水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

解説員連絡会(23)

2013-06-27 11:00:46 | 水車解説関連
6/13に開催された、標記連絡会(欠席)の議事録が郵送されてきた。

メモすべきは以下。

・ 7~9月の当番表。穴をあけぬよう、注意。
・ 昨年度の年間見学者数は5011人だったそうだ。これが、多いのか少ないのか、役所のようなところは検討することはないようだ。したがって、これを増やそうとする可能性も小さいわけで、それでいいのかどうか、クエスチョン。
・ 特別公開は11月2~4に決定。
・ 専用Tシャツをつくるらしい。1700円だそうだ。着用させてもらおう。

解説員として(145)

2013-06-26 19:59:43 | 解説員日記
今日は休館日なのだが、解説を引き受けた。

対応する相手は、テレビ取材(テレ朝、若大将のゆうゆう散歩)。

感想など

・ ことの進行が、ほぼ、あらかじめ市担当者から入力されたとおりで、とまどうことはなかった。
・ さすが加山雄三さんの番組。10人を超える大部隊であった。
・ 土砂降りの中、野川下流方向からいらっしゃっり、ここのあとは天文台だそうで、取材とはいえ大変だ。
・ 14:15頃到着(予定は13:30であった)し、見学時間は10分と指定された。
・ このため、数少ない機械遺産のひとつであることを特に強調する説明に努めた。
・ 例えば、水輪について、「ころび」とか「360/14のコサインが0.9であること」とか~~。
・ 「しんぐるま」の力学的なレベルの高さについて共感していただけたら、なんて不遜にも思いながら。
・ 11月はじめ開催予定の特別公開を強調しておいた。番組で言及していただけないものか。
・ 放映は9月はじめの予定だそうだ。追加撮影があるだろう、とのことであった。
・ 10分間の一発勝負だった。成功だったかどうか、ヒヤヒヤじゃ。

論語(325)

2013-06-25 11:50:15 | 論語
狂者進取、狷者有所不為也(子路第十三の21)

狂者は進みて取り、狷者(ケンシャ)は為さざる所あり

狂者=何事にも積極的に立ち向かう人
狷者=慎重な行動をとる人

と、解釈すると、上は次のような内容と読める。

積極的な人は、新しいことを吸収することが早く、消極的な人は一歩おくれがちである。


この節は、友人のタイプを示していて、孔子の言いたいことは次のようなことだろう、と思う。


よい友人としては、中行の(バランスのとれた)人が理想だが、一般には、狂狷どちらかです。
この両者には一長一短があるわけですから、それをわきまえて付き合いましょう。

論語(324)

2013-06-24 10:33:08 | 論語
斗筲之人、何足算也(子路第十三の20)

斗筲(トショウ)の人、何ぞ算(カゾ)うるに足らん

斗筲=一升マスと二升マス
斗筲之人=度量の小さい人

弟子の子貢が、「今の政治に従っている人々はどうでしょうか?」(今之従政者何如)、と聞いたときの孔子の答え。

つまらない人たちばかりで、とりあげるまでもない。


いつの時代も、お金を、持っているか動かせる、人や組織(最終的には政界)に人は群がる。そして、群がられた人や組織は、いとも簡単に勘違いして、オゴリタカブリ、こける。歴史はこの繰り返しだ。

孔子のように、超然としてはいたいのはやまやまだが、現実に生活していくうえで、それを守ることはなかなか難しい。


この節の、そもそもは、子貢が、「リーダーたりえる人のランク」(何如斯可謂之士矣)を孔子に聞いたことからはじまる。

1番:自分の行動に恥を知っていて、使者として恥ずかしくない行動がとれる人
2番:親孝行で組織内での年長者を大切にする人
3番:行動にまちがいがなく、信頼がおける人

この3番のことを、硜硜然小人也(コウコウゼンたる小人なり=コチコチのつまらない人)、とまで言っているから、孔子は、どんなに、行いが立派であっても、恥知らずや親不孝者は論外だ、と言っている、と解釈したい。


今日の教訓
儒教では、「恥知らず」と言われることを最も嫌う、らしい。



論語(323)

2013-06-21 09:00:05 | 論語
居處恭、執事敬、與人忠(子路第十三の19)

處に居ては恭しく、事を執りては敬い、人と與(クミ)しては忠なること

樊遅(バンチ)という弟子が、「仁」、の生き方を全うするためにはどうすればいいのでしょうかと、聞いたときの、孔子の答え。

自宅での生活は礼儀正しく、仕事に従事するときは関係者に敬意をはらい、人様との交流では誠意をもつこと。

たとえ異国に行ったとしても、この三点を忘れてはなりません(雖之夷狄、不可棄也)。


地位の高い人に接するときも、その逆の立場の場合でも、常に、正直に誠意をもって向かい合いなさい、ということなのだろう。
一時の感情に負けるわが身にとっては、至難です。



論語(322)

2013-06-20 11:21:42 | 論語
父為子隠、子為父隠、直在其中矣(子路第十三の18)

父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中にあり。

親子は互いにかばい合う存在である(ことが自然である)。正直さというのは、そのような(自然の)状態において育まれるべきものである。


葉公が、次のように言ったことに対する、孔子の答え。

「私の国に、ある正直者がいます。その若者は、父親が借りたものを返さないような(だらしのない)人なのですが、そのことを公にしちゃいました」

いやいや、それはちょっと違うでしょう、と孔子は、示したように言った。


まあ、そうですな。身内の不祥事に同調するのではなく、まずは、社会に迷惑かけぬようウチウチで解決をはからねばならぬ、と思います。しかし一方、万策尽きたら、公にして、社会に裁いてもらわねばならないことだってありうると思います。


今朝の、サッカー・イタリア戦を見て、ほっとしました。
ブラジル戦の無策さかげんとの見事な対比を見せてくれたからです。
今日の試合で、監督は、一年後に向けた準備に、自信を持ったのではないでしょうか。
類まれなる知将かもしれません。
次戦、それから続く強化試合に注目です。

論語(321)

2013-06-19 09:19:47 | 論語
毋欲速、毋欲小利(子路第十三の17)

速やかを欲すること無かれ、小利を欲すること無かれ


子夏が「政」にたずさわるということはどういうことでしょうか、と聞いたときの孔子の答え。

(なにごとも)事の成就を急いではいけません。また、小さな利益にこだわってはいけません。
(急げば急ぐほど目的達成は遠のきます。小利を得ることにこだわると、大事をなしとげることはできません)


毋=無。ナカレ、もしくはブと読む。「母」とは異なる。「毌」(カン)とも異なる。

いつのころからか、毋望(ブボウ)という熟語が、どういうわけか、頭から離れない漢字のひとつになっている。
意味は「望外」と同じ、と思っているが、使われ方の違いで微妙に異なるようだ。大字典によれば、次の通り。

毋望之世=人世禍福の常ならんをいう
毋望之禍=おもいがけなき禍
毋望之福=おもいがけなき福

毋望之人=急難あるとき、我より求めざるも、来りて救い呉る人

毋望之主=人主は寵幸恃(タノ)むべからざるをいう
この意味は、(他人、特に目上にあたる人に対し、自らの幸せにつながるようなことを依頼してはなりません)と読める。

論語(320)

2013-06-15 18:20:47 | 論語
近者説、遠者来(子路第十三の16)

近き者説(ヨロコ)び、遠き者来たる


葉公という人が、政治の要諦について聞いたときの、孔子の答え。

近くに暮らしている人々が喜び、遠くに暮らしている人々が寄ってくる(ような社会をつくること)。


某国の今はどうなのだろうか?

国別に比較すれば、大いに裕福な部類に入る国ではある。

しかし、人間という動物は満足することがないから、どのような社会になっても、不満タラタラの人はいなくならないのかもしれぬ。

一方確かに、外国から人はやってくるようになった。しかし、彼らが働きやすい社会であるとは言えないのだろう。

島国特有の閉鎖社会、と言ってしまえばそれまでだが~~~~、よくわからない。



論語(319)

2013-06-14 09:47:05 | 論語
如不善而莫之違也、不幾乎一言而喪邦乎(子路第十三の15)

もし不善にしてこれを違(タガ)えること莫(ナ)くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾(チカ)からずや

組織内部における自浄機能が機能しなければ、その邦(ここでは敢えて組織と認識する)は衰亡していく、と言い切っていいように思います。


では、組織を興隆させるために必要なことを一言でいえば~~~~。孔子はなんと言ったか?

如知為君之難也、不幾乎一言而興邦乎

もし君たることの難(カタ)きを知らば、一言にして邦を興こすに幾(チカ)からずや

組織のリーダーが、その組織を正常に運営するために彼の立場が決定的に作用するものである、と認識していれば、その組織は興隆していくでしょう。


以上、この節は、たまたまだが、このところの、伝統/人気スポーツ界の組織トップたちの唖然とする言動に対する言葉として受け取ることができる。

孔子が言っていることを煎じ詰めれば次、

・ 組織を興隆させようと思ったら、「すぐにテングになってしまう人」をトップに選んではいけません。
・ 組織を強固にしようと思ったら、トップ周辺をイエスマンばかりで固めてはいけません。

あたりまえか。



解説員として(144)

2013-06-13 21:04:17 | 解説員日記
今日の午後、解説当番であった。

朝から「土砂降りの雨」であるからして、見学者は、予想通りゼロ。
ところが、7小三年生約60名による、社会科見学が予定されていた。
これは、雨を理由に中止、と予想したが、見事にはずれ、おいでになった。

結論的には、市担当者、管理人および解説員のチームワークが気持ちよく機能し、無難に終わらすことができた、と思う。
がしかし、雨に加え、主として、以下に示す3点を原因として、大汗をかいた。

・ 総計約60名が、30人づつ二班に分かれ30分ずらして到着、との当初予定が全員同時到着に変更。
・ 14時到着の予定が実際は13:30到着。
・ 学校側が終了時刻(14:30)を守ることにこだわった。

今日の感想

・ 降雨時における、ここの社会科見学は無理ではないか?
・ 見学時間に余裕をもたせてほしい(施設内移動に要する団体小学生の時間を見過ごしがちだ)。
・ 受け入れ側内部における事前意見交換は極めて大切(個々の対応状況が想像できて、きょうはやりやすかった。感謝!)。
・ 子供さん方から出るさまざまな声に、はっとさせられることがある。今日もっとも気に入った声は、
  「おばあちゃんちの匂いがする!」。
  見学者から、つい、そんな声が出ざるをえないような施設であり続けさせることが、三鷹市としては大事かも。


論語(318)

2013-06-11 09:13:39 | 論語
如有政、雖不吾以、吾其与聞之(子路第十三の14)

もし政あれば、吾をもちいずといえども、吾之を与り聞かん

もし、(あなたが今日たずさわてきた業務が)政務であるならば、たとえそれを私にやらせることはないとしても、事前に私に話があってしかるべきです(私が聞いていないので、あなたがやってきた業務は政務ではありません)。


孔子の、強烈な自負心があらわれているように感じる。もっと言えば、弟子に対する上から目線が強すぎる。

この言に至るやりとりは以下のとおりだ。

仕事帰りの冉有を見て、孔子が言った。

「遅かったね。どうしたの?」(何晏也)
「政務に携わっていました」(有政)
「(そりゃないでしょう)単なる事務をしてきただけでしょう」(其事也)

そして上に続く。

事=本義、あらゆることを記述する職


冉有の心得違い、もしくは思い上がり、をたしなめたのであろうが、弟子にたいする思いやりのない、孔子らしくない言い方だと受け取った。間違いか?


論語(317)

2013-06-07 08:56:28 | 論語
苟正其身矣、於従政乎何有(子路第十三の13)

いやしくも其の身正しければ、政に従うに於いて何か有らん


「政」=人を鞭撻して、正道に導くこと。転じて、国家を治め人民を正す義。


自らの身を正しく律していれば、どのような組織も率いていけます。
その大小にかかわらず、組織を率いようとするなら、まず、自分自身を正しく律しなさい。

人間、さまざまなしがらみの中で生きているわけですから、時として、本意にそぐわない行動をたらねばならぬことがある。
しかし、リーダーを志す者は、決して正道からはずれるようなことをしてはならない。

という意でしょうか。



水車模型製作(7)

2013-06-05 08:36:28 | 模型制作
前回の記事を書いたのち、底板とか、ネガラミとか、通しぬきとかいう部分を付けていき、水輪本体の完成度を高めた。
結果は、その思いと著しくかけ離れ、示した写真のごとく、出来はよくない。

一時は、つぶそうか、とも思ったのだが、まだその決心がつかない。

とりあえず、水輪の手直しにとりかかるのはやめ、気分転換を兼ね、しばらく、周辺の造作物にとりかかろうと思っている。


しかし、昨日のサッカーはしびれました。いい試合でした。
ただ、ひとつ。点を入れられた直後のメンバー交代はどうだったのでしょうか?監督の手腕が疑われる一手だったと思います。
幸いにも、監督のウデをみるために絶好の試合が、これからいくつか続きます。どんな選手をどのように配置するか、楽しみです。
それにしても、テレビ中継のお祭り騒ぎは、考えものです。
そろそろ対戦相手の詳細な戦力分析をするメディアが出てもいいころではないか、と思うのです。
例えば昨夜の試合、最低でも、相手チームの選手の所属や活躍しているリーグぐらいは紹介してほしい。
いよいよサッカーのレベルがWカップ上位に位置するようになったのですから、メディアも、ミーちゃんハーちゃんではない人々にも受けいれてもらえるような放送を心がけてほしい、とつくづく思いました。

論語(316)

2013-06-03 10:39:18 | 論語
如有王者、必世而後仁(子路第十三の12)

もし王者有るとして、必ず世にして後、仁。

聖人のような立派な方(つまり王者)が国を支配しているとしましょう。その人による仁政がしかれるまでには、どんなに短くても30年かかります。


この節は、というか「この節も」なのだが、孔子の言は示した8文字のみで、彼が何を言いたいのか、さっぱりわからない。

「子路第十三の10」で孔子は、「自分が政治をまかされたら、三年でやり遂げてしまう」と、確か、言った。

それなのに、ここでは、(一般にいう)王者が仁政をしけるのは、位を得てから30年かかる、と言っている。


言外に、「三年でやりきることのできる、私(孔子)(=とんでもない聖人)にまかせてもらえなものか」と願望しているのでしょうか?
それとも、「どんな人が出てきても、この世仁政がしかれることはありえない」といいたいのでしょうか?


最近、論語の解釈の幅は大変広い、と感じるようになりました。(「ニブサ」かげんにもほどがある、と我ながらあきれています。)
論語の各節は、どうも、「どのようにでも解釈できる」のですが、孔子はむしろ「どのように解釈してもいい」と考えていたのではないでしょうか?

だから、論語を本当に勉強しようと思ったら、朱子、王陽明、あるいは、伊藤仁斎、荻生徂徠などの注釈書を熟読せねばならないのかもしれません。

いいかげんの直感で読んでいる今、自らの読み方がいけなかったと、恥じねばなりません。






論語(315)

2013-06-01 09:56:18 | 論語
善人為邦百年(子路第十三の11)

善人、邦を為(オサ)むる百年

中国古来の考えでは、政治の最終責任者は、天命を受けた者、すなわち聖人でなければならない。
が、そんな人間は、まず表れることはない。
そこで孔子は、行いの正しい人、すなわち善人、に政治を担わせることもありうる、と考えた。
ただし、その場合、最低でも百年はまかせるようにせねばならない。

そうすれば、残虐な行為や殺人行為を世の中から消すことができるでしょう(可以勝残去殺矣)。


最近、孔子という人は、かなりニヒルであったのではないか、と考えるようになった。

この節でいえば、言外に次のように言えるのではないか、とウラヨミするのだ。

・ 聖人がでてくることはほとんどありえない。
・ 善人が百年続いて政治に携わり切るることはない(必ず、どこかで悪人が現れる)。
・ したがって、「勝残去殺」(殺伐とした社会を一掃する)ことはできない。
・ 私(孔子)は偉そうなことを言っていますが、すべて與迷いごとです。まともにお読みにならないように!

なーんちゃって!