富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「生命の回復」使徒言行録9章36~43節

2024-06-25 10:00:25 | キリスト教

 ペトロが、ひざまずいて祈り、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と言うと、       彼女は目を開きペトロを見て、起き上がった。      

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節7主日 2024年6月30日(日)午後3時~3時50分

礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  405(すべて人に)

交読詩篇     49(諸国の民よ、これを聞け)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)使徒言行録9章36~43節(新p.231)

説 教      「生命の回復」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  518(主にありてぞ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

    オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019

    (牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします

       次週礼拝 7月7日(日)午後3時~3時50分

       聖 書 使徒言行録24章10~21節

       説教題   「復活の希望」

       讃美歌(21)323 327 27 詩編96

 本日の聖書 使徒言行録9章36~43節 

  9:36ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。37ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。38リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。39ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。40ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。41ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。42このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。43ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。

 本日の説教

 地中海に面したヤッファ(現在のテル・アビブのヤッファ)の町にヘブライ名はタビタ、ギリシャ名はドルカス(「牝のかもしか」の意)という婦人の信者がいました。「ドルカス」と言う名はこの婦人のスリムな姿と活発な活動を想像させます。彼女は数々のよい働きや慈善をしていた人でした。このような働きによって、ドルカスは教会にとってなくてはならない存在でした。彼女はやもめたちの世話や、自分のできる針仕事で衣服を作り与えていたのです。

 

 「ペトロの巡回宣教」(使徒9:32)紀元35年~45年にかけて                 ルダ=リダ  ヨッパ=「ヤッファ」

  ところが、そのころ彼女は病気になって、ついに死んだのです。ヤッファの教会の人々は悲しみ、落胆しました。人々は亡くなった彼女の体を洗い清め、別れを惜しみ、屋上の部屋に安置しました。かつてエリヤが、シドンのサレプタのやもめの子が死んだとき、階上の部屋に子どもを寝かせて生き返らせたことがありました(列王記上17・17~24)。タビタも階上の部屋に置かれたのです。死は人生の最大の問題です。どうれば死別の悲しみが癒されるのでしょうか。どうしたら死を乗り越え、死に捕らわれない生き方ができるのでしょうか?

 リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼みました。リダとヤッファの距離は近く、18キロでした。ここもフィリポの伝道地でした。使いのしらせを受けたペトロは、リダをたって、その二人と一緒に出かけました。人々はペトロが到着すると、屋上の部屋に案内しました。すると、かつてドルカスから施しを受けていたやもめたちは皆ペトロのそばに寄って来て、泣き悲しみながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せました。ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がりました。ペトロは彼女に手を貸して立たせました。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せました。

 生き返ったタビタを見た人たちは、この信じられない出来事にどんなに驚いたことでしょう。そして喜んだことでしょう。この奇跡は終末に起きる復活の先取りのしるしでした。

 ペトロがタビタにしたことは、かつて主イエスが会堂長ヤイロの娘を生き返らせた時と似ています(マルコ5:35~43)。主イエスは、三人の弟子たちと子供の父母を残し、他の人々を外に出しました。そして子供も手をとり「タリタ、クム」と言われました。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味です。少女はすぐに起き上がって、歩き出しました。もう十二歳になっていたからです。

 ペトロは「タビタ、起きなさい」と言ったと使徒言行録の著者は記しています。ペテロは主イエスが会堂長の娘を生き返えらせたとき、そばにいたので、イエスと同じように、「タビタ(実名)、起きなさい(クム)」と言っています。イエスの時は、「タリタ(少女よ)、クム(起きなさい)」です。

主イエスのなさったこととペトロのしたこととの根本的な違いは、主イエスはご自分の力で娘を生き返らせたことです。一方ペトロは、ひざまずいて祈り、主に願ってから「タビタ、起きなさい」と言ったことです。

 主イエスに祈ったペトロの言葉に、主イエスが働かれたのです。イエス・キリストの復活の力、聖霊の力によって、タビタは生き返ったのです。この奇跡はヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じ、信者になりました。

 主イエスは、会堂長ヤイロの娘と、ナインのやもめの息子(ルカ7:14-15)と、べタニヤのラザロ(ヨハネ11・43)の三人を生き返らせています。それはイエスが神の御子であることを証する目的のためであり、愛のあらわれとして行われたものでした。ラザロの場合は、彼の死を悲しんでいる二人の姉妹、マリアとマルタを憐れんだためであり、イエスが生も死もつかさどる神であり、イエスを信じる者は死んでも生きるのであり、決して死ぬことはないことをあかしするためでした。

 「兄弟たち、すでに眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知って欲しい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(テサロニケ一、4章13-14節)とパウロは励ましています。

 使徒言行録は、当時の教会が、言葉と力ある業、多くのしるしによって信者の数を増していったことを、くり返し述べています。聖霊の働くところ、そこには「イエスは主である」との信仰が生まれ、イエスの名は、天地の創造者である父なる神と同じように、命と死を与える力を持っていることを知らなければなりません。

 今は、神のみこころの完結された啓示である聖書が与えられているので、当時と同じ形での奇跡を求める必要はありません。しかし、神は全能の父なる神であり、「神にできないことは何一つないのです。」(ルカ1:37) 

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「異邦人の救い」エフェソの信徒への手紙2章11~22節

2024-06-22 13:05:37 | キリスト教

   ↑ 「キリストにおいて一つとなる」(エフェソ2;11-22)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節6主日 2024年6月23日(日)午後3時~3時50分

                      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 194(神さまは、そのひとり子を)

交読詩篇    126(主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られと聞いて)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新p.418)

説 教      「異邦人の救い」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  402(いともとうとき)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

     オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019(牧師携帯)

     へ申し込み下さい。歓迎いたします。

         次週礼拝 6月30日(日)午後3時~3時50分

         聖 書 使徒言行録9章36~43節

         説教題   「生命の回復」

         讃美歌(21)405 518 27 詩編9:36-43 

 本日の聖書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

 2:11だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 本日の説教

 エフェソの信徒への手紙は、宛先がエフェソの教会となっていますが、他のパウロの手紙とは異なり、ただ一般的な教えが説かれているだけであって、差出人と受取人の具体的な状況記述がなく、宛先も不確かです。この手紙の著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場と、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があるからです。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています。これは読者の状況の違いや著者の目指した主題の相違などによる結果とも思われます。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。

  いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。

 内容は、1章~3章の終わりまでが教理的部分であり、人類に対する神の大いなる救いの計画と、キリストによるその実現と、さらにキリストの教会の意義とがしめされています。

 4章以下は、それに対する実践的な部分です。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。また、夫婦、親子、主人と奴隷などの関係をも説き、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励ましています。

 本日の聖書の箇所は,2章11節から22節までです。「だから、心に留めておきなさい。」(11節)という言葉で新しい話が始まっています。「だから」とは、直前の言葉を受けています。直前の8節から10節にはこのように書かれています。

 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(2:8-10)

 エフェソの人々に与えられた神様の救いは、自分の力、人間の行いによってではなく、神様の恵みによって、御子キリストを信じる信仰によって救われたのです、とあります。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それはだれも誇ることがないためなのです、とあります。私たちは神によって、イエス・キリストにあって造られた者であり、神が前もって準備してくださった善い業を行って歩むようにしてくださったのです、と語っています。そして今日の箇所に入ります。

 「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」(2:11)

 読者の多くはユダヤ人ではなく異邦人でした。「あなたがた」は、以前は異邦人であり、契約の民の所属のしるしとしての肉に手で施されたいわゆる「割礼を身に受けている人々からは」、「割礼のない者」と呼ばれていました。

 「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(2:12)

 以前は、神がイスラエルの民に与えた「約束を含む契約」に関しては全く関係がなく、「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きて」いました。真の神を知らず、何が罪であるかも知らず、それ故まことに正しい道も知らず、死んだら終わりという思いに生きていました、と言っています。

 「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(2:13)

 私たちは神様の救いから遠く離れていた異邦人でした。しかし「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」このように「以前は自分の過ちと罪のために死んで」(エフェソ2:1)いた者を、あわれみ深い神はキリスト・イエスにあって生かしてくださったのです。異邦人のクリスチャンは、常に自分の現在と過去とを比較することによって、神の恵みの偉大さを知るべきです、と説いています。

 一方、ユダヤ人たちは、自分たちの先祖にはアブラハムがいる、自分たちには神の約束があると言いながら、実際には「約束の契約」を守らず、神のみこころに背いた生活をしていました。それにもかかわらず、彼らは自分たちの置かれた神の民としての立場を誇り、他の民族を「異邦人」と呼び、心の底では穢れた民として彼らをさげすんでいたのです。

 しかし、今や神の御計画に基づいて、キリスト・イエスの血により、「遠い者」(異邦人)も、「近い者」(ユダヤ人)も、共に神との和解にあずからせていただいたのです。

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(2:14-16)

  「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」キリストがご自分の死によって敵意という「隔ての壁」を打ち破り、規則と戒律ずくめの律法を廃棄してくださったからです。「平和」という語は、ギリシャ語ではおおよそ戦争のない時期を示しているが、聖書では平和な時期よりもむしろ平和な関係を示す語です。ここでは神と人、人と人との関係が平和であることを語っています。ユダヤ人も異邦人も罪深い者であり、偏見と高ぶりに満ちていました。このような両者を「一つの体」とするために支払われた代価は、神の御子の十字架の死です。イエスの十字架のあがないの血によって、神と罪人との和解は成立し、人と人との間の平和も確立できるようになったのです。今では、キリストにおいて、ユダヤ人もなければ異邦人もありません。ただあるのは「一人の新しい人」です。

 「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(2:17)

 キリストはこの世においでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいるユダヤ人にも、平和の福音を告げ知らせました。

 「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(2:18)

 キリストの和解と平和の業の最終目的は、キリストによって、あなたがたが、互に「一つ体」となり、「一つの霊」に結ばれて、「父に近づく」ことです。

 エルサレムの神殿に異邦人は入ることが禁止され、もし神殿境内の中庭に入ると、それは死罪にあたりました。至聖所は年に一度、なだめの日、和解の日に大祭司のみが近づき、入ることが許され、また聖所へは祭司のみが近づくことができました。このような「壁」は取り壊され、だれもが、子が父に、赤子が母に対するように、親しみと信頼をもって、父なる神に近づくことができます。これこそイエスの福音であり、その時代が到来したことを告げています。

 「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(2:19)

 最も遠い関係である「外国人」と「家族」の関係を例にとり、この世から召し出された聖徒たちの新しい関係を表現しています。ユダヤ人も異邦人も「キリストによって」一つの国民とされ、神の民として聖徒と呼ばれていることを明らかにしています。そればかりでなく、クリスチャンは「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができ」、神の家族とされているのです。家族とは、この世の中で最も基本的な単位です。神の家族の長は父なる神であり、御子イエスは長子です。

 「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(2:20-21)

 「使徒と預言者」とは、福音を伝える使徒と、使徒に並んで福音の釈明と宣教に協力した、初代教会のみ霊に満たされた人々のことです。ここで聖徒の群れを建物にたとえています。この「建物」の構造は、キリスト・イエスを隅石(礎石)とし、使徒と予言者を土台とし、選ばれた信徒を一つ一つの素材として、「組み合わされた」ものです。この建物の背景はイザヤ書28:16にある、「それゆえ、主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石。固く据えられた礎(いしずえ)の、貴い隅の石だ。』」にあります。

 各人が生きた石であるように積み上げられることにより、建物全体が成長して行くところの建築のイメージをもって説かれています。このように、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。しかし教会は建物・建造物のことではなく、生きている人間とその共同体、「あなたがた」、聖徒の群れ、神の家族、信仰者の共同体を、建物に例えて語っているのです。

 「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(2:22)

 22節で初めて目標に達します。キリスト者が聖徒であるのは、彼らが使徒と預言者の土台の上に築き上げられ、またキリストにあって、共に建てられ、霊の働きによって神の住まいへと築き上げられるからです。「神に住まい」は、同時に彼らがこのようにして「神の家族」(2:19)となったことを思い起させます。

 かつて異邦人であったわたしたちは、キリストによって救われ、「新しい人」とされ、聖なる神に属する者とされました。神はわたしたちを「生きた石」として用いて、霊の働きによって、成長する「聖なる神殿」、「神の住まい」とされました。いずれも「キリストにおいて」、「霊のはたきによって」という限定がなされています。教会こそ神の住まわれるところであるとの保証は、まさに主と霊の働きの中にのみ得られるのです。ここに神が住んでおられる。神が生きておられることは、まさにこの教会において知られるのです。教会堂という建物においてではありません。キリストの体である教会を指す「一人の新しい人」であり「神の家族」である、わたしたちのうちにあるのです。

 教会(エクレシア)は、「呼び出された者」を意味し、信徒の集まりをさしているのですが、現在では信徒が集まる建物をさすことが多いようです。

 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(コリント一、3:16)とあります。わたしたちは自分が「神の神殿」であり、「神の霊」が自分たちの内に住んでいることを自覚し、「生ける石」とされて、「神の住まい」の成長に役立つものとされることを感謝したいと思います。

 

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「天のエルサレム」ヘブライ人への手紙12章18-29節

2024-06-11 22:04:45 | キリスト教

  ↑ 「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり」(ヘブライ12章22節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節5主日 2024年6月16日(日)午後3時~3時50分

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  497(この世のつとめ)

交読詩篇     84(万軍の主よ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙12章18-29節(新p.418)

説 教  「天のエルサレム」辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式     78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21)  579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

     オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019(牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします

           次週礼拝 6月23日(日)午後3時~3時50分

           聖 書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

           説教題   「異邦人の救い」

           讃美歌(21)194 402 27 詩編126

 本日の聖書 ヘブライ人への手紙12章18-29節

 12:18あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、19ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。20彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。22しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、23天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 24新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。

 25あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。26あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」27この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。28このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。29実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

  本日の説教

 <ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。<ヘブライ>とは、「川(ユーフラテス)の向こうから者」の意味です。」ユダヤ人を指す古い呼び名です。

 13章24節に「イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています」という言葉があるところから、イタリアの首都ローマ地域の離散したユダヤ人たちがいる集会に宛てて書かれたものと思われます。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。この手紙は最初の挨拶の言葉もなく、いきなり本文で始まるので、手紙よりも論説や説教のようなものです。この書は迫害に際しての忍耐をすすめています。 

 筆者は、長い間パウロの書簡とされてきましたが、近代の研究では、バルナバやアポロ、プリスキラという人物を著者とする説が有力ですが、明らかではありません。

 【バルナバはキプロス島出身のユダヤ人で、アンティオキア教会の指導者です(使4:30,11:22,13:1)。アポロはアレキサンドリア出身のユダヤ人で、雄弁家です(使18:24、コリント一1:12)。プリスキラはローマを退去してコリント、そしてエフェスに移住した、アクラの妻で、ポントス[現在のトルコの黒海に近い町]で生まれのユダヤ人です(18:2,16)。】

 著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13:23)、パウロの信仰を継承しています。

 執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されているし(10:32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

 執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10:32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10:25)、異なった教えに迷わされ(13:9)、みだらな生活に陥る(13:4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。  

 ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1:1~4:13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4:14~10:31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10:32~13:19)。最後の添え書きは「祝福の祈りと終わりの挨拶」(13:20~25)です。

 今日の聖書の箇所は、第三部に属します。新共同訳は12章14-29節を一区切りにして「キリスト者にふさわしい生活の勧告」という表題をつけています。すべての人との平和を、また聖い生活を追い求めなさい(14節)。また、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように(創世記25:34-35)、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけなさい(16節)と勧告します。

 「あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。」(18~19節)

 18節の最初のことばは、原典では、接続詞の「なぜなら」で始まっています。前の文を受けて、聖い生活をするのも、、俗悪な者とならないように気をつけるのは、「なぜなら」シナイ山のような恐ろしい山に近づいているのではなく、すばらしい神の都(天国)が近づいているからです、と迫害下にある信徒を励ますのです。

 イスラエルの民が荒野でさまよったとき、シナイ山で経験した恐ろしい体験を例にあげて語ります。<あなたがた>は、この手紙の受け取り人である迫害によって散らされたキリスト者たちです。<手で触れることのできるもの(山)>は、出エジプト記19:13によれば、主はモーセに対して、「山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ」と、民が山に近づかないように忠告しています。<黒雲>(出19: 16~18、22:18)、<暗闇>(申命記4:11)、<暴風>は神が住まわれる場所、<ラッパの音(角笛)>(出19:16、19、20:18)は神の顕現を表しています。<聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような(出20:19)、<言葉の声>(出19:19、申4:12)とは、イスラエルの民が「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」(申18:16)とモーセに願い、直接神の声を聞くことに対して極度の恐怖心を抱きました。このように荒れ野のイスラエルの民がシナイ山のふもとで経験した恐ろしい光景が語られ、そのような出来事が近づいたのではないと言っています。

 「 彼らは、『たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない』という命令に耐えられなかったのです。」(20節)

 出エジプト記19:12~13からの引用です。<彼ら>はイスラエルの民のことです。この<命令>は、神がモーセに、イスラエルの民に告げるように命じたのです。イスラルの民が神を畏れて罪に犯さないようにするためです。

 「また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。」(21節)

 申命記9:19との関連で語られています。シナイ山(ホレブの山)のふもとで、モーセが山に登り、契約の板を受け取る間に、イスラエルの民は金の子牛を造り、拝んだので、主を怒らせました。民の罪に怒る神の前では、イスラエルの民はもとよりモーセでさえ恐れたのです。

 「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、」(22~23節)

 12章の18節~24節は、古い契約が与えられた山と新しい約束が与えられている山を比較します。古い契約はシナイの荒れ野の中のシナイ山でモーセを通して結ばれました。それは律法を守らない者は死ぬという厳しさの中にありました。新しい契約はエルサレムのシオンの山(丘)で結ばれました。

 それは神の御子イエスによって与えられた福音です。あなたがたはすでに贖われて、天の国の住人になっているのだと、信徒を励まします。

 あなたがたに<近づいたのは>、むしろ救いの神に近づいたことが語られます。シナイにある山ではなく、シオンにある山です。けれども、今地上にあるエルサレムにある山のことではありません。ここで言われている<シオンの山>とはシナイ山のような現実の山ではなく、「生ける神の都」「天にあるエルサレム」を指します。「天上のシオン」の<シオン>は、エルサレムの元々の名称で、後にソロモン王が神殿を建ててからは、神殿を含めて「シオン」と呼ばれるようになりました(列王記上8:1)。シオンの名称は、詩的用法で用いられ、神ヤーウェが住まわれる都としてのエルサレムを意味します。天に登録されている長子たちの集会>とは地上の教会に属するキリスト者に約束されている終末の教会のことです。<すべての人の審判者である神>の<すべての人>とは、生きている者と死んだ者のすべてを指します。<完全なものとされた正しい人たちの霊とは、キリストの出現を待ち望み、その贖罪によって初めて完全なものとされた旧約の義人たちを指します。

 「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(24節)

 古い契約の仲介者モーセに対して、<新しい契約の仲介者>イエスが天のエルサレムのシオンの丘におられる様が語られます。<アベルの血よりも立派に語る注がれた血です>の<注がれた血>とはイエスが十字架上に流された贖いのための血です。その血はかつて<アベルの血>(創世記4:10~11)、すなわち兄カインによって殺された弟アベルの犠牲の血よりも、はるかにまさった犠牲と和解のしるしとなっていることを伝えています。それは復讐を叫ぶアベルの血ではなく、恵みに満ちた罪の赦しを与える血でした。

 「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。」(25節)

 <語っている方>とは、天から語っておられる復活のイエスを指しています。天からのイエスによる救いのメッセージは、私たちにとって拒むべきべきではないことが警告されています。この勧めは、み言葉を聞いた者がその生活において積極的な生き方をするように求められているという意も含まれているのです。<地上で神の御旨を告げる人>とはモーセのことで、天から語っておられる方と対比させられています。地上で神の言葉を語ったモーセを拒否し、その言葉に背いた者は罰を逃れることはできませんでした。イスラエルの人々がシナイの荒れ野でとった態度を思い起させることにより、神に逆らうことの意味を教えています。今私たちは、かつての地上における声、つまり代弁者モーセを通して語られた声ではなく、「天から」遣わされた御子イエスを通して語られる御声に背を向け、拒否するなら神の罰はなおさら逃れることはできないことが語られています。

 「あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」(26節)

 <あのとき>は、神がモーセを通して語られた時です。<その御声が地を揺り動か>したとは、律法が伝えられた時シナイ山が震えたこと(出19:18)を指し、この神顕現の光景は、終末の日の状況を想起させます。詩編18篇8節に「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ」とあります。<わたしはもう一度…>はハガイ書2・6の引用です。ハガイは、バビロンからの帰還者たちに、神殿を中心とするイスラエルの再建を語り、神殿完成後にメシアの時代が到来することを預言しました。著者はこのハガイの預言を世界の終末と受け止め、ここに引用したものと思われます。終わりの日には<地だけではなく天をも揺り動かそう>と主は言われます。

 「この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。」(27節)

 もう一度、地だけでなく天も揺り動かされるのは、<揺り動かされないものが存続するため>です。<揺り動かされないもの>とは、28節の<揺り動かされることのない御国>のことです。著者は、読者であるキリスト者に御国の一員である自覚をうながして、喜びの確信の中にある幸いを示します。それはそのまま28節の「神への感謝、そして奉仕」につながります。

 「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」(28節)

 キリスト者は今すでに終末的な約束としてこのような御国を与えられています。神の恵みを受けとめることのできる者のみが、まことの感謝を神にささげることができるのです。また<感謝の念>と<畏れ敬う>神への思いは、<神に喜ばれるように仕え>るということで姿勢が生まれ、ふさわしい礼拝の態度が生まれます。

 「実にわたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(29節)

 申命記4:24の引用です。新しい契約においては神はすべてのものを<焼き尽くす火>のような厳しさを失われません。恵みと厳しさは並存します。キリスト者が神の恵みに甘えて福音の言葉を拒否するならば、神との永遠の交わりに入ることはできません。審判を恐れつつ、仕えてゆくことが求められています。

 世界を創造し、支配し、その世界を揺り動かす力を持っておられる方、それがイエスによって啓示されました。同時に、イエスはこの「揺り動かされることのない御国の」の王であり、キリスト者はその御国の一員です。この御国にある<天のエルサレム>こそ、私たちが目指す<神の都>です。<天のエルサレム>は、11章には、「神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都」(11:10)とあり、信仰の先達たちが熱望した「天の故郷」(11:16)です。それゆえに、今、置かれている生活の場がどのような苦境にあったとしても決して絶望に終わることはありません。私たちはしっかりとイエス・キリストにとどまり続け、神に喜ばれるように仕えながら、天のエルサレムを目ざして歩んでまいりましょう。

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「御子の内にいつもとどまりなさい」ヨハネの手紙一2章22-29節

2024-06-08 10:02:27 | キリスト教

 ↑ さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、          御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、               御前で恥じ入るようなことがません。(ヨハネ手紙一、2章28節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380                       FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週   報

聖霊降臨節4主日 2024年6月9日(日)午後3時~3時50分

     礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  227(主の真理は)

交読詩篇     16(神よ、守ってください)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネの手紙一2章22-29節(新p.443)

説 教  「御子の内にいつもとどまりなさい」辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式     78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21)  458(信仰こそ旅路を)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

 

 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019

(牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします

次週礼拝 6月23日(日)午後3時~3時50分

聖 書  ヘブライ人への手紙12章18-29節

説教題   「天のエルサレム」

讃美歌(21)498 579 27 交読詩篇 84:1~13

 

本日の聖書 ヨハネの手紙一2章22-29節

 2:22偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。23御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。24初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。25これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。26以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。27しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

 28さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。29あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。

 本日の説教

 ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、用いられている用語や表現などが極めて似ているところから、同じ教会(仮にヨハネの教会と呼ばれている)の中で成立したと考えられています。

 ヨハネによる福音書は、イエスの十二弟子の一人のヨハネの権威の下に、ユダヤ教会堂に対してキリスト教の信じる神の独り子イエス・キリストを明らかにするために、紀元80年から後半から90年頃にかけて書かれました。

 ヨハネの手紙(一、二、三)は、ヨハネの教会の指導的位置にあったユダヤ人キリスト者の長老が、教会内部に起こった福音理解についての異端に対応するために、紀元100年前後に書いた勧告や手紙です。

 なお、ヨハネによる黙示録は、ローマの属州アジア州(現在のトルコ西部)に対する迫害が厳しくなったドミティアヌス帝の治下、紀元95年頃、福音宣教のためにパトモスの島に流刑の身となった教会の予言者を自称する僕(しもべ)ヨハネが、さし迫ったキリストの再臨、この世の終末と完成を告げ、諸教会を励ました文書です。

 ヨハネ黙示録も、用語・表現がヨハネによる福音書やヨハネの手紙とかなりの関連があるので、これらを総括して「ヨハネ文書」と呼んでいます。

 ヨハネの手紙二、三は、長老が教会や個人に書いた手紙ですが、ヨハネの手紙一は手紙というより勧告であり説教のようなものとして書かれています。

 1章から2章27節までに書かれていることは、御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つための道として、①光の中を歩くこと(1:7)、②戒めを守ること(2:3)、③兄弟を愛すること(2:10)、④反キリストの惑わしと誤り(2:17)、⑤伝統的信仰を守ること(2:24)の五つのことを論じ勧めています。

 2章18節以下に示されているように、この手紙の著者ヨハネは、グノ―シス的(「グノ―シス」はギリシヤ語の「知識」、「霊知」を意味し、「霊知による救済」を目指す)思想傾向を持つ教会内部のグループの誤りを論じ激しく攻撃しています。終末の時に現れる<反キリスト>こそ、今、教会を惑わしている異端であるとし、その異端の内容が父なる神と子なるキリスト・イエスとの正しい関係を認めず、ひいてはイエスがメシアであることを否定していると主張しています。

 以下の【】内はグノーシス思想の説明なので、説教では、省略してもよい。

 【当時の異端であるグノ―シス的思想とは、紀元1世紀から2世紀にかけて盛んになり、3世紀には衰微した思想運動です。グノーシスとは、「知識」を意味するギリシヤ語です。グノーシス主義は、人間はある「霊知」(グノーシス)を持つことによって救われると教えました。そしてその「霊知」をもたらすのがキリストだというのです。徹底した霊肉二元論の立場を取り、霊は純粋で神秘なもの、肉(物質)は罪悪性を持ち堕落したものであるとしました。絶対者である唯一の神が万物の創造者であるという教理を否定し、イエス・キリストは受肉した神の御子であるという教理を否定し、人間は恵みと信仰によって救われるという教理を否定しました。グノーシス主義は、肉体のみを罪悪視したため、内面にある罪の問題を考えることができませんでした。その教えは、禁欲的、戒律的なものとなると同時に、霊の神秘性を強調したために神秘的儀礼を重んじました。これは、福音とは全く異質の教えです。グノーシス主義は当初からキリスト教に浸透し、教職の位階制度を批判するなどしました。その結果教会は、自己の内部にキリスト教グノーシス派という危険な敵を抱えることになったのです。】

 「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(2章22節)

 <偽り者>とは嘘をつく者の意ですが、具体的には異端教師を指します。当時の異端説は、イエスがメシア(救世主)であることを否定する者のことです。特に御父と御子を認めないことがメシア性の否定とつながっています。異端説は、神の子が人間となって世にこられたという受肉を認めず、キリストを単なる霊的存在とし、父なる神と御子イエスとの父子関係を否定しました。

 「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。」(23節)

 イエスこそ神と等しい者であるという告白する正しい信仰には神との交わりが伴います。この独り子なる神イエスを認めない者には神との交わりは回復されないことが語られています。

 「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」(24節)

 <初めから聞いたこと>は、ここではイエス・キリストの福音を聞いた当初のことです。伝統的信仰を堅く保つように勧めています。そうすれば、御子と、また父なる神の内にいつもいることになりますと教えています。

 「これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。」(25節)

 24節のことばは、御子キリストが約束されたことであり、神との交わりを持つことが、すなわち永遠に命なのです、と教えています。

 「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。」(26節)

 以上の部分が、異端に導く者たちについての警告ですと結んでいます。

 「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(27節)

 <御子から注がれた油>とは、聖霊です。聖霊はすべてのことを教え、思い起させ(ユハネ14・26)、真理をことごとく悟らせます(ヨハネ16・13)。だから他に教える者を必要としないと言うのです。だから御子の内にとどまることが強調されています。

 「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」(28節)

 <子たちよ>と、神の子たちである教会員に呼びかけます。ふたたび、<御子のうちにとどまりなさい>と命じています。キリストといつも一体であるなら、<御子が現れる>再臨の日に、神の赦し、神の愛に対する確信が与えられて安心し、裁きに対して<御前に恥じ入る>ようなことはありません、と勧めます。

 「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」(29節)

 イエス・キリストが正しい方である(2・1)ことを知っていれば、<義を行う者>も皆、神から生まれた神の子であることが分かるはずだ、というのです。<義を行う者>とは、神の目に正しいとされる者のことで、ここでは福音を受けいれ、特に異端に走らず正しい信仰告白にふみ留まり、互いに愛し合う者のことです。

 ヨハネは、「あなた方の内には、御子から注がれた聖霊がある」と説き、信仰は聖霊によって与えられたものであり、「御子の内にいつもとどまりなさい。」と勧めます。主イエスを信じて洗礼を受けた者、主イエスによって一切の罪を赦され救われた者が、その救いの恵みの中にとどまり続け、主イエスを愛し、主イエスとの親しい交わりの中に生き続けることをヨハネは勧めているのです。

 しかし私たちは恵みの中にあることをしばしば忘れ、まるで自分の力だけで生きているかのように錯覚して、様々な不安にさいなまれることもあります。しかし、そのような時こそ、「御子の内にいつもとどまりなさい。」と語りかける御言葉に耳を傾けるべきです。キリストと一つにされた恵みは、私たちから失われることは断じてありません。この私たちの歩みを導くために、神様は私たちに聖霊を与えてくださっています。私たちがイエス様を神の御子と信じることが出来るのも、イエス様の十字架と復活によって救われていること信じることが出来るのも、聖霊なる神様のお働きによってです。私たちが自らその罪に気づき悔い改めることが出来るのも、そこから歩み直すことが出来るのも、すべては聖霊なる神様によってです。神様は私共が救われるようにと御子イエス・キリストを与えてくださっただけではなくて、その救いの御業に与ることが出来るように、その御子の内にとどまることが出来るようにと、私たちのために聖霊をも与えてくださっているのです。

 5章1節~4節に、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。・・・神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」とあります。

 私たちは「御子の内にとどまり」、「御子から聖霊を注がれ、この世に打ち勝つ<信仰の道>を歩んでまいりましょう。イエスをキリストとして知りながらも、イエスが生けるキリストとして、私たちの内に宿り、その栄光が私たちを通してこの世に輝やかなければ、私たちも「偽り」者であり、「反キリスト」につながることになることを自戒しなければなりません。

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