↑ ハインリヒ・ホフマン(ドイツの画家)『キリストと金持ちの青年貴族』(1889年)
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
受難節第6主日 2021年3月28日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(旧) 130(よろこべや、たたえよや)
交読詩編 118(恵み深い主に感謝せよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)マルコによる福音書10章17-31節(新p.81)
説 教 「あなたに欠けている一つのもの」辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 311(血しおしたたる)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 4月4日(日)午後5時~5時50分
聖 書 ヨハネによる福音書20章1-31
説教題 「主イエスの復活の朝と夕」
讃美歌(21)325 327 27 交読詩編 30篇
本日の聖書 マルコによる福音書10章17-31節
10:17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
本日の説教
イエスが受難の旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて、イエスに尋ねました。ある人とは、「財産を持っていた金持ちです。マタイはこの人を「金持ちの青年」であったと言い(19:16-30)、ルカは「金持ちの議員」であったといっています(ルカ18:16-30)。
彼の行動には教えていただきたいという熱心さとイエスに対する尊敬とが表れており、謙遜な真面目な人物であることがわかります。
彼は尊敬の思いをこめて、イエスを「善い先生」と呼び、「永遠の命を継ぐには、何をすればよいでしょうか」と質問しました。「永遠の命を継ぐ」とは、「神の国に入る」と同じ意味です。彼は金では得られない永遠の命を求めてやって来たのです。「何をすればよいでしょうか」という彼の質問は、永遠の命を人間の良い行いによって獲得できると思っているのです。永遠の命は神から恵みとして与えられるものです。人間の努力によって得られるものではありません。イエスは、子供のように、天の父にひたすらに依存する者でなければ、決して天国に入ることはできない」と教えています(マルコ10:13-15)。
イエスは彼の純粋さ、熱意、真剣さを認めつつも、イエスをメシアと認めず、律法の教師と考えてている彼に、「なぜ、わたしを<善い>先生と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われました。人間的な知恵や努力で、救いを得ようとする彼の思いを否定し、彼の思いを唯一の「善い」の源であり、基準である神に向けられたのです。パウロが言うように、神の前に「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)のです。ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」のです。イエスは、このような人間を罪をあがなうために、神から遣わされた神の子であり、今、受難の旅に出ようとされているのです。
イエスは、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という彼の問に答えます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ、と言われました。十戒の後半の人間相互に関する六つの掟を挙げたのです(出エジプト20:17)。マタイ福音書では、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)を付け加えています。
すると彼は、<善い>という言葉を使わず、「先生」と呼び、「これらの戒めは子供の時から守ってきました」と言いました。当時の律法が学者たちは、十戒の深い意味を理解せず、人間は神の律法を完全に守る能力を持っていると確信していました。彼も同じように考え、幼い頃から律法を義務としてみな守り、真面目に生きてきたのです。
イエスはこのような律法の理解を正すため、山上の説教で、「殺すな」を「腹を立ててはならない」に、「姦淫するな」を「みだらな思いで他人の妻をみるな」に、「偽証するな」を「いっさい誓ってはならない」に代えて教えました。人間が十戒を完全に実行することは不可能なことが分かり、その結果罪からの解放を求め、イエスによる救いにあずからなければならないのです。
イエスは善良な彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と言われました。イエスは律法の徹底的要求をしました。彼が自己の限界に突き当たり、永遠の命は神からの賜物として与えられることが分かり、善行、業績、財産などへのこだわりから解放され、律法によって善行を積むのでなく、神に依り頼む者となることを期待しました。「天に宝を積むことになる」は、自己の存在の根拠を天(神)に求め、神を中心に生きることを意味します。それは、人間の宗教的・道徳的功績によって神の救いを求めることではありません。イエスは、彼に「それからわたしに従いなさい」と言われました。イエスに従うとは、イエスのみを信じ、イエスにのみ自分の全てを委ねて生きることです。また、イエスだけを自分の生きる拠り所とすることです。そしてそれ以外に頼らない生き方です。「イエスを通らなければ、だれも父のもとに行くことができないからです(ヨハネ14:5)。
しかし彼はイエスの言葉を自分の従来の考え方でとらえてもう一つの善行の要求としか理解できなかったのです。彼は、神と富とに仕えることができないという現実に尽き当たったのです。彼はイエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去らなけれなりませんした。彼はたくさんの財産を持っていたからです。
イエスの弟子となるために富の放棄が必要な人もあるが、イエスはすべての人に対して財産を捨てよとは言いません。金持ちザアカイの場合もそうでした。ザアカイはすべての財産を神の御心に適うように用いることを、イエスの前で決意しました(ルカ19:1-10)。
しかし、私たちはこの人を笑うことはできません。彼ほど財産はないかも知れませんが、そのかわりに、何か他の捨てなければならないものを持っているのです。私たちも、これだけはゆずれないというものを持っているのではないでしょうか。信仰を持っていると言いながら、何かを捨て切れないでいるのです。それは、ある人にとっては社会的な地位であったり、他の人にとっては学歴であったり、します。人からの名誉や称賛も大きな誘惑です。人から良く言われたい、思われたいという傾向は強いものです。
しかし、イエスがここで求めておられることは、この世の富や財産だけではなく、今、自分を一番占めているものを捨てることです。なぜなら、それが私たちを主イエスから遠ざけ、従うことを妨げるからです。
主イエスは言われます、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか」。(マタイ16:24-26)
イエスは弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と。信仰とは神の愛を信じ、神により頼むことです。しかし大きな富を所有すると、人はしばしばその富に眼を奪われ、その心はすっかり地上の富に捕らえられてしまいます。信仰にとって必要なのは、神以外のこの世の富や力に対する依頼心をまずきれいに捨て去ることです。しかし、それはむずかしいことです。なぜなら富む者は富が自己の存在を保証するかのごとくの錯覚し、ますます富に執着するからです。
弟子たちは、イエスのこの言葉を聞いて驚きました。イエスはさらに言葉を続けて、「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。それは不可能に近いということです。
弟子たちはますます驚きます。「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言いました。もしも、救われるために自分の最も大切なものを捨てて、イエスに従わなければならないのなら、私たちは救われることができません。自分が頼りにしてきたものを手離すことは口で言うほどやさしくないからです。
イエスは彼らを見つめて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われました。人間は、この世のさまざまなものに執着しているが、自分の力でそれを断ち切ることが出来ません。イエスは弟子たちに、人間の力では全てを捨ててイエスに従うなどということはできないのだ、ということを教えておられるのです。それができるとすれば、それも神がなさせてくださるのです。永遠の命も、神の国に入ることも、救われることも、全て神が賜物として、恵みとして与えて下さるのです。
救いは神の恵みの業であることを今イエスから教えられたばかりであるのに、ペトロは、イエスのもとから立ち去った金持ちと比較して、自分たちが何もかも捨てて、イエスに従ったことを誇らしげに語りました。
しかし、イエスはそのようなことを問題にすることなく、イエスのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は百倍もの報いを受ける、と約束します。家、家族、畑は、この世における生活に幸福をもたらす基本的なものです。これを捨てることの困難さは、金持ちが資産を捨てる以上かもしれません。しかし、神の助けによって、それをなし得たものは、迫害も受けるが、それよりもはるかに多くの恵みを、すでにこの世で受けることができるというのです。もちろん、きたるべき世においても受けるとイエスは言われました。神の祝福はすでにこの世において始まっているというのです。
しかし、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われました。先にいる弟子たちがすべてを捨てたことは、いつまでも信仰を保つための保証とはなりません。それに反し、現在は神に見捨てられているように見える人も、将来は神の恵みにより、神の国に入ることがあるのです。イエスは先にいる弟子たちに警告します。