水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

解説員として(155)

2013-10-31 16:55:33 | 解説員日記
今日の午前、解説当番であった。

ポカポカ陽気で、気分は最高。

見学者は、熟年男性二名。
おひとりは、サイクリング途中での立ち寄り。上から下までサイクリングファッションで、きっちりきまっていた。お見事。

もうおひとりは、ご近所にお住まいの方。
「近すぎて見過ごしていたが、こんなにすごいものだとは知らなかった」とのご感想をいただいた。


午後、中原小学校三年生約80名見学。解説助っ人に入った。

事前準備・予習がしっかりなされていたことがうかがわれ、かつ、見学時間に余裕があり、混乱なく終了。
沢山の質問も出て、気持ちよく案内できた。
学校サイドに対し、改善点を一つ申し上げさせていただくと、来年からは上履きを持参していただきたい。
施設のスリッパを使うと、履き替えに無駄な時間がかかる。

今日は、こちらサイドに大きな問題があった。それは、役所の立ち会いがなかったことだ。
管理人の機転の利いた采配で、なんとかことなきを得たものの、二度とあってはならぬことだ、と思う。

たぶん、立ち会うことのできない理由があったのだろう。
が、もしそうだとすれば、電話ででも、仕切りの概要を我々に示しておくべきだ。

いいたいことは山ほどあるが、これ以上はここに記すことをやめる。
とにかく、三鷹市教育委員会の立場を忖度させていただけば、市内小学校見学時の生涯学習課立ち会いは、重要度の極めて高い職務のひとつに違いないと思うのだが。

論語(377)

2013-10-29 09:12:53 | 論語
上好禮、則民易使也(憲問第十四の43)

上、禮を好めば、すなわち民使い易し

指導者が礼儀を大切にすれば、下の者は抵抗しない

禮=神におつかえするように、相手を心底敬うこと


カモフラージュ=偽装、という言葉は、本来軍隊用語で、銃や戦車を敵の目から隠すために変装すること、だそうです。

上の孔子の考えに従えば:
社長さんが平時に社内で礼を尽くしていれば、世間で名をなしている組織の従業員が、わざわざその名を貶めるような偽装(誤表記だそうです)はしないはずです。
さらに言えば、「礼を尽くす」ことに社長は偽装してはならないのです。

今の世の中、上から下まで、鎧の上から纏った衣のような、見せかけの礼が氾濫しているように思えてなりません。
日々の暮らしに誠心誠意。心がけねばならぬ。

論語(376)

2013-10-28 11:16:32 | 論語
君薨、百官総己以聴於冢宰三年(憲問第十四の42)

君薨(コウ)ずれば、百官、己を総て以って冢宰(チョウサイ)に聴くこと三年

主君が亡くなったときは、三年の間、すべての家臣は自身の仕事に関する伺いを冢宰(総理大臣)に提出するものです(その間、あとつぎとなった次の君主には伺いを出さないし、そのあとつぎから命令はでてこない)。

弟子の子張が、「殷の高祖が服喪中の三年ものを言わなかった」と書経に書いてありますが、どういうことでしょうか、と訊ねたときの孔子の答え。

昔(殷は孔子の時代から約500年さかのぼる)はそれがあたりまえのことだったのです、と言って上のように補足した。


現代でもどこかの国では、これに近いことが行われていて、それが儒教の教えに基づくものだ、と説明されている。
しかし、この節に従う限り、「服喪三年」は儒教の教えではなく、もっと古くから、大陸中原地方に根付いていた慣習と理解できる。

儒教の特徴のひとつは、昔から続くよい慣習を大切にしようと唱える孔子の教えを大切にする教え、とみることもできるようだ。


それにしても最近、この国で行われる最近の葬式の形式的簡便さには、服喪の心を忘れているのではないかと首をかしげたくなるときがある。

論語(375)

2013-10-25 05:50:27 | 論語
果哉、末之難矣(憲問第十四の41)

果たせるかな、之の難しこと末(ナ)きなり

そうでしょうとも(そうおっしゃることでしょう)、(しかし)これをやめるということはそれほど難しいことではないのです、(が、やめるわけにはいきません)


この節も、モヤモヤしていて、スッキリと理解できません。

孔子が磬(ケイ)という楽器の演奏(練習)をしているところを、蕢(アシカ=もっこ?)を担いで通りかかった人(たいして教養があるとも思えない労働者)が、「ウマイノヘタダノ」と評価し、「誉められるような腕ではないので、やめるべきでしょう」、と言い、詩経に載っている、「深い水であったら泳いででも、浅い水だったら裾をからげて(渡りましょうよ)」(深則、浅則掲)と言う詩を歌った。


それを、弟子づてに聞いた孔子の答えが上。

この節で言いたいことはなになのか、が分からない。モッコ担ぎの話と孔子の答えがを合わないのです。

①孔子の強情な気質を示したい、のか
②そこらにいる一般人でも詩経を諳んじている、ほどの民度の高さを誇りたい、のか
③モッコ担ぎ=道教の信者、に対する批判、なのか

たぶん、「深則、浅則掲」の全文を読むと、なにかヒントが得られるのでしょう。
機会をみて調べてみようかな、と思います。


論語(374)

2013-10-22 10:14:47 | 論語
是知其不可而為之者與(憲問第十四の40)

是れ其の不可なるを知り、之を為す者か

その方(孔子)は、それ(儒教の流布)ができるわけがないと知りながら、続けている方ですね。


弟子の子路が石門で、「孔子門下です」と答えた際の門番の言葉。

考えられる解釈は、ふたつある。

① 身分の低い門番ですら知っているほど、儒教が広まっている。
② 孔子の偉大さを認識できる、この門番は、ただものではない。

たぶん、②なのでしょう。

論語(373)

2013-10-21 06:21:31 | 論語
避世、避地、避色、避言(憲問第十四の39)

世を避け、地を避け、色を避け、言を避く


孔子の言う、賢者の4条件だ。

一般的には、乱世においての隠遁生活を推奨する語として受け取られている。積極行動家の孔子の語としては珍しい。


この4条件についての、独断・偏見解釈は次の通り。

・ 付和雷同しない
・ 喧騒の土地にはいかない
・ 人様の顔色をうかがうような姑息な態度はとらない
・ ペラペラ無駄喋りをしない


閑話休題
誰の言が本元なのか知らないが、プロ野球の有名な老指導者がよくおっしゃる言葉が、気に入っている。

下は財を成す、中は名を成す、上は人を成す。

この方、確かに埋もれ気味の選手を何人も表舞台に立たせた。ご自分を「上」と自認しているに違いない。



論語(372)

2013-10-18 04:33:32 | 論語
不怨天、不尤人、下学而上達(憲問第十四の37)

天を怨まず、人を尤(ニク)まず、下学(カガク)して上達す

天を怨まず、人を憎まず、身近なところから探求をはじめ、徐々に本質に迫っていく


座右の銘にしている人がたくさんいるであろう、孔子の名言のひとつだ。

節全体から、孔子の意図を次のように解釈したいのです。いかがでしょうか?


この節の頭で孔子が言っている言葉は、「莫我知也夫」(私を知ってくれる人がいないんですよ)で、
節の最後で言う言葉は「知我者其天乎」(私を知ってくれる人は天ですかね~)だ。

私(孔子)がこんなに高い志をもって生きているのに、もしかしたら神様だけはわかってくださっているかもしれませんが~、世の中誰もわかってくれません。この高い志こそ、「不怨天、不尤人、下学而上達」なのです。これ、私(孔子)の座右の銘です。

孔子を身近に感じることのできる節、と思います。


台風26号

2013-10-16 09:40:18 | 雑感(1)日常
昨夜は台風による大雨であった。そして今(朝9時)は、雨は上がったもののまだ風が強い。

今朝のテレビは、各社いつものように、台風の状況報道に力を入れている。
それも若い記者を台風災害の発生しそうな地域に派遣し、現状を報告させている。各社そのことを競っているように感じる。

しかし、視聴者が望む情報がなんなのかについて、教えられないまま現場に入ったように見受けられる局ばかりだ。

例えば、「こっち方面からの風がとても強いです」、「とても寒いです」などとレポートする。
これで給料をもらえると思っているのだろうか。

風であったら、風向/風速、暑さ寒さであったら、気温、せめてこのくらいはレポートしてほしい。
風向風速計と温度計の携帯は必須だ。

そしてスタジオからは、せめて
「今の現地レポートに基づくと、~地方ではx時間後、風向はY風速はZ、気温はTぐらいになると思われます」
程度のことは言ってほしい。

とにかく災害に関し、文学的報道をやめ、理学的報道に頭を切り替えてほしいのだ。

蛇足として、もうひとつ。

天下泰平で、ニュースがないからなのだろう、最近民間のテレビ報道番組で、気候/気象の結果説明に長い時間を割く事が多い。
我々がもっとも知りたいのは、数時間~数日後の気候や気象の状況予測であって、過去ではない。

正確な天気予報を報道することをめざし、あとひとひねりすれば、視聴率向上は間違いないと思うのだが。

被害が最小限に収まることを念じる。

論語(371)

2013-10-15 11:29:08 | 論語
以直報怨、以徳報徳(憲問第十四の36)

直きを以って怨みに報い、徳を以って徳に報いる

人様から怨みをかったら正直に対応し、親切にされたら親切で返しましょう。


老子が、「以徳報怨」(徳を以って怨みに報う)と言っているのだそうだが、それを、ある人が孔子に、「どうお思いになりますか」と聞いた。

孔子は、まず、「では、徳に報いるのはなんでしょうか?」と反問し、上のように答えた。

「徳には徳で報いるしかないでしょう。とすれば、怨みには(場合によっては)怨みで答えるしかないではありませんか」

と、読み取れるのですが、いかがでしょうか?

「恨みには怨みに」と言うと露骨なので、「直」と言いまわした、と理解しました。

つまり、(不幸にして)人様から怨みをかってしまったら、小細工せずに正々堂々と正面から対応しなければならぬ、ということ。



解説員として(154)

2013-10-10 16:50:16 | 解説員日記
今日の午前、当番にあたっていた方のご都合で、代理解説を引き受けた。

晴れ~快晴の天気予報であったが、曇り~ときどき小雨。予報は大はずれだ。

某私立大学の2年生、15名が授業の一環として来訪。
市職員により、生涯学習行政施策の概要が説明された後、解説を受け持った。

結論から言うと、不満足。
興味を持っていただけた反応、とはかならずしも言えず、解説として落第、と思う。

普段の解説で、見学者が面白がってくださることを中心に話した。
が、中高年にうければ若者にもうける、と思い込んでいた。とんだ思い違いであった。
たぶん、学生さん方の興味のあり方について、勉強が不足しているのだ。

なにを話せば、彼らが楽しげに聞いてくれるか、大学生用の抽斗を作っておかねばならぬ。


帰りがけ、三鷹警察署の前を通った。報道車がワンサカ待機していた。
なんとも悔しく、痛ましく、悲しい事件が市内井の頭で発生した。老人にとって、将来ある若者の事件死はやるせない。
合掌


論語(370)

2013-10-08 08:50:25 | 論語
驥不稱其力、稱其徳也(憲問第十四の35)

驥(キ)其の力を稱(ホ)めず、其の徳を稱むなり

驥(キ)=千里の駿馬

馬は、その体力ではなく、その性格で評価される


孔子らしくない言い回し、と感じてしまう。
例えば、弘法筆を選ばず、という。
駄馬は駄馬なりに評価されるべき、と孔子だったら言ってもいいような気がするのだ。

馬の側からだって、乗り手を評価するでしょう。
そんなことを考えていたら、下のような言葉がありました。

驥遇伯楽而長鳴
驥、伯楽に会いて長鳴(チョウメイ)す
有能だと自認している人が、有能と思われる人に会い、自分の不遇を嘆くこと。

いいたいことはこうだ。
驥(キ)=千里を走る馬、と定義するなら、一定のレベルを超えた力を持っていなければならぬ。いかに徳がよくても貧弱は体力では千里を走りきれないでしょう。





論語(369)

2013-10-07 10:04:17 | 論語
非敢為佞也、疾固也(憲問第十四の34)

敢えて佞(ネイ)を為すにあらざるなり、固を疾(ニク)むなり

好んでお追従しているわけではありません。頑迷固陋にはなりたくないものです。


徴生畝という人(たぶんかなりの老人)が孔子に対して、

「なにをそんなに忙しそうにしているのよ。お追従してるんじゃないの?」

と皮肉っぽく問いかけた。

それに対する孔子の答えが上。皮肉には皮肉で、という感じがでている。

「別に、ご機嫌取りしているわけではありませんよ。(それよりなにより、あなたのように)凝り固まってはおしまいでしょ。」


人格者、孔子、であるからこんな露骨に感情をあらわさなかったでしょう。
しかし、「イヤミなおじいさんだな」と不快に思ったであろうことをうかがわせる文です。

老人が多社会では、徴生畝に似た人が多く現れます。自戒しなければなりません。

論語(368)

2013-10-04 10:01:09 | 論語
不逆詐、不億不信、抑亦先覚者(憲問第十四の33)

詐(イツワリ)に逆(ムカ)わず、信ぜざるを億(オモンパカ)らず、抑(ソモソモ)亦先を覚(サト)る者

騙されそうになったときムキになって立ち向かうようなことをせず、また自分を信じていないのではないかと心配もしない。そうでありながら、相手の方針を読み取ることができる人。


孔子が「賢者」を定義した言葉(是賢乎)。


最近振り込め詐欺事件が頻発している。我が家にもときどき不審な電話がかかってくる。

あわてたり、パニクッたら相手の思うつぼだ。
冷静な賢者でありたい、とつくづく思う。
もっとも、毎度報じられる詐取金額は、わが身にとって雲上事ではある。

解説員として(153)

2013-10-03 16:50:43 | 解説員日記
今日の午後、解説助っ人に入った。東台小3年生およそ60人。

・ 電話での、開始時刻の聞き方がいいかげんであったため、心配になり、1330に現場に入った。

・ 本日、市内6中1年生の校外学習と重なっていた。
このため、「しんぐるま」に着いた時はちょうどコミコミ状態。
怪我の功名。お手伝いでき、早めに入ったことが無駄にならなかった。

市内の他の中学校も同様の学習をするのであろうか?
想像するに、市内諸施設の中から、中学生自らが見学場所を選び、一日かけていくつかを巡る、というもののようだ。
もしそうだとすれば、なかなかいい。是非他の学校もやるべきだ。
そして、解説員は、市内中学1年生向けの「しんぐるま解説法」を勉強せねばならぬ。

・ 東台小の見学について

 60人を3班に分け、解説員2名と市役所職員1名が各班を受け持ち、スタート場所をずらし、約50分かけて一巡する方式がとられた。
これがよかった。見学者があわてることもなく、かといって冗漫な時間ができることもなく、余裕を持って説明できた。

また、生徒さんがたの行儀がよく、質問も活発、全体が生気にあふれていた。

学校サイドの事前準備に遺漏がなかった、ということ。満足。

論語(367)

2013-10-02 09:47:59 | 論語
不患人之不己知、患己不知人也(憲問第十四の32)

人の己を知らざるを患えず、己の能無きを患う。

人様が自分を理解してくれないことに不満を持つのではなく、自分の無能さを心配せねばならぬ。


ほとんど同じ文をどこかで読んだ、と記憶している。
見つけました。2011年2月1日の記事でした。

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不患人之不己知、患己不知人也(学而第一の16)
人の己を知らざるを患(ウレ)えず、己の人を知らざるを患う。
人様が自分を理解してくれないことに不満を持つのではなく、自分が人様を理解しない(できない、がいいかも)ことについて、(なぜそうなのか)よく考えねばならない。
まあ、とにもかくにも、人様を理解しよう、という心は常に持ち続けたい。
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他者と比較することによって、己の優劣は見極めやすくなる。ただし、謙虚に、客観的に比較すること!

という意味において、「患己不知人也」と「患己不知人也」とは不可分だ。