富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「エゼキエルの召命と幻視体験」 エゼキエル書1章1-28節

2014-08-16 12:10:48 | 礼拝説教

          ↑ バビロンに捕囚されたイスラエルの民の行程(創元社発行聖書大百科より)

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12                                TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

     日本キリスト教 富谷教会 週報

聖霊降臨節第十一主日   2014年8月17日(日) 5時~5時50分 

礼   拝    

             司会 永井 慎一兄

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)  

交読詩編   86(主よ、わたしに耳を傾け) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   エゼキエル書1章1~28節

説 教 「エゼキエルの召命と幻視体験」     辺見宗邦牧師

賛美歌(21)529(主よ、わが身をとらたまえ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 8月24日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分

 説教題   「燃える炉に投げ込まれて無事だった三人」

 聖 書   ダニエル書3章8~30節

 交読詩篇 51  讃美歌(21) 528 535  24

      本日の聖書 

1第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。2それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。3カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。

4わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。5またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。6それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。7脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。8また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。9翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。10その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。11顔はそのようになっていた。翼は上に向かって広げられ、二つは互いに触れ合い、ほかの二つは体を覆っていた。12それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。13生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。14そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。

15わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。16それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。17それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。18車輪の外枠は高く、恐ろしかった。車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目がつけられていた。19生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も引き上げられた。20それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。21生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。また、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。

22生き物の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあった。それは生き物の頭上に高く広がっていた。23大空の下では、生き物の一対の翼がまっすぐに伸びて互いに触れ合い、他の一対の翼が体を覆っていた。すなわち、それぞれの一対の翼が彼らの体を覆っていた。24それらが移動するとき、翼の羽ばたく音をわたしは聞いたが、それは大水の音のように、全能なる神の御声のように聞こえ、また、陣営のどよめきのようにも聞こえた。それらが止まっているとき、翼は垂れていた。25生き物の頭上にある大空から音が響いた。それらが止まっているとき、翼は垂れていた。

26生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。27腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。28周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。

           本日の説教

  エゼキエルは紀元前6世紀頃、エレミヤとほぼ同時代にバビロニアの捕囚地で活躍した予言者です。エゼキエルは、エレミヤと同じく、エルサレムの出身の祭司で、祭司ブジの子です。   バビロニア王ネブガドネツァルの侵略により、紀元前597年に、ユダの王ヨヤキンと共に、エゼキエルは、第一次の捕囚民として、バビロンに移住させられました。 一方エルサレムでは、ヨヤキンの弟ゼデキヤが新たな傀儡(かいらい)のユダの王とされました。

   「第三十年の四月五日のことである。」という1章1節の書き出しの「三十年」は、エゼキエルの書き記した日付で、ヨヤキン王の捕囚の第三十年(紀元前568年)のことと解されます。ヨヤキン王の捕囚を起点とする日付は、エゼキエル書中14か所あります(例、8:1、20:1、24:1など)。

 ヨヤキン王の誕生の年を起点として「四十年」とする説がありますが、ヨヤキンは18歳のときに捕囚にあっているので(列王記下24:8)、ヨヤキンが捕囚となって第五年後の年齢は、23歳くらいであり、第三十年はヨヤキンの年齢とは合致しません。エゼキエルの誕生年とする説もあります。

 捕囚の第5年(B.C.593年)、エゼキエルは、バビロニア(カルデヤの地)南東部に流れるケバル川の河畔で神の顕現に接し、預言者として召命を受けました。ユダ王国は、滅亡寸前の最後の王ゼデキヤの時代です。故国のエルサレムが陥落(B.C.587)する16年前のことです。バビロン捕囚は、597年、587年、583年の3回行われ、合計4600人(エレミヤ記52:28)が強制連行させられました。エゼキエルはこの捕囚民に対して、紀元前593年頃から573頃まで、少なくとも20年間、預言活動をしました。彼には妻がいましたが、捕囚地で亡くなりました(24:18)。ぺルシア王キュロスの勅令により、捕囚民は紀元前538年の解放されるので、捕囚の期間は最初の捕囚の時から数えると60年ほどになります。

  エゼキエルが神の顕現に接したケバル川は、現在のイラクの首都バグダットから南へ90㌔のところにあるニップルという町を貫いて流れる、ユーフラテス川から引かれた運河です。このケバル(大いなるの意)川のほとりにいたとき、天が開けて、神の幻を見たのです。

 

    エゼキエルは、主の王座を守る奇妙な四つの顔、四つの翼を持つ、四つの生き物-のちにケルビムとされるーを見ます。それらの生き物が動かす車輪の付いた乗り物の幻を見ます。それらは向きを変えずに自由にどの方向にも移動できます。この乗り物に王座が運ばれているため、主はどこにでも移動することができます。それらが動く時、嵐のような風と、地震のような音、全能の神の御声のように聞こえます。その動力は<霊>です。この四つの生き物の顔は、人間、ライオン、雄牛、鷲です。神に仕える人獣混合のような生き物(天使)です。

   エゼキエルは王座に、主らしき姿を見るのですが、「主のように見える」と言うように、直接に神を見たのではないのです。主は超越的な存在であり、死すべき人の目で見ることはできません。彼が目撃したのは、主なる神の栄光であり、その玉座です。エゼキエルは世界に遍在する全能の神、永遠なる方の御前に立たされたのです。

   エゼキエルはこの生き物の上にいますかたの栄光の姿を拝し、ひれ伏しました。この奇怪な幻視体験の記述は、人間のことばでは語ることができない神の尊厳と崇高さであり、バビロンという異国において、イスラエルの神のご臨在に驚いた表現なのです。そのとき、彼に語りかける神の声を彼は聞きました。これがエゼキエル書第1章に記されたエゼキエルの召命を受けた時の神顕現の物語です。

   2章1節から3章の11節は、預言者の召命と派遣にかかわる記事です。エゼキエルに語りかける声は、「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」と言われ、すると、神の<霊>が彼の中に入り、彼を自分の足で立たせました。主なる神は、「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす」と、彼に語りかけました。エゼキエルは、この反逆の家であるユダの人々に、しかも彼らは神の言葉を聞き入れないと神が言われている民に、御言葉を語ることを命じられたのす。

  エゼキエルが、南ユダの人々に拒まれるのを恐れて、彼らに主の言葉を語らないということがないように、主は巻物を食べなさいと、繰り返して(2:8、3:1)、命じたのです。「食べよ」と命じられた<巻物>は、神の言葉を具体化したものです。<食べなさい>とは、神の言葉を受けて、それを心に聞くだけでなく、聞いたことが身に付き、血となり肉となり、自分のものとすることが求められているのです。「御言葉」を食べるという表現はエレミヤ書(15:16、17節)にもあります。エレミヤもまた、民の拒絶にあって苦しんでいる時、主の言葉を食べ、心は喜びに躍るということを経験しました。

   「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は躍りました。」とあります。巻物は、表にも裏にも文字が書いてあって、しかも、<哀歌、呻き、嘆き>の文字にうめつくされていました。哀歌と呻きと、嘆きの言葉で満ちた神の裁きの御言葉です。これはユダ民族の悲哀を記しているのではりません。それは民族に対する神の審(さば)きの言葉に満たされていたのです。これはイスラエルに対する神の審判のことばであり、神の審きのかげには、神ご自身の悲しみと、嘆きと、呻きがかこめられているのです。イスラエルのための悲しみと、嘆きと、呻きの言葉は、イスラエルに対する神の愛によるものです。

  「わたしが口を開くと、主はこの巻物を食べさせて言われたとあるように、御言葉は神から食べさせて頂かねばなりません。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹に満たせ。」と主は言われました。ところが、どうでしょうか、それを食べてみると、それは蜜のように甘かったというのです。その巻物の内容自体は、エルサレムに対する裁きに関するもので苦いものでしたが、エゼキエルが神の言葉を受け入れた時、御言葉は素晴らしく甘かったというのです。詩編に、神の御言葉は、「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い(詩編19:11)とあります。また、「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう」(詩編119:103)とあります。

  エゼキエルの語るべき主の言葉は、エルサレム神殿とユダ王国の徹底的な破滅と苦しみの預言でしたが、その裁きの言葉は信じて受け入れると蜜のように甘かったというのは、そこには新しい希望があふれているからです。何故ならば神の怒りの背後には神の愛があるからです。神は滅ぼすためではなく、救うために裁きの預言をさせるのです。               18章31節にはこのように記されています。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。』と主なる神は言われる。」とあります。イスラエルのだれの死をも喜ばない、生きて欲しい。それが神様の本当の思いなのです。

   エゼキエルは、南ユダ王国の滅亡を預言するために召され、派遣されるのです。エゼキエルは、イスラエルの歴史上、最も悲惨な事件と言われるバビロン捕囚、すなわちエルサレムの陥落を経験しました。エゼキエルは、バビロンの北方約300㌔の「テル・アビブ(洪水の丘)」(エゼキエル3:15)に住み、捕囚の民の中にあって、少なくとも20年間、預言活動をしました。彼はパレスチナ以外の異教の地で活動した最初の預言者です。その後に、ダニエルや、第二イザヤが続きます。

   当時バビロニアの各地の捕囚地に散らばっていたユダの民は、故国を追われた失意と無力感、深い絶望の中に陥っていました。人々の中には、主なる神への敬虔な信仰を捨て、バビロニアの異邦の風習に同調する人々も出てきました。また、ある人々はエルサレムの滅びを受け入れる事ができず、すぐにでも故郷に帰還することが出来るという偽りの預言を信じる人達もいました。

  このような状況の中で、エゼキエルは、捕囚の民に、なぜユダ王国が滅び、エルサレム神殿が破壊されることになるのか、その理由は、彼らが異邦の神を礼拝し、偶像の神々に仕え、主なる神の神殿の名に値いしない、穢れたことばかりを行っている事によるのだと告げたのです。エゼキエルの使命は、ユダ王国の罪を責め、エルサレムの滅びは避けられないことを語り伝えると共に、新しく回復された約束の民による復興を予言し、イスラエル民族の回復、神の約束による希望を与えることにあったのです。

   エゼキエル書24章までは、来るべきエルサレムの破滅に関する裁きがくりかえされて語られます。また、25章~32章には、諸外国に関する裁きの託宣が語られます。偶像崇拝者たちに対する神の痛烈な怒りが語られます。 

 エゼキエル書の33章からは、イスラエルの復興に焦点が当てられます。エルサレムの神殿は破壊され、都が完全に陥落した後の預言です。先ず「見張り」というエゼキエルの第二の使命が語られます。エゼキエルは捕囚の民に回復を預言しました。 

 34章では、捕囚の責任は堕落した牧者、つまり民を迷わせたユダの支配者たちにある。それゆえ神が良い牧者となり、捕囚の民を連れ戻し、民が平和に暮らせるようにする、とエゼキエルは預言しました。

  36章では、神は、捕囚の民の石のような頑なな心を取り除き聖霊の豊かな働きによる新しい柔らかな心を与えると約束したのです。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える(36:26)。」

  37章では枯れた骨の復活を予言します。この幻はイスラエル再生の象徴です。

 40章から48章までは、エゼキエルがエルサレムに戻る幻を見て、理想の神殿を見て回ります。神殿が破壊されてから14年目の紀元前573年の時です。主の栄光が神殿に戻り、二度と再び離れないと主は約束するのを目撃するのです。イスラエルの民は、各部族に嗣業の土地が割り与えられる、と主の言葉を伝えます。神が民の罪を清めた後に、来るべき主の民の偉大なる未来が語られます。

   エゼキエルを通して語られた予言、石のような心を取り除いて聖霊が豊かに働く柔らかい心が与えられ、枯れた骨が復活する預言は、私たちにも向けられています。神は救い主イエス・キリストを下さったことによって実現しました。主イエスは十字架の死と復活により、わたしたちの罪を赦し、神の子として下さり、天の父よと呼ぶ聖霊を与えて下さり、天の御国に行く復活の希望を与えてくださいました。それゆえ、わたしたちは救われて、信仰を持ち、永遠の生命の道を日々感謝のうちに歩むことができるのです。

 

 

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