水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

クラス会

2009-05-18 08:38:07 | 雑感(4)思い出
 記事書き込みをしばらくさぼってしまった。

 
 昨日は中学三年生(三鷹一中)時のクラス会に参加した。幹事の方々の御努力により毎年開催されているが、欠席を続けていた。今回は、先生の喜寿ということもあって、出席した。50年振りの再会を喜んだ友人が二人もいて実に楽しかった。その一方、悲しい訃報も聞くことになる。年を取った者の宿命か。

 順番にやらされるスピーチで、つぎの話を披露した。

 夏休み中に級友4人で雲取山に行った(野営一泊)時、何時に帰着するか不明の我々を、驚くなかれ先生は、立川駅で待っていてくださった。
今思い起こすと、あの時先生は、最悪事態の発生までを想定し、その事後処理や責任をどう取るかを準備した上で、我々を行かせてくれたに違いない。恥ずかしながら、この年になってやっと、あの時の先生のお気持ちの一端を理解できたつもりになっている。遅きに失していることは重々承知しているが、今、心の底から感謝申し上げます。

 当然のことながら、というか、先生は「なにも覚えていない」とおっしゃった。たとえ、覚えていたとしても、こう答えることが教育者としての矜持(誰かが最近お使いになった言葉ですな~)だと思う。あらためて、この先生に出会えた幸運を強く感じた。


まあなにはさておき、旧友達と、残り少ない日々を悔いなく生きねばならぬ、と誓い合った日であった。
 

グリーンパーク野球場

2007-04-30 14:03:15 | 雑感(4)思い出
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 ある方に「多摩のあゆみ」(季刊雑誌、スポンサーは多摩信用金庫か?)のバックナンバーを少々いただき、ときどきペラペラめくっては楽しんでいる。多摩地域の歴史・民俗・文化などに関した研究成果の発表の場となっていて、素晴らしい雑誌だ。

 97号(H12年2月)を見ていたら、「多摩の軍用線・軍需線」というタイトルの文の中に、中島飛行機武蔵製作所と武蔵境駅を結ぶ線も書かれているのを見、下を思い出した。

 戦後、この武蔵製作所跡地の一部が野球場になり、グリーンパークと呼ばれていたのだ。線路は三鷹からつながっていたような気もするのだが・・・。この野球場には、父に連れられて、何回かプロ野球を見に行った。
覚えているのは、名古屋の西沢が巨人の中尾からホームランを打ったこと、巨人の千葉の打撃ホームや守備位置が、子供心にも、へんちょこりんに感じたこと、弱い国鉄の新人として出てきた金田の球が、とてつもなく速かったこと、ぐらいか。杉下とか大友とか、見たような気もするが、はっきりしない。

著名人との遭遇(3)

2007-04-09 09:42:35 | 雑感(4)思い出
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 小学校高学年のある時、たまたま通りに出たとたん、真っ白なランニングシャツとパンツのランナーが目の前をビューンと走り抜けた。白いはちまきと胸の日の丸がやけにあざやかだった。見ていた人が「山田敬三だ」と教えてくれた。彼のボストンマラソン優勝が1953年だったらしいから、たぶん、その直後、三鷹での大会に招待されたのだ、と想像している。
 山田敬三からずっと遅れて後続のランナーが走り抜けたのだが、山田が、一人のみ強烈に輝いていて、網膜に焼き付けられた。オーラを発散していたにちがいない。
 中学に入ってから、学校まで毎日走って通学したこともあったが、もしかしたら、山田を見た印象が誘因となっていたのかもしれない。友人の自転車に三人分の荷物を載せ一人伴走、二人が走った。狐久保、新川、そして今は教育センターのある付近に中学の通用門があって、そこまでの約2kmのコースだ。走るごとに、タイムが早くなるのが楽しかった。このような時に、よい指導者にめぐり合うと、別の人生があるのだろう。
 しかし、走った道路は、今車があふれ、とても人間が走れるような環境ではない。

著名人との遭遇(2)

2007-03-26 10:41:36 | 雑感(4)思い出
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 昨日は相撲の千秋楽日だった。今朝の新聞によると、モンゴル対決の優勝争いであったらしい。なんともはや、むにゃむにゃ、である。隔世の感。
 小学生の低学年のころ、前方から、ものすごい大男が自転車に乗ってくるのに出くわした。いまにも自転車がおしつぶされそうな状態で、たまげた。父か母か、「ミナノガワだよ」と教えてくれた。横綱、男女ノ川が引退後、三鷹に住んでいたのだ。町会議員になったこともある。
 それからだ。相撲にはまって、のめりこんだのは。毎場所、ラジオにしがみついて聞いていた。アナウンサーは志村正順だ。「土俵下に落ちました」という放送から、5mぐらいの高さを想像し、どうして大怪我にならないのか、不思議だった。
 のめりこみ方のひどさを冷やすためだったのだろう、父が国技館につれていってくれたのだが、逆効果だった。さらにのめりこんで、東京開催は毎場所、だいたい千秋楽に一人で見にいった。三鷹駅から始発電車に乗って、御茶ノ水乗り換え浅草橋駅。同じような雰囲気の、いわば仲間がぞろぞろ降りる。ここから、どういうわけか、みんな走る。蔵前国技館まで競走だ。一番安い立見席を買い、一日中、国技館内部をちょろちょろしていた。
 後年、春日野理事長(栃錦)が今の国技館を両国に作る際、「蔵前の立見席を残す」と言ったと聴き、「この人はものの本質を見抜ける」と実感した。栃錦の尻もさわったことがある。今思えば、江戸情緒とか、親方と弟子との関係とか、ずいぶんと貴重な見聞をさせてもらった。また、小学生に一人行動を許した親にも感謝だ。

三鷹一中

2007-03-24 11:12:36 | 雑感(4)思い出
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 現役を退いた段階でほとんどの蔵書を処分し、それ以後、原則、本は買わないことにしている。身辺整理の一環だ。しかし、本がないと落ち着かないので、図書館から借りることでしのいでいる。冬場はもっぱら駅前図書館を利用していたが、これからは本館にも行く。

 本館の向かいは三鷹一中で、母校だ。昭和33年卒業だったか。あのころは周辺一面畑(麦か芋)だった。
 最近の生徒数は五百人ぐらいらしいが、通学していたころは、一学年約600人、11クラスだった。在学中に10周年記念行事があったように記憶しているし、確か四中ができて、送り出しの儀式があった、ことも思い出した。
 今も思い出すと、不思議なことがある。それは、古いほうの木造校舎には、どの教室にも六本の柱があったことだ。あれは、構造上の目的で存在していたのか、それとも、そもそも別の目的で建てられた建物を校舎として転用したものだったのか。今度、クラス会に先生が来てくださったら、聞いてみよう。

著名人との遭遇

2007-03-20 10:26:12 | 雑感(4)思い出
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 今まで多くの著名人に遭遇しているが、子供のころ(三鷹四小、一中)にも何人かに遭遇している。一番印象に残っているのは、卓球の荻村で、過去に書いたことがある。
 第二は、バレーボールの山田重雄だ。中学のころ、学校の同じ敷地に三鷹高校があった。今は都立だが、あのころはまだ町立であったか、都立に変更したてで、1学年1クラスのこじんまりした高校であった。そのような高校のバレーボール部が瞬く間にインターハイで優勝を争うまでの強豪になったのだが、その練習振りの激しさを、中学時代に目の当たりにした。
 補習授業を終わって、真っ暗の屋外バレーボールコートの横を通って下校するのだが、女子選手達の激しい息遣いとコーチの怒声に、こちらの身がすくんだ。俺だったら死ぬんじゃないの、と思われるほどのものすごさだった。
 後年、日立の監督をテレビ画面で見、「あの三鷹高校の鬼コーチだ」と知った。日本一や世界一を目指す人間の情熱を肌で感じていたのだ。今ごろ、おのれの軟弱さを恥じる。

スーパーヒーロー

2007-01-11 09:34:48 | 雑感(4)思い出
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 昨年の12/15の記事で触れたスーパーヒーローについてもうすこし。
 今日まで何人かのスーパーヒーロー達、いわゆるオーラを発散する人、を見てきた。明治神宮球場で見た学生時代の長嶋の、とにかく目立っちゃうキャラクター、後楽園選手控え室で素振り中の王のまるで剣客のような迫力、支度部屋での初代若乃花の周囲を圧倒する凄み、などは今も強烈な印象に残っている。
 しかし、三鷹といえば、なんといっても卓球の荻村だ。小学生の時、世界選手権を取って凱旋し、学校にきた。校庭に並んだ生徒の前に立った荻村のまわりだけとても明るく、それが不思議だった。後年、府立高校(都立大/首都大の前身)の体育の先生に聞いたのだが、「彼はすべての時間を卓球の練習に費やした、印象」だそうだ。
 高校の時、全日本選手権をとった直後の柔道猪熊が、練習中の柔道場にやってきた。このときは、彼の身体から発する、風というか圧力というか、強烈ななにかを感じ、ただ立っているのさえ苦しかった。今思えば、たぶん彼の目は東京オリンピックに向いていたのだ。重量級で金を取り、残念ながら、無差別級は神永がヘーシンクにやられたのだ。
 どのような分野の人であれ、日の丸を本当に背負った時、オーラが発散し、スーパーヒーローと呼ばれるようになるのだと思う。