水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

論語(451)

2014-04-30 08:52:13 | 論語
郷原徳之賊也(陽貨第十七の13)

郷原(キョウゲン)は徳の賊なり

郷原=郷愿=似而非道徳者也=道徳者に似て非なり=道徳者ぶった偽者

道徳者ぶる偽者は、徳の世界では盗賊のような存在だ。


孔子の、偽物嫌いが顕著に示されている、と思う。



それにしても、隣国で起きた、あまりにも悲しい海難事故についての、最近の報道振りには違和感を覚える。

お隣の混乱ぶり、ではなく、こちらでも共有する問題、と捕える視点を堅持してほしい。




論語(450)

2014-04-25 10:32:46 | 論語
其猶穿窬之盗也與(陽貨第十七の12)

其れ猶お穿窬(センユ)の盗のごときか

穿窬之盗=壁に穴をあけて忍び込み物を盗むような賊。小盗人

そのような人は、小盗人と同じ(で、話になりません)。


「そのような人」とはどのような人か?

色而内荏(色おごそかにして内柔らかし)=外見はまともであって内面は柔弱なこと


孔子がもっとも嫌う人間(のような印象を受ける)を端的に説明している節。

ソトヅラが良くても精神がフラフラしているような人間は最低です、と。


TPPの決着は先延ばしになったようですね。

ポチにだって、譲れないところはあるのです。
ジャイアンさん、なんでもかんでも思いのまま、とはお思いなさるな。

某国を背負っているみなさん、どうか、「色而内荏」ではなく「色荏而内」を貫いてください。

解説員として(167)

2014-04-24 15:13:09 | 解説員日記
今日の午前、解説当番であった。

快晴、無風、気温20度前後、絶好のお散歩日和。

見学者は、しかし、ひとり、のみ。

仕事上の面会予定がキャンセルになり、時間つぶし、とか。

高い文系教育をお受けになった方と拝察した。

しかも聞き上手で、少々こちらがしゃべりすぎ、だったかもしれぬ。


川向こうの公園整備工事も終了したようだ。連休は相当な人出が期待される。





論語(449)

2014-04-22 10:01:39 | 論語
礼云礼云、玉帛云乎哉、樂云樂云、鐘鼓云乎哉(陽貨第十七の11)

礼と云い礼と云い、玉帛(ギョクハク)を云わんや、樂と云い樂と云い、鐘鼓(ショウコ)を云わんや

玉帛=玉と絹
鐘鼓=鐘と鼓

儀礼が大切だからといって、玉や絹で飾り立てることを第一に考えることなのでしょうか?雅楽だからといって、鐘(カネ)や鼓(ツヅミ)選びにうつつをぬかしていいのでしょうか?
(いやいやそうではありません。礼樂は、その根本精神の大切さをわきまえることが大切なのです)


おっしゃる意味はよくわかっているつもりです。形式を大事にしすぎると、モノの本質がみえなくなる、とよく言われます。

しかしながら凡人は、ついつい、大げさに、けばけばしく飾り立てられたモノに、崇高さとか権威を感じてしまいがちです。
神社仏閣などの壮麗な大伽藍を前にすると、ときに、平伏したくなる、アレです。

常に、本物とはなにか、一番大切なものはなにか、などと考えるクセをつけておく、ということでしょうか?
心せねばなりません。

論語(448)

2014-04-21 11:28:10 | 論語
猶正牆面而立也與(陽貨第十七の10)

猶お正に牆面(ショウメン)し立つがごときか

牆面=練塀を前にすること。前に進めないこと。

まあそれ(周南・召南の詩をいいかげんな気持ちで読むということ)は、(人生どこかで)にっちもさっちもいかずに立ち尽くすことになるということですよ。


孔子が息子の伯魚に対し言った言葉。
ずいぶんとおおげさなことをおっしゃるなあ、というのが率直な第一印象。

周南・召南は詩経の編名だそうです。詩経そのもの、あるいは周南・召南に収められている詩の特徴など、調べねばならない、とは思いますが、気がのりません。
後日、やる気が出たらやる、ということで、今日のところはご勘弁を!

まあそれにしても、周南・召南に収められている詩は人生を左右するほど重要である、と孔子が認識していたということは忘れないようにしようと思います。

論語(447)

2014-04-18 09:57:35 | 論語
詩可以興、可以観、可以群、可以怨(陽貨第十七の9)

詩は以て興こすべく、観るべく、群れすべく、怨むべし。

詩というものは(人生の上で大変大切なものであって)、人の心を高揚させ、観察眼を養い、人々を集め、恨み言(さえ、的確に)表現させる。


孔子が弟子たちに対し、「君たちはどうして詩の勉強をしないのですか?」と問いかけ、上のような効用を述べた。

この語の後に続けて、「近親者や上司先輩とのコミュニケーションを図る種として使えるし、鳥獣草木の名を知ることもできるのですよ」とも、補足している。


む~ん、昔の人が漢詩に傾倒したのも、論語のこの節の影響があるのでしょうか?

それにしても、漢語の和読みを作ってしまった日本人の能力って、本当にすごいことだと、つくづく思います。
そしてさらに、和歌や俳句という、特有の詩(文化)を作ってしまった感性も、誇るべき特性のような気がします。





論語(446)

2014-04-17 10:53:52 | 論語
六言六蔽(陽貨第十七の8)

六言六蔽(ロクゲンロクヘイ)

六つの(善)言とそれらに対する弊害


孔子が弟子の子路に対し、知っていますか、と聞いた言葉。
子路が、知りません、と応じたので、しからばお教えしよう、と説明した内容が次。

・仁にこだわり、学びがおろそかになると、愚(おろかになる)
・知にこだわり、学びがおろそかになると、蕩(とりとめなくなる)
・信にこだわり、学びがおろそかになると、賊(品格がくずれる)
・直にこだわり、学びがおろそかになると、絞(柔軟性を失う)
・勇にこだわり、学びがおろそかになると、乱(きまりごとを破るようになる)
・剛にこだわり、学びがおろそかになると、狂(精神錯乱状態になる)


囲碁の話として、これらはすんなり納得です。
努力しているつもりなのですが、強くなれません。

そういえば、囲碁界において、日本の強さはガタ落ちで、昔の面影はありません。
今日本一になっている方(20代前半)やそれに続く十代の若手達が、そのうち世界を席巻してくれるに違いないと信じています。

論語(445)

2014-04-14 10:00:31 | 論語
吾豈匏瓜也哉、焉能繋而不食(陽貨第十七の7)

吾、豈に匏瓜(ホウカ)ならんや、いずくんぞよく繋(カカ)りて食わざれざらん

匏瓜(ホウカ)=ひょうたん

私(孔子)(ともあろう人間が)、どうして、(長いことぶらさがったままで、とどのつまり)食用にならない、ひょうたんであるわけないでしょう。


ここも、孔子が御自身の不遇を嘆いているように感じ取れます。


ヒッキツ(ツキヘンにドル、肸(キツ))という人の招きに応じようとしたとき、弟子の子路が次のように諌めます。

以前先生は「善くないことをする人に、君子は近寄るようなことをしない」とおっしゃられました。
ヒッキツは、(下剋上というかたちで)主家にそむいています。行くのはいかがなものでしょうか?


これに対して孔子は次のように答え、最後に、上のように嘆いた。

たしかにそのように言ったことがあります。
しかし、世の中には、次のような言葉もあります。

不曰堅乎、磨而不磷、不曰白乎、涅而不緇(堅しといわざらんや、磨すれど磷(ウスロ)がず、白しといわざらんや、涅(デツ)すれど緇(クロ)まず)
どんなに磨こうとも薄くならないものを堅いといいます。どんなに黒土をまぜようとも白さを保つものを白いといいます。


孔子の言いたかったことを想像すると、
「私は決して彼らの言いなりにはなりません。ただ、声を掛けてくれたことに答えたいのです」


孔子も普通の人間ではないですか?彼を非常に身近に感じる節です。

論語(444)

2014-04-11 10:08:58 | 論語
恭寛信敏恵(陽貨第十七の6)

恭(キョウ)寛(カン)信(シン)敏(ビン)恵(ケイ)


子張が孔子に「仁」とはどういうことでしょうか、と聞くと、孔子が次のように答えた。
「実社会で五つのことを実践することですよ」

で、子張が、それはどのようなことでしょうか、と再質問したときの、孔子の答え。

・恭則不侮(恭なれば則ち侮られず)=礼儀正しくふるまえば人様が侮るようなことはない
・寛則得衆(寛なれば則ち衆を得る)=ゆったりと落ち着いていれば周囲に人が集まる
・信則人任焉(信成れば則ち人任ず)=言動が正しければ、仕事を任せてもれえるようになる
・敏則有功(敏なれば則ち功あり)=状況判断が(正しく)素早くおこなえれば失敗することはない
・恵則足以使人(恵なれば則ち以て人を使うに足る)=思いやりの心をもっていればリーダーになれる


文句有りません。おっしゃるとおりです。


しかしまあ、最近のマスコミの、女性研究者に対する過熱振りはなんだ?
問題の本質から、意図的にずらしているように感じて不愉快。

マスコミが頑張らねばならぬことはふたつ、
① 研究者養成教育の欠陥をあぶりだすこと(出身大学の責任は極めて重い)
② マスコミを煽った所属組織の無責任さを追及すること(STAP細胞が実在するのかどうか、実験を続けさせねばならぬ)

ごまめの歯軋りにすぎません。



解説員として(166)

2014-04-10 14:27:16 | 解説員日記
今日の午前、解説当番であった。

この時期にすれば気温は高めで、絶好の散歩日和であった。

見学者は、三組計六名。
いずれも熟年ご夫婦によるハイキング途中の立ち寄り。

見学後の満足感が感じられ、案内は及第であったであろうと想像できた。

特に、一組のご夫婦は、野川に沿ってハイキングをするために、わざわざ横浜市から2時間かけておいでになったそうで、失望させぬよう気を付けたつもり。


論語(443)

2014-04-08 09:20:18 | 論語
夫召我者、而豈徒哉(陽貨第十七の5)

それ、我を召す者にして、豈(アニ)徒(タダ)ならんや

その方(公山不擾のこと)が私を招いているので、まさか、(招いておいて)なにもさせないなんてことはないでしょう。


魯の家臣であった公山不擾が費という町で本国に反旗をひるがえし、孔子に協力するよう呼びかけた。
行く気になった孔子に対し、弟子の子路が、「公山のところへなぞいくことはないと思いますが」と思いとどまらせようとした。

其れに対する孔子の答えが上。

それに続けて、次のように言った。

東の周(とみなされるような、立派な)国にしてみせるのですがね~。(吾其為東周乎)


孔子のような人でさえ、自分の才能を生かす場を得ようとアクセクしていたのですね~。
孔子を非常に身近に感じることのできる節ではありますが、いままでの高邁なお口と整合しないようにも思えます。


論語(442)

2014-04-07 10:56:28 | 論語
割鶏焉用牛刀(陽貨第十七の4)

鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん

鶏肉をさばくのに、どうして牛刀を使うのでしょうか
(日本的に言えば、正宗で大根を切る、とでもいうのでしょうか、意味合いは「そんなおおげさなことをする必要はないでしょう」)


この節は、面白い表現がいくつか出てくるので、こまかく読む。

孔子が武城(たぶん、田舎)を歩いているとき、(国の政治に必要な)琴と歌(絃歌之声)が聞こえてきた。
それを聞いて孔子は、ニコニコ笑って(莞爾而笑、カンジトシテワラウ)、言いました。
「こんなおおげさなことをする必要はないでしょう(割鶏焉用牛刀)」
之を聞いて、弟子の子游が次のように言いました。
「昔、私、先生(孔子)に教えていただきました。それは次のようなことでした」
「まともな人間が道を学ぶと人間を愛するようになりますし、凡人がそれを学ぶと政治が安定します(君子学道則愛人、小人学道則易使也)」
これを聞いた孔子は次のようにしめた。
「偃(子游)の言ったことは正しい。私の前言はたわむれにすぎません(偃之言是也、前言戯之耳)」


孔子が弟子に一本取られたエピソードとして、この節が語られることが多い。

しかし、為政者が儒教を好んだ理由がかいまみえるように思うのです。

それは、「小人学道則易使也」(小人道を学べば使い易きなり)とうい言葉に端的に表れています。
道(儒教)を教育に使えば、人民は反抗しなくなりますよ、といいたいのではないでしょうか。



論語(441)

2014-04-04 09:17:15 | 論語
唯上知與下愚不移(陽貨第十七の3)

唯、上知と下愚は移らず

とびきりの賢者とどうしようもない愚者は、いかに学ぼうとも変わることはない。


ここで孔子が言いたいことは、「人間界には上知と下愚は存在しない」ではないかと想像します。

上知=神様ですから、これは人間界に存在するわけがありません。
では、下愚はどうか?もし、下愚が人間界に存在する、と解釈すると、最初から「おれは下愚だ」とあきらめてしまう人が出てくるはずです。

つまり、下愚の少々上にいる人間が、はるか上の上知を目指し、努力する必要性を強調している文、と解釈したいのです。

深読みしすぎかもしれませんが、つかまえどころのない茫漠とした文ではあります。


論語(440)

2014-04-03 11:03:14 | 論語
性相近也、習相遠也(陽貨第十七の2)


性(セイ)は相近きなり、習(ナラ)いは相遠きなり
人が生まれつき持っているものには、それほど差がない。生まれた後の学習で、人によって大きく差がつくものなのだよ。


超有名な節だ。
上の「読み」および「解釈」は、湯島聖堂/漢文検定/寺子屋編テキスト、に書かれているとおりとした。

であるからして、権威に弱い凡人がとやかく言えるわけがない。
がしかし、ヘソマガリを自認している人間としては一言言わしてください。

ジュウバコ読みは避けたほうがいいのでは、と言いたいのです。

・性(セイ)は相近きなり、習(シュウ)は相遠きなり
・性(ウマレツキ)は相近きなり、習(ナラワシ)は相遠きなり

「性」と「習」を音読みにするか、訓読みにするか。
下、つまり訓読みのほうが、心にすんあり浸みこむような気がしますが~~~~。いかがでしょうか。



論語(439)

2014-04-01 08:55:35 | 論語
諾、吾将仕矣(陽貨第十七の1)

諾、吾、将に仕えんとす

承りました。私もちょうど(あなたに)お仕えしようと決めたところです。


陽貨(魯の重臣)が孔子の才能を利用しようとし、会うことを画策したが、孔子は関心を示さなかった。
そこで、陽貨が豚を贈った。
孔子は、陽貨の留守をねらって、その礼をいいに出かけたのだが、(陽貨がたぶん待ち伏せしていて)つかまってしまった。

陽貨の説得内容が以下のとおり、
「宝を胸にもっているのに、国を乱れたままにしておくことは仁でしょうか?」
「政治にたずさわることを使命としているのに、その機会を避けることは智といえるでしょうか?」
「月日はすぎゆき、年齢は増すばかりではないですか」(「日月逝矣、歳不我與」)


これに対する孔子の答えが上。
孔子は陽貨のことを快く思っていなかった、とし、「そのうちお仕えします」とする解釈もあるようだ。
しかし、この文全体を読んで、そのような感想はもてない。むしろ、「三顧の礼」と同じ構図ではないか、と思う。
陽貨の本心を確認する手続きであったのではなかろうか、というのが、凡人の独断偏見です。

陽貨が決め台詞として使った言葉、「日月逝矣、歳不我與」(日月(ジツゲツ)逝(イ)けり、歳(トシ)我と與(トモ)なわず)、は一般によく知られている。

人生、やり残しはないか、この際だから見直そう。