水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

古文書講座(5)年貢割付状(4)

2011-03-08 09:56:21 | 三鷹・歴史/地史
大沢村には、土地以外にも、次のような年貢があった。

・ 水車運上 永220文

 天明7年(1787年)の割付状であるから、「しんぐるま」はまだ設置されていず、上流の「おおぐるま」に課せられた年貢であろう。運上=金納の年貢・雑税。商業・工業・漁業・運送業などに対する営業税もしくは免許税。

・ 御伝馬宿入用 米1斗9升4合

 布田5宿に供出していた、と思う。伝馬宿では公用の通信・連絡のために、人馬を常備しておかねばならなかった。
布田5宿、といっても、合計10軒の宿があるほどの小さな宿場であった。30軒以上もある隣の府中に比べ、運営は楽ではなかった、と思う。
「しんぐるま」の近くにある、近藤勇の生家・宮川家は甲州街道沿いに、あらゆる面で強い影響力を持っていた家だったそうだが、それは、この伝馬の調達に関する采配をふるっていたからだ(当然のことながら、幕府を後ろ盾にして、だ)、という話がある。非常に興味深い家なのだ。

・ 六尺給米・御蔵前入用 米永 助郷に付免除

 六尺=当時、幕府雇用の人足を呼ぶ公用語。江戸城の中にも大勢いたであろう。大沢村の供出米は蔵前用であった。ただし、これは助郷をすることによって、免除。
助郷=宿場(この場合、布田5宿)での人馬が不足した場合、その不足分を供出すること。

今日考えれば、六尺給米を負担し、助郷を免除してくださいと言えそうだ。が、たぶん、それは決して言えなかった。
つまり想像するに、これは、「助郷を出せ」という命令、だと思う。六尺給米免除は単なるカザリ。





古文書講座(4)年貢割付状(3)

2011-03-04 09:46:31 | 三鷹・歴史/地史
田畑以外の土地に対する課税


・ 林銭、8.14ha、 2貫104文
・ 藪銭、3.25ha、   492文
・ 芝野銭、7.57ha、1貫527文
・ 芝銭、31.73ha、 1貫601文
・ 草銭、0.22ha、    41文

 講師の説明によると、林は屋敷林および斜面林、藪は竹林、芝野は高位台地で潅木の生えた草地、芝はススキの生えた草地、草は野川沿いの低湿地、だそうだ。

 武蔵野台地は西暦1500年代まで一面ススキの原っぱであったそうだ。そこに入植者が入り、屋敷を建て、その周りに樹木を植え、田畑の開墾にいそしんだ状景が目に浮かぶではないか。

 「芝」は「柴」とするほうが感じが出る。林、芝野、芝は薪炭燃料調達地であったに違いない。

まあとにかく、約41ヘクタールの未開発地に、今日の金銭感覚で言うと約10万円ほど課税されていた、と考えていい。


 現在、大沢地区は1丁目から6丁目に区分されていて、その総面積は283ヘクタールである。
江戸時代に開発が進んだ地域は、主として低位台地(しんぐるまが立地する台地)であって、今の大沢4丁目~6丁目に該当する。その合計面積は101ヘクタールである。
一方、年貢割付状で課税された、土地の総面積は131.4ヘクタールである。

 このことから、何がいいたいか?
非常に荒っぽく結論にもっていくと、当時の高位台地(武蔵野段丘面)は、ほとんど開発の手が入っていなかった、といいたい。
なぜなら、高位台地上の課税対象面積は20.4(131.4-101)ヘクタールであって、それは、大沢村に属する高位台地上面積の約11%(20.4/(238-101))にすぎないからである。


 見学者の多くは、土蔵にぶらさげられた、3枚の土地利用図の説明を興味深げに聞いてくださるし、質問も多い。上の整理はその説明の補強だ。


  

古文書講座(3)年貢割付状(2)

2011-02-26 11:53:03 | 三鷹・歴史/地史
 今回は畑。

 大沢村の年貢割付状によると、年貢が掛けられた畑の総面積は、66.1ヘクタール(上畑・2.7、中畑・9.5、下畑・36.7、下下畑・13.4、屋敷・3.7)であって、その年貢は、永31貫303文であった。

 「永」がつく貫文は年貢のみに使用する架空の単位で、永1貫は1両なのだそうだ。当時、銅銭は鐚銭(ビタセン)と呼ばれ、永1貫=永1000文=鐚4000文であった。永と鐚との関係は変動制で、幕末頃には鐚銭の下落が激しく、1両=鐚8~10千貫文にもなっていたらしい。

 とにかく、上から、永31貫303文=31.303両。又、年貢では、1両=米1俵で換算されていたらしい。 
現在の米価格を15000円/俵とした、前回の仮定を踏襲すると、上の年貢、永31貫303文は約117万円と計算される。
今日の言葉でいえば、およそ66ヘクタールの畑に対し、年総額約120万円の税金が掛けられていたということだ。

 では、この畑でどのような作物が作られていたのだろうか。子供時代の風景を思い出すと、三鷹の畑は、麦と陸稲の二毛作、ほかにはサツマイモ、キャベツぐらいだ。
第二回の講座で配布された、元禄5年9月連雀新田寺社書上村鑑帳によると、作物として、稗、粟、大麦、小麦、苅大豆、蕎麦、菜、大根、いもが挙げられている。

 大沢村の畑でも、連雀新田と同様、換金の対象にならない、自給のための作物が栽培されていたはずだ。ということを前提にすると、当時の大沢村にとって年貢の重みはかなりきつかった、と想像させる。

古文書講座(2)年貢割付状(1)訂正

2011-02-21 11:04:55 | 三鷹・歴史/地史
 昨日の記事(下の****~~****ではさまれた部分)は間違い。訂正する。

石盛(コクモリ:検地によって耕地・屋敷の反あたりの標準収穫量を定めること)についての考察が欠落していた。

さて、大沢村での実際の石盛をまだ把握していないので、100%確信を持っているわけではない。が、試行錯誤を加えた結果、次のような石盛を仮定し、下のように訂正する。

石盛の仮定
上田/12斗、中田/10斗、下田/8斗、下下田/6斗、上畑/6斗、中畑/4斗、下畑/2斗、下下畑/1斗。


訂正

米作付け面積 14町5反5畝8歩(1439.5アール)
予定農産物収穫量  323石3斗3升2合(48445kg)
予定米収穫量  134石8斗3升(20224kg)
米としての年貢     52石7斗7升5合(7916kg)

上の数字から、次の3点がわかった。

① 単位面積当たりの収量:現在、日本全体での、それは、だいたい500kg/10アールと言われている。このことから、江戸時代、大沢での米の反収は、現在の3割程度であった、と理解できる(140kg/10アール)。

② 大沢村では、収穫される米の約40%(52.774/134.83)が年貢に取られていた。

③ 現在、普通の玄米、60kgあたりの価格は15000円程度だ。これを基準にすると、大沢村での当時の農産物収穫量を、現在の貨幣価値になおすと、約1200万円となる。そのうちの約200万円(17%)を米の年貢として上納せねばならなかった。さらに、現金で納めねばならぬ年貢が37.288貫文もあった(これについては稿を改めて書く)。
今、米作農家の納税額はどれくらいなのだろうか?


昨日の、間違い記事
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米作付け面積 14町5反5畝8歩(1439.5アール)
予定収穫量  323石3石3升2合(48445kg)
年貢     52石7斗7升5合(7916kg)

上の数字から、次の2点がわかった。

① 単位面積当たりの収量:現在、日本全体での、それは、だいたい500kg/10アールと言われている。このことから、上の時代、大沢では、現在の7割程度の米収量があった、と理解できる(337kg/10アール)。立派なものだ。

② 現在、普通の玄米、60kgあたりの価格は15000円程度だろう。これを基準にすると、大沢村での当時の米収穫量を、現在の貨幣価値になおすと、約1200万円となる。そのうちの約200万円(17%)を年貢として上納せねばならなかった。
今、米作農家の納税額はどれくらいなのだろうか?
***************

古文書講座(2)年貢割付状(1)

2011-02-20 10:35:43 | 三鷹・歴史/地史
 天明七年十一月五日大沢村年貢割付状

初回の講座で、講師が、これを丁寧に読み砕いてくださった。

大変面白く、ああでもない、こうでもない、とやっているのだが、なかなかまとまらない。ナントカの考え休むに似たり、だ。きりがないので、整理できたところから、書くことにした。

今日は米に限定する。

この割付状によると、1783年から1787年(天明七年)までの五年間の年貢は一定額に決められていた。

米作付け面積 14町5反5畝8歩(1439.5アール)
予定収穫量  323石3石3升2合(48445kg)
年貢     52石7斗7升5合(7916kg)

上の数字から、次の2点がわかった。

① 単位面積当たりの収量:現在、日本全体での、それは、だいたい500kg/10アールと言われている。このことから、上の時代、大沢では、現在の7割程度の米収量があった、と理解できる(337kg/10アール)。立派なものだ。

② 現在、普通の玄米、60kgあたりの価格は15000円程度だろう。これを基準にすると、大沢村での当時の米収穫量を、現在の貨幣価値になおすと、約1200万円となる。そのうちの約200万円(17%)を年貢として上納せねばならなかった。
今、米作農家の納税額はどれくらいなのだろうか?


ああでもない、こうでもないとウジウジしている種のひとつが、田の等級だ。大沢の場合、上田(ジョウデン)は2町にすぎず、中田(チュウデン)4町、下田(ゲデン)6町である。これらの収量の差がわからない。太閤検地では、その差はあまり大きくは無い。上田、下下田(ゲゲデン)の反収は、それぞれ、15斗、11斗であったらしい。
どの程度、代官など管理者の裁量にまかされていたのだろうか?この辺がどうもよくわからないのだ。




古文書講座(1)

2011-02-13 15:37:45 | 三鷹・歴史/地史
 先週の日曜日、そして今日、の午前中、市生涯学習課主催の古文書講座があって、聴講した。

講師は以前同じような講座(確か、近藤勇五郎、宮川信吉、吉野泰三の手紙が題材だった、と記憶している)で話を聞いたことのある、国学院大根岸先生で、期待に違わず、受ける刺激が大きい講義であった。聴講者は50~80人ぐらいであり、盛況といえるだろう。

今回は、「数字から読み解く耕地と産業」、「漢字から読み解く連雀の成立」というもので、いくつかの古文書資料が配布された。

何回かに分けて、この配布された資料について書いてみたい、と思っているところだ。非常に面白い。

今日は、講義で触れられた、さまざまな内容の中で、印象に残ったことがらを、備忘のため、ランダムに列記しておく。

・ 草書のほうが楷書より古い。楷書の崩し字が草書なのではない。行書は楷書の崩し字。
・ 天明6年(1787年)関東一円大水害を被ったが、大沢も、1石程度の収穫しかなく、年貢を免除されるほど、被害を受けた。
・ 水車(たぶん、大車)の税金は220文。水車の運転で生活習慣が大きく変わった。うどん類の食用。
・ テレビでよく、小判のきりもち、といっているが、銀銭を紙で包んでいたのである(それも大阪で)。
・ 江戸時代の1村は500石の収穫が基本。
・ 江戸時代、朱の印は将軍のみ使用。他は黒印。
・ 手紙の差出人、受取人の字の大きさが身分上下を表している。上に書いてあるほど、字が大きいほど身分は上。
・ 一般に上畑の収穫量は10石と認定されるものだが、開発間もない連雀のそれは4石であった。
・ 一般に、上町、下町とあるとき、下が本村。ただし上連雀は連雀からの分派ではなく、世田谷(?)の  井口権兵衛による開発地。
・ 軍学書などで、本陣を本陳と書いてあることがある。味方を本陳、敵方を本陣とする。
エンギかつぎ、車をヒクのは語呂がよくない、のだそうだ。
・ 八幡神社は一般に寺が支配した。鎌倉八幡の宮司は22坊の住職の輪番。
・ ~~領とよくいうが、戦国期の特定者にとる支配域と考えたほうがよさそう。

こんなところか。

多摩のあゆみ137号(2)

2010-03-25 11:14:33 | 三鷹・歴史/地史
 標記雑誌の中で気になったこと。

今日は「羨道」。

かなり前から、ずっと気になっている字だ。

 古墳では、玄室という名の、一番奥の棺を安置する部屋から、手前に前室、羨道と名づけられた空間が存在する。考古学の専門用語だと思う。

 「羨道」は、大辞林によれば、エンドウ、もしくは、センドウと読み、「墳墓の入り口から、棺を納める玄室までの道」だそうだ。

 さて言いたいことは、なぜ「羨」の字を使うかわからない、ということだ。換言すれば、ふさわしくない、と思われる字を、なぜ敢えて使うのか。

 いうまでもなく、「羨」は訓読みで「ウラヤマシイ」。「羨道」は、もしかしたら、「うらやましいみち」であるのかもしれない。
 字の組み立てを見ると、上が羊。下は、サンズイに「欠」、「涎」(ヨダレ)の本字だそうだ。「ヒツジを見て、ヨダレを流す」というのが、この字の本来の意味であろう。

 グーグルの翻訳機能を使っても、「羨道」に当たる中国語を見つけることができなかった。

 ちなみに、ギリシャ語ではDromosが「羨道」に当たるようだが、こっちは、もっとずっと大規模なものだ。
例えば、「墓道」ではどうしていけないのか。

 学者さん方が専門用語としてお使いになっているのだろうが、このような字を使わなければならない必然性をどうしても見つけられない。浅学素人。「ゴマメの歯軋り」。



多摩のあゆみ137号(1)

2010-03-18 08:58:16 | 三鷹・歴史/地史
 3/13の解説員連絡会で配布された、標記雑誌の中にいくつか興味惹かれるポイントがあった。

今日は、「乗瀦駅」。始めて接する字。

 これは、江口桂氏論文(七世紀における多摩川中流域左岸の古墳と集落)中の図3(p18)に示されている。

① 「瀦」の読み方。大字典によると、音読みで「チョ」、訓読みで「ミズタマリ」だそうだ。サンズイをとれば、猪八戒の「猪」と同字。
②「乗瀦」をどう読むか?現在、「ノリヌマ」もしくは「アマヌマ」とあて読みしているらしい。


さて、なぜこれが気になったか?

  図のタイトルは「東国の7世紀代主要古墳と国府・駅路」となっていて、「乗瀦駅」は第5駅(武蔵国府(今の府中))と「豊島駅」とを結ぶ道の中間に位置している。

直感的に人見街道そのものではないか、と思い、地図で確認した。間違いない、と思う。

 この道は平安時代の延喜式よりも前に存在していたそうで、豊島駅の先は、下総国府、さらに常陸国府に繋がっていた。千数百年前の国道一号といってもよいだろう。

 水車は、こんな街道の際に立地しているのだ。
 
 人見街道については随分前に書いた(調べたら、07年6月だった)が、自己の知見について補強材料ができ、うれしい。


 ちなみに、「乗瀦駅」は、現在の杉並区天沼であろう、と考えられているらしい。


御鷹場

2008-03-24 10:23:03 | 三鷹・歴史/地史
 御鷹場(本間清利著、埼玉新聞社発行、1981年、240ページ)からの抜書き。

・綱吉による「生類憐み令」(1687年(貞享4年)発令)は、家康以来の鷹場制度を崩壊させた。
・江戸城から、五里以内を将軍直属の鷹場とし、その外側を御三家(東は水戸、北は紀伊、西は尾張)の鷹場とした(南は海)。
・吉宗は、将軍になるとすぐ、1716年(享保元年)、鷹場復活の準備を始めさせた。
・尾張家鷹場の当初領域はよくわかっていない。三鷹地区は1719年に組み入れられた。1744年(延享元年)時点での尾張家鷹場領域は、「北は掘兼・福原・大井、南は小金井・国分寺・三鷹、東は志木・宗岡・内間木、西は福生・拝島、に及ぶおよそ20キロ四方」であった。
・1822年時点での境界杭場所書には44の村名が挙げられている。このうち、現在の三鷹市領域内の名は四つ。大沢村、大沢新田、野崎新田、井口新田。そして、上石原村。
・鷹場の管理者は「鳥見役」とよばれ、尾張家武士が就任した。下役に有力農民が任ぜられ、「鷹場預り御案内役」と呼ばれた。
・「この案内役も多分に警察的な職分を行使していたようである」(p171)


 近藤勇の生家、宮川家は、この「鳥見役」もしくは、「鷹場預り御案内役」に近い立場ではなかったか、というのが作業仮説的私見だ。なかなか確証に到達できないでいる。

天然理心流の不思議(2)

2008-02-20 10:47:48 | 三鷹・歴史/地史
 07/03/13に、標記のタイトルで、新撰組の起源に関する疑問を記した。最近、その辺のことを、きっちり研究している人を図書館の本で見つけた。

佐藤文明著:未完の多摩共和国ー新撰組と民権の郷ー:凱風社:2005年5月

 この本では、近藤勇の生家宮川家を、1748年(寛延元年)に区域変更された尾張藩鷹場内での馬主を統括する家、と推定している。当初(1678年(延宝六年))、三鷹は鷹場の領域外であった。八代将軍吉宗の頃(鷹場の区域変更の頃)、大沢の隣、野水に居を構えた宮川家は村役人でもないのに富農だった。

「軽々に断定するわけにはいかないが、宮川家には農業以外の、御鷹場の係わる役割とそれに応じた実入りがあったはずと見なければならない。そう考えなければ、宮川がここへ来た訳も、その家がお大尽であった訳も説明がつかない」ーp90

 つまり宮川家は、吉宗による改革の一端として、甲州街道沿いにおける軍馬確保の責任を負った家柄だった、という推定だ。

 新撰組起源に関し、武士になりたいと熱望していた百姓の次三男が時を得て新撰組に入り云々、という通説よりも、もっと深い政治的背景があるはずとする、上の説を支持したい。

武蔵野

2007-12-27 13:42:31 | 三鷹・歴史/地史
 しんぐるま の、都指定有形民俗文化財としての正式名称は、「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」である。

 だいぶ前の解説員講習会で、講師から、三鷹市の強い要請により、カッコ付きで「野川流域」を入れた、と聞いたことがある。確かに、このような名称の中に、カッコ付きの言葉が入るのは普通ではない。が、全国一の有名自治体を隣に持つ三鷹市の複雑な心境もよくわかり、その時妙に納得した。

 しかし一方、ではなぜ、都は「武蔵野」を頭につけることに拘ったのか。
最近、その根拠らしいものを見つけた。

 三鷹市史・史料・市民の記録編(p46)に、昭和14年当時の三鷹村字一覧が載せられている。大字が14。そして、大字、大沢には、字が9。
なんと、そのひとつが、武蔵野 なのである。む~ん、納得。

 つまり、理解はこうだ。当時の、しんぐるま の住所は、三鷹村大字大沢字武蔵野、のはず、と。

 武蔵野市史によると、1889年、吉祥寺・西窪・関前・境の四ヶ村に井口新田飛地を加え、武蔵野村ができた、そうだ。

 どっちが古いのだろうか。ひいきの引き倒しになりそうだが、「武蔵野」は、大沢での字名の使われ方のほうが、武蔵野村の起源よりずっと古いに違いない、と信じよう。

上円下方墳

2007-12-05 11:16:30 | 三鷹・歴史/地史
 昨日の夕刊(東京新聞12/4)に、「天文台構内古墳」が上円下方墳であることが確認された、とあった。全国で四例目の確認で、七世紀の東国の古墳の再考を迫るほど、重要な意味を持つのだそうだ。一辺28.5mの方墳の上に直径18mの円墳が乗っている。高さが約2.2m。(円墳の高さか?全体の高さとしては低過ぎないか。)

 千人をはるかに越えるであろう集団の上に君臨している人間でないと、こんな墓に入れるはずはない、というのが素直な感想。

 府中市西府町で、2003年に発見された「武蔵府中熊野神社古墳」に酷似しているそうだ。四例のうち他のふたつは、奈良の「石のカラト古墳」、沼津の「清水柳北1号墳」。

 確か、武蔵陵も上円下方墳のはず、と記憶していたので、調べたら、四陵墓とも、やはりそうだった。大正天皇陵は、一辺27mの方墳の上に直径15mの円墳が乗っている。ただし、高さは10m。

 歴代天皇の陵墓の大多数は円墳で、ついで前方後円墳が多いのだそうだ。上円下方墳は、武蔵陵のほか、伏見桃山陵(明治天皇)、天智・持統両陵墓以外には見当たらないらしい。


 今まで何回か書いたことがあるが、人見街道は中世以前の時代、極めて重要な幹線道路であったと思っている。「天文台構内古墳」の存在は、この考えをさらに補強するうれしい材料だ。

 一言で言えば、関戸の渡し(多摩川渡河の重要位置)に関係する「武蔵府中熊野神社古墳」から約10km離れた「天文台構内古墳」を含む大沢地域が、地理的に極めて重要な位置であったはず、とするもの。

2007-12-03 12:32:04 | 三鷹・歴史/地史
 しんぐるま の部材の多くは、欅、白樫、松である。入手の容易さ、硬さの違いなどを理由として、巧妙な使い分けられ方がされている。何度見ても見飽きない。

 庭には、樹齢300年は越えるであろう欅の大木を筆頭に、立派な白樫なども生えていて、行くといつもこれらを見上げたり、なでたりして、楽しんでいる。

 
 12/2発行の市報の中に欅のことを書いたコラム(みたかいきもの図鑑第13回)を発見。興味深い内容だったので、下にメモる。

1 農家では、南側に欅を、北側に白樫を植える。落葉樹である欅は、夏、日差しを和らげ、冬、日差しを受け入れる。常緑樹である白樫は冬の季節風を防ぐ。

2 欅の木部は建築材や臼に利用され、葉は堆肥の材料として最高級。

3 古語「ケヤケキ木」がなまって、けやき、という名になった。「ケヤケキ」とは、主として、「普通とは異なった」、「尊い、秀でた」の意で用いられた言葉。
大昔、欅は 槻(ツキ)と呼ばれていた。

3 欅の字のつくり、挙は、「人が両手でモノを差し上げた様子」を示す。樹形がそのような形。


出山横穴墓群8号墓

2007-11-26 09:26:44 | 三鷹・歴史/地史
 しんぐるま の対岸(野川の左岸)には湿生花園が整備され、段丘崖の樹林帯・がけ下の水田・わさび田など、里山の風情を楽しむ工夫が施されている。

 その一角、段丘崖の中腹に横穴墓(7群、63基)が散在し、そのうちの8号墓が保存・公開されている。

 墓前域から発掘された須恵器から、この墓が造られた時代は7世紀、と推定されている。7世紀といえば、大化の改新や壬申の乱の時代だ。また、あの高松塚は700年頃の造成らしい。なんと、ちょうどそんなころ、ここ大沢にも、これほどまでの墓を作る力をもった人々が生活していた、ということだ。
もっとも、段丘の上、天文台の中などでは、縄文遺跡や旧石器遺物も発見されているから、この大沢一帯は一万年ぐらい前から人間の生活が連綿と続いてきている地域だ。

 公開されている墓は、奥行き約5m、入り口幅・高さとも約1m、最奥部幅・高さとも約2mで、床は全面玉石(おそらく、直線距離約5kmの多摩川の河原のものであろう)で敷き詰めてある。
 説明パンフレットに「横穴墓の位置する高さは、東京パミス(軽石層)の高さと関係するようです」とある。
東京パミス層は、武蔵野ローム層中に挟まる他の火山(古富士火山?)を起源とする火山噴火物である。東京パミス層の数メートル下には、地下水が豊富な武蔵野礫層がある。墓の底を東京パミス層の高さにしたのは、武蔵野礫層の地下水の影響がでて、墓の内部環境が悪化することを恐れたからだ、と考える。
生活の知恵だろうが、賢い、とつくづく思う。

 また、墓前域から出土した須恵器とは次のようなものだ。

1 土器(野焼き、800度程度で焼いた縄文・弥生時代の焼き物)の長い時代のあと、半島から伝来した、穴釜で焼成する陶器。陶をスエとも読む。須恵を陶と書き替えたほうがよいのではないか。全国で1000基以上の古代穴釜跡があるらしい。
2 意識して釉薬は使用していないが、焼成中の灰が自然にかかるものもある。
3 焼成温度は1100度位だったらしいが、燻しを強く施し、強度を得た。おそらく、強還元状態を作ったのであろう。陶土の違いや還元状態の違いによって、色の微妙な違いが表れた。
4 古代土器は現代陶器の「素焼き」と同じ(焼成温度約700度)だ。しかし、焼成温度が1100度程度ということであれば、須恵器は備前焼と同じ、現代陶器と変わりはない。

 
 しんぐるま を含め、大沢周辺は歴史や文化に親しむ地域への整備が着々と進行している。8号墓付近の民家(明治初期建造か?)が市の管理下に入ったし、天文台の古い官舎(大正初期建造)も保存対象になったようだ。興味の対象が尽きることがなく、楽しみだ。






立川断層

2007-09-26 09:03:52 | 三鷹・歴史/地史
 中央線に乗って、国分寺から国立に向かうと、切り通しを過ぎて急に開ける場所がある。武蔵野段丘と立川段丘の境界の崖だ。この崖を南にたどると、しんぐるま の対岸の崖につながる。

 この、国分寺と国立の間に存在する崖を立川断層と思っていた。見た目、北西から南東にきれいな直線であるためだ。しかし、これは断層崖ではなく段丘崖だそうだ。

 立川断層はもう少し、西北にある。その断層崖は、プロでないと見分けがつかないそうだが、玉川上水路の屈曲もこの断層崖をかわすために造られたのだそうだし、一度、ゆっくり捜し歩きたい、と思っている。

 いまのところ、この断層が動いて地震が発生する可能性は、極めて低い(99%ない)と考えられているらしい。信じよう。


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2006年9月26日の記事
タイトル:水車を回す水の水面形

馬場教授(9/23)の講座で配布された資料のなかに、「野川改修前の峰岸家と水車」とタイトルされた図面があった。その図面を見て、水の制御技術についても高度のレベルにあったことがうかがえ、驚嘆した。
 このことについては、今後じっくり調べたいと考えている。以下に、図面からの読み取り事実を示す。
1 水が水車にあたる前の約12m(6間か?)の水路床を「ゆるやかな上がり勾配」にしている
2 水が水車にあたる前の約4m(2間か?)の水路幅を1.5mから1mに漸減している
3 水が水車にあたる直前、水路幅を元の1.5mにもどしている

以上から、水車の当たる際水流は射流になっていた、と想像するが、水路の条件をこれほど細かく定めなければならなかった理由はどこにあったのだろうか。