富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「夕べ(就寝前)の祈り」 詩編4篇1-9節

2021-09-30 22:53:47 | キリスト教

      「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、わたしをやすらかに(眠らせ)住まわせてくださるのです。」詩篇4:8(9)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第20主日 2021年10月3日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 220(日かげしずかに)

交読詩編    4(呼び求めるわたしに答えてください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編4篇1-9節(旧p.836) 

説  教      「夕べの祈り」     辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

           次週礼拝 10月10日(日)午後5時~5時50分 

           聖 書 詩編6編1-11節

           説教題  「主の慈しみによる魂の救い」

           讃美歌(21) 474 441 27 交読詩編 5   

  本日の聖書 詩編4編1-13節

   4:1【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】
2呼び求めるわたしに答えてください。                     わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください。   憐れんで、祈りを聞いてください。
3人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。
むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ
4主の慈しみに生きる人を主は見分けて、                呼び求める声を聞いてくださると知れ。
5おののいて罪を離れよ。                             横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。〔セラ
6ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。
7恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。           主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
8人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。                    それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください。
9平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。                         主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。

      本日の説教

 【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】(4:1)

 この音楽に関する表題は後世の人がつけたもので、神殿の祭儀のときに音楽として歌うための指示を与えています。指揮者に伴奏楽器や曲を指示するもののようです。これをダビデの作と断定する必要はないようです。この詩は救いを求める個人の祈りであり、信頼の祈りです。9節にちなんで「夕べの歌」と呼ばれています。一日の終わりに際して床の上でささげる祈りにふさわしい内容です。

「呼び求めるわたしに答えてください。わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。」(4:2)

 <呼び求めるわたしに答えてください>ということばは、祈る者が苦難から解き放たれることを願っているのです。友人たちの非難にによっていたく傷つけられています。この詩が示す具体的な状況を見きわめることは不可能ですが、この祈りの響きは嘆きというよりも信頼に満ちています。詩人は主を「わたしの正しさを認めてくださる神よ」と呼んでいます。預言者イザヤも同じような言葉を述べています。「わたしの正しさを認める方は近くにいます。・・・誰がわたしを罪に定めえよう。」(イザヤ50:8-9)頼るべき正しさを、自分にではなく、神に置いている者であることを言い表しているのです。その信頼をもって神に訴え、助けてくださるようにと願っています。

 「人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ」(4:3)

 <人の子らよ>と言われているのは、反抗する友人たちのことです。この詩人は、自分にとって絶対確実なものとして置かれている信仰体験を確信することによって、侮辱を加えた人々を叱責しています。彼の個人的な体験の背後に神自身が立っていることを知っているのです。したがって、作者を中傷し、彼についてデマを広めている者は、単に彼の人間的な名誉を踏みにじっているだけでなく、間接的に、彼の背後に立つ神をも踏みにじっていることになるのです。彼の名誉とは、彼の信仰にほかなりません。〔セラ〕は小休止を意味していて、しばらく祈りを中止し、応答の讃美歌に移るための備えとしたのかも知れません。

 「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。」(4:4)

 友人たちがこの真相を知ったならば、彼らの非難と疑いがいかにむなしいものであるかを思い知るに違いありません。

そのためにこの詩の作者は、彼らの目が開かれて、目に見える苦難から目に見えない救い主の方に彼らのまなざしが転じることを望んでいます。彼自身も、くすしき導きによってそのような救い主に出会い、いくたびも祈りを聞かれることによって神を経験してきたからです。 詩の言葉は、詩人が神に向けてなした訴えがすでに答えられている、という事実をほのめかしています。

「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語りそして沈黙に入れ。〔セラ」(4:5)

神が信仰者をご自身のものと認めておられるという現実の前に、彼を非難する友人たちに、おののきと畏れをもって神の前に立つことを促し、偽りの言葉によって罪を犯すことを止めるよう勧告します。

「ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。」(4:6)

そこで作者は、友人たちに、ふさわしい献げ物を携え、神に信頼をおき、そして自分を義なる神に献げる証しとして、隣人への悪意を捨てるように勧告します。大切なのは、彼にとっても、神に対するおそれと信頼という心の姿勢なのです。正道を踏みはずした友人たちも、悔い改めによって再びこのような信頼を取り戻し、立ち直ることができるように、作者は力を尽くしているのです。

「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。」(4:7)

作者は自分のまわりにいる多くの人々が苦難と誘惑にさらされて、「恵みを示す者があろうか」という神に対する問いが彼らの口から出るとき、作者は同じ人間として彼らの気持ちを思いやり、彼はアロンの祝福のことばからとった祭司の祈願を唱えます。「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」と祈ります。その際に彼は、外的な苦難が除かれることだけを願っているのではありません。彼は「幸福をふたたび見せて下さい」と祈っていません。彼にとって決定的なのは、神の本質がふたたび啓示されることであり、神自身があらわれて、さまよう人々を正しい道に導き、この祈り手自身があらゆる不幸にもかかわらず心のうちに保ってきた神への喜びに、彼らをも至らせてくれることなのです。この神への喜びこそ、彼にとっては、ありとあらゆる地上の宝にもまさる価値をもつのです。なぜならこの喜びは、地上の宝では喜びを得られない場合でも、彼を喜びのうちに保ってくれるからです。

「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください。」(4:8)

人々は、<麦とぶどう>ワインの豊かな収穫を喜びます。人は収穫が豊かであったか無かったかで一喜一憂し、そのはかりで幸福を計りやすい。しかしそのような生き方は常に不安と動揺の内にあります。詩人は飲食に飽き足りることで得られる喜びよりも遥かに大きな喜びを、わたしの心にお与えくだい、と祈っています。詩人の心が神に受け入れられ、神の平和にまもられている喜びを求めているのです。詩人はその喜びを味わているのです。神の平和に守られている信仰者の心の内には、圧倒的な静けさと確信が与えられています。人間同士の対立や外から来る苦難に直面しても、心の拠り所を失うことなく、常に困難な状況を克服していくことができます。それは、そのこころが神によって支えられているからです。詩人は神を信頼をしているのです。

信仰者に与えられる賜物はどんな物にも代えがたいものです。使徒パウロは、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を・・・塵あくたと見なしています」(フィリピ3:8)と言っています。

「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。」(4:9)

祈りは詩人の恵みの経験を高らかに宣べて締めくくられます。祈り手はこのような心の喜びを与えて下さった神に、感謝し、主を仰ぎつつ、神の平和のうちに身を横たえ、眠りにつきます。

結びの信頼の表明は単に個人的なレベルの安心を越えています。何度も強調され「あなたこそ、ヤ-ウェよ、ただひとり、安全にわたしを住まわせてくださる」となっています。

神の恵みの賜物は平安と、神との全き関係、自分自身との全き関係、そして他者との全き関係をもたらします。自分自身を責めることもなくなるのです。詩人は神にある平安に満たされているのです。眠れない夜は続くことはなくなるのです。主は安らかな眠りを与えてくださるだけでなく、翌朝、目が覚めても、主の平和のうちに、住まわせてくださるのです。主の平和は、一時的なものではなく、継続するのです。

この詩編の力強さは、こうした静けさと確信のうちにひそんでいるのですが、この力は自分だけの所有として終わることなく、友人たちとともに神を仰ぎ見ることによって、友人たちをその現在の葛藤の中から導き出し、真の悔い改めを通して神の平和と神への新たな喜びに至る道をさし示すことができるのです。

この詩編9節のすばらしいみ言葉は、わたしたちが眠りにつく時、安らぎの歌となります。

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「主よ、朝毎に聞いて下さい。」 詩編5編1-13節

2021-09-27 00:21:35 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第19主日  2021年9月26日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 210(来る朝ごとに)

交読詩編    5(主よ、わたしの言葉に耳を傾け)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編5編1-13節(旧p.837) 

説  教   「主よ、朝毎に聞いて下さい。」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 496(しずけき夕べの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

                                     次週礼拝 9月26日(日)午後5時~5時50分 

                                     聖 書 詩編4編1-9節

                                     説教題  「夕べの祈り」

                                     讃美歌(21) 220 214 27 交読詩編4編    

本日の聖書 詩編5編1-13節

5:1【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩】
2主よ、わたしの言葉に耳を傾けつぶやきを聞き分けてください。
3わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。
4主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとにわたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。
5あなたは、決して、逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず
6誇り高い者は御目に向かって立つことができず悪を行う者はすべて憎まれます。
7主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし、流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。
8しかしわたしは、深い慈しみをいただいて、あなたの家に入り聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います。
9主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。
10彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで喉は開いた墓、腹は滅びの淵。
11神よ、彼らを罪に定め、そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。
12あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。
13主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。

     本日の説教

 「指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩」(5:1)

 表題は「笛(フルート)」を伴奏楽器として用いるように指揮者に指示しています。この詩は朝(4節)、神殿で唱えられたものと考えられます(8節)。「賛歌。ダビデの詩」とあるが、書かれた年代も不明であり、この詩の作者はダビデ王の作とは言えません。この詩全体から見て作者は、「神を信じない者たち」のグループに圧迫されていた「神を信ずる者たち」の信仰者のグループに属すると思われます。そこでは信仰者の命が偽りの力によっておびやかされています。

作者は「神を信じない者たち」の陰謀にたいして神殿で(3節)、神の決定を求め(11節)、神の庇護を願っています(12-13節)。正義の最終的な施行者である神に訴えるために、その最後の避けどころとしての神殿でこの歌は歌われたのでしょう。この詩に描き出された苦境は、エレミヤと主イエス、バビロン捕囚期以後のイスラエルと初期のキリスト者たちを思い起させるものです。

詩編5編の構造は、2-4節:呼びかけと訴えの祈り。5-7節:信頼と告白、8-9節:神の前での自分の状況と救いを求める第一の個人的な願い。10-11節:敵の絶滅を求める願い、救いを求める第二の訴え。12-13節:救いを求める第三の訴え。信頼と讃美となっています。

 「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。」(5:2)

詩人はまず「主よ」と神へ呼びかけ、「わたしの言葉に耳を傾け、言葉にならない「つぶやき」を聞き分けてください、と嘆願します。祈り手は、彼のことばと「叫び」(3節)を神が彼の「心のおもい」を見きわめて、彼の考えを「分かって」下さることを求めています。

「わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。」(5:3)

詩人は神を呼ぶのに「わたしの王、わたしの神よ」と訴えています。祈る者らの王であり神であるイスラエルの神に直訴しています。この訴えの祈りは、王の職務に属する事、そして王の支配と統治に密接にかかわる事柄であることを示すためのものです。この呼びかけは、作者が神の最終的決定を呼び求めて、「叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈りますから」と嘆願しています。

「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとにわたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。」(5:4)

 詩人は「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください」と主の御前に出て訴えます。訴えは、王の意向に沿うに違いないとの確信のもとに朝の祈りの間になされます。二度も「朝ごと」と繰り返しています。彼は毎朝、神殿で主の前に訴え、祈り、主を仰ぎ望んでいます。

 「(なぜなら)あなたは、決して、逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず(5節)、誇り高い者は御目に向かって立つことができず、悪を行う者はすべて憎まれます。」(5:5-6)

 それゆえ詩人は、「王は逆らう者を喜ばれない」と王の意向を述べます。そして逆らう者を強調するために悪人の五つの特徴を述べます。「悪人は御もとに宿ることは許されない」と言います。さらに、「誇り高い者は、主の御前に向かって立つことができず」、「悪を行う者はすべて」、主に憎まれると言います。

「主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし、流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。」(5:7)

主よ、あなたは「偽って語る者」を滅ぼし、「流血の罪を犯す者」、「欺く者」を忌み嫌われる。

「しかしわたしは、深い慈しみをいただいて、あなたの家に入り聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います。」(5:8)

8節で、訴える者は訴えをなす二つ目の根拠として自身の王への忠誠を言い表します。詩人は神の変わることのない愛(慈しみ)により頼んで、聖なる神殿の内で王の面前にまかり出て、神のみ旨と御力に服し、畏れ敬うのです。

「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。」(5:9)

今こそはじめて、作者は自分の願いを心置きなく述べることが出来ます。これまで述べてきたことはすべて、正しい心の姿勢を準備するためでした。いよいよ救いを求める具体的な訴えが9節以下でなされます。まず彼は神の導きを求め、神の御前における彼の歩みを確かなものにしようとします。 ここでの訴えの言葉は正しき道の確立を求めるというよりは、救いの道を求めるものといった方が良いものです。「導いてください。まっすぐにあなたの道を歩ませてください」とは、神の摂理によるみ守りを乞うものであり、他の滅びの道から救い出され、神御自身の道筋の内に生きることを求める祈りです。訴えは神の「義(ただ)しき」御業を願い求めています。神の義しさとは、人々の生命、そしてそれに関するもろもろの事柄を正す神のみこころ、あるいは御力を意味します。神の助けは、「陥れようとする者」の存在するために、どうしても必要なのです。

「(なぜなら)彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで、喉は開いた墓、腹は滅びの淵。」(5:10)

10節には敵たちの特徴が描写されています。彼らの振舞いが、口、舌、喉、腹ということばを用いて描かれています。詩人に向かって彼らが言う事は事実無根であり、虚偽であり、死臭が漂い、破滅的です。「敵」どもは殺意をもって嘘をつくのです。

「神よ、彼らを罪に定め、そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。」(5:11)

救いを求める第二の訴えは、神に背く者に関してなされます。なぜなら彼らは、偽証者たちと同じように王なる神の喜びにわざと逆らうからです。詩人は主に向かって、誰が真の罪人なのかを明らかにすると共に、詩人への悪だくみゆえに、神の国からこれらの嘘つき達が完全に取り除かれることを求める訴えをしています。

「(なぜなら)あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。」(5:12)

救いを求める第三の訴え(12-13節)は、王なる神のこれまでとは別の在り方を私たちに知らせます。王なる神は正しい者を祝福し、み恵みを与えて守られる方なのです。それゆえ、罪なき者達がみ守りの中に置かれ、一方で嘘つきが白日のもとに引き出され、叱責される時に、主の御支配は明らかとなります。

「主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」(5:13)

 主を愛する者達、主を避けどころとする者達には、彼らの王なる神を喜び賛美する新たなる礎が与えられます。詩人は最後に、「主に従う人を祝福し、主のみ旨のままに、盾となってお守りください」との祈りを捧げます。人間の争いの苦境と重圧の中から解放され、詩人はゆったりと自由な神への信頼と愛に高められていきます。神の光明が彼を満たします。

この詩は、私たちを神の御支配を信じる祈りへと導いていきます。悪人は退けられ、義人は受け入れられるのです。義人とは、神を愛し、神に信頼し、神に依り頼む者のことであり、そして神の道に導かれることを欲する者のことです。

 この詩は敵を前にして祈る者の具体的な祈りが捧げられています。けれども、旧約聖書のある箇所で(イザヤ書53章:「苦難の僕による救い」等)、また、メシア・主イエスの生涯において、神は他の取るべき道のあることも示しておられます。主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えています。そうなると、恐るべき悪に対して神のご支配が現れることを願い求める祈りの仕方も異なったものとなってきます。しかし正義を愛し悪を憎む神の基本姿勢は変わることなく首尾一貫しています。キリストの十字架による赦しと救いは、わたしたちを含めてすべての人々に与えられています。審判は、神の最後の時の審(さばき)に委ねることが求められているのです。

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「わたしは山々を仰ぐ」 詩編121篇1-8節

2021-09-16 23:13:46 | キリスト教

      ↑ 中央の山の上部に見えるのが城壁に囲まれたエルサレム神殿です。古い時代の絵のようです。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第18主日  2021年9月19日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)

交読詩編  121(目を上げて、わたしは山々を仰ぐ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編121篇1-8節(旧p.986) 

説  教    「わたしは山々を仰ぐ」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

聖餐式             7  8    (わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

             次週礼拝 9月26日(日)午後5時~5時50分    

             聖 書 詩編5編1-13節

             説教題  「主よ、朝ごとに聞いてください」

             讃美歌(21) 210 496 27 交読詩編 5    

本日の聖書 詩編121篇1-8節

 1都に上る歌。

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

わたしの助けはどこから来るのか。

2わたしの助けは来る

天地を造られた主のもとから。

3どうか、主があなたを助けて

足がよろめかないようにし

まどろむことなく見守ってくださるように。

4見よ、イスラエルを見守る方は

まどろむことなく、眠ることもない。

5主はあなたを見守る方

あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

6昼、太陽はあなたを撃つことがなく

夜、月もあなたを撃つことがない。

7主がすべての災いを遠ざけて

あなたを見守り

あなたの魂を見守ってくださるように。

8あなたの出で立つのも帰るのも

主が見守ってくださるように。

今も、そしてとこしえに。

     本日の説教

 1節の「都に上る歌」という表題は、毎年エルサレムで行われる三大祝祭への巡礼の旅の歌です。この詩編は巡礼の旅においてか、あるいは祭りの間の行進において巡礼者たちが用いるためのものです。この歌は、すでにあった作品をその目的のために改変が加えられて編纂された印象を与えています。一般の信徒である巡礼者たちは、過去における見守りを主に感謝し、現在と未来における主の助けを祈り求め、またそれに信頼したのです。

詩編121篇は、詩篇120~130編の「都に上る歌」の中の第二番目のものです。この歌は人生の旅路、そして人生そのものを支える信頼について語っています。

この詩は二人の人物、すなわち出発をする巡礼者と送り出す隣人の歌とも思われます。また、会衆と祭司が交互に唱える祭儀用典礼歌で、祭司が民の上に神の加護を祈る詞とも思われます。詩全体は問答による効果を出すたに、一人の巡礼者か、あるいは一つの集団によって語られたものと思われます

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか(1節)。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから(2節)。」

この詩は、1-2節の導入で主題を掲げ、3-8節で、その主題を展開しています。導入部では、「わたしの助け」という一人称の文体で構成されています。残りの3-8節の部分は「あなた」という二人称単数形の呼びかけの文体を用いており、「見守る」ということばが六回くりかえされています。「わたしの助けは主から来る」という信仰の告白の主題が、一連の「主はあなたを見守る方」という確証によって展開されるのです。

1節の「山々を仰ぐ」とはおそらく、山賊たちのいる危険な場所なので、そのような場所に目を上げるという動作は不安の表現であり、その不安を取り除く必要を2節の「助けは主から来る」で答えたのです。

もう一つのより適切な解釈は、巡礼者たちがエルサレムへ近づき、シオンが山地に位置していることから、「山々」をエルサレムを取り巻く山々と理解する解釈です。

オリーブ山頂上(丘陵・標高825m)から、エルサレムを見た写真です。画面右上部には神殿のあるシオンの山(丘陵:標高765m)の城壁の一部が見えます。

    右の方に城壁に囲まれた神殿領域が見えます。上の方はエルサレムを取り囲む山々です。

「目を上げて仰ぐ」という動作は、聖なる山であるシオンの聖所から、主が助けをもって答えてくださることを求めてなされる、「訴え」の動作なのです。

「山々」の原語、「へハーリム」は、「ハール」の複数形に定冠詞がついた語です。ヘブライ語では、山も丘も「ハール」が用いられます。詩篇121編の「へハーリム」は、英語版の聖書では、「mountains山々」と訳しているものと、「hills丘(複数形)」と訳しているものと両方あります。詩篇121編の「山々」は標高の高い山々ではありません。山というより丘なのです。オリーブ山には、緑の木々がありますが、エルサレムの周囲の山々は、ほとんどが赤茶けた岩だらけの山です。

1節後半にある問いは、続く2節の「わたしの助けは天地を造られた主の元から来る」という宣言を引き立てる巧みな表現として読むことができます。

 「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように(3節)。見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない(4節)。」

この3節は、1-2節の「わたしの助け」を受けて、「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように」と神が不幸から守り、生命を守ってくださるように、励まし、神の加護を祈ります。

主なる神の守りは、イスラエルの民の歩みが<よろめかないように>すなわち、主の道からそれないように、という祈りなのです。

4節は「まどろむ」が主題です。「見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない」は一層明確な神への信頼の基礎を告げます。預言者エリヤが嘲笑して、「バアルは、おそらく眠っていて、起してもらはなければならないのだろう」(列王記上18:27)と言った、異教の偶像たちが眠る時にも、主なる神(ヤーウェ)は眠ることなく、ヤーウェの助けは常に民と共にあることを強調しています。

わたしの助けは、山々をも創造された、天地万物の創造者である主なる神のもとから来ると神への信頼を表明します。

確かに見守ってくれるものを求めて目を山々に向けるイスラエルに、山々を超越する神、天地の創造主、全能の神を求めて目を上げることを教えます。巡礼のイスラエル(共同体)とイスラエルのすべての巡礼者(個々人)が、全世界の主権者に助けと祝福を求めて頼ることができるということを語っているのです。また、旅を続ける勇気を巡礼者に与えるのは、天地の造り主の助けに他ならないことを、述べているのです。

 「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方(5節)。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない(6節)。」

 5節は、神への全き信頼と安心を伝えます。中東の太陽は、その熱から<隠れることができるものはない>(詩篇19:7)ほどの強い熱と光ですべてを撃ちます。夜の月は近世まで人を撃って病気にするという神話的な考え方が背後にありました。主はあなたを見守る方であり、主は太陽の高熱と病をもたらすとされる月の光をさえぎる陰となってあなたを見守てくださる方です。あなたの右に立って守ってくださる方です(詩109:31)。

 6節は、神の守りがあるので、巡礼者は太陽の光と月の危険を恐れる必要はないことを言います。

 この詩の「足がよろめかないように」(3節)と「出で立つのも帰るのも」(8節)という表現は、明らかに旅を表現しています。この詩の中心部をなす5-6節は、夜と昼を旅先で過ごしている者の守りを告げる中心となっています。

 「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように(7節)。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに(8節)。」

7節と8節は「すべての災い」、「あなたの魂」、「出で立つのも帰るのも」、「今も、とこしえに」という包括的な表現から成っている全体の結びです。

あなたは「行くにも来るにも」神の守りの下にある。神はあらゆる危険の中で、あなたを不幸から守り、生命を守られる。あなたがどこにあっても、「今からとこしえまで守ってくださるように」、人生の始めと終わりまで、と祈りをささげます。<出で立つのも帰るのも>、すなわち出るー入るという歩みによって表現される人生の道のすべての時に及びます。「あなたの魂を見守ってくださるように」とは、この地上の生涯における守りだけではなく、天国への旅も守ってくさるのです。

詩編121篇を教会が用いるうちに、この詩を、イエス・キリストを通して現わされる神の摂理の証しとして、理解するようになりました。主イエスは、神が私たちと共にいることを証しする、インマヌエルの方であります。主イエスは、すべてを委ねて主を信頼する者にとっての魂の牧者であり、監督者となられたのです(ペトロ一2:25、フィリピ4:27)。

教会はこの詩を用いるうちに、イエス・キリストによって与えられる神の助けと守りとして理解するようになったのです。

使徒信条の、天地の造り主、全能の父なる神を信じるということは、「この方(神)が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間を歩むとも、いかなる災いを受けたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神であられ、そのことがおできになるばかりか、真実な父として、そうすることを望んでおられるからです。私たちが逆境においては忍耐強く、順境において感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じるのです。

わたしたちも、周囲の山々や、富士山などの名峰を見るとき、山は天に近く、神に近い所としてとらえるのでなく、また山をご神体として自然崇拝をするのでもなく、日本の美しい山々も、パレスチナの緑の木々もない赤茶けた岩だらけの山々も、神の創造になるものであり、助けは神からのみくるのであるから、山を越えて、神に向かって目を上げましょう。そしてこの詩編のように、深い落ち着きをもって神を信頼し、創造主にして救い主である神の御手の中に生かされ、守られていることを覚え、感謝いたしましょう。

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「愛による解決―偶像に供えられた肉」 コリントの信徒への手紙一8章1-13

2021-09-12 02:41:22 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

聖霊降臨節第17主日 2021年9月12日(日)    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                     礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  16(われらの主こそは)

交読詩編   73(神はイスラエルに対して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一8章1-13(新p.309) 

説  教 「愛による解決―偶像に供えられた肉」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                                             次週礼拝 9月19日(日)午後5時~5時50分    

                                             聖 書 詩編121篇1-8節

                                             説教題  「わたしは山々を仰ぐ」

                                             讃美歌(21) 521 155 27 交読詩編 121

    本日の聖書 コリントの信徒への手紙一8章7-13

 8:1偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 2自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 3しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。 4そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 5現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、 6わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

7しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。 8わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。 9ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 10知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。 11そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。 12このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 13それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 本日の説教

パウロは、8章1-13で、コリントの信徒の人々からの手紙で質問された問題で、「偶像に供えられた肉」を食べることは許されのか、に対して答えた部分です。この問題についてのパウロの議論は、特にコリントのキリスト者が幾人か異教の神殿でも催された祭りに出席していて、全ての出席者に肉が出されたことから、この問題が持ち上がったことが分かります(10節)。

 コリントの確信のある強い信仰をもっていたキリスト者の人々は、唯一の神がいて異教の偶像は生命のない彫像にすぎず、誰も助けたり害をなす力はないという「知識」を持っていました(4節)。その上、コリントの人々はパウロ自身の教えに一致する「知識」を持っていました。食物は霊的に意味がない(8節)。異邦人がユダヤ教の食事規定を守り、神の承認を求めようとしなくても良いように、自分たちが食べる肉の出所を案じる必要はない、偶像に供えられた肉によって汚れることを恐れるキリスト者は、単に無知で迷信的なのである。強いキリスト者は、正しい知識を与えられ、良心の呵責を感じることなく異教の神殿に行き、そこで出されたものを何でも食べることができる。実際にそうすることが、霊的成熟さと自由を証明したのでしょう。この立場を主張したコリントの人々は、コリントの信徒への手紙で「弱い人」と呼ばれている、もっと用心深い兄弟姉妹たちと、そのような儀式に参加し偶像に供えられた肉を食べ、良心を強く鍛え上げるべきだと論争していたに違いありません。もし、「弱い人」がそのように行いさえすれば、何の害もないことが分かり良心に迷いがなくなる。コリントの人々の手紙は、恐らくパウロに弱い人が良心の咎めを乗り越え、知恵を持つ者が楽しむ霊的に自由な世界を楽しむように励ましてもらうことで、「弱い人」たちの誤解を解こうとしたのでしょう。

 貧しいコリントの人々は、肉を食べることは当り前ではありませんでした。肉は特定の公共の宗教的祭りにおいて、一般に配給がある時のみ食べられました。貧しい人々は肉は宗教的な意味をもつ食物をみなされたのでしょう。このように以前から習慣や物の考え方に引きずられやすい「弱い人」たちと、豊かで高い教養もある「強い」信仰の持ち主とがいて、教会内に衝突や混乱があったのでしょう。

 パウロの返答は知識ある人々のグループには、衝撃的であったでしょう。パウロは知識ある人々には加担しないで、彼らの行動を全く違う基準で再考すうように挑戦します。

パウロはまず「我々は皆、知識を持っている」(1節)ことを認めます。しかし、もし教会を愛によって建てることができなけば、知識には欠点があると示唆します。知識は「高ぶらせる」。8章1節では、自慢げな高ぶりの原因が明らかに述べられます。パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と言います。教会を建てるのは愛であって、知識ではない。知識は人々の間に差別をつくり、日常生活をこわしてしまう。愛のともなわない知識は不完全だ、とパウロはいうのです。

人間の知識の無力さを明にするために、「神を愛することが神の正しい知り方だ」とは言わず、「神に知られているという神の知り方」が正しいと言います。救いの主導権は神からもたらされ、私たちからではありません。神が初めに愛し、神が私たちを選び、私たちを罪と死の支配から救い出してくださる。神の主導権に依存していることを理解する者は誰でも、知識の所有によって高ぶりはしないだろう。コリントの知識を誇る人々は、自分たちの知識は偶像に供えられた肉を食べることを許可すると考えている。パウロは知識よろも愛が優先すると主張します。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と教えます。

 「たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」という知識をパウロは認めます。

しかし、「この知識がだれにでもあるわけではありません」と述べます。教会の全ての者が高い知識を持っているわけではないと主張します。

神は唯一である、偶像の神などいないという知識によって偶像への供え物を食べたり、偶像の宮に出入りしたりすることは決してまちがいではない。しかしそのような行動は、知識を持っていない人たちを迷わせ、信仰的な確信のないままに、行いだけをまねする人たちがでてきたらどうするか。その人たちは、「今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚され」てしまうではないか。偶像の世界に引きずり戻され、汚される(7節)とパウロは語ります。知識を持っている人たちの「自由な態度が弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」とパウロは注意します。

 また、「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを」、信仰の弱い人が見ると、「その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。」パウロは弱い人が彼らのかつての生活に引き戻され、キリストから遠ざけられ、神の救いの力が及ぶ範囲から脱落することです。

「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」弱い者こそが教会の中では大切にされなければならないのです。「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。」

キリストは「兄弟」のために生命を差し出した。キリストが死んだのに、あなたは食事さえ変えることが出来ないのですか。キリストの救いの業を軽んじ、台無しにするがために「キリストに対して罪を犯すことなのです」。

それゆえ、この議論の結論としてパウロは、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と、自分自身の行動を制限します。この文章における「肉クレア」という言葉は、動物の肉一般であって、「偶像に供えられた肉エイドロ・ス-トン」という具体的な用語ではありません。弱い人をつまずきから守るために必要ならば、パウロは偶像に供えられた食物を食べないばかりでなく、あえて肉そのもを食べない、というのです。この方法の結果、パウロは自分自身を事実上、弱い人の間に置くのです。

わたしたちが自分の行動を制限するとき、自分の知識や気持ちや感情を大切にするけれども、人の気持ちや感情を害することを何ともおもわないことが多い。しかし、人間の行動の基準は、知識や気分や感情でなく、他者への愛でなければならないとパウロは主張します。全体のために自分の感情をおさえることはだれでもよく知っています。しかし、知識でもおさえなければならない場合があります。それは、ほんとうに他の人を愛する場合には、自分のもっている知識によって行動するのでなく、愛をもって行動の基準にしなさい、というのがパウロの主張です。

ローマの信徒への手紙14章21節で、「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」と「強い者」のとるべき態度を語ります。それは、福音の真理に照らして絶対善であるというふうには語られず、<望ましい>と言い、その時々の判断として語られています。その判断の善し悪しの基準は、他人をつまずかせないことです。これはキリストに倣うものであり、苦難の道を選び取るということなのです(ローマ15:3)。パウロは、コリントの知識を誇る人たちとはまさに正反対の決断をし、自分自身のキリスト者としての自由と権利に、弱い兄弟たちへの愛のゆえに、大きな制限を課すのです。

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「わたしは福音を恥としない」 ローマの信徒への手紙1章16-17節

2021-09-04 03:02:01 | キリスト教

              ↑ Paul Mosaic at Chora Church Istanbul

       

     イスタンブールのコラ教会内にあるパウロのモザイク画

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・ FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第16主日 2021年9月5日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

      礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙1章16-17節(新p.273) 

説  教  「わたしは福音を恥としない」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 405(すべての人に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                                                次週礼拝 9月12日(日)午後5時~5時50分    

                                                聖 書 コリントの信徒への手紙8章7-13

                                                説教題  「愛による解決」

                                                讃美歌(21) 16 492 27 交読詩編 79   

   本日の聖書 ローマの信徒への手紙1章16-17節

1:14わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。 15それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。 16わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

本日の説教

 パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは、第三回目の伝道旅行中、コリントに三か月滞在している時で、紀元56年ごろでした。パウロは福音を伝えるために召され、これまで、地中海東部の小アジア(現在のトルコ)、マケドニア、アカイア(現在のギリシア)等の広い地域にわたる伝道を一応終えて、長年の念願であった当時の世界の中心地ローマに伝道した後で、更に世界の西の果てと思われていたイスパニア(スペイン)にまで福音を伝えたいと計画していました(15:22-24)。ユダヤ教の一宗教に過ぎなかったキリスト教を、世界的宗教にまで発展させたパウロの貢献は、実に偉大でした。ことに、新約聖書の四割に近いぺージ数を占めるパウロが諸教会の信徒に宛てた13通の手紙は、後に聖書の正典とされ、福音を伝える何にもまさる貴い遺産となっています。世界の人を救うキリスト教を発展させたパウロの貢献は実に偉大です。神は必要な時に必要な人間をもちいて、人間を救う神の御計画を実現なさるのです。パウロは神に選ばれ、福音を伝える使徒とされたのです。

 パウロは今、ローマへの信徒に、「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(1:14)と言ったあと、「わたしは福音を恥としない」と語っています。このことばには大きな決意がひめられています。なぜ「恥としない」という消極的に思える言い方をしたのでしょうか。

 パウロがこれから福音を告げ知らせるために行こうとしているローマは、当時地中海沿岸の小アジア、ヨーロッパ、アラビア、アフリカ北岸一帯を支配したローマ帝国の首都であり、莫大な富をたくわえた文明都市であり、文化都市です。

パウロが手紙を宛てたローマの信徒の集会は、恐らく最初はローマ在住のユダヤ人にもたらされたキリスト教が次第に異邦人に及び、パウロが手紙を書いた時には異邦人を中心にして成立していたと思われます。パウロはまだ訪問したことのないローマの教会に手紙を送ったのは、自己紹介をすることにありました。伝道者の自己紹介は、自己の福音理解を整理し伝えることにありました。

 パウロは、「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にも、ない人にも」、使徒として、すべての異邦人を、「信仰の従順に至らせるように」する責任があると言います。そのために自分は恵みと使徒の務めを受けたのであると言います。

「わたしは福音を恥としない」とパウロは言います。福音とは喜ばしい音ずれのこであります。それはイエス・キリストに関する喜ばしい音ずれです。イエス・キリストがこの世においでになり、私たちのために十字架にかかり、そして復活したという、イエス・キリストの出来事に関する喜ばしい音ずれです。

 しかし、当時のユダヤ人にとっても、ギリシア人にとっても、イエス・キリストの出来事は、喜ばしい音ずれどころではありませんでした。第一に、ナザレの大工の息子イエスが救い主であることは、当時の人々にとって簡単に受けいれられることではなかったでしょう。

 第二に、恥ずべき十字架刑に処せられた人物が救い主がであるということは、耳にするだけで忌まわしい事であったでしょう。

 第三に、処刑されて、死んだ者が復活したということ、さらに、昇天し、神の座につかれたとは、到底あり得ない馬鹿げた話してだと思われたことでしょう。

 パウロはこのことを充分知っていたのです。パウロはかつて、十字架にかけられたイエスが神の子であると信じ、律法を無視するキリスト教徒を、神を冒涜する者達と思い、熱烈に迫害したのです。

しかし、キリスト教徒を撲滅するためにシリアのダマスコに向かったが、その郊外にさしかかったとき、天から彼に語りかける主イエスに出会い、回心してキリストを信じる者となったとき、イエス・キリストの福音を恥じることのない者とされたのです。したがって、「恥としない」という否定形は、「誇りとする」よりはるかに強い確信に満ちた信仰告白なのです。

なぜ恥ずべき十字架に磔にされた人物を宣べ伝えるのか。このキリストは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが」、キリストを信じるように「召された者には、神の力、神の知恵である」(コリント一1:22-24)からですと、パウロは言っていたが、この手紙では、福音を恥としない理由として、福音は「ユダヤ人を始め、ギリシア人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である(1:16)」といっています。パウロはその神の力を自ら体得したのです。

「福音」とは、「良い知らせ」を意味し、父なる神の御子イエス・キリストによってもたらされた人類の救いについての知らせです。特に、イエス・キリストの十字架の死による贖いの業を信じるすべての者が、罪の赦しを受け、永遠の生命を与えられるのです。これが福音のメッセージ(使信)です。

この福音は、信じる者すべてに「救いを得させる神の力」である、とパウロは語ります。この力はダマスコにおいて、パウロ自身にあらわれたのです。そして迫害者パウロを造り変えて、福音を伝える使徒としたのも、この力でした。

ここで言われている「救い」とは、すべての人間がおちいっている滅びの状態から救い出されることです。3章23節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と書かれています。本来人間は神の似姿としてつくられ、神の栄光を反映している存在でした。それなのに人間はアダムの堕落によって罪がこの世に入ってきたため、「義人はひとりもいない」(3:10)という状態になり、だれひとり神の栄光を受けることとができなくなったのです。このような滅びの状態から救い出されるためには、キリストによる罪のあがないが必要なのです。そして、キリストの生命と栄光にあずかることが救いです。このような救いを、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたす神の力」が福音です。それゆえ、パウロは「福音を恥としない」のです。

1章17節には、「福音には、神の義が啓示されています」とあります。福音が救いを得させるには、福音の中に神の義が啓示されているからだというのです。「神の義」とは、一つは神は義であるという意味と、もう一つは神から人間に与えられる義という意味になります。神は義であるとすると、罪人を罰する神の義になり、神の前に安らかな心を持つことはできません。神の義のもう一つの解釈は、神の義は、救いを作り出す神の活動ということになります。神の義が福音のなかに啓示されるとは、この神の創造的な救いの活動が福音の中にあらわれるという意味になります。

 神の義を、ルターは神から賜る義、神からの賜物の義としてとらえるに至りました。ルターの福音の再発見でした。

 さらにパウロは、神の義は福音の中に啓示されるといったのち、続けて「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と言っています。神の救済活動も、神からの賜物として与えられる義も、それを信仰をもって受けとめる時に、自分の現実となるからです。しかし信仰は神の働きを受けるための人間の側の条件ではなく、神の力がわたしたちに働きかけて、わたしたちのうちに信仰を起こし、信仰を与えるのです。信仰とは神の恵みに対するわたしたちの信頼なのです。それをパウロは「初めから終わりまで信仰を通して実現される」と表現したのです。その聖書的根拠として、ハバクク書2:4の言葉、「正しい者は信仰によって生きる」を引用しています。「正しい者」は、ハバククでは、「神に従う人」と記されており、律法を守った者の意味ですが、パウロは自由に解釈して、業によってではなく、信仰によって義とされた人という意味に解釈しました。福音が救いを得させる神の力として働くのは、信じる者に対してなのです。信じない者には、愚かなものでしかないのです。

救いか滅びか、その分かれるところは、この十字架の福音を信じるか、否かにかかっているのです。この愚かなものと思われる十字架の福音のうちに、わたしたち人間の罪と死の支配から解き放ち、永遠の命にあずからせる力がこめられているのです。だからパウロはあえて「わたしは福音を恥としない」と言うのです。この言葉に、ローマのあらゆるこの世的な巨大な威力の前に、神の愛と力を受けて、福音を伝えようとするパウロの気魄と意気込みが込められているのです。

パウロは弟子のテモテに、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわtしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」(テモテ二1:7-8)と手紙を送っています。わたしたちも、「主を証しすることを恥じてはなりません」とあるように、福音を恥とすることなく、主を証しする者となりましょう。

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