富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「イエスの姿が変わる」 ルカによる福音書9章28-36節

2019-03-26 21:19:27 | キリスト教
     ↑ 「イエスの変容」The Transfiguration
イタリヤの画家 ルドヴィーコ・カラッチ (1544 - 1628)   所蔵 Scottish National Gallery
    
  981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380  FAX:022-358-1403 

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに          従って歩む者とされましょう。」
聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和に
     あずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
     いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

        受難節第4主日 2019年3月31日(日) 午後5時~5時50分
 
            礼 拝 順 序
                 司会 田中 恵子姉
前 奏              奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)
交読詩編   29(神の子らよ、主に帰せよ)
主の祈り   93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者祈祷
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書9章28-36節(新p.123)
説 教    「イエスの姿が変わる」   辺見宗邦牧師
祈 祷                                
讃美歌(21) 285(高き山の上)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)  24(たたえよ、主の民)
祝 祷             
後 奏

               次週礼拝 4月7日(日) 午後5時~5時50分 
               聖 書  ルカによる福音書20章9~19節
               説教題   「十字架の勝利」 
               讃美歌(21) 300 297 24 交読詩編 54
  
     本日の聖書 ルカによる福音書9章28-36節
  
  9:28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

            本日の説教

  今日の聖書の箇所は、イエス様の姿が変わり、栄光に輝くお姿になられた記事です。「山上の変容」とか「山上の変貌」とも呼ばれてていますが、「変容」、「変貌」は姿や形が変わることを言い表す言葉です。並行記事は、マタイ17:1-8、マルコ9:2-8です。
  「この話をしてかた八日ほどたったとき」とは、ペトロがイエスを「神からのメシアです」と信仰を言い表した後、イエスが弟子たちに、自分がメシアとして受けなければならない苦難と死、そして復活について語り、十字架を背負ってイエスに従うとき、自分の命を救い、永遠の命が与えられる話をなされてから八日ほどたったとき、を指します。
  福音書記者マルコやマタイは、ペトロの信仰告白をした場所はフィリポ・カイサリアであったと記しています。フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北方、イスラエル最北の地です。ヘルモン山の南西19キロに位置するに、ヨルダン川の水源の近くにある地です。現在のゴラン高原の一部です。



 主イエスは弟子の中でも中心的な位置にあるペトロ、ヨハネとその兄弟ヤコブの三人を連れて、祈るために山に登られました。
   その<山>とは、ヘルモン山(標高2815m)や、伝説ではガリラヤのタボル山(ガリラヤ湖の南西約20㎞、標高575m)とされています。
  

  
タボル山の頂上にある変容教会と、教会堂内の変容のキリストの壁画

 イエスは<祈るために山に登られ>ました。イエスは、度々<人里離れた所に退いて>(ルカ5・16)祈られたり、<祈るために山に>(ルカ6・12)行かれたり、ひとりで祈ったり(ルカ9・18)されています。主イエスにとって、父なる神との祈りの交わりは、霊の交わりでもあり、その使命遂行のための力と確信とを与えられるために欠くことのできない大切のものでした。特に十字架の死の前夜、オリーブ山のゲッセマネの園での祈りは、神のみ心を確認して歩むために、必要な祈りでした。イエスは祈りによって、神のみ心を知り、そのみ心に従いました。今日の聖書の個所でも、苦難の道を歩み出すに当たって、神との霊的交わりを求められたものと思われます。
 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に光り輝きました。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示されたのです。
見ると、二人の人がイエスと語り合っていました。モーセとエリヤです。旧約時代のはるか過去の二人の人物です。
  モーセは、ユダヤ人のあいだでは、だれも彼の墓を知らないという申命記34・6の記述から、死なずに天に上ったという伝承がある紀元前1200年前にエジプトからイスラエルの民を神の約束の地カナン(現在のパレスチナ)に導いた偉大な指導者です。エリヤは死なずに天に上って行ったとされている紀元前850年頃の偉大な預言者です(列王記下2・11)。 彼ら二人ともシナイ山で神と語った経験をもち、しかも二人とも、当時の人々の間では死んでいないと思われ、メシア時代に再び戻って来ると信じられていました。
  イエスの変容と、モーセやエリヤとの語り合いは、イエスが超地上的・天的存在、神の子であることを示しています。モーセは旧約聖書の律法を、エリヤは預言書を代表する人物です。この二人がイエスの変容に際に共にいたことは、イエスが律法と預言、すなわち旧約聖書に示された神の約束を成就するために、神から遣わされた救世主(メシア)であることを示しています。
 二人は栄光に包まれて現れて、イエスが<エルサレムで遂げようとしておられる最期>について話していました。
  ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えたが、その二人がイエスから離れようとしたとき、この不思議な神秘的な光景を見たペトロがイエスに言いました。
 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。
  天に迎えられたような体験をしたペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのです。ペトロの思いついた、三つの仮小屋とは、栄光に輝く主イエスとモーセとエリヤのために小屋を建てて迎え、いつまでもそこにとどまって居てもらいたいという願望からなされた提案でした。ペトロはこの変容の出来後が霊的世界の出来事であることを十分に受け止めきれていなかったのです。しかし、モーセやエリヤとイエスを同列に置いているところから、イエスが神の子であることが分かっていません。
 ペトロがこう言っていると、雲が現れて栄光に輝く三人は雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れました。雲は神の臨在を表わす象徴です。すると、雲の中から神の声が聞こえました。
 「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられました。
<これはわたしの子>は詩編2・7にあるように、イエスが神の独り子であり、メシアであることを示しています。<選ばれた者>はイザヤ書42・1の受難の主の僕を示しています。主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子であり、神様が選び、遣わして下さった救い主であられるのです。イエスの受難予告が、天の声によって確認されました。<これに聞け>は、神の子イエスの言うことに聞き従えと弟子たちは命じられたのです。
  <これに聞け>は、申命記18・15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。」が言及されているが、しかしイエスは、イスラエルの同胞の中から立てられた預言者ではありません。イエスは神の子であり、「モーセ以上の預言者」なのです。モーセは神の民を奴隷にされていたエジプトの地から導き出した指導者でした。神の子は、罪の奴隷になっている人々をこの世から神の国へと導かれる方です。
 弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話しませんでした。イエスの変容は、イエスがこの世の人ではなく、神の子であることを弟子たちに明らかにされた出来事でした。しかし、弟子たちはその意味を、この時は理解できなかったと思われます。イエスの生涯が死をもって終わるのではなく、復活する神の子であることが明らかになるのは、イエスの復活後、聖霊を与えられて初めて分かることでした。
 三人の弟子たちは生きたままでイエスと一緒に天上界に引き上げられたような体験をしました。神自身が輝く雲の中からイエスのことを<わたしの愛する子>と宣言したのを聞いたのです。これはたしかに幻というべきものです。この変容の出来事は、イエスが人間の姿から神の姿へ変化したのです。この出来事の唯一の行為者は神であり、イエスと彼の三人の弟子たちは、神を経験したのです。
  このイエスの変容の出来事の意義は、第一に、苦しみを受けるためにエルサレムに上ろうとするイエスの決意を強めるものでした。神はイエスに十字架の道を示し、復活することを保証したのです。
  第二に、弟子たちは、世の終わりに現れる神の国の力、主イエスの栄光を、今のこの世を生きる中で、垣間見ることを許されたのです。
  この記事が私たちに教えていることは何でしょうか。イエスは神であるにもかかわらず、人間の罪を救うために、私たちと同じ人間の姿を取り、苦難の道を歩み、十字架にかかって死んだくださった、ということです。
  地上に来られたイエスは、どこまでも、私たちに対する愛のゆえに、へりくだった姿でした。地上の生涯においては隠されていたけれども、本当は栄光に輝く神の独り子であられるということです。
 人としてのイエスの中にも、神としての威光が輝いているのであり、イエスの変容は十字架の死に至るまで従順であったキリストを、神が高くあげた栄光の姿を一時的に表した出来事でした。イエスは死より復活して、天に上り、神の右に座し、父なる神と共に世を支配したもう神なのです。この主イエスの十字架の贖いを信じる信仰によって、私たちは罪を赦され、聖霊を与えられ、神の子とされ、永遠の命に生きる恵みと救いが与えられるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されました。イエス様が、わたしたちと共にいつもいてくださるなら、これにまさる幸せはありません。
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「受難の予告」 ルカによる福音書9章18-27節

2019-03-20 14:47:14 | キリスト教
              ↑ 茨の冠を頭に載せられたキリスト(マタイ27:29)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」
聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  受難節第3主日  2019年3月24日(日) 午後5時~5時50分 

礼 拝 順 序

司会 田中 恵子姉
前 奏              奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)
交読詩編  108(神よ、わたしの心は確かです。)
主の祈り   93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者祈祷
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書9章18-27節(新p.122)
説 教       「受難の予告」   辺見宗邦牧師
祈 祷                                
讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)  24(たたえよ、主の民)
祝 祷             
後 奏

次週礼拝 3月31日(日) 午後5時~5時50分 
聖 書  ルカによる福音書9章28-36節
説教題   「主の変容」 
讃美歌(21) 288 285 24 交読詩編 29

本日の聖書 ルカによる福音書9章18-27節
 9:18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」21イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。26わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。27確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。

本日の説教

イエスはガリラヤ湖の北岸ベトサイダに近い人里離れた所で<五千人に食べ物を与える>奇蹟を行われました。この
あと、マルコによる福音書では、イエスは弟子たちだけを連れて、ゲネサレトに行き、そこから北方の異教の地、ティルスとシドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に戻り、四千人に食べ物を与え、ベトサイダで盲人をいやし、その後フィリポ・カイサリア地方に行き、その途中の出来事として、ペトロが信仰を言い表した出来事を記しています。マタイによる福音書もマルコの記事にならって同じように記しています。
  しかし、ルカによる福音書では、<五千人に食べ物を与えた>出来事のあと、イエスがひとりで祈っておられるとき、共にいた弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねたと記しています。並行記事(同じような記事)はマタイ16:13-28、マルコ8:27-9:1です。
イエスは弟子たちに、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と世間の評判を尋ねました。弟子たちは、復活した<洗礼者ヨハネだ>と言っています、預言者<エリヤ>の再来だと言う人も、エレミヤのような<昔の預言者>が生き返ったのだという人もいます、と答えました。
  エリヤ(列王記上17・1)は紀元前九世紀に活動した厳格な預言者です。ガリラヤの民衆はイエスを、神が終末の救済のために送られた預言者の一人と見たのです。
イエスは弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。ペトロが弟子たちを代表して答えます。「神からのメシアです。」
キリストの復活前は、ペトロはイエスを<預言者の一人>としてではなく、預言者以上の神の人としての「メシア」という表現で信仰を表しました。<メシア>とは、「油を注がれた者」を意味する語です。油を注がれた者とは、神から特別の課題のために選ばれ、それを果たすための力を与えられた者で、終わりの日にイスラエルに遣わされる救済者の称号となっています。ペトロたちは、イエスこそイスラエルが待ち望んでいた<メシア>だと言い表したのです。これまでイエスの権威に満ちた教えを受け、力ある業や奇蹟を目撃してきた弟子が、イエスをメシアと信じたのです。
ペトロの信仰表明は、イエスが選んだ弟子たちにだけ与えられた啓示でした。後に、イエスは祈りの中で、「父のほかに、子がどういう者でああるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」(ルカ10・22)と祈っています。
  口語訳聖書では、ペトロの信仰告白を「神のキリストです」と訳していますが、これはイエスの復活後に成立した教会の復活信仰の投影です。共同訳聖書では、「神のメシアです」と訳しています。これは、まだキリストの復活を知らない弟子たちの信仰告白なので、そのように訳したものと思われます。
イエスはペトロの告白を聞いたあと、このことはだれにも話さないようにと弟子たちに命じました。弟子たちに受難のメシア・イエスの理解が欠けていたからです。
当時の人々が抱いていたメシア観は、ダビデ王国を再興し、ローマの属領から解放してくれるメシアを期待していました。そのようなメシアと誤解されると、過激なユダヤ人の政治的行為を誘発する危険性が多分にありました。
イエスは次のように言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
ここで初めてイエスはエルサレムで受けねばならない苦難の使命について述べ、自分の間近い死を弟子たちに予告しました。復活についてはこれまで全く話されていませんでした。苦難の予告は受難が起こったときに、弟子たちがつまずくことがないように、あらかじめ語られたのです。
  イエスは、受難して復活する自分のことを<人の子>ということばで表しました。それは<メシア>という言葉が含む誤った政治的意味を全く持たない言葉でした。<人の子>は旧約聖書では、<人間>を表すのに用いられていますが(詩編8・5他)、そのほかにダニエル書7・13~14では、「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、…権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と、神の権威を受けた<人の子>を描いています。イエスは自らを、神の権威を持って終末的に現れることが期待されていた<人の子>であると同時に、旧約聖書のイザヤ書52、53章にある<主の僕の苦難と死>の預言を成就する、<人の子>であることを明らかにしたのです(イザヤ書52・13~53・12、詩編22篇118・22)。
     
  <人の子>イエスは、罪ある人間のために彼らに代わって死ななければならない、そのためエルサレムで受けねばならない苦難の使命について述べ、自分の間近い死と復活について弟子たちに初めて予告しました。苦難の予告は受難が起こったときに、弟子たちがつまずくことがないように、あらかじめ語られたのです。イエスは、これから向かうエルサレムでは、弟子たちの予想とは全く異なって、最高法院を構成する、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、最高法院の判決で殺される運命にあることを打ち明けたのです。<殺され、三日の後に復活することになっている>とは、イエスの受難と死と復活は、究極的に神の意志を実現するための必然であることが、<…ことになっている>という言葉によって言い表されています。<三日の後に復活することになっている>というとき、神のご計画に基づいて実現していくことが強調されています。イエスの死なれた金曜日と、復活した日の日曜日までを含めて三日目になります。
  「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを
失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。』」
イエスは皆に言われた、とあります。皆とは、十二弟子たちだけでなく、群衆も含むのでしょうか。受難予告を聞いた今、弟子たちは新たにイエスに従う決断の前に立たされます。イエスは、<わたしについて来たい者は>と語りかけて、各自の自由意志にまかせて、十字架への道を歩むイエスのあとに従ってくることを求めました。 
  <自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って>とは、日々とあることから、具体的な十字架の死や殉教を目指すのではありません。イエスに従うとは、イエスに従うとは、神に仕えるために自己を否定し、自分の判断によって自分の行く道を選ばずに、神のみ心に従うことです。<わたしはキリストと共に十字架につけられた>(ガラテヤ2・20)とあるように、<日々>に、自己中心的な古い自己を捨て、キリストと共に復活にあずかって、<神にかたどって造られた新しい人を着て>(エフェソ4・24)、生きることです。これは人間の努力や熱心によって出来るものではありません。ただ人間以上の力を持たれる聖霊が一人一人に臨むとき初めて可能となるのです。日毎に<試みに逢わせないでください>と主の祈りを祈りつつ、古い自分に死に、キリストにある新しい命に生きることです。イエスの教えた<福音にふさわしい生活を送る>(フィリピ1・27)ために、苦しむことも、恵みとして受けて、イエスに従うことです。 わたしたちは、一日、一日も、自分の思いではなく、主イエスの心をわが心となして歩んでいるかが問われているのです。
  「自分の十字架」とは、キリストを信じた故に負わねばならない信仰者としての苦しみです。ある人にとっては家族の中での無理解でしょう。ある人にとっては会社での不利益でしょう。ある人にとっては偶像礼拝拒否の戦いでしょう。人により異なりますが、それが主イエスによって担わされる十字架です。
  <自分の命を救いたいと思う者>という表現は、元来は殉教の死の問題を扱ったものですが、ここでは一般化され、この世での生き方が問題とされています。イエスに従い、イエスと共に生きる生き方でなく、自分本位の生き方を続ける者は、永遠の命を失い、魂を失ってしまうという意味です。
 <わたしのために命を失う者>とは、キリストのために自分の自然的な生命を失うことです。その者には神が永遠の命をという賜物を与えてくださり、彼は自己の魂を見出すこと
を意味しています。
 永遠の命とは、自然の死によって亡びてしまう命ではなく、また霊魂不滅というようなものでもなく、神によって与えられる命です。自分本位の生き方を続ける者は、死で終わり、永遠の命を失い、魂を失ってしまいます。キリストのために生きる者には、神から聖霊という永遠の命の賜物を与えられます。その命は死後に与えられるものではなく、すでにこの世において保証として与えられるものです。この世においてもキリストと共にあり、肉体の死に際しても、キリストと共にあり、キリストと共に復活の命に生きる者とされるのです。
 自分のあらゆる精力をこの世の目標に集中させて生き、その富と財宝を得るのは人を豊かにするようですが、それはこ
の世の仮の一時のことであり、それによって神から遠ざかれば無益であると説いています。永遠の命は全世界の富・権力・名誉によっても得られものではありません。ただイエスに従うことによって与えられるものです。
「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を
恥じる。」
  <わたしの言葉を恥じる>とは、元来は殉教においてイエスを否認することですが、ここでは一般化され、この世で、イエスとその言葉、福音への態度次第で、終末時のその人の
運命が決定するという警告です。<人の子も、その者を恥じる>とは、裁き主としての人の子が、その人を否認して自分の者としての受け入れを拒否するということです。<自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて>とは、三重の栄光に輝く人の子の再臨と神の国の到来を告げています。
「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
 神の国の到来の間近いことを約束する終末的な発言です。イエスの栄光に輝く再来は、彼の同時代の何人かがまだ生存中に起こるだろう。それほど「神の国」の到来は切迫している、ということです。ここで明らかに示そうとされていることは、神の王国をもたらす救い主の支配が、遠からず地上に現れる、ということです。
 ペトロをはじめ弟子たちは、イエスの苦難と死のことが分かるようになったのは、イエスの十字架の死と復活の後でした。イエスの十字架と復活に実際に接し、そしてそのあと聖霊の導きを受けることによって、あの受難のイエスこそ、神の御子、まことの救い主であることがわかったのです。弟子たちは復活の主に出会い、主の限りない赦しの愛を体験しました。復活の主イエスは、ペトロに「あなたはわたしを愛しているか」と三度も訊ねられ、「わたしの小羊を愛しなさい」と言われてから、「わたしに従いなさい」と言われました(ヨハネ21:15-19)。
 わたしたちキリスト者も、みことばを通してわたしたちに語りかけるイエスの赦しの招きと愛にふれ、「わが主イエス」と呼び、主イエスを愛し、人々を愛し、聖霊を与えられ、導かれることによって、主イエスに従う者とされ、永遠の命に生きる者とされましょう。
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「悪と戦うキリスト」 ルカによる福音書11章14-26節

2019-03-11 11:05:32 | キリスト教
↑15世紀のフランスのベリー公が作らせた時祷書の挿絵。(悪霊につかれた男の頭から、悪魔が逃げ出す絵。マルコ1:21-28の場面。)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む     者とされましょう。」
聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずから     せるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していな     さい。」(コロサイ3・15)

     受難節第2主日  2019年3月17日(日) 午後5時~5時50分 

         礼 拝 順 序
                 司会 田中 恵子姉
前 奏              奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 297(栄えの主イェスの)
交読詩編  140(主よ、さいなむ者からわたしを助け出し)
主の祈り   93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者祈祷
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書11章14-26節(新p.128)
説 教    「悪と戦うキリスト」   辺見宗邦牧師
祈 祷                                
聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)
讃美歌(21) 441(信仰をもて)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)  24(たたえよ、主の民)
祝 祷             
後 奏
                   次週礼拝 3月24日(日) 午後5時~5時50分 
                   聖 書  ルカによる福音書9章18-27節
                   説教題   「受難の予告」 
                   讃美歌(21) 197 481 24 交読詩編 108

    本日の聖書 ルカによる福音書11章14-26節
  11:14イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。 15しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、 16イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。 17しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。 18あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。 19わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。 20しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。 21強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。 22しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。 23わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」 24「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。 25そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。 26そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れ
て来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

          本日の説教
 
  主イエスは、ガリラヤ湖周辺の町々村々を巡回して、神の国は近づいたと宣べ 伝え、そのしるしとして、病人をいやし、悪霊を追放し、死人を生き返らせ、奇蹟を行われました。主イエスが行った奇蹟は、イエスが自然、病、罪、悪霊、死に対して支配する権威を持つ神の子、メシヤ(救い主)であることを示すものでした。
「口の利けなくする悪霊を追い出すキリスト」
( 説明:口の利けない男の口から悪魔が逆さになった飛び出している。)

  イエスの時代は、重い病気や身体障害は、悪霊の仕業だと考えられていました。イエスのところに、悪霊に取りつかれて口の利けない人が連れられて来ました。イエスは口を利(き)けなくする悪霊を追い出すと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆しました


群衆はイエスの行った悪霊祓いに驚きましたが、しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言って、イエスの力の源を怪しみ批判する者や、イエスが神から遣わされたメシアかどうか試そうとして、証拠として天からのしるしを要求する者がいました。

イエスは彼らの心を見抜き、<ベルゼベル>の力を使っている、というイエスに対する非難を取り上げてこたえます。

<ベルゼベル>とは、本来<バアル・ゼベル>のことで、「君主バール」、「家の主人」の意です。<バール>はカナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神です。カナンの地に入植してきたヘブライ人たちは、カナンに住んでいたペリシテ人の信仰する<バアル・ゼベル>を邪教神として、「エクロンの神、バアル・ゼブブ(ハエの神の意)」とゼベルの語呂に似たゼブブという名で呼んでさげすみました(列王記下1:2)。<エクロン>はペリシテ人の町の名です。その後、<バアル・ゼベル>は、<ベル・ゼベル>となり、この当時は<悪霊の頭>すなわちサタンを指す名として<ベルゼベル>という言葉が用いられていました。
群衆の中に、イエスの力を<悪霊の頭ベルゼベル>の力と見做す者がいました。

イエスは「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」と言われました。

イエスは彼らの考えが間違っていることを、彼らに納得のいくように、たとえを用いて、分かりやすく説明されました。国が「内輪で争えば」、その国は立ち行かない。内部抗争に明け暮れる国や家は荒廃して、自滅してしまいます。同じように、イエスがサタンの頭の力で、サタンの手下である<悪霊>を追い出していると言うのであれば、それは内輪争いをすることであり、サタンの支配は崩壊し、自滅してしまいます。サタンは、内部抗争によって自滅するほで愚かではありません。サタンは自分自身に逆らうようなことはしません、とイエスは反論されました。

「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」とイエスは言われます。
イエスが悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うのなら、あなたたちの仲間、ユダヤ教団内部で行われている<悪霊祓い>は何の力で悪霊を追い出しているのか。彼らも悪霊で追い出していることになるのではないか。もしそうなら、彼らは怒ってあなたたちの罪を裁くことになろう。彼らの悪霊追放を、神の側に立って働いているとみなすなら、イエスの悪霊追放も同じように神の側に立って働いているを認めるべきではないか、と反論しました。
当時のユダヤ教では、祈祷師とか霊能者が悪霊を追い出すということをしばしば行っていました。使徒言行録19章11節以下にもユダヤ人の魔術師や祈祷師がいたことが記されています。
「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主イエスは言われました。 
イエスが言われた「神の指」という表現は、出エジプト記8章の記事に出て来る言葉です。モーセがエジプトで苦しむ自分の民を救い出すため、エジプトの王ファラオのもとへ行って、奴隷とされているイスラエルの民を解放するように要求しました。しかしファラオはその要求を拒みました。そこでモーセは自分たちの要求が神からのものであり、自分たちの神がまことの神として生きて働いていることを証ししようとしました。モーセはファラオの前に杖を投げて蛇にする奇蹟を行いました。
エジプトの魔術師たちも同じように、秘術を用いて蛇にする奇蹟を行いました。そのあと、モーセが行った奇跡を、エジプトの魔術師たちも同じようにできることが、三度も続き
ました。しかし、四度目の「ぶよ」の奇跡に至ったとき、魔術師たちは、これは「神の指」がそこに働いていることを認めざるを得ませんでした。「これは神の指です」と言って、自分たちには到底真似ができないことを魔術師たちはファラオに進言しました。けれどもファラオの心は依然としてかたくなで、モーセの言うことを聞き入れませんでした。この後、十一度目に、真夜中に主なる神が家々を過ぎ越す奇跡が行われ、エジプト人の家々の初子は死んでしまうという奇跡が行われ、ファラオはついにイスラエルの民の解放を認めざるを得なくなりました。
イエスが言った「神の指」(マタイでは<聖霊>)という言葉の背景は、エジプトの魔術師たちがモーセの行った奇跡を、「神の指」によって行っていると言ったことによります。
イエスは、モーセのように<神の指(神の霊)>によって悪霊を追い出しているのだから、神の国、神の支配は、あなたたちのところに来ているのだ、と重大な宣言をされました。「神の支配」は、やがて来る終末的な出来事ですが、しかし、聖霊の働きによって、すでに始まっているのだ、と言われたのです。「神の国」が<あなたたちのところに>、今イエスが直接話を向けておられる批判者たちのところに来ている。聖霊の存在を否定するようなあなたがたには、神の裁きがすでに下っている、という警告でもあります。
 「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」とイエスは言われました。
イエスは、ご自身とともに「神の支配」が到来していることを、さらに一つのたとえを用いて語ります。これは次のようなイザヤ書49章24~25の言葉を反映しています。                                         
 「勇士からとりこをとり返せるであろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され、とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い、わたしが、あなたの子らを救う」。                                       
 「勇士・暴君」とはサタンのことです。サタンは悪霊にとりつかれた人々を、奴隷(捕虜)としてそのままにしておこうとしても、サタンよりももっと強う者である「主」なる神
の前には、サタンは無力です。「主」から遣わされた神の子
イエスはサタンの捕虜をすべて奪い取ってしまう。サタンに対するイエスの勝利こそ、彼が、神の側なのか、サタンの側なのか、どちら側なのかを、十分に示す証拠であると説いたのです。
「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」とイエスは言われます。
この戦いにおいて、どちらつかずいることはありえません。今、神の指で悪霊を追い出しておられるイエスの側につくか、イエスの働きを悪霊の頭によるものとして、イエスに敵対する側につくのか、どちらの側につくのかとイエスは決断を迫ります。今神から遣わされて世に来られたイエスの呼びかけに呼応して、イエスの陣営に集合しない者は、終末に、
イエスがその群れを集められる時に、この集めようとされる働きに敵対するものであり、羊である民を散らしている者とされる、と警告しています。
 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、
整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」とイエスは警告します。
単に<汚れた霊が人から出て行く>だけのユダヤ教の悪霊祓いをしても、清い霊(聖霊)による生活をしなければ、悪霊の巣となる。メシアであるイエスの言葉を聞き、その活動を見たにもかかわらず。悔い改めてイエスを主人とすることがないと、かえって前よりも悪くなる。
このたとえは、イエスを拒絶したことに対して、批判者たちに最後の一撃を加えるものです。神の指によって神の国が来たからには、悪霊の住み家と聖霊の住み家の中間状態はない。人は中立状態の空き家にしてはいけない。空き家にしておくと、人は最初の状態よりもはるかに悪くなるだろう、というのです。
私たちは、主の祈りで、「御国を来らせたまえ」と祈ります。終末のときに実現する「御国」を求めるだけではなく、今、わたしたちのところで実現している「神の国」、「神の支配」を求めて祈る事が必要です。また、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。罪と死に打ち勝ち、復活され、父なる神とともに天上にあって世を支配されておられる、神の御子イエス・キリストのにより「神の霊」によって悪霊に打ち勝つ権能を与えられていること、また「神の指」による救いのお働きを日々に受けていることを自覚し、悪に打ち勝つ勝利を確信して、歩んでまいりましょう。
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「荒れ野の誘惑」 ルカによる福音書4章1-13節

2019-03-04 12:58:55 | キリスト教

↑サンドロ・ボッティチェリ (1445-1510)イタリアの画家「キリストの試練」   製作年(1480年から1482年)所蔵:ヴァティカン・システィーナ礼拝堂              (作品の説明:キリストは悪魔を追い払った後、天使たちの饗応を受ける。)

      981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

      受難節第1主日 2019年3月10日(日)   午後5時~5時50分 

                          礼 拝 順 序

                                                

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  83(聖なるかな)

交読詩編   66(全地よ、神に向かって喜びの声をあげよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書4章1-13節(新p.107)

説  教            「荒れ野の誘惑」              辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 377(神はわが砦)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                      次週礼拝 3月17日(日) 午後5時~5時50分 

                                      聖 書  ルカによる福音書11章4-26節

                                      説教題   「悪と戦うキリスト」 

                                      讃美歌(21) 297 441 24 交読詩編 140

           本日の聖書 ルカによる福音書4章1-13節

 4:1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」 12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

                              本日の説教

 3月6日の水曜日から、40日間の受難節に入りました。今年のイ―スターは4月21日(日)です。受難節の間は、主イエスが荒れ野で誘惑に会われ、十字架への道を歩まれたことを思って感謝し、主の復活を祝うイースターに備えるための期間です。

 イエスの「荒野の誘惑」は、マタイ(4:1-11)、マルコ(1:12-13)、ルカ(4:1-13)の三つの福音書に記されていますが、本日はルカの福音書からみことばをいただきます。

 主イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた時、聖霊を受け、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、聖霊に満ちて荒れ野に行かれました。荒れ野は、エリコから東3キロに広がる「ユダの荒れ野」と推定されています。そこには「誘惑の山」と呼ばれている所があります。

   イエスは、四十日間霊によって荒れ野の中を引き回され、悪魔から誘惑を受けられました。その間は何も食べなかったので、その期間が終わると空腹を覚えました。

  「誘惑する者」の第一の誘惑は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘いでした。メシアとして御国実現のために、奇跡をもって食に困らないようにせよ、という誘惑です。

   四十日も断食し、空腹を覚えているイエスにとって、パンはのどから手を出したいほど欲しいものでした。悪魔の言うように、イエスは神の子として権能を用いて石をパンにすることは、できないことではありませんでした。しかし、イエスは自分をお遣わしになった神の御心を行うために世に来られたことを自覚され、自分の意志を行うために神の子としての権能を用いることはしませんでした。

  イスラエルの民は、シナイ半島の荒れ野の旅で空腹だったとき、指導者のモーセとアロンに不平を述べ立て、必用なものを与えてくださる神を信頼せず、不信仰を表しました(出エジプト記16・3)。しかし、不平を聞かれた神は天からマナを降らせ、うずらの肉を与え、こうして民を守る神であることを知らせたのです。

   主イエスは荒れ野で、イスラエルの民と同じような空腹を味わいましたが、イスラエルの民と同じような不信仰の罪を犯しませんでした。悪魔の誘惑に対して、イエスは神によって命じられたのではない奇跡を行うことを拒絶しました。「『人はパンだけで生きるのではない。人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」と聖書のことばを引用し、現実の空腹に目を留めるのではなく、神に信頼し、神のみ心に従って生きることを宣言したのです。

   イエスは、申命記8章3節のことばを引用しました。申命記には、荒れ野でのイスラエルの民の空腹をつぎのように伝えています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。イスラエルの民は、神に対する謙虚な信頼を、すなわち、神のご意思と言葉を待ち、神の摂理の力に感謝することを学んだのです。

  「人はパンだけで生きるのではない」とは、生きるために人はパンを必要とするが、パンだけで生きるのではない。人は神が与える命のパンで生きる(ヨハネ6:35)、と解することができます。人の生死は神の計らいの中にあり、人は神に生かされている存在です。人には、いのちの霊の糧が必要なのです。

  「主の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」とは、どのように理解したらよいのでしょうか。イスラエルの民は、天から降るマナによって神に養われました。マナを与えるとき、主なる神は、モーセに「見よ、わたしはあなたたちのために天からパンを降らせる」(出エジプト16:4)と言われました。また、「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する」(同16:12)と言われました。このように「主の口から出る一つ一つの言葉」によって、マナが与えられ、うずらが与えられたのです。このように、人は神のことばによって生かされるのです。

   天地の創造も神のことばによるものでした。万物は言(ことば)によって成りました(ヨハネ1:3)。神はことばによって、ご意思を示されます。活ける神は、ものを言わない偶像の神とは違います。神と人との関係は、人格的・霊的なものです。神の言葉は、荒れ野の旅におけるマナのように、私たちに、単なるパンとは違う命の糧を与えて生かし、神に信頼して歩む者としてくださるのです。私たちは、日用の糧とともに、日々神のみことばによる霊の糧で養われて生きるのです。

   第二の誘惑は、イエスの内面的な霊的戦いが描かれています。メシアになりたければ権力と富を求め、頼れという誘惑です。悪魔はイエスを高く引き上げ、マタイには非常に高い山に連れて行きとあります。一瞬のうちに世界のすべての国々を見せました。当時のローマ帝国の世界と思われます。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

  この悪魔の言葉は、神の子の権威を表す言葉であり、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」というルカ10:22に類似しています。この誘惑はイエスにとって大きな誘惑です。この世の権力と繁栄は、すべての権力者が求めるものであり、この世の繁栄、栄華と富はすべての人を魅了するものです。わたしたちが人生において追い求める目標が、富とか地位とか世間での名誉とかいう地上の宝ではなく、「天において」、すなわち神との関わりにおいて、または霊の次元において、価値あるものでなければならないというのです。何よりもまず、神の国と神の義を求めることが大切です。ひたすら自分の能力を隣人に仕えるために用いることで「宝を天に積む」ならば、心はいのちの源である神に結びつけられて、地上の変遷を超えて、死によっても脅かされることのない、霊の喜びと希望に生きるようになります。

   この第二の誘惑は、神の子の権威を悪魔がわがものにして自分への礼拝を要求しています。第二の誘惑には詩編2:8の神の子への権威の約束が暗示されています。<求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする>と。悪魔はここで自らを神として、神の子イエスへ礼拝を要求したのです。悪魔は、「私を拝んで」、この地上のすべての栄耀栄華を手に入れて、思うようにやったらいいではないか、という誘いです。悪魔に、全世界を与える力も権限もあるわけありません。全世界は、神のものだからです。しかし、悪魔は、できもしないことを言って、自分を拝ませようとするのです。ここに人をだます悪魔の真の姿があります。悪魔にとっては、人間に神を拝まないようにすることが、その最大の目的です。

  その時、主は、何をなさったでしょうか。主は、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(申命記6:13)と言って、悪魔を退けました。この言葉は、モーセがホレブの山(シナイ山)で十戒を与えられたあと、イスラエルの民に神の言葉を取り次いだときの言葉です。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」とあります。

   第三の誘惑は、神の子メシアなら奇跡と不思議とを人々に示せ、という誘惑です。悪魔はイエスを聖なる都エルサエムへ連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ、神の子なら飛び降りたらどうだ、と誘いました。当時のユダヤの人々は、いつの日か自分たちを救いに来てくれるメシアが登場する場所は、このエルサレムの壮大な神殿の、しかも誰からもよく見える屋根である、と信じていたのです。そこに救い主が姿を現して民に救いを告げる。そういう最もふさわしい場所を悪魔は選んだのです。

   悪魔は、「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてあると聖書のことばを用いて、イエスに対して、神の子メシアとしての力を魔術的に行使して自分が神の子たることを示しなさい、と誘ったのです。

  悪魔が引用した聖書のことばは、詩篇です。このように書かれています。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」(詩編91・11~12)とあります。

  悪魔が引用したこの詩篇は、神への全き信頼を示す祈りです。イエスは、悪魔の要求する奇蹟は自分のための悪用であり、神への偽りの信頼への誘いであることを見破り、イエスも聖書の言葉を引用し、「あなたの神である主を試してはならない」と言って誘惑をはねのけました。

 イエスが言われたこの言葉は、モ―セが民に語った言葉です。これは旧約聖書の出エジプト記で語られている出来事を背景にしています。荒れ野で民の飲み水がなかったとき、「イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試し」ました。

 主は、苦境にあるモーセの祈りを聞き、モーセが岩を打てば、そこから水が出て、民は飲むことができるようにしました(出エジプト記17:1~7)。モーセはこの時の出来事を回顧し、イスラエルの民に対し「あなたたちがマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない(申命記6・16)」と語りました。主イエスはこの言葉を引用して悪魔を撃退したのです。イエスはイスラエルが犯した不信仰のあやまちを犯すようなことはしませんでした。

  悪魔はあらゆる誘惑を終えてイエスを離れました。<時が来るまで離れた>とは、次にイエスが悪霊と対立する時までと意味です。主イエスはこの後も悪魔と戦うことになります。罪深い人間を救うために、主イエスは父なる神の苦難の僕として、十字架への道を歩まれ、受難を迎えます(22:3)。

 悪魔・サタンは人を神から離反させようとして働く存在です。サタンは人を神への不服従に誘うのです。ヘブライ語の<サターン>は「告発人」「敵」の意味があります。ユダヤ教ではサタンは堕落した天使、神と人間との関係を壊し、破滅をもくろむ堕落した天使たちの主と見なされています。サタンが蛇の姿で現れ、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものと」なります、とだまして、アダムとエバを誘い、罪を犯させたことが思い出されます(創世記3:1-7)。

 わたしたちの場合も、「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し廻っています。」(ペトロ一5・8)利欲や情欲のように、「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて誘惑に陥るのです」(ヤコブ1・14)。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(ヤコブ4・7)とあります。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」との祈りをささげつつ、聖霊の力をいただいて、主に従ってまいりましょう。

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