富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「イエスの荒れ野の誘惑」

2015-02-22 21:37:04 | 聖書

            ↑ イエスの洗礼の場所と誘惑の山

 〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

            日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 受難節第1主日     2015年2月22日(日)    5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  284(荒れ野の中で)

交読詩編      31(主よ、御もとに身を寄せます)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書4章1~13節       

説 教    「イエスの荒れ野の誘惑」    辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 218(日暮れてやみはせまり)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                  次週礼拝 3月1日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                  聖 書  ルカによる福音書11章14~26節

                  説 教    「悪と戦うキリスト」

本日の聖書 ルカによる福音書4章1~13節

1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』書いてある。」

9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。

『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』

 11また、

『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

     本日の説教 

   先週の水曜日、2月18日の日から、4月5日のイースター(復活日)の前日までの、6回の日曜日を除く、40日間の受難節(四旬節とも言う)に入りました。日曜日を除くのは、日曜日はイエスの復活を記念する日だからです。受難節(レント)は「イエス・キリストが苦難を受けたことを思い起して礼拝を守る期節」です。40日という期間は、イエスが40日間、昼も夜も荒れ野で過ごされ、誘惑と戦ったことが大きな背景となっています。受難節の間は、自らをかえりみ、悔い改めと断食と祈りの時としてこれを守り、イースターに備えることが教会のならわしとなっています。

  イエスの「荒野の誘惑」は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されていますが、本日はルカの福音書から神のみことばを与えられたいと思います。

  「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」(ルカ4・1,2)

  主イエスはヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満ちて荒れ野に導かれました。四十日間、霊によって荒れ野の中を引き回され、悪魔から誘惑を受けられました。イエスは洗礼のあと、聖霊を受けたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、悪魔の誘惑にあわれたのです。なぜ伝道の始める前に悪魔の誘惑にあわれたのでしょう。人間を救うためには、人間に罪を犯すように誘った悪魔の誘惑に勝たねばならなったためと思われます。人類を救うための祝福の源となるように神によって選ばれたイスラエルも、神との契約である、神のみを礼拝し、神のみに仕えることに失敗しました。イエスはイスラエルが荒れ野で失敗した三つの試みに、先ず勝たなければならなかったのです。

  このように、イエスの誘惑は、旧約聖書の先例との関連があります。その先例とは、モーセが山で食糧もなく四十日間放浪したこと(出エジプト記34・28、申命記9・9)、エリヤが神の山へと四十日間逃れたこと(列王記上19・4-8)、そして特に、イスラエルが荒れ野で四十年間の旅を続けたこと(申命記8・2-6)です。荒れ野でのイスラエルの試練、それも申命記八章で述べられているようなものが、ルカ4章1-13節の直接の背景となっていることは明らかです。

  誘惑の個所では、申命記の言葉がイエスによって三回引用されています(申命記8・3、6・13、6・16)。そして一般的な背景となっているのは、エデンの園(創世記3・1~7)です。三つのイエスが受けた試みは、イスラエルが直面した試みを反映しています。神に「子」と呼びかけられたイスラエルが(ホセア書11・1、申命記8・5を見よ)、それぞれの試みにおいて失敗してしまったのに対して、イエスは、父なる神との確固とした信頼感をもって試みに応答することで、自らが神の子として救い主となることを示されました。

  「そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。」(ルカ4・3,4)

悪魔の第一の誘惑は、「神の子なら、この石にパンになるうに命じたらどうだ」という誘いでした。空腹を覚えているイエスに、目の前の一つの石をパンに変えて食べたらよいではないか、というさそいです。旧約聖書の先行記事は、荒野でのイスラエルの民の空腹です(出エジプト記16・1-4)。この試みの意義は、申命記8・2-3に次のように記述されています。「この四十年間あなたの神、主が導かれた荒れ野の旅のすべてを思い起しなさい。それは主があなたを卑しめて試し、御自分の戒めを守ることがあなたの心にあるかどうかを知るためであった。主はあなたを飢えで苦しめ、それからマナを食べさせられた。……それは人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに教えるためであった」と。マナを民に与えておられる神のみわざののなかで語られた言葉です。しかし、神の子たるイスラエルは、すべてを与えたもう神を信頼せず、出エジプト記16・3にあるように、つぶやいて、不信仰を表わしました。

 それと対照的に、イエスは天からのパンを信頼をもって待ち続けたのです。聖霊の力を活用し、奇蹟によって石をパンに変えて、自らに提供することは神への不信でした。神の子イエスは申命記8・3の、人はパンだけで生きるものではないというみ言葉によって、この試みを拒否したのです。人間は、パンを消費するために命を所有しているのではない、彼らが生きるのは、それが神の意志だからです。こうしてイエスは、自らが完全に神に依存していることを示したのです。この誘惑への勝利は、神意に無関係な奇蹟の力を発揮することを拒否したこによります。イエスは神の心にかなう愛する子(ルカ3・22)として、どこまでも神に従順でした。神の祝福なしには、パンもパンによって支えられる生命も空しいということです。

  誘惑の山

  「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(ルカ4・5~8)

  ここにはイエスの内面的な霊的戦いが描かれています。悪魔はイエスを高く引き上げ、マタイには非常に高い山に連れて行きとあります。一瞬のうちに世界のすべての国々を見せました。当時のローマ帝国の世界と思われます。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」この悪魔の言葉は、神の子の権威を表す言葉であり、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」というルカ10・22に類似しています。この誘惑はイエスにとって大きな誘惑です。この世の権力と繁栄は、すべての権力者が求めるものであり、この世の繁栄、栄華と富はすべての人を魅了するものです。わたしたちが人生において追い求める目標が、富とか地位とか世間での名誉とかいう地上の宝ではなく、「天において」、すなわち神との関わりにおいて、または霊の次元において、価値あるものでなければならないというのです。何よりもまず、神の国と神の義を求めることが大切です。ひたすら自分の能力を隣人に仕えるために用いることで「宝を天に積む」ならば、心はいのちの源である神に結びつけられて、地上の変遷を超えて、死によっても脅かされることのない、霊の喜びと希望に生きるようになります。

  この第二の誘惑は神の子の権威を悪魔がわがものにして自分への礼拝を要求しています。第二の誘惑には詩編2・8の神の子への権威の約束が暗示されています。<求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする>と。悪魔はここで自らを神として、神の子イエスへ礼拝を要求したのです。悪魔は、「私を拝んで」、この地上のすべての栄耀栄華を手に入れて、思うようにやったらいいではないか、という誘いです。悪魔に、全世界を与える力も権限もあるわけありません。全世界は、神のものだからです。しかし、悪魔は、できもしないことを言って、自分を拝ませようとするのです。ここに人をだます悪魔の真の姿があります。悪魔にとっては、人間に神を拝まないようにすることが、その最大の目的です。その時、主は、何をなさったでしょうか。主は、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(申命記6・13)と言って、悪魔を退けました。この言葉は、モーセがホレブの山(シナイ山)で十戒を与えられたあと、イスラエルの民に神の言葉を取り次いだときの言葉です。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」とあります。

  「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。《神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。》また、《あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。》』イエスは、『《あなたの神である主を試してはならない》と言われている』とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(ルカ4・9~12)

  そこで悪魔は<イエスをエルサエムへ連れて行き>、神殿の屋根の端から飛び降りてみなさい、と誘ったのです。当時のユダヤの人々は、いつの日か自分たちを救いに来てくれるメシアが登場する、その場所は、このエルサレムの壮大な神殿の、しかも誰からもよく見える屋根である、とそう信じていたのです。そこに救い主が姿を現して民に救いを告げる。そういう最もふさわしい場所を悪魔は選んだのです。そして悪魔はイエスに対して、神の子メシアとしての力を魔術的に行使して自分が神の子たることを示しなさい、と誘ったのです。悪魔は詩編91・11~12の引用によって試みます。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」。この詩編は神への全き信頼を示す祈りです。悪魔はイエスに、神への信頼心をおのれの利益のために悪用させようとしたのです。イエスはこの奇蹟を要求する偽りの信頼への誘いに対して、「あなたの神である主を試してはならない」と言って誘惑をはねのけたのです。イエスが言われた言葉は、「あなたがたがマサでしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」とある申命記6・16の言葉を引用したのです。これは旧約聖書の出エジプト記17・1-7に語られている出来事を背景にしています。イスラエルの民の飲み水がなかったときの出来事です。「彼(モーセ)は、その場所をマサおよびメリバと名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(出エジプト記17・7)とあります。イエスはイスラエルが犯したあやまちを犯すようなことはありませんでした。神を試みる時、もっとも単純なことは、必要もないことをしてみて、神の誠実さを試そうとすることです。神殿の屋根から身を投げるということは、まったく不必要なことです。イエスにとっては、自分がメシアであると確信することが、必要でした。その確証を与えられたいということが、いつも最大の誘惑でした。悪魔の誘惑は、それをついたのでした。イエスが悪魔の誘いを拒否したのは、神の権能への信頼に欠けていたかではありません。神を信頼することとは、神の意志に従うことであり、神を試みることを含むあらゆる種類の人間的な手立てを用いないということです。この神の子は後に、実際に十字架の死のあと、黄泉の深淵へと(跳躍して)下ることになるのですが、彼がそうするのは、そのことがまさに神の意志であることを確信しておられたからこそなのです。

 「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(ルカ4・13)

 悪魔はあらゆる誘惑を終えてイエスを離れました。<時が来るまで離れた>とは、次にイエスが悪霊と対立する時までと意味です。主イエスはこの後も悪魔と戦うことになります。そして受難を迎えます(22・3)。

 主イエス・キリストがこの世に来て下さったのは、人間となってこの世を歩んで下さり、そして悪魔のこの誘惑を受け、聖霊の導きの中でそれに打ち勝って下さったのです。私たちはこの主イエスを信じ、この主イエスと結び合わされて、この主イエスと共に生きていくのです。そのことによって、私たちも神の子とされます。

  「この大祭司(主イエス)は、わたしたちの弱さを同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様の試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただきために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4・15,16)

 

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「五千人に食べ物を与えたイエスの奇跡」 

2015-02-15 02:07:50 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

     日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

       降誕節第8主日 2015年2月15日(日)  5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編      23(主は羊飼い)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書9章1~17節       

説 教  「五千人に食べ物を与えたイエスの奇跡」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

            次週礼拝 2月22日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

             聖 書  ルカによる福音書4章1~13節

             説 教    「荒れ野の誘惑

  2月18(水)の「灰の水曜日」から受難節に入ります4月4日(土)まで続き、4月5日(日)に、イースター「復活日」を迎えます。「灰の水曜日」の呼び名は、深い悔い改めや悲しみを表現する灰で、信徒の額(ひたい)に十字のしるしをした教会行事に由来しています。「灰の水曜日」から始まる40日と6回の日曜日を合わせた46日間が、キリストの苦しみと十字架の死を思い起こす受難節です。

     本日の聖書 ルカによる福音書9章1~17節

 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。 11群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。 16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

     本日の説教 

   今日の聖書の箇所には、主イエスが、二匹の魚と五つのパンで五千人もの人々を満腹させたという出来事が記されています。この物語は、到底ありえない話として決め付けてしまう人もいると思います。聖書の中には、たくさんの奇蹟物語が記されていますが、その中でもこの奇蹟物語は、まさに信じられないことが起こった奇蹟であり、キリストを信じる者にとってもつまずきの石となるものです。

   そんなことが本当に起こったのだろうかという疑問から、次のような合理的な解釈が生まれました。イエスのもとに集まった人々は、イエスの神的オーラ(独特な雰囲気)に心動かされて、自分たちの衣服の中とか、旅行用の袋とかに隠しておいた食べ物を取り出して、互いに分かちあったので、みんなが食べるのに十分であった、という解釈です。

    また別の解釈によれば、この食事は象徴的かつ霊的なものであったので、それぞれが、食べ物のほんの一かけらを分かち合って受け取った時に、肉体的な飢えではなくて、霊的な飢えが満足させられた、という解釈です。しかしながらこうした説明は両方とも、超自然的な出来事を報告しようとしている福音書に出てくる物語に対して正当な扱いをしているとは言えません。

   この供食(きょうしょく)の物語は四つの福音書すべてに記されている唯一の出来事です。恐らく、この奇跡の物語は最初の教会にとって、忘れられない大切な救いの物語として、その心に深く刻まれたのだと思います。教会はこの出来事の中のイエスに、まことの救い主としての姿を見出したのです。

   それでは、聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。

    イエスは十二人の弟子に、神の国を宣べ伝える任務を果たすために、悪霊に打ち勝ち、病気をいやす権威と力を与えて、使徒として派遣しました。宣教の旅には、お金や食料や予備の服などを携行せず、全面的に神に依存しなければならないと、イエスは指示しました。十二人は、イエスに命じたように、「まさかのための」安全装備もしないで、軽装で出かけていきました。

     彼らは神殿に仕えるレビ人のように、人々による歓待と援助とを当てに出来ました(民数記18・31、コリント一、9・13~14)。もし彼らが金銭や余分な備えを持って行けば、神に対する彼らの信仰や、人々のするもてなしへの信頼が欠けていることが明らかになり、人々からの信頼を失ってしまいます。使徒たちは、イエスに遣わされて出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで説教し、人々を癒しました。このことが、9章1~6節に記されています。

   「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」(ルカ9・10)

    イエスは十二人から宣教の報告を受け、彼らを連れて群衆から離れベトサイダに退きました。食事をする暇もなかったためしばらく休むためでした。また祈りと回復のためでもありました。ベトサイダは、ペトロやアンデレやフィリポの故郷です(ヨハネ1・44)。ガリラヤ湖の北東の岸にある町です。その町から更に離れた「人里離れた所」に移動したのです。

    「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。」(ルカ9・11)

  そのことを知った群衆はイエスの後を追いました。集まった大勢の群衆を見て、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(マルコ6・34)、この群衆を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々を癒しておられました。

    「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。』」(ルカ9・12)

    群衆は、人里離れた所におり、日没がせまっていました。十二人はイエスのそばに来て、群衆を解散させ、宿や食べ物を見つけるために近くの村や人里に行かせるように、言いました。イエスが癒しと説教を止めれば、群衆は帰ると思ったのです。十二人は人々への純粋な気遣いを示したのです。

  「しかし、イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』彼らは言った。『わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。』というのは、男が五千人ほどいたからである。」(ルカ9・13)

     イエスは十二人に、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子たちに与えた権威と力で、食べ物を与えるようにと言われたのです。しかし、弟子たちは、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と答えたのです。パンと魚というのは、ガリラヤの庶民の食事の基本でした。五つのパンと二匹の魚だけでは、男だけでも五千人もいる人々の食糧には、無いにも等しいことは明らかです。近くの村に行ったとしても、五千人分の食糧を調達することは不可能です。その食糧を買い求める金もありませんでした。(一人に二百円のパンを買ったとしても、五千人分だと、百万円になります。200円×5000=1.000.000円)

    「イエスは弟子たちに、『人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい』と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。」(ルカ9・14、15)

   弟子たちには出来ないことが分かったイエスは、人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさいと、弟子たちに命じました。一組五十人ぐらいが、百組できたことになります。弟子たちは、そのようにして全員を座らせました。この座る姿勢は、ユダヤ人の食事をとる姿勢にさせたことになります。<座らせた>の原語は、ルカ24・30の<席についた>と同じです。

  「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」(ルカ9・16)

    イエスは、<五つのパンと二匹の魚を取り(パンを取り)>、<賛美の祈りを唱え(感謝の祈りを唱え)>、<裂いて(それを裂き)>、<お渡しになった(与えた)>という言葉は、主の晩餐のときと同じ、聖餐式で使う言葉が語られています(ルカ22・19)。イエスが人々に食べ物を与えたとき、弟子たちはそれを人々に配る奉仕をしました。

    「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」(ルカ9・17)

   なんと、すべての人が食べて満腹しました。残ったパンの屑を集めると十二籠もありました。十二人の一人ずつの籠に相当します。決してたくさん残ったのではありません。だが、少しでも残ったということは、十二分の食糧であったということです。

  この「五千人に食べ物を与えた」物語は、どんなことを伝えようとしているのでしょうか。                                                       1.この物語は、荒れ野において神がイスラエルの子らへ、マナを与えられた、モーセの時代の物語を想起させます(出エジプト記16章、民数記11章)。                    2.また、この物語は、エリヤ(列王上17・8~16)およびエリシャ(列王下4・42~44)の話を思い起こさせます。飢餓のときにエリヤは寡婦(かふ)とその子供が一握りの粉と少量の油で長い間パンをつくって食べることができるようにしました。       預言者エリシャも、召使いに、百人の人々に大麦パン二十個と穀物を食べさせなさいと命じたが、召使いがそれを配ったところ、彼らは食べきれずに残しました。召使いの役目とイエスの弟子たちがパンを配る役目とが似ています。                                    3.この物語は、私たちが持っているもの、私たちが提供しなければならないものが、たとえ五つの小さなパンと二つの乾燥させた魚でしかないとしても、神はそれを用いたもうということを読者に想起させます。いかなる献げ物であっても、小さすぎて神が用いられない、などということはないということです。                              4.またこの供食は、主の晩餐(ルカ22・19、24・30)を先取りしています。イエスと共なる食事は、見えざる神の国の到来の見えるしるしです。                          5.群衆への供食は、宣教とは別のことではなく、イエスは人間の肉体的・精神的な必要にお応えになったことを伝えています。

   実は、この五千人への供食は、パンを魚を群衆に配った十二弟子たちにとっても、どうしてこのようなことが起こったのか、理解できない出来事でした。マルコによる福音書6章52節には、弟子たちは「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなったいた」とあります。五千人もの大勢の人々に少量のパンで満腹させるという普通の人間では不可能なことが、イエスによって実現したことは、イエスが神的存在として預言者以上の者であることを示しています。しかし、そのことは弟子たちに分からなかったのです。この出来事の後に、ペトロは、弟子たちを代表して、信仰を言い表しました。「あなたはメシア、生ける神の子です。(マタイ16・16)」この供食の奇跡は生ける神の子であるイエス・キリストのよってなされた恵みの食事だったのです。

  旧約聖書では主なる神はしばしばイスラエルの牧者(羊飼い)にたとえられていますが、イエスはここで神的な力をもって大群衆を教え、養う大牧者として登場しているのです。「何を食べようか」と思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」とイエスは教えられました。その教えの通り、救いを求めて集まった群衆に、必要な糧(食事)を与えられたのです。「日毎の糧」を私たちの祈りに応えて、与えたもう御神に感謝するとともに、神には何でも出来ないことはないことを改めて、この奇跡を通して示されました。

 

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『種を蒔く人のたとえ』 のメッセージは?

2015-02-08 01:28:40 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403   日本キリスト教 富谷教会 週報

   降誕節第7主日  2015年2月8日(日)     5時~5時50分 

    礼   拝    

前 奏              奏楽      辺見トモ子姉

 讃美歌(21)  202(よろこびと栄にみつ)

交読詩編     126(主がシオンの捕らわれ人を)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書8章1~15節       

説 教   「種を蒔く人のたとえ」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

聖餐式(21)  78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 

                    次週礼拝 2月15日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                     聖 書  ルカによる福音書9章10~17節

                     説 教   「奇蹟を行うイエス」

本日の聖書 ルカによる福音書8章1~15節

1すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 2悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 3ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

4大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 5「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 6ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 7ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 8また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

9弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。 10イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』
ようになるためである。」

 11「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 12道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。 13石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。 14そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。 15良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

    本日の説教 

 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。」(8:1)

   すぐその後>とは、特定の出来事の直後の出来事を指すのではなく、イエスのガリラヤ伝道の継続を指し、「その後も」とか「引き続き」ということです。イエスはガリラヤ地方の町や村を巡って旅を続けられながら、<神の国>の宣教をなさいました。<12人の弟子>も一緒でした。12人の弟子は、<神の国>の宣教の証人となり、彼ら自身が将来担う宣教の準備となります。弟子たちの中から12人の弟子を選び、使徒とした話は、6章12節~16節に記されています。

  多くの婦人たち>も、自分の持ち物を提供して、経済的援助を行い、イエスの一行に奉仕しました。宣教は12使徒だけでなく、彼女たちによっても担われたのです。イエスの巡回伝道の活動に女性が含まれていたことは、当時の宗教的運動では特異なことでした。イエスは男女の差別や偏見を排除したのです。

   七つの悪霊を追い出していただいた<マグダラのマリア>を始めとする三人の婦人の名が記されています。彼女たちは イエスに出会うまでは、心と体のさまざまな疾患で苦しんでいました。それが、イエスの内に働く神の霊の力によっていやされ、正常な心身に復帰したとき、イエスに対する献身的な愛となり、自分の資産を投げうって、イエスに仕えるようになったのです。

  大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになりました。<譬(たとえ)>は、物事を説明するとき、相手の良く知っている物事を用いて伝えます。イエスの教えのうち、三分の一以上は、たとえであり、その数は40にも及びます。イエスは神の国の福音を<種を蒔く人のたとえ>で語りました。(平行記事マタイ13章、マルコ4章)

  「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので、枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。(8:5~8a)

   当時のパレスチナの農夫は、十一月中旬から一月の始めにかけて、まず大麦、次に小麦を蒔きました。私たちが知っている種蒔きは、前もってよく耕された畑に丁寧に種を蒔きます。けれども、彼らは畑一面に手で種を巻き散らし、その後で耕して種に土をかぶせました。ですから、道端や石地や茨の中に落ちて無駄になる種も多かったわけです。農夫は、失われる種が多いことは知っていても、よい地に落ちた種は多くの実を結び、蒔かれた種の何十倍の収穫をもたらことを信じて、種を散布しました。この忍耐強い農夫こそ、イエスご自身を現す比喩(ひゆ)(=たとえ)です。

          

               ミレーの『種まく人』1850年 ボストン美術館                                    ミレーは、種を撒くイエスをイメージして、この画を画いたと言われています。

   イエスは、ご自身と共に到来している「神の国」を宣べ伝えますが、それは周囲の不信の中に埋もれて実を結ばないように見えます。今は不信と圧迫の中で失われたかのように見えるイエスの「神の国」告知の働きも、最後には必ず圧倒的な成果をともなって出現することを、このたとえは伝えているのです。神の支配が実現することを信じて、イエスは神の国を宣べ伝えているのです。そこには終末への期待があります。

  イエスはこの<種を蒔く人のたとえ>を語られた後、<聞く耳のある者は聞きなさい>と大声で言われました。これは「聞きつづけなさい」ということです。イエスの言葉を聞くことの重要性が強調されているのです。そうするなら、必ず、イエスが言わんとするたとえの真意を悟ることができるようになるからです。

  「弟子たちは、このたとえはどんな意味か」と尋ねました。(8:9)ここで言われている<弟子たち>は、12弟子のみならず、他の弟子たちやイエスに従った女性も含まれると考えることができます。マルコによる福音書では「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた」(4:10)とあります。弟子たちはイエスの語るたとえ話を理解することができなかったので、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねたのです。<尋ねた>という動詞は、繰り返して尋ねた、という意味を含む語であり、弟子たちがイエスに向かって、そのたとえの真意を、納得するまで問い続けることを意味します。

  イエスは言われました。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」(8:10)

  神の国の秘密>とは、イエスの言葉と行いによって現実に到来している神の支配は、人知の及ばぬ神の隠れた秘密である、ということです。それを悟ることが、弟子たちに許されている、とイエスは言われたのです。神の国の秘密は人間自然の理性によって知ることが不可能であり、聖霊によってのみ解き明かされます。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとっては、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(コリント一、2:14)

  神の国の秘密を悟るのは神の恵みであり、イエスに従わない外の人たちには許されていません。イエスの言葉は、彼らには比喩(謎)として残るのです。そして、そのように謎のまま残ることは、イザヤも預言している、としてイザヤ書6章9~10節を引用します。イザヤは預言者として神の言葉を語るように召されましたが、イスラエルは<見ても見えず、聞いても理解できない>状態に放置されました。

  弟子たちの質問に答えて、イエスは「種を蒔く人」のたとえを説明します。しかし、この説明は明らかに初期教会の解釈です。説明部分では終末へに期待は薄れ、イエスのたとえを寓話(ぐうわ)的に解釈して、一つの教訓的・勧告的説教にしています。

   「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。(8:11~15)

   ここに語られている説明は、イエスが語られた比喩の物語の中の一つひとつの語句に具体的な内容を指示させて、全体として一つの象徴的物語にしています。ここでは、<>は<神の言葉>であり、イエス復活後の宣教用語です。

   <道端に落ちた種>とは、心がかたくなり、悪魔に扇動されて信じない人です。悪魔は神の「道」を曲げて「神の言葉を聞かせまいとして、人を信仰から遠ざける者」(使徒言行録13:7~10)です。つまりみ言葉がその人の心に根付かずに失われてしまうのです。

  石地に落ちた種)>とは、御言葉を信じて、受け入れても、<試練の時>、特に迫害の時に、根なし草は脱落する。信仰も、根が浅いと、試練に打ち勝つことができないのです。

   茨の中に落ちた種>とは、御言葉を聞くが、財産への思い煩いや富や所有による快楽に妨げられて、実が熟するに至らない人です。

  良い土地に落ちた種>とは、行いも人格も立派で美しい人です。御言葉を聞き、御言葉をよく守り忍耐して保つ人です。御言葉を聞いて、行う人たちは、神様のみ言葉が百倍の実を結んでいくのです。

   使徒たちは、福音を告げ知らせる働きの中で、イエスから聞いていた「種を蒔く人」のたとえが、見事に福音を聴く人たちの対応の仕方を象徴的に描いていることを見出したのです。

  これが「種を蒔く人のたとえ」の内容です。私たちはこのたとえ話を読む時、自分はこの四種類の人たちのどれだろうかと考えてしまいがちです。さらには、自分はこの四つのどれかなのではない、この全部が自分のことだ、と思うこともあるでしょう。人は出しも、自分のなかに四種の土地を持っています。私たちの生涯のある時期で、同じ人間が、道端(畑の中の道端)であったり、石地であったり、茨の道であったり、良い地であったりします。私達が良い地とされるのは、農夫である神が土地を手入れしてくださるからです。

  このたとえ話は、御言葉の聞く者の受容の仕方の違いを示し、御言葉を正しく聞き従うことを強調しているのです。

  弟子たちや信仰者たちの中に、道端や石地や茨の土地のような人がおり、たまに「良い地」であるような人がいる、ということではありません。このたとえ話は、弟子たちや主イエスを信じて従って来ている信仰者たちに、あなたがたは「良い地」とされている、道端や石地や茨の土地のように、み言葉の種が実を結ぶことのない「他の人々」とは違い、み言葉の種はあなたがたの中で百倍の実を結ぶのだ、と語りかけているのです。

  種を蒔く人は主イエス・キリストです。またキリストに遣わされたの弟子たちです。神のみ言葉の種を蒔いてくださるのは、主イエスです。実を結ぶ<良い土地>になるには、み言葉をしっかり聞くことです。そしてそれをよく守ることです。聞いたみ言葉を手放さずしっかりと持ち続け、神の言葉である種が実を結ぶ時を忍耐して待つことです。

   主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、(わたしの父は農夫である)、あなたたちはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人とつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:1)と言われました。「わたしの愛にとどまりなさい」と言われたイエスにとどまり続けることが実を結ぶ人です。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方(神)が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(コリント一,2:10)と使徒パウロは語っています。良い業を始めてくださったのも、その業を完成させてくださるのも、神ご自身です。                    

  私たちの歩みにはいろいろな試練が襲ってきます。人生の思い煩いに苦しむことも、富や快楽に心を奪われることもあります。しかし、私たちを、それらに打ち勝って、実を結ぶ人としてくださるのは主イエスのお働きによるのであり、この勝利を信じて歩むことを主イエスは求めておられるのです。それによって私たちは良い地となり、み言葉の種は私たちの内で百倍の実を結び、私たちはそれを喜びの歌と共に刈り入れることができるのです。

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 「イエスの病気の癒しと罪の赦し」

2015-02-01 12:51:11 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

           日本キリスト教 富谷教会 週報

    降誕節第6主日   2015年2月1日(日)    5時~5時50分 

           礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  204(よろこびの日よ)

交読詩編      32(いかに幸いなことでしょう)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書5章12~26節       

説 教  「イエスの病気の癒しと罪の赦し」    辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                次週礼拝 2月8日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                                  聖 書  ルカによる福音書8章4~15節

                                   説 教   「教えるイエス」501

      本日の聖書 ルカによる福音書5章12~26節

12イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。 13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。 14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」 15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。 16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。                                                                                                                               17ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。 18すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 19しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。 20イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。21ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 22イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。 25その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。26人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

      本日の説教 

   ガリラヤで伝道を始められたイエスは、カファルナウムで「汚れた霊に取りつかれた男」を癒し(ルカ4:31~37)、シモンの家で熱病で苦しんでいるシモンのしゅうとめを癒し、いろいろの病気で苦しむ者の一人一人に手を置いて癒されました(ルカ:38~41)。 ゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)で、漁師たち、シモン・ペトロとシモンの仲間、ヤコブとその兄弟のヨハネを弟子にされました。そして、「イエスがある町におられるとき」という書き出しで、「重い皮膚病を患っている人」の癒しの物語が始まります。マルコによる平行記事では、カファルナウムの出来事としています(マルコ2:1)。

 「重い皮膚病」は、ギリシャ語原典では「レプラ」という語が用いられています。新共同訳聖書では「重い皮膚病」と訳していますが、新改訳聖書や、日本聖書協会の口語訳聖書では「らい病」と訳されています。「らい病」という言葉は差別用語とみなされ、新共同訳聖書では「重い皮膚病」と改定されています(96/11/01)。

  【らい病」は、体の末梢神経がまひしたり、皮膚がただれたような状態になるのが特徴で、病気が進むと容姿や手足が変形することから、患者は差別と偏見の対象になり、感染力が強く、遺伝病であり、不治の病であるとする誤解と思い込みがありました。1873年(明治6年)にノルウェーのハンセンが、らい菌を発見したことにより、「ハンセン病」という名称が使われるようになり、その後研究が進み、らい菌は、感染力が非常に弱く、たとえ感染しても発病することはまれであることが明らかになりました。また、1940年(昭和15年)代以降は、治療法が確立され、早期に発見し、適切な治療を行えば、治すことができる病気となりました。ハンセン病が感染症であり適切な治療を行えば治ることが分かっても、日本では隔離政策が1996年(平成8年)まで続いたことなどから、それまでの誤解が払拭されず、ハンセン病患者やその家族は偏見と差別を受けました。私は、昭和34、5年頃、当時東神大の学生だったとき、郷里の教会の牧師と共に、宮城県栗原市瀬峰町にある東北新生園というハンセン病患者の収容施設である国立療養所におられた患者の方を見舞ったことがあります。ハンセン病は、当時「らい病」と呼ばれ、「らい予防法」廃止後は、官民ともに「ハンセン病」が正式な用語となりました。

  ギリシャ語の「レプラ」は、ヘブライ語の「ツァ-ラアト」の訳語で、「ツァ-ラアト」は現代医学でいうハンセン病だけでなく、治療がきわめて困難な皮膚病を含もものでした(レビ記13~14章参照)。この場面に登場する患者がどのような皮膚病を患う患者であったかは明らかではありませんが、「ツァ-ラアト(レプラ)」を患う者は、当時は恐れや無知から非常に不思議で恐ろしいものとされ、イスラエルの律法では不浄の者と見做され、この病気に罹った人々は人々の目に触れない所に隔離され、共同体の外に住まねばならなかったのです。だれかが近づいたなら、<わたしは汚れた者です。汚れた者です>と呼ばわって警告しなければなりませんでした。それは伝染病予処置だったが、本人にとってはみじめな状態に陥ることから大きな苦痛を伴いました。

  この男は人から聞いて、イエスなら自分を助けることができるだろうと信じていたのでしょう。この男は律法を犯し、刑罰を受けることは覚悟のうえで、町に入り、、イエスに近づき、ひれ伏したのです。そして、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのです。                                                     「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去りました。マルコ福音書によると、「イエスが深く憐れんで」、その人に触れて癒したのです。主イエスはこの男に触れることによって、その人の孤独と恥を共に負われたのです。そしてイエスのこの行為と<清くなれ>という言葉によって、全身をおおっていた「重い皮膚病」はたちまち彼から去りました。イエスの命令によって、古い汚れた状態から新しい清い状態への大逆転が、一瞬にして起きたのです。

 今や重い皮膚病が癒されたその人に、イエスは二つの指示を与えました。一つは、彼は誰にもこのことを語ってはならない、ということです。イエスはすでにたくさんの人々に取り囲まれており、これ以上、うわさが広まると、4章42節で起こったように、群衆に引き止められ、ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせることが出来なくなるためであったと思われます。もう一つの指示は、祭司の所に行って見せ、律法に適った儀式として、清めの献げ物をし(レビ記14章)、人々に証明しなさいと命じたのです。

  しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来ました。 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられました。父なる神との絶えざる祈りの交わりが、イエスの霊の力に満たされる源だったのです。

 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていました。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのです。ファリサイ人は、サドカイ人とは違って祭司ではありません。イエスが彼らを「偽善者」と非難しましたが、しかし彼ら全員を「偽善者」と見做したわけではありません。彼らの活動の中心は神殿ではなく、会堂であって、その宗教の中心は書物と口伝からなる律法でした。彼らは律法を詳細に読み取って、生活の種々な状況に当てはめました。そのようにして、信仰を保ち、共同体を維持しようと努めたのです。彼らは宗教指導者として、イエスに関して流布されている話の真相を確かめるために集まってきたのでしょう。

 主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられました。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとしました。         中風(ちゅうぶ)とは、半身の不随とか、腕や脚のマヒする病気です。一般的には、脳出血後に残る(後遺症の)マヒ状態のことで、「中気」とも言います。】                  ここでは<中風(ちゅうぶ)の人(パラリュティコス)>は「不随の者」を意味し、病名を確定することは出来ませんが、いずれにしても、患者は歩けない状態にあった人です。男たちのグループ(マルコ福音書では4人)が中風の人をイエスの前に連れてきて寝かせようとしました。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、開けた穴から、人々の真ん中にいるイエスの前に、病人を寝床ごとつり降ろしました。

  当時パレスチナの家屋の屋根はおそらく横梁(ばり)の上に角材を並べ、その上に木の枝や柴を編み、粘土で練り固めた平屋根でした。屋根には外から階段で上ることができました。屋根は、マルコ福音書では<屋根をはがして穴をあけ>とあるので、粘土を固めた屋根のようですが、ルカ福音書では<瓦をはがし>とあります。これはルカ自身のギリシャ・ローマ的な背景を反映しています。男たちは、瓦の屋根をはがして、イエスの前に病人を床ごとつり降ろしました。<床>は貧しい人が使う小さくて粗末なベッドです。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。<その人たちの信仰>とは、癒された病人が家に帰る時<神を賛美しながら>とあることから、中風の患者の信仰と四人の信仰です。イエスの権威と奇跡的な力に対する信頼です。中風の人へのイエスの最初の言葉が、「人よ、あなたの罪は赦された」と言う言葉でした。彼の病気が彼の霊的な状態と関係していることが明らかに暗示されています。イエスが、あなたの罪は赦されたと言えば、病人は癒されたも同然なのです。イエスは癒しかつ罪を赦すという両方のことができる<主の力>(17節)を与えられているのです。

  ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めました。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と考えたのです。イエスは、彼らの考えを知って、お答えになりました。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われました。イエスにとっては罪を赦すのも病を癒すのも同じ権威に属することでした。病を癒すイエス行為は、罪の赦しによる神との好ましい関係の見える「しるし」なのです。これがイエスが病人を癒す理由であり、<圧迫されている人を自由にする>(4:18)ということの意味でもあり、神の救いの見えるしるしです。

  そして、イエスは中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。癒された人はすぐさま立ち上がって、寝ていた台を取り上げて、神を賛美しながら帰って行きました。主イエスの癒しの権威により、この人は、古い病の状態から健康な全く新しい完全な状態に転換した神の救いの喜びを賛美しました。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めました。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言いました。

  中風の人の癒しの伝承は、後の弟子たちの時代にも伝えられ、弟子たちは、生まれながらの足の不自由な男を<イエス・キリストの名によって>癒しています(使徒言行録3:6)。   イエスは四福音書の随所で幅広い病気を治しています。失明、難聴、中風、重い皮膚病、てんかん、歩行困難、手の委縮など身体的症状が最も多いが、他に、悪霊を追い出す必要がある状態として描かれる、精神的疾患があります。イエスは症状にあわせ、触れる、言葉をかける、唾(つばき)を使うというような異なる手段をとっています。新約聖書の癒しの話は、罪の赦しの話であり、罪の赦しによる神との好ましい関係の見える「しるし」であり、神の国へ入れる救いなのです。

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