富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『愚かな金持ち』のたとえ―その愚かさとは」 ルカによる福音書12章13~21節 

2020-02-28 20:24:35 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                       日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

                  受難節第1主日  2020年3月1日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                   礼 拝 順 序

                                                          司会 千田 開作兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編    49(諸国の民よ、これを聞け)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条       93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)」ルカによる福音書12章13~21節(新p.131)

説  教 「『愚かな金持ち』のたとえ―その愚かさとは」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 454(あいする神にのみ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                  次週礼拝 3月8日(日) 午後5時~5時50分  

                  聖 書  ルカによる福音書18章9~14節

                  説教題  「『ファリサイ人と取税人』のたとえ」

                  讃美歌(21) 6 495 交読詩編 12    

       本日の聖書 ルカによる福音書12章13~21節

 12:13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

           本日の説教

 ある日、イエスと弟子たちがいる所に群衆が集まってきました(12・1)。群衆の一人が、兄弟に遺産を分けてくれるように言ってください」と、イエスに願いでました。イエスはその人に向かって、自分は裁判官でも調停人でもないと言ってその願いを退けました。このことは、イエスが公平ということに無関心であられたということを意味しません。遺産の争いは、ラビたち(ユダヤ教の指導者)が民数記27:1-11、申命記5-17によって調停していました。ある人がイエスを「先生」と呼んだのは、イエスをラビと考えたのでしょう。イエスはラビ以上の者として、地上の財の調停役を断ります。

 この兄弟は、自分の相続財産を不当に多く取っていたかも知れません。この不正はこの兄弟の貪欲が原因となっているとイエスは思われたのでしょう。また、イエスに願い出た人も、少しでも多くの分配に与ろうとしている貪欲にとらわれていると思われたのでしょう。彼らは、金銭を愛する者たちであり、人を幸せにするのは、所有物の豊かさにあると考えていたのです。主イエスは、その人の問題の核心が「貪欲」にあることを見抜かれ、その問題を解決しない限り、たとえ遺産の問題を解決しても、その人は決して幸せにはなれないことを知っておられたのです。

イエスは、囲の人達みんなに向かって、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」とさとされました。金銭は決して真実な安らぎを与えるものでないことを明確にされたのです。

 「貪欲」は、通常の金銭欲だけでなく、際限なく所有物の増大に執着する欲望です。イエスはこの世に束縛された自己追及欲を戒め、細心の注意を払うように警告しました。人の尊い命は、持っている財産とは関係がないことを、「愚かな金持のたとえ話」で、分かりやすく説明されました。

ある一人の金持ちの畑が、ある年豊作でした。その収穫をしまい込む場所がないので、どうしようかと考え、彼は倉を壊し、大きな倉に建てかえて、その収穫と財産をみなしまいこみ、「さあこれで大丈夫だ。これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と安心し、喜び、満足しました。

この金持の言葉の中には日本語訳には出てこない、「わたしの作物 my crops」、「わたしの倉 my barns」、「わたしの穀物やわたしの財産 my grain and my goods」「自分に〔わたしの魂に〕 my soul )言ってやる」というように、「わたしの」という語が、ギリシヤ語原典や英語訳でも五回も使われており、自分に向かって「(あなた自身を yourself単数形)楽しめ」と、他人のことなど考えてみたこともない様な、ただ自分のことだけを考えて話している非常に自己中心的な人物の姿が、巧みに表現されています。これまで彼がせっせと働いて来たのは、自分の余生を楽に過ごそうということにあったのでしょう。

その希望はやっと満たされたかに見えたが、しかしその時待ち受けていたのは、彼の死でした。「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と」言われました。「愚かな者」とは、神を忘れた者(「神を知らぬ者」詩篇14:1)のことです。「今夜、お前の命は取り上げられる」とは、突然の発病や災害や事故や紛争などで命を失うことがあるように、私たちの人生は不安定な土台の上に立っており、私たちの寿命は神の御手の中にあるということです。

そして、イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と話されました。この金持には、大きな誤りがありました。一つは、この世の自分の命を、希望通りにいつまでも長く、自分で持ち続けうると、考えたことです。自分の命も魂も、神からの預かりものであり、時期がくれば神の御心次第で引き上げてしまわれるものであること、即ち人の寿命を支配しているのは神であるという重大な真理を、彼は頭に置いていなかったことです。

二つは、自分のために沢山の宝を蓄えることにより、自分の魂に平安を与えうると考えていたことです。肉体的に楽をして、自分の好きなことをしておれば、その暮らしが裕福でおだやかなのに平行して、自分の魂もそれで平安であることが出来る、と彼は考えています。これは彼が、人の魂の平安とは何であるかをわきまえていなかった誤りでした。人の魂の平安はどんな時にも神が共にいて下さることによって与えられるものだからです。

三つは、「わたしの作物、わたしの倉、わたしの~わたしの~わたしの~」を追及する自己中心性(エゴイズム)と富(マモン)崇拝のなかに埋没し、人間として生きる相手、隣人も神も眼中に置かず、あたかも自力で生き続けることができるように思い上がったことでした。「飲み、食い、楽しむ」ことがただちに悪いことではありませんが、作物が満ちあふれる殼倉に魅惑され、神の恵みによる産物であることを認めない傲慢によって、彼は「貪欲」という欲望の罠に捕らわれていたのです。

このような誤った考えのために、この金持は、はかない生涯を閉じなければなりませんでした。この金持はこの世限りの金持ちであって、神の所には何の蓄えもありません。神の目には全く価値のない愚かな者と認められることになってしまうのです。この金持は、自分のことだけを追い求めるのでなく、神のことを思い、人のことを顧みて、そのために彼の豊かな財産を用いるべきでした。

「神の前に豊かになれ」という呼びかけは、この世のことのみに捕らわれている小さな自我の束縛から解放され、死をさえ超えた彼方から「新しい生」を与えられるとき、神の支配される広大な世界に、神と共に生きる者とされ、「何も持たないようでも、すべてのもの持つ」(コリント一、6:10)豊かな者とされるのです。「あなたがたの宝のある所には、あなたがたの心もあるからです」(12・34)。自分の「生命」も「持ち物」も 、すべてが神のものであります。すべてが神に与えられ、委ねられているのです。このことが明確に理解されるとき、信仰者は「神に富む」者とされます。「自分のために宝を積む」思い煩いから解放され、財の正しい用い方を知り、日毎に必要なものを日々祈り求めながら、神の栄光のために、また隣人を愛するために財が用いられ、「天に宝を積む」生き方ができるようになるのです。

 神が、「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と問われた時、この金持は、自分の富は自分の所有物であり、どのように使おうと勝手だと思っていたと思われます。自分の蓄えたすべての物を残しての彼の突然の死は、それらが、彼に一時的管理を委ねられていたにすぎないことを示しています。彼の命は、彼の持つ豊かな財産にあるのではありませんでした。神が彼の生命をとり上げる時、彼は裸で神の前に立たなければならないのです。

世のすべてを支配し、すべてを所有しているのは全能の神です。人が、それをあたかも自分の所有物であるかのように扱う時、その愚かさが明らかになります。

「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び、財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。これが自分の力に頼る者の道」(詩篇49:10~14)。詩篇の作者は、このように富に信頼することの愚かさを強調しています。

さらに続けて、詩篇には次のように書かれています。「人に富が増し、その家に名誉が加わるときも、あなたは恐れることはない。死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。命のある間に、その魂が祝福され、幸福を人がたたえても、彼は父祖の列に帰り、永遠に光を見ることはない。人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい」(49:17~21)。あの天下を統一し、最大の権力をにぎり、大阪城を築き、黄金の茶室まで造り、世の栄華を誇った豊臣秀吉も死ぬときは哀れでした。辞世の句に表現されています。「露と落ち 露と消えにし わが身かな。難波(なにわ)のことも夢のまた夢」と詠み、はかない生涯を嘆きました。

 この金持は、物質的なものをもって、自分を満足させようとしました。このたとえの中心的な教えは。彼の貪欲であり、物質的な富や金銭が本当の富だという彼の判断の誤りです。使徒パウロは、「貪欲は偶像礼拝です」(コロサイ3:5)と言っています。偶像崇拝とは、偽りの神々を礼拝すること、あるいは、人や物を神の位置におくことです。貪欲が偶像崇拝であるのは、私たちの愛が神に向けられる代わりに、物や金銭に向けられるからです。貪欲からの救済は、神へのひたむきな愛、「神の国と神の義を求める」こと、そして隣人を自分と同じように愛すことです。

キリスト者は、洗礼によってキリストに結ばれ、主イエスの死と復活にあずかり、日々、罪人としての自分は死に、キリストと共に新しい命に生かされ、永遠の命に生きる神の民とされる希望を与えられています。肉体の死は、天国に行くための通過点に過ぎないものになります。死は必ずやってきます。だれも死を逃れることはできません。確かに人間は「死への存在」です。しかし私たちの魂は神のものです。その神のもとにいつか私たちは帰らなけれなりません。それはいつのことであるのか、私たちにはわかりません。「それだからこそ、魂をいつ召し上げられてもよいように備えが常に必要です。いつ召されてよいような生き方は、「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、その事この事もしよう」(ヤコブ4・15)と主にすべてを委ね、主と共に歩むことです。

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