水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

歴史・文化財連続講座(3)

2007-02-25 12:22:00 | 水車解説関連
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 昨日、歴史・文化財連続講座の第三回があった。「三鷹の幕末と明治」というタイトルで、国学院大根岸教授による話だった。講師の勤勉さが滲み出て、奥行きのある、非常によい講義であった。
 話の内容は、吉野泰三(野崎名主)、宮川信吉(大沢農民、新撰組隊士)、近藤勇五郎(近藤勇養子)に関係した五点の文書を下敷きに、当時の社会情勢を、おおきく概観するもので、説得力のある内容となった。自分の今までの郷土史的理解についても、再考をしなければならない問題が出てきて、本当に楽しかった。
 今まで古文書読解に何回も挑戦し、挫折しているのだが、また挑戦したくなった。


民俗文化財水車経営農家の価値

2007-02-22 18:48:51 | 水車解説関連
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)
 
 屋号を新車(しんぐるま)と呼ぶ、東京都民俗文化財水車経営農家の新米ボランティア解説員なのだが、これに関われば関わるほど、その価値の高さがわかる。
今日、書いておきたいことの第一は、1810年頃から1970年ごろまで、ちょうど目覚しい技術革新が進展した期間、この農家の事業が継続されていたということ。つまり、江戸時代後期の、水車を動力源とした、木製の精米・精麦・製粉装置のみならず、今から40年前まで使われていた、電気を動力源とする、近現代の精米・精麦・製粉装置も一式そろっているのだ。それも、いつでも動かせる状態でだ。
 オランダのアムステルダム近郊で稼動中の風車/製粉工程を見学したことがある。その時、そこで働いている方から、伝統の伝承に命を掛ける、というか、使命感みたいなものを感じ取った。
 書いておきたいことの第二は、オランダで感じたことと同じことを、この新車(しんぐるま)で感じる、ということ。特に、この施設に大変な価値があることを、およそ20年も前に気づき、損得抜きで今日まで地道に保存活動を続けている、尊敬すべき方々に対して。
今の世の中、なんとなくささくれだっているが、新車(しんぐるま)に関わると、「まだまだ捨てたものではない」と思え、元気が出てくる。

解説員として(3)

2007-02-19 12:04:08 | 水車解説関連
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 昨日は3回目の解説担当日であった。都心はマラソンで大変だったらしい。こちらは多少寒かったが、のどかな半日であった。
 担当は午後であったのだが、昼過ぎまで雨が降ったため、午前中はほとんど来客が無かったようだ。午後は、それでも総計5組ほどの来客があった。担当したのは、中学生1人と中年カップル、計2組であった。中学生は宿題の題材選びにきたようで、河川改修にいたく興味を示した。こちらがしゃべりすぎたかもしれない。カップルの男性は、エンジニアのようで、木製歯車の複雑な組み合わせを見て、感嘆しきりであった。古代から近代までの歴史談義に花が咲いた。
 テレビ(ちい散歩)の放映があった、とか新聞(朝日)や週刊誌(文春)で紹介された、とか聞くと、陽気がよくなってからの人出が、楽しみなような怖いような。
 示した写真は、すぐ近くに設置された、1/2模型である。日に日に周辺整備が進捗し、気持ちがいい散歩道になりつつある。

歴史・文化財連続講座(2)

2007-02-18 10:57:01 | 水車解説関連
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 昨日、三鷹市生涯学習課主催の歴史・文化財連続講座第2回に参加した。参加者数は前回より少なかったが、それでも70人ぐらいいたであろうか。
 国立歴史民俗博物館教授上野氏による、近代水車農家の風景、というタイトルで、前半は二つの映像紹介、後半は、峰岸家(水車を保有していた)の歴史についての話だった。2002年に行った聞き取り調査の結果を中心にしたものだったので、なかなか聞きがいがあった。
 水車を動力源とした精米・精麦・製粉だけでは生活が苦しかったに違いない、と常々思っていたのだが、話を聞き、その考えをますます強くした。上野氏は多角経営という言葉で表現していたが。
 調布市、小平市、府中市などの郷土博物館にも水車があるが、いずれも復元物で、ここのような技術継承可能な状態の物は少ない。大切にする価値はある、と話はしめくくられた。
ボランティア解説員としてがんばろう。
 
 

三鷹台

2007-02-13 10:40:17 | 三鷹・歴史/地史
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 過日(2/4)の講義の際、ちょうだいした資料に示された小さな地形図の中に興味を引かれる事があった。それは、神田川上流井の頭池の南に、図の判例によれば、下末吉面と呼ばれる地形面があることだ。このことを、講師が市職員にたずね、たしか市職員は「三鷹台」と答えていた。
 小学生時代、そこらあたりに確かに周辺より小高い山があって、うっそうとしていた。この山の北側を玉川上水が流れ、その北に井の頭線三鷹台駅があった(今もあるが)。山の南側は、目黒川支流烏山川の源流域で、当時は水田が細長く南東に伸びていた。全体が、今いうところの里山風景だったのだ。夏場の、たのしい遠征遊び場だった。
この水田地帯は、昭和30年代の後半、中学生のころ、住宅公団三鷹台団地となった。
 ほんのちょっとしたことから、すぐに昔にさかのぼってしまう自分は、やはり、歳をとった、というべきなのだろう。哀しいかな。

三鷹市歴史・文化財連続講座

2007-02-05 10:00:20 | 水車解説関連
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 昨日は三鷹市生涯学習課主催の歴史・文化財連続講座第1回に参加した。法政大教授・馬場氏による「地誌に見る近世三鷹の風景」というタイトルの話だった。100人はいたかと思われる参加者の多さ、に驚いた。このような地味な話にこれほどの人が集まるとは、「なにか」に飢えている老人が、それほど多いということか。
 話の内容は、三鷹を構成した旧13村の概要(新編武蔵風土記稿から抽出)、井の頭池の文化・歴史概要を柱とするものであった。調べたい・掘り下げたい課題のヒントがいくつか得られた。
 しかし、プレゼンの方法はもう少し、なんとかならないか。貴重な古地図・絵図・写真の映像が小さく、よく見えないのだ。我々が見えないことを、知りながら、弁解しながら、長々としゃべるのはいただけない。パワーポイントに落として、スライドにすれば、よかったのに。聴講者に親切なプレゼンの準備を心がけねば、せっかくの企画も台無しだ。もちろん、講演者だけに責任を押し付けるつもりはないのだが。
 

山本有三

2007-02-02 10:13:19 | 三鷹・文学
(三鷹市にある、民俗文化財水車経営農家、の概要については平成18年10月2日からの20回で説明した。これからは、多少視野を広げ、折々に興味の引かれる問題について記述する.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 最近、図書館でなにげなく手にした細川日記(中公文庫、細川護貞)がとても面白かった。戦中・戦後の権力中枢に群がる人心の裏が読めたような気がしたのだ。それはともかく、文中に山本有三の名が頻発しているのが意外だった。ちょうど近衛文麿の伝記を制作中だったため、細川との接触が多かったらしい。戦後の政界での彼の活躍は、このあたりが起因していたのか、と納得した。
 再度それはともかく、山本有三は三鷹に住んでいた。今その住居は記念館として公開されている。小学生のころ、すでに有三はここに住んでいず、一階は子供図書館になっていた。父に「路傍の石」を読め、と言われたことが、ここに来るきっかけであった。その後何回も通って、「米百表」は読まなかったが、いろいろな本を楽しんだ。
 現在は、玉川上水沿いの散歩途中に施設全体を外から眺めるだけだが、丁寧な保存管理がなされていることがうかがえ、安心するとともに、本を満足に買えなかった時代をほろ苦くなつかしんでいる。