富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」 ヨハネによる福音書6章60~71節

2016-02-26 00:28:57 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

            日本キリスト教 富 谷 教 会

                    週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    受難節第3主日        2016年2月28日(日)   午後5時~5時50分

             礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩篇   90(主よ、あなたは代々に)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書6章60~71節(新p.176)

説  教   「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 522(キリストにはかえられません)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                                       次週礼拝 3月6日(日)午後5時~5時50分

                                                    聖書 ヨハネによる福音書12章1~8節

                                                     説教   「香油を注がれる主」

                                                  賛美歌(21) 543 567 24 交読詩篇 2

     本日の聖書 ヨハネによる福音書6章60~71節

  60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは“霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

                   本日の説教

  今日の聖書の箇所は、「弟子たちの多くの者はこれを聞いて『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』と言った」という記述から始まっています。このつぶやきの内容を正しく知るために、6章の初めから続いてきた物語をたどってみましょう。

    過越しの祭りが近づいていたとき、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の向こう岸のベトサイダに渡られ、人里離れた山に登られたイエスは、後を追って来た男だけでも五千人にのぼる群衆に、パンをお与えになりました。過越祭では、神の怒りを過ぎ越すために子羊が屠(ほふ)られ、出エジプトの時のことを記念します。イエスは、人間の罪の贖いとなるため、世に送られた神の小羊です。また、イエスは「生命のパン」の与え手であり、また同時に「生命のパン」そのものであることをこの奇跡で明らかにし、人間の肉体的・霊的な必要にお応えになられたのです。この供食は、主の晩餐(聖餐式)を先取りする食事でもありました。

    そうして、一方では肉の糧を求めてやまない群衆と、他方では霊の糧・永遠の命に至る糧を与えようとするイエスとの間に、大きなくいちがいがあることが次第に明らかにされていきました。群衆はイエスのなさった奇跡を見て、イエスを王にし、政治的・経済的安定を企てたとき、イエスは姿をかくして彼らの要求に応じませんでした。

   方になってから、弟子たちは舟に乗って湖の向こう岸のカファルナウムに向かいました。既に暗くなり、強い風が吹いて湖が荒れ始めたとき、イエスは湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づきました。イエスを見て恐れた弟子たちに、イエスは「わたしだ。恐れることはない」と言われ、彼らがイエスを迎え入れようとする間もなく、舟は目指す地に着きました。

   その翌日、ベトサイダの岸に残っていた群衆は、一そうあった小舟とティベリアスから来た数そうの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムにきました。おそらく群衆の多くは海岸の陸路を歩いて行ったのでしょう。そして群衆はイエスを見つけ、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねました。

   イエスはその問いに直接には答えず、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなくパンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与えようとしているパンである」と言われました。

   そこで彼らは、「神の業を行うために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。人々は永遠の命のパンを得るために、何らかの業を行い、その報いとしてそれを受けるものだと考えています。イエスは、「神がお遣わしになった者を信じることが神の業である」と答えました。そこで彼らは「それではわたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。先祖は荒れ野でマンナをたべました」と言いました。<しるし>とは目に見える証拠です。彼らはモーセのことを持ち出し、しるしと不思議とを見なければ信じられない、と言ったのです。

   イエスは群衆の問いに対して、モーセが天からのパンを与えたのではないことを指摘し、天からまことのパンを与えるのは、モーセではなく、イエスの父である神であり、そのパンは天から降って来て、世に命を与えるパンであると言われたました。

   そこで彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言いました。

   イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない、しかしあなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言い、更に「わたしが天から降って来のは、わたしをお遣わしになったわたしの父の御心を行うためであり、子を見て信じる者が永遠の命を得ることであり、その人を終わりの日に復活させることである」と言われました。

   イエスを信じることが永遠の命を既に得ていると言われています。終末の日に起こる出来事の現在化が明確にされています。

   ここからはは群衆ではなく、ユダヤ人とイエスの対話に変わります。59節にあるように、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときの対話となります。

   イエスは、わたしは天から降ってきた命のパンであると言い、人間に命を直接に与えることが出来るのはモーセではなく神であると語りました。このことはイエスが神と等しい者であること意味しています。この話を聞いてユダヤ人たちは躓き、イエスのことでつぶやき始めました。

   「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」と言いました。人間イエスが神と等しい者だと主張したことを否定しました。

   イエスは、「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と言われました。神が霊によって明らかにしてくださらなければ、神の霊に属することは理解できないのです(コリント一,2・10)。イエスははっきり言われます。「信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。…わたしは天から降ってきた生きたパンである。…わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われました。

   ここでは、イエス御自身が命のパンであり、その命のパンの与え手であることが宣言され、そのパンとはイエス御自身の肉であると言われています。

   それでユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めました。51節cから58節は聖餐についての議論です。

   イエスははっきり言っておく、と語り出します。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」十字架の上で裂かれたイエスの体、流された血、それにあずかることによってキリスト者は神の与える新しい命に生きるということが言われています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもその人の内にいる。…わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」聖餐にあずかることが、神とイエス・キリストと弟子たちとの一体性のしるしであると言われています。

   いよいよ、ここからが今日の聖書の箇所、6章60節に入ります。弟子たちの多くの者はこれを聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とイエスに躓きました。聖餐を具体的内容とした議論に躓いたのです。

   イエスは弟子たちがこのことについてつぶやいているを知って、「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」と言われました。「一層躓くだろう」という文章が完結しない形が使われています。イエスが命のパンであると認めることが出来ない者は、ましてや十字架、復活、昇天の一切のことを認めることは出来ません。

   命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たないわたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」

   自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです(コリント一、2・14)。イエス・キリストによる罪の赦しと復活の信仰をもって、イエス・キリストの体にあずかること、それは聖霊の働きによってのみ可能なのであり、この信仰を抜きにしてパンを食しても何の役にも立たないことが意味させています。

   わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

   すべての被造物を創造したのは言であり、命を与えたのも言でした。その意味では神が命をもっておられ、イエスもまたその命を託されているのですが、聖霊もまた、命をもっており、霊自体が命であると言われています。

   しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる

   イエス御自身が伝えようとしている真理は、人格的真理であり、それは受け取り手の主体性、自由ということが保証されていなければなりません。信仰は強制されるものではありません。従って信じる者がいる反面、信じない者たちが出てくることは明かなのです。

   こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ」とイエスは言われました。

   これは聖霊の働きなしにはだれもイエスを信じると告白することができないということを言っています。このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなりました。

   この翌年の春の過越しの祭りの時には、イエスは過越しの子羊として十字架の死を迎えなければなりません。また命のパンとして御自身の命を与えなければなりません。そのため、ご自分の使命を弟子たちに伝え、受難を予告したのです。しかし多くの弟子たちはそれを理解することができず、躓きました。残ったのは十二弟子だけでした。

   多くの者が去っていったとき、イエスは残った十二人の弟子たちの心を確かめるために、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。

   シモン・ペトロが、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えました。<主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか>という答えには、<主よ、わたしたちにはあなたの他にだれのところにも行くところはありません>という反語が秘められています。主イエスから離れて行きません、共にいることの大切さが身にしみていますということです。あなたは永遠の命を与える言をお持ちであり、神から聖別された聖なる方であると信じています。この告白はペトロが弟子たちを代表してイエスに対する信仰を言い表したものです。

   このペトロの告白を主イエスはどんな喜ばれたことでしょう。しかしこのペトロの告白に対するイエスの評価の言葉はありません。マタイ福音書では「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16・17)と語っています。ヨハネ福音書ではペトロの告白はイエス御自身を「あなたは命の言です」とまでは言っていません。また神から来られたメシアですとも言っていません。このペトロは復活されたイエスに出会い、聖霊降臨の恵みを受けた後は、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、(神が死者の中から復活させられたイエス・キリスト)、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」、と証言するようになります。(使徒言行録4・12)

   すると、イエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と言われました。イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのです。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていました。イエスは御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのです。

   群衆もユダヤ人たちも、弟子の大部分さえも、イエスの語られた御言葉を理解しませんでした。彼らは霊のことよりも、現実のパンをキリストに期待しました。霊の救いよりは、肉の満足と安楽を求めました。彼らには、キリストの霊の言(ことば)、霊の救い、永遠の命などは理解できませんでした。

  今日も主イエスから去って行く人は多いのではないでしょうか。その中にあって、神に選ばれた私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは信仰の実りとして魂の救いを受けているからです(ペトロの手紙一、1章8、9節)。」

   主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」あなた共に生きることができるのは、無上の喜びです。「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください(詩編80・19)。」主イエスが共にいて下さるなら、わたしたちはどんな苦しみも、死でさえも乗り越えて進んでゆくことができます。あなたこそ天から来られた神の子です、と証しし、すべての人が救われることを祈りつつ信仰の歩みを続けてまいりましょう。

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「心の目を開くイエス」 ヨハネによる福音書9章1~7節、35~41節

2016-02-21 16:02:29 | 説教

                ↑ シロアムの池は、ギホンの泉からエルサレムの城内に水を引くため、ヒゼキヤ王の時代に、竪穴を掘って水路を造り、下の池まで水を引いた所されてきましたが、発掘調査によって大きい古池が発見され(現在は池に降りていく階段)、これがヨハネ福音書9章に出てくるシロアムの池と見做されています。 上の地図では、ギホンの泉から(上の池)から縦の赤い点線で示されている古い地表水溝を通って行く先の古池が、新しく発見されたシロアムの池です。 
       シロアムの池   発掘中の古池(シロアム)                                              

      981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本キリスト教 富 谷 教 会

              週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    受難節第2主日        2016年2月21日(日)  午後5時~5時50分

    礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)

交読詩篇   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書9章1~7節(新p.184)、35~41節(新p.186)

説  教     「心の目を開くイエス」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏   

                      次週礼拝 2月28日(日)午後5時~5時50分

                       聖書 ヨハネによる福音書6章60~71節

                       説教   「受難の予告」

                       賛美歌(21)403 522 24  交読詩篇 90

   本日の聖書  ヨハネによる福音書9章1~12節、35~41節

  1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

   本日の説教

 ヨハネによる福音書9章には、イエスが生まれつきの盲人の目を見えるようにされたという奇跡物語と、それに続く長い論争と対話とが記されています。

主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。その時、主イエスの弟子達が、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」とイエスに尋ねました。弟子達は道ばたで物乞いをしている目の見ない人を見て、この人が何故、目が見えないのかというその苦難の原因を尋ねたのです。理由の分からない苦しみの理由、原因をたずねることは、人間にとって昔からの深刻な問題でした。

 それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、お答えになったのです。「だれの罪か」という弟子たちの問いに対して、イエスは、「本人の罪によるのでも、両親の罪によるのでもない」と言われた後、「それはただ神の業がこの人に現れるためである」と言われたのです。この人が生まれながら盲目になったのは、彼の上に神のみ業が現れるためであり、彼によって神の栄光を表わされるためであり、神のためなのであるとイエスは答えられたのです。弟子たちは、生まれつきの盲目という苦しみの原因とだれの罪かという責任を問うたのですが、イエスはそれに対して、その苦しみの意味と目的を明らかにしたのです。

  更にイエスは、この人の目に唾でこねた泥を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と、言われました。この人が言われた通りにすると、目が見えるようになって帰ってきたのです。

  イエスのこの「だれの罪でもない。神の業が現れるためである」とのお言葉は、その後今日まで、どんなに多くの人々を救いに導いたかは計り知れません。

  今年の一月二日の未明、八十五歳で亡くなられた、母教会の主にある兄弟のことを思い起します。彼は生来、身体が弱く、次々と大病を患い、なかでも弱視は彼の勉強に非常に支障をもたらしました。樺太で生まれた彼は、中学生の時に終戦を迎え、一家は彼の親の郷里に引き揚げてきました。高校時代、友達が将来の夢に向かってはばたいている時期、彼の視力は次第にかすんで行き、一番前の席に座っても黒板の字もかすむほどになり、「何故自分だけがこんな目に会わなければならにのか」の思いが募り、親を恨み、親を責めたい気持ちだけが膨れていったそうです。その頃、友人に誘われて教会に行ったとき、牧師に「愛の神がいるのなら、何故こんなひどい目に遭わせるのか」と問いただしたそうです。牧師の答えは「今に分かる」でした。しかし、ちっとも分からず不平不満でいっぱいでしたが、それが分かったのは数年後でした。当時、教会の長老をしていた全盲の方から、ヨハネによる福音書九章一から十二節まで読むように薦められました。彼はイエス様の言葉を知って、自分の思いもつかない別の次元があることを初めて知りました。彼は不幸と思われる病気、貧乏、苦難なども、愛の神の御計画の中にあることを知りました。そして愛の神が常に見守って間違いを知りました。十八歳の春の復活祭に、彼は教会で洗礼を受けました。その後の彼は立派なクリスチャンになり、若い人たちからも敬愛され、教会の長老に選ばれ、長い間活躍しました。その後も病気にもなり、目も不自由になられましたが、良き妻と頼もしい息子様や娘様やお孫様にも恵まれ、神の大いなる恵みに支えられた生涯を送られました。彼は亡くなる十年目前頃から全盲になりましたが、人生の大切な時期に見えることを許されたことを感謝し、いろいろな不便はあっても不平を言うことはありませんでした。彼の目が不自由だったことが、彼を教会に導き、彼に信仰を与え、彼を救い、永遠の命に生きる希望を与えました。彼に神の業が現れたことを彼は証しし、神に栄光を帰す生涯を送りました。

  9章の8節以下には、このイエスによって癒された男のその後の人生の歩みが記されています。シロアムの池で目が見えるようになった人が、もとの場所に帰ると、そこで彼を待っていたのは、目が開かれたことを共に喜ぶのではなく、むしろ、彼を質問責めにする人々がいたことを記しています。「お前の目はどのようにして開いたのか」と、目が開かれたことの原因を問うたのです。彼は「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」と答えました。人々はその人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言いました。

  人々は、イエスによって開かれたということが分かると、この人を当時の宗教的指導者であるファリサイ派の人々のもとに連れて行ったのです。彼らはモーセの律法についての最高の権威者で、ユダヤ人の日常の信仰の生活を指導する人たちでした。ファリサイ派の人々の中である人は、イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことだったので、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言い、ある者は、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろう」と言い、彼らの間で意見が分かれました。そこで、人々は盲人であった人に再び問いました。「いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの人は預言者です」と答えました。

  それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じることが出来ず、その人の両親を呼び出して尋ねました。「この者は生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は見えるのか。」両親は、「どうして今、見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもには分かりません」と答えました。もしイエスをメシアだと言えば、両親は会堂から追い出されるので、両親はこのように答えたのです。

 ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言いました。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」この癒された男にとっては、その癒しがなされたのが安息日であったかどうかは問題ではなく、彼は律法には無知であったので、イエスが罪人かどうかは分かりません。ただ彼が知っていることは、「ただ一つのこと、盲人であったわたしが、今は見えるということです。」彼は、「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と問い返しました。彼らは男をののしり、「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。あの者がどこから来たのかは知らない」と言いました。彼らの言っていることは、外面的・形式的には正しいのですが、律法の精神と目的に対して盲目なのです。

 イエスが預言者であることを認めたこの男は、ここでイエスが「神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と答えたのです。このことはファリサイ派の人々を憤慨させます。そこで彼は会堂から追放されました。それは社会的にもユダヤ人としての市民権を失うことで致命的なことでした。

  イエスは彼が追放されたことを聞き、彼に出会って言いました。「あなたは人の子を信じるか」と言われました。「人の子」とは、救い主を意味する呼び名です。彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。

 イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われました。彼は目が見えるようになってから今まで、イエスを肉眼で見たことはなかったのです。しかし、今、自分の前にいる方がメシアであることを知り、「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。礼拝とは、自分の内に救いの確かさを見いだすことをやめて、ただ主とする方の前にひざまずくことです。自分の不確かな信仰の中に、主なる神が確かな救いを示して下さることを求めて、主イエスの前に全てを明け渡すのです。

  信仰の出発点においてはその恵みを十分理解していないことがあっても、さまざまな困難や迫害によって更にこの信仰が恵みから恵みへと成長させられていき、まさに生きづまったその時にイエスが何者であるかが明らかにされ、新たな飛躍を与えられるという、信仰者の生涯に起こることが、ここに明らかにされています。

  イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「裁くために来た」とは、イエスが来た主なる目的が裁くために来たという意味ではなく、むしろ、イエスが人を救うために来た結果、振るい分けが生じ、裁きが起こった、という意味です。この方こそ、真に善悪を判断し、裁きをなさることが出来る方でありますが、裁くために来られたのではありません。救うために来られたのです。

 「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」見える者とはだれのことでしょう。また、見えない者とはだれのことでしょう。私たち、生まれながらの人は皆見えない者たちであり、真の光として世に来たイエスの光を受け、イエスのみ言葉を信じて受け入れることによって初めて目を開かれ、見える者とされるのです。ファリサイ派の人々は、律法についての最高の権威者であると自任しています。この思い上った自信の故に、真の光に至る道を、自分たち自ら拒否しているのです。だから、彼らの罪は取り除かれず残るのです。自己を義とする心が罪の本体なのです。

  わたしたちは主イエス・キリストの神に、わたしたちの「心の目を開いてくださるように」に、祈り求めましょう(エフェソの信徒への手紙1・18)。そのとき、更なる大いなる祝福にあずかる者とされるでしょう。

 

 

 

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「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」マタイによる福音書4章1~11節

2016-02-13 18:22:10 | 説教

      981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                日本キリスト教 富 谷 教 会

                    週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   受難節第1主日        2016年2月14日(日)   午後5時~5時50分

礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)

交読詩篇   27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  マタイによる福音書4章1~11節(新p.4)

説  教  「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 284(荒れ野の中で)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

                         次週礼拝 2月21日(日)午後5時~5時50分

                         聖書 ヨハネによる福音書9章13~41節

                         説教   「メシアへの信仰」

                         賛美歌(21) 449 528 交読詩篇 16

  受難節 2月10(水)から3月26日(土)までの、40日と6回の日曜日を合わせた46日間が、キリストの苦しみと十字架の死を思い起す受難節です。「灰の水曜日」は、悔い改めや悲しみを表現する灰で信徒の額に十字のしるしをした教会行事に由来しています。

   本日の聖書 マタイによる福音書4章1~14節

1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

    本日の説教

  イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれました。洗礼を受けたとき、イエスは神の霊に満たされ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、悪魔の誘惑にあわれたのです。

  悪魔(サタン)とは、人間を誘惑し、罪を犯すように誘って、神に反逆させる者です。悪魔の誘惑の目的は、人を神から引き離し、自分の支配下におくことにあります。イエスは伝道を始める前に、この悪魔の誘惑に打ち勝つ必要がありました。

       誘惑の山 ワディ・ケルト

   イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれました。洗礼を受けたとき、イエスは神の霊に満たされ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、悪魔の誘惑にあわれたのです。

     悪魔(サタン)とは、人間を誘惑し、罪を犯すように誘って、神に反逆させる者です。悪魔の誘惑の目的は、人を神から引き離し、自分の支配下に置くことにあります。イエスは伝道を始める前に、この悪魔の誘惑に打ち勝つ必要がありました。

    イエスは荒野で、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられました。<四十>という数字は訓練の期間に関係しており、<四十日間、昼も夜も>という句は、モーセの断食(出エジプト記34・28、申命記9・9,18)と関連しますが、ここでは明らかにイスラエルの荒れ野での四十年間の放浪(申命記8・2-6)を想起させます。

     紀元前1280年頃、イスラエルの民は、寄留地エジプトを脱出し、神が与えると約束したカナンの地、現在のパレスチナを目指しました。イスラエルの人々は、シナイ半島の荒れ野に入ると空腹になり、指導者のモーセとアロンに不平を述べ立てました(出エジプト記16・1~4)。このイスラエルのつぶやきは、すべて必要なものを与えたもう神を信頼していない不信仰の表れでした。

    主イエスも荒れ野での四十日間の断食の後、空腹になられました。そのときサタンが来て、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘いました。サタンは、「あなたは神の子なのだから」と言って、その神の子としての権威をもって、石をパンになるように命じたらどうかと誘惑したのです。

     イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とお答えになり、悪魔の誘惑を退けました。

    イエスは申命記8章3節の聖句を引用しました。この御言葉はどのような状況で語られたのでしょうか。

     申命記は、イスラエルの民が、モーセに率いられて奴隷状態にされていたエジプトから脱出し、四十年の荒れ野の旅を経て、いよいよ約束の地カナンを目前にしたとき、モーセが神のみ心と掟をもう一度語り聞かせたものです。イエスが引用した聖句の前に、モーセは民に、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」と語っています。

    イスラエルの民はこの四十年間、主なる神に導かれて荒れ野を旅し続けてきました。神に出発せよと命じられると、天幕を畳んで出発し、神に留まれと言われると、そこに宿営し、荒れ野でのイスラエルの民の歩みは、神の御言葉によって導かれていました。

     モーセは続けて語ります。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

     主なる神が、荒れ野であなたがたを苦しめ、飢えさせ、マナを食べさせた理由は、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とモーセは語ったのです。

     食糧もない不安な苦しい旅で、民が飢えてモーセに不平を述べた時、神はモーセに、「見よ、わたしはあなたたちのために天からパンを降らせる」と語りました(出エジプト記16・4)。こうしてイスラルの民は四十年にわたってこのマナを食べました。神が日ごとに与えた<マナ>は、人々が「これはなんだろう」(マン・フー)と言ったので、その名がつきました。マナは神の恵みとして天から与えられた食物でした。イスラエルの民はパンがなくとも、神が与えてくださったマナによって養われたのです。イスラエルの民は、このような経験を通して活ける主なる神を知ったのです。

    <人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる>、このことをあなたがたに知らせるために神はあなたがたを苦しめたのだとモーセは民に語りました。<主の口から出るすべての言葉によって>とは、神が民に語る言葉です。この言葉によって、民は守られ、導かれ、養われて生きることができました。神が民に語る言葉は、神と民とを結びつけ、民は神との交わりの中で生きることができたのです。主の口から出るすべての言葉は、まさに民を生かす命の言葉でした。このことをイスラエルの民に知らせるために、神は訓練として民に荒れ野の苦しみを与えられたのです。

  主イエスは、悪魔の誘いに乗りませんでした。人はパンだけで生きるのではないからです。人を生かすのも殺すのも、生殺与奪の権は神にあります。イエスは神の子としての権能を、自分の護身のために用い、奇蹟によって石をパンに変えて、自らに提供することは神への不信であることを見破り、自らが完全に神に依存していることを示したのです。 

    わたしたちもパンだけで生きるのではありません。神様が語ってくださるすべての命の言葉によって生かされ、天の父よと祈る神様との交わりの中で生きされているのです。神が「人の子よ、帰れ」と仰せになれば、人はみな死の時を迎えなければならないことを知らなければなりません(詩編90・3)。

     <主の口から出るすべての言葉>とは、イエス・キリストを指すことばになりました。キリストは「神の言(ことば)」(ヨハネ1・14)であり、天から降ってきた命のパン(ヨハネ6・48)だからです。このパンを食べるもの者は永遠に生きる者とされるのです。   

    次に悪魔は<イエスを聖なる都・エルサエムへ連れて行き>、神殿の屋根の端から飛び降りてみなさい、と誘いました。当時のユダヤの人々は、いつの日か自分たちを救いに来てくれるメシアが登場する、その場所は、このエルサレムの壮大な神殿の、しかも誰からもよく見える屋根である、とそう信じていました。そこに救い主が姿を現して民に救いを告げる。そういう最もふさわしい場所を悪魔は選んだのです。そして悪魔はイエスに対して、神の子メシアとしての権能を行使して自分が神の子たることを示しなさい、と誘ったのです。悪魔は詩編91・11~12の引用によって試みます。神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。この詩編は神への全き信頼を示す祈りです。悪魔はこの御言葉を用いて誘惑したのです。

     イエスはこの奇蹟を要求する偽りの神への信頼への誘いに対して、申命記6章16節の「あなたの神である主を試してはならない」という御言葉を言って誘惑をはねのけました。この言葉は、「あなたがたがマサでしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」とある言葉から引用したのです。これは旧約聖書の出エジプト記17・1-7に語られている出来事を背景にしています。イスラエルの民の飲み水がなかったときの出来事です。「彼(モーセ)は、その場所をマサおよびメリバと名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』という質問によって、モーセと争い、主を試したからである」(申命記9・22,33・8)。この反抗的な民は、主なる神に対して挑戦し、そうすることで、神との契約に値しないことを証明しました。他方イエスは、神殿の屋根の端から跳躍することで神が彼と共におられることを証明することを拒否されるのです。

     更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。すると、イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」言って、これを拒否しました。申命記6章13節から引用した御言葉で拒否しました。

  申命記には、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」という命令に続いて、「他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」(申命記6・13、14)とい偶像礼拝を警告する御言葉です。他の多くの警告が出されたにもかかわらず、イスラエルは繰り返し他の神々を拝んだのです。

     この第誘惑には詩編2・8の神の子への権威の約束が暗示されています。<求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする>と。悪魔はここで自らを神として、神の子イエスへ礼拝を要求したのです。イエスは神の子の権威をもって「退け、サタン」と命じ、悪魔を退けました。イエスは父なる神にへりくだって従順であり、神だけに仕えられたのです。まさにイエスは父なる神と一体となっている神の子でした。そこで悪魔は離れ去りました。すると天使たちが来てイエスに仕えました。

     主イエス・キリストがこの世に来られ、人間となってこの世を歩まれ、そして悪魔の誘惑を受け、聖霊の導きの中でそれに打ち勝って下さったのです。私たちはこの主イエスを信じ、この主イエスと結び合わされて、この主イエスと共に生きていくことができるのです。

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「奇跡を行うキリスト」ヨハネによる福音書6章1~15節

2016-02-06 21:45:12 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

           日本キリスト教 富 谷 教 会 週  報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

       受難節第1主日  2016年2月7日(日)     午後5時~5時50分

             礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  58(み言葉をください) 

交読詩篇   95(主に向かって喜び歌おう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書6章1~15節(新p.174)

説  教    「奇跡を行うキリスト」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                     次週礼拝 2月14日(日)午後5時~5時50分

                                                      聖書 マタイによる福音書4章1~14節  

                                                       説教   「荒れ野の誘惑」 

                                                      賛美歌(21) 141 284 24 交読詩篇 27 

     受難節 2月10(水)から3月26日(土)までの、40日と6回の日曜日を合わせた46日間が、キリストの苦しみと十字架の死を思い起す受難節です。「灰の水曜日」は、悔い改めや悲しみを表現する灰で信徒の額に十字のしるしをした教会行事に由来しています。

          本日の聖書 ヨハネによる福音書6章1~15節

  1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

           本日の説教

   今日の聖書の箇所には、主イエスが、二匹の魚と五つのパンで五千人もの人々を満腹させたという出来事が記されています。四つの福音書のどれにも共通に出て来る奇跡物語は、この「パンの奇跡」だけであり、この奇跡の記事の重要さがうかがわれます。この物語は、到底ありえない話として決め付けてしまう人もいると思います。聖書の中には、たくさんの奇蹟物語が記されていますが、その中でもこの奇蹟物語は、まさに信じられないことが起こった奇蹟であり、キリストを信じる者にとってもつまずきの石となるものです。一体この奇跡はどんなことを私たちに伝えているのでしょう。

    6章1節の「その後」とは、5章の記事がエルサレムでの記録であり、6章はガリラヤ地方の出来事なので、5章の記事とは切り離されています。すると「その後」とは、4章に続くガリラヤ地方の伝道の続きであることがわかります。

    ガリラヤのカナで、「水をぶどう酒に変える」最初の奇跡が行われ、カファルナウムの役人の息子の病気を癒す第二の奇跡が行われました。そして、今日の聖書の箇所は、第三の奇跡がガリラヤ湖の向こう岸で行われるのです。

   「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に」渡られました。ガリラヤ湖をティベリアス湖と呼ぶようになったのは、紀元22年にヘロデ・アンテパスがローマのティベリウス皇帝をたたえるために、ガリラヤ湖の西南岸にその名にちなんだティベリアスという町を建てたことに始まります。ティベリアス湖の「向こう岸」とは、カファルナウムから見た向こう岸で、ガリラヤ湖の北東の岸にある町、ルカ福音書によれば「ベトサイダという町」(9・10)です。イエスは弟子たちとこの町に渡られました。イエスは群衆から逃れて弟子たちを教えるためだったと思われます。ところが、大勢の群衆がイエスの後を追いました。イエスが病人になさったしるしを見たからです。イエスは、その町から更に人里離れた所に移動し、山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになりました。

  「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいて」いました。この翌年の過越祭のときにイエスは十字架におつきになるのです。過越祭では、神の怒りを過ぎ越すために子羊が屠(ほふ)られ、出エジプトの時のことを記念します。イエスは、人間の罪の贖いとなるため、世に送られた神の小羊です。

    集まってくる大勢の群衆を見て、イエスはフィリポに、「この人たちに食べさせには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。こう言ったのはフィリポの信仰をためすためであり、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのです。

    イエス御自身は、ご自分の体を人々に提供し、永遠の命に至るパンを提供することをすでに決心しておられたのです。しかしフィリポはイエスの問いの真意を察することができず、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンがあっても、足りないでしょう」と平凡な答えをしました。

     一デナリオンとは、ローマの銀貨のことで、当時の労働者の一日分の収入だったので、二百日分、つまり七か月分の収入に相当します。これで買うパンは大変な数量になります。これでも十分ではないと答えているのです。

    弟子の一人、ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも足りないでしょう」と言いました。

     イエスは、「人々を座らせなさい」と言われました。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。集めると残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになりました。

    イエスが与えた食事は、過越祭が近いことから、新しいイスラエルにとっての第二の出エジプトを記念するしるしとしての食事でした。またこの供食は、主の晩餐(聖餐)を先取りする食事でした。<十二の籠>の十二という数字はイスラエルの十二部族を示していますが、ここではイエスによって与えられた恵みによって新しいイエスラエルが満たされることを象徴していると思われます。

    そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られた預言者である」と言いました。この預言者とは申命記18・15で言われているモーセに代わるイスラエルの指導者を指しています。人々はイエスのなされた奇跡を目の当たりにしても、イエスを神の子と認めず、イスラエルを救うモーセのような指導者と見做すのです。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれました。イエスの奇跡的能力を見てローマ帝国に抵抗する政治的なメシア(救世主)として彼を担ぎ上げようとした群衆の意図は拒否されたのです。

    イエスはこの翌日、次のように教えています。「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。…わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。このイエスのなされた奇跡は、父なる神の御心を示すためでした。父なる神は必要な日毎の糧を与えるだけでなく、命のパンであるキリストを食べる者に死ぬことのない永遠の命を得させるためでした。

     わたしたちは「主の祈り」で、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ります。<日用の>とは、「日ごと」の、「毎日の」のことです。<糧>とは、原文ではパンです。それは、ただ単に食物としてのパンだけではなく、私たちの生命を維持するために必要なその他の一切のものが意味されています。

   また、この祈りは、「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:50)と主が言われたように、わたしたちの内なる生命を養い育てる霊的な食物をさしています。それは永遠の命を与えるパンです。それは主イエスが与えてくださる聖霊です。この祈りは救主キリストの生命を表わすパンとぶどう酒をいただく聖餐と深くかかわる祈りでもあります。

 イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4・4)と教えています。人の生死は神の計らいの中にあるので、神に信頼することのみが人のとるべき道です。イエス・キリストによって示された神こそは命の主であり、すべての恵みの与え主であることを信じて、今日という一日を、思い煩うことなく、すべて神にゆだね、主イエスと共に、わたしたちは生きるのです。

 

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