富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

 ペトロのペンテコステ説教-神はイエスをメシアとされた

2015-05-28 23:05:09 | 説教

   ↑ マソリーノの壁画:聖ペトロの説教: 「サンタ・マリア・デル・カルミネ教会」イタリア・フィレンツェ

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

聖霊降臨節第2主日(三位一体主日)  2015年5月31日(日)  5時~5時50分 

     礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  342(神の霊よ、今くだり )

交読詩編      71(主よ、御もとに身を寄せます)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    使徒行伝2章14~36節       

説 教   ペトロのペンテコステ説教ー神はイエスをメシアとされた   辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  397(主の教えのべ伝え)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                               次週礼拝 6月7日(日)午後5時~5時50分

                                                聖 書  使徒行伝2章37~47節

                                                説 教   「教会の一致と交わり」  

                                                讃美歌(21) 411 397 24

本日の聖書  使徒行伝2章14~36節

 14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

  17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

   22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。25ダビデは、イエスについてこう言っています。

    『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。26だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。28あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

   29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。31そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。34ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。

   『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』

   36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

        本日の説教

  イースターから五十日後、ペンテコステとも呼ばれていたユダヤ教の五旬祭の日に、イエスの弟子たちに聖霊が降り、弟子たちはイエスによってなされた偉大な神の業を語り始めました。こうして、この日、キリストの教会が誕生しました。その最初の日に、十二人の使徒たちを代表してペトロが語った説教が、今日学ぶ聖書の個所です。その前に記されていたところを、始めに復習しましょう。

   五旬祭の日に、使徒たちはエルサレムの泊まっている家の上の部屋で、復活したイエスが言われた聖霊を与えられることを祈って待っていました。マティアを弟子に加えた十二人の弟子たちと婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちが一つになって集まっていました。すると突然、一人一人の上に聖霊が降り、弟子たちは聖霊に満たされました。弟子たちが集まっていた上の部屋から、場面は素早く変わり、外の通りに移ります。外の通りでは、十五の国々から、外国で生まれ育ち、帰国してエルサレムに住んでいる人たちと、以前からエルサレムに住んでいたユダヤ人が、この物音に大勢集まって来ました。この人たちはめいめいが、自分たちの生まれた故郷の言葉で、ガリラヤ出身の弟子たちが、神の偉大な業を語り出したのを聞いて驚きました。

 弟子たちは世界各地の土着の言語を使って話し始めたのです。しかし、このような不思議な熱狂的様子を、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者もいました。ここまでが、今日の聖書の個所の前に記されていました。

 この奇跡に驚いている民衆に向かって、ペトロは他の十一人の使徒と共に立って、声を張り上げて話し始めました。

 ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」とペトロは呼び掛け、「知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」と語りかけました。

 ペトロは、「今は朝の九時ですから、この人たちは酒に酔っているのではありません」と話し出しました。聖霊の働きによって弟子たちが、外国の言葉で語った現象を、ペトロは預言者ヨエルによって語られていた預言が実現したのだと語りました。17~21節は旧約聖書ヨエル書3章1節以下(共同訳旧p.1425)の引用です。

 神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(2・17~21)

 ペトロは、「イスラエルの人たち」と呼びかけます。「イスラエルの人たち」は神に選ばれ、神の民とされた人たちです。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。……このイエスを、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。「律法をしらない者たち」とは、ローマ帝国の総督ピラトやその兵卒たちを指しています。しかしこのことは神が予知されていたことが起きたのです。

 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデはイエスについてこう言っています」、とペトロは詩編16篇8~11節を引用し、ダビデ王が言った言葉で、イエスの復活を証明しました。

 わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」(2・25~28)

 この詩編の言葉は、主イエス・キリストの復活が神様のご計画の中に既にあったことなのだと、ペトロは説明したのです。

 兄弟たち」、とペトロは三度目の親しい呼びかけをしました。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。……だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(2・32~36)

 イエスの復活を詩編の言葉で証明したペトロは、わたしたちは、イエスの復活と昇天の証人です、と宣言しました。さらにペトロは神の右の座に上げられたイエスの昇天を、詩編110・1を引用して証明しました。

   ペトロは、今度は「イスラエルの全家(ぜんか)は」と言い、あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と語りました。「イスラエルの全家」とはイスラエルの全(すべ)ての家のことで、国外に滞在するユダヤ人を含めたユダヤ人をも対象として語りかけたのです。そして、神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、主とし、メシア(救い主、キリスト)とされたのです、と宣言しました。

  ペトロの説教は、ユダヤ人に対して、キリストの十字架と復活、昇天、聖霊降臨を、聖書の預言の成就であると説き、自分たちは主の復活の証人であることを述べ、イエスは天地の主であり、救い主(キリスト)である宣言したのです。

  「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(2・36)は、ペトロの説教の要約です。ペトロはこの説教で、「あなたがたはこのイエスを殺してしまったのです(23節)」、「あなたがたが殺したイエス(36節)」と、二度もイエスの殺害の責任をユダヤ人に帰しています。神の民であると自負するユダヤ人が神の子を拒否し、直接手を下さないまでもイエスを十字架に追いやった責任と罪に気付き、悔い改めるように迫っているのです。

 しかし、ペトロの説教はユダヤの罪を告発しただけではありませんでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉には、イスラエルの人々の罪を用いて救いのみ業を達成して下さった神様の恵みが示されています。罪が指摘されていると同時に、その救いと赦し、人間の罪に対する神様の恵みの勝利が宣言されているのです。神様の恵みが、人間の罪と死に既に打ち勝ち、それを滅ぼしてしまっていることを、ペトロの説教は告げているのです。

 ペトロが告げ知らせた福音は、ダビデ王の時代から、およそ一千年もの間イスラエルの民が待望して来た、イスラエルの民を救うメシアが、神の右に座し、世を支配する主となられたのです。神がイスラエルの始祖アブラハムに誓われた「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という約束が実現したのです。実に、紀元前二千年も前の、全人類を救う神の御計画が実現したのです。

 

 

 

 

  

 

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「聖霊降臨による教会創設と世界宣教」

2015-05-24 03:06:57 | 説教

                                     ↑  エル・グレコ 聖霊降臨 (Pentecostes) 1605-1610年頃        

                                    275×127cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

    日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」  (フィリピ4:6)

聖霊降臨節第1主日      2015年5月24日(日)    5時~5時50分                                         (聖霊降臨日)  

    礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  343(聖霊よ、降りて )

交読詩編     104(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    使徒行伝2章1~11節       

説 教   「聖霊降臨による教会創設と世界宣教」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  390(主は教会の基となり)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                     次週礼拝 5月31日(日)午後5時~5時50分

                     聖 書  使徒行伝2章14~36節

                     説 教   「教会の使信」  

                     讃美歌(21) 411 390 24

本日の聖書  使徒行伝2章1~11節

 1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

          本日の説教

  教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日です。使徒言行録二章によると、ユダヤ教の五旬祭(ペンテコステ)の日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が降り、初代教会が創設され、宣教活動が始まったと伝えられています。「ペンテコステ」という言葉は、もと「五十番目」を意味するギリシア語です。キリスト教の場合、主イエス・キリストの復活を祝うイースターから数えて五十日目にあたることから、この五旬節の日を、ペンテコステ(聖霊降臨祭)として祝うようになりました。今日がその聖霊降臨日に当たります。

  初代教会(原始教会)が五旬祭の日に創設されまで、五十日の準備の期間がありました。

  復活された日の夕方、イエスが、エルサレムで集まっている十一人の弟子とその仲間がいるところに現れて、次のように言われました。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名(メシア)によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたもの(聖霊)をあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカによる福音書24・46~49)

  復活したイエスは四十日にわたって彼らに現れ、こう命じられました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1・4~5)

  オリーブ山で昇天するときも、使徒たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサエムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・8)と言われました。

  イエスの昇天後、使徒たちはすぐに、最後の晩餐が行われた家と思われる、泊まっていた家の上の部屋に上がりました。(使徒言行録1・13)。十一使徒は、婦人たちや、イエスの母、兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていました。欠けたユダの代わりに、マティヤを使徒に選びました。その場所には百二十人ほどの人々が集まっていました(使徒言行録1・15)。

 このようにして、五十日間、主イエスが約束された聖霊の到来を待っていたことが、初代教会設立のための準備の期間となり、原動力となったのです。

  「五(ご)旬(じゅん)祭(さい)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2・1~4)

  ユダヤ教の五旬祭とは、春の祭りである「過越の祭り(ペサハ)」の安息日の翌日から数えて七週間目のその翌日、すなわち五十日目に祝われる「七週祭(シャーブオート)」(レビ記23・15~16、出エジプト記34・24)を、ギリシア語が共通語の時代に、ペンテコステ(五旬祭)と呼びました。この祭りはもともと初夏の小麦の収穫の初穂を神に捧げる日だったのですが、後期ユダヤ教時代(B.C.53世紀)になると、モーセがシナイ山で律法を授かったことを記念する日とされ、ユダヤ教の三大祝祭(過越祭、五旬祭、仮庵祭)の一つとして大切に守られていました。

 この五旬祭の日に、<一同>が一つになって集まっていました。<一同>とは、明らかでありませんが、最後の晩餐が行われた家で祈っていた人たちで、2・14に「すると、ペトロは十一人と共に立ち上がって」とあるので、マティヤが加わった十二使徒を示唆しているようです。

 すると突然、激しいが吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。そして、のようなが分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。

 使徒言行録を書いたルカは、聖霊降臨の出来事を象徴的に伝えようとしています。

 <><>は、神が現れたことを示します。<から聞こえ>の<天>は、主イエスが昇天しておられるところです。>は同義語の<霊>が降ったことを表し、<>は同義語の<言葉>を表しています。

 すると<一同は聖霊に満たされ>、<ほかの国々の言葉で>話しだしました。他の国々の人たちの<故郷の言葉>で話し出したのです(2・6,8,10)。

 聖霊は一同、一人一人に、異なった国々の言葉を語る賜物として与えられたのです。そして<神の偉大な業>について語り、神を賛美したのです。

  「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」( 2・5、6)

 <あらゆる国から帰って来たユダヤ人>とは、祭りを祝うために帰ってきた巡礼者達ではなく、もとは国外に離散していたユダヤ人が、現在は祖国に帰り、エルサレムに住んでいる人達です。エルサレムには外国生まれのユダヤ人たちや、ユダヤ教に改宗した異邦人たちが数多く住んでいました。エルサレムに住むこのような大勢の人が、この聖霊降臨の出来事の物音に集まって来ました。そしてだれもかれもが、自分たちが生まれた故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました。

「 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」(2・7、8) 人々は、ガリラヤ出身の使徒たちが、自分たちの生まれ故郷の言葉を話すのを聞いて驚いたのです。それは聖霊のなす奇跡でした。ペンテコステの日に見られたこの現象は、あくまでも聖霊降臨に伴う一つのしるしとして起こったものです。

 「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(2・9~11)

 これらの民族の地名は、ユダヤを中心にして東方から( パルティアメディアエラムメソポタミア)、北西へ(カパドキアポントスアジアフリギアパンフィリア)、またそこから南西へ(エジプトキレネリビア)円を描くように記され、その円から遠く離れた最果てにローマがあります。

 <クレタアラビアから来た者>は、西方の海洋民と東方の内陸民です。

  ペンテコステの日、エルサレムに住んでいた帰国者の出身国(当時、国外へ離散していたユダヤ人の数は4~5百万で、パレスチナに住むユダヤ人の数はわずか50万ほどでした。下線は、使徒2・9~11に出てくる地名。)

  当時、ユダヤを含むシリア地方、メソポタミアの共通語はアラム語でした。(アラム語はヘブライ語と同じ語族で、方言程度の差しかなく、イエスもアラム語(のガリラヤ地方方言)を話していたと推定されています。また、その他の地域、ヘレニズム世界では、古代ギリシ語(コイネー)が共通語でした。ユダヤやガリラヤもその影響を受けていました。しかし、聖霊降臨の時、使徒たちはこれらの共通語であるアラム語やギリシア語で話したのではなく、十五の地域の、それぞれの言葉で語ったと言うのです。十五の地域から来た人達は、自分たちの故郷の言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いたのは、全世界の人々がやがて、自分たちの国語で、イエスの福音を聞く日が来ることを、象徴する出来事でした。

彼らは<ユダヤ人>と<ユダヤ教への改宗者>です。バビロン捕囚やアレクサンダー大王の世界征服以来、世界各地に散らされていたユダヤ人の子孫や、ユダヤ教へ改宗した信心深い人達がエルサレムに移り住んでいたのです。

 使徒たちが、外国の言葉で賛美しているのを聞いた人達は、寛容的・好意的グループと、批判的・敵対的グループに分かれます。批判グループは、使徒たちが<新しいぶどう酒に酔っているのだ>と言い、この奇跡を泥酔だと判断しました。しかし、泥酔のような恍惚状態が、聖霊に満たされたからだと説明するのが、2・14以下のペトロの説教です。

 この聖霊降臨の物語は二つの意味をもっています。

  その一つは、主イエスが約束した聖霊がイエスに従う使徒たちに降ったということであり、この聖霊降臨によって、初代教会が設立したということです。この日、ペトロの説教の後、三千人ほどの人が洗礼を受け、仲間に加わり、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心は人たちの教会が誕生しました(使徒言行録2・41,42)。このように、キリストの御霊を受けて、キリストを頭とするキリストの体である教会が誕生が創設されたのです。(コロサイ書1・22、23)

  そして、もう一つは、聖霊降臨が世界宣教の発端となったということです。臆病だった弟子たちに、語るための力が与えられ、他国の言葉が与えられたことです。これはすべての国に福音が届けられることを示しています。弟子たちはキリストの福音を伝える使徒され、エルサレムに住むユダヤ人や改宗した異邦人に、聖霊に満たされて神の偉大な業を語ることから、世界宣教は始まったのです。

 私たちも、聖霊の力、すなわちキリストの御霊を受けて、復活の主の証人とされ、<偉大な救いの業>を宣べ伝え、キリストのからだなる教会をこの地に建てていく使命を与えられているのです。

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「キリストの昇天の意義/現在のキリスト教徒に欠けているもの」 

2015-05-16 00:46:30 | 説教

           レンブラント・ファン・レイン作の「キリストの昇天」

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

               日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」   (フィリピ4:6)

    復活節第7主日  2015年5月17日(日)   5時~5時50分 

礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  287(ナザレの村里 )

交読詩編     110(わが主に賜った主の御言葉)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    マタイによる福音書28章16~20節       

説 教   「キリストの昇天の意義」    辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  327(すべての民よ、よろこべ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                   次週礼拝 5月24日(日)聖霊降臨日 午後5時~5時50分

                                     聖 書  使徒言行録2章1~11節

                                     説 教   「聖霊の賜物」  

                                     讃美歌(21) 343  514  24

本日の聖書 マタイによる福音書28章16~20節

 16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 28:17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 28:18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 28:19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

   本日の説教

  復活したイエスが天に昇っていく<昇天>の場面を記しているのはルカによる福音書24・50~53と、福音書記者ルカが書いた使徒言行録1・9です。使徒言行録1・3には、復活したイエスが弟子たちに<四十日間にわたって現れた>後、昇天したと記されています。このルカの記述から、イエスが復活したイースターの日から数えて四十日目の木曜日を、昇天日と定めているのです、今年の教会暦では、5月14日(木)が昇天日です。日本の新教の教会では平日に礼拝を守ることが困難なので、次の週の日曜日ににあたる今日、昇天を記念して礼拝を守る教会が多いのです。次の日曜日は復活日から50日目(使徒言行録2・1)の聖霊降臨日(ペンテコステ)になります。

  昇天した場所については、ルカは、「救いの宣教はエルサレムから始まらなければならない」とする観点から、イエスが復活して現れた場所も、昇天した場所もエルサレム地域に限定しています(ルカ24・49)。昇天の場所とされている所は、エルサレム神殿の西にあるオリーブ山の頂上で、現在、昇天の塔と昇天教会が建っているところとされています。

 

       7がオリーブ山の山頂で、ロシア正教の高い塔と昇天教会とが建っています。1.ライオン門(ステパノ門) 2.ステパノ教会 3.ゲッセマネの教会(万国民教会) 
4.マグダラのマリア教会 5.涙の教会 6.主の祈りの教会 7.昇天教会 8.ラザロ教会 9.ラザロの墓 11.オリーブ山展望台 12.ベテファゲ修道院 13.ヘロデ門 14.糞門 。

    

ロシア正教会の昇天の塔(オリーブ山頂上)      昇天教会

                            (南東の山麓ベタニヤ側から見る。)

 【ルカ福音書以外の、他の福音書は昇天についてどのように扱っているのでしょう。マタイによる福音書では、復活したイエスが現れた場所も、宣教を命じた所も、イエスが福音を説き始めたガリラヤの地となっています。昇天の場所は宣教を命じたガリラヤの山が暗示されています。

 マルコによる福音書では、イエスが復活後に弟子たちに現れたことは記していませんが、ガリラヤで弟子たちとの会うことが、14・28、16・7が天使たちによって語られています。マルコ福音書ではイエスの昇天は記していませんが、長い付録16・9~20の中で、「天に上げられ、神の右の座に着かれた」という言葉があります。

 ヨハネ福音書では、マタイとルカの記事を合わせるように、宣教命令の場面はエルサレム、、ペトロと他の六人の使徒たちへに復活したイエスが現れるのはガリラヤになっています(ヨハネ21章)。昇天については記していませんが、12・32の「わたしは地上から<上げられるとき>」という言葉で、復活と昇天をひつにして表現しています。】

  「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイ28・16、17)

  イエスの葬られた墓を詣でた女たちは、天使から、復活したイエスは弟子たちとガリラヤで会うと弟子たちに告げました。この言葉を受けて弟子たちはガリラヤの指定させた山に行き、そこで復活したイエスに会いました。<十一人の弟子>とは、ユダが死んだので(27・5)、十二人の弟子の一人が欠けたことになっています。<ガリラヤ>は、マタイ4・15では、ガリラヤから広く異邦世界への福音伝道が展開すると語られ、イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始めたのもガリラヤの地です。マタイは、復活したイエスが弟子たちに会われ所を、ガリラヤの山としていますが、山は日常の世界から離れた重要な役割を果たしてきました。荒れ野の最後の誘惑(4・8)も、イエスが栄光の姿に変わった(17・1)のも、山上の説教(5・1)も、山で起こっています。十一人の弟子たちが、復活したイエスに会うように指示されたガリラヤの山は、山上の説教がなされた山と推定されています。

    

 1935年に建立された山上の説教教会。      眼下向こうに見えるのはガリラヤ湖。

   イエスに会い、疑ったのは十一人の中の数人ではなく、十一人すべてがイエスに<ひれ伏し>て礼拝しつつも疑ったと思われます。イエスの与える言葉とそれへの服従こそが「疑い」を克服するのです。イエスが今なお<あなたがたと共にいる>という言葉で、臨在しているのです。

 イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』」(マタイ28・18~20)

 この宣教命令の、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」という言葉は、マタイ福音書の中でも最も重要な言葉となっています。イエスは以前に、「すべてのことは、父からわたしに任されています」(11・27)と言われたことがあります。ここでは<天と地の一切の権能を授かっている>と宣言しています。天地を支配する権威を持つイエスとは「神の子」です。かつて悪魔は、荒れ野の誘惑で、悪魔にひれ伏すなら全世界の支配権を与えようと提案したことがあったが(マタイ4・8)、イエスはこれをきっぱりと拒否し、神のみに仕えることを選びました。その結果は十字架への道を歩むことになりましたが、十字架の死を通過することによって天地の支配権を、全能の父から委ねられたのです。メシアとしてのイエスは、死と復活を通して詩編110・1に預言されているように「神の右の座」に上げられたのです。こうして現在はイエスが天地を支配する時となったのです。

 イエスのもとへ行った弟子たちは、このイエスのもとから出発して全世界へ宣教するよう命じられました。この宣教命令の目標とするところは、「すべての民」であり、「すべての異邦人」です。

 生前のイエスの時代には、福音はイスラエルの民に限られて語られましたが、イスラエルが福音を拒否した今、異邦人へ伝えられる時代になりました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」の言葉で、弟子たちがイエスの働きの継承者となって、世界に福音を伝える使命を与えられたのです。

 マタイの宣教命令で、強調されているのは、異邦人たちを、イエスの教えられた倫理的命令に従う弟子としなければならないということです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とは、異邦人を、イエスが山上の説教で教えられたことを行う弟子としなさい、ということです。

 「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいという、<父と子と聖霊>という三位一体の言葉は新約聖書中ここにしかありません(似たような言葉は、コリント二、13・13にもあります)。すでに、イエスの洗礼記事(マタイ3・16-17)で、神と子と聖霊の三つのことが語られています。弟子たちがこれから施す洗礼は、イエス自身の受けた洗礼を一つの根拠にして、授けることになります。 

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・17)

  ルカによる福音書では、イエスについての最後の言葉は、「彼は、祝福しながら彼らを離れて、天に引き上げられた」(ルカ24:51)とあるように、イエスと弟子たちが離れてしまうことを語っています。ところがマタイではそれと対照的に、最後の言葉は、イエスがこれからも、いつも共にいることを約束しています。マタイによればイエスは常に信仰者と共にいるので、昇天という形で離れ去ることを語っていません。イエスがなおもインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」お方であるということを思い起させます。マタイ1・23で、インマヌエル預言の成就が、天使によって語られる場面では、誕生するイエスにおいて「神」が共にいるのですが、ここでは「イエス」が我々と共にいるのです。つまり神は、神の新しい民を導き、また保護するということの責任をまさにイエスに委任されたのです。

 「神であるイエス」の臨在する場所は、<あなたがた>の中であり、洗礼活動を通して伝道に励む信仰者の場(教会)が重視されています。

  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

  この約束は、前後の言葉から、福音を伝える弟子たち(宣教師)に向けられていますが、宣教師だけに限定されたものではなく、教会全体とそれを構成するすべての会衆のためのものでもあります。

  マタイ18・20の「二人または三人がわたしの名によって集まるところにには、わたしもその中にいるのである」というイエスのご臨在は、教会の中で、兄弟を忠告するときの審判と願いごとの時に約束されたものです。しかしここで約束されている臨在は、「教会に」イエスの権能を委ねて、世界の宣教を命じているのです。主イエスは、「世の終わりまで、いつも」教会と共におられるのです。

 「いつもあなたがたと共にいる」という約束は、聖霊が降ることによって現実のものとなりました。主の昇天は私たちに聖霊が遣わされるために必要なことでした(ヨハネ16・7)。

  聖霊降臨は、昇天の10日後に起こりますが、それは昇天に際してのキリストが弟子たちに約束したことが実現したのです(使徒言行録1・5)。この聖霊の力を受けることによって、弟子たち(教会)は、世界宣教を命じられたことが明確になりました。キリストの昇天は、このように、教会が世界への宣教の使命を自覚させられたことであり、それは聖霊降臨と結びつく出来事でした。

  使徒信条では、「天に昇り神の右に座したまえり」と、天に上ったキリストが神の右の座につくということが告白されています。天とは見えざる神のおられるところです。神の右の座とは、神に一番近い場所を意味します。永遠の昔から父なる神と共におられた主イエスは、罪と死に支配されている人間を救うため、人間となってこの世に来られ、全てのわざを成し遂げられ、再び、元おられた所に上げられ、帰えられたのです。キリストの昇天は、「私たちのために天への入口が開かれる」ためでした。私たちもいずれその時が来たならば、天の主の御許に迎えられるのです。

 主イエスは、また、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる(ローマ人への手紙8・34)」方です。私を罪ありと訴える者から弁護して下さり、また私たしの祈りを天の父に取り次いでくださるのです(ヨハネ16・23)。

  キリストの昇天後、天を見つめていた弟子たちのそばに天の御使いが現れて、彼らにキリストが再びこの地上に来られることを約束します(使徒1:10~11)。それは地上における神の国(神の支配)の完成であり、すなわち救いの完成を意味するのです。

 キリストの昇天は、罪のために死んでいたわたしたちを、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださるためでした(エフェソ2・6)。神は私たちを神の子とし、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者(コロサイ1・22)にしてくださったのです。

 今日のキリスト教徒は、単に信仰者というだけで、その行動において信仰が現実化されていないことです。生まれながらの性質では、主イエスの説いた山上の説教を実行することは出来ません。しかし、キリストの救いにあずかり、神にかたどって造られた新しい人とされ、聖霊に従って生きる者とされたキリスト教徒は、イエスの教えを守ることができるようにされています。上にあるものに心を留め、地上的なものに心を引かれず、真理に基づいた正しく清い生活を送り(エフェソ4・24)、日毎に新しくされて歩むことこそが、信仰者としての証しになるのです。このことが、現在のキリスト教徒に最も欠けているのではないでしょうか。

 

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「聖霊に導かれる信仰生活」

2015-05-10 18:40:10 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380                  FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」    (フィリピ4:6)

復活節第6主日   2015年5月10日(日)

仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝   2時40分~13時20分 

           礼   拝    

                         司会 櫻井 秀美兄 

前 奏               奏楽 松本 芳哉兄

讃美歌(21)  521( とらえたまえ、われらを)

交読詩編      86(主よ、わたしに耳を傾け)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節       

説 教  「聖霊に導かれる信仰生活」 辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  475(あめなるよろこび)

献 金                  

感謝祈祷                   武石 晃正兄

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷                     辺見宗邦牧師

後 奏 

   本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章16~26

 16わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 17肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 18しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 

◎ 礼拝後、食事の時間、茶室での呈茶、懇談があります。

 

                  次週礼拝 5月17日(日) 午後5時~5時50分

                   聖 書  マタイによる福音書28章16~20節

                   説 教   「キリストの昇天」

                   讃美歌(21)  287、327、24 

   本日の説教 「聖霊に導かれる信仰生活」

  キリスト教の救いとは、分かりやすく言うと、私たちが神の恵みのもとで罪から解放され、心の健康を回復し、神の前にまったき平安を得ることに他なりません。キリスト教の救いとは、この世の困難からの救い、この世の平穏・無事が主なのではありません。その根本的な救いとは、罪の奴隷であり、悪魔の支配下におり、死ぬ以外に道のない人間を、神があわれんで、罪から解放させ、神の支配下へ脱出させ、完全に自由にし、永遠の命を与える、これが真の救いなのです。

  キリスト教徒は、イエスはキリスト(救い主)であり、私たちの罪のために十字架につけられ、贖いの死を成し遂げられ、私たちが新しい命に生きることができるように、死者の中からの復活によって神の子と定められたキリストを信じるのです。

 パウロは、キリストの十字架の死を、罪を償う供え物となった贖いの業として記しているところもありますが(ローマ3・24)、主に、罪の支配力からの解放として語っています。キリストの出来事は、昔イスラエルがエジプトの支配から解放されたことの終末的な成就なのです。

  キリストの十字架の死と復活を信じ、天上にあって父なる神と共に、わたしたちのために執り成してくださっているキリストを信じ、その告白として水の洗礼(バプテスマ)を受け、教会の一員となります。洗礼によって、私たちはキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです(ローマ6・4)。キリストを救い主として信じたとき、神の御霊によって、人はキリストにつなぎ合わされます。キリストを信じた時、人の中に聖霊が宿り、聖霊が人の心の中に住みはじめます。こうして人は新しく生まれるのです。

  ガラテヤの教会の人たちが聖霊を受けたのは、律法を行ったからではなく、福音を聞いて信じたからでした。ところが、ふたたび、いろいろな律法の規定を守り、割礼を受けることを勧める人たちが出てきたのです。彼らが他の人たちに対して熱心なのは善意からではなく、自分たちに対して熱心にならせようとして、割礼を述べ伝えているのです。彼らは自分をひとかどの者だとうぬぼれて、誇っているのです。人からよく思われたがっている人たちです。彼らは肉について誇りたい人たちです。そこから、教会内で、愛によって互いに仕えるのではなく、うぬぼれたり、人を裁いたり、ねたみ合ったりする対立や生じたのです。

 「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(5・16)

  「わたしが言いたいのは」と言って、5章の13~15節で語ったことを、改めて説明します。キリスト者にとって、律法から解放され、与えられた「自由」を正しく行使し、「隣人愛の奉仕」に努めることは、取りも直さず、「聖霊」の導きに従って生活することにほかならない、とパウロは主張しているのです。「霊の導きに従って歩みなさい」とは、人間が「肉」すなわち、自己中心主義に生きる自分の支配を脱して、神中心主義の自分として生きるように、ということです。それはまた、究極的には聖霊の指導の下に生活することです。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるこようなことはありません。

 「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」(5・17)

 肉と霊の対立ということが書かれています。「肉」とは「肉体」のことではありません。この「肉」とは、人間として共通に持っている罪に傾く人間の性質を指しています。だれもが、この罪に傾く性質を持っています。私たちはそれなりに正しくあろうとする意志を持っているわけです。私たちは自分の意志の力をもってある程度、肉を押さえ込んでいるわけです。

  ここで言われている「霊」とは、人間の霊のことではなく、神の霊、聖霊のことです。肉と霊とが対立し合っているので、私たちの内には葛藤が生じます。それまで肉に従って喜んで行っていたことが苦しみとなり、悲しみとなってまいります。肉は支配力を失い、肉の望むところに反する聖霊が支配するようになるのです。パウロは神の霊を受けてはじめて、律法を欠けるところなく行おうとしている自分の人間本性がいかに深く神に反するものであるかを認識したのです。

  「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」(5・18)

  信仰により義とされ、霊に導かれているなら、律法から自由にされています。御霊によって歩むときには、律法が求めるところの、すなわち隣人を愛する力が内にあるので、外からの規則で縛る必要はなくなるのです。

 「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(5・21,22)

  パウロは肉の現れを具体的に描きます。最初の姦淫、わいせつ、好色の三つは、性的放縦です。性的欲求を満たすこと自体は罪ではありませんが、自己追及の本性によって、相手の立場や尊厳を無視することになると、御霊に反する肉の業になります。次の偶像礼拝は、人間を超える神々の力を自分の利益のために利用することであり、、魔術も霊的な能力を自分の都合の良いようにコントロールして利用することであり、どちらも、その宗教的行為は、人間本性に巣くう悪の業です。また、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみは、一般的な内面的な心の在り方が取り上げられています。そのような心の姿は、聖霊に反する卑しいもの、心から駆逐すべきものです。最後の泥酔、酒宴は、アルコール類を口にすること自体が禁じられているのではなく、飲食の欲望に身を委ねる放縦が非難されているのです。その他このたぐいのものとありますが、金銭欲等が挙げられます。

「以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(5・21)

 このような肉の働きに身を委ねるような生活をする者は神の国に入るようなことはありません。

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(5・22,23)

特に、肉については「肉の業」と言われていたのに対し、霊については「霊の結ぶ実」と語られています。実は私たちが作るべきものではなくて、《実る》ものです。喜び、以下、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の八つの項目は、が展開したものと見て良いと思います。私たちはこのような愛、このような良きものを備えた人となるようにと召されているということなのです。
 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(5・24,25)

 私たちは主イエス・キリストに救われました。神の子とされました。子は父の愛の中で育まれ、父が喜ぶこと、望むことを行おうとするのです。それが、霊の導きに従うということなのです。何故なら、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」とあるとおり、古き私は既に十字架の上で死んだからです。もちろん、時には自分の思いや自分の欲に引きずられることもあるでしょう。しかし私たちは、その一つ一つのステージを乗り越えていって、少しずつ少しずつキリストに似た者へと造り変えられ続けていく、そういう営みの中を歩む者とされているのです。

 「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(5・26)

 他のクリスチャンと自分を比べて虚栄に走ると、優越感を持って他の人に挑みかかるか、劣等感を抱いて他の人々をそねむかのどちらかとなります。うぬぼれ、ねたみは肉の働きによるものです。それらを十字架につけて葬り去り、聖霊の導きに従って歩みましょう。私たちはみなそれぞれが達しているところを基準として進むべきです。また、愛をもって互いに受け入れ合い、仕え合う者とならなければなりません。パウロは教会に見られる危険について、ガラテヤの信者たちに具体的な勧告をしたのです。

  キリスト者は聖霊の導かれる信仰生活をすると、御霊の実を結び始めます。これが聖化というものです。人それぞれ、その成長速度は違い、何度も失敗しているかもしれませんが、真のキリスト教徒は、必ず御霊によって成長して行くのです。霊の導きに従って、みんなで前進しましょう。そしてキリストの体である教会を一層堅固なものとし、世の光、地の塩としての使命を果たし、父・子・聖霊の神の栄光をほめたたえましょう。

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新しいイエスの戒め「互いに愛し合いなさい」

2015-05-03 19:15:14 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」   (フィリピ4:6)

 復活節第5主日  2015年5月3日(日)   5時~5時50分 

礼   拝    

              司会 永井 慎一兄

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  475( あめなるよろこび)

交読詩編      27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ヨハネによる福音書15章12~17節       

説 教   「イエスの新しい戒め・互いに愛し合いなさい」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  529(主よ、わが身を)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                 次週礼拝 5月10日(日) 午後1~3時 

                   仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝と

                    茶席での懇談

                   聖 書  ルカによる福音書7章1~10節

                   説 教   「信仰に報いる主イエス」  

                                    辺見 宗邦

本日の聖書 ヨハネによる福音書15章12~17節

 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

     本日の説教

 ヨハネによる福音書では、13章で、いわゆる最後の晩餐の場面が描かれます。しかし、ヨハネでは、聖餐が制定される過越の食事ではなく、過越の食事の前日のものであり、夕食の席に着く前に、イエスが<弟子たちの足を洗う>、「洗足」の記事があります。夕食中に、<ユダの裏切りの予告>があり、ユダが出ていくと、<新しい掟>を与えられ、そして、<ペトロの離反の予告>がなされます。

 13章から17章で、イエスは、逮捕と受難の直前に、あとに残される弟子たちに対して、奉仕の模範を示し、さらに、訣別説教を語ります。

 13章31節~35節から、イエスの訣別説教あるいは告別説教が始まります。この部分は訣別説教の重要な主題を呈示しています。一つは、イエスの栄光であり、今一つは、愛による共同体形成です。訣別説教は、14章以下で本格的に展開されていきます。

 13章34節~35節で、イエスは、地上に残される弟子たちに、新しい掟を与えます。「互いに愛し合いなさい」という愛の掟です。ヨハネ福音書が説く愛は、<敵をも愛する愛>ではなく、共同体内における兄弟愛の実践です。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34~35)

 この言葉を受けて、今日の聖書の言葉が続きます。イエスは再び、愛の掟を弟子たちに命じます。イエスがお与えになった新しい掟とは、互いに愛し合うことでした。イエスがこの掟に大きな重要性をおいたことは、イエスがこの掟について同じ夜にさらに二度繰り返したことによってわかります。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・12~13)

  イエス・キリストは私たちに互いに愛し合うように命じられました。イエスが私たちを愛されたと同様に愛しなさい、と命じています。

<  わたしがあなたがたを愛したように>の句は、この愛の根拠と現実性をあらわしています。隣人愛は、イエスの愛を知った者、主にならい、主に従おうとする者がまず兄弟を愛するということから展開され実現されると言えます。また<互いに愛し合う>兄弟愛の交わり、<隣人への愛>も現実化されていくのです。

  13節の<友のために自分の命を捨てる>と言う言葉は、おそらく古代世界に流布していて、格言化したものであったと考えられます。「愛の最上のしるしは、友人のために命を捨てることである。」この言葉は、キリスト教以外の古代世界においても、他者のために死ぬことは愛の最高のしるしでした。しかし、福音記者は、<友のために自分の命を捨てること>という言葉によって、一般的に最大の愛について語っているのではなく、間接的にイエスの十字架の贖いの死を指し示す言葉として用いています。

  「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と主イエスは告げられました。ギリシャ語原文に近い英語訳は、Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.です。新改訳聖書では、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていません。」とあり、よりギリシャ語原文に近い訳となっています。ここでの主イエスの言い方は、これより大きな愛を持っている人はいないという言い方なのです。主イエスがここで告げられているのは、御自身の十字架を前提としているのです。私共の中に愛はない。とすれば、私共はこの愛を願い求めるしかないではないですか。それが16節後半の「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」との御言葉につながるのです。愛のない私共が十字架の主イエスの前に立って「互いに愛し合いなさい。」との御言葉を聞く時、私共は「愛を与えてください。」と祈り願わざるを得ない。その願いを父なる神様は必ずかなえてくださるのです。そう主イエスが約束してくださったのです。そのようなイエスの愛にとどまり、愛の掟を守ることによって、弟子たちはイエスの<友>と呼ばれるのです。

  「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15・14~15)

  旧約聖書ではアブラハムが、神から選ばれたという理由で「神の友」と呼ばれています(イザヤ書41・8)。ここでは、イエスと弟子たちの愛による一体性から、弟子がイエスの<友>と呼ばれるのです。続いて、弟子たちがなぜイエスの友と呼ばれるのか、その根拠が示されます。イエスと弟子たちは、もはや、主人と僕(奴隷)の関係ではあり得ません。僕は、主人の意図も行動も知らないが、弟子たちはそのことを知っています。特に、ここでは、聖霊に導かれて、イエスの人格と言葉と業のすべてを知り、イエスの愛を共同体内に体現している弟子たちは、イエスと一体であり、その意味で、イエスの友なのです。

  「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 (ヨハネ15・16~17)

  主イエスが弟子たちを使徒として任命し使命を与えています。主が選び任命し遣わされるゆえに、弟子たちは出かけて行って実を結ぶべきであり、実を結ぶことが約束されています。選びの主体は、常に、イエスの側にあるのであり、そこにおいて、イエスの主権と神聖が啓示されます。<実を結ぶ>と言う比喩的表現で世界への伝道が述べられています。明らかに、ここでは、弟子たちの伝道の業と礼拝が言及されています。

 使命を与えたもう主によって弟子たちはイエスの名によって祈ることができます。その祈りは父が必ずかなえてくださるのです。イエスの名によって祈るとき、父なる神はその業を継続し達成するのに必要なすべての祝福を与えてくださるのです。

「互いに愛し合いなさい」という兄弟愛はイエスの愛に根拠づけられています。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と、エフェソの信徒への手紙第5章2節にあります。

 私たちがこのことを奴隷のようにではなく選ばれた友、任命され遣わされゆく使徒として受けとめる時、これはまことに重いけえども喜ばしい主の命令となります。「たがいに愛し合いなさい」(12節)という<わたしの掟>は最後にもう一度繰り返され、「これがわたしの命令である」と結ばれます。

ヨハネによる福音書第13章34節で、イエスは互いに愛することを新しい掟とみなしました。イエスはなぜそれを新しい掟としたのか、ということです。互いに愛することは、それより何千年も前に、レビ記に愛についての掟が書かれています。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」レビ記第19章18節

  なぜイエスは新しい掟としたのでしょうか。その理由は、愛することは律法で命じられていましたが、それまでは守ることは不可能だったからでした。愛は新しい性質が結ぶ実であるからです(ガラテヤの信徒への手紙第5章22節)。つまり、新しい性質とは、新しく生まれていただいたもの、また聖書の言う「新しい人」(エフェソの信徒への手紙第4章24節)であり、また、「霊」です(ガラテヤの信徒への手紙第5章5節から25節)。愛には新しく生み出された新しい性質が必要で、その性質がなければ、愛することはできませんでした。ですから、人々は隣人を愛するように命じられましたが、実際にはそれを守ることはできませんでした。しかしながら、聖霊の降った五旬祭の日から後、イエスが主であることを告白し、神がイエスを死からよみがえらせたことを心から信じるなら、その人は新しい性質を得ることができるのです。それで、愛することもできるようになります。こういう理由で、イエスは互いに愛し合うことを新しい掟だと言ったのです。互いを愛することは、以前にも命じられていたのですから、新しいことではないのですが、しかし後に(五旬祭の日から)、新しい性質によってそれを守ることが可能となったのです。

  実は、互いを愛するということ以外にも、新しい性質が欠けているために、守ることができなかった律法がありました。ローマの信徒への手紙第8章3節では、肉の弱さ[古い性質]のために律法がなしえないことがあると述べています。律法そのものに問題があるのではありません。ローマの信徒への手紙第7章12節は、律法は「聖であり、正しく、そして善いもの」と述べています。しかしながら、律法を守る術がなく、守れない理由は新しい性質がなかったからです。ローマの信徒への手紙第7章14節は、「律法が霊的なもの」であるが、その対象は「肉の人、罪に売り渡されている」と語っています。ですから、人々は律法を守れませんでした。しかしながら、新しい性質を得ることが可能になってからは、その性質を持っていれば愛することが出来るようになりました。そして、愛することで自動的に律法を全うしていることになります。ローマの信徒への手紙第13章8節から10節はこう語ります。

  「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」

  またガラテヤの信徒への手紙第5章13節から14節には、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」、とあります。

  私たちは出かけて行って実を結ぶことを求められているのです。互いに愛し合う交わりを形作るということです。それは具体的に、夫婦、親子、友人、同僚、地域の人たちとの関係を、「互いに愛し合う」交わりにしていく責任が私共にはあるということです。そのために私共は選ばれたからです。すべての必要なものを父なる神が与えてくださることを信じるゆえに、私たちは祈りつつ、遣わされていくのです。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(ヨハネの手紙一、5・14)

 

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