水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

新ごみ処理施設

2007-10-31 10:43:27 | 三鷹・市政
 数日前の新聞記事に、清原三鷹市長が新ごみ処理施設の炉の数を3炉とせず2炉にする、と発表した、とあった。

なんだ?なんだ? なにも知らないので、調べてみた。以下にメモる。

1 三鷹市と調布市は、共同で不燃ゴミ処理施設を持っている。名前は ふじみ衛生組合。所在は三鷹市役所のすぐ南だ。管理者は三鷹市長。副管理者は調布市長。

2 その場所に、可燃ごみ処理施設をつくる計画が2001年ごろから始まり、検討が続けられてきた。最近いよいよ最後の胸突き八丁にきているようだ。

3 検討会では、炉の数を2とするか3とするかでもめていたが、管理者としての三鷹市長が2炉と発表し、議論の決着を図った(検討会の議事録を覗くと、議論が白熱していて、なかなか面白い)、ということか。

4 煙突の高さを、69mにするか100mにするかも、もめている種らしい。


 三鷹市は古くから、新川に焼却場をもっているが、その老朽化も激しいのだろう。

調布市域内とはいえ、三鷹市役所の隣にごみ焼却施設ができることはいいことだ。いつも多くの目にさらされているわけだから。

 調布市が府中市・小金井市と共用で使っていた、二枚橋の焼却施設は、廃止されるようだ。ここは、いかにも人目を忍ぶ、という体で、よろしくない。
 しかし、ここの煙突が取れると、調布飛行場を中型機が使えるようになるそうだ。もしかしたら、三鷹の新ごみ処理施設建設問題の発端の本意は、この辺にあるのではないか。な~んちゃって。


しんぐるま、ブログ上での解説(11)

2007-10-29 08:24:37 | 水車紙上解説
「これは水車の回転で得られた動力を使った全自動小麦粉作り装置です。末期とはいえ、江戸時代にここまでの装置を作っていたとは、本当に驚きます。

 まず碾き臼。直径55cmの御影石です。重さはひとつ300kgはあるのではないでしょうか。万力の歯の数から1分間に20回転ぐらいのスピードで回ったと考えます。粉を飛散させぬよう、また歯車に衣服を巻き込まれぬよう、カバーがなされています。

 日本では、主食が小麦粉ではなかったため、石臼の一般への普及は1700年ごろと考えられています。抹茶用とか火薬製造のための石臼は1300年ごろから多数存在していたようですが、食品用手挽き臼の普及は戦国時代の終了を待たねばならなかったようです。

 ご興味があれば、のちほど外で、現物で確認していただけますが、この臼の目は考えられないほどの荒く、これでよくミクロン単位の粒子を作り出せるものだと不思議です。目立てには、地域ごとの特有のノウハウが多数存在していたようです。例えば、東北日本の石臼の目は6分画、西南日本のそれは8分画だそうです。
     
 臼で挽かれた小麦は篩の箱に滑り落ちます。この篩は奴篩という名だそうです。篩の箱が大名行列の奴さんが担ぐはさみ箱に似ているためこのような名がつけられたそうです。
 水車の回転運動を篩の水平前後運動に変換するまでの機構、その機構を構成する部品のすべてが木製であること、など巧妙な仕掛けにご注目ください。

 当家の主であった峰岸さんが「篩は粉屋の魂」とおっしゃっているように、穀物の精白や製粉と篩(ふるい)は密接な関係があります。      
 ある時期、深大寺前の蕎麦屋の粉を引き受けていたこともあったそうですが、初めてそば粉を挽いたとき、粒子が細かすぎて駄目、といわれたそうです。うどん用の小麦粉とそば粉とはまったく異なる粒子が要求されるということなのでしょう。

 当家にはまだ多種類の篩が残されています。篩目の材料としては、糠やふすまを篩うためには銅線などの金属が用いられ、粉の篩いには絹糸が用いられていたそうです。古いものには馬の尻尾の毛が用いられていたこともあったそうです。     
 奴篩を作動させると、細かい粒子は下の箱に落ち、集められて小麦粉として出荷されます。一方、網の上に残るものもあります。これを、挽き残りといいますが、集めて再び臼にもどします。はじめに全自動といいましたが、まさに、その心臓部で、この臼に自動的にもどす機構の重要部分を、せりあげと呼びます。
 現在、残っているものはベルト式ですが、往時のものは箱状の容器を数珠つなぎにした、木製昇降機でした。
 この、せりあげの運動も、木製の棹心(さおしん)と呼ばれるものや万力(歯車)を巧妙に組み合わせた仕掛けによって、水車の回転運動から転換されるものです。

 1俵(4斗、約60kg)の小麦を、この装置で小麦粉にする時間は4~5時間だった、という話です。しかも、この工程の前に、8時間*2回の搗き臼工程があったわけですから、たとえこの装置がフルに機能したとしても、小麦粉をつくる作業は、大変な労力と時間を必要とするものでした。」

     つづく


解説員として(22)

2007-10-26 18:37:55 | 水車解説関連
 (写真は縁側に並べられている、米・麦のサンプル)
 
 今日は、解説担当日であった。それも、母校三鷹第四小3年生の見学日だ。特に事前の思い入れが深かった。それは、対応させてほしい、と市担当者に懇願した経緯があったからだ。

 朝の天気予報では、午後から本降り、という。なんということだ、と心配したが、幸運にも彼ら約80名の見学時は、霧雨程度で、大きく影響されることはなかった。

 決して贔屓目ではなく、四小の見学は合格。全体計画がよく練られていた、との印象だった。例えば、4班に別れ、15分程度の時間差をつけてきてくれた、先生方の引率に加えボランティアの方が入っており統制がきちんととれていた、などなど。

 引率のお一人が、「私は二中卒業なんですよ」と話しかけてくださり(こちらは一中)、いっとき非常に懐かしい話もできた、という余禄もあった。

 市担当者、管理者、および同僚解説員の許しを得て、冒頭に話をさせていただいた。

 話のポイントは三つ。

1 おじさんは君たちの先輩だ、と強調。

 (たぶん、これで つかみ はとれた、と思う。)

2 校歌を歌えるぞ。君たち歌えるか?

 (実際にいっしょに歌った。歌詞が満足に出てこず、やいのやいのとはやされた。これも成功だろう)

3 見学に大切な言葉として、三つ、「古い、水、木」を挙げ、それぞれ、200年、動力源、ほとんど全ての部材が木、を芯とし、補足説明した。

 他の方々の説明もお上手だったから、最後の場での質問は、どの班も百出だった。満足。

唯一の心配は、使った言葉の語彙だ。難しかったかな、理解してもらえたろうか、だ。まあ、何かひとつでも心に残ってくれることを祈る。

場を与えてくださった、当日の関係者すべてに感謝・御礼。

なお、一般見学者数はゼロ。これは初体験。
また、解説員のみなさんへとし、柿を若干量差し入れた。
 


しんぐるま、ブログ上での解説(10)

2007-10-25 08:46:13 | 水車紙上解説
料金

「しんぐるま の利用料は高かったのでしょうか、安かったのでしょうか。

 1915年(大正3年)における、杵や臼の利用に関する料金表があります。それによりますと、米の精白が4斗あたり16銭で、大杵一本の昼夜貸しが35銭でした。

 この料金を今日の価値に換算するには、手前勝手にやった貨幣価値の検討(昨年9月に書いたものを、今年の9/25付記事のうしろにコピーしてある)によりますと、少なくとも5000倍(明治27年との比較で5600倍と推定した)する必要がある、と考えています。

 以上から、当時の料金を今日の価値で考えると、米の精白が200円/15kg、大杵1本の昼夜貸しが1750円ぐらいであろうと推定されます。

 4斗の米精白に約4時間、同量の割麦を作るのに1昼夜かかったそうですが、このような大掛かりな機械で、時間をたっぷり使う作業に対する対価としては、今にしてみると、当時の料金はとんでもなく安かった、と言えるのではないでしょうか。

 ちなみに 我が家がときどき利用する町なかのコイン精米機は、10kgの米の精米は数分で終了します。料金は200円です。

労働の対価という意味での料金概念に関し、今と昔のあいだにおおきな違いがあるように思えてなりません。」

つづく

 上に書いた5000倍が正しいか、どうも気になる。本(江戸の米屋、吉川弘文館)をペラペラめくっていたら、大正6年頃の、もり・かけが5~6銭、とあった。今は500円ぐらいだろう。
とすると、5000倍では小さすぎ、10000倍としなければならないかもしれない。

加州の山火事

2007-10-24 10:29:58 | 雑感(1)日常
 今朝、カリフォルニアにおける山火事の大惨事がテレビ画面に映し出された。消失面積を25万haとか130万haとか報じている。ええっ~、日本の全面積が確か3800万haのはずだから~~。本当か?
ネットのオンラインニュースを見たら、1000km2だった。これだと10万haだ。

 ちょうど三鷹市内の人口分布を知りたい、と思っていたので、消失面積という言葉に脳がすぐ反応したようだ。

 正しいのはどっちだ、なんてどうでもいい。国家非常事態宣言は当然だろう。人口密度の小さい地域での山火事なので、今のところ死者が少ないのが救いか。日本でこんな火事が発生したら死者数はすぐに万を超えるだろう。早く収まれ、と祈るばかりだ。

 ところで、早速三鷹市の人口密度をしらべてみると、市全体のそれは、約10400人/km2(十位四捨五入)だった。地区別に計算すると、下のとおり。

下連雀17300、牟礼11300、井之頭11500、中原12400、北野7800、新川8500、上連雀13000、井口11500、深大寺13100、野崎5800、大沢4300。

 上を、次のように記憶しようと思う。

 三鷹市民一人当たりの平均支配市面積は、市全体としては100m2、混んでいる下連雀で60m2、空いている大沢で250m2。

これが、なんのたしになるのかわからない。こんなとき、な~んちゃって、と言うのか。 

   

しんぐるま、ブログ上での解説(9)

2007-10-23 08:46:50 | 水車紙上解説
精米用搗き臼、そして「輪」(写真)

「さっきまで見ていただいた、麦の杵に比べ一回りちいさい杵がありますが、これは精米用の杵です。これによる精米には4時間かかったそうです。川側の4本の杵は、河川改修に伴う立替の時に全面作り変えられています。

 麦の杵は5寸角でしたが、これは4寸角です。断面の一辺が1寸、3cmですが、ちいさくなると体積はほぼ56%に縮小してします。ですから、この杵の重さはおよそ37kg(麦の杵の重さは約68kg)あるものと推定されます。
この重さの違いからだけでも、米と麦の搗き方の違い、ひいては、粒子の外皮の成り立ちの違いが、はんぱでないこととご理解いただけるでしょう。

 杵で麦や米を搗く際の工夫のひとつに、輪(わ)があります。これは藁でできた筒状のものです。搗き方を変える目的で、10cmから30cmぐらいまでいろいろの高さのものがあります。筒の直径は杵先の直径より5cmぐらい大きくなっています。

 臼の中の米や麦を搗く際、杵先がこの輪の中だけを搗くようにすることによって、米や麦の粒子が輪の外側を上方に移動するようになります。そして、上に到達した粒子は輪の中に落ち、再び搗かれることになります。このように臼の中で粒子が自動的に循環し、すべての粒子が一様に搗かれます

 なかなかのアイデアですよね。このアイデアは全国に知れ渡っていたのでしょうか、それとも、ここだけが保有していたノウハウだったのでしょうか。
なにかご存知でしたら教えてください。」

 話は変わりますが、このスペースが狭すぎるとお感じになりませんか。その通りなのです。もともとは、約2mは川側にスペースがありました。野川の改修工事に伴う拡幅で土地が狭くなりましたので、水車小屋の建て替えにあたって、作業スペースがせばめられたのです。」

     つづく

太宰治

2007-10-22 10:48:28 | 三鷹・文学
 来年は、三鷹ゆかりの作家、太宰治没後60年にあたる。その次の年は生誕100年だそうだ。禅林寺の桜桃忌(6月)を中心に、彼に対する人々の関心が高まることだろう。

 しんぐるま見学者との話題の種になればいいなと、彼の書簡集(亀井勝一郎編 角川文庫)を読んだ。子供のころ聞いた、彼に関する話は、明るいものでなかった。そのためか、今もって、彼の小説は読んでいない。

 1939年から亡くなるまでの9年間彼は三鷹に本拠を構えていた。ちょうど世の中全体がいやな時代だった。そして、1945年4月2日被爆し、疎開した甲府の妻実家も7月、焼夷弾で全焼した。

1944年7月20日の書簡から、「まず着の身着のままという状態になった。甲府にもいられず、妹とわかれて、われら妻子いよいよ津軽行きだ。もう五、六日たつと出発の予定、前途三千里、決死行だ。」

 三鷹の情景に関する記述は、下のふたつ以外ほとんどない。

1947年5月2日の書簡から、「このごろ三鷹にキャバレー、映画館、マーケットなどでき、とてもハイカラで、にぎやかになり、私は仕事がすむと、酒と女で多忙の日々を送っています。」

1947年6月20日の書簡から、「午後三時、三鷹駅南口まっすぐに百メートル、川岸にウナギ屋がございまして、そこの主人にたずねると、私の居所かならず判明いたします。」

 彼が「川」といっているのは、当時すでにどぶ川と化していたはずの「品川用水」だ。あのころの三鷹駅周辺の猥雑・喧騒さは、かすかに記憶にある。

数独

2007-10-18 10:27:43 | 雑感(1)日常
 秋の夜長、とはよく言ったものだ。年齢のせいもあるのだろうが、一晩に、すくなくとも二回は目覚める。目が冴えてどうしようもなくなる時のために、準備が必要である。

 ひとつの準備は本だ。市の図書館から常時10冊の本を借りている。

 次は詰碁。これも市の図書館のもので間に合わせている。

 そして、数年前からはじめたのがパズルの数独だ。単純なのだが、とても奥が深い。地元の本屋で売っているものでは物足りず、新宿のジュンク堂までわざわざ出かけ、「激辛数独」(1~4)を買ってしまった。そろそろ問題創りに挑戦しようと思っているほどで、はまってしまった、といっても過言ではない。

 これらで、この秋の夜のための準備は万端整った、と楽観している。 

 それにしても、ジュンク堂 は本当に素晴らしい。品揃えが凄い。今まで目に触れたことのない本がザクザクある。昔、八重洲ブックセンターの出現に驚いたことがあったが、その時以上の新鮮さだ。
都心に出たら必ず立ち寄りたい。しかし、買う誘惑に負けてしまうのが怖い。

しんぐるま、ブログ上での解説(8)

2007-10-17 10:10:57 | 水車紙上解説
糠と麩

「 玄米を搗いたときの滓を糠(ぬか)、麦を挽いたときの滓を麩(ふすま)といいます。この滓には胚芽やセルロースという栄養素の詰まった部分が含まれていますから、簡単に捨ててしまうことは、賢者は許さないでしょう。しかし私のような愚者はうまみを追求します。そうするとどうしても、100%精白したものを食べ、糠や麩は利用するとしても、肥料や飼料などに追いやりがちです。
 
 聞いた話があります。大名や豪商だけが脚気になる、とか大陸に出征した陸軍軍人が脚気になった、などの話です。この脚気の原因が白米を食べることにあることを鈴木梅太郎が発見(米の胚芽に多量に含まれているビタミンB1不足)したのでした。また、森鴎外が医師として誤判断をしたのでした。

 今は飽食の時代ですし、あふれるほどのサプリメントが市販されていますから、脚気の心配はいりませんが、こんなところから食生活を見直すのも一興、かもしれません。

 ところで、フスマ の漢字がどうして麦偏に夫なのでしょうね。麦偏に皮としてもよさそうなのに。漢和辞典によると、こっちの字は麩の俗字だそうです。なんか 夫 が軽んじられているようで。

    糟糠之妻不下堂 

といいますが、最近は一般に、これが(妻)ではなく(夫)になってきた、と思うのは、高齢夫のヒガミでしょうか。
 話がとんでもない方に飛んじゃいました。失礼。」

     つづく

しんぐるま、ブログ上での解説(7)

2007-10-16 10:06:59 | 水車紙上解説
杵搗き(写真の右が搗き杵、左が挽き臼)

「この太い杵で搗いていたのは大麦だったそうです。麦には挽き割麦と押し麦とがあります。
押し麦は昭和初期に押し麦機が普及した後、食されるようになりました。昭和30年前後、私の子供のころ、ごはんに混ぜて食べた麦はこの押し麦だったと記憶しています。
 一方、挽き割麦は、それをつくるのに大変手間がかかったようです。ここのオーナーであった峰岸さんのお話が、”水車屋ぐらし”(三鷹市教育委員会、p42)に次のように残っています。

(麦は皮が固いのでそのままでは搗けない。水を使って表面を潤し、柔らかくしてから荒搗きをする。次に水を少なくして仕上げ搗きし、丸粒に精麦する。この丸粒を干してから割り麦にする。・・・・・丸粒を石の引き割り臼でひく。この臼は上下を同じに刻んだ剣刃になっていて、粉には挽けず、一粒が2~3つ割の挽き割りになる。)

荒搗きと仕上げ搗きにそれぞれ10時間、引き割り臼に4時間要したそうです。」

     つづく

 補足

 一年も前に、「搗く・挽く」の語源的意味合いが分からぬ、と書き、そのままになっていた(一ヶ月前ぐらいの記事のうしろにコピーで貼り付けた)。
今日、大字典をペラペラやってみたら、理解が多少進んだようなので、下にメモしておく。

 搗くのツクリは、もともと 壽 だったらしい。手ヘンに壽、の意は 手で推すこと、築くこと、敲くこと、舂くこと。ヨコヅチにてトントンと数十打ち下ろす、または臼に入れて手杵でつく類、だそうだ。

なお、舂く は、臼に両側から杵が被さっている形状を示しているらしい。
なんと、こんなところで、象形文字ジャー。

しんぐるま、ブログ上での解説(6)

2007-10-15 09:10:32 | 水車紙上解説
万力そして杵搗き

 「水車を回転させて得た動力を他に伝えるためには歯車が必要です。
鉄が普及する前の日本では、歯車を木材でつくり、万力と呼びました。
しんぐるま にも多数の万力が組み込まれています。

ごらんの通り、ここで使われた歯車は寄木細工のように多数の部材を組み上げており、寄せ歯式と呼ばれます。日本には寄せ歯式のほか、一枚の円盤の周を削って刃先を作る削りだし式、円盤の周上に格子状に刃先を組み立てる差し歯式と呼ばれる歯車があるそうです。

 この万力を見ていただくとおわかりのように、刃先の両側が削られています。刃先だけを交換することができ、なおかつ、一本の刃先の両側も使う、というすぐれものです。刃先の材料は、庭に植えた樫の木です。樫の木の比重は0.8ぐらいで、とても硬い木です。刃先以外の部材はケヤキだそうです。これの比重は0.65ぐらいだそうです。庭の一番太いケヤキの樹齢は300年を越える、といわれています。
     

杵搗き

 ここに14本並んでいる柱のようなものが杵です。これらが上下に運動し、下の臼の中に入れた米や麦を搗きました。下の臼は4斗つまり1俵の穀物を入れることができます。杵は15cm角の欅でおよそ18貫(67kg)あるという話です。

 水車の回転力は、大万力ともうひとつの万力(繰り出し万力)を伝い、この太い棒(欅で横芯と呼ぶそうですが)の回転に転換されます。そして、この横芯の回転にともない、それについている棒(なで棒)が杵についている板を跳ね上げ、その反動で杵が落ち、臼の中を搗きます。

 水車の回転速度を毎分10回転と仮定しますと、大万力(38)と繰り出し万力(20)の歯数、なで棒の数(4)から、杵は毎分80回程度上下していたものと思われます。杵ごとになで棒の位置がずれていますから、フル稼働したときは壮観だったにちがいありません。」

     つづく

しんぐるま、ブログ上での解説(5)

2007-10-12 09:40:29 | 水車紙上解説
水車について

「さて、これが水車です。直径4.6m、幅0.97mあります。むかしは水輪(みずわ)といったそうですが、現在では、このようにぼろぼろになっています。1968年に停止した時のままだからです。材料は赤松です。寿命はおよそ10年だそうですから、創建以来15回ぐらい作り変えられたと考えられます。水を効率的に受けるために、水受けの角度などに苦心の工夫があるようです。

 そのようなノウハウが途絶えることを心配し、熱意あるかたがたが集まって、2003年に交換用の水輪を作りました。ですから、新しいものへの取り替えはいつでも可能なのですが、このボロボロのものが文化財ですので、実現は簡単ではないそうです。
将来、水輪を組み立てる時がくると思いますが、たぶんその時は、装置全体が動く時ではないかと思っています。

 この水車は、主として電気が供給される前、水を動力源とするエンジンとして使われました。最大10馬力は出たという話です。仕事率でいえば7kw程度、今の一般家庭の二軒分の電力を供給できる程度でしょうか。50ccバイクと同じぐらいの力を出せるといってもいいと思います。

 水はさきほどの「さぶた」(スルースゲート)で量を決められ、水車に当たります。水が水車の下にあたりますから、下掛けと呼ばれます。水を上から掛ける水車を上掛け、といいますが、上掛けに比べ下掛けは、水を、より安定して、より多量に必要とします。野川の水が、多量の地下水を水源としていましたし、上掛けにするには必要な高度差をとれませんから、この土地に適合した水受けの構造だった、といえましょう。
 最大1分間に10~12回転させたそうですが、その場合すくなくとも、1m3/秒の流量が必要だったと思われます。」

     つづく


 
     



しんぐるま、ブログ上での解説(4)

2007-10-11 10:29:01 | 水車紙上解説
集落の成り立ち

「西暦1808年ごろ、この しんぐるま が作られました。そのころ、この周辺には95戸の人家がありました。これらの人々の祖先は、1500年代末期に、ここに定住したようで、古いおうちは、約400年の歴史をお持ちだ、ということです。

 江戸時代以前、この辺はどうだったのでしょうか。市内での発掘調査の結果によると、旧石器時代(数万年前)に、このあたりに、狩猟大集団が居たのではないか、といわれています。縄文や弥生時代の遺物はほとんど出ていません。

 川の対岸の崖には横穴墓があります。これらの古いものは7世紀ごろ作られたようです。
 
 江戸時代には、現在に大沢6丁目の人見街道沿いに集落が集中し、上の95軒のほとんどもこの区域に住んだようです。現在の住民登録によると、大沢6丁目の世帯数は687、人口は1532人です。ちなみに、三鷹市全体の住民登録は世帯数84823、人口170323です。
 
 1700年ごろの元禄検地によると、大沢では水田約14町歩、畑約12町歩で耕作されていました。米に換算すると約600俵の収穫が期待できますが、そのほとんどを税として取り上げられたはずですから、他に売るような余剰農作物があった地区とは思えません。

日本全国どこでもそうだったのでしょうが、今では考えられないほどギチギチの生活を強いられていた集落だったと思われます」

(つづく)

しんぐるま、ブログ上での解説(3)

2007-10-10 11:44:16 | 水車紙上解説
野川の話をもうすこし

「 このように、野川は武蔵野段丘と立川段丘の境界の崖際から滲み出る水を集めた川です。段丘の上の原っぱでは地表で水を得ることが難しいため、人間を含め動植物の水場として、野川は昔から貴重な存在でした。

水場の名残は今でもあって、有名なものとしては上流から、国分寺市の殿ヶ谷戸公園、小金井市のはけの道、ここのすぐ上流の、ICU校内の樹林、都立野川公園、下流に行って深大寺など、人々に愛されているところがいろいろあります。
 この向こう側には、三鷹市が湿生植物園をつくり、なるべく自然を残した景観を保とうと努力しています。機会をみて是非あちらも見学してみてください。

 ただし、どこも水はほとんど枯れてしまっています。それは、武蔵野台地全域でくりひろげられてきた、都市化・市街地化に伴う地下水低下工事が原因です。井の頭池の水源枯渇も同じ原因です。行政に手で、浸透マスの設置が推進されていますが、野川に昔のような豊かな水が復活するのは、台地上の都市化・市街地化が終了した後、さらにしばらく経過してからではないでしょうか。場合によると100年とか200年後であるかもしれません。」
  
     (つづく)

しんぐるま、ブログ上での解説(2)

2007-10-09 05:16:00 | 水車紙上解説
導水口にて

「ここは水車小屋に水が入るところです。この水路は、つぶされて今はもう存在しません。上流には大車(おおごるま)という名の水車があった時代もあるそうです。
 ここには水量調節をする堰があります。サブタ(差蓋)と呼んだそうですが、スルースゲート、といえば納得していただけるでしょう。
毎日、その日の仕事の量にあわせ、水車の回転数を決め、それに見合う水量調節をする必要があります。水車の回転数は、最大で1分間に12回転程度だったそうですが、私の試算によると、その場合、少なくとも毎秒約1トンの水が必要と思われます。
 むこうの河道が、野川です。1968年の河川改修によって、川幅が広げられ、河床がニメートル低められました。流域内で多発する洪水被害を防止するための改修でしたから、やむおえなかったのですが、流域の市街化がこの水車の運転を終了させたのでした。
 この施設の立地している平地は、武蔵野台地の立川段丘面といいます。川の向こうに一段高い面が見えますが、あれが武蔵野段丘です。野川は、多摩川が武蔵野段丘を作った砂礫層から滲み出る地下水が集まった流れです。西国分寺駅の北付近を水源とし、二子多摩川園駅付近多摩川に流出する、延長約30kmの河川です。
また、よく野川は数万年前に多摩川が流れていた跡、とも言われます。」

     (つづく)