富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「信仰者の実行による証し」 ヤコブの手紙1章19~27節

2019-08-29 22:08:50 | キリスト教

       ↑     ヤコブの手紙の著者

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

     聖霊降臨節第13主日 2019年9月1日    午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                   礼 拝 順 序

                                                司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

交読詩編  119、1-16(いかに幸いなことでしょう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヤコブの手紙1章19~27節(p.422)

説  教   「信仰者の実行による証し」 辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21)  536(み恵みを受けた今は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                       次週礼拝 9月8(日)  午後5時~5時50分 

                                        聖 書 ローマの信徒への手紙14章1~9節

                                        説教題   「正しい服従」

                                        讃美歌(21) 441 507 交読詩編 92

本日の聖書 ヤコブの手紙1章19~27節

 1:19わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 20人の怒りは神の義を実現しないからです。 21だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。 22御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 23御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 24鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。 25しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。 26自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。 27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

                          本日の説教

 ヤコブの手紙の著者は、「神とイエス・キリストの僕であるヤコブ」(1:1)とありますが、使徒的権威のあるイエスの弟ヤコブ(パウロの殉教の数年後、紀元62年にエルサレムで殉教)とする説があります。しかし手紙で用いられている流暢なギリシャ語やその内容から、権威的な指導者であった主の兄弟ヤコブの名を借りたユダヤ人キリスト者の勧告の文書とするのが最近の有力な学説です。著者はその思想内容(イエスの山上の説教と関連する)からみてユダヤ人キリスト者と思われています。

   宛先は<離散している十二部族の人たち>(1:1)と記されていますが、ユダヤ民族をさす<十二部族>という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられています。

   この手紙の中では、イエス・キリストの名は二回しか用いられておらず(1:1と2:1)、キリストの信仰との関係の薄いユダヤ教的色彩の濃厚な実践的教訓や宗教的格言で満たされています。執筆場所は不明です。

  ヤコブ書1章18節で、御父は、御心のままに、<真理の言葉>、すなわちイエス・キリストによる救いの福音によってわたしたちを救い、新生させてくださったことを述べました。この<真理の言葉>・御言葉を聞くこと、行うことの重大性が語られます。先ず19節~21節は、御言葉を聞くことが信仰生活にとって大切であることを訴えます。

「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(21節)

  私たちの魂を救う聖書の御言葉を受け入れなさい、と勧めます。そのためには、<だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい>と命じます。神の御言葉に対して、<聞くのに早く>、自分の主張を<話すのに遅く>、せっかちに判断して<怒るのに遅く>あるべきです。<人の怒り>は感情に左右されて公正な思考や行動ができなくなります。それゆえに<神の義>を実現しません。キリスト者によって証しされなければならない神の義の実現を妨げてしまうのです。神の怒りは、正く、忍耐や赦しに満ちています。このように、神の御言葉に応答することが<神の義>・すなわち神が人に要求されることを満たしていくことになるのです。

 わたしたちの御言葉に対する怒りをひき起こす<汚れや悪>を<素直に捨て去り>、誤りが自分の側にあることを知ったら、喜んで改めることです。そして<心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい>とヤコブは勧めます。

 次に22節~25節では御言葉を行うことを勧めています。

 「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(22節)

 ヤコブ書では、<行い>が強調されています。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は<生まれつきの顔>、人間の醜い本性を鏡に映して眺める人に似ています。御言葉を聞くだけで行わない信仰者を<鏡>を見ながら忘れる人、浅薄な、一時的な受けとめ方をする人にたとえています。

 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人ですとヤコブは御言葉を<自由をもたらす完全な律法>と見ています。ここで言う律法は、パウロ的な福音に対立する意味での律法ではなく、福音の意味で用いています。福音を律法と言い表している例は、他にガラテヤ書6:2に「キリストの律法を全うする」という言葉で表現されています。福音はそれが神によって定められた生き方である限り律法であり、神の求められる最高の態度である限り完全であり、それがわたしたちを罪から解放し救うので自由の律法なのです。そうしてそれが律法である限りは、これを<守る人>、<行う人>が重んじられ、そのような人は<その行いによって幸せになるのです。                                       ただ形式的に礼拝に連なり、自分が信心深い者だと思っても、口が先立って舌を制することが出来ず、信者らしく振る舞うならば、そのような信仰者の信心は無意味です。

 ヤコブは、神の御前に清く汚れのない信心は、<みなしごや、やもめ>のような、わたしたちの援助を必要としている者たちに対して、愛をもって<世話を>することと、汚れた世の中にあっても<世の汚れに染まらないように>自分を守ることをあげます。まことの信仰生活の特徴として隣人愛と自己聖化とをあげています。この徳をあげたのは、すでにイザヤ書1:15-17、エレミヤ書7:21-23などの預言者たちであり、また主イエスも「飢えている者に食べさせ、のどの乾いている者に飲ませ。旅をしている者に宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいるときに訪ね」、最も小さい者の一人にすることを勧めています(マタイ25:35-45)。マザー・テレサはこの主イエスの教えに忠実に従い、愛を実践した証し人です。

 ヤコブは<行いのない信仰は人を救うことができない>(2:14)と主張しています。神がアブラハムを義とされたのは、アブラハムの信仰が行いによって完成されたからであると大胆に主張しています(2:22)。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2:16)と述べるパウロに反対の立場にあるように見えます。

 パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3・28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3・20、ガラテヤ2・16)とあります。パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4・7)神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派な行いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださる、と説いています。

 ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教えに反対しているのではありません。救われた者の生活における行いの重要性について述べているのです。パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。 ヤコブの手紙はパウロの主張した信仰によって義とされるという教えが誤解され、行為が軽視され始めた頃にこれを批判するために書かれたと思われます。

 人間に救いをもたらす信仰は、愛によっていきいきとしたものとされ、その愛によって必ずよい行いを伴うということを説いているのです。主イエスも、山上の説教の終わりで、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と語り、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7:21、26)と言われています。使徒パウロも、「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするように」(使徒言行録26:20)とすべての人に伝えました。

 パウロは「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのである」(ローマ3:31)と言っています。それは罪に傾く性質を持った人間として生きるのではなく、聖霊によって生きる新しい人間に造り変えられ、聖霊に従って生きるとき、はじめて神の御心に適う者とされるのです。キリストの結ばれ、愛の実践を伴う信仰こそが大切となるのです(ガラテヤ5:6)。

 「聖霊に従う生活をするとき、自己中心的な罪に傾きやす性質から解放され、キリスト共に、神を愛し、隣人を愛する生き方が可能となるのです。そうすれば決して罪に傾くような欲望を満足させるようなことはなくなるのです(ガラテヤ書5:16)。聖化は、人それぞれその成長速度は違います。何度も失敗を重ねるかも知れませんが、必ず御霊によって成長していくのです。霊の導きに従って、みんなで前進しましょう。

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「主の来臨の希望と忍耐」 テサロニケの信徒への手紙一、1章1~10節

2019-08-23 21:56:08 | キリスト教

     ↑ テサロニケの信徒への手紙一とは、何?●三週間の説教で建てられた教会●パウロがコリントで書き、テモテを遣わして送った手紙●教会はほとんど異邦人によって構成されている●非常に親しいー心と心の通う手紙ー「兄弟たち」という言葉を14回使用ーパウロは彼らのために常に祈った。この教会は他の信徒たちへの良き模範として役立った。

 981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

      聖霊降臨節第12主日 2019年8月25日   午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

         礼 拝 順 序

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩編  121(目を上げて、わたしは山々を仰ぐ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)テサロニケの信徒への手紙一、1章1~10節(p.374)

説  教    「主の来臨の希望と忍耐」 辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21)  573(光かかげよ、主のみ民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

              次週礼拝 9月1(日) 午後5時~5時50分 

              聖 書 ヤコブの手紙1章19~27節

              説教題   「信仰の証し」

              讃美歌(21) 402 536 交読詩編 119

     本日の聖書  テサロニケの信徒への手紙一、1章1~10節

1:1パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。 2わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。 3あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。 4神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。 5わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。 6そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、 7マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。 8主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。 9彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、 10更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。

          本日の説教

 <テサロニケの信徒への手紙一>は、新約聖書の中で、一番最初に書かれた書です。主イエスの十字架の死の後、二十年位い過ぎた紀元50~52年頃、パウロが第二伝道旅行中、コリントに滞在中に、テサロニケの教会宛に書いた手紙です。ちなみにマルコ福音書は70年頃、マタイ、ルカは80年頃、ヨハネ福音書は90年頃に書かれています。

      

 上の地図の実線が第二伝道旅行です。紀元50年頃、パウロはシラス(シラスはアラム語名、シルワノはラテン語名)を連れて、第一伝道旅行で設立したガラテヤ州の諸教会を訪ねました。リストラでテモテを同行させ、西のアジア州のエフェソに行こうとしたが聖霊によって禁じられ、北のビティニヤに入ることも禁じられ、聖霊に導かれてエーゲ海の港町トロアスに着きました。トロアスで、マケドニア人の招く幻を見たパウロは、海を渡ってヨーロッパへ伝道する決意を与えられました。使徒言行録を書いたルカも加わって、トロアスから船出し、サモトラケ島を目指し、次にフィリピの外港ネアポリスに上陸し、そこからフィリピに行きました。

フィリピでは、リディアという婦人とその家族が洗礼を受け、リディアの家での集会が始まりました。次に訪れたのがテサロニケです(使徒言行録17章1-9節)。当時テサロニケはローマ帝国のマケドニア州の首都で、ローマの州総督府がおかれ、商業も盛んな港町でした。現在はギリシャ共和国のテッサロニケという都市です。テサロニケにはユダヤ人も多く住んでいたので、彼らの会堂でパウロたちは福音を語りました。キリスト者の群れが誕生し、改心者たちはユダヤ人のヤソンの家で集会するようになりました。しかし、ユダヤ人の迫害に会い危険が迫ったので、パウロたちは急遽立ち去らなければなりませんでした。

パウロはベレヤを経て、アカイヤ州のアテネに行きました。そこで、パウロはテサロニケ教会のことが心配なので、テモテをテサロニケに派遣しました(テサロニケ一、3:1~10)。パウロはその後、コリントに行きました。そこにテモテが帰ってきて、テサロニケ教会の事情を報告したのです。テサロニケの手紙一、3章6節から13節の部分に、その報告を聞いてパウロは喜びにあふれ、今なお艱難と迫害の中にある教会を励まし力づけるために手紙を書き送ったのです。それが<テサロニケの信徒への手紙一>なのです。

     現在のテッサロニケ

1節の挨拶の中で、パウロはパウロと共に同行し、活動した「シルワノ(=シラス)とテモテの名を記し、テサロニケの教会の信徒に「恵みと平和が」あるように」と祝福しています。「恵み」はイエスの十字架において実現された罪の赦しであり、そこに神との間の「平和」が生まれるのです(ローマ5:1)。

2節で「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし」は、執り成し祈っているこを述べ、「あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」と述べています。

3節で感謝の理由を述べます。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」とあります。

テサロニケの信徒たちの信仰生活を表現した、信仰、愛、希望という三つの具体的な行動が記されています。これはすべてのキリスト者にも共通する基本的な生活態度です。5章8節でも、<信仰と愛を胸当としてつけ、救いの希望をかぶととして身をつつしんでいましょう>と勧められています。

<信仰による働き>とは、どんなことを指すのでしょうか。信仰とは、神が下さったイエス・キリストによる救いを受け入れることであり、神に私たちが向ける信頼です。神の愛によって信仰が生まれ、信仰者には聖霊による新しい生命が与えられます。<信仰による働き>とは、信仰が聖い生活をさせる原動力となり、神に喜ばれる生活、良い業を行わせます。

信仰は「愛」として働くものでなければなりません(ガラテヤ5:6)。「愛」は、十字架によって示された神の愛、罪を赦す愛、見返りを一切求めない、自己犠牲をいとわない愛です。値のない者を愛し、価値を与える神の創造の愛です。この神の愛が宣教と奉仕のための労苦の原動力となるのです。キリストを通して与えられる神の愛に満たさたキリスト者が、神を愛すとともに、隣人の兄弟姉妹に対して愛の労苦をいとわない者とされます。

さらに信仰は希望を生み出します。死人の中から蘇えらされた主イエス・キリストに対する希望であり、信徒も死で終わるのではなく、復活の恵みにあずかって、神との永遠の交わり入れられることが最終的な希望です。神の御国に迎えられるというという大きな希望があるからこそどんな試練にも耐え抜く忍耐を可能とするのです。教会はこの希望によって互いに慰め合い、いかなる苦難の中でも忍耐しつづけることができるのです。信仰・希望・愛は三つそろって、わたしたちの信仰を完全なものとするのです。信仰・希望・愛はキリスト者に与えられる霊的な賜物です。

 4節で「神に愛されている兄弟たち」とパウロは親しく呼びかけます。「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」と述べます。兄弟たちは「神に愛されている」事実に目を向けさせます。それゆえどのような罪や弱さがあっても、神に愛されている者として互いに見つめ合うのが教会の交わりです。神が愛するということは、神が選ぶということです。神から遠い存在と思われていた異邦のテサロニケの人々が神に選ばれたのです。

 5節では選ばれるということの具体的な根拠について述べています。それは福音がもたらされたことです。この福音が「あなたがたに伝えられた」のは、ただ言葉だけによらず「力と、聖霊と、強い確信とによった」と、福音がどのようにして伝えられたかが述べられています。

6節では、福音を受け入れる側はどうであったかについて述べます。テサロニケの信者たちは、ひどい苦しみの中で(3:3-6)、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となった、と述べます。「あなたがたは……御言葉を受け入れ」たということは、神の奇跡的な恵みであり、「聖霊」の業なのです。「ひどい苦しみの中で」喜びをもって受け入れたのは、人間の努力や修養や頑張りによるのではなく、「聖霊による」のです。聖霊は人間に対して、不可能を可能にする神の力です。そこから「主に倣う者」としての人生が開かれていくのです。

7節の「マケドニア州とアカイア州」とは、当時のギリシア全体ということです。小さなテサロニケの教会の信徒たちが、全ギリシアの信徒の模範になるに至ったと述べています。

8節は、前文を説明し、「主の言葉があなたがたのところから出て、ギリシア全土に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので」す、と主の言葉が広まった様子がリアルに言い表されています。

9節の「彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです」の「彼ら自身」とは、7節の「すべての信者」を指します。「言い広めている」内容は、まずパウロたちが最初、テサロニケでどのように迎えられたかです。次にパウロたちが入っていった具体的な行動に対するテサロニケの人たちの反応として、まず「偶像から離れて神に立ち帰」るようになったことです。次に「まことの神に仕えるようになった」ことです。偶像は聖書では、むなしく空虚なものとして、きびしく、退けられてきたものです。真実の生ける神に出会うまでは、偶像がむなしいものであることに気付くことができません。しかし今や「神に立ち帰」ったのです。

10節では、さらに信仰は未来を開く力です。悔い改めて神に帰ることは、未来を待ち望むことであります。地上のうつろいゆくものに対する待望ではなく、天から来臨する御子への待望です。「御子が天から来る」という言葉の中には、希望に満ちた大きな喜びがあふれているのです。なぜなら「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」だからです。「来るべき怒り」は、人間の罪に対する神の審判であり、それはすでに歴史と人間の中に断片的に隠されて遂行されている神の義です。神の怒りはこの世の終わりに人間の罪に対する最後の審判として現れる神の義です。イエスの十字架こそ、人間の罪に対する神の怒りの裁きです。このイエスこそ神の怒りから私たちを救い出してくださる方です。御子イエスの身代わりの死によって、私たちを救い出される神の恵みの深さと赦しの愛の大きさを痛感するのです。

 キリスト者には大いなる希望が与えられています。それは世を去っても「キリストと共にいる」(フィリピ1:23)希望です。世の人々の希望といえば、健康になるとか、豊かになるとか、欲を満たすとか、地上の生活のことに向けられています。この世のことしか考えていません。その行き着くところは死をもって終わるはかない希望です。しかしキリスト者の本国は天にあります。そこから主キリストが救い主として来られるのを、キリスト者は待っています。十字架に架かり死んで、三日目に復活され、天に昇られた、イエス様が再び来られます。その時わたしたちの卑しい体はイエス様の栄光ある体と同じ形に変えられるのです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない(黙示録21:3-4)」天の御国に迎えられる希望が、わたしたちに与えられているのです。

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「神の賜物である愛に生きる生活」 ローマの信徒への手紙12章9~21節

2019-08-14 23:27:54 | キリスト教

   「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマの信徒への手紙12章12節)

    

 

   ルーベンスの描いた初代教皇ペトロ

 981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

      聖霊降臨節第11主日  2019年8月18日    午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                             礼 拝 順 序

                                                司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 540(主イェスにより)

交読詩編  122(主の家に行こう、と人々が言ったとき)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙12章9~21節(p.292)

説  教   「神の賜物である愛に生きる生活」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

聖餐式     81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21)  532(やすかれ、わがこころよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                       次週礼拝 8月25(日)  午後5時~5時50分 

                                       聖 書 テサロニケの信徒への手紙一、1章1~10節

                                       説教題   「主の来臨に備える」

                                       讃美歌(21) 403 573 交読詩編 121

      

            本日の聖書 ローマの信徒への手紙12章9~21節 

 12:9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。17だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。19愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

             本日の説教

 パウロの書いた手紙は新約聖書中に十三通あり、新約聖書全体の三分の一強を占めています。その十三の手紙のうちで最も重要な、また有名なのが、「ローマの信徒への手紙」です。それはパウロの神学的な思想が組織を立てて堂々と述べられているからです。この手紙が書かれたのは、彼の宣教活動の最後期に属する紀元56年頃、ギリシャのコリントに三か月間滞在していた時であろうと推定されています。パウロはローマの信徒とはほとんど面識がありません。ローマの信徒の集会は、おそらく最初はローマ在住のユダヤ人の間にもたらされたキリスト教が次第に異邦人に及び、パウロの手紙執筆時には異邦人を主体にして成立していたと思われます。このような未知の教会に手紙を書いた動機は、この未知の教会を訪問するに先立って、自己紹介をすることにあったと思われます。パウロはこの手紙で自己の福音理解を整理して述べたのです。パウロは、福音の中心を<人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による>(3・28)という「信仰義認」においています。

      この手紙を大きく分けると、二つの部分に分けられます。

1章から12章までの教義の部です。1-8章で、神の力・神の義としての福音とは何かを述べます。すべての人が罪を犯したので、死がすべての人を支配しました。しかし、イエス・キリストの正しい行為によってすべての人が正しい者とされ、命を得ることになったことを述べます。わたしたちは、かつては罪の奴隷でした。善をなそうという意思があっても、肉の弱さのために、それを実行できないからです。神はわたしたちの「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世におくり、その肉において罪を罪として処断されたのです(8・3)。」それは肉に従って歩むのではなく、霊に従って歩む者としてくださるためでした。わたしたちはキリスト・イエスに結ばれて、罪から解放されて、神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいるのです。罪の支払う報酬は死ですが、聖なる生活の賜物は永遠の命であることを述べます。 9-11章で、イスラエルと全人類の救いとしての福音とは何かを説きます。

12章以下は実践の部です。12章から15章13節にかけては、福音によって救われたキリスト者の生き方、実践に関する種々の教えがなされます。

 12章1-2節で、パウロは信仰によって生きる人間の生活を、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとしてささげ」なさいと勧めます。体とは単なる身体ではなく、人格としての自己です。この献身の生活こそ、なすべき霊的な礼拝です、と説いています。この神と人との正しい関係に基づいて人と人との関係が規定されます。

12章3節以下の具体的な倫理的すすめ、「~しなさい、~行いなさい」という命令の言葉は、人間にとってただ単に、自分で満たすことができるような要求というのではなく、自分の力で従うことができる命令ではありません。それはキリストによる救いにあずかった者が神の霊を内に宿す者とされ、霊の最大の賜物である愛に生きる者とされた各人の生活の仕方を、勧めとして語られているのです。

 今日の聖書の箇所である12章9節から13節にかけては、教会内での兄弟愛について記し、14節から21節では、一般社会でのキリスト者の態度を説きます。

「愛には偽りがあってはなりません。」(12:9a)

神からの最高の賜物である愛に生きるキリスト者のまことの愛は、「偽りのない愛」でなければなりません。愛は好き嫌いを超えるものであり、自分の自己満足のためではなく、愛の対象へのひたむきな熱意と献身を伴うもであり、これがキリストの恵みの指し示す愛なのです。

  「悪を憎み、善から離れず」(12:9b)

 愛は単なる同情ではありません。絶えず、「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれることであるか」を見分けなければなりません。この善と悪とを識別する目と心は、信仰によって与えられるのです。

 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(12:10)

「兄弟愛」というこの語は親しい家族的な愛情を意味する言葉ですが、パウロはこの言葉をもって、キリスト者同士の主にある兄弟姉妹の愛、こまやかな愛情と友情を表現したのです。その交わりは<相手を優れた者と>するという、相手を尊敬し、大切にするのです。相手に何か特別な取り柄があるからという理由からでなく、その人が、自分の仕えるべき隣人として神から与えられているから尊敬するのです。

「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(12:11)

「怠らず励み」は、教会での他者への奉仕における活動的な働きを指しています。聖霊によって自分の心が火のように燃やされることによって生じる働きです。キリスト者の奉仕は、自分の虚栄心や名誉心を満足させるためのものではなく、イエスがそうであったように、たがいに主の僕として仕えるのです。

「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(12:12)

終末の時を目指し、主の来臨の近いことを望むことによって、この今の時を喜びをもって生きるキリスト者は、苦難に耐えることができるのです。この希望を固くし、苦難をのりこえさせる力は、祈り続けることによって与えられるのです。

「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」(12:13)

 貧しい信徒たちを自分のこととして助けるように勧めています。特に、やもめ、孤児、圧迫された人などのキリスト者がいたことを指しています。持つ者が持たない者に対して、一方的にあわれみの手をさしのべるのではなく、共に神の恵みにあずかるためです。旅人、特に寄留の他国人を愛して、食物と着物を与え一夜の宿を貸すということは、申命記以来のイスラエルの民の基本的な倫理の一つでした(申命記10・18-19)。<旅人>を受け入れることは、特に教会間の交流のため、宣教活動のために、緊急かつ不可欠な信仰者の務めでした。

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(12:14)

 この勧めの言葉には、明らかにイエスの山上の説教の中の言葉「敵を愛し、迫害する者のために祈れ(マタイ5・44)が反映しています。イエス様の生き方に倣うように勧めています。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:15)

 他人の不幸や悲しみを共に担うことはむずかしく、むしろ逆に、他人の失敗を見てわが幸せを喜ぶということになりやすい。更に難しいのは、他人の幸いや喜びを、自分のこととして共に喜ぶことです。他人の成功は羨望や嫉妬の的となりやすい。共に喜び、共に泣く、ということは、単に心理的な共感に終わらず、兄弟として真に共に生きることを勧めています。

 「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(12:16)

 16節はフィリピ2・6以下を想起させます。そこでは十字架の死に至るキリストの謙遜が<思いを一つ>にする根拠として述べられています。「神から賜った恵み」の下で初めて、思いを一つにすることが可能となるのです。<身分の低い人々と交わりなさい>は、低い人々との、兄弟として連帯することが示されています。キリストは、罪人、低い者、しいたげられている者の友となりました。人間を有用な者とそうでない者、強者と弱者に分けて評価し、差別することは、人間蔑視の高慢の罪を犯すのです。

 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(12:17)

普通の人は悪を受けると悪をもって仕返しをします。しかしキリスト者は「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」と勧めます。悪をもって悪に報いれば、それはまた反撥を生み、際限なく争いが続きます。

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(12:18)

 「できれば」とは、<可能であれば>、ということであり、「せめて」は<少なくとも>の意です。終末を間近にひかえて無用な摩擦を避け、すべての人と平和に暮らすように勧めています。平和に達する真の道は赦しの愛です。

 「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。〔『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる〕と書いてあります。」(12:19)

 悪の力に対する報復は、自分で復讐しないで神の怒りに任せ(申命記32・35)ることです。神の怒りとは神の裁きのことです。この世界の支配者は神であり、その最終的判断も神がなさるのです。人が神に代わり、神に先立って判断することは正しくありません。復讐は神に委ねられるべきものなのです。しかしキリスト者は無抵抗であれ、何をされても我慢しろというのではありません。復讐するのではなく、悪を行う者の悔悟と教育のために、警察力や、裁判や、懲役などの実刑を求めることも神に委ねる手段となるのです。

 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。(12:20)

 敵に対して取るべき態度も、良くしてやることなのです。敵・味方を固定的に考えず、敵をも飢え渇き、欠乏している者として飲み食いさせることによって、「彼の頭に燃える炭火を積む(箴言25・22)ことになるのです。このユダヤのことわざは、人に心からの自責の念を抱かせる、との意です。これこそキリストが自ら模範を示された、愛によって敵を友と変える方法です。

 「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(12:21)

 悪に負けてはなりません。悪の連鎖を断ち切り、善の連鎖を始めなければならないからです。善によって悪に勝つこの方法は、神のなさることであり、人間が自分の力でするのではありません。善意には悪を克服する力があります。神の力は、敵対する者と和解させてくださいます。これこそ神の愛による勝利にほかなりません。

 どんな人も生まれながらにわがままで、自分さえよければよいと考える自己中心的な人間でした。ところが、キリストによって示された神の愛によって捕らえられ、神の愛をいただくことによって、罪人である者たちが愛の人に変えられるのです。こうしてキリストを救い主として信じる者たちが召し集められているのが教会です。愛こそキリスト者の生活を特徴づけるものです。この世の人々が最も必要としているものは愛です。キリストの愛です。神の賜物として与えられる愛です。教会は人々の求めに答えていかなければなりません。

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「苦難の中にあるキリスト者を励ます」 ペトロの第一の手紙3章13~22節

2019-08-11 14:18:26 | キリスト教

       ↑ 「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」ペトロの手紙一、5章6ー7節

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

    聖霊降臨節第10主日  2019年8月11日     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて

働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

 

                    礼 拝 順 序

                                                司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 361(この世はみな)

交読詩編   13(いつまで主よ、わたしを忘れておられるのか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ペトロの第一の手紙3章13~22節(p.432)

説  教 「苦難の中にあるキリスト者を励ます」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21)  531(主イェスこそわが望み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                         次週礼拝 8月18(日)  午後5時~5時50分 

                                         聖 書 ローマの信徒への手紙12章9~21節

                                         説教題   「隣人」

                                         讃美歌(21) 540 532 交読詩編 122

                       本日の聖書 ペトロの第一の手紙3章13~22節 

 3:13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。 14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。 15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。 17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。 21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。 22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

                      本日の説教

 この手紙は、迫害のもとで苦しんでいたキリスト者の教会に対し、洗礼の恵みを思い出させ、終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方をすすめた文書です。

この手紙は伝統的には、使徒ペトロが、ローマ帝国のネロ皇帝の迫害(64年頃)によって殉教の死を遂げたと言われる直前、当時バビロンと呼ばれていたローマ(5・13)から小アジア地方(現在のトルコのアジア側の大部分)の諸教会(1・1)にあてた手紙か、もしくは、その迫害の直後、67年頃に、シルワノ(5・12)がペトロの遺志を汲んで書いた手紙と考えられてきました。<シルワノ>は使徒言行録15・22の「シラス」と同一人物です。聖書として成立したのは紀元67年頃と推定されています。

 

                                 

1章1節に記されている手紙の宛先であるポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアとは、一~二世紀のローマ帝国の四つの属州の名であり、現在のアジア側トルコの大部分の地域です。手紙の受け取り人は、キリスト教に改宗する前は、ユダヤ教の生き方に賛同していた異邦人であったと思われます。その多くは社会的地位も低く、奴隷や異教徒の夫を持つ婦人や若者たちがかなり多くいたようです(2・18-3・7、5・5)。著者は実際に起こっていた迫害状況に即して具体的に語っているので、その迫害はローマ帝国による公的迫害というより、ある地方における一般的な中傷や非難であったと考えられます。本書では<長老>のみが教会の職務として記されており、奉仕者や監督についての職制が定立される以前の単純な組織体としての教会であったと思われます。

1章1~2節の挨拶のあと、1章3節~12節では、まず主イエス父である神を讃美します。わたしたちを新たに生まれさせ、キリストの復活によって生き生きとした希望を与え、天に蓄えてある財産を受け継ぐ者としてくさった神の救いを述べます。あなたがたは、終末の時の救いを受けるために、<神の力により、信仰によって守られている>と励まします。

1章13~25節では、「聖なる生活をしよう」と、清さと神への畏敬と兄弟愛を勧告します。

2章1~10節では、生きた石、聖なる国民となろうと、神の民としての共同体形成が勧められます。2章の11節以下は、

「神の僕として生きよ」と異教社会に生きるキリスト者への実際的な勧告を与えます。2章18~25節では、召し使いたちへの勧めがなされます。あなたがたのために苦しみを受けられたキリストを模範としなさいと勧めています。

 3章1~7節は、信徒でない夫に対する妻の宣教は、言葉によってではなく、神を畏敬する妻の純真な無言の生活によってなされるべきであると勧められています。妻のあるべき性格として「柔和でしとやかな気立て」という内面的な人柄が強調されています。「柔和」とは、苦難の中にあっても謙遜にひたすら耐えて神に服従するというイエス自身の人柄を表すことばです。夫に対する勧告は、その妻や子供たちはほとんで改心していたと思われるので、非常に簡潔です。夫は勝手な要求を妻に押しつけず、配慮しなさいと勧めています。夫婦関係が崩れている時には<祈り>が妨げられる。しかし、夫婦が相互に抑制し尊敬し合うとき、祈りが十分になされ、それが夫婦の生活の基盤になる、と説いています。

 3章8~12節は、「おわりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」と勧めます。

 今日の聖書の箇所、3章13~22節では、苦難の中にある読者を励ますために、<正しいことのために苦しむ>ことの意義を展開します。

 「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」(4・13-14)

 熱心に善行を続ければ神が神が必ず助けてくれる(イザヤ書50・9)、究極的には彼を傷つけ人格を破壊できる者はだれもいない、という確信です。<義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです>は、主イエスの教えでもあり(マタイ5・10)、文脈から判断すると、現在苦難に直面している読者に語りかけているように思われます。

 「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(3・15)

 人々を恐れないで、主なるキリストのみを畏れ、あがめなさいと勧めています。あなたがたの希望を、いつでもだれにでも説明できるように備えていなさい、と勧めています。

 「それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」(3・16-17)

 <穏やかに、敬意をもって、正しい良心で>弁明するとは、聖霊を受け神と共に判断するキリスト者の姿が示されています。そして<正しいことのために苦しむ>ことの宣教的意義を強調しています。

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(3・18)

2章21b-25節に記されているキリストの受難の意義の要約です。ここではキリストの受難の<ただ一度>が強調され、そのいけにえが<あなたがたを神のもとへ導くため>であるとされています。祭司であるキリストが自分自身をいけにえとして<罪のために>ささげたことにより人間が神に近づくことができ<義に生きるように>なったという意味でしょう。<霊では生きる者とされた>は、「死からよみがえらされた」と同じ意味です。

 「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」(3・19-20)

 <捕らわれていた霊たち>は、神に服従しなかった者です。彼らが捕らわれている場所は明らかではないが、ここでは復活のキリストの昇天途上、地の上方に位置すると考えられます。ノアの箱舟のときに神様に従わなかった人々たちのことをここに書いているのは、キリストの福音に従わなかった人の代表としているのです。既に死んだ人々にどのような救いの道が備えられているかということについては、ここでははっきりとした答えは記されてはおりません。<宣教されました>は、一般には悔い改めの勧めと赦しの宣言ですが、ここでは復活者の勝利の宣言と見做されます。世々の教会は使徒信条において「陰府にくだり」と告白します。主イエス・キリストの人間に対する救いの御業の大きさを信仰をもって言い表したのです。ノアは、義人の代表の一人とみなされおり、<箱舟>は後に十字架の型、教会の型と考えられるようになったが、すでにここでは洗礼との関連で考察しています。<箱舟に乗り込んだ八人>とは、ノアとその妻、および三人の子セム、ハム、ヤフェトとその妻たち(創世記7・7)です。彼らは神の言葉に服従し破滅から救われたという点でキリスト者の予型でもありました。<水の中を通って救われた>は、ノアたちが、洪水の中を通って安全な場所へ導かれたように、キリスト者は洗礼の水の中を通り、その水によって救われるという両方の意味がこめられています。

 「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(3・21)

キリスト教の洗礼は不浄を除去する儀式的行為ではなく、<神に正しい生活態度をとることを約束し誓う>ことです。

 「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」(3・22)

 昇天のキリストが<神の右に座し>、神の主権をもって、人間だけでなく<天使><権威><勢力>と呼ばれる超自然的存在を含む全宇宙を支配していることを述べています。

 全宇宙を支配しているキリストによってわたしたちは守られており、キリストがどのような時も共にいて下さることは、試練の中にあっても、わたしたちの希望であり、喜びであり、苦難に打ち勝つ力でもあります。

 

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「女性の働き」 フィリピの信徒への手紙4章1~3節

2019-08-04 01:29:55 | キリスト教

  ↑ フィリピの町のガギタス川の祈り場で、パウロの一行から福音を聞くリディアと婦人たち

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

    聖霊降臨節第9主日  2019年8月4日     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

        礼 拝 順 序

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ わが心)

交読詩編   97(主こそ王)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)フィリピの信徒への手紙4章1~3節(p.365)

説  教   「女性の働き」  辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21)  567(ナルドの香油)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

             次週礼拝 8月11(日)  午後5時~5時50分 

             聖 書 ペトロの第一の手紙3章13~22節

             説教題 「苦難の共同体」 司会 千田開作兄

             讃美歌(21) 361 531 交読詩編 13

   本日の聖書  フィリピの信徒への手紙4章1~3節

 1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 2わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 3なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。

   本日の説教

  

    フィリピへの伝道は、パウロが第二伝道旅行の時、アジア州のトロアスでマケドニア伝道の幻を与えられたことによって始まります(使徒言行録16章9-15節)。パウロとシラスとテモテと、トロアスで一行に加わった医者ルカの四人は、トロアスから船出してサモトラケ島に直行し、翌日ネアポリスの港に着き、そこから、マケドニヤ州第一区の都市で、ローマの植民地であるフィリポに行きました。そして、この町に数日滞在しました。伝道の結果、アジア州のティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人や、看守も救われ、彼らの家族も救われました(使徒16章12-34)。そしてここにヨーロッパで最初の教会が誕生しました。紀元五十年頃のことです。

  

     リディアが洗礼を受けたガギタス川と教会

 

           フィリピの遺跡

  フィリピは、現在はギリシャ共和国の北東部、ブルガリアの国境に近い、東マケドニア地方にある、ピリッポイという町(Filippoi)です。

   マケドニヤ王国のアレキサンダー大王の父親フィリッポス二世がこの町を占領し、自分の名にちなんでフィリッピ(ピリピ)命名した町です。近くの山から金が産出したので金鉱開発が進められ、ヨーロッパに通じるエグナティア街道の重要な場所としてこの町は発展しました。パウロが訪れた時は、この地方最大のローマの植民都市でした。

  リディアはエフェスの北東約80キロにあるティアティラ市(現在名はアクヒサール)出身の紫布を商う商人でした。彼女は家族や使用人と共に、パウロから洗礼を受けたヨーロッパで最初の信徒でした。彼女の家で集会がもたれ、教会に成長しました。彼女が住んでいた土地はリディア村と呼ばれ、現在もフィリピの遺跡の西にリディア(Lydia)と呼ばれる町になっています。

 このようないきさつで使徒パウロから福音を伝えられたフィリピの教会は、以後、パウロと親密な関係を保ちました。折にふれて使徒パウロの宣教活動を援助していたフィリピの教会は、事情があって一時援助を中断していました。しかし、<もののやり取り>の関係(4・15)が再会し、信徒たちはエパフロディトを代表に立て、贈り物を持たせて監禁中のパウロのもとに派遣しました。彼はしばらくパウロのもとにとどまって奉仕したが、病をえて、フィリピに送り戻されることになります。この機会に、贈り物への感謝を表し、信徒たちへの愛慕の思いを伝え、使徒としての配慮から種々の勧告を記した手紙をエパフロディトの持たせて送ったのがこの手紙です。

  手紙の中には、監禁の場所とフィリピとの間で相当数の往来があったことが指摘されており、これらのことから、距離や交通の便などを考慮に入れるとエフェソが一番好条件の地ということになり、近年ではエフェソ説が有力です。

 パウロは第三伝道旅行中の紀元53~55年頃エフェソに二年三か月滞在しました。エフェソの投獄については、使徒言行録は記していません。しかし、パウロは、アカイア、マケドニア、アジアの諸教会との文通の中で、繰り返しその受難について言及しています。

 パウロはフィリピの信徒への手紙で、最初の挨拶の後、<わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。>(1・3) と述べています。

 この4章からなる短い手紙で、<喜び>という言葉が16回も用いられ、手紙の内容も<イエス・キリストにある喜び>で満ちているところから、「喜びの手紙」とも呼ばれています。

  2章6-11節に、有名な「キリスト賛歌」が叙述されているが、思弁的なキリスト論ではなく、このキリストを模範とせよ、という実践的な勧告となっています。 

   今日の聖書の個所、4章1節には、「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」とあります。<だから>とは、3章の終わりまでにおいて述べられた、将来におけるからだのよみがえりを待望しつつ生きる信仰者の生き方についての記述を、<しっかりと立ちなさい>と結論的な勧告して結んでいます。

  フィリピの教会の人々に対して、「わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」と呼び掛けることによって、彼らが終わりの日に、パウロの「喜び」と「冠」となるように、敵対者たちに抗してその信仰生活を全うするようの勧告します。「このように主によってしっかりと立ちなさ」とは、3章で述べられたからだの復活を終末時に待望する信仰者の生き方を指しています。「主によって」は、主に服従しての意味であり、1章27節での「一つの霊によってしっかり立ち」と実質的には同一事態を指します。

 「しっかりと立ちなさい」は、敵対者たちに属することなく、「主」の支配下にとどまるようにとの勧告です。 

「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」

  パウロと交渉のあった諸教会においては、一般に婦人たちは重要な働き人でした(たとえばローマ16章、使徒16・13以下)。ここでも二人の婦人たちは、かつてフィリピ教会で福音のためにパウロと共に戦った人々です。この教会で彼女たちは有力な指導者であり、教会全体に影響力を持っていたと想定されます。

  二章の始めから、信徒間の一致を勧めてきたパウロは、<エボディア>と<シンティケ>という二人の婦人の個人に対して、<主において同じ思いを抱きなさい>と勧告します。「主において」とは、「主の支配に服して」という意味です。「同じ思いを抱きなさい」とは、共同体の一致を志向し、そのために努力せよということであり、より具体的に言えば、へりくだりにより、共同体の一致の形成とそれによる福音のための共同の戦いの再開が指示されています。このようにして、パウロは、抗争関係に陥ったために、もはや互いに一致して、他の同労者たちと共に敵対者たちに抗して戦うことができなくなっている婦人たちに対して、和解を勧めたのです。彼女たちは、4章3節にあるように、かつて<福音のために>、<共に戦った>とあります。おそらく彼女たちは教会建設に際して努力を惜しまなかった婦人たちだったのでしょう。これは、単に過去の業績を指摘するだけの言葉ではなく、今また再びそのようなことの行われるを期待する言葉です。

  パウロは、一章で「あなたがたは一つの霊によってしっかりと立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており」(フィリピ1・27)と語りました。パウロは、エボディアとシンティケに語りかける前に、<主によってしっかり立ちなさい>と勧告しています。パウロは、何らかの事情で教会の活動に協力的でなくなっているエボディアとシンティケに<主によってしっかり立つ>ことを求めたのです。

  「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」

  教会の指導的な働きをしていた協力者に、二人の婦人を助けるように頼んでいます。この依頼は、単に仲介の労をとってほしいということに尽きるのではなく、和解によって彼女たちが再度、他の信徒たちといっしょに福音のために戦うものとなるように助けてほしいという依頼です。

「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」

この箇所は、婦人たちの過去の業績に言及します。これは単に、業績を指摘し、それによって「彼女たちを助けてあげてほしい」という依頼を理由づけるため、ということではなく、おそらくは、婦人たちが再び、福音のためにパウロおよび他の信徒たちと一致して戦うように、という期待がこめられています。

  クレメンスはフィリピ教会の同労者、教会の創立時の指導者だったのでしょう。<命の書>に名を記されているとは、神の民の天にある登録簿に名前が記されているということであり、神の救いの計画に入れられている、という終末的約束です。罪人の名がそこから<消し去る>と言う表現が詩編69・28にあります。命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと同じように、彼女たち二人も、終末時に救われることを約束されており、女たちはみんなと力を合わせて、福音のためにわたし(パウロ)と共にと戦ってくれた人達なのです、とパウロは彼女たちのかつての業績をたたえているのです。彼女たちのことを多くの人が忘れても、神はその忠実な僕を覚え、ご自身の民として祝福してくださっていることをパウロはフィリピの教会の人たちに伝え、彼女たちを復帰させるように依頼しているのです。

   フィリピの教会は、先に述べたように、紫の布を商うリディアが信者になり、彼女が自宅を開放して、パウロの宣教を助け、彼女の家が基礎となって出来た教会です。エボディアとシンティケは、このリディアの信仰を受け継いだ有力な信徒と思われます。リディアたちを中心として出来たフィリピの教会は、その後長くパウロに対する親愛の情を保ち、彼に必要な経済的援助を送ってパウロを助けました。

   パウロがコリントで出会ったプリスキラと夫のアキラもパウロを助けました。パウロは彼女の家に住み込んでコリントで伝道したのです(使徒言行録18・1~4)。この夫妻は、その後、パウロに同行してエフェソに行き、エフェソでも活躍したのです。 コリントの東にケンクレアイ港がありますが、ケンクレアイの教会の奉仕者の女性フェベもパウロの援助者でした(ローマ16・1-2)。このように、キリスト教の発展の陰にはこのような女性信徒や女性指導者がいたことを覚えたいと思います。

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