記事書き込みをしばらくさぼってしまった。
昨日は中学三年生(三鷹一中)時のクラス会に参加した。幹事の方々の御努力により毎年開催されているが、欠席を続けていた。今回は、先生の喜寿ということもあって、出席した。50年振りの再会を喜んだ友人が二人もいて実に楽しかった。その一方、悲しい訃報も聞くことになる。年を取った者の宿命か。
順番にやらされるスピーチで、つぎの話を披露した。
夏休み中に級友4人で雲取山に行った(野営一泊)時、何時に帰着するか不明の我々を、驚くなかれ先生は、立川駅で待っていてくださった。
今思い起こすと、あの時先生は、最悪事態の発生までを想定し、その事後処理や責任をどう取るかを準備した上で、我々を行かせてくれたに違いない。恥ずかしながら、この年になってやっと、あの時の先生のお気持ちの一端を理解できたつもりになっている。遅きに失していることは重々承知しているが、今、心の底から感謝申し上げます。
当然のことながら、というか、先生は「なにも覚えていない」とおっしゃった。たとえ、覚えていたとしても、こう答えることが教育者としての矜持(誰かが最近お使いになった言葉ですな~)だと思う。あらためて、この先生に出会えた幸運を強く感じた。
まあなにはさておき、旧友達と、残り少ない日々を悔いなく生きねばならぬ、と誓い合った日であった。
昨日は中学三年生(三鷹一中)時のクラス会に参加した。幹事の方々の御努力により毎年開催されているが、欠席を続けていた。今回は、先生の喜寿ということもあって、出席した。50年振りの再会を喜んだ友人が二人もいて実に楽しかった。その一方、悲しい訃報も聞くことになる。年を取った者の宿命か。
順番にやらされるスピーチで、つぎの話を披露した。
夏休み中に級友4人で雲取山に行った(野営一泊)時、何時に帰着するか不明の我々を、驚くなかれ先生は、立川駅で待っていてくださった。
今思い起こすと、あの時先生は、最悪事態の発生までを想定し、その事後処理や責任をどう取るかを準備した上で、我々を行かせてくれたに違いない。恥ずかしながら、この年になってやっと、あの時の先生のお気持ちの一端を理解できたつもりになっている。遅きに失していることは重々承知しているが、今、心の底から感謝申し上げます。
当然のことながら、というか、先生は「なにも覚えていない」とおっしゃった。たとえ、覚えていたとしても、こう答えることが教育者としての矜持(誰かが最近お使いになった言葉ですな~)だと思う。あらためて、この先生に出会えた幸運を強く感じた。
まあなにはさておき、旧友達と、残り少ない日々を悔いなく生きねばならぬ、と誓い合った日であった。