水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

解説員として(81)

2011-06-30 18:13:55 | 解説員日記
今日の午後、解説当番であった。

猛暑、に引き続き、雷雨。今日も見学者は少なかろう、と予測した。

が、着いたとたん、管理の方が、

「今日は7小3年生49人がきますよ」
「へ~、解説にはどなたか来るのでしょう?」(初めて聞く話なので)
「AさんとBさん」
「役所からは?」
「たぶん来ないでしょう」
「誰がりーダー?」
「もちろん、あなた!」
「ぐえ~!」

ということで、かなりあわてた。が、過去に何回もやっているし、自分の思いどうりにやらせてもらえた(ちょっと強引だったかもしれぬが)。
雨の最盛時刻前に終わらせることができたし、生徒の流れもスムーズだったし、生徒はおとなしかったし、AさんもBさんもそつなかったし、結果オーライだったと思う。
質問が少なかったのが残念!
もしかしたら、先生方の事前調査はなかったかもしれぬ(上履きの持参がなかった)。

しかし、どうも気になることがあるので書いておく。

・ 生涯学習課は何故立ち会わなかったのか(今年は、今回だけではないらしい)?
三鷹市の教育の一環なのだから、立ち会わねばならない。管理職はなにを考えているのか?

・ もし、多忙などの理由で立ち会えないなら、そういう場合を想定した準備をあらかじめしておく必要がある。
我々は普段、いってみれば、個々の勝手に解説しているが、それと教育の中に位置づけられた解説とは、自ずから異なるはず。
担当解説員には、すくなくとも、市内三年生すべてに共通した解説をさせねばならない。
いままで、そのような準備がなされたことはなかった、と思う。

・ 生涯学習課の立ち会いはない、三年生用共通解説手引きはない、では、なにが教育だ、となってしまう。
生涯学習課といえども、市の初等教育の一翼を担っていることの重要性をもっと真剣かつ深刻に認識してほしい、と思う。
間違っているだろうか?

神野論文(1)

2011-06-28 10:21:49 | 水車解説関連
 過日、管理の方に、多摩のあゆみ142号(H23年5月15日発行、たましん地域文化財団)をいただいた。その中に掲載されている、次に示す報文について、読後感想など、思うことを書いておく。

モノ・記憶・記録ーー民具からたどる武蔵野の水車屋ぐらしーー神野善治(P18~27)

なぜ書く気になったか、
次のような文章を見、「しんぐるま」動態保存の安泰を確信したからだ。

「ほんとうの理解に達するためには、現場に足を運び、身体を動かして汗をかかなくては、面白いデータに行きつくことがないだろう。細部を極めながら、噴出してくる疑問をひとつずつ解決しつつ、いつかは全体の体系を極めようという志を持ち続けたい」(P27)

 民具展示の実施に向けた動きも始まったそうだ。
意義深い事前準備がなされるに違いない。期待している。


さて今日は、最も引き付けられた章、「三 板切れの情報~型板の発見」について

・ 水車機構の構成部品の型板が80枚あって、すでに、武蔵野美術大学で紹介されたこともあるそうだ(2005年実施の展覧会)。が、機械遺産に認定された今となっては、設計や製作の過程を探求するための、特別に重要な資料だ。
・ 三鷹市に「市宝」(シホウ=市の宝)なんて定義があるかどうか知らないが、保管には細心の注意を払ってほしい。
そして当然のことながら、全ての型板を計測し、報告書の形で公開してほしい。必ず、誰かが研究資料に採用し、新しい発見をするはずだからーー。 


論語(79)

2011-06-27 10:05:25 | 論語
恥躬之不逮也(里仁第四の22)

躬(ミ)の逮(オヨ)ばざるを恥じてなり。

孔子様がいいました。
「昔の人はペラペラ口が軽くはありませんでした(古者、言之不出)。
それは、言うことと躬(=身体、つまり実行力)とがつりあいがとれないことが恥ずかしいことだ、とわかっていたからです」


 孔子が、昔、という昔はどれほど昔のことだろうか。
と考えると、これは、常に今の話、と理解すべきだ。いつの世も口先だけで生きている人間がゴマンといるということ。
と考えると、マスコミが報じる、某国政界の状況も、さもありなん、と達観できるかも。


我々は「不言実行」と習うが、本来、かの国では「不言躬行」(フゲンキュウコウ)と言うらしい。どちらの表現が優れているか?
「不言」とバランスさせ、「身体を動かせ」と直接的に表現する後者のセンスを買いたい。
「実行」は、虚実の実、つまり「本当に行うこと」の意で、「不言」の言と合わない、と感じるのだが。

論語(78)

2011-06-24 09:15:40 | 論語
同じ系統の話が四つ続くので、まとめる。

事父母幾諌(里仁第四の18)
父母に事(ツカ)うるに、幾(イクバク)か諌(イサ)め

父母在、子不遠遊(里仁第四の19)
父母在(イマ)せば、子遠く遊ばず

三年無改於父之道(里仁第四の20)
三年父の道を改むること無し

父母の年、不可不知也(里仁第四の21)
父母の年は知らざるべからず


① 父母のやりかたがおかしいと思っても、ヤンワリと諌めること。
② 父母をほったらかしにして、遊びふけってはいけない。
③ 父の死後、三年間は、そのやりかたを踏襲しなさい。
④ 父母の年齢を知らない、なんていわせない。


儒教が教える孝行を実行する、ことは、この四つを徹底することだ。

過日、テレビを見ていたら、父の日だからとて、道行く、二十歳前後の男子若者に次のように問いかけていた。
「この際、おとうさんになにか言う事はありませんか?」

その答えのほとんどが、「感謝しています」、「尊敬しています」であった。

このことをどう見るか?

本当に、そう思っているのだろうか?
テレビ撮影なので、ほんのお世辞を言ったのだろうか?

一人ぐらい、「きらいです」とか「尊敬できない」とか言ってほしかった。

世の中は、若者の旧世代に対する反感や抵抗によって、発展する。

思い起こしてみれば、70年安保闘争が、この種の抵抗が社会現象として現れた最後であったかもしれない。
どうして、こんなに、若者が元気なくなってしまったのか?草食男子、などと笑ってはいられないと思うが。

こんなことを思う自分も、いよいよ、「いまどきの若者は症候群」という老人病にかかってしまったようだ。



解説員として(80)

2011-06-23 14:52:58 | 解説員日記
 今日の午前中、解説当番であった。

見学者はゼロ。
朝、雨が降っていたし、こんなものでしょうか。

しかし、しっかり観察していたのだが、野川沿いを歩く、いわゆるハイカーの数は、ゼロであった。

こんなところにも、地震と原発事故の影響がでているのであろうか。
昨年までに比し、ここ野川でも、人出は少なくなっているように感じる。
観光地の方々の嘆きがよくわかる気がした。

それにしても、今朝7時台の地震報道のけたたましさは、なんだ。あのマグニチュードであれば、たいしたことにはならないことぐらい、もうわかっているでしょうに。なんとかの一つおぼえののように、どのチャンネルもわめきたてていた。あれを聞いて、外出をやめた人の多いのではなかろうか。いいかげんにしてほしい。
一方で、原発に関しては、あたかも報道管制下にあるかのごとく、口をつぐんでいる。


そんなこんなで、出掛け、むしゃくしゃしたこともあり、一層、「しんぐるま」の静けさに包まれる幸せを、しみじみ感じる午前中であった。

縁側を 吹きぬく南風(ミナミ) 涼やかに

論語(77)

2011-06-21 09:17:59 | 論語
今回は、短い二つをいっしょに示す。

君子喩於義、小人喩於利(里仁第四の16)
君子は義を喩(サト)り、小人は利を喩る。

見賢思斉焉、見不賢而内自省也(里仁第四の17)
賢(ケン)を見て斉(ヒト)しからんことを思い、不賢を見て内を自ら省(カエリミ)る。


リーダーたる者は自然に「義」がわかるものだし、リーダーたりえない人は目先の利益に走る。

才知に優れた人を見たら、その人を見習おうと思うべきだし、その反対にあるような人を見たら、同じ欠陥を持っていないかどうか、自分自身を見なおすべきである。


マスコミを介して、某国政界をみていると、義をお喩りになるような方々も、見習いたい生き方をなさっているとおもえる方々も、いらっしゃるように思えない。

福島原発事故の総括もできないのに、何故、点検中の原発再稼動を画策するのか?
絶望に近い、唖然状態だ。

がしかし孔子によれば、それもこれも、私自身が利を喩り、内を自ら省なかった結果なのである。

では今、どうすればよいのであろうか?


論語(76)

2011-06-19 06:49:31 | 論語
吾道一以貫之哉(里仁第四の15)

吾が道は一をもって之を貫く。

孔子が弟子に言った言葉。

私の生き方は、あるひとつの方針に徹底しているのですよ。

これに対し弟子は、「そのとうりです」、「先生は忠恕(チュウジョ)のみに徹底しておられます」(夫子之道、忠恕而已矣)。

忠=マゴコロ
恕=オモイヤリ

後世、勝手に歪曲され、臣下に求められる姿勢として、用いられた「忠」は、本来、「真心を尽くす」意。

したがって、「忠恕」は、「真心を尽くして、人様を思いやること」

これが、孔子の教えの中心、だ!
孔子の教えを一言で表せ、と言われたら、躊躇無く「忠恕」。


世の中、いろんなことが複雑にからみあっている。が人生、一度は一から全体を見直し、「忠恕」に徹底しなければならない時があるのかもしれない。
今回の大災害を機会に、こんな孔子の考えに近い感慨を持った人は少なくないに違いない。

論語(75)

2011-06-16 04:43:12 | 論語
不患莫己知、求為可知也(里仁第四の14)

己を知ることなきを患(ウレ)えず、知らるべきを為すを求む也


珍しく、孔子が「~しなさい」(求む)と言っている。

自分という人間の存在を世の中が認めてくれなくても、それを難儀に思ってはいけません。世の中が認めざるを得ないようなことをするのだ、と強い気持ちを持たねばなりません。

この前段は、力を発揮できる地位につけないことを難儀に思うのではなく、そのような地位につくために何が必要かを追求しなければならない(不患無位、患所以立)。


落ち込んだとき、かみ締める語だろうか。
努力努力、また努力!たぶん、孔子も努力の人だった。

論語(74)

2011-06-15 09:09:20 | 論語
不能以礼譲為国、如礼何(里仁第四の13)

能(ヨ)く礼譲(レイジョウ)をもって国を為(オサ)めずんば、礼をいかに。


礼譲(=礼儀をわきまえ、譲るところは譲る)の気持ちを基本にすえて国を治めることができないなら、礼儀って何なんだ、ということになってしまいますよ。
子供のころから、礼儀、礼儀とやかましくしつけられるのは、国をまっとうに治めるためなのです。


このところの、某国国会の混乱は、まさに、礼譲を忘れた世界、の感があります。この非常時に、権力あらそいを繰り返すことをしなければならないのなら、国から受け取る歳費や活動費の一切を返上して、やってほしい。
これでは、税金泥棒ですよ、本当に。

なんちゃって。あまりおおきなことは言えません。
つい礼譲を忘れ、不必要な波風を、我が家という小さな国に、起こしてしまう私です。

我欲、我執を捨て礼譲を追求することは、なかなか難しい。

論語(73)

2011-06-14 10:31:02 | 論語
放於利而行、多怨(里仁第四の12)

利に放(ヨ)りて行えば、怨み多し。


利益の追求にばかり目がいくと人様から怨まれることが多い。

だから、どうすればいいのでしょうか?

孔子はこの辺をあいまいにする。

人様に怨まれてもいいから利潤を追求する、という生き方があってもおかしいことではない。
「金は三欠くに溜まる」と言うではないですか。金を溜めるために、あえて義理と人情と交際を欠く、という考え方は、古来より、厳然とある。

一方、「金は天下の回りもの」、とか「損して得しろ」とか、利潤の追求に執着しない生き方も当然ある。

孔子は、どちらかというと、後者の生き方を推奨したように解釈されているが、果たして本当にそうだったか、やや疑問を持っている。

この国でも、どちらかというと、後者に近い生き方が好まれてきたようだ。
が、さて、一瞬にしていっさいを失う経験は、人心をどのように変えるだろうか?




論語(72)

2011-06-13 10:12:50 | 論語
君子懐徳懐刑、小人懐土懐恵(里仁第四の11)(語順を勝手に変えた)


為政者は常に、全体がよくなることを考え、人の道から外れ、罰を受けるようなことがあってはならぬ、と心せねばならない。
一方、被為政者は、(常に)目先の利益を追い、オカミからの恩恵を(タダドリニ)受けようとするものだ。


今、この、孔子の言う小人に迎合する偽君子が現れやすい時かもしれない。真の君子を見つけ出す、目を持つことが日本人に求められている。

日本人全体の性根が試されている、と前にも書いた。
歴史に残る、非常に大切な時だ。


解説員として(79)

2011-06-09 17:09:47 | 解説員日記
 今日の午後、解説当番であった。

天気がいいので、見学者はそこそこか、と想像していたが、当て外れ。

3組、大人4人、幼稚園児2名。

しかし、みなさん、ゆっくり楽しんでいただけた、と思う。


本で読んだことのある、碾き臼の歯の分画が東日本6、西日本が8との話は結構盛り上がる。

が、実のところ、詳細にはつめていない。熱海の友人宅で、庭石に使われていた碾き臼に、両方があり、面白がったことがあるぐらいだ。そろそろなんとかしないと。


梅雨(ツユ) 休み 水車談義も さわやかに

論語(71)

2011-06-07 09:07:43 | 論語
君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比(里仁第四の10)

君子の天下に於けるや、無適(ムテキ)なり、無莫(ムバク)なり。義に之(コレ)比(シタ)がう


リーダーに持ち込まれる問題には、二者択一のような単純明快なことは少ないので、常に、義にかなっているかどうか、が判断の根拠となる、と解釈したい。

義=人が履行すべき正道。性善の発露


たとえ凡人であっても、自身の日々の行動が義にかなっているかどうか、常に自問することは大切だ。




論語(70)

2011-06-06 12:09:06 | 論語
未足與議也(里仁第四の9)

未だ與(トモ)に議(ハカ)るに足らず。

孔子が「(そういう人)とワイワイ議論することはできません」と言った、ということだ。

では、そういう人とはどういう人か?

「私は人としてどう生きるかを追っています」というような人(士志於道)であっても、そまつな衣服を着ることや粗食を恥じるような人(而恥悪衣悪食)。

道を志すなら、すべての贅沢をそぎ落とさないといけない。


 今回の大災害は、一億総中流などと言われた時代の、はしゃぎにはしゃいでいた余韻から、いまだに醒めることの出来ない我々に対し、振り下ろされた天による鉄槌のように思える。が、それにしては、何十万人もの無一文者が、一夜にして生まれてしまうような不公平が、なぜ起こってしまうのか?

平家物語の出だし、を口に出すぐらいしかしない、できない、そんな己が恥ずかしい。


論語(69)

2011-06-05 05:35:52 | 論語
朝聞道、夕死可矣(里仁第四の8)

朝(アシタ)に道を聞けば、夕(ユウベ)に死すとも可なり

聞く:「聴く」は能動的にキクことで、「聞く」は受動的にキクこと、つまりキコエルこと、だそうだ。

ということで、この有名な語の解釈は、
長いこと、追求して追及して、モンモンと悩んで悩んで、ある朝突然、ふっと、人間としての生き方についてわきまえることができた時、すぐに死んでもかまわない、という心境におそらく至るであろう、ということだ。

仏教で言うところの、サトリの境地だ。

残念ながら、自分がそのような心境になるとは、とても思えない。
「「人間としての生き方」なんて、わかるとしても死の直前だ。それほど難しいことで、凡人にはわかない」と言ってくれればいいのに、と思う。


 今の某国政界(もしかしたら、面白げにはやしたてるマスコミ)に「惻隠の情」なんてないらしい。
首相はまさにサンドバック状態だ。退任時、彼はどのような心境になるのであろうか?退任後どのような行動を取るだろうか?

しかしまあ、我々民までもが、なにゆえに、こんなにもむなしい日々を過ごさねばならないのであろうか?
このような非常時だというのに!