのスピードで回ったと考えます。粉を飛散させぬよう、また歯車に衣服を巻き込まれぬよう、カバーがなされています。

 日本では、主食が小麦粉ではなかったため、石臼の一般への普及は1700年ごろと考えられています。抹茶用とか火薬製造のための石臼は1300年ごろから多数存在していたようですが、食品用手挽き臼の普及は戦国時代の終了を待たねばならなかったようです。

 ご興味があれば、のちほど外で、現物で確認していただけますが、この臼の目は荒く、これでよくミクロン単位の粒子を作り出せるものだと不思議です。目立てには、地域ごとの特有のノウハウが多数存在していたようです。例えば、東北日本の石臼の目は6分画、西南日本のそれは8分画だそうです。
     
 臼で挽かれた小麦は篩の箱に滑り落ちます。この篩は奴篩という名だそうです。篩の箱が大名行列の奴さんが担ぐはさみ箱に似ているためこのような名がつけられたそうです。
 水車の回転運動を篩の水平前後運動に変換するまでの機構、その機構を構成する部品のすべてが木製であること、など巧妙な仕掛けにご注目ください。

 当家の主であった峰岸さんが「篩は粉屋の魂」とおっしゃていたそうですが、穀物の精白や製粉と篩(ふるい)は密接な関係があります。      
 ある時期、深大寺前の蕎麦屋の粉を引き受けていたこともあったそうです。初めてそば粉を挽いたとき、粒子が細かすぎて駄目、といわれたそうです。うどん用の小麦粉とそば粉とはまったく異なる粒子が要求されるということなのでしょう。

 当家にはまだ多種類の篩が残されています。篩目の材料としては、糠やふすまを篩うためには銅線などの金属が用いられ、粉の篩いには絹糸が用いられていたそうです。古いものには馬の尻尾の毛が用いられていたこともあったそうです。     
 
 奴篩を作動させると、細かい粒子は下の箱に落ち、集められて小麦粉として出荷されます。一方、網の上に残るものもあります。これを、挽き残りといいますが、集めて再び臼にもどします。はじめに全自動といいましたが、この臼にもどす機構も自動的に処理される構造になっていて、これをせりあげと呼びます。現在、残っているものはベルト式ですが、往時のものは箱状の容器を数珠つなぎにした、木製昇降機でした。
 この、せりあげの運動も、木製の棹心(さおしん)と呼ばれるものや万力(歯車)を巧妙に組み合わせた仕掛けによって、水車の回転運動から転換されるものです。

 1俵(4斗、約60kg)の小麦を、この装置で小麦粉にする時間は4~5時間だった、という話です。しかも、この工程の前に、8時間*2回の搗き臼工程があったわけですから、たとえこの装置がフルに機能したとしても、小麦粉をつくる作業は、大変な労力と時間を必要とするものでした。」

     つづく


新・しんぐるま解説(10)料金など

2010-10-17 05:03:38 | 水車紙上解説
「しんぐるま の利用料は高かったのでしょうか、安かったのでしょうか。

 1915年(大正3年)における、杵や臼の利用に関する料金表があります。それによりますと、米の精白が4斗あたり16銭で、大杵一本の昼夜貸しが35銭でした。

 もりやかけの値段は大正6年頃、5~6銭だったそうです。今は500円ぐらいですね。
とすると、この間の物価上昇は約10000倍といっていいでしょうか。

 以上から、当時の料金を今日の価値で考えると、米の精白が200円/15kg、大杵1本の昼夜貸しが1750円ぐらいであろうと推定されます。

 4斗の米精白に約4時間、同量の割麦を作るのに1昼夜かかったそうですが、このような大掛かりな機械で、時間をたっぷり使う作業に対する対価としては、今にしてみると、当時の料金はとんでもなく安かった、と言えるのではないでしょうか。

 ちなみに、町なかのコイン精米機は、10kgの米の精米は数分で終了します。料金は200円です。

労働の対価という意味での料金概念に関し、今と昔のあいだにおおきな違いがあるように思えてなりません。


 玄米を搗いたときの滓(かす)を糠(ぬか)、麦を挽いたときの滓を麩(ふすま)といいます。この滓には胚芽やセルロースという栄養素の詰まった部分が含まれていますから、簡単に捨ててしまうことは、賢者は許さないでしょう。しかし私のような愚者はうまみを追求します。そうするとどうしても、100%精白したものを食べ、糠や麩は利用することはありません。
 
 聞いた話があります。大名や豪商だけが脚気になる、とか、大陸に出征した陸軍軍人が脚気になった、などの話です。この脚気の原因が白米を食べることにあることを鈴木梅太郎が発見(米の胚芽に多量に含まれているビタミンB1不足)したのでした。また、森鴎外が医師として誤判断をしたのでした。

 今は飽食の時代ですし、あふれるほどのサプリメントが市販されていますから、脚気の心配はいりません。が、こんなところから食生活を見直すのも一興、かもしれません。」

つづく

新・しんぐるま解説(9)搗き臼(2)

2010-10-15 09:36:49 | 水車紙上解説
「さっきまで見ていただいた、麦の杵に比べ一回りちいさい杵がありますが、これは精米用の杵です。これによる精米には4時間かかったそうです。
川側にも、河川改修に伴う立替の時に全面作り変えられた、4本の杵があります。

 麦の杵は5寸角でしたが、これは4寸角です。断面の一辺が1寸、3cmですが、ちいさくなると体積はほぼ56%に縮小してします。ですから、この杵の重さはおよそ37kg(麦の杵の重さは約68kg)あるものと推定されます。
この重さの違いからだけでも、米と麦の搗き方の違い、ひいては、粒子の外皮の成り立ちの違いが、はんぱでないこととご理解いただけるでしょう。

 杵で麦や米を搗く際の工夫のひとつに、輪(わ)があります。これは藁でできた筒状のものです。搗き方を変える目的で、10cmから30cmぐらいまでいろいろの高さのものがあります。筒の直径は杵先の直径より5cmぐらい大きくなっています。

 臼の中の米や麦を搗く際、杵先がこの輪の中だけを搗くようにすることによって、米や麦の粒子が輪の外側を上方に移動するようになります。そして、上に到達した粒子は輪の中に落ち、再び搗かれることになります。このように臼の中で粒子が自動的に循環し、すべての粒子が一様に搗かれます。

 なかなかのアイデアですよね。このアイデアは全国に知れ渡っていたのでしょうか、それとも、ここだけが保有していたノウハウだったのでしょうか。
ご存知でしたら教えてください。」

      つづく

新・しんぐるま解説(8)万力と搗き臼

2010-10-14 18:26:03 | 水車紙上解説
「水車を回転させて得た動力を他に伝えるためには歯車が必要です。鉄が普及する前の日本では、歯車を木材でつくり、万力と呼びました。
しんぐるま にも多数の万力が組み込まれています。

ごらんの通り、この歯車は寄木細工のように多数の部材を組み上げており、寄せ歯式と呼ばれます。日本には寄せ歯式のほか、一枚の円盤の周を削って刃先を作る削りだし式、円盤の周上に格子状に刃先を組み立てる差し歯式と呼ばれる歯車があるそうです。

 この万力を見ていただくとおわかりのように、刃先の両側が削られています。刃先だけを交換することができ、なおかつ、一本の刃先の両側も使う、というすぐれものです。刃先の材料は、庭に植えた樫の木です。樫の木の比重は0.8ぐらいで、とても硬い木です。刃先以外の部材はケヤキだそうです。これの比重は0.65ぐらいだそうです。庭の一番太いケヤキの樹齢は300年を越える、といわれています。


 ここに14本並んでいる柱のようなものが杵です。これらが上下に運動し、下の臼の中に入れた米や麦を搗きました。下の臼は4斗つまり1俵の穀物を入れることができます。杵は15cm角の欅でおよそ18貫(67kg)あるという話です。

 水車の回転力は、大万力ともうひとつの万力(繰り出し万力)を伝い、この太い棒(欅で横芯と呼ぶそうですが)の回転に転換されます。そして、この横芯の回転にともない、それについている棒(なで棒)が杵についている板を跳ね上げ、その反動で杵が落ち、臼の中を搗きます。

 水車の回転速度を毎分10回転と仮定しますと、大万力(38)と繰り出し万力(20)の歯数、なで棒の数(4)から、杵は毎分80回程度上下していたものと思われます。杵ごとになで棒の位置がずれていますから、フル稼働したときは壮観だったにちがいありません。

 この太い杵で搗いていたのは大麦だったそうです。麦には挽き割麦と押し麦とがあります。
押し麦は昭和初期に押し麦機が普及した後、食されるようになりました。
 
 一方、挽き割麦は、それをつくるのに大変手間がかかったようです。ここのオーナーであった峰岸さんのお話が、”水車屋ぐらし”(三鷹市教育委員会、p42)に次のように残っています。

(麦は皮が固いのでそのままでは搗けない。水を使って表面を潤し、柔らかくしてから荒搗きをする。次に水を少なくして仕上げ搗きし、丸粒に精麦する。この丸粒を干してから割り麦にする。・・・・・丸粒を石の引き割り臼でひく。この臼は上下を同じに刻んだ剣刃になっていて、粉には挽けず、一粒が2~3つ割の挽き割りになる。)

荒搗きと仕上げ搗きにそれぞれ10時間、引き割り臼に4時間要したそうです。」

     つづく


新・しんぐるま解説(7)水輪

2010-10-13 13:50:33 | 水車紙上解説
 さて、これが水車です。直径4.6m、幅0.97mあります。熱意あるかたがたが集まって、2003年に作ったもので、昨年付け替えられました。材料は赤松です。寿命はおよそ10年だそうですから、創建以来15回ぐらい作り変えられたと考えられます。むかしは水輪(みずわ)といったそうです。が、現在では、このようにぼろぼろになっています。1968年に停止した時のままだからです。材料は赤松です。寿命はおよそ10年だそうですから、創建以来15回ぐらい作り変えられたと考えられます。

 この水輪は上流に向かって回転し、今、一分間に14回転させています。水を水輪の中段からやや下で受けていますが、これを、胸かけ、といいます。世の中には、ほかに、上かけ、下かけ、あるいは、下流に向かって回転するもの、などさまざまな形があります。
 この水輪には、苦心の工夫がいろいろ組み込まれいるのですが、ひとつだけ考えていただく種を紹介しましょう。
自転車でいうスポーク、これを、くもで、といいます。今は残念ながら、回転していますので、数えることができませんが、このくもでの数が14本なのです。360度をきれいに分割できる数がいくつもあるのに、どうして、14本にしたのでしょうか。また、分度器がない時代に、どのように360/14、なる角度を描くことができたのでしょうか。

 水を受ける部分を水受けといいますが、この水輪は42枚の水輪で構成されています。これより多くしても、逆に少なくしても、水を受ける効率が悪くなるにちがいない、と考えられます。つまり、くもでを14本とするには、工学的に深い理由があった、と考えられるのです。

 そのような目でながめなおすと、この水輪には、例えば、今ある水受けの角度や形に、それを作り出した、自然に対するものすごい洞察力と自然に適応するための技術力とを、ひしひしと感じることができるのです。

 この水車は、いうまでもなく、水を動力源とするエンジンです。最大10馬力は出たという話です。仕事率でいえば7kw程度、今の一般家庭の二軒分の電力を供給できる程度でしょうか。50ccバイクと同じぐらいの力を出せるといってもいいと思います。」

     つづく

新・しんぐるま解説(6)導水口

2010-10-12 09:05:05 | 水車紙上解説
(示した写真は古い)

「ここは水車小屋に水が入るところです。この水路は、今はもう存在しません。上流に大車(おおぐるま)という名の水車があった時代もありました。
 
 むこうの河道が、野川です。1968年の河川改修によって、川幅が広げられ、河床がニメートル低められました。このため、水車を回す水を取れなくなり、水車の運転が終了しました。
流域内で多発する洪水被害を防止するための改修でしたから、やむおえなかったのです。

 昨年大工事をして、庭の地下に貯水槽を設け、水を循環させて水車を回すことができるようになりました。このパイプが水を循環させるためのものです。現在、水車を回すために、毎秒約50リットルの水が流されています。 
 
 昔はここに、サブタ(差蓋)と呼ばれる、水量調節をする堰がありました。
毎日、その日の仕事の量にあわせ、水車の回転数を決め、それに見合う水量調節をこれで行ったのです。

 話が変わりますが、この辺の風景の成り立ちについてちょっとお話しましょう。

 この施設の立地している平地は、武蔵野台地の立川段丘面といいます。川の向こうに一段高い面が見えますが、あれが武蔵野段丘です。野川は、多摩川が武蔵野段丘を作った砂礫層から滲み出る地下水が集まった流れです。西国分寺駅の北付近を水源とし、二子多摩川園駅付近多摩川に流出する、延長約30kmの河川です。また、よく野川は数万年前に多摩川が流れていた跡、とも言われます。

 段丘の上の原っぱでは地表で水を得ることが難しかったため、人間を含め動植物の水場として、野川は昔から貴重な存在でした。

 水場の名残は今でもあって、有名なものとしては上流から、国分寺市の殿ヶ谷戸公園、小金井市のはけの道、ここのすぐ上流の、ICU校内の樹林、都立野川公園、下流に行って深大寺など、人々に愛されているところがいろいろあります。
 この向こう側には、三鷹市が湿生植物園をつくり、なるべく自然を残した景観を保とうと努力しています。是非この機会にあちらも見学してみてください。

 ただし、どこも水はほとんど枯れてしまっています。それは、武蔵野台地全域でくりひろげられてきた、都市化・市街地化に伴う地下水低下工事が原因です。井の頭池の水源枯渇も同じ原因です。浸透マスの設置が推進されていますが、野川に昔のような豊かな水が復活するのは、台地上の都市化・市街地化が終了した後、さらにしばらく経過してからではないでしょうか。場合によると100年とか200年後であるかもしれません。」
  
     (つづく)

新・しんぐるま解説(5)土地利用の変遷

2010-10-09 13:17:31 | 水車紙上解説
 「 このパネルは、しんぐるま周辺の土地利用変遷を、とても面白く表していますので、少々詳しく説明します。

 三枚とも同じエリアですが、地図が作られた時代が違います。

 まず、真ん中の図で、位置関係を確認しましょう。図の中央の、白く抜けている部分は調布飛行場です。その下の左から右への赤い線が甲州街道、その下のブルーは多摩川です。ここ、しんぐるまは、調布飛行場の右肩あたりです。左から右上にのびる赤い線が人見街道で、左上から右下にのびる緑の線が野川ですが、これら二本が交わるところが、ここ、ということです。 
 さて、一番下の地図は20年前ごろ、すなわち1990年ごろ、の地図で、ほぼ現在の状態と同じ、と考えられます。赤は都市的土地利用、つまり図に示された範囲のほとんどは住宅地だ、ということを示しています。
 
 真ん中の図は、70年ぐらい前の土地利用図です。図全体が黄色っぽくなっています。これは畑地です。
 
 上の図は明治末、つまり、およそ100年前の土地利用図です。緑色の部分が広いですが、これは森林です。
 この図のさらに100年ぐらい前、しんぐるま が設置されました。そのころの土地利用は、この図とほぼ同じであったことと想像されます。
 
 これら三枚の土地利用図を比較すると、このしんぐるま周辺の土地が、最近の100年間、もっとしぼると、1940年ごろからの50年間で、劇的に変わったことがわかります。

 今日、しんぐるまがこのように展示できる背景には、周辺環境が劇的に変化するなか、200年前の姿と機能を維持し続けるために、峰岸さんと彼を支えた多くの人々による、無償の、大変な努力が払われた、と想像されます。是非、その辺もご理解いただくと、ありがたいと強く思うのです。」

 つづく

新・しんぐるま解説(4)土蔵

2010-10-06 08:52:58 | 水車紙上解説
「この土蔵は1881年建立です。当初は茅葺でした。今の屋根にいつ葺き替えたか、はっきりわかっていません。
土蔵とそれに付帯した倉庫には、ご覧のように、さまざまな道具があります。水車の運転・修理と精白・製粉に関わる道具だけでなく、日常の暮らしに関係する、道具類もたくさんあります。

 これらの多種多様な道具類は、「単調」という言葉の対極にある、当時の、自然と共有した日常生活を彷彿させるもので、なつかしくご覧になる方々も少なくありません。
 
 しかしその一方、かならずしも裕福な暮らしを成り立たせることは困難であった、とも想像させるものです。
なぜなら、自給のため、と考えられる、農耕・製茶・漁労・家畜に関わる道具のほか、養蚕・製糸・紡織の道具も多数残っており、これらの道具を用いる日常生活の苛酷さは想像を越えるものです。
 養蚕は、地区全体としても盛んでしたが、昭和10年代に行われた国による飛行場用地買収により、桑畑がなくなり、衰退しました。

 当時は、現代のような富を貪る風潮はなかったに違いないのですが、それでも、これから見ていただくような、あれだけの装置を備えた水車業であっても、これら多彩な道具をそろえておかねばならないほど、日常生活は楽ではなかったのではないでしょうか。」

つづく

新・しんぐるま解説(3)勝手

2010-10-05 09:36:44 | 水車紙上解説
(うかつにも、このスペースの写真を撮っていなかった!)

「このスペースは勝手と呼ばれています。今は外枠が復元され、このような状態になっていますが、そのうち全体が、昔の、かまどや水場のある、いわゆる勝手に復元されるかもしれません。
 私個人の考えですが、生活感のある実態から乖離しすぎるような復元にならぬよう、慎重な検討が必要だと思います。
例えばこの井戸は、現在カラ井戸です。河川改修で野川の水位が下げられてしまったために使えなくなったのです。この状態のままにしておくか、あるいは、例えば、江戸時代の井戸に復元させるか、みなさんはどのようにお考えでしょうか?

 さて、ここでスリッパに履き替えていただきます。今は稼動していないとはいえ、食品を扱う工場であったわけですから、土足での入室はちょっと、というわけで、ご協力をお願いします。
しばらくの間、御自分の履物はビニールの袋に入れてお持ち願います。

(次のステップに進む際、次のふたつの策から、臨機応変に、ひとつを選ぶ。

① まだ、前のグループが水車のほうにおられますので、土蔵の中を先に見ていただきます。
② 水車のほうだけをご覧になるご希望でしょうか?時間がおありでしたら、土蔵の中もごらんになりませんか?民具と郷土史に関連したパネルがあります。

 フルバージョン解説は、当然土蔵の中を含める。が、土蔵へ入ることを強要しない。)」

 つづく

新・しんぐるま解説(2)母屋

2010-10-04 10:40:34 | 水車紙上解説
 「この母屋は、1994年、今から16年前になりますか、三鷹市の文化財に指定された、市内で一番古い木造萱葺き住宅です。建造された年代は、はっきりと証明するものはないのですが、言い伝えでは1813年、と考えられています。築後約200年経過している建物というわけです。その間、関東大震災や安政大地震など、いろいろな災害をよくもしのいできた、と私は思うのです。
 北側の屋根は、昨年葺き替えました。他の面もそろそろ、吹き替えの時期が来ているようです。しかし、最近ではカヤやススキなどの材料がどんどん得にくくなっています。
ここを見てください。色が違うでしょう?前回の葺き替え時、苦肉の策として、内側をワラで葺いています。
 建坪約75平方メートル(22坪)で、8畳二間、4畳一間、仏間、板の間、および土間で構成されますが、当時のこの近辺の一般農家に比べても、小ぶりであったようです。どうして小さかったのか、は、大黒柱がなく、梁などの部材が一般に比べ細いこと、などとあいまって、まだよくわかっていないようです。
 建築当初、天井は張られていなかったそうです。この低い、土間の天井は板スノコ、と呼ばれ、明治時代後期に始めた養蚕のために張られたものです。
ここのお宅では、あそこにある機織り機を使って、機織りもなさってたようです。」

つづく(使った写真は古い)

新・しんぐるま解説(1)イントロ

2010-10-03 05:02:29 | 水車紙上解説
 昨日配布された市報の一面にデカデカと、しんぐるま公開、がアナウンスされた。
市の並々ならぬ力の入れようを感得できた。

 これからしばらくの間、11月の再開を前に、フルバージョンでの、しんぐるま解説を復習する。
使う写真は古い。
 さて、
 
 「今日は、この、三鷹市大沢の里水車経営農家によくいらっしてくださいました。

 この施設は、所有者であった峰岸家から寄贈された三鷹市の文化財で、また「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」という名で東京都の有形民俗文化財の指定も受けています。昔、屋号は「しんぐるま」でした。新車(あたらしい・くるま)という漢字をあてます。上流に「おおぐるま(大車)」という名の水車がありましたから、それとのからみでつけられた通称名だろうと思われます。今でも、よく使われる名称です。

  住居も水車も今から約200年前に作られ、電気が使えるようになった後も、昭和40年代初頭まで水車を稼動させていました。水車を動力源とした、江戸時代末期から明治時代にかけての精白・製粉工場とお考えください。

 工場内の古い装置は、多数の木材部品で構成されています。建設当初に設計された部品がほとんど残っていること、精白・製粉工場の発達過程を知るヒントを与えてくれること、など、今では、全体が貴重な技術史資料としても認められています。このため、ご存知と思いますが、飛行機のYS11とか、マツダのロータリーエンジンとかに並んで、機械遺産としても登録されました。登録名は「峰岸水車場」です。

 一見地味な施設ですが、いろいろな名で呼ばれていることからわかるように、見所がいっぱいあります。「入場料100円を損した」、とお思いにならぬよう、ゆっくりお楽しみください。

 では、中に入ってみていきましょう。
 そもそもが見学を想定していない、古い木造施設ですから怪我の種が尽きません。また、言わずもがなですが、市民の大切な財産です。
どうかそのあたりを十分に、ご配慮をお願いします。

     (つづく)

解説員連絡会(16)

2010-10-01 05:56:49 | 水車解説関連
 昨夜、標記連絡会があった。

公開が迫り、皆さんのなみなみならぬ気合を感じ、いつもながら楽しかった。
メモしておくべきことがらは以下のとおり。

・ 議会で条例(大沢の里水車経営農家)が承認され、11月再公開開始が正式に動きはじめた。

・ 自動的に入いることになる、市民活動災害補償保険について。
① 見学者も対象
② 通勤途中の災害も対象になるかどうか、後日、知らせてもらえる。

・ 前回、大議論となった、入り口の新設および土足容認、は撤回された。

・ 基本となる見学ルートが示された。
母屋~勝手~(スリッパに履き替え、スリッパ手持ち)~土蔵~サブタ~覆屋内部~(出口でスリッパを脱ぐ)となる、一方通行。
4本杵へは立ち入り禁止。やっこ篩へは、出口側から入る。
① 大変結構だと思う。
② ただし、輪(わ)を10本杵のほうに移動してほしい。
③ たぶん、見学者が来るたびに、券売機で切符を買ってもらうよう(100円)、言わねばならぬことになるはず。想像するとなんともかったるい。

・ 解説員は、平日1名、休日2名配置。
見学者が途切れなく来るような場合、その数がある程度になるまで、母屋でDVDをみてもらう。
安全管理上(水輪が動いている)、見学者のみでの入場は許さない。

・ 安全対策マニュアルが配布される。

・ 氏名等を書いてもらっていたノートは廃止。
(アンケートは続けるの?)

・ ロゴマーク、羽沢小5年生の作品に決定。10/23の式典時に発表、だそうだ。
島村氏の作品が佳作に選ばれた。拍手!

・ 10/8、14:00から約2時間、装置全体を動かす。見に来てほしい。
(残念!いけぬ。)

・ 担当日調整を始めるそうだが、誰がどのようにやるか、は不明であった。
(そのうちわかるでしょう)


 見学ルートも決まったことだし、準備運動を兼ねて、以前このブログに書いた「水車紙上解説」に手を入れ、再掲しよう、と思う。