↑ ヤコブの手紙の著者
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第13主日 2019年9月1日 午後5時~5時50分
年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 斎藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 402(いともとうとき)
交読詩編 119、1-16(いかに幸いなことでしょう)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) ヤコブの手紙1章19~27節(p.422)
説 教 「信仰者の実行による証し」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 9月8(日) 午後5時~5時50分
聖 書 ローマの信徒への手紙14章1~9節
説教題 「正しい服従」
讃美歌(21) 441 507 交読詩編 92
本日の聖書 ヤコブの手紙1章19~27節
1:19わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 20人の怒りは神の義を実現しないからです。 21だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。 22御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 23御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 24鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。 25しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。 26自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。 27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
本日の説教
ヤコブの手紙の著者は、「神とイエス・キリストの僕であるヤコブ」(1:1)とありますが、使徒的権威のあるイエスの弟ヤコブ(パウロの殉教の数年後、紀元62年にエルサレムで殉教)とする説があります。しかし手紙で用いられている流暢なギリシャ語やその内容から、権威的な指導者であった主の兄弟ヤコブの名を借りたユダヤ人キリスト者の勧告の文書とするのが最近の有力な学説です。著者はその思想内容(イエスの山上の説教と関連する)からみてユダヤ人キリスト者と思われています。
宛先は<離散している十二部族の人たち>(1:1)と記されていますが、ユダヤ民族をさす<十二部族>という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられています。
この手紙の中では、イエス・キリストの名は二回しか用いられておらず(1:1と2:1)、キリストの信仰との関係の薄いユダヤ教的色彩の濃厚な実践的教訓や宗教的格言で満たされています。執筆場所は不明です。
ヤコブ書1章18節で、御父は、御心のままに、<真理の言葉>、すなわちイエス・キリストによる救いの福音によってわたしたちを救い、新生させてくださったことを述べました。この<真理の言葉>・御言葉を聞くこと、行うことの重大性が語られます。先ず19節~21節は、御言葉を聞くことが信仰生活にとって大切であることを訴えます。
「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(21節)
私たちの魂を救う聖書の御言葉を受け入れなさい、と勧めます。そのためには、<だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい>と命じます。神の御言葉に対して、<聞くのに早く>、自分の主張を<話すのに遅く>、せっかちに判断して<怒るのに遅く>あるべきです。<人の怒り>は感情に左右されて公正な思考や行動ができなくなります。それゆえに<神の義>を実現しません。キリスト者によって証しされなければならない神の義の実現を妨げてしまうのです。神の怒りは、正く、忍耐や赦しに満ちています。このように、神の御言葉に応答することが<神の義>・すなわち神が人に要求されることを満たしていくことになるのです。
わたしたちの御言葉に対する怒りをひき起こす<汚れや悪>を<素直に捨て去り>、誤りが自分の側にあることを知ったら、喜んで改めることです。そして<心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい>とヤコブは勧めます。
次に22節~25節では御言葉を行うことを勧めています。
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(22節)
ヤコブ書では、<行い>が強調されています。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は<生まれつきの顔>、人間の醜い本性を鏡に映して眺める人に似ています。御言葉を聞くだけで行わない信仰者を<鏡>を見ながら忘れる人、浅薄な、一時的な受けとめ方をする人にたとえています。
しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人ですとヤコブは御言葉を<自由をもたらす完全な律法>と見ています。ここで言う律法は、パウロ的な福音に対立する意味での律法ではなく、福音の意味で用いています。福音を律法と言い表している例は、他にガラテヤ書6:2に「キリストの律法を全うする」という言葉で表現されています。福音はそれが神によって定められた生き方である限り律法であり、神の求められる最高の態度である限り完全であり、それがわたしたちを罪から解放し救うので自由の律法なのです。そうしてそれが律法である限りは、これを<守る人>、<行う人>が重んじられ、そのような人は<その行いによって幸せになるのです。 ただ形式的に礼拝に連なり、自分が信心深い者だと思っても、口が先立って舌を制することが出来ず、信者らしく振る舞うならば、そのような信仰者の信心は無意味です。
ヤコブは、神の御前に清く汚れのない信心は、<みなしごや、やもめ>のような、わたしたちの援助を必要としている者たちに対して、愛をもって<世話を>することと、汚れた世の中にあっても<世の汚れに染まらないように>自分を守ることをあげます。まことの信仰生活の特徴として隣人愛と自己聖化とをあげています。この徳をあげたのは、すでにイザヤ書1:15-17、エレミヤ書7:21-23などの預言者たちであり、また主イエスも「飢えている者に食べさせ、のどの乾いている者に飲ませ。旅をしている者に宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいるときに訪ね」、最も小さい者の一人にすることを勧めています(マタイ25:35-45)。マザー・テレサはこの主イエスの教えに忠実に従い、愛を実践した証し人です。
ヤコブは<行いのない信仰は人を救うことができない>(2:14)と主張しています。神がアブラハムを義とされたのは、アブラハムの信仰が行いによって完成されたからであると大胆に主張しています(2:22)。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2:16)と述べるパウロに反対の立場にあるように見えます。
パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3・28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3・20、ガラテヤ2・16)とあります。パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4・7)神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派な行いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださる、と説いています。
ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教えに反対しているのではありません。救われた者の生活における行いの重要性について述べているのです。パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。 ヤコブの手紙はパウロの主張した信仰によって義とされるという教えが誤解され、行為が軽視され始めた頃にこれを批判するために書かれたと思われます。
人間に救いをもたらす信仰は、愛によっていきいきとしたものとされ、その愛によって必ずよい行いを伴うということを説いているのです。主イエスも、山上の説教の終わりで、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と語り、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7:21、26)と言われています。使徒パウロも、「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするように」(使徒言行録26:20)とすべての人に伝えました。
パウロは「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのである」(ローマ3:31)と言っています。それは罪に傾く性質を持った人間として生きるのではなく、聖霊によって生きる新しい人間に造り変えられ、聖霊に従って生きるとき、はじめて神の御心に適う者とされるのです。キリストの結ばれ、愛の実践を伴う信仰こそが大切となるのです(ガラテヤ5:6)。
「聖霊に従う生活をするとき、自己中心的な罪に傾きやす性質から解放され、キリスト共に、神を愛し、隣人を愛する生き方が可能となるのです。そうすれば決して罪に傾くような欲望を満足させるようなことはなくなるのです(ガラテヤ書5:16)。聖化は、人それぞれその成長速度は違います。何度も失敗を重ねるかも知れませんが、必ず御霊によって成長していくのです。霊の導きに従って、みんなで前進しましょう。