富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「赦しの愛に生きる新しい人間」 コロサイの信徒への手紙、3章12~17節

2019-09-28 17:17:44 | キリスト教

             ↑ 「御霊(みたま)よ、くだりたまえ、愛で満たしたまえ」

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

   聖霊降臨節第17主日 2019年9月29日  午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

         礼 拝 順 序

                 司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩編   37、1-22(悪事を謀る者のことでいら立つな)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コロサイの信徒への手紙、3章12~17節(p.371)

説  教  「赦しの愛に生きる新しい人間」    辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21)  411(うたがい迷いの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

           次週礼拝 10月6日(日)  午後5時~5時50分 

           聖 書 テモテへの手紙一、6章1~12節

           説教題   「世の富」

           讃美歌(21) 214 375 交読詩編 49

    本日の聖書 コロサイの信徒への手紙、3章12~17節

 3:12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

    本日の説教

  コロサイは、トルコのエーゲ海に面した港湾都市イズミールの南およそ75キロに位置するエフェソ=エペソ(現在名はエフェス)より東200キロほど内陸部にあり、東方に向かう主要道路に面していたことと、毛織物の産地であったことで栄えていましたが、パウロの時代は、小さな町になっていました。そこより30キロほど下流には、石灰棚で有名な世界遺産のパムッカレ(綿の城の意)があります。

  

   イエスの福音がコロサイを含むアジア州に広まったのはパウロの第三伝道旅行(紀元53~56年)の途中、エフェソに約2年滞在中のことです(使徒言行録19章1、10節参照)。

  コロサイ出身の異邦人エパフラスがパウロの伝える福音をエフェソで聴いて信仰に入りました。パウロの協力者となったエパフラスが、コロサイに福音を伝えました(コロサイ4・12以下)。コロサイの信徒たちはユダヤ人ではなく異邦人が多数を占めていました。

 このように、コロサイやラオディキア、ヒエラポリスなどへは、エフェソからパウロの仲間たちが出掛けて宣教したようです(コロサイ4・13)。また、おそらくエフェソ出身のティキコやオネシモをパウロはコロサイに遣わし、教会の事情を報告させています(4・7以下、使徒言行録20・4)。パウロはコロサイには行ったことがないように思われるのは、次のような文面から予想されます。

「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人々のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」(2・1)

コロサイ書は、エフェソで約二年いた間(53~54年の前後)に投獄されたとする説が有力です(コリント一、16・8)。しかし、手紙の文体や語彙や表現形式などと、思想がパウロの真正な手紙ではないとし、パウロの死後に弟子によって、おそらくエパフラスか、あるいはテモテ(1・1)によって、80年代に書かれたと推察されています。

この教会は異邦人が多かったので(1・27、2・13)、欲望を欲しいままにする異教の習慣に逆戻りする危険性がありました(3・5~11)。この異端はユダヤ教の律法遵守と関係があったらしく、割礼や食べ物についての禁止規定、祭り、安息日を強調する点ではユダヤ的です(2・11、16)。また「天使礼拝」や「幻を見る」といった神秘主義的傾向があり(2・18)、哲学的な議論をし(2・8)、「手をつけるな。味わうな。触れるな。」といった霊力としての律法的規定を神聖視して、その束縛の下に立っていたのです(2・21、23)。「汚れ」や「不完全さ」を克服しようとして、からだを敵視した不自然な生活や修行・禁欲を行い、それをもって天に至る準備とすることは、しばしば、底知れない傲慢と利己主義をはぐくむ霊性や宗教となる危険を手紙は警告しています(2・18、23)。

パウロはこうした霊力を信じる信仰の間違いであることを示すために、キリストは御使いも含めたあらゆる被造物の上に立つ方であって、創造に関与し、被造物を支えておられ(1・15~17)、キリストこそ宇宙の安定と調和の基礎であることを説き、彼こそ天への唯一の、神から遣わされた仲介者であることを信じて、高らかに歌い励ましています(1・15以下の賛歌)。 

 また御子・キリストは、その体である教会の頭であり(1・18)、初めの者、死者の中から最初に生まれた方であり、神は十字架の血によって、万物をただ御子によって和解させられたのであり、神はあなたがたと御子の死によってて和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(1・22)、とパウロは説いたのです。そして、このキリストを信じて救われている信徒が、今更他の諸霊力を崇拝し、また律法の規定に従うべき理由がないことを教えています(1・13~3・4)。

 さらにパウロは、3章1~4章6節で、キリスト者の実際生活を論じています。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい(3・1)」。これは、わたしたちの古い習慣をぬぎ捨て、真の知識を語り、赦し合い、キリストにある家庭を築き、客をねんごろにもてなすことであると教えています(3・1~4・6)。

  今日の聖書の箇所3章12~17節を学びましょう。3章1~11節のところでは、十の悪徳が述べられ、それらを捨てなさい、命じています。「地上的なもの、すなわち、①みだらな行い、②不潔な行い、③情欲、④悪い欲望、および⑤貪欲を捨て去りなさい。……今は、そのすべてを、すなわち、⑥怒り、⑦憤り、⑧悪意、⑨そしり、口から出る⑩恥ずべき言葉を捨てなさい。」わたしたちは、イエス・キリストの死にあずかることによって、全く完全な者になったのでしょうか。わたしたちは現在「神の子です」。しかし、そのことはもう完成したというわけではなく、まだ完成していない面があります。「私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。」(ヨハネ一、3・2)このように、今与えられている約は、やがてその成就があります。「このような望みをいだいている者は皆、彼がきよくあるように、自らをきよくします。」パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです(フィリピ3・12)」、と言っています。目標をめざしてひたすら走るべきなのです。それぞれ、到達したところに基づいて進むべきです。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣い新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」わたしたちは、人間の力によるのではなく、救い主の力といのちにあずかる時、日々新たにされていくのです。

  12節では、信徒たちは「神に選ばれ、聖なる、愛された者だから」と呼びかけ、五つの徳目が記されています。「憐れみの心、②慈愛、③謙遜、④柔和、⑤寛容を身にまといましょう」と励ましています

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい(3・13)」。

「主があなたがたを赦してくださったように」とあります。私たちは、主に罪をゆるされる者として、互いに隣人の罪をも赦し合う者へと変えられていくのです。

「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです(3・14)」。

なによりもすべてをはぐくむ「愛」を身につけるようにと命じます。それはすべてを完成へと導く絆となると勧めています。「たとえ、完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい(コリント一、13・2)」のです。

「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい(3・15)」。

キリスト者が各自ばらばらでなく、一体となるように召されたのは、キリストの平和が実現するためです。主から与えられる赦しと愛の力によって問題を解決し、平和に到達することを、神はわたしたちに求めているのです。

いつも感謝するようにと勧めています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい(テサロニケ一、5・16~18)」、<これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに求めておられることです>とパウロは勧めています。 

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい(3・16)」。

キリストの言葉とは、聖書でイエスが語った言葉だけでなく、キリスト自身をわたしたしの内に宿し、霊的に生けるキリストの言葉を宿し、キリストから与えられる知恵を尽くして、互いに教え、諭すことが求められています。

「詩編と賛歌と霊的な歌」は、当時の教会の讃美歌の分類だったのかも知れません。賛美の歌も感謝にあふれたものにするようにと勧めています。教会の礼拝を目的とした讃美歌から派生したゴスペルソング(福音唱歌)が流行しています。伝道集会用の歌曲です。ゴスペル(GOSPEL)は、「福音(良い知らせ)」という意味です。GOD SPELL(神の言葉)が語源です。多くの人に愛されて定着してきており、歌う者にも、聴く者にも、元気を与えてくれる音楽です。20世紀からは、多くの讃美歌集に収録されてきました。心から神をほめたたえる歌として用いましょう。

「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい(3・17)」。

パウロは、話すにも、行うにも、すべて主イエスの名によってなされ、イエスによって父なる神へ感謝するようと勧めています。赦す愛を身にまとい、主イエスの御名によって、感謝しつつ行動することがキリストにある新しい人間の生き方です。主イエスによって十字架によって示され「赦し愛」こそ、この日本において今、夫婦や家族間においても、対人関係においても、最も必要とされているのではないでしょうか。

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「十字架の他に誇るものなし」 ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節

2019-09-16 11:40:22 | キリスト教

     ↑ 「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」 ガラテヤの信徒への手紙6章14節

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

   聖霊降臨節第16主日  2019年9月22日     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                        礼 拝 順 序

                                               司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 219(夕日落ちて)

交読詩編  142(声をあげ、主に向かって叫び)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節(p.351)

説  教  「十字架の他に誇るものなし」辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21)  511(光と闇とが)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

              次週礼拝 9月29(日)  午後5時~5時50分 

             聖 書 コロサイの信徒への手紙、3章12~17節

             説教題   「新しい人間」

             讃美歌(21) 57 411 交読詩編 37編1-22節

   本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙、6章14~18節

 6:14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。 15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 17これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。 18兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

   本日の説教

 パウロがガラテヤ州の北部のガラテヤ地方を最初に訪れ福音を伝えたのは。第2伝道旅行(紀元49~52頃)の時です。

 

 この北部地方は、本来のガラテヤ人が定住したアンキラ(現在のトルコの首都アンカラ)を中心とする地域です。紀元49~50年頃のことです(使徒16・6)。パウロがガラテヤに到着した時、彼は人々に躓きを与えるような病苦の姿であったにもかかわらず、ガラテヤの人々は彼の語る福音に心を開き、受け入れ、信仰の道に励むようになりました(ガラテヤ書4・13-14)。

 

 パウロがガラテヤ地方を二回目に訪れたのは、第3伝道旅行(紀元53~58年頃)の時、53年頃でした(使徒18・23)。

 ところが、二回目の訪問を終えて、パウロが次の訪問地エフェソに去った直後、ユダヤ教的律法主義に立つ伝道者たちがガラテヤに入りました。彼らはパウロの語る自由の福音を強く批判し、神によって真に義とされる信仰のみでは不十分であると宣伝し、さらにパウロ個人の伝道者としての資質、使徒的権威の根拠についても非難し、反パウロ的扇動を起こしました。教会にはこれに同調する者も出始め、分裂が生じる事態になりました(ガラテヤ書1・6、3・1、5・15)。

 パウロが約二年間エフェソに滞在していた時(使徒言行録19・1、8-10、20・31)のことです。パウロはガラテヤ教会の憂慮すべき事態を聞くと、直ちに激しい論争と叱責の手紙を書き、信徒たちを正しい信仰に引き戻そうとしたのでした。このとき書き送ったのが「ガラテヤの信徒への手紙」です。紀元54年の初期に書かれたと推定されます。

    彼らの教えは、福音が与える「律法からの自由」を失い、キリストの十字架の死によって成し遂げられた救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものをユダヤ教に換えてしまうことに他なりません。そこでパウロは、福音とは何であるかを説明します。彼は先ず、自分が説く福音は、キリストの啓示にもとづくものであり、エルサレムの使徒から受けたのではなく、独自のものであることを、具体的な事実により主張します(1・11~2・21)。こうしてパウロは、自己の回心と召命の事実を語り、エルサレムの使徒たちと対等の立場にある、キリストによって選ばれた使徒であることを宣言します。次いで、すべての人は律法の行いによるのではなく、救い主キリストを信じる信仰によって救われるという「信仰義認」を説きます(2・15~21)。

 パウロはユダヤ人の父祖アブラハムを諸民族の「祝福の源」として神が選んだのは、神は初めから罪人を信仰によって義と認める計画を立てていたからだと説きます。神がユダヤ人にモーセを通して律法を授けたのは、アブラハムから430年後のことであり、それは人が律法を行おうとして罪の意識と自覚を与えるためであり、キリストの救いに導く養育係りの役目を果たすためである(3章6~25)、と説きます。

 罪の支配されている人間は、神の律法を完全に守ることができません。(律法はキリストが山上の説教で教えたように、罪ある人間にとっては実行不可能な戒律です。)罪人が聖なる神との交わりを回復する救いの道は、キリストの十字架の死によるあがないと、罪と死に勝利した復活による救いを信じることによって開かれるのです。キリストを信じて神との交わりを回復した者は、神の子とされ、御子キリストの聖霊を受けます。人を律法の呪いから贖い出して、信じる者に御霊を与えて、神との生ける交わりのうちに歩む新しい生活へと導き入れることが出来るのは、十字架と復活のキリスト、この福音のみです。人はキリストを信じる信仰によってのみ、神と正しい関係にあると認められ、神の子として受け入れられ、聖なる神との交わるにあずかることが出来るのです。このようにパウロは福音という語で表現される神の恵みはキリストの十字架において完全に実現し、信じる者に無償で与えられるものであり、それは律法からの自由に裏付けられているというパウロの主張を明確に打ち出したのです。

 パウロの反対者たちは、パウロの福音は律法の行いを無視し、無律法主義の危険を招くと批判しました。このような非難や疑問に答えたのがガラテヤの手紙5章以下です。御霊が創造する新しいいのちは、人間生活を道徳的にする原動力となります。信仰によってキリストに結ばれているとき、その人は御霊によって歩み、肉の欲望に打ち勝つ力を与えられ、御霊の実を結ぶ生活に導かれます(5・16~23)。それゆえ、キリスト者の自由は無律法主義の危険を克服し、愛をもって互いに仕え合う生活をすることによって、キリストの律法を全うするのです(5・13~14)。

 キリスト者の自由は、キリストと共に十字架につけられ、キリスト共に復活させられた者となり、キリストの御霊との親密な交わりのうちに歩むことにあります。肉の欲望と行いを聖霊の力をいただいて退け、霊の導きに従ってたゆまず善を行い、愛の実践に励む信仰こそが大切なのです(5・25~6・10)。これがパウロの説いた福音に生きる者の生き方です。

 今日の6章11~18節は、手紙の結びの言葉です。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

 当時の手紙は口述筆記です。パウロの語ったことを筆記者に書かせたのです(ローマ16・16)。筆記者による口述筆記は6章10節で終わり、手紙の結びはパウロが直筆で書くのです。他のパウロの書いた手紙では、結びは短い挨拶の言葉と祝祷だけパウロが親しみを込めて書いています(コリントの信徒への第一の手紙やテサロニケの信徒への第二の手紙参照)。だが、このガラテヤの信徒への手紙では、かなり長い結びの言葉になっています。<こんなに大きい字で、自分の手で書いています>と、通常の手紙には意外と思われる断り書きがあります。大きな字で書いたのは、パウロが眼病を患っていたからとする説がありますが、この強調は、この手紙の重大さを訴えようとしています。

肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。

 いつわりの福音を伝える敵対者たちを思い起させ、<肉において恰好よくみなされたい>と願って、あなたがたに割礼を強いるのは、ユダヤ教徒から背教者として迫害されることを恐れ、身の安全を守ろうとする自分たちのためを思ってのこと以外のなにものでもありません。パウロは彼らの魂胆を暴いてみせます。<キリストの十字架>が原因である迫害を逃れようとすることは、パウロにとって福音を否定することであり、彼らの立場には同情の余地がありません。

割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。

 彼らの考えと行動のあざむきを暴いたパウロは、今度はその矛盾を皮肉な調子で指摘します。あなたがたに割礼を望む彼らの意図は、<あなたがたの肉について誇るためであり>、それはユダヤ教徒の迫害を免れさせることになるからです。割礼を受けている彼ら自身は、実は律法を守ってはいないのですから、割礼を勧めるの彼ら身の動機はまったくの自己満足と形式主義に過ぎないのです。

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

 パウロは彼らの誇りについて語ったので、今度は自分自身の誇りについて高らかに宣言します。その誇りとは、<主イエス・キリストの十字架>以外に<誇るものが決してあってはなりません>という断固とした調子で宣言しています。

この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

 ここで言われている<世>とは、<律法>を生きるよりどころとするような人間の生の現実を表しているとみなされます。わたしも世も互いに十字架にはりつけにされているので、律法を生きるよりどころとするような生き方とは、縁もゆかりもなくなってしまっていると宣言しています。

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されされることです。

キリスト者の実存は、キリストをよりどころとするものであることが強調されています。<古い人>から<新しい人>への転換は、洗礼によって実現されるのですが、<新しく創造されること>とは、キリスト者がキリスト者であること、またそれにふさわしく生きることです。

 パウロはコリントの信徒への手紙二の5章17節で「キリトと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と述べています。こうしてキリストを通して始められた新しい創造の御業に与ることこそが、救いにとって重要な事柄なのです。

このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

 パウロは当時の書簡形式に従って終わりの挨拶に移ります。<平和と憐れみ>を、神とキリストに願い求める祝福が述べられています。<このような原理>とは、「キリストの十字架」と「新しい創造」のことです。すなわち、キリストを実存のよりどころとするキリスト者のことです。<神のイスラエル>は、<肉によるイスラエル>との対比が意識された表現です。真の意味でアブラハムの子・イスラエルの民となっているキリスト者を指しています。

これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。

 <煩わす>とは、言うまでもなく、ユダヤ人キリスト者の<偽りの福音>に惑わされて、パウロの伝えた<真の福音>から離れ、偽りの神々に仕えるかつての「奴隷状態」へ逆戻りの道を歩むことであり、パウロの心を痛ませ、悩ませ、そしてこのような手紙を書かせることです。<焼き印>は奴隷が主人の所有物であることを表す入れ墨のようなしるしですが、パウロはこの語を用いることによって、自分が「主であるキリスト」に仕える奴隷となっており、またその保護下にあることを示そうとします。同時に、この「焼き印」は彼が宣教中キリストのゆえに被った迫害の傷痕であり、それもキリストの受難に参与する証しとして理解された傷痕を意味すると考えらえます。これはイエスに仕える真の使徒であるという主張に他なりません。

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

 パウロの手紙の末尾の祝福です。<兄弟たち>と呼びかけ、祝福が<あなたがた>、ガラテヤの信徒に向けられています。祝福の言葉として、「イエス・キリストから、したがって神から与えられる恵み」があるようにと祈られています。<アーメン>は、ヘブライ語・アラム語(ヘブライ語の地方語)で、「まことに、確かに」の意味で、ギリシア語に音訳されて用いられています。「そのとおりです」と「そうなりますように」との二重の意味があり、契約,誓約,祈り,賛美歌などに同意を示す意味でも用いられています。

 わたしたちにとっての誇りは、世の知恵や力や自分たちではなく、わたしたちを救うキリストの恵みであり、神の愛であり、聖霊の力です。「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」 

 

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「パウロの伝道者としての誇り」 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節

2019-09-10 21:53:29 | キリスト教

              ↑  コリントの信徒への手紙を書いた聖パウロ(右手に持つ書物は、パウロの書いた手紙が新約聖書の一部となっていること、左手にもつ長剣は、パウロが剣によって殉教したことを表すと同時に、「霊の剣(エフェソ6:19)」と言われる御言葉の不屈の宣教者であったことを表しています。)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

     聖霊降臨節第15主日  2019年9月15日     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                    礼 拝 順 序

                                                司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編   33(主に従う人よ、主によって喜び歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二、11章7~15節(p.337)

説  教   「パウロの伝道者としての誇り」辺見宗邦牧師

祈 祷                  

聖餐式     72(まごころもて)

讃美歌(21)  451(くすしき恵み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                        次週礼拝 9月22(日)  午後5時~5時50分 

                                        聖 書 ガラテヤの信徒への手紙、6章14~18節

                                        説教題   「十字架を背負う」

                                        讃美歌(21) 219 511 交読詩編 142

            本日の聖書 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節

11:7それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。 8わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。 9あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。 10わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。 11なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。 12わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。 13こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。 14だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 15だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。

                 本日の説教

  コリントの教会は、パウロが第二伝道旅行中(49~52年)、紀元49年から51年にかけて、一年六か月にわたり滞在して伝道してできた教会でした。当時のギリシアは、ローマ帝国(B.C.27~A.D.1453)の支配下にあり、北部はマケドニヤ州、南部はアカイア州の二つ行政区からなり、アカイア州の総督府は、アテネではなくコリントに置かれていました。

 

   コリントは、アドリア海とエーゲ海の二つの海に面した二つの港を持つ交通の要衝として重要な商業地であり、多種多様な人々が行き交う自由の空気の支配する文化的中心地でした。そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。パウロはコリントでユダヤ人夫婦、アキラとプリスカに出会ったことは、彼らが皮テントを作る職業であり、パウロと同じ職業なので、パウロの伝道活動の大きな支えとなりました(使徒言行録18章)。コリントの教会はまれにみる成長を遂げました。

 しかし、パウロが去った後、さまざまな問題が教会を襲いました。これらの問題について、パウロのもとに質問の手紙が届きました。コリントの手紙第一は、パウロが種々の具体的問題の質問に答えた手紙で、第三伝道旅行中(53~56年)、エフェソに約二年滞在中54年春頃に書かれた推定されています。

 コリントの手紙第二は、全て一度に書かれたのではないと思われます。第一の手紙を書いてまもなくパウロはコリント人とのあいだの緊張をほぐすためにみずからコリントに赴いたが成功せず、事態はかえって険悪となり、悲しみのうちにエフェソに引き返します(2・2以下、12・14、20・21、13・1-2)。その後、パウロは問題解決をテトスに委ね、情熱的な「涙の書簡」を持たせて彼をコリントに遣わし(2・9、7・8以下)、トロアスでその帰りを待つが、それが遅れたために不安になり、その地で伝道の大きな成果が期待されていたにもかかわらず、テトスを迎えるためにマケドニヤに足をのばしました(2・12-13)。ここでテトスはパウロに会い、コリントの信徒が後悔してパウロとの和解を熱望しているという吉報をもたらします(7・6-7)。パウロは喜びに溢れ、彼が行く前に募金のためにテトスを再びコリントに派遣します。このときテトスに託されたのが第二の手紙です(8・16以下、12・20、13・2)「説教者のための聖書講解No.15、p.15参照」

 第二の手紙は、パウロの死後、コリントでたれかが、パウロの手紙を保存するために、いくつかの手紙を一緒に組み合わせたものと思われます。全体の内容は以下のとおりです。

1章~7章 - パウロの内面的困難、コリントの信徒たちへの思いを述べます。1章15節には、「わたしたちは…神に献げられた良い香り(ユーオディア)です」と述べます。

8章~9章 - 慈善活動をすすめ、特にエルサレムの共同体支援を願っています。

10章~13章 - パウロに対する批判への反論と、コリントの信徒への配慮を告げ、結びのあいさつを述べます。11章にはパウロの人生における困難の数々を披露し、12章では「第三の天まであげられた」という神秘体験について、また自分に与えられた「とげ」について述べています。この書簡では他のどれよりもパウロが自分自身について多く語っています。

 コリントの教会には、自己推薦する者たちや、仲間どうしで批評し合い、比較し合う者がいました(10・12)。福音そのものに目を向けることせず、人間の方にのみ気を取られ、しかも、人間をただ表面的に見て判断し、ある人間を尊び、ある人間を軽んじたりしたのです。パウロは、外見は見栄えのしない、<実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない(10・10)>と人々から言われたようです。パウロの敵対者たちは、パウロの弱さ、欠点をとらえて攻撃し、パウロの使徒職を否定しようとしました。パウロは、<あなたがたはうわべのことだけ見ています>、<比較し合うことは愚かなことです>と戒めています。そして、<わたしたちの戦いの武器は肉のもではなく、神に由来する力>です、と語っています。

 11章1節から15節にかけて、パウロは偽使徒たちと自分とを比較して、自分の使徒職の本質を明らかにします。偽使徒たちは、コリントの教会で、パウロたちの宣べ伝えたのとは異なったキリストと福音を宣べ伝え、パウロが与えようとしたのとは異なった霊を与えようとしていました。このにせの使徒たちの教えを識別できずに真(ま)に受けていた信徒たちを、パウロは皮肉な調子でとがめています。「あなたがたは、だれかがやって来て私たちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢している」(11・4)と言っています。

 福音の正統性を危うくすることに対しては、パウロは一歩も譲りません。5節の<大使徒>という語で、<キリストの使徒>を自称した偽使徒たちと対峙します。パウロは彼らに比べて、特に働きの点で決して遜色はないと言います。そして、活動や労苦の点だけではなく、知識の面でも彼らにひけはとらないと言っています。その「知識」とは、人間的な知識、学識、雄弁、話術を指すのではなく、神の霊から教えられる知識や言葉を指しています。

 11章7節からは、パウロの使徒職が、偽使徒たちのそれと異なるもう一つの点が取り上げます。それは、無報酬でパウロが福音を宣べ伝えるいることについて、反対者からの批判があったからです。

パウロが最初にコリントを訪れ、一年半滞在して福音を宣べ伝えたとき、パウロはアキラ・プリスカ夫妻の家に住み込んで、一緒にテント造りの仕事をして収入を得ながら(使徒18・1~4)、安息日ごとに会堂で福音を伝えました。コリントの人々には金銭上の負担をかけませんでした。どのように生活が苦しくてもコリントの人たちには負担をかけず、「神の福音を無報酬で告げ知らせた」のです。

しかし、マケドニア州からシラスとテモテがやって来ると、フィリピの教会からの自発的な支援金は受け取り、パウロは御言葉を語ることに専念しました(使徒言行録18・5)。コリントの教会からは、宣教の報酬を受けない、パウロのこの姿勢が、コリント教会の信徒たちに誤解を与えました。パウロの批判者たちは、パウロは使徒としての資格がないから、報酬を受け取ることができないのだとか、信徒たちへの愛と信頼とが欠如しているから(11節)報酬を受け取らないのだとか、「他の諸教会からかすめ取っている」のだとか言って非難したのです。

<あなたがたを高めるため、自分を低くし神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。>とパウロは語りかけています。この問題については、コリントの手紙一の9章の3節から18節にかけて詳しく論じています。パウロは、<…主(イエス)は、福音を宣べ伝える人たちは福音によって生活の資を得るようにと、指示された(マタイ10・10)>と言って、福音を伝える者がそれによって生計を立てる権利を当然持っていることを認めています。しかしパウロ自身は決してこの権利を用いようとはしませんでした。<キリストの福音を少しでも妨げてはならないようにと、すべてを耐え忍ん>だのです。パウロの宣教は報酬が目当てでないことを示すものでした。また信徒に負担をかけたくなかったのです。

11・10の、<わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません>というパウロの決意は、コリントの手紙一の9章の<それでは、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです>(18節)という言葉に力強く表現されています。そして結局、この態度を貫き通すことが、「キリストの使徒を装い、義に仕える者を装う、偽使徒たち」から、自分の使徒職の正真性と正統性を擁護することになると判断したのです。パウロは報酬を受けとらないという点で、偽使徒たちとの違いを明瞭にし、彼らの誇りがいかに偽りであるかを暴露しようとしたのです。

偽使徒たちは明らかに収入目当ての仕事をしていたからです。彼らの教えは、イエス・キリストによる救いとは関係のない、単なる人間の思想でしかなかったのです。偽りの使徒たちの教えが結んだ実は、知識からくる高慢であり、高慢から来る対立と分派であり、そして高慢から神をも恐れない、また、他人のことも配慮しない、勝手なふるまいで教会を乱したのです。

しかし、不思議なことに、コリント教会の人々は、こういう偽使徒・偽教師たちを尊敬し、彼らの語る教えに耳を傾け、充分な報酬を払っていたのです。そして、逆に、自分で生活の糧をかせぎながら、報酬を要求しないで福音を語ったパウロのことを一段レベルの低い教師として軽蔑するようになったのです。それは当時の社会的風潮から、教師が報酬を要求しないのは自分の教えに自信がないからだという考え方をパウロのことに当てはめて、パウロを一段低く評価し、従ってまた、教えの内容も、パウロのは少し程度が低いが、偽教師たちの教えには哲学的な深みがあるとコリント教会の人々は考えたのです。

パウロの決意は、偽教師たちが大手を振るってアカイア州(コリント地方)で影響力を行使している時、当時の人々からは誤解され、評価されなくとも、自分はこれまで通り伝道者として福音に生きる姿勢を貫くことでした。

パウロは10節で、「わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません」と言っています。自分を低し、自分を貧しくしてキリストに仕えるということが福音伝道者としての自分の誇りであり、自分に内にあるキリストの真実だと言うのです。キリストはパウロの中に生き(ガラ2:20)、また語り給う(13:3)。従ってキリストの真実はパウロの中に働いている、というのです。パウロの誇りは自分の力に基ずく誇りではなく、弱さの中でこそ味わうことのできるキリストの恵みを知る誇りなのです。

彼ら偽使徒たちは現実にはキリストの僕ではなく、サタンの僕でした。サタンは善良な人にもなりすまします。サタンは欺くために光の天使を装います。サタンに仕える者たちが義に仕える者を装うことなど、良くあることです。コリントの教会の人々が、サタンが<光の天使>を偽装しているのを見破ることが出来ず、偽りの使徒たちの教えに魂を譲り渡していました。この世の知恵や力によって飾りたいというこの世の欲望にとらわれたからです。サタンとはそもそも神に敵対するもののことです。神から人間の心を離れさせようとするあらゆるものに対する戦いが、わたしたちの霊的な戦いです。サタンに打ち勝つためには、神の力、聖霊の力にたよる他はありません。

 主は「(わたしの)力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント二、12・9)と言われました。自分を低くくし、弱いときに神の力が働くのです。「誇る者は主を誇れ」(10・17)とパウロは告げます。すべての人に救いをもたらす主を誇り、わたしたちは弱い者になりきって、神の恵みと力をいただくとき、強い者とされて悪との戦いに勝利することが出来るのです。主を誇り、主に依り頼み、その偉大な力によって強くされましょう(エフェソ6・10)。

 

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「教会内の強い者と弱い者の交わり」 ローマの信徒への手紙14章1~9節

2019-09-04 11:48:46 | キリスト教

               ↑ ローマの信徒への手紙

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

      聖霊降臨節第14主日  2019年9月8日     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                   礼 拝 順 序

                                                司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 441(信仰をもて)

交読詩編   92(いかに楽しいことでしょう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙14章1~9節(p.293)

説  教    「教会内の強い者と弱い者の交わり」     辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21)  507(主に従うことは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                         次週礼拝 9月15(日)  午後5時~5時50分 

                                         聖 書 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節

                                         説教題   「神からの誉れ」

                                         讃美歌(21) 206 451 交読詩編 33

             本日の聖書 ローマの信徒への手紙14章1~9節

  14:1信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 2何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 3食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 4他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。 5ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 6特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。 7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」 14:12それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

                            本日の説教

  パウロの書いた手紙は新約聖書中に十三通あり、新約聖書全体の三分の一強を占めています。その十三の手紙のうちで最も重要な、また有名なのが、「ローマの信徒への手紙」です。それはパウロの神学的な思想が組織を立てて堂々と述べられているからです。この手紙が書かれたのは、彼の宣教活動の最後期に属する紀元56年頃、ギリシャのコリントに三か月間滞在していた時であろうと推定されています。パウロはローマの信徒とはほとんど面識がありません。ローマの信徒の集会は、おそらく最初はローマ在住のユダヤ人の間にもたらされたキリスト教が次第に異邦人に及び、パウロの手紙執筆時には異邦人を主体にして成立していたと思われます。このような未知の教会に手紙を書いた動機は、この未知の教会を訪問するに先立って、自己紹介をすることにあったと思われます。パウロはこの手紙で自己の福音理解を整理して述べたのです。

 1章1節以下の挨拶で、神の福音はダビデの子孫から生まれ、死者の中から復活して神の子とされたイエス・キリストであり、この福音を宣べ伝えるために、パウロは召されて使徒となったことを述べます。更に「福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であることを述べます。パウロは、福音の中心を<人が義とされるのは律法の行いによるのではなく>、贖いの業をなされたイエスを信じる者を義とする「信仰義認」を説きます。

   7章の人間の苦悩の問題をうけて、8章ではキリスト者の生を支えるのは、神の霊の力であることを証言します。霊とはキリストとの交わりであり、キリストと離れ難く結ばれて生きるにが「霊による歩み」です。ここに律法の満たされる道があります。それを満たすのは、わたしたちではなく、キリストが満たしてくださるのです。聖霊は交わりの霊であり、聖霊が「宿る」とは実体的に内住することではなく、キリストとの交わりの深まりに導かれることです。「内に宿っている御霊」は、今の「死のからだ」を「生かしてくださり、「からだあがなわれることを」待ち望む希望を与えてくださるのです。

 9~11章では、イスラエルと全人類の救いとしての福音とは何かを説きます。

  12章以下(15章まで)では、その福音にふさわしいキリスト者の生き方について述べます。12章の1~2節で、パウロはローマの兄弟たちに、その体を「神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげ」るように命じ、それが「なすべき霊的な礼拝」であると語り、それが信仰によって生きる人間の生活であると説きました。これを受けて12章3~21節では、教会内でのキリスト者の生活についての勧告がなされます。

   13章では、キリスト者の公的行動、国家との関係でどのような態度を取るべきか、愛が律法を完成するものであること、終末の日が近づいているので眠りからさめるべきであることについての勧めがなされました。

     「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬるとすれば主のために死ぬのです。」(ローマの信徒への手紙14章8節)

  そして14章以下(15章まで)で、「信仰の弱い者を受け入れなさい」という勧告がなされるのです。

  14章1~3節では、信仰の強い人たちに対し、<信仰の弱い人>を受け入れなさいと勧めています。<信仰の強い人>とは、<何を食べてもよいと信じている人>です。それに対して、ここで述べられている<信仰の弱い人>とは、<野菜だけを食べている人>です。「肉を食わず、酒を飲まない」(21節)人たちです。<信仰の弱い人>は、信念や確信に欠ける人ではなく、むしろ逆で、自分の従来からの生活信条に囚われてそこから自由になることのできない人です。

  <信仰の弱い人>を<受け入れなさい>というパウロの勧告は、単にその人たちを配慮し、教え導きなさいということではなく、その人たちの生活習慣に根ざす信念を理解せずに、その人たちをさばき、切り捨ててはならないということです。

  4節では、ローマの奴隷制度に言及して、人を裁くのは、よその家の僕を裁くのと同じである。この比喩は、一般的な奴隷―主人の関係から、教会の主キリストとその僕である信仰者の関係へと移行され、<召し使い>同士がお互いにお節介を焼く必要のないこと、<召し使いが立つのも倒れるのも、その主人による>ことが指摘されます。そのように信仰者の行為と生活についても、主キリストがその人を立たせるし、立たせることができると言います。主は、弱い者をも、否、弱い者をこそ、立たせるからです。互いの争いや裁きあいは、主に対する罪であり、不信であるということです。

  次に、5節では日の問題に入って行きます。<特定の日を重んじる人>とは、悪霊などによる影響を恐れて、日の良し悪しにこだわる人々や、安息日やユダヤ教の祝祭日を守るユダヤ人キリスト教徒のことを言っているようですが、パウロは、彼らの態度の良し悪しを問わずに、彼らが<主のため>にそのようにしていると解釈しています。また、他の人は<すべての日を同じように>考えています。それに対するパウロの立場は、各自がそれぞれの心の中で確信をもっておるべきであるというのです。日を重んじるか、重んじないかということよりも、それを主のためにするかしないかが問題だというのです。その点は、食べるのも同様であって、食べるのも主のために食べるのであり、食べないのも主のために食べないのでなければならない。つまり確信をもって、主のためにどちらかを選ぶことが大切なのだと言っています。それは自己を制御して生きる者も、自由に生きる者も共に、<主のために>そうするのであって、どちらも食事の際に<神に感謝>することから明らかであるとします。

  この基本的態度が、7-9節で展開されます。信仰者にとって生きるのは、主キリストのためであり、死ぬのも<主のため>であると言っています。<主のため>なら死んでも良いという表現です。パウロにとって、死はたんなる終わりではなく、天にある主イエス・キリストのもとに行くことでした(フィリピ1・21)。8節に「だから…わたしたちは主のものなのである」とあります。わたしたちは主キリストに属するものであり、キリストのものだという自覚です。なぜ主のもの、主に属するものといえるかですが、それに対してパウロはキリストは死者と生者との主となるために死んで生き返られたからだと答えています。死んで生き返ったということは、キリストの十字架と復活を意味しています。キリストは復活したことによって、父なる神の右に座し、全権を委ねられて、世界の主として立てられたのです。それ故に、主イエスを信じるものは、主のもの、主に属するものとなるのです。主イエスを信じるものは、主イエスの復活の命にあずかるのです。キリストを信じるものは、聖霊を与えられることによって、この世にあってすでに終末の栄光にあずかっているのです。

  10節では、再び<兄弟を裁き>、<兄弟を侮る>のは、自分の判断が他の人間の判断する基準であると主張することなのだと諭します。しかし、神こそがすべての判断の基準なのです。自分の判断を基準とする者は、自分を裁判官の席に座らせることになります。しかし実際は、自分たちこそ<神の裁きの座に立つ>のです。

  11節の、「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」は、イザヤ書45・23と49・18からの引用による礼拝における「歓呼」です。互いに受け入れ、裁き合ってはならないという勧告は、神こそが裁き主であるという賛美となります。

  12節では、最後に、パウロは短く、信仰者は個々人で神の前で申し開きをすべきこと、自分の生活態度に関して自ら責任を取るべきことを付け加えます。目を向けるべきは、他人の態度についてどう判断するかではなく、神の判断の前に立たされる自分自身の姿をかえりみながら、全責任を負って、善く考え判断し行動せよ、という勧めです。

   他人の言動をあれこれ言う以前に、みずからの言動について、愛の配慮に基づいているか、あなたのならわしに従って歩ませようとするなら、彼は自分の良心にそむき、それが原因となって挫折するかも知れない結果にならないかどうかを吟味すべきです。それでは反対に、信仰の強い者の自由が束縛されるではないか、という問いが出てきます。パウロはそれに対して、キリストは自由を放棄する以上のことをあえてなされた。キリストは信仰の弱い人のためにも死んでくださった。このことをしっかり心に銘記してほしい、とパウロは勧めています(14・15)。そのうえで、各自は自分の心の確信に基づいて自由に生きるべきなのです。

  ここには、やはりパウロが、ローマ教会をつまらない事で波風を立たせず、穏便に治め、教会の一致を守って行こうとする姿勢がよくあらわれています。教会の中で信仰の中心にかかわることでなければ、こうでなければならないという人と、そのような固定観念にとらわれない人とが相互に認め合っていくべきであるというのです。

  日本の教会には、アメリカから持ち込まれた清教徒(ピューリタン)信仰が伝えられ、謹厳で潔癖な宣教師たちは禁酒・禁煙を重んじたので、教会の敷居は高いものになり、庶民から孤立しました。庶民の生き方に対する配慮が欠けていました。韓国のキリスト教会では、禁酒を重んじる傾向があり、ある牧師は信徒の前では飲酒を控えていると語っています。つまずきを与えないように配慮しているのです。

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