富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「信仰者が一つとなるためのイエスの祈り」ヨハネによる福音書17章20節~26節

2023-03-26 15:10:42 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

受難節第5主日  2023年3月26日(日)  午後5時~5時50分

ヨハネによる福音書17章20節~26節

                            礼 拝 順 序                    

                司会 邉見 順子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 309(あがないの主に)

交読詩編     22(わたしの神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書17章20節~26節(新p.203)

説  教 「信仰者が一つとなるためのイエスの祈り」辺見宗邦牧師

祈 祷                                               

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

(辺見牧師)に、申し込み下さい。

         次週礼拝 4月2日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書 ヨハネによる福音書18章1-14節

         説教題 「十字架への道」  

         讃美歌(21) 299 297 27 交読詩編 62

本日の聖書 ヨハネによる福音書17章20~26節

17:20また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。 17:21父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。 17:22あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 17:23わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。 17:24父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。 17:25正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。 17:26わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」 

「本日の説教」

 主イエスにとって、地上における最後の夜となる夕食の後、長い別れの説教をなさったことを先週の礼拝でお話しいたしました。締めくくりのお言葉は、「あなたがたにこれらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難ある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)でした。

 「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。』」(17:1)と、17章では主イエスの長い祈りが記されています。宗教改革時代以来、「大祭司の祈り」と呼ばれてきました。それは、今や、地上を去ろうとしているイエスが、祭司のように、残された弟子たちのために、祈っているからです。この大祭司の祈りは、受難直前に弟子たちのために、また世界全体のために捧げられたとりなしの祈りです。大きく三つのの部分に分けられます。

1 イエス自身に栄光を与えてくださいという祈り(1-5節)

2 後に残す弟子たちを守ってくださいという祈り(6-19節)

3 弟子たちの言葉によって主イエスを信じるすべての人々を一つにしてくださいという祈り (20-26節)

 今日は3の17章20-26節の御言葉を学びます。大祭司の最後を締めくくる祈りです。特に、弟子たちの言葉による信仰者たちが一つになるようにということが、強く打ち出されています。

 「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(17:20)

 20節は明らかに、キリスト教の第二世代を視野においた祈りです。すなわち、地上のイエスの直接の目撃者である弟子たちの宣教によって、イエスを信じる者たちのための祈りがなされています。

 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(17:21) 

 世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるため、キリスト者の第二世代を含めて(すべての世代の信仰者)、<すべての人>が、父と子なる神の一致にあずかって、一つとなることをイエスは祈ります。主イエスと父なる神の間に、お互いがお互いの内におられると言えるほどに一つであられ、交わりがある。それと同じように主イエスを信じる信仰者たち、つまりわたしたちも入れられて、一つとされる。神がキリストにあり、キリストが神にあって、一つであるところの、その一つに、弟子たちも加えられて、三者が一つとなる、ということです。すなわち、神、キリスト、信者の完全な一体化が達成されるように、との祈りです。「すべての人を一つにしてください」とは、人間同志の思いを突き合わせ、対話をして一致点を探ることによって実現するのではないのです。人間の思いをいくら突き合わせても、それで一つになることはできません。教派の一致のことでもありません。教派を超えた一致です。

 「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 」(17:22)

 父なる神がイエスに与えた栄光を、イエスは弟子たちに与えたことが語られています。それこそが、世を信仰に導く根源です。栄光は、父と子と弟子たちを一つにします。

 「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(17:23)

 こうして、父と子と弟子たちの一体性が確認され、宣教の対象として世が知るようになります。今度は、父が子なるキリストを派遣したことと、父が子と弟子たちの共同体の愛による一致を、<世が知るように>なり、世の人々をも愛されたことをしらせるためです。イエスがこの世に遣わされた目的は、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)という使信を伝えることに尽きていたのです。

 ただし、この「栄光を与える」ということは、いわゆるこの世の人間的幸福を与えることではない、という点に注目しておく必要があります。イエスにおける栄光は、神の愛をあらわすために十字架の恥を忍び、死に至るまで神の御心に従順であることを通して、あらわされました。イエスの与え給う栄光とは、彼の生命そのものにあずかることを許されることにほかなりません。そしてこれは、イエスと苦しみを共にし、したがってまたその愛と勝利にもあずかることです。

 「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」(17:24)

 父と子の一致に弟子たちの共同体があずかることは、究極的には、イエスの<いる所に共に>いることによって完成されます。それは現在のことであると同時に未来のことでもあり、聖霊によって現実となっていることでありながら、究極の目標として追い求めていかなければならないことなのです。

 「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。」(17:25)

 世(コスモス)が再び、その敵対性をあらわにします。世、またユダヤ人は、神を啓示したイエスを拒絶することで、神を知っていると言いながら、その実は、神を知らない不信仰な存在であることを暴露しました。しかし、イエスの陣営に属する者は、そのようなことはない。イエスは父を知り、弟子たちは、イエスこそ神から派遣された子なる神であることを知っているのです。

 「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(17:26)

 イエスは、父御自身を、弟子たちに知らせてきましたし、これからも、たゆまず、啓示し続けるでしょう。そうして、イエスに対する神の愛が弟子たちの<内にあり>、イエスも<彼らの内にいるようになる>のです。

 このように、17章の大祭司の祈りは、父と子と弟子たちの一致と愛と栄光の相互付与を物語っています。そのことによって弟子たちは、守られ、聖なる者とされるのです。

 主イエスはこの世の最後の夜、長い説教の最後に、弟子たちのために、そして弟子たちの言葉によって、主イエスを信じる私たちのために祈ってくださいました。主イエスの自分のために栄光を与えてくださいという祈りも、実は私たちのための祈りでした。主イエスが神の子としての栄光を受け、復活することによって、私たちに永遠の命が与えられ、救いが実現するのです。主イエスは天上にあって、私たちを見守り、聖霊を与え、とりなしの祈りをしてくださっています。主の恵みを豊かに受けて信仰の歩みを続けましょう。

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「世の苦難に打ち勝つ勝利」ヨハネによる福音書16章25~33節

2023-03-15 23:20:05 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

受難節第4主日  2023年3月19日(日)  午後5時~5時50分

         礼 拝 順 序                    

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 531(主イェスこそわが望み)

交読詩編      8(主よ、わたしたちの主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  ヨハネによる福音書16章25~33節(新p.201)

説  教   「世の苦難に打ち勝つ勝利」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                  

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019(辺見牧師)に、申し込み下さい。

           次週礼拝 3月26日(日)  午後5時~5時50分

           聖 書 ヨハネによる福音書17章20~26節

           説教題 「イエスの祈り」  

           讃美歌(21) 309 302 27 交読詩編 22

 本日の聖書 ヨハネによる福音書16章25節~33節

25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 本日の説教

 ヨハネによる福音書では、最後の晩餐が13章から始まります。聖餐の制定の記事はありません。最後の晩餐の席では、弟子たちに対するイエスの長い別れの説教が記されています。13章31節から始まり、16章23節まで続きます。告別の説教、訣別の説教などとも呼ばれています。13章34節では、「互いに愛し合いなさい」という「新しい掟」を与えます。

    本格的な第一の別れの説教は、14章1節から31節まで展開されます。イエスは父に至る道であり(14:6)、あなたがたのために父の家に住む場所を用意しに行くと伝え(14:2)、聖霊を与える約束を(14:16)します。

    そして15章1節から16章33節まで第二の別れの説教が語られます。15章1節以下では、イエスはまことのぶどうの木であり、イエスにつながっていれば、豊かに実を結ぶようになると教えます。16章1節から24節では、イエスの昇天(16:6)と聖霊の降臨(16:7-15)について語られます。

    16章25節以下の今日の聖書の箇所は、第二の別れの説教の最後の部分にあたります。

   「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」(25節)

     これまで話した天上の真理が、たとえを用いたものだったのですが、もはやたとえによらないで、はっきり天上の父について知らせる時が来るとイエスは弟子たちに語りかけます。これまでは、弟子たちにとって、たとえであっても何のことか分からない謎のような話だったのです。それは、天上の真理を分からせてくださる聖霊が、まだ弟子たちに与えられていなかったからです。しかし、イエスが昇天し、聖霊において再び来られるイエスは、謎を残すことなく、神の啓示を告げ知らせる時が来る、と言われます。

   「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。」(26節)

   「その日」とは、聖霊が弟子たちに与えられる時を指します。聖霊が与えられることによって、父なる神と弟子達との間に、祈りによる内的結合関係ができる時のことです。その日には弟子たちは、イエスの名によって父に願い、その祈りはすべて父によって聞かれることになるのです。

   「父御自身が、あなた方を愛しておられるのである。あなた方が、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」(27節)

    イエスが神から来られた方であることを弟子たちが信じたために、父の愛が弟子たちの上にとどまるからです。神が私たちを愛してくださる条件は、このイエス・キリストに対する私たちの愛と信仰です。

 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(28節)

    イエスは、神と共にあった神の子であったが、父のもとから遣わされて世に来て、人間となられた。そして、受難と十字架によって<世を去って、父のもとに行き>、父の栄光を現わし、父から栄光を与えられるのです(17章1節)。

   「弟子たちは言った。『今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。』」(29-30節)

    弟子たちは、イエスの全知と神的起源に対する信仰を言い表したのです。彼らが信仰に至った理由は、人の心の奥底まで見抜くイエスの神的力を認めたからです。

 「イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。』」(31節)

    弟子たちはしるしを見て信じたのではなく、イエスの言葉によって、イエが神的存在であることを信じたのです。だが弟子たちの告白した信仰には、実は彼らの生命がかけられていませんでした。

 「『だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。』」(32節)

 イエスは弟子たちが、イエスの受難に際して、イエスを捨てて、散り散りになってしまうことを予告します。弟子たちの信仰が、人間的な頑張りや意気込みによるものであり、イエスと弟子たちとの間に、まだ本当に永続的結合関係ができていませんでした。この関係は復活のイエスとの出会いまで待たなければなりませんでした。弟子たちは、イエスを裏切り、捨てるという自分たちのどん底にまで至る挫折の中においてこそ、イエスは自分たちを支え給うという事実を、まだ知りませんでした。まだ聖霊を受けることなく、地上のイエスに向かって、すでに正しい信仰を告白したと信じた彼らは、実は自分の人間的な知識や判断によって、天上の真理を知り得るという自信を抱いていました。しかし、神の真理が本当に明らかに示されとき、それは実に私たちの人間的破綻を、どん底に至るまで暴露するものです。このどん底から天を仰ぐとき、もはや信ずるという事じたい、自分の側の決断によるものではなく、キリストの霊によって神から賜わる恵みであることを知るのです。この厳粛な人生の事実を、イエスは鋭く見抜いておられたのです。

 イエスは、弟子たちの逃亡という状況を目の前にしても、孤独ではなく、<父が共にいてくださる>ことを宣言します。それは、まさに、受難に雄々しく立ち向かうキリストを示しています。

 「『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。』」(33節a)

 私たちが人生の挫折によってあわてふためき、絶望に堕ちることなく、そのどん底において支えて下さるイエスを仰いで、魂の平安を得るために、これらのことを話したのだ、とイエスは語られます。しかし、この真理もまた、一つの謎です。なぜならば、聖霊によって、私たちの全存在が父なる神に固く結びつけられ、人間的挫折のどん底において、イエスの勝利に支えられる時に至るまで、この御言葉の真意は、やはり一つの謎でしかないからです。イエスの御言葉は、聖霊によって人格的に示されるまでは、やはり理解し尽くすことのできない謎としてとどまるほかはありません。

 「『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。』」(33節b)

  この言葉は、四章にわたる「別れの説教」をしめくくるにふさわしい、感銘深い、力強い主イエスの言葉です。イエスは、やがて事実となるであろう弟子たちの挫折を予見しつつ、それにもかかわらず決して滅び去ることのない勝利を、はっきり示されました。そしてこの言葉は、あとに残された弟子たちの心の中に、忘れることのできないものとして、深く刻み込まれました。やがてペトロはイエスを否み、他の弟子たちも共にイエスを捨て去ります。この挫折と背信の行為にかかわらず、復活のイエスは彼らをふたたび召し出し、そのすべての罪を赦して、新しく宣教に立たせてくださるのです。

 キリストの教会は、立派な信仰者の勇気と徳の上に建てられたのではなく、その基礎を築いた人々は、むしろ挫折し、面目を失墜した敗北者たちでした。イエスの勝利が、これらの敗北者たちを再び立ち上がらせ、イエスの御業が、彼らの弱さを支えたのです。

 主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある」といたわるように言われます。私たちのすべての苦難、悩み、苦しみ、病、死を、イエスはことごとく知っておられます。主は人となって自らも同じような、もっとつらい体験をされたのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4・14-15)とあるとおりです。

 イエスは私たちに、「しかし、勇気を出しなさい」と言われます。主は私たちと共に忍び、耐え、悩み、苦しみ、私たちの背負う重荷を共に背負ってくださるのです。弟子たちは、イエスの言葉によって、どのような状況に直面しても、平和を与えられ、勇気を出すことができる者とされます。

 「わたしは既に世に勝っている」とイエスは言われます。神の御子イエスを否定し、抹殺する世の力にも、受難や十字架の死にも、世の罪の支配にも、すでに勝利していると、イエスは言われます。イエスの復活と天への帰還は、勝利の凱旋です。そのことを確信して、弟子たちは、イエスと同様、雄々しく生きることが出来るのです。こうしてイエスの別れの説教は、イエスの劇的な励ましと慰めの言葉によって閉じられます。

 イエスの勝利は、まだ私たちの勝利でないかも知れませんが、この勝利者イエスを信じることによって、イエスの勝利が私たちに与えられることが約束されているのです。悲しみや、悩みに打ちひしがれて、布団をかぶって寝ていても仕方がありません。イエスはわたしたちに、再びこの世に出ていく勇気を与えようとされます。イエスはわたしたちを限りなく深く愛され、わたしたちの重荷を共に背負い、一緒になって戦い、わたしたちに勝利を与えようとされるからです。主イエスが今も生きて、世に勝った主として私たちと共に歩んでくださるのです。このキリストと共にある生活、キリストに支えられる生活、キリストと共にいることを目指す生活こそが、私たちを支え、力づけ、世に勝つ道なのです。

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「あなたの道を主にゆだねよ」詩篇37篇1~6節

2023-03-11 20:59:59 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

受難節第3主日  2023年3月12日(日)  午後5時~5時50分

 

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂〔たま〕のひかり)

交読詩編     37

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 詩篇37篇1~6節(旧p.868)

説  教   「あなたの道を主にゆだねよ」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                  

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

         次週礼拝 3月19日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書 ヨハネによる福音書16章12~24節

         説教題 「世の苦難に打ち勝つ勝利」  

         讃美歌(21) 531 72 517 27 交読詩編 8

本日の聖書 詩編37篇1~9節

37:1【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
2彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。
3主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
4主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
5あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、6あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを、真昼の光のように輝かせてくださる。

7沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。
8怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
9悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ。

  本日の説教

 詩編37篇はアルファベットに寄る詩です。日本式の「いろは歌」です。特徴は信仰の養成を目的とする勧告・教えがいっぱいです。

 詩編37篇の構造は、次のようになっています。

 1~9節は、悪事を謀る者と主に望みを置く人

 10~22節は、貧しい人と権力ある人

 23~29節は、主に従う人と主に逆らう人

 30~34節は、主に従う人と主に逆らう人

 35~40節は、結びで、平和な人、主を避けどころとする人

 今日の説教では、第一部の悪事を謀る者と主に望みを置く人を扱います。ここで強調されるのは主(ヤーウェ)への信頼で、ここでは主に従う人は「主に望みをおく人」とされています。

 「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。」(37:1)

 主に逆らう者は、「悪事を謀る者」、「不正を行う者」と言い換えられています。悪事を謀る罪人たちのことでいら立つな。不正を行う者たちをうらやむなと忠告します。悪人の繁栄が大きく、成功が魅力的で、信仰者を誘惑するからです。

 「彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。」(2)

悪事を謀らう者は、神に逆らっているので永続できない。この確信が信仰を支えます。信仰者は物事を永遠の側から見つめて判断します。それ故、悪人は「草のように」短命で断たれます。またたく間に枯れる草のようであり、太陽の熱の下にある青草のように、たちまちしおれるのです。信仰者ははかないものに執着してはならないのです。

 「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」(3)

作者は神への喜ばしい信頼と道徳的な服従を求めます。「この地に住み」とは、自分に与えられた使命を、自分の持ち場において、忠実に果たしていくことに専念することです。

 「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(4)

 信仰者はまなざしを人から神のほうに転じて、すべてを神への喜びによって照らし出し、こうした喜びに包まれて、彼の最も深い願いが成就されるのを[今から既に]見ることがゆるされています。

 「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを、真昼の光のように輝かせてくださる。」(5-6)           

 作者は祈りの中で自分の生の全体を神に委ね、自分が完全に神の真実なみ手のうちに置かれていることを知っています。煩い事を神に投げかけ、さまざまな不安があっても神の導きにゆだね、自分が神に守られているという喜びをかみしめています。この信仰の希望によって誘惑が克服されます。それゆえに、彼は、あなたの道を主にゆだねよと、勧めるのです。「主に望みをおく人」には命の象徴としての「光」が輝きます。

 「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。」(7)

 「沈黙して主に向か」うのも信頼の態度を表します。静かに主に向い、主を待ち望めという勧告が続きます。次に1節の内容に戻って、悪人の成功や策略に対して憤るな、という警告が今までの内容を締めくくります。

 「怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ。」(8-9)

 人が神を信じない者たちのことで気をもんで憤りにかられるならば、道徳的な罪を犯す危険があることを彼は指摘します。なぜならそうした振る舞いは悪に傾くからです。作者は敬虔なアブラハムとその子孫に与えられた、土地についての約束のことを、彼と同時代の信徒に対する神のことばとして受け止めます。人はこの約束に寄り頼むことが出来ます。主に望みをおく人は、地を継ぐと。

 詩編37篇5節の「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい・・・」の

直訳は、「あなたの道を主(ヤーウェ)に委ねよ。彼に信頼せよ。彼はそれを実現してくださる」です。新共同訳聖書の「主は計らい」よりも、聖書協会訳や、新改訳の「主が成し遂げてくださる」の方が原文に近い、わかりやすい訳です。

 この詩編37篇5節の「あなたの道を主にまかせよ」を冒頭に置き、パウル・ゲルハルト(ドイツ人)は、「苦難と慰め」の詩を書きました。それが日本キリスト教団出版局発行の讃美歌21にある528番「あなたの道を」です。原詩は12節ですが、4節にまとめられています。「あなたの道を」「道を備え」「走るべき道を」と、全体を通して「道」にこだわったこの讃美歌は、「栄光のみ国へ帰るその日」と、天国を見据えた歌詞で終わっています。

 「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ。主は成し遂げてくださる」ことを信じ、「思いわずらいを主にゆだねて」、神に導かれて、歩んでまいりましょう。

    

    聖書一言メッセージ3北秋津キリスト教会発行

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「神のなされることは皆その時にかなって美しい」コヘレトの言葉(伝道の書)3章1-15節

2023-03-05 15:35:51 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報   

受難節第2主日  2023年3月5日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 462(はてしも知れぬ)

交読詩編    139(主よ、あなたはわたしを究め)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) コヘレトの言葉(伝道の書)3章1-15節(旧p.1036)

説  教 「神のなされることは皆その時にかなって美しい」辺見宗邦牧師

祈 祷               

讃美歌(21) 194(神さまはそのひとり子を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019(辺見牧師)に、申し込み下さい。

                                   次週礼拝 3月12日(日)  午後5時~5時50分

                                   聖 書 詩編37篇1~6節

                                  説教題 「あなたの道を主にゆだねよ」  

                                  讃美歌(21) 214 528 27 交読詩編 107:1-16

本日の聖書 コへレトの言葉3章1~15節

3:1何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
2生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時。
3殺す時、癒す時、4破壊する時、建てる時。
4泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時。
5石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時。
6求める時、失う時、保つ時、放つ時。
7裂く時、縫う時、黙する時、語る時。
8愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。

9人が労苦してみたところで何になろう。
10わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
11神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

12わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。

13人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。

14わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。

15今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。

16太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。

17わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。

本日の説教

  ヘブライ語原典では書名は「コへレト」です。書き始めの言葉は、「コヘレトの言葉(デイブレ コヘレト)です。新共同訳聖書の書名は、この書き始めの言葉によります。「コへレト」は、著者の名前として1:1の他にも何度か用いられています。「コヘレト」の意味は「集会を司る者」です。ギリシア語訳では「集会で語る者」を意味するので、「伝道者」という解釈が生じ、そこから、日本聖書協会の「伝道の書」、「伝道者の書」、新改訳の「伝道者の書」という書名がつけられました。「コヘレト」は、固有名詞ではなく、ペンネームと思われています。

 1:1の「エルサレムの王、ダビデの子」や、1:12の「イスラエルの王」から、コへレトは知恵者であって栄華をきわめたソロモン王を思わせますが、これは「文学的な手法」であり、著者はエルサレムの富裕な階層に属する知恵者のユダヤ人教師と考えられます。成立年代は、旧約のもっとも遅い年代の作品で、紀元前3世紀の後半と推定されています。

   1章2節の「コヘレトは言う。なんというむなしさ、なんというむなしさ、すべては空しい」という書き始めのように、虚無的、悲観的な思想が全体を貫いて流れています。「空しい(へベル)」という語が原典では33回(新共同訳では30回)も繰り返して用いられています。原典の方が3回多いのは、「何と空しいことか」が、「空しさの空しさ(ハベ-ル・ハバ-リ-ム[複数形])」と二回繰り替えされており、それが1:2に2回、12:8に1回と計3回あるからです。

 コヘレトは人生の意味を知るために、いろいろな事を試みました。まず第一に「天の下におけるすべてを知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた」(1:13)が、しかし知恵は悩みを増すだけであり、結果は空しかった、とあります。

 次に彼は快楽を追及しました(2:1)。飲み食いに代表される物質的な肉欲的な快楽であり、人生の楽しみを追い求めてみて、彼の到達したものは人生の空しさでした。

 事業を起こし(2:4)、巨大な富を得たが、それも空しかった。まあ女性の快楽を求めてみたが、これも空しかった。さまざまなことを試み、この世的には成功をおさめながら、彼の見出した真理は、人生のわざはすべて空しく、人生は労苦にみちているということでした。

 しかもコへレトはこの世のものが一時的であり、一時的な満足しか与えないとしても、それを神の賜物として受け取り、人はこの世に生きている限り、この世を楽しむ以外にないと述べています。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること」(2:24)と言っています。コへレトは人間の無力を強調することによって、間接的に、神中心的信仰という方向に心を向ける準備をしています。

 イエス様は「愚かな金持のたとえ」で、金持ちが「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と独り言を言った金持に、「今夜、お前の命は取り上げられる。・・・神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12:19-21)と教えています。イエス様の救いにあずかるときに真の魂の満足が与えられ、安心して飲み食いし、楽しむことができるのです。

  コヘレトは、ヨブ記の著者と同じく伝統的な知恵の立場に挑戦しています。この二人の思想家は敬虔と知恵によって人間が神を発見できると考えた賢者たちの誤りを正すことが目的でした。コへレトは万物の創造者としての神は信じるが、神は不可解であり続けます。神は隠されたままであり、人は神に至る橋を架けることが出来ません。人生の意味への深い懐疑は、コへレトのような理性の立場からは答えられないのです。しかし、このような「自然的人間」の絶望は、福音の光に照らされる時、克服されることが可能となります。「コヘレトの言葉」は、キリストへの道を備える書なのです。

 1~2章では、太陽のもとで人は労苦しても空しいことを経験します。

    3章では人間生活の諸相は、神の定めの中にあることを明確にします。

  「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)

  「天の下」とは目に見えない神の支配を表します。「定められた時がある」のは、時を定める方がいるからです。神は時を支配する方として登場します。
 「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時。」(3:2)

 「生まれる時、死ぬ時」と、人生の最重要事である生と死が取り上げられ、それは人間の意志や力を越えた事柄であることを明らかにします。自分の誕生や誕生日を自分で決めることはできません。また、いつまで生きられるのかも、分かりません。しかし、自分の生と死に神がかかわっておられるのです。そして「植える時、植えたものを抜く時」と農業の営みを取り上げます。農業の作業にも神がかかわっておられます。

   「殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時。泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時。石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時。」(3:3-5)

   「殺す時」は人間が互いに殺し合う時であり、「癒す時」は全く反対に病人の回復に力を入れる時です。「破壊する時」と「建てる時」は建築に関係しています。「泣く時」、「嘆く時」は近親者の葬儀の時です。喜ばしい結婚式の「笑う時」、「躍る時」。「石を放つ時」、「石を集める時」は羊飼いが丸い小石を用意し、石投げ紐を使って羊を襲う野獣に放つのです。「抱擁の時」、「抱擁を遠ざかる時」は、赤ちゃんを抱く時や離れる時であり、家族や友人との出会いや別れの時の抱擁です。これらすべての時が神の御支配の中にあるというのです。

 「求める時、失う時、保つ時、放つ時。裂く時、縫う時、黙する時、語る時。愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。」(3:6-8)

 「求める」は、探すの意味です。「失う」は物を失くすことです。「保つ」は保持するの意味です。「放つ」は不用になったものを投げ捨てることです。いずれも日常の生活での出来事です。「裂く時」は悲しむ時であり、「沈黙する時」です。「縫う時」、「語る時」は、悲しみの時が過ぎ、衣を修理し、日常の会話に戻る時です。「愛する時」が和睦する「平和の時」であり、「憎む時」が戦争と関係する「戦いの時」です。個々人の生活や態度ではなく、国や社会全体が直面する時です。個人にせよ、集団にせよ、コヘㇾトはあらゆることに神の定めの時があるとを告げます。

「人が労苦してみたところで何になろう。」(3:9)

   庶民の日常生活から、「時」が28回繰り返されて語られています。あらゆる事柄が神の予定のうちにあるのだから、人の努力はまったく無意味であるのに、人は苦労しなければならないようにつくられている。労苦する人間は自分の労苦の益を受けていない。自分に好ましい時が来るのか、好ましくない時が来るのか、それは運命にかかっているので、自分自身の知恵にはよらない。賢い選択などない。コへレトによれば人生を制御しようとする努力は絶望的なのです。

   「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。」(3:10)

   しかしコへレトの言葉のこれらの主張が単なる運命論者や宿命論者と異なるのは、これら一切の背後に神のわざを見ていることです。永遠の神が空しいと思える営みの背後におられるとするならば、もはや現実のむなしさを嘆く必要はないのです。

   「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(3:11)

    神はすべてを「時宜にかなうように」、その時に適うように造られている、という信仰告白がなされます。この神の創造に関する表現の背後には、創世記1:1以下の天地創造の物語があります。コへレトは人間の一生におけるもろもろの瞬間が神から来ることを認め、神に信頼するのです。

    また、神は「永遠を思う心を人に与えられる」。「永遠を思う心」とは、人間には永遠性がないが、これを慕い思う心のことです。神は人間に、「永遠の思い」、過去と未来を問う能力、初めから終わりまで見極めたいと思う心を与えられた。しかし、永遠の思いは、かえって人を不安に陥れるものとなります。人間にとって「永遠」は死のかなたのものなので、否応なしに「死」を意識させずにはおかないからです。人は死を考えることを好みません。 

   神は人間の営みのすべてに時を定められた。そしてまた神は人の心にただ日々の出来事の認識のみでなく、永遠を思う心を与えられました。ここで言う「永遠」は、終わりのない時間の継続を指しています。しかし、人は神の業のすべての神秘を究めつくすことはできません。その終始を見極めることは許されていません。

   「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。」(3:12-13)

 「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ」とコへレトは知りました。生きている間、労苦して得たものを、神の賜物として感謝しよう。そしてそれを喜び楽しもう、と彼は言います。と言っても、単なる快楽主義ではありません。神を畏れ、日々の労苦の中にしあわせを見出すのを良いとするのです。

 「わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」(3:14)

 コへレトは、「すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない」と知りました。だから、「時」を与えたもう神を信じて、畏れ敬い、与えられた日々を感謝しつつ、喜び楽しんで生きるのが一番良いとします。

   キリストが死を打ち破り「永遠」のいのちを与えてくださる時に、もっと素晴らしい真の人生が開かれるのですが、それまでは、神を畏れ、神の摂理を信じて、日々の「労苦の中にしあわせを見出す」のが良い、とするのです。

  「今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。」(3:15)

今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと」です。神は過ぎ去ったことを何度でも繰り返します。言い換えれば、「太陽の下に新しいものは何もないのです。

 「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。」(3:16-17)

 「裁きの座」とは法廷です。コヘレトはその法廷が正しく機能していないのを見て、「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」とつぶやくのです。コヘレトは、死後の裁きのことを言っているのではありません。悪を行う人だけではなくて、正しいことを行う人も、神様の裁きである死を免れることはできないのです。ただイエス・キリストを信じる人だけが、罪を赦されて、神の裁きとしての死を免れることができるのです。

 3章11節の「神はすべてを時宜にかなうように造られた」は、聖書協会訳では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と訳しています。新改訳も、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と協会訳とほぼ同じように訳しています。原文でも、「ヤーフェ(美しい)」という語が用いられています。神が天地を造られたあと、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)のお言葉が反映している心地良いひびきのことばです。

  この世の生活は、一見すると空しさに満ちているかもしれません。今、世界にどんな恐ろしい事が起ころうとも、絶望してはなりません。破壊、涙、殺戮など、むごいとしか言えない現実があります。しかし、聖書は、その背後に神のみ手があると語るのです。空しさの中に、その空しさを超えて導く神のみ手があるのです。神が働いているこの世界は、その時にふさわしく美しいのです。そして、その神のみ手に信頼して生きなさいと言うのです。なぜなら、そこにこそ、唯一、この世の空しさを打ち破り、絶望を乗り越えて行く道があるからなのです。

 

  境の時も、逆境の時もこう言えるのは、神様への信頼があるから。天の父なる神様は、私たちに独り子イエス様を与えるほど、愛に満ちたお方だから。(北秋津キリスト教会・聖書一言メッセージ2)

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