富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「あなたに欠けているものが一つある。」 マルコによる福音書10章17-22節

2021-03-28 01:38:08 | キリスト教

                     ハインリヒ・ホフマン(ドイツの画家)『キリストと金持ちの青年貴族』(1889年)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

受難節第6主日  2021年3月28日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

      礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(旧) 130(よろこべや、たたえよや)

交読詩編  118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マルコによる福音書10章17-31節(新p.81)

説  教 「あなたに欠けている一つのもの」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                        

讃美歌(21) 311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                  次週礼拝  4月4日(日)午後5時~5時50分    

                  聖 書  ヨハネによる福音書20章1-31

                  説教題  「主イエスの復活の朝と夕」

                  讃美歌(21)325 327 27 交読詩編 30篇   

本日の聖書 マルコによる福音書10章17-31節

 10:17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

    本日の説教

イエスが受難の旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて、イエスに尋ねました。ある人とは、「財産を持っていた金持ちです。マタイはこの人を「金持ちの青年」であったと言い(19:16-30)、ルカは「金持ちの議員」であったといっています(ルカ18:16-30)。

彼の行動には教えていただきたいという熱心さとイエスに対する尊敬とが表れており、謙遜な真面目な人物であることがわかります。

彼は尊敬の思いをこめて、イエスを「善い先生」と呼び、「永遠の命を継ぐには、何をすればよいでしょうか」と質問しました。「永遠の命を継ぐ」とは、「神の国に入る」と同じ意味です。彼は金では得られない永遠の命を求めてやって来たのです。「何をすればよいでしょうか」という彼の質問は、永遠の命を人間の良い行いによって獲得できると思っているのです。永遠の命は神から恵みとして与えられるものです。人間の努力によって得られるものではありません。イエスは、子供のように、天の父にひたすらに依存する者でなければ、決して天国に入ることはできない」と教えています(マルコ10:13-15)。  

 イエスは彼の純粋さ、熱意、真剣さを認めつつも、イエスをメシアと認めず、律法の教師と考えてている彼に、「なぜ、わたしを<善い>先生と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われました。人間的な知恵や努力で、救いを得ようとする彼の思いを否定し、彼の思いを唯一の「善い」の源であり、基準である神に向けられたのです。パウロが言うように、神の前に「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)のです。ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」のです。イエスは、このような人間を罪をあがなうために、神から遣わされた神の子であり、今、受難の旅に出ようとされているのです。

イエスは、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という彼の問に答えます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ、と言われました。十戒の後半の人間相互に関する六つの掟を挙げたのです(出エジプト20:17)。マタイ福音書では、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)を付け加えています。

すると彼は、<善い>という言葉を使わず、「先生」と呼び、「これらの戒めは子供の時から守ってきました」と言いました。当時の律法が学者たちは、十戒の深い意味を理解せず、人間は神の律法を完全に守る能力を持っていると確信していました。彼も同じように考え、幼い頃から律法を義務としてみな守り、真面目に生きてきたのです。

イエスはこのような律法の理解を正すため、山上の説教で、「殺すな」を「腹を立ててはならない」に、「姦淫するな」を「みだらな思いで他人の妻をみるな」に、「偽証するな」を「いっさい誓ってはならない」に代えて教えました。人間が十戒を完全に実行することは不可能なことが分かり、その結果罪からの解放を求め、イエスによる救いにあずからなければならないのです。

 イエスは善良な彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と言われました。イエスは律法の徹底的要求をしました。彼が自己の限界に突き当たり、永遠の命は神からの賜物として与えられることが分かり、善行、業績、財産などへのこだわりから解放され、律法によって善行を積むのでなく、神に依り頼む者となることを期待しました。「天に宝を積むことになる」は、自己の存在の根拠を天(神)に求め、神を中心に生きることを意味します。それは、人間の宗教的・道徳的功績によって神の救いを求めることではありません。イエスは、彼に「それからわたしに従いなさい」と言われました。イエスに従うとは、イエスのみを信じ、イエスにのみ自分の全てを委ねて生きることです。また、イエスだけを自分の生きる拠り所とすることです。そしてそれ以外に頼らない生き方です。「イエスを通らなければ、だれも父のもとに行くことができないからです(ヨハネ14:5)。

 しかし彼はイエスの言葉を自分の従来の考え方でとらえてもう一つの善行の要求としか理解できなかったのです。彼は、神と富とに仕えることができないという現実に尽き当たったのです。彼はイエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去らなけれなりませんした。彼はたくさんの財産を持っていたからです。

イエスの弟子となるために富の放棄が必要な人もあるが、イエスはすべての人に対して財産を捨てよとは言いません。金持ちザアカイの場合もそうでした。ザアカイはすべての財産を神の御心に適うように用いることを、イエスの前で決意しました(ルカ19:1-10)。

しかし、私たちはこの人を笑うことはできません。彼ほど財産はないかも知れませんが、そのかわりに、何か他の捨てなければならないものを持っているのです。私たちも、これだけはゆずれないというものを持っているのではないでしょうか。信仰を持っていると言いながら、何かを捨て切れないでいるのです。それは、ある人にとっては社会的な地位であったり、他の人にとっては学歴であったり、します。人からの名誉や称賛も大きな誘惑です。人から良く言われたい、思われたいという傾向は強いものです。

 しかし、イエスがここで求めておられることは、この世の富や財産だけではなく、今、自分を一番占めているものを捨てることです。なぜなら、それが私たちを主イエスから遠ざけ、従うことを妨げるからです。

主イエスは言われます、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか」。(マタイ16:24-26)

イエスは弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と。信仰とは神の愛を信じ、神により頼むことです。しかし大きな富を所有すると、人はしばしばその富に眼を奪われ、その心はすっかり地上の富に捕らえられてしまいます。信仰にとって必要なのは、神以外のこの世の富や力に対する依頼心をまずきれいに捨て去ることです。しかし、それはむずかしいことです。なぜなら富む者は富が自己の存在を保証するかのごとくの錯覚し、ますます富に執着するからです。

 弟子たちは、イエスのこの言葉を聞いて驚きました。イエスはさらに言葉を続けて、「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。それは不可能に近いということです。

弟子たちはますます驚きます。「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言いました。もしも、救われるために自分の最も大切なものを捨てて、イエスに従わなければならないのなら、私たちは救われることができません。自分が頼りにしてきたものを手離すことは口で言うほどやさしくないからです。

イエスは彼らを見つめて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われました。人間は、この世のさまざまなものに執着しているが、自分の力でそれを断ち切ることが出来ません。イエスは弟子たちに、人間の力では全てを捨ててイエスに従うなどということはできないのだ、ということを教えておられるのです。それができるとすれば、それも神がなさせてくださるのです。永遠の命も、神の国に入ることも、救われることも、全て神が賜物として、恵みとして与えて下さるのです。

救いは神の恵みの業であることを今イエスから教えられたばかりであるのに、ペトロは、イエスのもとから立ち去った金持ちと比較して、自分たちが何もかも捨てて、イエスに従ったことを誇らしげに語りました。

 しかし、イエスはそのようなことを問題にすることなく、イエスのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は百倍もの報いを受ける、と約束します。家、家族、畑は、この世における生活に幸福をもたらす基本的なものです。これを捨てることの困難さは、金持ちが資産を捨てる以上かもしれません。しかし、神の助けによって、それをなし得たものは、迫害も受けるが、それよりもはるかに多くの恵みを、すでにこの世で受けることができるというのです。もちろん、きたるべき世においても受けるとイエスは言われました。神の祝福はすでにこの世において始まっているというのです。

しかし、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われました。先にいる弟子たちがすべてを捨てたことは、いつまでも信仰を保つための保証とはなりません。それに反し、現在は神に見捨てられているように見える人も、将来は神の恵みにより、神の国に入ることがあるのです。イエスは先にいる弟子たちに警告します。

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「盲人バルティマイの信仰」と癒し」 マルコによる福音書10章46-52

2021-03-21 00:20:17 | キリスト教

                           ↑              Jesus! Son of David! Have mercy on me.

                                      Jesus said, What do you want me to do for you?

                                                                               Master! Let me receive my sight.

                                     Go your way, your faith has made you well.

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週 報

受難節第5主日  2021年3月21日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                 礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

交読詩編   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マルコによる福音書10章46-52(新p.83)

説  教  「盲人バルティマイの癒しと信仰」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                         

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 522(キリストにはかえられません)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                          次週礼拝  3月28日(日)午後5時~5時50分    

                                                          聖 書  マルコによる福音書10章17-22節

                                                          説教題  「あなたに足りないこと」

                                                          讃美歌(21) 299 311 27 交読詩篇 118篇1-29   

本日の聖書 マルコによる福音書10章46-52

 10:46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。 47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。 51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

   本日の説教

エリコの町での、イエスによる盲人の癒しは、三つの福音書に記されています。マタイ20章29-34節、ルカ18章25-43節、そしてマルコ10章46-52節です。しかし、バルティマイという盲人の名を記しているのはマルコによる福音書だけです。エリコの町に近づいたときの出来事なのか、町を去るときなのか、町を出たときなのか、は、それぞれの福音書によって異なります。マタイでは二人の盲人が癒されています。

マタイでは、盲人が、「イエスがお通りと聞いて」叫んだとあり、ルカでは「ナザレのイエスだと聞くと」とありますが、ルカでは、「群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると」、叫んだ、状況をくわしく記しています。

また、イエスによる癒し方も、マタイでは「イエスが深く憐れんで、その目に触れて」とあり、ルカでは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言っており、マルコでは、「あなたの信仰があなたを救った」とだけしか言っていません。

見えるようになった盲人が、イエスに従ったと三福音書は共通して記していますが、ルカ福音書では、さらにくわしく、「神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」と記しています。

 福音書記者の用いた資料の相違が、記述の相違になったと思われますが、比較しながら読むと、より補完された物語として読むことができます。

「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。」(10:46)

イエスの一行は、ガリラヤのカファルナウムを去ってユダヤ地方とペレヤ地方へ行きました(10:1)。一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれました(10:32)。それを見て弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた、とあります。受難の地エルサレムへ決然と向かうイエスの姿は弟子たちの不安をもたらしました。イエスは、三度目の自分の死と復活を予告しました。

イエスの受難の日が近づいているにもかかわらず、自分たちの高い地位を求めることにしか関心を示さない弟子たちに、イエスは「仕えること」を教えました(10:35-45)。

一行は、エルサレムへ上るため、ヨルダン川東岸経由でエリコの町に向いました(バイブルアトラス図56参照)。エリコに近いヨルダン川の西岸には、イエスが洗礼を受けた場所があります。    

    

           イエスの時代のパレスチナ

イエスとその弟子たちの一行はエリコの町に着きました。エリコは、海面下250m、ヨルダン川の西方約8㎞、死海の北約9.5㎞、エルサレムの東北東約24㎞に位置する低地です。エルサレムに行く入口の町です。

エリコの町では、イエスに従う弟子たちやガリラヤの人々の他に、エリコから従う者もありました。イエスは大勢の群衆と一緒に、エリコの町から出て行こうとされました。そのとき、ティマイの子で、バルティマイとい名の盲人の物乞いが道端に座っていました。「バル」はアラム語で息子を意味します。

「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。」(10:47)

 彼は、「ナザレのイエス」だと聞くと、「ダビデの子イエス」よ、わたしを憐れんでください、と叫び続けました。イエスはガリラヤ地方のナザレの出身なので、「ナザレのイエス」と呼ばれていました。当時のユダヤ人のあいだでは、メシア(救世主)はダビデの子孫から出ると考えられており、「ダビデの子」はメシアの称号として用いられていました。

「ナザレのイエス」が、メシア的な働きをしていることを、この盲人は聞いていたのでしょう。「憐れんでください(ἐλέησόνエレエソン」という語は強い嘆願です。

 「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」(10:48)

 弟子たちがすることを、ここでは「多くの人々」が盲人を叱りつけて、叫びを黙らせようとしました。盲人の激しい叫びを迷惑と考えたからでしょう。しかし彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。この盲人はナザレのイエスを救い主だと信じたのです。

「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』」(10:49)

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。小さな者、弱い立場にある者に対する、多くの人々の態度と、イエスの態度との違いが明らかにされます。人々は盲人を呼んで、「安心しなさい。立なさい。お呼びになっている」と告げました。

「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」(10:50)

 盲人は上着を脱ぎ捨てた、というよりは、施し物をもらうために地面に広げていた上着を投げ出して、踊り上がって喜び、イエスのところに来ました。

 「イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。」(10:51)

 イエスは盲人に「何をしてほしいのか」と問いました。この問いは盲人の必要とその意志を確認する言葉です。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」答えました。「先生」は「ラビ」よりも強い表現で、「わたしの主」という意味で、ユダヤ教指導者に対する最高の呼名です。「見えるようになりたい(ἀναβλέψωアナブレプソー)」は、もう一度見えるようになりたい」の意味です。

 「そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:52)

 そこで、イエスは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。バルティマイの信仰は執拗な懇願とイエスに呼ばれたときの歓喜の中にも表れていますが、信仰とは、ここでは、救い主イエスには、盲人の目を癒す力があると心から信頼することです。「あなたを救った」は、あなたはすでに癒されている、という状態を強調しています。バルティマイは目が開かれただけでなく、救われたのです。イエスは盲人の目を開くために、何も特別な言葉をかけていません。「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉は、このバルティマイの信仰をイエスが受け入れたのであり、バルティマイの全存在をも受け入れたことを意味しています。それはバルティマイに対するイエスの憐れみによるものでした。神の子イエスにとっては、迷える一匹の羊は、九十九匹以上に大切な存在でした。

盲人は、すぐまた見えるようになりました。家族のもとに「行きなさい」というイエスの言葉にもかかわらず、彼は、なお十字架の道を進むイエスに従いました。

バルティマイは、イエスに対する絶対の信頼により、肉体の病気を治されたばかりでなく、立派な信仰を与えられ、救われたのです。

目の癒し、視力の回復は、イザヤ書に約束されていた出来事でした。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」という栄光の回復(イザヤ35;5)は、神の支配が開始されたことを指し示しています。イエスは、見えない人の目を開き、罪人の目を開けられる救い主なのです。盲目の者が「イエスを神の子」として見ることが出来るのに、弟子たちは目が見えるのに、復活のイエスに出会うまでは、イエスを神の子として見ることができませんでした。

 この盲人の癒しと救いは、「ホサナ。主の名によって来られた方に、祝福があるように」とイエスを迎える群衆の声を先取りするものでした。イエスはまさに憐れみ深いメシアとして、民のために、エルサレムへ行く途中にあるのです。来週の礼拝は棕櫚の主日を迎えて礼拝です。

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「木に登ってイエスを迎えるザアカイ」 ルカによる福音書19章1~10節

2021-03-11 18:20:50 | キリスト教

   ↑ 「それで、彼はイエスを見るために走って先回りし、いちじく桑の木に登った。イエスがその道を通り過ぎようとしておられたからである。」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

受難節第4主日 2021年3月14日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                      礼 拝 順 序 

                  司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 484(主われを愛す)

交読詩編   46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書19章1~10節(新p.146)

説  教  「木に登ってイエスを迎えるザアカイ」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                          

讃美歌(21) 451(くすしき恵み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                次週礼拝  3月21日(日)午後5時~5時50分    

                聖 書  マルコによる福音書10章46-52

                説教題 「盲人バルティマイを癒す」

                讃美歌(21)288 522 27 交読詩篇 16   

  本日の聖書 ルカによる福音書19章1~10節

 19:1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

   本日の説教

 19章のイエスのエリコ入りは、18章31節に「エルサレムに上って行く」とあるので、エルサレムに向かう途上の物語です。次の20章では、子ろばに乗ってエルサレムに入場するイエスが大勢の群衆にホサナと言って迎えられる場面があります。

 主イエスの30歳頃から始まる公生涯は、福音書の記述から、3年半位いと推定されます。

【イエスは、ヨハネより洗礼を受ける。その後、荒れ野の誘惑を受ける。およそ30歳で、ガリラヤで宣教を始められた。(ルカ3:28、4:14)

1 過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。(ヨハネ2:13)

2 ユダヤの祭り(過越祭)があって、エルサレムに上られた。(ヨハネ5:1)

3 ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。(ヨハネ6:4)この時はエルサレムに上 

 らなかった。

  ユダヤ人の秋の仮庵祭に、イエスは人目を避けて、エルサレムに上った(ヨハネ7:10)

4 過越祭りの五日前、群衆は、ホサナと叫んでイエスをエルサレムに迎えた。(ヨハネ

 12:12)

  以上の記述から、過越の祭りを、四度迎えているので、イエスの公生涯はおよそ三年半と  予想されています。】

 エリコは、エルサレムへ上っていくためにヨルダンの谷を出る前に通る、最後の重要な町でした。大勢の人々がイエスに従ったので、群衆となってエリコに向って進みました。

 イエスがエリコに近づいたとき、道端に座った物乞いをしていた盲人は、群衆が通っていくのを耳にし、何事かとおどろき、「ナザレのイエスのお通りだ」と知りました(18:36-38)。

 エリコは、エルサレムから東北へ24キロほど下がった平地にある町です。この町はヨルダン川からは西約8キロの地点で、ヨルダンの谷に広がり、エルサレムに至る入口であり、対岸のヨルダン方面からの交通の要所でした。棕櫚の大きな森があり、「棕櫚の町」と呼ばれ、肥沃な土地の中心にある豊かな町で、付近に産するバルサムの香油の集散地であり、エルサレムを経由して、ユダヤや、エジプトに通じる商業道路が通じていた関係で、人や物質の往来が盛んで、経済的に豊かな町でした。エルサレム神殿に仕える祭司たちも、多くエリコに家を持ち、家族を住まわせていました。当時パレスチナを支配していたローマ政府は、このエリコに徴税所を置き、パレスチナの中心的な課税地にしていました。

  

  赤の破線は、主要な交通路を示しています。エルサレムからヨルダン川の方へ、破線をたどったところに、エリコがあります。

税を徴収する徴税人は、ローマ政府から請け負う委託業者で、請負の「さやかせぎ」を自由にできました。彼らは、ローマ政府の腐敗した徴税システムを利用し、人頭税、土地(財産)税、輸出入の通関税などをローマ人以外のユダヤ人や諸国民から、しばしば不正に高額な税金を課して取り立て、ローマ政府から割り当てられた分の金を納め、残りを自分の収入として、私腹をこやしていました。ユダヤ人たちは、このような徴税人を軽蔑し、盗人や罪人と見做し、交際を避けていました。

 ザアカイはエリコの徴税人の頭でした。ザアカイと言う名前は、「義(ただ)しい人」という意味です。彼は金持ちでした。おそらく彼は、人々から容赦のない軽蔑の目を向けられていたことでしょう。ザアカイは非常に背の低い男だったので、「自分は背が低い」という劣等感から、金で人よりもえらくなろうという気を起こしたのかも知れません。ザアカイは、金を蓄えることを人生の目的とする金に執着する人になり、大金持で、徴税人の頭という地位と財産がありながら、誰からも相手にされず、嫌われ憎まれて、話しかけてくれる人も、話しをする人もいない、孤独に悩んでいたものと思われます。

 ザアカイは、イエスという、ガリラヤ地方で有名になっている方が、徴税人たちと食事をしているという、うわさを聞いていたと思われます。そのイエスがユダヤのエリコを通られることを知って、どんな人か見たいと思い、街道に出ました。

普段でも多くの人が往来するエリコの町の大通りは、過越の祭りのためにエルサレムに向かう人たちだけでなく、「ナザレのイエス」の周りに押し寄せた大勢の群衆となっていました。ザアカイはイエスを見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られてイエスを見ることができませんでした。それで、イエスを見るために、ザアカイは走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。いちじく桑は(スコモレア)は、葉は桑に似ているが、幹はいちじくに似た木で、幹が太く、枝が低いところから出ているので、背の低いザアカイには好都合でした。ザアカイは、人にからかわれるかもしれないことを、なりふりかまわず、ただ、イエスを見たい一心で木に登って、イエスが通られるのを待ったのです。

汚れた者として人の前に出ることを拒否された十二年間も長血をわずらっていた女の場合は、群衆がイエスを取り巻き、押し合っているなか、ひそかにイエスに近寄って、後ろからイエスの服のふさに触れていやされました(ルカ8:43-48)。

人から軽蔑されているザアカイは、人をかきわけ、イエスのそばに近づくことにはためらいがあったと思われます。しかしイエスを見るために来に登ったのは、彼のなしうる最大の努力でした。彼のイエスを見たいと言う思いは、単なる見物のためでも、物見高さや好奇心によるものでもなく、イエスによる救いにあずかりたいという思いがあったからこそ、イエスからも見えるように、いちじく桑の木に登ったのです。エリコの近くで盲人が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたように、叫ぶことはひかえたが、イエスのあわれみを求める思いは、同じだったのではないでしょうか。

      

      エリコの「ザアカイの木」と呼ばれている「いちじく桑の木」

 イエスはその場所に来ると上を見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。「ぜひ泊りたい」は、ギリシヤ語では、「泊まる義務がある。泊まらなければならない。」という表現です。ザアカイの家に泊まることは、神による救いの計画なのです。イエスにとっては、、ザアカイは救いの手を差し伸べるべく定められた存在でした。「急いで降りて来なさい。あなたの家に泊まらなければならないのだから」と、イエスはザアカイに語りかけました。

 イエスの愛の眼は、救いを求めて飢え渇いている魂を決して見逃すことはありませんでした。罪人のように民衆から差別され、孤独で寂しかった徴税人の頭ザアカイの名を呼んで、イエスは温かく語りかけてくださいました。

 ザアカイは、イエスが木の下まで近づき、ザアカイに語りかけて下さったお言葉に感激したことでしょう。急いで木から降りて来て、喜んでイエスを自分の家に迎えました。ザアカイの喜びは、人々から軽蔑されて生きてきた人間の救いの喜びです。

 これを見た人たちは、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と、皆つぶやきました。泥棒と同じような徴税人の、しかもその頭領の家に泊まるなどというのは、住民にとっては、もっての外のことでした。しかしイエスは、この「罪深い男」と親密な人となられ、彼の家に一泊されるのです。

ザアカイにとって、主との出会いは不思議な体験でした。その日、ザアカイの生き方が全く変えられるのです。ザアカイは立ち上がって、主に言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。

【ファリサイ派のラビ(教師)たちは、義損金を最初には財産の五分の一を寄付していました。ザアカイは「財産の半分」と言います。また徴税人は、だまし取った金額と更にその五分の一を加えて弁償する義務がありました。ザアカイは、だまし取った金額の四倍を返すと言いました。】

自分の財産の半分を貧しい者に施し、不正な取り立てをしていたら四倍にして償うというザアカイの申し出は、律法による要求以上のものを弁償しようとすることでした。

エリコの町の嫌われ者であり、のけ者にされ、無視されていた彼の家に、立ち寄り泊ってくださるイエスの愛に触れたとき、ザアカイは愛される幸せに満たされただけでなく、これまでの自己本位の生き方、自分の罪深さも自覚させられたのです。

罪深い自分をも見捨てず、自分を愛してくださり、そのような自分のために今、エルサレムに上り、十字架に架かって自分を救うとするイエスに出会ったとき、イエス様に喜ばれるなら、蓄えていた金を投げ出すことも惜しいとは思わなくなったのでした。

イエスにお会いすることによって、ザアカイは失っていた人を思いやるあたたかさを回復し、貧しい人々を思いやる愛の人に生れ変わりました。今まで、ただ税金を取り立てる相手に過ぎなかった民衆は、彼にとって今や思いやる隣人に変わったのです。彼は今まで彼の孤独を唯一支えていた財産を放棄することを主イエスに告げ、そして主に従う者となるのです。

イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」

「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたイエスは、「今日」救いがこの家に訪れたと宣言されます。「今日」が重ねて強調されています。救いが、今日、今ここに臨んでいるのです。「この家」とは、ただザアカイのみではなく、彼の家族、使用人のも及ぶ人達です。その人たちにまで救いが訪れるのです。イエスはザアカイを現在の職業によって見るのではなく、彼の生まれ変わった信仰に基づいて、「アブラハムの子」と見ます。それは血筋や律法の業によって「アブラハムの子」とされるのではなく、イエスを信じる信仰により、アブラハムの子となり、神の祝福を受けるのです。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とイエスは言われます。

「失われたもの」とは、イスラエルの家の失われた者の意味ですが、イスラエルの家の者たちだけでなく、人が神から離れているとき、それは失われた存在です。主イエスは神から委託を受けて、失われた者たちを追い求めて、捜し出し、救う方であるからこそ、いちじく桑の木に登っているザアカイを見逃しませんでした。ザアカイがイエスを自分の家に迎えた時、救いが彼のもとに訪れました。ザアカイのイエスを見ようとした一心が、その熱心さが、報われました。そこには見えざる神のめぐみの導きがあったからこそ、イエスとの出会いが実現したのです。

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「独り子を与えた神の愛」 ヨハネによる福音書3章16~21節

2021-03-07 14:29:41 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

受難節第3主日           2021年3月7日(日)

                 午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

   礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 194(神さまは、そのひとり子を)

交読詩編   86(主よ、わたしに耳傾けを、答えてください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書3章16~21節(新p.50)

説  教   「独り子を与えた神の愛」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                          

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                 次週礼拝  3月14日(日)午後5時~5時50分    

                 聖 書  ルカによる福音書19章1~10節

                 説教題  「徴税人の家に泊まるイエス」

                 讃美歌(21) 484 451 27 交読詩篇 46   

  本日の聖書 ヨハネによる福音書3章16節

3:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

本日の説教

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14)。

 この聖書のことばは、新約聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。宗教改革者のルターが「小福音書」と呼んだように、「福音書中の福音」と言われる中心的な箇所です。

 【今日の三章16-21節は、3章1節以下の、イエスとニコデモの対話に続く講話です。イエスとニコデモの対話は10節まで続きます。イエスの「人は新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」の言葉に対するニコデモの誤解は、新しく生まれることについてのイエスの教えを導き出します。11節から21節までのところで、福音書記者ヨハネは、新生の秘密を明らかにします。これまでの「わたしとあなた」との対話から、「わたしたちとあなたがた」との対話となり、対話から独白へと移ります。「わたしたち」は、イエスと福音書記者を含む教会です。「あなたがた」は、ニコデモによって代表されるユダヤ教の会堂とこの世、すなわち、不信仰の世界です。

 12節で再び「わたし」に戻り、イエスが語り出します。「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがったが信じないなら、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」。「地上のこと」は新生のような出来事です。「天上のこと」は、父が子を世につかわされたような、天の出来事です。13節は、イエスの死と復活を経験した教会のあかしです。イエスは、今や天にあって、地上と天上とをつなぐ唯一の仲保者の役目をはたしていることが語られます。

 続いて14節は、人の子が天に上げられることの意味を明らかにしています。モーセが荒れ野でへびを上げたという故事(民数記21:4-9)を例にあげます。へびに人を救う力があたのではなく、神の約束の言葉を信じて、へびを仰ぎ見ることが大切だったのです。モ―セが青銅の蛇を上げたように、イエスも十字架につくことが父のみ心であると、その必然性が語られます。】

15節は福音書記者による14節の解説です。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである、と語られます。それは荒れ野で死をまぬがれたような一時的な命ではなく、永遠の命です。永遠の命とは、命が永遠に続くという未来のことよりも、現在「キリストによって」与えられる命にいきることであり、永遠なる神との交わりの生活を与えられることです。このような教会側の主張に対して、ユダヤ教会堂側は、それではその永遠の命が与えられる根拠・保証は一体どこにあるのか、と問うのです。

それに答えて、16節は、原語では「その理由は」を意味するギリシア語「γὰρガル」から始まります。英語聖書では、「そのわけは」を意味する「For」が用いられています。この16-17節は、ユダヤ教会堂側の問に対する答えです。

 永遠の命の根拠は、神のこの世に対する徹底的な愛にあります。神はこの世を愛されました。この世とは、この現実の世界であり、そこに住む人間です。「この世」は、神によって創造されながら、その神を信じようとしないで、神に背き、悪の力に支配されています。このような世であるにもかかわらず、神は限りなく愛し、御自分の独り子を世に遣わし、十字架上で死なせました。これが神の愛です。

「独り子」という言葉によって表現されるのは、「何にもまして愛されている御子」という意味です。「お与えになる」とは、第一に、贈り物として与えるという意味です。神の最大の贈りものは、神がわたしたちにくださったその独り子イエスです。金銭がすべての価値の尺度であると考えている人たちに対して、ここでは、金で買うことのできない「高価なめぐみ」があることが示され、それを、神がわたしたちに価なし(ただで)に与えられたのです。

第二に、「お与えになる」とは、死に渡すという意味をもっています。このことを明確に示しているのはパウロです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)、と言っています。神の愛は、その独り子イエスを十字架の死にひき渡すということにおいて示されました。愛とは、愛する者のために最も価値あるものを惜しまずに与える行為です。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(ヨハネの手紙3:16)と、ヨハネの手紙には書かれています。

「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16b)。

 神が御子を世に遣わされた目的は、世が御子によって救われることにあることが繰り返され、強調されます。神の愛の目標は、独り子である御子を信じる者が、「一人も滅びないで」、永遠の命を得るためです。神の愛は、信じる者にも信じない者のも与えられています。しかし、永遠の命は、独り子と無関係には与えられません。神の独り子による救いにあずかることによってのみ、永遠の命は与えられるのです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:17)。

「裁き」という言葉は、ギリシア語で、「分割する」という意味と、罰をともなう「裁き」の意味と、二つの意味を持っています。この二つの意味を持つ「裁く」という言葉が用いられています。

18節の「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」では、信じない者は既に分割されている、ということです。理由は「神の独り子の名を信じていないからです」。19節の「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」は、罰としての裁きと、分割されていると両方の意味になっています。つまり、イエス御自身がだれかを裁いたり、裁かなかったりするというよりは、イエスを信じるか信じないかによって人間の方がおのずから分割されてしまう、それが実は裁きである、という言葉遣いになっているのです。

今やひとり子の十字架の死によって神の愛が明らかにされました。しかし、この神の愛にどのように応答するかによって、この世は二つに分かれます。その応答次第で、救いか、それとも裁きかが決定します。ヨハネにおいては、さばきは、終末の日に起きる出来事ではありません。人は、イエスを信じ、救い主として受け入れるか、拒否するか、二者択一の決断を迫られているのです。

イエスは、「まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と、1章9節ですでに、イエスを光として、洗礼のヨハネは紹介しています。この世を暗黒がおおているうちは、信仰と不信仰のどちらを選ぶかという決断は起こりません。光に照らされなければ、この世がやみであることに気づかないし、そこから抜け出したいとも思いません。「裁き」ということばは、罪に対する罰として与えられる不幸や苦難を考えがちですが、ヨハネは、「光よりも闇の方を好んだ」ことがすでに裁きであると言っています。パウロは、「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」(ローマ1:28)と述べていますが、光に背を向けて、自分の欲望のおもむくままに、生きたいように生きていることが、すでに神のさばきなのです。

信じないということは、神の恵みの光に対して、心を閉ざして拒否することです。裁きは信じないことの結果もたらされることではなく、信じないということがすでに裁きなのです。裁きは将来にあるのではなく、神の御子、すべての人を照らすまことの光に対して心を閉ざして受け入れないという現在の姿そのものの中にあるのです。信じることの中にすでに救いがあるのであり、したがって「信じる者は裁かれない」(18節)と言われているのです。救いも裁きも、共に現在のことがらとしてとらえられています。

光にうつし出された人間の姿は、すべて例外なく闇の中にあります。すべての人間は、闇を愛し、滅びに向かって生きています。「信じる」とは、闇そのもでしかない自分の姿をうつし出されて、光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することであり、この決断の中に救いがあるのだと、言っているのです。

「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(3:20-21)

 「悪を行う者」と「真理を行う者」の対比ですが、明らかに前者は闇に属し、後者は光に属することを前提とし、区別が明快に出てきます。真理は本質的に神に属するものですから、真理を行う者は当然神と関係をもち、神の領域である光の領域の方に来ます。それは真理を行う者の行いが元来神から出て、それに導かれていることが明らかになるためであるとしています。

人を信仰へと決断に導くものは何でしょうか。その人の全くの自由意志でしょうか。パウロによれば、「聖霊によるのでなければ、 だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(コリント一,12:3)、と言っています。わたしたちを信仰へと決断させる根拠は、わたしたしのうちにあるのではなく、ただ常に神のみわざ、導きの中にあるのです。

 こうして、聖霊の働きによって光に導かれるのですが、光に照らされて初めて、自分の罪深さを知らされます。自分の意思や努力では、神の御心に適う愛の業をすることが出来ない、罪に支配される無力な自分に知ることになります。光のもとに生きることが苦痛となり、重荷となります。しかしその時こそ、大胆にキリストの十字架によるあがないによる罪の赦しと、罪からの解放して下さるイエスに信頼しなければなりません。イエス・キリストと結ばれて、聖霊に従って生きる者とされるのぞみが与えられます。「今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって、命をもたらす霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放したからです」(ローマ8:1-2)とあります。この解放のうちに、主イエスと一つにされて、聖霊の力を受けて歩むことが信仰生活なのです。

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