富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「求めなさい。そうすれば与えられる。」 マタイによる福音書7章7-12節

2020-10-31 17:42:45 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

降誕前第七主日          2020年11月1日(日)

          午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

   礼 拝 順 序

                司会 齋藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編    27(わたしは心を尽くして主に感謝をささげ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書7章7-12節(新p.11)

説  教  「求めなさい。そうすれば与えられる。」辺見宗邦牧師  

祈 祷                                            

讃美歌(21) 440(備えて祈れ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

               次週礼拝 11月8日(日)午後5時~5時50分  

               聖 書  ローマの信徒への手紙3章21節~28節

               説教題 「人間の堕落」

               讃美歌(21) 355 436 27 交読詩篇 51

 本日の聖書 マタイによる福音書7章7-12節

7:7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 8だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 9あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 10魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 11このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。12だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 本日の説教

 「求めよ、さらば与えられん。」文語訳聖書のことばです。私が初めて聞いた聖書のことばです。私が県立古川中学校(旧制中学校)の1年生の終業式の日、英語を教えていた樋口先生の離任式がありました。先生は仙台の東北学院中学校で勤めることになり、そのお別れの御挨拶の最後に、この聖書の言葉、「求めよ、さらば与えられん」を私たち生徒に送られたのです。気品のある紳士で、ユーモアのある先生はクリスチャンだったのです。わたしは、この聖書の言葉に感銘を受けました。

 それ以来、この聖句はわたしの人生途上で大きな役割を果してくれました。祈り求めたものが、与えられました。高校2年生のとき、漢文の授業で、「明日(あした)に道を聞けば、夕べに死すとも可(か)なり」という孔子の説いた論語の言葉です。人はどう生きるべきかが解ったなら、死んでも悔いはない、という意味です。私は、「何のために生れきたのか」、「なぜ死があり、親と別れなければならないのか」など人生の意味を知りたく悩んでいたので、この人生の「道」を知りたいと、祈り求めました。当時は、まだキリスト教の神についても全く知らなかったので、「神様」とは、どういう方なのか知りたいと、強く願っていました。

 自宅の兄の本箱の上にあった聖書を開いて、出合ったのが、山上の垂訓(すいくん=説教)の中にある「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」という言葉でした。当時、二学年上の兄とよく兄弟けんかをしていたので、兄に叩かれても、仕返しをしないようにしようと思ったのですが、どうしても悔しくなって、この聖書のお言葉を実行できませんでした。それで、どうして実行できない教えが聖書に書かれているのか疑問になり、初めて陸前古川教会を訪れ、牧師に尋(たず)ねました。後藤牧師は、私の質問には即答なさらず、教会の礼拝に通ううちに分かるでしょうと言われました。おそらく、ただ説明しただけでは理解することが出来ないと思われたからなのでしょう。教会の日曜日の礼拝と水曜日の午後5時からの祈祷会に通ううちに、イエス様の罪人をも愛する愛を知った私は、大学入学前のイースターの日に受洗しました。

後になって分かったことは、「だれかがあなたの右の頬(ほほ)を打つなら、左の頬を向けなさい」(マタイ5:39)という教えは、「敵を愛しなさい」という教えであり、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」(マタイ8:48)という教えです。イエス様のこの御言葉によって、生れながらの人間は、神の前に不完全な人間であり、罪人であることを自覚させられるのです。このような人間を「天の父の子」とするために、イエス様はこの世にられ、十字架の死によって私たちの罪をあがない、罪と死から私たちを解放するために復活して天に帰られました。イエスの十字架と共に古い私を十字架につけて死に、イエスの復活にあずかって新しい人とされるのが洗礼です。生まれ変わった新しい人は、イエス様から聖霊をいただき、天の父の子にふさわしく、敵をも愛する人に次第に変えられていくのです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ福音書14:6)という御言葉から、若いときに「道」を知りたいと願っていたことが、かなえられたことを知りました。またイエス・キリストを通して生ける真の愛の神を知ることもできたのです。

主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われました。祈りは必ず聞かれると言われているのです。私たちにとって大きな励ましとなるこの言葉が、ここで語られるのは、これまで主イエスが語った様々な教えや戒めを実行することは、到底不可能に思え、「わたしは何と惨めな人間なのだろう」と無力さ、罪深さを自覚し、助けを求める者に対する励ましなのです。

主イエスは、<求める>、<探す>、<たたく>と言う三つの言葉を並べることによって、熱心な祈りをささげるように励まされます。しかし、祈りに限定する必要はありません。「求める」は「神の国とその義」に対しても使われ、「求めなさい」言われています。「見出す」は、「自分の命」(10・39)、「安らぎ」(11・29)、「宝」(13・44)などで用いられています。「たたく」は「門」(7・13)と関係があるようです。いずれも、「求め続けなさい」、「捜し続けなさい」、「たたき続けなさい」と、熱心に継続することが求められています。

そうすれば、「与えられる」、「見つかる」、「開かれる」といっておられます。神は熱心な祈りに答えてくださるのです。しかし、神は何でも祈ったとおりに与えてくださるというのではありません。神は私たち一人一人を最もよく知っておられる方であり、熱心に祈る人に対し、その人にふさわしい最善のことを、最善の方法で、最善の時に答えてくださるのです。願ったとおりにならないときでも、神は今、自分にとって最善の道を歩ませてくださっていることを信じ続けるべきなのです。

主イエスは、さらに必ず与えられるという確かさを、親子の例を用いて説明します。世の親は、子供に少しでも良い物を与えようとします。パンを欲しがっているのに、石を与える親はいません。あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいないと言われています。ルカによる福音書には、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11・13)とあります。絶えざる熱心な祈りに応えて神は、わたしたちにとって、もっとも良いものである愛と聖霊とを与えてくださり、父なる神の性質にあずからせてくださるのです。聖霊は私たちに信仰・希望・愛を与えてくださいます。神様との親しい交わりを与えてくださいます。何が正しいのかという判断も知恵も与えてくださいます。私たちの互いの平和も与えてくださいます。生きる力も勇気も与えてくださいます。自分が何をしていけば良いのかという、将来の見通しも与えてくださいます。そして、祈りも与えてくださるのです。

 神が私たちの祈りに応えて、良い物をくださるのだから、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」と主は言われます。黄金律と言われているこの言葉は、愛の実行を勧めます。愛において律法の諸要求は満たされ、完成するのです。律法は徹底的に隣人を尊重することによって、守られるものであり、そのような人間関係と、神との関係を<求めなさい>と主イエスは勧めるのです。

私たちの祈りも、自分のことや家族のことについてだけ為されるのでなく、ほかの人のためにも祈らなければないません。自分以外の人のためにしっかり祈ることが出来れば、私たちは、自己中心的な思いから解放され、愛に満たされ、いつも天からの光の中を歩むことが出来るのです。

 

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「神の声を求めるヨブに答える神」 ヨブ記42章1~6節

2020-10-24 01:31:44 | キリスト教

      ↑ レオン・ボナ(1833-1922) フランスの画家 ガリガリに痩せた老人ヨブは「どうしてですか」と苦し気に天を見上げています。見上げるのは神のみ、ヨブを愛される神を思い浮かべる画でもあります。

    主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。 男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。(ヨブ記38章1-3節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

               日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第二十二主日   2020年10月25日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                  礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 219(夕日落ちて)

交読詩編   104(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨブ記42章1~6節(旧p.826)

説  教 「神の声を求めるヨブに答える神」 辺見宗邦牧師  

祈 祷                                             

讃美歌(21) 531(主イエスこそわが望み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                        11月1日(日)午後5時~5時50分

           聖書 マタイによる福音書7章7~12節

                                        説教題 「求めなさい。そうすれば、与えられる。」

                                        讃美歌(21) 214 440 27 交読詩篇 27

        本日の聖書 ヨブ記42章1~6節

42:1ヨブは主に答えて言った。 2あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 3「これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。 4「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」 5あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 6それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。

 本日の説教

ヨブ記について,カトリック教会の神父であり、聖書学者の和田幹男氏は次のように記しています。「なぜ人はこの世で苦しみ、悩まなければならないのか。しかもなぜ、何の理由もなく悲惨なことが身に起こることがあるのか。このような人生に、はたして意味などあるのだろうか。この世界そのものが不条理にできていて、正義なる神などいないのではないだろうか。これは、古代イスラエル人のみならず、人がいるところにはどこにもある問題である。ヨブ記はまさにこの問題を正面から取り上げ、解答を求める。」(共同訳旧約聖書注解Ⅱ、ヨブ記の序論)

ヨブと言う人は神を恐れ、悪を避けて生きる正しい人でしたが、サタンの試みを受け、次々と災難に襲われました。略奪隊による被害や二度も天災に遭い、財産も、家畜も、使用人たちも、さらには七人の息子と三人の娘たちも、すべてを失ってしまいました。すべてを失っても、ヨブは神を呪いませんでした。むしろヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:11)と言って、神を非難することもなく、罪を犯しませんでした。

主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。

 さらに、ヨブは頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかり、ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしって苦しみに耐えました。彼の妻は、夫のあわれな姿を見るにしのびなく、「どこまでも純真でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と告げました。ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(2:10)と妻をたしなめました。このようになっても、彼は神を呪いませんでした。 

ここまでが散文で書かれている序文です。この信仰に至る経緯が、3章から、42章6節までの主要部(本文)で、詩文で記されます。

ヨブと親しいエリファズ、ビルダト、ツォファルの三人の友は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来ました。彼らは遠くからヨブを見ると見分けられないほどの姿になっていたので、しばらく茫然とし、嘆きの声をあげました。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていましたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできませんでした。

 7日間経過後に、ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪います。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生れてすぐに息絶えなかったのか」(3:11)、と。ヨブが死を願う独り言を言い始めたことから、三人の友人たちは、次々にヨブを説得します。最初にエリファズが、すべての人には罪があり、それゆえ神の懲こらしめに対して叫びを上げるヨブは誤っていると、ヨブの罪をほのめかします。だが、罪を犯した覚えのないヨブの挑戦的な態度が増していくと、無遠慮なツォファルは「神があなたの罪の一部を見逃していてくださった」とあからさまに言います(11:6)。ヨブは友人たちを批判し、「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ」(13:3)と言います。「罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪やあやまちを示してください」(13:23)と神に訴えます。

 ヨブと三人の友との二回目の議論は、15章から始まります。ヨブは「天にはわたしを弁護してくださう方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(16:19-20)と仲保者キリストを預言するようなことばがあります。ヨブは、「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ちくだくのか。侮辱はこれで十分だ。」(19:3)と言い、「憐れんでくれ、憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないのか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか。」(19:21-22)と訴えます。ヨブは今わたしたちの想像を絶する苦難と孤独の中にいます。そしてついに、「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」(19:25、)と、彼を滅ぼす神ではなく、彼の正しさ(義)の保証し、彼を贖う神は生きておられ、最後には必ずこの地上に立ってくださることを信じ、待ち望んでいます。

ヨブと三人の友の三回目の議論が22章から始まり、28章まで続きます。ついにエリファズまで「あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか」(22:5)と決めつけます。友人たちはあくまでも正義の神を擁護しようとし、ヨブを裁きます。これらの当てつけや告発に対して、ヨブはますます熱を込めて彼の無実を主張します。「死に至るまで、わたしは潔白を主張する」(27:5)と言います。

友人たちとヨブの議論は決着のつかないまま終わり、ヨブは再び嘆きの独白を始めます29章1節~31章40節)。

ヨブは神を否定してはいません。ヨブにとっての絶望は、近くにいたもう神が、今や遠くにおられ、彼に対して沈黙を続け、み顔を隠しておられることです。「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。」(30:20)ヨブが苦しみの中で格闘しているのは、生ける神との出会いであり、神ご自身の声を聞くことにありました。「ヨブは語り尽くしました。」(31:40b)

さて、もう一人の友人エリフが現れます。彼は、ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので怒り、ヨブに反論できない三人に対しても怒ります(32:6)「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない」(33:13)と語り、ヨブの神への問いかけは高ぶりとして非難するのです。この友のヨブに対する攻撃には、信仰者同志の深い同情に欠けています。この友もヨブに対して、神の審(さば)きを語るのです。エリフの語るところは教理的に間違ってはいないが、しかし、ヨブを納得させるものでもありませんでした。今、神に呼び求めても答えられず、神との交わりを断たれたのではないかと苦悶するヨブに対して、彼は一方的に彼の神観を、37章まで長々と述べます。この主張までが、ヨブを苦しめました。

神はこれまで沈黙を続けていましたが、問い続けるヨブを、無視していたわけではありません。今、その全能の力と愛をもってヨブの前に現れます。主は嵐の中からヨブに答えて仰せになります。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」(38:2-3)<経綸>とは、神の計画とその実現の御業をまとめて言う言葉です。これまで、「なぜですか」と神に問い続けたヨブは、逆に神から問われるものとなり、ヨブの側も、腰に帯し覚悟して、神の前に自らの全存在をかけて立つことを求められたのです。

神は天とともに地を造られ、その基を据えた方です。神は、ヨブに向かって、天と地の創造の時、どこにいたのか、それに参与したかと問われるのです。もし知っているなら言え、とせまります。

ヨブの知らない、自然のこと、天体のことの、一つ一つにも神の深いみ旨が及んでおり、すべては創造者である神につながっています。そしてこれらのことは、人間中心にものごとを見ようとする立場に対して、自分を離れて物を見ることの必要性を教えているように思われます。主は仰せになりました。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」(40:1-2)神に問うてきた者が今や神に問われる者となったのです。人は神からの問いかけによって初めて自らを知り、自らの位置と意味を知るに至るのです。自己中心の世界に生きていた者が、神中心の世界に生きる者に造り変えられるのです。ここに生ける神との交わりが成立するのです。

ヨブは、「わたしは軽々しくものを申しました」と詫び、「もう主張いたしません」(40:4-5)と誓います。ヨブにとって主が直接答えられたことは何にも勝る大きな喜びでした。ヨブはこの主の前にもはや返す言葉はありませんでした。

しかしヨブはまだ悔い改めにまで至っていません。主は再び語ります。「お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」(40:7-8)ヨブは主に答えて言いました。「あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました、あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:2、5-6)

 

「あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎます。」(ヨブ記42:5)  

ヨブが経験した「神を見た(目で仰ぎ見た)」経験は、ヨブをして創造者である神の絶対性と被造物である人間の卑小さを自覚させました。創造者なる神は全能の神であり、ヨブもそのような神の全能の愛の対象であることを明らかにしました。その意味での神の全能と愛が自分にも向けられていることをヨブは知って、悔い改め、神の全能を承認し、告白し、賛美します。

ヨブは主の語りかけを聞いただけでしたが、彼は「あなたをこの目で仰ぎ見ます」と答えています。ヨブは生ける神の語られるのを聞いて、神を怖れ信じたのです。神が生ける神であるゆえに信じたのです。人は何かの利益が伴っているので信仰するのではないのです。「災い」と「幸せ」を越えて、ひたすら神を礼拝し、より頼むことが、真実の礼拝です。

結びの(42:7-16)散文では、主は、三人の友に仰せになりました。「わたしはお前たちに対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」(42:7)と言い、三人に雄牛と雄羊を七頭、自分のためにいけにえとしてささげよと命じました。友人三人は主が言われたことを実行しました。ヨブは彼らのために祈りました。主はヨブの祈りを受け入れて、ヨブを元の境遇に戻し、さらに財産も二倍にされた外に、娘たちも与えられました。彼は新たなる祝福を得たのです。ヨブは、以前にもまして、繁栄と幸福を得ます。ヨブは長寿を保ち、老いて死にました。ヨブは苦難の中で、神を求めて生き、神と格闘し、ついに神の声を聞き、神信頼にかたく立つことが出来る人生を送ったのです。

ヨブ記は、なぜ正しい者に苦難がのぞむのかという、人間の疑問に対する、物語による一つの解答です。唯一の解答ではりません。人間の罪とその解決に対する重大な問題は答えれていません。

苦難の意味は、罪のない御子の十字架と復活、そして昇天による救いにあずかって、明らかにされることになります。ヨブが仰ぎ見た「天上の弁護者・執成す方」(16:19-20)、地上の「塵に立つ」、罪より「贖う方」(19:26)が御子キリストの来臨による十字架と復活・昇天によって、現実のものとなったのです。「わたしたちすべてのために、御子さえ惜しまず死に渡された方」である神と「神の右に座ってわたしたちのために執成してくださる」(ローマ8:32-34)キリストの愛は、どんな苦難にも勝利させてくださるのです。

 

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「試練を与え、逃れる道を備える神」 コリントの信徒への手紙一、10章13節

2020-10-17 23:03:38 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第二十一主日  2020年10月18日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                         礼 拝 順 序

                司会 齋藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編    63(神よ、あなたはわたしの神)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一、10章13節(新p.311)

説  教   「試練を与え、逃れる道を備える神」   辺見宗邦牧師   

祈 祷                            

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 493(いつくしみ深い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

            次週礼拝 10月25日(日)午後5時~5時50分  

            聖 書  ヨブ記42章1~6節

            説教題   「苦悶のヨブに答える神」

            讃美歌(21) 219 531 27 交読詩篇 148

  本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、10章1~13節

1兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、 2皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、 3皆、同じ霊的な食物を食べ、 4皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。 5しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。6これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。 7彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。 8彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。9また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。 10彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。11これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。 12だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。13あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

    本日の説教

紀元前十四~十三世紀頃、イスラエル人はエジプトで奴隷の生活を強いられていました。イスラエル人の苦しみとうめきを知った神は、モーセを用いて彼らをエジプトの束縛から救い出そうとされました。1280~1230年頃、予言者であり、民族指導者であるモーセに率いられて、イスラエルの民はエジプトを脱出し、神に示された約束の地カナン(現在のパレスチナ)を目指して旅を始めました。出(しゅつ)エジプト、それは長い時代の奴隷からの解放であり、神がイスラエル民族の父と言われる族長アブラハム(1950年頃)や、その孫の族長ヤコブ(1800年頃)に与えると約束した地へ帰る喜びの出来事でした。シナイ半島の荒れた砂漠の旅で、飢えと渇きに苦しめられましたが、したが、^神に導かれ守られた旅でした。  

 

エジプトを出てから三月目にシナイの荒れ野に到着しました。イスラエルの民はシナイ山で神からモーセを通して十戒を与えられ、新しい律法の民として誕生しました。神は民に信頼と服従を求めましたが、民は何度もそれに背きました。

彼らはシナイ山のふもとに約一年滞在した後、エジプトを出てから二年目にそこを出発し、アカバ湾(葦(あし)の海)の岸に出て北上し、カデシュ・バルネアに到着しました。

モーセはそこから、十二支族の代表を選んでカナンの地を探らせました(民数記13・1~16)。偵察した二人の者、ヨシュアとカレブは、「主の御心に適うなら。主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。・・主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」(民数記14・6-9)と進言しました。しかし、他の偵察した十人の者たちは、カナン人を恐れカ ナンの地に入ることは不可能であると報告しました(民数記13・31)。そのためイスラエルの民は不安に陥り、神の導きのみ手を信じようとしませんでした。そこで彼らは不信の罪のゆえに荒れ野を四十年さまよわねばならなくなったのです(民数記14・31-35)。

パウロは、コリントの信徒の手紙10章1~4節で、出エジプトにおける海の奇跡(紅海を渡る)を洗礼の予型として、マナの奇跡を聖餐の予型として語ります。その海の奇跡、マナの奇跡で救われたイスラエルの民の内、約束の地に着いたのはヨシュアとカレブだけでした。他の者は皆、40年の荒れ野の旅の中に倒れて死んでしまいました。それは、「悪をむさぼったから(食べ物の不満)」「偶像礼拝したから(金の子牛を鋳造)」「みだらなことをしたから(イスラエル人とモアブの娘たちの姦淫〔民数記25・1-9〕」「主を試みたから(神とモーセに逆い、炎の蛇でかまれて死ぬ〔民数記21・4-9〕)」「主につぶやいたから(モーセとアロンに逆らう〔民数記17・6、12-14〕)」と五つの前例を挙げています。だから、そうならないように気をつけなさいとパウロは言うのです。 

 13節の「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です」と言っています。「試練」を、「苦しみ」「困難」とも受け取れます。また、この「試練」を、「誘惑」或いは「試す」とも訳せる言葉です。わたしたちは、神様の全き救いの完成に与るための信仰の歩みをしていくとき、必ず誘惑に遭います。それは神様がわたしたちの信仰を試しているのです。神様はわたしたちを救おうとされているのだから、必ずその試練・誘惑に負けない道をも備えてくださっている。神様は私共を全き救いの完成へと導こうとし続けてくださる真実な方なのだから、この方を信じて歩みなさい、パウロは告げているのです。

紀元前1950頃に、イスラエル族長アブラハムに、神は「あなたは多くの国民の父となる」と契約を結びました(創世記17:4)。神はアブラハムを祝福の源として、全世界の民を救う約束をされました。紀元前1280年頃には、神はシナイ山でモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれ、民が神との契約を守るならば、神はイスラエルの民を祭司の王国とし、他のすべての民族を神に導く仲介者とすることを約束されました(出エジプト記19:5-6)。民はしばしば契約を破りましたが、神は契約を破ることはありませんでした。

 神は真実であるとは、神が、ご自分の言葉、約束をどこまでも固く守り、それに忠実であって下さるということです。私たち人間の側の神様に対する姿勢や態度は、うつろいやすく、変わってしまい、不真実です。しかし私たちがどのように不真実な者であっても、神様は私たちに対して真実であり続けて下さるのです。そのことは、神様の独り子イエス・キリストにおいて示されています。神様は私たちへの救いの約束を果たすために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さるようにして下さったのです。ご自分の独り子を十字架にかけて下さるほどまでに、神様は私たちに対して真実であられるのです。主イエス・キリストによって示され、与えられているこの神様の真実こそが、私たちを救い、また支えるのです。私たちは、自分の力で神様の御心に適う者となり、自分の足で倒れてしまわないようにいつも気をつけていることで救いを獲得するのではないのです。信仰とは、神様の真実に支えられて生きることです。「神は真実な方です」という信仰こそが、私たちにまことの平安を与えるのです。

13節後半には、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とあります。ここには、神様が私たちを試練に遭わせると語られています。時としてわたしたちに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか、神様の恵みなどいったいどこにあるのか、と思わずにはおれないような現実です。そういう厳しい現実に直面する時、私たちはしばしば、神様に不平不満を言い、逆らい、自分の思い通りになる偶像を求めていってしまうのです。しかしその苦しみの現実は、神様からの試練です。試練は、神様が私たちを鍛え導き成長させるために与えておられるものです。試練の背後には、神様の愛が、私たちのことを大切に思っていて下さるみ心があるのです。そしてそのみ心のゆえに、神様は、私たちを「耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださ」るのです。試練は、私たちを滅ぼすためのものではありません。試練には必ず、逃れる道が備えられているのです。試練も、そこから逃れる道も、共に神様が与えて下さるのです。

わたしたちはさまざまな困難や誘惑、試練にとり囲まれたままであっても、わたしたちのために執り成しの祈りを祈ってくださる主イエスが私たちと共におられ、聖霊として側にいて下さるのです。そして神はわたしたちに逃れるための道を備えてくださるのです。

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「世の苦難に打ち勝つために」 ヨハネによる福音書16章25-33節

2020-10-09 22:00:53 | キリスト教

   「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第二十主日  2020年10月11日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

      礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 531(イェスこそわが望み)

交読詩編    8(主よ、わたしたちの主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書16章25-24節(新p.201)

説  教   「世の苦難に打ち勝つために」 辺見宗邦牧師   

祈 祷                            

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

             次週礼拝 10月18日(日)午後5時~5時50分  

             聖 書  コリントの信徒への手紙一、10章13節

             説教題   「試練に耐えるために」

             讃美歌(21) 204 493 27 交読詩篇 63

本日の聖書 ヨハネによる福音書16章25-24節

16:25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

    本日の説教

 最後の晩餐の席で話された、弟子たちとの別れの説教は13章31節から始まりますが、14章1節から31節まで本格的に展開されました。そして15章1節から16章33節まで第二の別れの説教が語られたのです。イエスがこの地上を去って、天に帰るに際してのこの説教の中心主題は、地上に残される弟子たちの不安を取り除くことにあります。今日の聖書の箇所は、第二の別れの説教の最後の部分にあたります。

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」(16章25節)

今やイエスは地上の生涯を終え、弟子たちと別れを告げるに当たって、これまで話した天上の真理について回顧します。これまでの「別れの説教」が、たとえを用いたものだったのですが、もはやたとえによらないで、はっきり天上の父について知らせる時が来るとイエスは弟子たちに語りかけます。これまでは、弟子たちにとって、たとえであっても何のことか分からない謎のような話だったと、言われています。天上の真理は、結局のところ一つの謎として語る以外に、方法がないからです。それは、天上の真理を分からせてくださる聖霊が、まだ弟子たちに与えられていなかったからです。しかし、イエスが昇天し、聖霊において再び来られるイエスは、謎を残すことなく、神の啓示を告げ知らせる時が来るであろう、と言われます。

その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。」(26節)

その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。」(26節)

「その日」とは、聖霊が弟子たちに与えられる時を指し示しています。聖霊が与えられることによって、父なる神と弟子たちとの間に、祈りによる内的結合関係ができる時のことです。これまでは、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(14章14節)と言っていました。キリストは天において、キリストの名によって神に近づく人々のためにとりなしておられます。「とりなす」という言葉は、「間に立つ」「交渉する」という意味です。しかし、聖霊が与えられる「その日」には、イエスは父に願ってあげる、とは言いません。イエスの執り成しの祈りは必要でなくなるからです。聖霊は彼らの祈りを助けるからです(ローマ8:16)。御霊は弟子たちと共にうめき、共に産みの苦しみをしつつ、彼らの祈りを助けます。

 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(27節)

 また、イエスの執り成しが必要でなくなるのは、父ご自身が弟子たちを愛してくださるからです。弟子がイエスを神から来られた方であることを信じたためです。神が私たちを愛してくださる条件は、このイエス・キリストに対する私たちの愛と信仰です。

 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(28節)

 イエスは、神と共にあった神の子であったが、父のもとから遣わされて世に来て、人間となられた。そして、受難と十字架によって<世を去って、父のもとに行き>、栄光を現すのです。

 「弟子たちは言った。『今は、はっきりとお話しになり、、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。』」(29-30節)

 弟子たちは、イエスの全知と神的起源に対する信仰を言い表したのです。彼らが信仰に至った理由は、人の心の奥底まで見抜くイエスの神的力を認めたからです。

 イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。』」(31節)

 弟子たちはしるしを見て信じたのではなく、イエスの言葉によって、イエスが神的存在であることを今ようやく信じるようになったのです。だが弟子たちの告白した信仰には、実は彼らの生命がかけられていませんでした。

 「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださ

るからだ。」(32節)

 イエスは弟子たちが、イエスの受難に際して、イエスを捨てて、散り散りになってしまうことを予告します。弟子たちの信仰が、人間的な頑張りや意気込みによるものであり、イエスと弟子たちとの間に、まだ本当に永続的結合関係ができていませんでした。この関係は復活のイエスとの出会いまで待たなければなりませんでした。弟子たちは、イエスを裏切り、捨てるという自分たちのどん底にまで至る挫折の中においてこそ、イエスは自分たちを支え給うという事実を、まだ知りませんでした。まだ聖霊を受けることなく、地上のイエスに向かって、すでに正しい信仰を告白したと信じた彼らは、実は自分の人間的な知識や判断によって、天上の真理を知り得るという自信を抱いていました。しかし、神の真理が本当に明らかに示されとき、それは実に私たちの人間的破綻を、どん底に至るまで暴露するものです。このどん底から天を仰ぐとき、もはや信ずるという事じたい、自分の側の決断によるものではなく、キリストの霊によって神から賜わる恩恵であることを知るのです。この厳粛な人生の事実を、イエスは鋭く見抜いておられたのです。イエスは、弟子たちの逃亡という状況を目の前にしても、孤独ではなく、<父が共にいてくださる>ことを宣言します。それは、まさに、受難に雄々しく立ち向かうキリストを示しています。

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」(33節)

私たちが人生の挫折によってあわてふためき、絶望に堕ちることなく、そのどん底において支えて下さるイエスを仰いで、魂の平安を得るために、これらのことを話したのだ、とイエスは語られます。しかし、この真理もまた、一つの謎です。なぜならば、聖霊によって、私たちの全存在が父なる神に固く結びつけられ、人間的挫折のどん底において、イエスの勝利に支えられる時に至るまで、この御言葉の真意は、やはり一つの謎でしかないからです。イエスの御言葉は、聖霊によって人格的に示されるまでは、やはり理解し尽くすことのできない謎としてとどまるほかはありません。「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」(フィリピ3・16)

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)

この言葉は、四章にわたる「別れの説教」をしめくくるにふさわしい、感銘深い主イエスの言葉です。イエスは、やがて事実となるであろう弟子たちの挫折を予見しつつ、それにもかかわらず決して滅び去ることのない勝利の基盤を、はっきり示されました。そして、この言葉は、あとに残された弟子たちの心の中に、忘れることのできないものとして、深く刻み込まれました。やがてペトロはイエスを否み、他の弟子たちも共にイエスを捨て去ります。この挫折と背信の行為にかかわらず、復活のイエスは彼らをふたたび召し出し、そのすべての罪を赦して、新し宣教に立たせてくださるのです。キリストの教会は、立派な信仰者の勇気と徳の上に建てられたのではなく、その基礎を築いた人々は、むしろ挫折し、面目を失墜した敗北者たちでした。イエスの勝利が、これらの敗北者たちを再び立ち上がらせ、イエスの御業が、彼らの弱さを支えたのです。主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある」といたわるように言われます。私たちのすべての苦難、悩み、苦しみ、病、死を、イエスはことごとく知っておられます。主は人となって自らも同じような、もっとつらい体験されたのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4・14、15)とあるとおりです。イエスは私たちに、「しかし、勇気を出しなさい」と言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28-30)と主は言われます。主は私たちと共に忍び、耐え、悩み、苦しみ、私たちの背負う重荷を共に背負ってくださるのです。

弟子たちは、イエスの言葉によって、どのような状況に直面しても、平和を与えられ、勇気を出すことができる者とされます。イエスの受難も十字架も、神の栄光の啓示であり、イエスの天への帰還は、勝利の凱旋なのです。そのことを確信して、弟子たちは、イエスと同様、雄々しく生きることが出来るのです。こうしてイエスの訣別説教は、イエスの劇的な励ましと慰めの言葉によって閉じられます。

イエスの勝利は、まだ私たちの勝利でないかも知れませんが、この勝利者イエスを信じることによって、イエスの勝利が私たちに与えられることが約束されているのです。主イエスが今も生きて、世に勝った主として私たちと共に歩んでくださる、このキリストと共にある生活、キリストに支えられる生活、キリストと共にいることを目指す生活こそが、私たちを支え、力づけ、世に勝つ道なのです。「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一、5・4~5)

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「心の目を開くキリスト」 ヨハネによる福音書9章1-7、35-41節

2020-10-03 23:17:33 | キリスト教

   「盲人の目を癒すキリスト」エル・グレコ(ギリシャ人)1567年作              メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵

  絵画の解説 新約聖書の福音書で描かれた、キリストが盲人の目を癒す場面を描いたのが、この『盲人を癒すキリスト』である。「生まれつき目の見えない人を癒す」というエピソードは、マタイの福音書(9・27-31)とヨハネの福音書で伝えられているが、この絵はそれらの福音書で描かれている3つのエピソードを合成したものである。神殿の外観はマタイ伝における伝承に近いといわれている。絵画の中心では、キリストが跪く盲人の目元に手を伸ばし、聖油を塗っている。左で空を指さしている背を向けている人物は、先に視力を取り戻したもう一人の盲人です。興奮した様子で空を仰いでいる場面が描かれています。右側の集団は隣人たちとファリサイ派の人たちで、キリストが生まれながらにして視力がなかった者を安息日に癒すことに反対をしています。また、手前の上半身だけ描かれている男女は盲人の両親だといわれています。絵の左上のかすれたような部分は未完成なのだと思われます。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会 週  報

聖霊降臨節第十七主日  2020年10月4日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

       礼 拝 順 序

                司会 齋藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)

交読詩編    16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書9章1-7、35-41節(新p.145)

説  教   「心の目を開くキリスト」 辺見宗邦牧師   

祈 祷                            

讃美歌(21) 311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                 次週礼拝 10月11日(日)午後5時~5時50分  

                 聖 書  ヨハネによる福音書16章25-24節

                 説教題  「世の苦難に打ち勝つために」

                 讃美歌(21) 531 528  27 交読詩篇 8

   本日の聖書 ヨハネによる福音書9章1-7、35-41節

9:1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。・・・・・・・

35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。

    本日の説教

ヨハネによる福音書9章には、イエスが生まれつきの盲人の目を見えるようにされたという奇跡物語と、それに続く長い論争と対話とが記されています。

主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。その時、主イエスの弟子達が、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」とイエスに尋ねました。弟子達は道ばたで物乞いをしている目の見ない人を見て、この人が何故、目が見えないのかというその苦難の原因を尋ねたのです。理由の分からない苦しみの理由、原因をたずねることは、人間にとって昔からの深刻な問題でした。

 それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、お答えになったのです。「だれの罪か」という弟子たちの問いに対して、イエスは、「本人の罪によるのでも、両親の罪によるのでもない」と言われた後、「それはただ神の業がこの人に現れるためである」と言われたのです。この人が生まれながら盲目になったのは、彼の上に神のみ業が現れるためであり、彼によって神の栄光を表わされるためであり、神のためなのであるとイエスは答えられたのです。弟子たちは、生まれつきの盲目という苦しみの原因とだれの罪かという責任を問うたのですが、イエスはそれに対して、その苦しみの意味と目的を明らかにしたのです。

更にイエスは、この人の目に唾でこねた泥を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と、言われました。この人が言われた通りにすると、目が見えるようになって帰ってきたのです。

イエスのこの「だれの罪でもない。神の業が現れるためである」とのお言葉は、その後今日まで、どんなに多くの人々を救いに導いたかは計り知れません。

2016年1月2日に、八十五歳で亡くなられた、私の母教会(宮城県大崎市の日本基督教団陸前古川教会)の2年年上の主にある兄弟のことを思い起します。彼は生来、身体が弱く、次々と大病を患い、なかでも弱視は彼の勉強に非常に支障をもたらしました。樺太で生まれた彼は、中学生の時に終戦を迎え、一家は彼の親の郷里に引き揚げてきました。高校時代、友達が将来の夢に向かってはばたいている時期、彼の視力は次第にかすんで行き、一番前の席に座っても黒板の字もかすむほどになり、「何故自分だけがこんな目に会わなければならにのか」の思いが募り、親を恨み、親を責めたい気持ちだけが膨れていったそうです。その頃、友人に誘われて教会に行ったとき、牧師に「愛の神がいるのなら、何故こんなひどい目に遭わせるのか」と問いただしたそうです。牧師の答えは「今に分かる」でした。しかし、ちっとも分からず不平不満でいっぱいでしたが、それが分かったのは数年後でした。

当時、教会の長老をしていた全盲の方から、ヨハネによる福音書9章1節から12節まで読むように薦められました。彼はイエス様の言葉を知って、自分の思いもつかない別の次元があることを初めて知りました。彼は不幸と思われる病気、貧乏、苦難なども、愛の神の御計画の中にあることを知りました。そして愛の神が常に彼を見守っていることをを知りました。彼の心の目が開かれたのです。十八歳の春の復活祭に、彼は教会で洗礼を受けました。その後の彼は立派なクリスチャンになり、若い人たちからも敬愛され、教会の長老に選ばれ、長い間活躍しました。その後も病気にもなり、目も不自由になられましたが、老舗の商店の社員の仕事にも恵まれ、良き妻と頼もしい息子様や娘様やお孫様にも恵まれ、神の大いなる恵みに支えられた生涯を送られました。彼は亡くなる10年前頃から全盲になりましたが、人生の大切な時期に見えることを許されたことを感謝し、いろいろな不便はあっても不平を言うことはありませんでした。彼の目が不自由だったことが、彼を教会に導き、彼に信仰を与え、彼を救い、永遠の命に生きる希望を与えました。彼に神の業が現れたことを彼は証しし、神に栄光を帰す生涯を送りました。

 マタイ15章29節以下に、主イエスが、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他、様々な病気に悩む大勢の人々が癒されたことが記されています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ書35章5~6節)というイザヤの預言が実現したのです。マタイ8章17節には、「それは預言者イザヤを通して言われたいたことが実現するためであった」とあり、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(イザヤ書53:4)とあります。神の子イエスは、苦難の僕として、わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担って、それを癒してくださったのです。

 エリコの近くで盲人がイエスの通るのを聞いたとき、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。イエスは何をしてほしいのか」とたずねました。盲人は「目が見えるようになりたいのです」と答えました。すると、イエスは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われると、盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従ったという出来事が記されています(ルカ18章35-43節)。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、出血の止まらない女(マタイ5・34)や、罪深い女(ルカ7・50)の癒しの場面でも主イエスは言われています。これは、病んでいる人が自分の信仰で、キリストの救いとかかわりなく、自分を救ったといのではなく、病んでいる人がイエスを救い主と信じて、主イエスの憐れみを切に求めた信仰のことを「あなたの信仰があなたを救った」と言って主イエスが癒してくださったのです。また、男たちが重い皮膚病を患っている人を床の乗せて運び、屋根の瓦をはがし、イエスの前に病人を床ごとつり降ろしたときは、主イエスは「その人たちの信仰を見て」、病人の罪を赦し、病を癒しています(ルカ5・17-25)。イエス様のなさった病の癒しは、罪の赦しをともなうもであり、神の憐れみによる癒しでした。それは医者による治療を否定するものでないことは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2・36)と言われたお言葉からも分かります。

ヨハネの9章の8節以下には、イエスによって癒された盲目だった男のその後の人生の歩みが記されています。シロアムの池で目が見えるようになった人が、もとの場所に帰ると、そこで彼を待っていたのは、目が開かれたことを共に喜ぶのではなく、むしろ、彼を質問責めにする人々がいたことを記しています。ユダヤ人たちは、盲人であった人を二度も呼び出しました。この癒された男は、イエスが「神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と答えました。この言葉はファリサイ派の人々を憤慨させました。そこで彼は会堂から追放されました。それは社会的にもユダヤ人としての市民権を失う致命的なことでした。

イエスは彼が追放されたことを聞き、彼に出会って言いました。「あなたは人の子を信じるか」と言われました。「人の子」とは、救い主を意味する呼び名です。彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われました。彼は目が見えるようになってから今まで、イエスを肉眼で見たことはなかったのです。しかし、今、自分の前にいる方がメシアであることを知り、「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。この盲人だった人は、目が癒されて見えるようになっただけでなく、それ以上にもっと大事なことに目が開かれ、メシア・救い主に出会い、信じることが出来たのです。

イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「裁くために来た」とは、イエスが来た主なる目的が人の罪を裁くために来たという意味ではなく、むしろ、イエスが人を救うために来た結果、振るい分けが生じ、裁きが起こったという意味です。この方こそ、真に善悪を判断し、裁きをなさることが出来る方でありますが、裁くために来られたのではありません。イエス様がこの世に来たのは、罪人を招いて救うためです。

「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」見える者とはだれのことでしょう。また、見えない者とはだれのことでしょう。私たち、生まれながらの人は皆見えない者たちです。神に頼らなくても生きていけるという自信の故に、真の光に至る道を、自分たち自ら拒否しているのです。自己を神の前に正しい者とする心が罪の本体なのです。自分の不完全さ、弱さ、病や罪や死の恐怖を認め、真の光として世に来たイエスの光を受け、イエスの愛と憐れみを受け入れ、イエスのみ言葉を信じて受け入れることによって初めて目を開かれ、見える者とされ、救われるのです。わたしたちは、聖霊によってわたしたちの「心の目を開いてくださるように」に、祈り求めましょう。そのとき、更なる大いなる祝福にあずかる者とされるでしょう。

 

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