富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリスト者の愛の実践」 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

2019-07-27 19:01:12 | キリスト教

  ↑ 「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙6章2節)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

聖霊降臨節第8主日 2019年7月28日   午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

         礼 拝 順 序

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩編   38(主よ、怒ってわたしを責めないでください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節(p.350)

説  教   「キリスト者の愛の実践」  辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21)  481(救いの主イエスの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                次週礼拝 8月4(日)  午後5時~5時50分 

               聖 書 フィリピの信徒への手紙4章1~3節

               説教題 「女性の働き」

               讃美歌(21)  567 交読詩編 97

    本日の聖書  ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

 6:1兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。 2互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 3実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。 4各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。 5めいめいが、自分の重荷を担うべきです。 6御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。 7思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。 8自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。 9たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。 10ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

           本日の説教

 ガラテヤの信徒への手紙は、使徒パウロが<ガラテヤ地方の諸教会>に宛てて書いた手紙です。<ガラテヤ地方>は、ヨーロッパ中・西部から移動したガラテヤ人が住み着いたアンキラ(現在のトルコ共和国の首都アンカラ)を中心とする居住地域に、紀元前25年にローマの属州とされたフリギア、ピシディア、リカオニアの南部地方を合わせた地域全体がガラテヤ地域です(下の地図参照)。

 

  パウロが第一伝道旅行で初めて訪れたのは、ガラテヤ州南部地方のアンティオキア、デルベ、リストラ、イコニオンでした。しかし、第二伝道旅行のときは、シリア州やキリキア州を回った(使徒15・41)あと、デルべとリストラにも行きました(使徒16・1)。そして使徒言行録16・6によると、<フリギア・ガラテヤ地方を通って>行ったとあります。この<ガラテヤ地方>はガラテヤ州北部、ガラテヤ人が住み着いた現在の首都アンカラとその周辺です。ガラテヤの信徒への手紙はアンキラ中心とするガラテヤに宛てられたと思われます(アンキラは下の図を参照)。

  新共同訳新約聖書注解Ⅱ巻末付録580-581p.日本基督教団出版局

 第三伝道旅行は、シリアのアンティオキアから旅に出て、<ガラテヤやフリギアの地方>を次々と巡回し(使徒18・23)とあります。アンキラの周辺のガラテヤを二度訪れたことになります。

  

  パウロが「ガラテヤの信徒への手紙」を書いたのは、彼の第三伝道旅行の途中、約二年間エフェソに滞在していた時(使徒19・1,18-10、20・31)のことであり、54年の初期と推定されます。

 パウロの執筆の動機は、二回目の訪問の直後に、ユダヤ教的律法主義に立つ伝道者たちがガラテヤに入り、反パウロ的扇動をしたので、教会のは人々は惑わされ、ガラテヤの信徒が真の福音から離れようとする危機が起きたからです。エフェソにいたパウロはガラテヤ教会の憂慮すべき事態を聞くと直ちに激しい論争と叱責の手紙を書き、信徒たちを正しい信仰に引き戻そうとしました。

 割礼を受けることを説く反対者たちを、パウロは次のように言っています。「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」(ガラテヤ6・12~13)自分の努力で自分の救い、自分の清さを求めるものは、結局のところ、救いや清さではなく、いつも「自分」が関心の中心なのです。そこに優越感が生まれ、他人を見下す差別をことになるのです。パウロは手紙の終わりの6章で、ガラテヤの人々に互いに助け合うことを勧めます。

 パウロは、「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」と勧告しています。

 教会の中では、互いに助け合う暖かな愛の交わりが失われていました。霊的能力を持つ人々は、自分を「霊の人」と称して他の教会員に対して優越感をいだいていました。目の前の罪を犯している人間に対しても自分を上に置いて審き、真の審判者である神の権威をないがしろにしていました。

 <罪に陥ったなら>とは、不意に誘惑に襲われて何かの罪を犯したならということです。<霊の人>であるあなたがたは、罪に陥った人を<柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい>とパウロは勧めます。これは5章14節で言われた<律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」>という隣人愛の実践を改めて求めているのです。<あなた自身も>誘惑されないように、自分に気をつけなさい。ここでは手紙の読者一人ひとりの自覚をうながしています。ここで言われている<誘惑>は不道徳的な罪への誘惑よりも、自らを他人の欠陥と比較し、思いあがる精神的な誇りです。これを治す方法は、容赦のない自己吟味です。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

 「重荷」とは、まさに人の人生の重荷です。「キリストの律法」とは、「互いに重荷を担い」合い、互いに支え合わなければないりません。愛によって仕えあう(5・13-14)、これこそ<律法全体の要約としての隣人愛>を全うすることになるのです。

 「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」

 「霊の人」といえども、実際には「何者でもない」のです。いや、それどころか罪を犯し、神に背いた罪人でした。自分たちを「霊の人」と自称しているなら、それはあやまった優越感によって自分を見失っているのだと、パウロはガラテヤの人々の自覚を促しています。そのためには<各自で、自分の行いを吟味してみなさい>と、パウロは具体的な指示を与えます。<自分の行い>は、キリスト者としての良い意味での行いです。これは、ガリラヤ指導者が誇りとしていたものですが、本来は自分が作り出したものではなく、神から与えられた恵みによるものです。すべては神の賜物・恵みであれば、「他人に対しては誇ることのできないもの」、他人と比較して自分の優位を置く根拠や理由ではありえないものです。

「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」ここで使われている「重荷」は、2節の「互いに重荷を担いなさい」の「重荷」とは原語が違っています。ここで言われている重荷は、各人が負わなけれならない任務、神から任されている務めを意味する「荷」です。

「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」 福音宣教者に対する経済的援助が勧められています。ガラテヤの指導者たちは、すでに聖霊を受けて完全な者となっていると自己過信していました。だからもはや教師に対して謝儀を支払って敬意を表す必要を認めず、教師を軽んじ、教師の語る神のみことば軽んじ、教師を立てている神御自身を軽んじていました。

 「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」

 パウロは、終わりの時の神の厳しい審きがあることを思い起させます。それは単なる現在と無関係な将来の出来事ではありません。いま自分がどう生きているのかが、終わりの時の運命を決定づけます。人間の行為とその招く結果の関係、 <種を蒔くー刈り取る>という農耕のたとえが用いられています。「肉に蒔いて、滅びを刈り取る」のか、それとも「霊に蒔いて、永遠の命を刈り取る」のか、という選択が迫られています。

 「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」

「善」は他者への善行の意味です。「善」とは愛の業です。愛の業は多くの犠牲を伴う献身的奉仕です。「時」は終末を表します。終末の時まで忍耐して他者への善行に励むよう、読者に強く勧めています。

「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

「時のある間に」は終末までの期間を指します。終わりの時が来てからでは遅い。今、愛に生きるべきことが勧められます。「家族」は同じ家に住む人の意で、教会の友を指します。キリストにある交わりとしての教会を強調します。これは、ガラテヤ教会が分裂状態念頭においていると考えられます。キリストの体である教会に連なり、<互いに>受け入れ合い、互いの成長のために仕え合い、愛をもってその交わりに参与することです。そのことが終わりの日の魂の運命を決定するのです。

 しかし終末の審きに脅え、それを免れるために善行に励むのが、キリスト者の生き方ではありません。「霊に蒔く」とは、人間の努力によって可能となった事ではありません。主イエスの十字架の恵みによって罪を赦され、救われて、可能とされた事です。したがって、時のある間に、その時を最大限の活用し、すべての人に対して、特に信仰の家族に対して善を行うことがキリスト者に求められているのです。

 すでにキリストにおいて「永遠の命を刈り取る」道が備えらえているキリスト者は、恐れず、感謝と喜びをもって、終わりの時を目指して、愛の実践に励んいくことができるのです。神への愛、教会の兄弟姉妹への愛、隣人への愛の業に励み続ける人に神の豊かな祝福が約束されています。この世のすべてのものが過ぎ去る終末の時、主イエスから「忠実な僕よ」と祝福されることは、世のどんな栄誉にも勝る喜びではないでしょうか。

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「主は、あわれみ深く情け深い」 詩編103編1~14節

2019-07-27 18:39:15 | キリスト教

      ↑ 「真実の愛は神から来る。」愛は神から出るものです。(ヨハネの手紙一、4・7)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第7主日 2019年7月21日    午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

             礼 拝 順 序

                                                司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   7(ほめたたえよ、力強き主を)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 詩編103編1~14節(p.939)

説  教 「主は、あわれみ深く情け深い」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

聖餐式(21)   78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21)  149(わがたまたたえよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                   次週礼拝 7月28(日)  午後5時~5時50分 

                                    聖 書 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

                                    説教題 「キリスト者の愛の実践」

             讃美歌(21) 403 481 交読詩編 38

    本日の聖書  詩編103篇1~14節

 103:1【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ。 2わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、4命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、5長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。 6主はすべて虐げられている人のために、恵みの御業と裁きを行われる。 7主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された。 8主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。 9永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。 10主はわたしたちを、罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 14主はわたしたちを、どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを、御心に留めておられる。 15人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。16風がその上に吹けば、消えうせ生えていた所を知る者もなくなる。 17主の慈しみは世々とこしえに主を畏れる人の上にあり、恵みの御業は子らの子らに 18主の契約を守る人、命令を心に留めて行う人に及ぶ。 19主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。 20御使いたちよ、主をたたえよ、主の語られる声を聞き、御言葉を成し遂げるものよ、力ある勇士たちよ。 21主の万軍よ、主をたたえよ、御もとに仕え、御旨を果たすものよ。 22主に造られたものはすべて、主をたたえよ、主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。

           本日の説教

 詩編103編は、作者自身が経験した罪の赦しと、重い病気からの回復による神に対する深い感謝から、転じてイスラエルに対する神の憐れみを回顧して、神の慈しみの広大にして永遠に変わらないことを述べ、全宇宙こぞって神を讃美すべきことを訴えています。

 この詩は、「わたしの魂よ、主をたたえよ」で始まり、終わっています。詩人は「わたしの魂よ」、わたしの内にあるものすべてよ、と自らに賛美を呼びかけます。そして「主の御計らい」を何ひとつ、「忘れてはなならい」と語りかけます。「主の御計らい」とは、恵みとしての神の御業です。この魂への訴えは、私たちが神の恵みを忘れがちだからです。

 詩は主から受けた恵みを思い起させます。それは、罪を赦してくださり、病を癒しくださり、死の恐怖から命を贖い出してくださることであり、主の慈しみと憐れみを与えられることであり、生きている間良いもの(生活に必要な物資)で満ち足らせ、御霊をそそいで鷲のような若さを新たにしてくださることです。鷲の長命、飛行する姿の力強さ、毎年新しい毛に生えかわり、若さを回復しつづけると考えられたことが、鷲の比喩の背景にあります。

 6節からは、詩人は個人的経験から転じてイスラエルの人々に対する主の恵みに及びます。イスラエルがエジプトで「虐げられていた」時、主は彼らをその虐げる者から解放してくださった、その主の恵みの御業と裁きを思い起させます。正しい審判を行うことで、虐待したものを罰して、イスラエルを救われることを述べます。

7節では、イスラエルが荒れ野で金の子牛を作って拝むという考えられないような罪を犯した時に、主がモーセに対して、御名と本性を示されました(出エジプト記3・13-15、34・6-7)。その時の主の宣言の引用が、「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい(8節)」です。神の変わることのない赦しの愛が強調されています。

 更にその宣言は、「永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを、罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。」と、主は、正義を求めて、みだりに人を審(さば)くことをしない、「罪と悪を赦す」神として描いています。

 主の「慈しみ」は、天が地を超えて高いように、「主を畏れる人」を超えて高い。東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」と、その驚くべき恵みを宣言しています。「慈しみ」とは深い愛情をいだくこと、わたしたちを決して手離さない愛です。

 また、主の「憐れみ」は、父がその子を憐れむように、「主を畏れる人」を憐れんでくださる、と語っています。「憐れみ」とは人の苦しみや悲しみに、深く同情することです。

 「主を畏れる人」とは、「主に信頼する人」、主を生活の中心とすることを求める者達を指しています。彼らは赦された罪人として主を畏れるのです。

17節でも、「主を畏れる人」の上に、主の「慈しみ」が「世々とこしえに」あることを三度にわたって述べます。

  10節では「罪」と「悪」、12節では「背きの罪」について赦す神の「慈しみ」と「憐れみ」をイスラエルの人達は学びました。

 14節から讃美は、イスラエルを超えて、全人類を創造し、慈しまれる主への讃美に移っていきます。土の塵にすぎない人間に、神は「命の息」を吹きこまれ、人は生きる者になった。塵に過ぎない私たちを、しかし主は御心に留めておられ、わたしたちに慈しみが注がれていることを彼らは述べます。

 15-16節の「人の生涯は草のよう。……生えていた所を知る者もなくなる。」の背景には、イザヤ40・7-8の「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉があります。「神の言葉」の永遠性に対する被造物の無常が歌われています。「神の言葉」は具体的には、イスラエルの救いと繁栄の約束を指します。熱風の前に乾いて枯れる「草」や「野の花」のように、人間ははかないものですが、しかし神の慈しみの永久であることを述べています。神の御子がはかない人間と同じ者になられ、人間の姿で現れてくださったことは、最大の救いです。

 人の生涯は、はかないものですが、しかし神の恵みの御業は、主の契約を守る人に、神が求めておられることを心に留めて行う人に及ぶことが約束されています。主の贖いによって、彼らは罪を犯さないようにされているがゆえに、恵みが満ち溢れるのです。

  この詩は全宇宙の主の統治の宣言をもって閉じられます(19節)。「御使いたち」「御言葉を成し遂げるもの」「力ある勇士たち(主の使い)」「主の万軍(天界自然界の諸勢力)」「御もとに仕え、御旨を果たすもの」「主に造られたものはすべて(人間を含む神のすべての被造物です)」に、天上、地上すべての所で、讃美に加わることが勧められます。

 同時に、その讃美の群れに自分自身も加わろうとする意図を述べて、この詩編は閉じられます。

  地上での一切の祝福にまさって、人に備えられた最大の賜物はイエス(その名は救いを意味する)自身です。主イエスの十字架と復活により、私たちを罪から解放し、生涯良い物で満ち足らせてくださり、私たちの命を墓(原語は、穴で、滅亡を意味する)から贖い出し、永遠の命を与えてくださいました。 

 神がどのような方であるかが、この詩編で歌われています。日本では、神は御利益を与え、災難から守る神々として知られ、拝まれています。しかし愛なる神については知られていません。主なる神は「憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」方であることを宣べ伝えなければなりません。神は、独り子を世に遣わし、その方によって、私たちが生きるようにしてくださいました。ここに、神の愛がわあしたちの内に示されました(ヨハネの手紙一4・9)。神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです、というのが聖書の教えです

 パウロは主イエスをとおして真実の愛を知りました。そして「愛は忍耐強い、愛は情け深い」(コリント一13・4)と説きました。愛は忍耐強く、人を赦す愛です。愛は情け深いとあるように人を思いやる愛です。この愛は、まさに神の愛と重なります。愛は神から出るものです。聖霊によって与えられるものです。この愛を神の求めて、与えられるように、人々に伝えなければなりません。

 「愛は、恨みをいだかない」とあります。京都の伏見で起きたアニメ製作会社への放火事件で三十四人が犠牲者となりました。犯人の一方的な恨みによる犯行のようです。犯人は「小説を盗んだから放火した」と供述しているようです。「恨み」が凶悪な事件を引き起こしたのです。ねたみや恨みを抱くことのない愛が、わたしたちに求められているのではないでしょうか。愛である神は、同時に正義と公正を求められる神でもあります。神の怒りは、正しい裁きを行われる方でもあることをも知らなければなりません。

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「神の使いと格闘するヤコブ」 創世記32章22~33節

2019-07-12 23:47:50 | キリスト教

           ↑ フランスの画家ギュスターヴ・ドレGustave Doré, Jacob Wrestling with the Angel「天使と格闘するヤコブ」 (1855年)Granger Collection New York

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

  聖霊降臨節第6日 2019年7月14日  午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて

働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

    礼 拝 順 序

                 司会 佐藤 洋子姉              

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 457(神はわが力)

交読詩編   62(わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 創世記32章22~33節(旧p.56)

説  教  「神の使いと格闘するヤコブ」   辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21)  529(主よ、わが身を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

           次週礼拝 7月21日(日)  午後5時~5時50分 

           聖 書 使徒言行録20章7~12節

           説教題 「生命の回復」 

           讃美歌(21) 492 478 24 交読詩編 35

   本日の聖書 創世記32章23~33節

 32:22こうして、贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった。23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 25ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 26ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 27「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 28「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 29その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 30「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 31ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 33こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

      本日の説教

 先週の礼拝では、ヤコブが住み慣れたベエル・シェバから、パダン・アラム(アラム人の住む平地)のハランに住む、母の実家の兄、ヤコブにとって伯父にあたるラバンのもとに出立し、途中荒野の中で夜を迎え、石を枕にして寝たときに、神様が現れ、ヤコブを祝福することを約束してくださったことを学びました。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』(28章13~15節)」と神はヤコブに言われました。翌朝、ヤコブは枕にしていた石を記念碑として立て、その場所をベテル(神の家)と名付けたお話しをいたしました。

 父イサクから、祖父アブラハムから受け継いだ神様の祝福を、長男のエサウが受けるべきであったのを、ヤコブが母の策略もあって、父をだまして、自分のものに横取りしてしまいました。このことにより、ヤコブは兄エサウを怒らせ、自分の命まで狙われるようになり、母の故郷に、表向きは嫁探しの目的で、亡命したのです。

 ヤコブはこのハランで二十年間、叔父であるラバンの家に留まりました。そしてラバンの二人の娘、レアとラケルを妻にし、また二人の側女(そばめ)も妻とし、十一人の息子たちと多くの家畜を持つ者となりました。

  

夢の中で、ヤコブに神のお告げがあり、「ヤコブよ、・・ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい(21:11~13)」と言われました。

 ヤコブは、妻たちラケルとレアの同意もあり、すべての財産を持って逃げ出し、川を渡りギレアドの山地へ向かいました。ヤコブが逃げたことを、三日目に知ったラバンは、一族を率いて七日の道のりを追いかけて行き、ギレアドでヤコブに追いつきました。ラバンはヤコブになぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか」と問いました。それに対してヤコブは次のように答えました。

 「この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました」(31:41)と訴えています。ヤコブはラバンの娘たちを大事にすることをラバンに誓い、和解が成立したので、ラバンは自分の家へ帰って行きました。

 ヤコブが旅を続けていると、神の御使いたちが現れて、ヤコブを力づけました。ヤコブは彼らを見て、「ここは神の陣営だ」と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けました。ヤコブを守る神の陣営とヤコブの陣営と二つになって前進できるという勇気を与えられたのです。ヤコブは兄エサウがヤコブに対してどのような思いを抱いているのか気がかりでした。はたして二十年の歳月によって忘れてくれているのでしょうか。ヤコブはそのことを確かめるために、あらかじめ、セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに使いの者を遣わし、こう言うように命じました。『あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします。』」。ヤコブが帰ってきたことを報告し、兄の機嫌を伺いました。

 しかし使いの者が帰って来てもたらした知らせはヤコブにとって最悪なものでした。使いの者は帰って来て、「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」とヤコブに報告したのです。

 エサウのヤコブに対する憎しみは、二十年経った今も少しも和らいではいないと思い、ヤコブは非常に恐れ、思い悩みました。ヤコブは連れてきた人々と家畜を二組に分けました。エサウが攻撃を仕掛けても、どちらかの組みが助かるようにしました。そして祈りました。

 「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかも知れません。」(32:10~13)。

 祈り終えると、その夜、野宿してヤコブはただちに二つの群れの分け方を変えました。今度は兄エサウへの贈り物として入念に選び分け、六百頭を選び、五つの動物の群れに分け、それを召し使いたちの手に渡し、一番目から順に、それぞれ距離をおいて、エサウに贈り物として届ける作戦を立てました。贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくえるだろうと思ったのです。ヤコブは決して惜しむ思いではなく、償いができるように、そして約束の地へ入ることが出来るようにとの祈りをこめた贈り物でした。

    地図の右下の「セイルの山々」は、エサウの住むエドムの高地です。エサウはエドムの荒れ野の主であり、偉大な族長となっていました。

 ヤコブは、兄エサウの襲撃に備えて、夜中に妻や子供たちを連れて、安全な場所に導くためにヤボク川を渡ってから独り残りました。ヤボク川は、ヨルダン川の支流です。ギレアド山地からヨルダン川に合流しています。その川の岸に「ヤボクの渡し」があります。何故独り後に残ったのでしょうか。神の加護を祈り求めるためでした。ヤコブはマハナイムの出来事のあと、神に、「どうか、兄エサウの手から救ってください」と祈りました。しかしまだ神の答えを聞いていませんでした。まだ不安が消えていなかったのです。

 「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。「何者かが」とありますが、ホセア書12章4、5節に次のような説明があります。「ヤコブは・・力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」とあります。「何者か」は「神の使い」であり、「神」であると説明しています。ヤコブもこの格闘のあとで「わたしは顔と顔とを合わせて神を見た」と言っています。

 恐れからの救いを求めるヤコブに対して、神は助けを与えるために「神の使い」を遣わされました。ヤコブに平安を与えるために、ヤコブの自己中心な我(が)をくだかなければなりません。賛美歌21の529番の歌詞に、「我が剣(つるぎ)をくだきたまえ、さらばわが仇に打ち勝つをえん」とあるように、傲慢な自分が砕かれることによって、最大の仇である自分自身に勝ち、神の恵みにあずかることができるのです。「神の使い」は、ヤコブに恵みを与えるために、自分の計略に頼ろうとする傲慢なヤコブを砕こうとしてヤコブと格闘したのです。

 「ところが、その人ヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた」とあります。神の力は、人間が謙虚になり、弱いところに働きます。しかし、ヤコブの自我があまりにも強く、しがみついてくるので、そのままではヤコブをどうすることもできないことを、神の使いは「勝てない」とみたのです。

「腿の関節」とは「股関節(太ももの付け根)」のことです。 身体的に人間を支えている重要な部分です。その部分打つことによって関節がはずれると、自分の力では戦うことができず、弱い者にされたことを意味します。ヤコブがここで経験したものは祈りの格闘でした。ヤコブの祈りに神が答えられ、自分の計略や力に頼るヤコブの腿の関節を外して、ヤコブを無力な者にされ、自分ではなく、神に頼る者にされたのです。

 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」腿の関節をはずされて弱くされたヤコブは、今度は「その人」に、「祝福してくださるまでは離しません」としがみつきます。ヤコブはなんとか祝福を得ようとしてしがみついているのです。

 「ある人」はヤコブに言います。「お前の名は何というのか。」その問いにヤコブは、自分を「ヤコブ」と答えたのです。生まれから今日まで、「人を押しのける者」として、自己中心的な本性をもつ罪深い者、今腿の関節がはずれ、弱い者とされ、神に頼るほかない自分をさらけだして、「ヤコブ」ですと答えたのです。

 その人は、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と宣言されたのです。

 ヤコブという名前は、出生のとき、兄の<かかと「アケブ」>をつかんでいたことから、「かかと」という意味のことばの原語「アケブ」にちなんで「ヤコブ」と命名されました。また、創世記27章36節では、兄の足を<引っ張り「アーカブ」>欺いたことからも、「ヤコブ」の名前が説明されています。ヤコブは、名が示すように「人を出し抜き、人を押しのける」者でした。しかし、今「お前の名はもうヤコブではない」と言われ、古い罪の自分を脱して新しい名が与えられたのです。

「これからはイスラエルと呼ばれる。」ヤコブの個人名がイスラエル」となります。この名は後に神の民の名となります。「イスラエルיִשְׂרָאֵל」という語は、イ、スラー、エルの合成語です。あなたは、争った、神にという三つ語からなっています。「あなたは神と争った」という意味になります。「神が支配した」とする解釈もあるのです。

  ヤコブは古い罪の自分を脱して、イスラエル「神と争う者」という新しい名が与えられました。「争う」という言葉は、必死になって、神と取り組み、祈り求めることです。「お前は神と人と闘って勝ったからだ。」神に勝つというのは、どういうことでしょうか。ヤコブは必死になって神様の祝福を求めました。神は、ヤコブに新しい名を与えました。新しい名は新しい存在を意味します。その祝福を与える新しい名こそ、神はヤコブの完全な敗北ではなく、むしろその勝利を承認されたのです。ヤコブが罪にまみれながらも祝福を追い求め続けたことを承認されたのです。神様は、そのヤコブに祝福を与えるために、負けることをいとわれなかったのです。そして祝福を与えることによって勝利を手にする神様なのです。ヤコブの罪を赦し、祝福して下さり、新しいヤコブ、すなわちイスラエルとして生きるようにしてくださったのです。

 それでは、「人」とも闘って勝った、ということはどいうことなのでしょう。ヤコブは兄と争い、伯父ラバンと争い、欲しいものを自分のものにしてきました。その結果は、ラバンに追跡され、今兄エサウの襲撃を恐れ、不安になり、救いをもとめて神の前に立っているのです。「人」にも勝ったとは、そのようなヤコブを神は祝福し、ラバンとの和解を与えられたように、エサウとの和解もあたえられる、ということではないでしょうか。ヤコブは祈りの末に神の祝福を与えられて、人(兄)をも恐れない者に変えられました。これが「人にも闘って勝った」ということなのではないでしょうか。

 「どうかあなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福しました。神がその名をここで告げなかったのは、神と人間は、対等と関係ではないことを知らせるためだったと思われます。

 ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けました。神を仰ぐとき、罪を赦す愛を受け、神の祝福を豊かに受けることを体験したのです。ヤコブは六十歳を越えていました。ヤコブがベエル・シェバか旅立つたとき、双子の兄エサウは四十歳で結婚していました(26章34,35節)。その後ヤコブはハランで二十年過ごしたのです。

 「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った」とあります。夜が過ぎ、ヤコブの上に太陽が昇ったのです。朝日がヤコブを照らします。故郷に帰る第一歩を記す望みの朝の光です。ヤコブは腿を痛めて足を引きずりました。しかしそれは新しいイスラエル、ついに念願の祝福に生き始めたヤコブの姿でした。

 しかし、ヤコブは完全な人となったのではありません。この後、エサウの居住地セイルに、エサウの先導で一緒に行くように勧められたヤコブは、エサウのもとにに行くと言いながら、その約束を果さず、分かれてしまいます。エサウに対する警戒心もあり、自分にはベテルと父の家に戻らなければならいことを言う勇気がなかったのです。ひたすら、祝福を求めて生きたヤコブの姿は、ひとつの民族を示すイスラエルと言う名で、呼ばれるようになります。後に彼は十二人の息子を通してイスラエル部族の始祖となり、イスラエル人全体が「ヤコブの子孫」と呼ばれるようになります。

 私たちの生活の中で、神の祝福が見えなくなり、神の恵みが感じられなくなるようなことがあれば、ヤコブにならって神と取り組み、祝福を与えられることが出来ます。ヤコブを支えたのが神の祝福の約束であれば、それにはるかにまさる、聖霊を与えてくださり、わたしたちと共にいてくださるキリストの祝福が、わたしたちに与えられていることを感謝したいと思います。

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「ヤコブの夢と賛美歌「主よ、みもとに近づかん」」 創世記28章10~22節

2019-07-05 09:49:22 | キリスト教

        ↑ スペインの画家ムリーリョ(B.E.Murillo )の「ヤコブの夢」

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本福音教団 富 谷 教 会  週 報

  聖霊降臨節第5日  2019年7月7日  午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

           礼 拝 順 序

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂〔たま〕のひかり)

交読詩編   51

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者木

聖 書(新共同訳) 創世記28章10~22節(旧p.46)

説  教   「ヤコブの夢と讃美歌「主よ、みもとに近づかん」  辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(旧) 320(主よみもとに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

        次週礼拝 7月14日(日)  午後5時~5時50分 

            聖 書 創世記32章23~33節

            説教題 「神と格闘するヤコブ」 

            讃美歌(21) 492 457 24 交読詩編 62

    本日の聖書 創世記28章10~22節

 28:10ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 11とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 12すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 16ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 17そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」 18ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、 19その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。 20ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、 21無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、 22わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

         本日の説教

 アブラハムの子イサクには、双子の兄弟が生まれました(創世記25章19節以下)。先に生まれた子は赤かったのでエサウと名付けられ、後から生まれた子は、兄のかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けられました。この二人は性格の違う兄弟でした。エサウは「巧みな狩人で野の人」だったのに対して、ヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。ヤコブは、兄のかかとをつかんで生まれてきたように、人を押しのける狡猾な人だったようです。父イサクはエサウを愛しました。狩りの獲物が好物だったからでした。母リベカはヤコブを愛しました。親の偏愛を受けて二人は育ちました。

 父は、兄のエサウを跡取りしようと考えていました。しかし、ヤコブは、腹のすいたエサウから、一杯の煮物と引き替えに、長男としての権利を自分のものにしました。しかし、誰が跡取りとなるかは、父イサクが誰に祝福を与えるかにかかっていました。老い先短いことを意識したイサクが、エサウに祝福を与えようとしていました。ところが、ヤコブを気に入っていた母リベカが、イサクの目がかすんでよく見えないのをいいことに、ヤコブにエサウの着物を着せ、エサウになりすまさせて、父イサクの祝福を代わって受けさせてしまったのです。ヤコブはこうして、長男としての権利を奪っただけでなく、エサウに与えられるはずだった祝福をも奪い取ってしまったのです。エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」と、エサウはヤコブに殺意を抱くようになりました。それを察知した母リベカは、ヤコブを守るために彼をハランへと旅立たせることにします。    

  その口実は、ハランにいるリベカの兄ラバンの娘を嫁に迎えるためということでした。リベカは夫に、ヤコブを嫁取りのために旅立たせようと提案しました。リベカは、「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません(27:46)」と夫に告げました。エサウがヘト人の娘を妻として迎えたため、彼女たちが、イサクとリベカにとって悩みの種となっていました。リベカは、アブラハムの神、ナホル(アブラハムの弟)の神、その子ベトエルの信仰のもとで育ったヤコブの伯父ラバンの娘とヤコブを結婚させようとしたのです。 

                 

    ベエル・シェバから、パダン・アラムのハランまでの地図。

  ヤコブは父イサクをも騙したが、父はこれを赦し、祝福して送り出しました。こうしてヤコブは、ベエル・シェバの父の家からパダン・アラムのラバンの所へ旅立ちました。パダン・アラムはアラム人(古代シリヤ北部に住む民族)の平地の意味で、ベエル・シェバから725キロもある、徒歩で一か月を要する遠い地です。今日のシリヤの国境を越えたトルコの地です。ラバンは母リベカの兄です。この旅は、兄が父から受けるはずの跡取りの祝福まで奪ったので、兄エサウの憎しみを買い、争いを避けるためと信仰の妻を与えられるの二つの目的のために、母の勧めで伯父ラバンの許に身を寄せる旅でした。 

       

  ヤコブは、アブラハムの歩んだ道をたどってハランに向かう。

  一人でベエル・シェバを立ったヤコブは、後にベテルと呼ばれる場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜の過ごすことにしました。ベエル・シェバはパレスチナ南部の町であり、ヤコブの父イサクがそこに井戸を掘り当てて家族と共に住んでいた所です。ヤコブにとってここは父の家、故郷なのです。しかし今ヤコブはその故郷を離れて、シリアのはるか北方、ユーフラテス川の上流にあるハランへと旅をしているのです。これまでの生活は、家督相続の争い、兄弟との不和、人間的な争いに満ちていました。表向きは嫁探しの旅ですが、実は逃亡の旅でした。人里離れた誰もいない夜空の下で、石を枕にして寝るヤコブの姿は哀れです。このヤコブの姿は、人間関係における破れと挫折に苦しむ人間の姿です。この時のヤコブの心境はどのようなものだったでしょうか。希望のない孤独な荒れ野の旅です。神様の祝福を求めるあまりに、兄の心を踏みにじるようなことをしたヤコブは、石を枕にしながら自分のしでかしたあやまちを反省したに違いありません。自分の将来はこれからどうなるのか、不安を覚えていたに違いありません。

    

        ヤコブが夜夢を見たベテルの風景

  その夜、ヤコブは夢をみました。旧約聖書では、夢という手段を用いて、神様がヤコブと出会われた出来事でした。「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりして」いました。前の口語訳聖書ではこの「階段」は「はしご」となっていました。「ヤコブのはしご」という言葉がここから生まれました。旧賛美歌320番「主よみもとに近づかん」の3節では「かよう梯(はし)の上より」とあり、賛美歌21の434番では、「天よりとどくかけはし(架け橋)」とあります。この階段は地上から天に上っていく階段ではなく、神の住む天から地に下ろされた階段です。この階段は、天と地とをつなぐものです。神様の世界と人間の世界とをつなぐ架け橋がここにある、ということを、ヤコブはこの夢において体験しました。ヤコブはこの夢で、自分がいるこの場所が神様の御臨在される所であることを知らされたのです。

  ヤコブは、アブラハム・イサクと続いた神様の祝福を、父から受けながら、約束の地を負われた身でした。ヤコブはもう自分には神様の祝福はもうないのではないかとさえ思ったことでしょう。しかし、そのようなヤコブに対して、神様は夢を見せ、ヤコブに近づき、かわらに立ち、語りかけられました。

 ヨハネによる福音書1章51節に語られています。「更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」。「神の天使たちが昇り降りするのを見る」、これはまさにヤコブがあの夢で見たことです。「人の子の上に」とあります。「人の子」とは主イエス・キリストのことです。ヤコブが見たあの階段は、主イエスを指し示しているのです。主イエスが天と地の、神様と私たちの間の架け橋です。

 ヤコブは主なる神のご臨在と神が語りかけてくださったみ声を聞きました。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。」そして、カナンの土地を与えるという約束を神様からいただいたのです。「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。また、あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなって世界に広まり、地上の氏族はすべてあなたとあなたの子孫とによって祝福に入る。」

 そして、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り・・・あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われました。

 ヤコブは眠りから覚めて言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」ヤコブの見た夢は正夢でした。神は、夢をとおして、ヤコブに語りかけてくださったのです。神からも人からも遠く離れていると思っていた野外のヤコブに、神が現れてくださったのです。

ヤコブは朝早く起きると、自分がまくらにした石を立てて、油を注いで聖別しました。その所の名をベテル(「神の家」の意)と名付けました。神がこれからもヤコブと共にいてくださるなら、この地を礼拝の場所とし、必ず収入の十分の一をささげると約束し、請願を立てたのです。

 ヤコブにとって、体を横たえたルズの荒野は、「神の家」「天の門」となりました。私たちにとっても、ここには神はおられないと思う所にも、神はおられるのです。主イエスがこの地上にこられて救いのみ業を完成してくださったことにより、地上のすべての場所がベテルとなりました。神は地上のどこにでも偏在され、支配されておられるのです。私たちが神から最も遠く離れたとこに置かれていると思えるような所、最も落ち込み気落ちしているときにも、私たちが最も弱い、貧しい状態にあるときにも、主イエスは共にいてくださり、力を与え、祝福してくださるのです。たとえあなたが知らなくても、主はいつもあなたの側にいてくださり、あなたの心に愛をもって宿ってくださるのです。

 賛美歌「主よみもとに、近づかん(Nearer,my God,to Thee)」の作詞者は、英国のセーラ・F・アダムスという女性です。三十五歳のとき、ヤコブの夢にもとづいて、一日で作りました。最初は彼女の姉が作曲しました。翌年の1841年に収録され、その後、英国ではジョン・B・ダイクスの曲(1859年)で歌われました。この賛美歌は米国の伝えられ、1856年にローエル・メーソンが曲をつけると、爆発的に有名になりました。1912年のタイタニック号沈没の際に歌われたというエピソードで有名です。1953年に米国で「タイタニックの最後」というタイトルで映画化されました。1993年には、レオナルド・ディカプリオ主演の映画「タイタニック」が世界の話題になりました。

  讃美歌320番の第4節の邦訳は、「目覚めてのち まくらの 石を立てて めぐみを、いよよせつに 讃えつつぞ、主よみもとに 近づかん。」です。

  これでは作詞者の意図した内容を伝えていません。作詞者は主を賛美することによって、心を石にするような悲しみが消え、喜びに変わることを伝えたいのです。原曲の4節は次のようになっています。

 Then with my waking thoughts Bright with Thy praise, Out that Thou stony griefs Bethel I’ll raise;  So by my woes to be、Nearer, my God, to Thee, Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee!

 訳すと、「目覚めているときの思いは、主を賛美して喜び輝き、心を石にする悲しみは失せ、わたしはベテル(神を礼拝する場を示す石)を立てる。わたしに悲しみがあるなら。わが神よ、御許に近づかん、御許に近づかん。」となります。

 これを、日本語の歌詞にするのはむずかしいのですが、こんな歌詞になります。

 「目覚めてのち まくらの、石を立てて 主讃え、憂いは消え 喜び満つ 主よ、                みもとに 近づかん。」 

 わたしたちが主のもとに近づく前に、主がわたしたちのもとに近づいてくださっています。「わたしはあなたと共にいる。あなたは独りではない」と言っておられます。だから、わたしたちも、主の御そばに近づくことができるのです。

 セーラの母親は、彼女が五歳の時、結核で他界し、彼女も彼女の姉も同じ病に一生苦しみます。セーラは、三十一歳の時結婚しますが、四十三歳の若さで世を去りました。結核で死亡した姉の看病で命を縮めたのです。彼女は六十三篇の歌詞を書き残しました。彼女には深く苦悩する魂が潜んでいました。悲しみが彼女を神に近づけるのです。いや、神である主が、彼女と共にあって、彼女を力づけ、彼女に喜びの賛美を与えるのです。

 この讃美歌は葬儀のときに歌われることが多いが、主と共なることを求め、恵みと癒しを願う、向上のための歌なのです。「主よ、御もとに身を寄せます」で始まる詩編31篇の8節のように、「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの悩みを知ってくださいました」と歌う賛美であり、主の励ましを求める祈りの歌なのです。

   

 

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