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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕節第2主日(年始礼拝) 2020年1月5日 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 斎藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて)
交読詩編 96(新しい歌を主に向かって歌え)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) 詩篇98篇(旧p.935)
コロサイの信徒への手紙3章1~4節(新p.371)
説 教 「新しい歌を主に向かって歌おう」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 405(すべての人に)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 1月12日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 マタイによる福音書5章38~48節
説教題 「敵を愛しなさい」
讃美歌(21) 4 280 交読詩編 36
本日の聖書
詩篇98篇 1【賛歌。】
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。
2主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し、
3イスラエルの家に対する、慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は、わたしたちの神の救いの御業を見た。
4全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ喜び歌い、ほめ歌え。
5琴に合わせてほめ歌え。琴に合わせ楽の音に合わせて。
6ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
7とどろけ、海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものよ。
8潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え。
9主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる。
コロサイの信徒への手紙3章1~4節
3:1さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
本日の説教
「新しい歌を主に向かって歌え」という言葉は、神の勝利を預言した第二イザヤが初めて用いた言葉だと言われています(イザヤ書42・10)。「新しい歌を主に向かって歌え」で始まる詩篇98編と詩編96編は共に礼拝のための詩編です。
「新しい歌」によって歌うのは、主の成し遂げられた「驚くべき御業」であり、「主の救いの御業です」です。また、「地を裁くために」来られる「主を迎える」ためです。「新しい歌」とは、「終末時に神の到来を迎える」喜びの歌であり、希望の歌です。
イスラエルの民は、主なる神が理想的な王として改めて即位される祭りを、新年に神殿で行ないました。大祭司も毎年、年に一度、神殿の至聖所に入って、民の罪の贖いの供え物を献げる祭儀を行いました。しかし、罪なき主イエスが十字架に架かり、全き贖いとなり、復活して天上の御座につき、永遠に世を支配する方となられたので、「主の即位祭」も、大祭司による「贖いの供え物」を献げる祭儀も必要でなくなりました。
詩編98編は、エルサレム神殿で神の民に顕現される主に向かって、バビロン捕囚からの解放を、「主は驚くべき御業を成し遂げられた」と告げ、新しい歌を歌うように、礼拝者たちに促します。
バビロン捕囚からの解放とは、主が、ペルシアの王クロスを用いて、バビロンを滅ぼし、59年にも及ぶ捕囚のユダヤ人たちを解放し、エルサレムに帰還させたことです(紀元前538年)。
「右の御手、聖なる御腕」とは、共に主なる神の御力を強調する表現です。主なる神は全能の御力で、バビロン捕囚から神の民を解放するという救いの御業を実行されました。
「主は救いを示し」とは、主が神の民イスラエルをバビロン捕囚から救い出すことを、世界の諸国民に知らせられたということです。 全ての人を罪と死の支配から救う、キリストのよる救いの福音も世界に告げられました。
「イスラエルの家に対する」とは、イスラエルの民に対するという意味です。「慈しみとまことを御心に留められた」とは、慈しみとまことを、主はお忘れにならなかったということです。「慈しみ」は、主なる神の不変の愛を表します。
神の救いは、神の民イスラエルを通して、世界の果てにまで及ぶのです。全地に、地の果てに至るまで、主なる神の喜びの声を上げよと、讃美を促しています。 琴、竪琴、角笛、ラッパと、様々な楽器に合わせて、喜び、賛美せよと促します。
礼拝は人間だけでありません。海に、世界とそこに住む被造物に、潮、すなわち、大川に、山々に主を賛美するように促しています。
イスラエルの神、王である主がこの世界に来られる。 これは、神の民イスラエルのためだけではありません。世界の諸国民、さらに全被造物を含めた世界の喜びとなるのです。
主がこの世界に来られて、正しい裁きをなされる。諸国民が公平に裁かれるという「さばき」は、罪への刑罰と審判と言うよりも、神の支配・統治をあらわす言葉です。そして「来られる」という言葉も未来形ではありません。主の支配は始まっていて、やがて成就するのです。
この期待はイエス・キリストによって実現します。神の裁きによって世界のすべての民と全被造物は滅びることがないように、神は御子イエスを世の送り、十字架の贖いの死により、世の人々を罪を赦し、復活と昇天によって罪と死から解放し、聖霊を与え、永遠の命を与えられました。主イエスの来臨と共に、神の支配が始まり、神の御国が近づいています。そして主が再臨されるのです。
このイエス・キリストによってなされる新しい救いの御業に、今やわたしたちが新しい歌をもって応えるようにと、神は招いておられます。
コロサイの信徒への手紙3章1節に、「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」とあります。2章12節によると、わたしたちが主イエスを救い主と信じるということは、わたしが主キリストと共に罪に支配されていた古いわたしに死んで、また、主キリストと共に、罪ゆるされた新しいわたしに復活させられるということなのです。主イエス・キリストの十字架の死が、わたしのための死であったからであり、また主イエス・キリストの復活がわたしのための復活であったからです。そのことを知らされ、信じているわたしたちは、今や主キリストと共に復活させられ、復活の命に生かされているのだから、上にあるものを求めなさいと命じられています。
主キリストと共に復活させられ、復活の命に生かされているわたしたちは、この世の朽ち果てざるを得ない死ぬべき命に生きているのではありません。復活された主キリストがいます天の永遠の故郷へ目指して歩んで行くのです。
しかし、わたしたちは今なおこの地上に生きています。この地上で生きていく限りは、様々な試練や苦悩、痛み、迷い、病、災いを経験しなければなりません。しかし、その中でわたしたちが信仰をもって生きるときに、その道は主なる神によって守られ、導かれているのだということです。だから、どのような時にも、決して絶望することなく、悲嘆にくれることなく、立ち止まることなく、天に見上げて、平安を与えられ、その道を進むことができるのです。
この新しい年も主に向かって「新しい歌」を歌いつつ、復活の命に生き、愛に生き、天に宝を積む生活をいたしましょう。
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