見義不為、無勇也(為政第二の24)
義を見て為さざるは、勇無き也
誰でも知っている、有名な言葉だ。
人として歩むべき正しい道、に進まないことは、勇気がなく臆病なことだ、の意と解釈する。
この語の前段、つまり、「非其鬼而祭之、諂也」(無関係な人の葬祭をおこなうことは諂(ヘツライ)である)とあわせて読むと、
孔子のいう義=人として歩むべき正しい道=一族の祖先に関する葬祭をおこなうこと、ではないかと思える。
儒教の教えが行き届いた地方、例えば韓国・朝鮮では、同族の結束が極めて強い、と聞くが、「義」の定義は本来狭いのかもしれない。
しかししかし、やはり、この場合、「義」を「浩然の気」(道義に基づいて行動し、自らがかえりみて心に恥じる所なく、屈せずたゆまざる強きたけき徳。道徳的勇気(大字典))と解釈したい。
今、未曾有の大災害を受け、日本の至るところで、たくさんの、義を見て為す勇気、が発露されている。
必ず、復興する!
義を見て為さざるは、勇無き也
誰でも知っている、有名な言葉だ。
人として歩むべき正しい道、に進まないことは、勇気がなく臆病なことだ、の意と解釈する。
この語の前段、つまり、「非其鬼而祭之、諂也」(無関係な人の葬祭をおこなうことは諂(ヘツライ)である)とあわせて読むと、
孔子のいう義=人として歩むべき正しい道=一族の祖先に関する葬祭をおこなうこと、ではないかと思える。
儒教の教えが行き届いた地方、例えば韓国・朝鮮では、同族の結束が極めて強い、と聞くが、「義」の定義は本来狭いのかもしれない。
しかししかし、やはり、この場合、「義」を「浩然の気」(道義に基づいて行動し、自らがかえりみて心に恥じる所なく、屈せずたゆまざる強きたけき徳。道徳的勇気(大字典))と解釈したい。
今、未曾有の大災害を受け、日本の至るところで、たくさんの、義を見て為す勇気、が発露されている。
必ず、復興する!