富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「わたしはまことのぶどうの木」 ヨハネによる福音書15章1~11節

2018-04-28 22:30:45 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

            復活節第5主日 2018年4月29(日) 午後5時~5時50分  

       礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 404(あまつましみず)

交読詩編   95(主に向かって喜び歌おう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書15章1~11節(新p.198)

司会者祈祷

説  教  「わたしはまことのぶどうの木」 辺見宗邦牧師

祈 祷              

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

                                次週礼拝 5月6日(日) 午後5時~5時50分

                                聖書 ヨハネによる福音書16章12~24節

                                説教題   「父のみもとへ行く」

                                讃美歌(21)474 336 24 交読詩編15篇

本日の聖書 ヨハネによる福音書15章1~11節

 15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

            本日の説教

   ヨハネによる福音書13章から17章までは、最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちの足を洗うという出来事が最初にあり、その後、イエスの別れの説教(14-16章)、17章では後に残る弟子たちのためのとりなしの祈り(大祭司の祈り)で終わります。イエスは十字架の死を前にして弟子たちへの愛にみちた親密な交わりの中で、御自身の真の姿とその使命を告げ、その死による救いの完成、また新しい愛の掟による弟子たちの共同体のあり方などを教えます。13章、14章では、イエスの言葉はペトロやトマス、あるいはフィリポやユダなどとの対話の形で述べられてきたが、この15章では、イエスの直接の語りかけ、宣言という形で最後のことばが語られます。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(15:1-3)

   イエスは、<わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である、……あなたがたはその枝である>と語られ、ぶどうの木を象徴とする説話が始まります。「わたしは……である」の七番目の宣言です。これまで、生命のパン(6:35)、世の光(8:12)、羊の門(10:7)、良い羊飼い(10:14)、復活であり命(11:25)、道であり真理であり命(14:6)と宣言してきました。ヨハネ福音書独特のイエスのメシア的自己確信の言葉です。ぶどうはオリーブと共にパレスチナ地方では、いたるところで栽培された植物なので、聞く者にとっては実に身近なたとえでした。そして旧約聖書はイスラエルの民を、しばしばぶどうの木にたとえました(詩篇80:8-15、イザヤ書5:1-7、エゼキエル書15:1-6など)。ぶどうの木はユダヤ民族の象徴でした。しかし、イスラエルは神の期待に反して、悪しき実を結ぶ野ぶどうとなってしまったのです(エレミヤ書2:21)。イスラエルの民は自分たちが神の選びの民であり、神の祝福の継承者であると誇っています。しかしここでは、「ぶどうの木」がイスラエルではなくイエス自身をさす言葉として用いられています。ここに旧約との対比があります。神の約束を真実に受け継ぐ者は、イエス御自身であり、イエスにつながる者たちです。したがってイスラエルの民であることが救いの条件なのではなく、イエスにつながることによって、救われ豊かな実を結ぶようになる、と言われているのです。

 イエスは、<まことのぶどうの木>と言われます。<まことの>は、不完全に対する完全、あるいは純粋を意味します。<まことのぶどうの木>は、実や命を生み出すことのできる完全な木です。<わたしはまことのぶどうの木である>―これは呼び掛けであり、宣言です。イエスはまことのぶどうの木であり、イエスの父はそのぶどうの木の所有者であり、その成育を自由になし得る審判者でもあります。実のならない枝は切り捨てられ、実のなる枝は手入れされ守られるのです。エスは、唯一の命の木であり、イエスにつながっていなければ実を結ぶことはできません。それは不完全な信仰、未熟な信仰を指しているようです。危機に直面してもなお、イエスをキリストと告白し、神と信じる者は<豊かに実を結ぶように>なります。ここには、信仰の成長ということも、視野に入れられているようです。信仰は、絶えず前進していくことによって、実りをもたらすのです。そして、イエスの言葉、福音を聞く者は、<既に清くなっている>のです。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(15:3-4)

   絶えず、イエスに<つながって>いることが命じられます。<つながる>は、「とどまる」「宿る」という意味を持つ語です。イエスはまことのぶどうの木、父は農夫、そしてあなたがたは枝であると語られ、父なる神、子なるキリスト、そしてキリスト者の関係が明らかにされ、その一体性が強調されています。イエスが父にとどまり、一体であるように、弟子たちも、イエスにとどまって一体性を示していかなければなりません。そのことによって、信仰の実を結んでいくのです。この勧めは、信仰にとどまれという主の命令であり、呼びかけです。キリストはぶどうの木として、わたしたちに関係を持ち、わたしたちひとりひとりをその枝として結びつけてくださるのです。枝であるわたしたちは、自らの力で立ち、育ち、生きるのではありません。しかしわたしたちは、しばしば自分に頼り、人間の力と頭脳に望みをかけ、自己の意志に依り頼んで生きようとします。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(15:5)

 <わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である>とくり返されるこの宣言は、したがって愛と信頼にみちた祝福のことばなのです。信仰とは自分ひとりで力んで得るものではなく、主の愛と恵み、特にゆるしを覚える時、わたしたちひとりひとりのものとなるのです。主を裏切ったペトロに、復活の主があらわれ、彼の裏切りを赦して、再び「わたしに従って来なさい」という招きに応えて、ペトロは復活の証人としての歩みを全うすることができました。イエスを<離れては……何もできない>ことが確認されます。弟子は、人間的な資質によるのではなく、キリストによって力を与えられ、キリストの業を継続するのです。

 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(15:6)

 イエスに<つながっていない人>が裁かれることが告げられます。啓示者であるイエスを信じるか否か、そしてイエスにとどまり続けるか否かによって、救いか滅びかに分かれてしまいます。このきびしい警告は、ユダの裏切りの罪を示しているようです。ユダは最後の晩餐の席から離れて、イエスを銀三十枚で敵方に売るために、夜のやみの中に消え去りました。彼はイエスにつながれた枝の一つでしたが、イエスを離れたために実を結ばず、悲惨な最後をとげました(13:30)。

  「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(15:7-8)

 イエスに<つながっており>、イエスの言葉を守る者の祈りを、イエスが聞き届けることが語られます。<望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる>とあります。そしてイエスに従う者がキリストのことばにしっかり結びつき、多くの実を結ぶ時、栄光をお受けになるのは父なる神です。豊かな収穫は農夫の名誉であり、喜びであるように、キリストの御業の輝きは、父なる神の栄光にほかなりません。

 他の人々を神に招き、その人々の心の中にイエスの光と命とが入ることは、イエスの御名とその恵みによって生きる者たちに可能な、神の栄光を現す行為です。神の栄光をあらわす業となることこそ、キリスト者の活動の目標であり、ここにキリスト者の光栄があります。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(15:9-10)

 イエスは新しい愛の掟を定めました(13:34)。それは、父の子に対する愛、子の弟子に対する愛に基づくものです。父が子なるイエスを愛されたように、イエスは弟子たちを愛されました。そして<わたしの愛にとどまりなさい>と呼びかけます。この愛の関係は具体的には、弟子たち相互の愛へと進展し、主イエスの愛の掟を守ることになるのです。イエスが父の掟を守り、父の愛の中に生きたように、キリスト者もキリストの愛の戒めに服従することが求められます。主の愛のうちにある者が主の戒めを守るのであり、両者は密接に結合しているのです。掟を守り、イエスの愛にとどまることは、父と子の神的結合への弟子たちの参与をもたらすのです。そして、この地上において、イエスの愛にとどまっていることを示すのは、共同体内における弟子たち相互の愛なのです。

 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(15:11)

 ぶどうの木のたとえを通して主が話された目的は、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と明らかにされました。愛の戒めは、人間にとっては困難なことであり、不可能なことです。人間は本来、自分しか愛さない、いやその自分さえ、本当に愛することはむずかしいのです。しかし、「主は、わたしのためにいのちを捨てて下さった。それによって私たちは愛ということを知った」(1ヨハネ3:16)。「ここに愛がある」(同4:10)。このようにキリストの愛は生々しい現実の出来事であり、事実です。そこから<あなたがたも互いに愛し合いなさい」(同12節)、という戒めが与えられるのです。イエスの弟子たちに対する愛の事実が、弟子たちの相互の愛を生み出すのです。人間的には不可能であることが、悔い改めと祈りを通して命じられ、聖霊の働きによって可能なこととされるのです。愛の戒めは弟子たちに重荷を負わせるためのものではなく、イエスの喜びが弟子たちの喜びとなり、弟子たちの喜びを完成させることにありました。主イエスはわたしたちに、神に愛されているという喜びと共に、それに基づいて人を愛することができるという喜びを教えられました。

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「キリストの新しい愛の掟」 ヨハネによる福音書13章31~38節

2018-04-24 21:10:42 | キリスト教

    ↑ティントレット Tintoretto: Christ washing his disciples' feet (c. 1556; London, National Gallery, oil on canvas; 201 x 408 cm)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週  報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    復活節第4主日 2018年4月22(日) 午後5時~5時50分  

  礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩編   34(どのようなときも)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書13章31~38節(新p.195)

司会者祈祷

説  教   「キリストの新しい掟」       辺見宗邦牧師

祈 祷              

讃美歌(21) 520(真実に清く生きたい)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

              次週礼拝 4月29日(日) 午後5時~5時50分

              聖書 ヨハネによる福音書15章1~11節

              説教題   「神の民」

              讃美歌(21)404 417 24 交読詩編95編

  本日の聖書 ヨハネによる福音書13章31~35節

 13:31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 36シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」37ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」38イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。

    本日の説教

 「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」(31節)という言い出しは、これから語られるイエスの最後の言葉への始まりとなります。最後の晩餐の席から、イエスを裏切るユダが出て行きました。イエスを敵の手に売り渡すユダの裏切りは、決定的にイエスが栄光を受ける時が来たことを示します。<栄光を受ける>とは、十字架につけられ、復活し、天へ帰られることです。その時が、今や目前にせまっているのです。十字架は、人間的に見るならば、この世の最高権威者である大祭司カイアファから神を冒涜する者として断罪され、ローマ総督ピラトによって処刑される、はずかしめと敗北のしるしですが、しかしイエスは、この屈辱の死を栄光と勝利のしるしとして負う決意をここで表しているのです。この決意は、イエスが死に至るまで神の御心に従い、その全生涯を通して、世を救おうとする神の愛と正義を世に示すものでした。

 旧約聖書では『栄光』とは神の顕現を言い表す言葉でした。「神の栄光」は、神の本質が人の前に顕現する様子を表現する言葉です。イエスはその御業を通して神の栄光を受け、神はイエスによって栄光を受けることが告げられます。栄光における父と子の一体性が明らかにされます。十字架と復活は、まさに神が神であることが啓示される時です。

イエスは、この地上を去って行くことを弟子たちに語ります。そして、7・33でユダヤ人に語った言葉を思い起させます。イエスは、ユダヤ人に向かって、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われました。これはきびしい断絶の宣言でした。イエスと彼らの世界との間には超えることの出来ない断絶があるのです。しかし、今や、同じことを弟子たちにも言わなければならない時が来たのです。そして弟子たちもイエスの行く所に、弟子たちが来ることはできないことを知らせます。

  イエスは、地上に残された弟子たちに、新しい掟を与えます。<互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい>という愛のいましめです。モーセの十戒には、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19・18、マタイ19・18)とあり、イエス御自身も今までたびたび教えてこられました。必ずしも新しい掟ではありません。しかしイエスの言う<新しい掟>とは、イエスによって示された新しい愛です。「主はわたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(ヨハネの手紙一、3・16)とヨハネは記しています。

      ル―ベンス 1632年

 自ら弟子の足を洗い、人々の罪をあがなうために、自分を捨てて十字架の死を負うイエスの生涯そのものが、真実の愛を示しています。このイエスの愛を受けて、弟子たちも、そしてわたしたちも、互いに愛し合いなさいと勧められているのです。<互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわた互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる>。ヨハネ福音書で説かれている愛は、マタイ福音書の山上の説教で説かれているような敵をも愛する愛ではありません。それは、共同体内部における愛なのです。互い愛し合うことが、わたしたちがイエスの弟子であることのしるしなのだ、とイエスは言われます。イエスは少数の弟子たちにこの戒めを与えることによって、神と彼らの間に人格的結合関係を確立し、新しい救いの担い手たらしめようとされたのです。

  しかし、わたしたちは、互いに愛し合うことができるでしょうか。主イエスの言葉を実行することは、人間に可能なのでしょうか。本来利己的、自己中心的な人間が、キリストのような献身的、自己犠牲的な愛を実践することは出来ません。では、どうしてそれが可能となるのでしょうか。それは「わたしがあなたがたを愛したように」というキリストの愛の事実に支えられ、励まされ、促されて、可能になるのです。人間の力ではできないことが、キリストの愛の出来事にふれ、キリストへの信仰により、キリストの霊、聖霊の働きにより、できないことができるようにされるのです。愛を実践できない自分の罪を告白しつつ、出来る自分へと変えられることを祈ることによって、新しい人に造り変えられ、できるようになっていくのです。

 使徒パウロ、コリントの信徒への手紙13章で、愛について説きました。有名な「愛の賛歌」と言われる教えです。キリストの愛から学んだ真実の愛についての教えです。そして、14章1節で、「愛について追い求めなさい」と勧めています。これは「愛を熱心に祈り求めなさい」ということです。愛は神に願い求めて与えられるものであることを示しています。

 シモン・ペトロがイエスに<主よ、どこへ行かれるのですか>と言いました。以前のユダヤ人がそうであったように(7・35-36)、ペトロは、イエスの言葉の意味を理解することが出来ません。イエスはペトロの問に答えて<わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることのなる」と言いました。するとペトロは<主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます>と決意を表明しました。それに対して、<はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう>と、ペトロの三度の否認を予告し、事実、その通りになります(18・15-18)。ペトロの人間的な決断は、破れていきます。人はただ聖霊によらなければイエスを主キリストと告白し、キリストの後に従うことはできません。イエスは、自分だけを守ろうとする人間の弱さを熟知しておられたのです。しかし、イエスがすべてを知っておられたことが、三度もイエスの弟子であることを否定した後のペトロの慰めになるのです。

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「真の良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章7~18節

2018-04-16 15:14:22 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本キリスト教 富 谷 教 会    週   報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  復活節第3主日 2018年4月15(日) 午後5時~5時50分  

            礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 405(すべての人に宣べ伝えよ)

交読詩編   23(主は羊飼い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書10章7~18節(新p.186)

司会者祈祷

説  教   「真の良い羊飼い」      辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    72(まごころもて)              

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

          次週礼拝 4月22日(日) 午後5時~5時50分

           聖書 ヨハネによる福音書13章31~35節

           説教題   「キリストの掟」

           讃美歌(21)403 520 24 交読詩編34編

  本日の聖書 ヨハネによる福音書10章7~18節

 10:7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

     本日の説教

 10:7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 イエスは御自分を<わたしは羊の門>であると言われます。<羊の門>とは羊が出入りする羊の囲いの門です。ここでは主イエスが神の国、神の領域に人々が入る場合の唯一の入り口であることを、<わたしは羊の門>にたとえて言われているのです。<わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である>とは、ユダヤ教の指導者たちを指しといます。当時ファリサイ派の人々や長老たちへの自信と傲慢に対するイエスの痛烈な批判です。過去においても、エゼキエル書34章1節以下に記されているように、イスラエルの指導者たちに、神は<災いだ。自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。…お前たちは群れを養おうとはしない>と厳しい裁きの預言がなされています。これまでの偽りの指導者たち、救済者たちの盗人はやって来て、群れの羊を<盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため>であった。わたし(イエス)は柵内の羊を、盗人から守る羊の門である。わたしを通て入る者は救われ、門を出入りして牧草を見つけ食べることが出来る。わたしが世に来たのは、羊が命を守られ、しかも豊かに養われるように、人々が永遠の命を与えられ、豊かな恵みと祝福とを受けるためである、と主イエスは言われます。

 11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

 7節ではイエスは<羊の門>に御自分を例えて語られましたが、11節では<わたしは良い羊飼いである>と御自身を<羊飼い>になぞらえています。この背景にもエゼキエル書があると思われます。そこではイスラエルの指導者たちを牧者に、民を羊に譬えて語り、その牧者たちが羊を食いものにしている罪を裁きましたが、この牧者たちの代わって羊である民を養い救うメシアの預言がなされました。<わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる>(エゼキエル書34・23)。この預言の成就としてイエスは来られたので、イエスは御自分を<わたしは良い羊飼いである>と宣言されておられるのです。<良い羊飼い>は羊を守るために命を捨てると言われます。牧羊生活の中では外敵に対して羊を守るために羊飼いたちが勇敢に戦い、ある場合には傷を負い、またある場合には命を失うことがあったようです。<自分の羊を持たない雇人>とは、自分自身の利益のため、生活の手段として羊を託されて羊を飼っている者のことで、偽りの指導者たちをたとえています。彼らは狼が来ると、羊を守らずに逃げ出します。偽りの牧者にとっては、彼は危険に直面すると、羊を捨てて逃げ去るのです。雇人は羊ことを心底から心にかけていないからです。すると狼は羊を襲い、羊たちを追い散らし餌食にするのです。羊のために本当に自分の生命を棄てる覚悟を持つ者、これが真の牧者です。最も深い意味において、真の羊飼いは主イエス一人のほかにいません。主エスは人々に永遠の命を与えるために自らの命を捨てられました。

 14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

 主イエスは良い羊飼いです。良い羊飼いは羊との間に、互いに深く知り合う関係をつくります。主イエスは人々と愛と信頼の関係をつくってくださいます。<わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている>と、主は言われます。<知る>という言葉で、わたしと羊の一体的な関係が語られています。さらに羊飼いと羊の関係を、父なる神と御子とのゆるぎない関係にたとえています。そのゆるぎない関係は、羊飼いイエスが羊にために命を捨てるということで保証されています。イエスの十字架の贖いの死が語られています。
 16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

 羊飼いイエスには、自分に身近な囲いの羊だけでなく他の囲いの羊のことも心にかけておられ、その羊も導かなければならいと言われます。ユダヤ人の救いだけでなく、異邦人を救うことを目指しておられます。御自身の前におられる人々への伝道だけでなく、広く世界を展望しておられるのです。地の果てに至るまで、イエスの証人となるように弟子たちを復活のイエスは派遣しています(使徒言行録1・8)。その羊もイエスの声、福音を聞き分け、信徒となるのです。こうして、世界の羊は一人の羊飼いイエスに導かれ、一つの群れになるのです。今日の教会は、現実には多くの教派、分派に分かれています。<一つの群>、<一人の羊飼い>こそ福音にふさわしい姿です。そのためには、わたしたちが福音に堅く立つこと、大牧者であるイエスを仰ぎ、その声に聞き従わなければなりません。

 17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

 <わたしは命を、再び受けるために、捨てる>とは、主イエスが十字架の死の後に、復活を信じていることが表されています。それが父なる神の御心に従うことになるので、父なら神は御子イエスを愛してくださっておられる。だれも父なる神とかたく結ばれているイエスの命を奪い取ることはできません。しかし、十字架の死は、神の御心に従う死ではあるが、同時に主イエスが自ら世の人々を愛し、救うための自主的な死であり、御自分でその命を捨てられるのです。イエスは自分の意志で命を捨てることもで、その復活の命を再び、父なう神から受けることも出来るのです。<父から受けた掟>とは、イエスの十字架と復活が神の計画、神の意志から発している命令である、ということです。

 詩篇23篇1節に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」といダビデ王の詩があります。まさに主イエスはわたしたちの良い羊飼いであり、真の羊飼いとなってくださいました。この羊飼いに従う群れであるわたしたちは、<何も欠けることが>あいません。わたしたちは主イエスに養われているのです。<満ち足りる心>をもたらすのは、羊飼いであられる神・主イエスです。

 

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「復活顕現」 ヨハネによる福音書20章19~31節

2018-04-05 12:54:52 | キリスト教

        ↑ 富谷教会入口の桜

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

   復活節第2主日 2018年4月8(日) 午後5時~5時50分  

       礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編  145(わたしの王、神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書20章19~31節(新p.210)

司会者祈祷

説  教   「復活顕現」      辺見宗邦牧師

祈 祷              

讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

           次週礼拝 4月22日(日) 午後5時~5時50分

           聖書 ヨハネによる福音書10章7~18節

           説教題   「まことの羊飼い」

           讃美歌(21) 459 24 交読詩編23編

  本日の聖書 ヨハネによる福音書 20章19~31節

 20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 20:30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 20:31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

    本日の説教

 週の初めの日、すなわち日曜日の朝早く、マグダラ出身のマリアが朝早く、主イエスが葬られた墓に行くと、横穴式の墓の入口を閉じた石が取り除けてあり、イエスの遺体がだれかに取さ去られたと思い、それをシモン・ペトロとヨハネに伝えました。ペトロとヨハネは墓へ走って行き、墓穴に入り、イエスを包んだ覆いの亜麻布だけが置いてあり、墓穴には遺体はなく、空虚であることを確認して家に帰りました。

 マリアは墓の外に立って泣いていました。このマリアに復活されたイエスが現れ、弟子たちのところへ行って、イエスは天の父のもとへ上っていくことを知らせなさい、とマリアに命じました。マリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主をみましたと告げ、主から言われたことを伝えました。

 その日の夕方のことから、今日の聖書の箇所は始まります。弟子たちはイエスのイエスの死によって失望し、大祭司や最高法院の迫害を恐れ、逮捕されればイエスと同じように十字架につけられることを恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。一緒に集まっていた弟子たちのところへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和(平安)があるように」と言われました。イエスの与える平安は、日常的な挨拶の言葉としての平安ではなく、「イエスの与える平和は、世が与えるように与えるものではない。あなたがたは心を騒がせるな。おびえるな」(14・27)と言われています。神が共にいてくださることによって与えられる特別な平安です。最後の晩餐の席での訣別(告別)説教で、このように言われた後、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14・28)と言われた約束が、ここで実現したことになります。

  イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の跡があり、わき腹には槍で刺された傷跡がありました。十字架の上で人々の罪のために身代わりとなって死んでくださったイエスが復活されて現れたのです。弟子たちは、イエスが死によって奪い去られたのではなく、新しい復活の命をもって彼らの前に現れたことを喜びました。もはや彼らはユダヤ人を恐れて、隠れている必要がなくなったのです。

  訣別の説教でイエスが、「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあながたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(16・23)と約束された言葉が実現しました。

  イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主は弟子たちに、この世への宣教の派遣を命ぜられました。父なる神が、御子イエス・キリストに託された宣教の業が、今度は、復活の主によって弟子たちに託されたのです。そう言ってから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」「息を吹きかけた」という言葉は、創世記での人間創造の記事(2・7以下)で、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」という言葉を想起させます。イエスの弟子たちは、復活の主イエスにより、聖霊が与えられることを通して、弟子たちは罪と死の支配から解放され、神の子である身分と永遠の命に生きる新しい人間に再創造されるのです。

  イエスは弟子たちに聖霊によって執行される罪の赦しの権威を与えます。この権威は父なる神が子なるイエスに託しておられる権威です(5・19)。聖霊の導きと、聖霊の力により弟子たちは、確信をもって、罪の赦しを告げ知らせ福音を宣べ伝えることができる者とされたのです。

  十二人の弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。<ディディモ>とは双子のことです。彼が双子の兄弟の一人であることから呼ばれた通称です。トマスは、イエスが病気で死んだと思われるラザロのところへ行こうと言ったとき、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と言った人物です。また、イエスの訣別の説教の時、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」(14・5)と言いています。トマスは主イエスと共に死ぬ覚悟であり、死がすべての終わりであるという人生観を持っていたようです。

  ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。トマスは弟子たちの証言にもかかわらずイエスが現れたことを信ずることが出来ませんでした。イエスが弟子たちに現れたとき、イエスは手とわき腹とをお見せになったことを聞いたからでしょうか、トマスは自分の目でイエスの手に釘の跡を見、わき腹に槍の跡を見て、自分の指をその跡に入れてみなければ決して信じない、と言ったのです。トマスは実証的な証明を求めたのです。このトマスの態度と言葉から、疑い深いトマスとか、不信のトマスと非難する呼び名が生まれました。しかし、直接自分の目で見て、確かめなければ信じられない、というトマスの態度を、一概に懐疑的とすることはできないのではないでしょうか。しかもトマスは死がすべての終わりだという考えを持っていたので、なおさらイエスの復活を信じることができなかったはずです。

  この八日の後、ちょうど一週間後の日曜日、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいました。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。トマスは復活されたイエスを信じられない心のまま、弟子たちの群れの中にとどまっていました。そのトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられました。マグダラのマリアの場合は、「すがりつくのはよしなさい」とイエスは言われました。マリアは甦ったイエスを手で触ることが出来ると思ったので、その間違いを教えたのです。釘跡に手を入れてみなければ信じられないと語ったトマスには、その要求をそのまま主イエスは受け入れられたのです。この場面を、画家のカラヴァッジョ(イタリア人画家)は「聖トマスの懐疑(1601-02年)」の絵で描いています(イタリアのフィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵)。

  

  この絵では、トマスがイエスのわき腹の傷跡に指を入れています。しかし、聖書の記述では、トマスは主イエスの言葉を聞いて、「わが主、わが神よ」と信仰を告白しています。自分の前に立たれるイエスの臨在にトマスは圧倒され、驚き、感謝したのです。トマスは、自分のために現れてくださった復活のイエスを見て、この方は神だと直感したのです。トマスは、最初自分は師であるイエスのために死ぬことのできる人間でありたいと志していました。ところが、その師が十字架に付けられた時、師を捨てて逃げた人間であり、そのような罪深い自分のために、主の十字架は、自分の罪の赦しであることに気付かされました。トマスはイエスの復活を信じただけではなく、もっと深く、イエスが生きておられる神であり、自分の罪を赦してくださっている主であることを告白したのです。このとき「死ですべてが終わる」というの固定観念からトマスは解放されました。

  イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。イエスの弟子であったトマスは、復活されたイエスが現れてくださったことによって、イエスに対する信仰を告白することができました。しかし、彼以後の人々は、イエスの弟子たちの証言を通して、宣教の言葉を通して信じなければなりません。イエスは、そういう人々こそ、トマス以上に幸いなのだと、祝福を約束されたのです。

  今も生きておられるイエスに向かって「わが主、わが神」と信じる者は、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」(ペトロ一、1・8)、キリストとの霊的交わりを与えられ、信仰の実りと魂の救いを受けているのです。

 マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、生前のイエスが弟子たちを神の国の権威を与えて伝道に派遣する記事が出ていますが(マタイ10・1-4、マルコ3・13-19、ルカ6・12-16)、ヨハネ福音書では、十字架と復活の後に初めて弟子たちの派遣、権威の委託が起きています。これは十字架と復活の後でなければイエスの本当の姿はだれにも分からず、十字架と復活に出会って始めて弟子たちがイエスが神の子、救い主であることが分かり、福音を正しく宣べ伝えることができるようになったことを示しています。この福音の御言葉を聞くことから信仰は始まるのです(ローマ人への手紙 10・17)。そこに神からの聖霊の働きがあり、今も生きておられる主イエスを「わが主よ、わが神よ」と呼びかける信仰が与えられるのです。

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