富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『神を愛し、隣人を愛しなさい』とは」

2021-07-31 03:57:22 | キリスト教

         ファリサイ派の人々が集まった中で、一人の律法学者の質問に答えて、「最も重要な掟」について話すイエス。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第11主日  2021年8月1日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

                礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

交読詩編   31篇(主よ、みもとに身を寄せます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書22章34-40節(p.44)

説  教「『神を愛し、隣人を愛しなさい』とは」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                                                                         次週礼拝 8月8日(日)午後5時~5時50分    

                                                                        聖 書 コリントの信徒への手紙一、13章1-13節

                                                                        説教題  「パウロの愛の賛歌」

                                                                        讃美歌(21) 194 464 27 交読詩編 62   

            本日の聖書 マタイによる福音書22章34-40節

22:34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38これが最も重要な第一の掟である。 22:39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

         本日の説教

<ファリサイ派>は、イエスの時代にサドカイ派と並んでユダヤ教の大きな勢力でした。律法学者は多くファリサイ派に属していました。<ファリサイ>は「分離した者」の意味ですが、律法を守ることを重視した彼らは、一般の人から自分たちを分離したことから、この名で呼ばれました。<サドカイ派>は、祭司や上流階級を代表していました。霊や天使や復活を否定したと言われており、律法の解釈や生活の実践の面で、ファリサイ派と対立していました。

 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まりました。そのファリサイ派の一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 そこで、イエスは最も重要な掟について話します。共通する「最も重要な掟」は、マルコ福音書12:22-31、ルカ福音書10:27にも記されています。

<律法>とは、神の意志を表すもので、行動を規律するための規定されたもので、十戒や、モーセ五書(創・出・レビ・民・申命記)や、律法書(トーラー)に書かれている様々な儀式の決まりごとが含まれています。<戒め>は、律法の一つを指します。<掟(おきて)>は、守るべき定めを意味します。<預言者>とは、旧約聖書中の預言書を指します。

イエスが言われた第一の掟は、申命記6章5節に基ずくものです。また、第二の掟は、レビ記19章18節に基ずくものです。

イエスが、<律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている>と言われたことから、それは<どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れており>、キリスト教会は旧約の多数の掟をすべて守る必要がなくなりました。<掟>は、愛に歩むこと(ヨハネの手紙二、6)、愛の倫理になりました。

 普通、「愛」とは、人間どうしのいつくしみの気持ちや男女の恋愛感情を指しますが、「神への愛」も、「隣人への愛」も、気持ちや感情といった情緒的なものではありません。

「神への愛」は、イエスが父なる神を全能の神を信頼し、日夜の祈りにおいて交わり、神と共に歩み、神のご意思に服従しました。このように、「神への愛」は、神への畏敬と、服従として理解されます。 「隣人への愛」は、他者の幸福のために他者に向かって行動することを意味します。ここでは自己愛と隣人愛とが要求されているのではありません。隣人愛と共に求められているのは、むしろ自己犠牲です。この愛もイエスが世のすべての人々を愛を分け隔てなく愛され、救うために十字架の死を遂げてくださったことによって真実の隣人愛を示されました。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とは、全身全霊で神を愛しなさいということです。わたしたちが神を愛する前に、神が先にわたしたちを愛してくださったのです。わたしたちに対する神の愛は、神がわたしたちを救うために、御子をこの世に送られたこと、御子の生涯を通して、父なる神の御心が示されました。主イエスは、わたしたちの罪をあがなうために十字架の死を遂げ、わたしたちを天に招くために、復活されて、罪と死に勝利し、永遠の命に至る道を備えてくださいました。このことにより、わたしたちは神の愛を知ることができました。

神を愛すということは、神の愛に感謝し、この聖書によって示めされている神を、唯一の主として受け入れ、愛すことであり、自己の全存在において主である神を畏れ敬い、この神のご意思に服従するということです。

「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、自分と同等に愛すことであり、神を全身全霊で愛すこととは違いますが、第一の掟と<同じように重要>な掟です。イエスが要求している隣人愛は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)と言われていますが、それを実行することはむずかしいのです。人間には自己愛があり、自己中心的な性癖が染みこんでいます。隣人の命を自分の命と同等に見なすことは、自然の感情では不可能なことです。

人間同志の愛は、不完全で弱く、愛する対象への偏りもあります。良心が備わったいるので、私たちは隣人愛を理想としながらも、それを実行できないジレンマの中にあります。実行しようと思う善を実行できないことを、聖書では、わたしたちの中に住んでいる罪のせい(仕業)だとしています

第一の掟は、このようなジレンマ(板挟み)を脱出するために定められているのです。人間は自分の力で罪の問題を解決することはできません。

人間は神がわたしたちを愛されたので、わたしたちも互いに愛し合う者となるのです(ヨハネの手紙一、4:11)。私たちはキリストの愛を受け入れることによって、真実の愛を経験することができるのです。神の愛はあらゆる真実の愛の源泉です。私たちは神の愛を受けて、この愛を原動力としなければ、隣人を愛すことはできないのです。私たちを愛して下さったキリストを愛すことによって、隣人を愛す力が与えられるのです。

神を愛すことは、人への愛を伴うものであり、人を愛すことは神への愛を前提とします。神への愛が欠けるなら、自己中心の罪から解放されず、自己満足の愛になってしまうのです。神への愛と人への愛は、相互に関係しているのです。

讃美歌21の483番は、人を愛すような愛を求めているのではなく、主を愛する愛を増したまえと祈り求める歌です。それは神を愛す愛であり、主イエスを最大の喜びとして、主に従っていく信仰の歌です。

1節は、「わが主イェスよ、ひたすら、いのりもとむ愛をば。増させたまえ、主を愛する愛をば、愛をば。」とあります。

作詞者は、アメリカの女性エリサベス・プレンティスです。彼女は牧師の家庭に生まれ、27歳のとき、牧師夫人となりました。彼女は教師でした。彼女は二人の幼い子供を亡くしました。この詩は、1856年、38歳とき、彼女が病の床で、心身の苦痛の中にあって作られました。原作の英文の1節では、祈りを聞き給え。3節では、「悲しも苦痛も、キリストへの愛を増してくださるなら、すべてが甘美となるだろう。これがわたしの祈りのすべてです。4節では、わたしの最後の祈りとなるだろう。」と歌っています。

主イエス・キリストを愛し、賛美することは、「父である神をたたえることになるのです。」(フィリピ2:11)

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「あなたがたが主に結ばれていれば」 テサロニケの信徒への手紙一、3章1-10節

2021-07-25 01:17:15 | キリスト教

   ↑ コリントの信徒への手紙一、12章26-27節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第10主日  2021年7月25日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

     礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)

交読詩編  107篇1-9節(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)テサロニケの信徒への手紙一、3章1-10節(新p.365)

説  教 「あなたがたが主に結ばれていれば」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

讃美歌(21) 560(主イェスにおいては)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                    次週礼拝 8月1日(日)午後5時~5時50分    

                    聖 書 コリントの信徒への手紙13章1-3節、14章1節

                    説教題 「愛を追い求めなさい」

                    讃美歌(21) 475 483 27 交読詩編 31  

本日の聖書 テサロニケの信徒への手紙一、3章1-10節

 3:1そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、 2わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、 3このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。 4あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。 5そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。 6ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。 7それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。 8あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。 9わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。 10顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。

       本日の説教

 パウロがテサロニケを訪れたのは、第二伝道旅行の時です(使徒言行録17章1-9節)。

紀元50年後頃、当時テサロニケはローマ帝国のマケドニア州の首都で、ローマの州総督府がおかれ、商業も盛んな港町でした。現在はギリシャ共和国のテッサロニケという都市です。テサロニケにはユダヤ人も多く住んでいたので、彼らの会堂でパウロたちは福音を語りました。キリスト者の群れが誕生し、改心者たちはユダヤ人のヤソンの家で集会するようになりました。しかし、ユダヤ人の迫害に会い危険が迫ったので、パウロたちは急遽立ち去らなければなりませんでした。

  

              現在のテッサロニケ

パウロはベレヤを経て、アカイヤ州のアテネに行きました。そこで、パウロはテサロニケ教会のことが心配なので、テモテをテサロニケに派遣しました(テサロニケ一、3:1~10)。パウロはその後、コリントに行きました。そこにテモテが帰ってきて、テサロニケ教会の事情を報告したのです。テサロニケの手紙一、3章6節から13節の部分に、その報告を聞いてパウロは喜びにあふれ、今なお艱難と迫害の中にある教会を励まし力づけるために手紙を書き送ったのです。それが<テサロニケの信徒への手紙一>なのです。

「そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。」(3:1-3a)

パウロは、テサロニケを去った後も、絶えずテサロニケの信徒たちのことを心にとめ、心配していました。「もはや我慢できず、テモテを派遣しました」と記しています。テサロニケの信徒たちに会いたいという気持ちを、もはやじっとしていられなくなったのです。宣教師としての心配と同時に、テサロニケの人々を慕い求める心情だったのです。パウロは会うことを熱望し、一度ならず行こうと努力したのですが、何らかの事情によって妨げられました。パウロはその背景に神の計画を妨げるサタンの働きがあるとみました(2:18)それでパウロはアテネに残ることにし、神のために力を合わせて働くテモテを自分の代わりにテサロニケへ派遣しました。

 それはテサロニケの信徒を励まし、信仰を強め、このような苦難に遭っても自分たちを支えている土台が揺さぶらて、不安定にならないようにするためでした。それは、苦難に直面する彼らが、誘惑に引きずられて、信仰を放棄してしまうことを恐れたからです。

 「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。」(3:3a-4)

 テサロニケの手紙の背景にある苦難とは、パウロ自身が体験し、テサロニケの信徒たちにも避けがたい形で迫っている迫害です。テサロニケには大きなユダヤ人地区がありました。ユダヤ人の会堂でのパウロの説教は、反撥をかいました。パウロが宣教するキリストによる救いのメッセージは、ユダヤの人々に伝えられてきた信仰の教えを否定するように受け止められたからです。民族の長い歴史の中でユダヤ人は、律法と割礼の力を信じてきました。それを否定するかのようなパウロを危険人物として見なし、ユダヤ人たちは感情的に反撥し、ならずものを扇動し、暴力をもって、パウロたちだけでなく、改宗したばかりのヤソンたちの生活も脅かしたのです。パウロがテサロニケにいた時に予告した苦難が事実その通りになったと告げています。

 キリストに従う信徒は、洗礼によって「キリストと共に葬られ、キリストと共に復活した」のです。キリスト者として誕生したその瞬間から、その人生はその途上で遭遇するさまざまな、すべての「苦難を、キリストと共に、十字架を負う苦難として背負って、主イエスに従っていくのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と主イエスは励ましてくださるのです。「わたしたちは苦難を受けるように定められている」と、テサロニケの信徒に予告したパウロの言葉は、弟子たちに「あなたがたには世で苦難がる」と予告したキリストの言葉に重なります。

 「そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。」(3:5)

生活が脅かされ、自分の身も危うくなると、人は自らを守ろうとします。それは人間の本能です。その本能に引きずられて自分の信念や信仰を放棄してしまいたいという誘惑は、すべての人間が体験するものです。パウロはテサロニケの信徒がそのような誘惑を乗り越えるために助けが必要であると判断し、テモテを派遣したのです。

「ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。」(3:6)

パウロは先にアテネからテサロニケ教会へ弟子のテモテを派遣しました。その後コリントにまで来て、その結果を期待と不安との入りまじった思いで待っていたパウロのもとへ、テモテが今帰ってきて、良い報告をもたらしました。テサロニケの信徒たちの「信仰と愛」についての報告によって、パウロは大いに励まされ、喜びにあふれたのです。「わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました」ということが、いかに同じ思いによって結ばれてている信仰と愛の関係を具体的に表しています。

「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。」(3:7)

それで、パウロたちが福音の宣教のためにあらゆる困難と苦難に直面している厳しい現実の中にあって、テモテの報告によってもたらされた、「あなたがたの信仰によって」、パウロたちは大きな励ましを受けたことを感謝して報告しています。

「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」(3:8)

この文章の直訳は、「なぜなら、わたしたちは今生きています。もし、あなたがたが主にあって固く立つているなら」です。「もし」は、単なる仮定ではなく、事実の確認と言えます。「わたしたちは今生きます」は、テモテの報告を受けて、あなたがたがしっかりしてくれれば、わたしたちは生きるという意味です。相互に影響し合う関係にあるということです。テサロニケの信徒たちの信仰と愛が使徒パウロたちを支え励まし、力づけるのです。教会の牧師も教会員がしっかりキリストによって結ばれて生かされていれば、牧師をも生かすことになります。これは親子の間でも、夫婦の間でも、連帯に生き、一体となっている者たちの間に共通する事実です。わたしたちは、共に支えあう関係にあるのです。

 「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」(3:9)

 テモテの報告は大きな喜びと感謝を引き起こしました。信仰者にとって恵みの喜びは神に感謝としてささげずにはおかないものなのです。

 「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」(3:10)

 キリスト者にとって恵みの喜びは、神への感謝を生むが、それは同時に祈りの行為としてあらわれます。「夜も昼も切に祈っています」とは、毎日規則的に祈っているということです。「信仰に必要なものを補いたい」の信仰は、キリスト教の教理に限定することはありません。テサロニケ一の4章5章は、テサロニケの信徒たちの質問に対して書かれたたものですが、「必要を補いたい」というパウロの願いが表れています。そこには、「神に喜ばれる生活」や再臨の時についての教えが記されています。

 今日の礼拝には、順子さんが元気になって退院し、出席してくださいました。教会のみなさんが回復を祈っていたことが、かなえられました。順子さんも、私たちのことを祈っていてくださったことを知りました。順子さんの回復は、私たち教会の皆の喜びとなり、神への感謝となります。教会の私たちは、共に悩み、共に喜び、共に支え合い、共に生きる、キリストの体であり、一人一人はその部分です(コリント一、12:27)。

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「主によってしっかり立ちなさい」 フィリピの信徒への手紙3章12-4章1節

2021-07-17 22:35:07 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第9主日  2021年7月18日(日)       午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

交読詩編   98篇(新しい歌を主に向かて歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)フィリピの信徒への手紙3章12-4章1節(新p.365)

説  教 「主によってしっかり立ちなさい」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みくだ

さい。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

次週礼拝 7月25日(日)午後5時~5時50分    

聖 書 テサロニケの信徒への手紙一、3章1-10節

説教題 「あなたが主に結ばれていれば、私は生きる」

讃美歌(21) 481 560 27 交読詩編 107篇1-9節  

本日の聖書 フィリピの信徒への手紙3章12-4章1節

3:12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 15だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 16いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 4:1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち

、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

本日の説教

 これまでは、救いの根拠を律法の遵守に求めようとするユダヤ主義者たちに反論する教えを述べてきました。これからは、キリスト教生活の目標をすでに達成してしまっていると思い込んでいる人々を念頭に置いて論を進めます。

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(3:12)

 フィリピの教会内で分裂をもたらすパウロの敵対者たちの主張は、自分たちの力によって「わたしは、既にそれを得た」とか、「わたしは、既に完全な者となっている」と自称し、自分を誇りました。彼らは、自分たちの行為を誇り、自分たちを義なる者、正しい者であると主張したのです。それに対して、パウロは、「わたしはすでに完全な者となってわけでもない。なんとかして捕らえようと努めている」と言います。「なんとかして」は、捕らえることが実現されるか否かにパウロが充分の確信をえていないことを示唆します。すなわちこれは、目指すべき目標は定かであるが、完走することが出来るかどうか、また「賞与」を与えられるかどうかは自明のことではない、という状況から出た発言です。

「自分がキリスト・イエスによって捕らえられたからです」は、パウロがダマスコにおいてキリストの御心を示されて回心した出来事を指しています。キリストを「捕らえようと努める」姿勢は自分から生じるものではなく、すでに彼を捕らえているキリストから与えれるというのが、パウロの考えです。

「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(3:13-14)

フィリピの教会の信徒たちに、パウロは「兄弟たち」と呼びかけ、「わたし自身は既に捕らえたとは思っていません」と語りかけます。そして、キリストに捕らえられ、動かされている信仰者のとるべき姿勢は、競技場の走者の姿勢であり、なすべきことはただ一つ、過去をふり向くことなく、目標を目指して前進し続けることです。「全身を向けつつ」という表現はまさに全力疾走するランナーの、身をつんのめらせた姿勢をほうふつさせます。走るといっても、むやみやたらに走るのではありません。明確な目標を目指しての前進です。到達点で授与されるはずの賞を得るための疾走です。そしてその賞とは、ゴールする順位によって入賞者に与えられるメダルや名誉といった賞のためではなく、与えられたコースを、ゴールを目指して力走するすべての競技者に与えられる賞のためです。その賞とは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」なのです。キリストに捕らえられているがゆえに、捕らえようと努めるパウロは、神から上へと召されているがゆえに、その招きに応じて走り続け、神の備えてくださる賞を追い求めるのです。

キリスト者はすべて、キリストにあるに天の召し、永遠の栄光に招かれています。キリスト者の生活は、常に完成を求めて走る努力の過程にあります。キリスト者の業はキリストの恵み働きによるもであることを知っています。「あなたがたの中で善い業を始められた方(イエス)が、キリスト・イエスの日(キリストの再臨の日)までに、その業を成し遂げてく

ださる」(フィリピ1:6)と信じているからです。

「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」(3:15)

「キリスト・イエスによって捕らえられている」キリスト者たちは自らの力や功績を誇るのではなく、キリストにおけ

ることがら以外のものを決して誇りません。すなわち自分の

うちに何ら誇るべきものがないことを知っている者が、パウロの言う、「完全な者」なのです。しかし、パウロと異なる考えをしている者達に対して、神はそれを明らかに示すでしょう。

「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」(3:16)

とにかく、14節までで示されたパウロの生き方に立ち、途上にある者としての生涯を貫けと指示します。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(3:17)

パウロは、兄弟たち、と呼びかけ、「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい、と勧めます。具体的に言えば、「わたし」は、将来の目標に向かって進むパウロであり、より厳密に言えば、現在「キリストの苦難にあずかることにより、将来に「復活の力を知ること」の完成を期待する(3:10)パウロのことです。また、わたしたちを模範として霊的生活をしている人々に注目しなさい、と勧めます。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」(3:18)

「涙ながらに言いますが」は、「十字架の敵」を見て感じる心痛の激しさが示されています。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」とは、神の恵みであるキリストの十字架にではなく、律法の遵守に救いの根拠を求める人、すでに「得た」、「完全になった」とうぬぼれて、前進しようとしない人、キリストの復活にあずかるかたちでの復活に目を向

けない人、この世のことしか考えない人々のことです。パウロにとっては「十字架につけられたキリスト」こそ救いの源、救いの根拠です。従って、「十字架(のキリスト)」以外のことがらに救いを求めようとする人々は皆「キリストの十

字架の敵」となるのです。

「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(3:19)

彼らの行き着くところは滅びです。「彼らは腹を神とし」の腹は、広い意味にとって、人を救う力のない、空しいことがら、地上的なことがらと理解し、そういうことがらに「救いの神」として頼ろうとする愚をパウロは戒めています。「恥ずべきもの」は救いの根拠として頼ることができないもの」です。こういう意味で、真の救い主である十字架のキリス

トに向けられていない目は、「この世(地上のこと)」にしか、向くところがないのです。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(3:20)

 それにひきかえ、正しい道を走っている信仰者の「本国(行き着くところ)は、目に見えるこの世界を超えたところ、すなわち天にあります。しかし、「天」そのものが究極の到達点とされているのではなく、そこから来られる「救い主キ

リスト」が「待たれている」のです。

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(3:21)

このキリストは、「万物を支配下に置くことさえできる」方であって、その力によってわたしたちの体(朽ちる、消滅する体)を、御自分の栄光ある体と「同じ形に変えてくださる」のです。

「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によって

しっかりと立ちなさい。」(4:1)

「だから」という表現で、パウロは愛し慕っているフィリピの信徒たちに、これまで述べてきたことを総括するかたちで、さらに勧告を与え続けます。「わたしの喜びであり、冠である人たち」と呼びかけ、もう一度最後に「愛する人たち(アガぺートイ)」と付け加えています。「わたしの喜びと冠」は、終末に実現する喜びであり、冠は終わりの日に与えられる勝利のしるしです。パウロはこのように呼びかけることによって、彼らが信仰に生きぬくようにとの期待を合わせ表現しています。

 「このように主によってしっかり立ちなさい」の「このように」は、3章で述べられたからだの復活を終末時に待望する信仰者の生き方を指します。「主によってしっかりと立ちなさい」は、主に服従して、福音の信仰の戦いのために、兵士のごとく堅く立ち、「主」の支配下にとどまるようにとの勧告のことばです。

神の恵みによて救われた信仰者は、この世にある限り、救いはまだ完成されていません。救いの恵みに応えて、ますます福音にのっとった生活を送るよう努力を促されています。

オリンピックのアスリート(選手)たちが、目標を目指して絶え間ない激しい練習を続け、試合では全力を出しきって戦う姿勢を、私たち信仰者も学びたいものです。信仰者のもつ喜び、生きがいというものは、他のどんなことでも言い表すことのできないものがあります。神を礼拝し、キリストの愛を受け、、キリストと共に、キリストに従って走りつづけるという事は、実にすばらしいことです。信仰は人生の目的と意味を知らせてくれます。「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブライ12:1)。わたしたちに与えれる栄冠は、この世のどんな栄冠にも勝るものです。

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「死に打ち勝つイエス:やもめの息子を生き返らせる」 ルカによる福音書7章11-17節

2021-07-09 15:03:12 | キリスト教

       ↑ Pierre Bouillon ピエール・ブイヨン(1776 年– 1831年) フランスの画家

                  作品「イエス、ナインのやもめの息子を生き返らせる」1014x487

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

聖霊降臨節第8主日         2021年7月11日(日)

         午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま

わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                       

                             (エフェソ3・16-17)

礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 533(どんなときでも)

交読詩編   18篇1-20節(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書7章11-17節(新p.115)

説  教 「死の克服:やもめの息子を生き返らせる」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                        次週礼拝 7月18日(日)午後5時~5時50分    

                        聖 書 フィリピの信徒への手紙3章12-4章1節

                        説教題 「主によってしっかり立ちなさい」

                        讃美歌(21) 474 521 27 交読詩編 95   

本日の聖書 ルカによる福音書7章11-17節

7:11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

   本日の説教

 「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。」(7:11)

 イエスはガリラヤ湖畔の町カファルナウムで百人隊長の僕が病気で死にかかっているのを癒されたあと間もなく、ナインの町へ行きました。ナインの町はカファルナウムから南西30キロほど、一日路の距離です。ガリラヤのナザレの南東9キロ、タボル山のふもとにあります。弟子たちや大勢の人々もイエスと一緒でした。

 「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。」(7:12)

    

             イエスのガリラヤでの活動

イエスの一行が町の門に近づくと、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、町の門から棺おけが担ぎ出されるところに出くわしました。棺はおそらく簡素な蓋のない担架のようなものだったでしょう。埋葬の場所は町の外にありました。死んだ一人息子は、14節で主イエスが「若者よ」と呼びかけているので、若くして死んだ青年です。その母親は先に夫を亡くし、今度は頼りにしていた一人息子まで死なれた女性です。町の人が大勢、棺おけそばに付き添っていました。この母親と同様に、町の人々もこの冷酷な死の現実に打ちのめされ、同情を寄せている人達でした。愛する家族の者の死ほど、人生の中でつらく悲しいことはありません。

「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」(7:13)

主イエスはこの夫を亡くし、女手一つで育てた一人息子に先立たれた母親を見て憐れに思い、近づいて「もう泣かなくともよい」と言われました。<憐れに思い>は、この言葉の原語には「内臓」という言葉が用いられています。「内臓(はらわた)が激しく動く」ような痛みをともなう同情の心を示します。私たちが気の毒な人を見て感じる憐れみの思いとは違い、主イエスについてのみ用いられることばです。私たちではどうすことも出来ない、同情としての<憐れみ>とは違う、主としての、救い主としての憐れみです。死んだ者を死の支配から解放し、絶望して泣いている者を泣き止ませる力を持った、愛に満ちた憐れみ、同情なのです。

この「憐れに思い」の言葉は、「放蕩息子」のたとえで、父親が帰ってきた息子の姿を見つけて、<憐れに思い>走り寄った(ルカ15:20)とあります。また「善いサマリア人」の物語では、追いはぎに半殺しされた人をサマリア人が見て、<憐れに思い>、近寄った(ルカ10:33)と用いられています。

「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。」(7:14)

当時の葬列の慣習からすると、母が先頭に立っていたのだと考える人もいます。主は葬列の先頭に近づいて、棺おけに手を触れられ、担いでいる人たちの歩みを止めました。そしてイエスは生きてる人に言うように、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じました。

「すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」(7:15)

すると、死人は起き上がってものを言い始めました。イエスは息子をその母親にお返しになりました。

死人を生き返らせる主は、復活後の命にあふれるの主の力を、すでに地上で行使しました。アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです(コリント一、15:22)。イエスがこのような意味での主であることは、洗礼者ヨハネから主のもとに送られて来た使者に対して、イエスは<死者は生き返>っているという、イザヤ書の引用(イザヤ26:19)の伝言を伝えている(ルカ7:22)ことからも理解できます。ここでの<主>は、敬語ではなく、メシア(救い主)としての主なのです。

生き返った子を母親の返すという表現は、エリアの奇跡(列王上17:23)と一致します。しかしイエスはエリアと違って、一言で生き返らせています。エリアは三度も主に祈っています。旧約の預言者に対するイエスの優越性が示されています。

「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。」(7:16)

神を賛美する<人々>は、弟子たちとイエスとともに来た大勢の人々と、町の門の所で合流したやもめに付き添っていた大勢の町の人々です。人々は皆神の力そのものに触れる恐れを覚えつつ、神を賛美して、<大預言者が我々の間に現れた>と言い、<神がその民を顧みてくださった>と言いました。原語では<神がその民を訪れた>です。神がその民の所に来てくださったのです。

人々は旧約の大預言者エリアのことを思い起したのでしょう。列王記上17章に出てくるエリヤです。エリヤがサレプタという所の一人のやもめのもとに身を寄せていた時のことが語られています。ところがこのやもめの息子が病気になり、死んでしまいました。しかしエリヤが神様に祈り、この子の命を元に返してください、と三度も願うと、神様はその子供を生き返らせて下さったのです。エリヤは、やもめの死んだ息子を生き返らせる奇跡を行なった預言者です。

また旧約時代、ナインの町の近くにあった、シュネムという町で、エリヤの弟子の預言者エリシャが男の子供を生き返らせています(列王記下4:32-37)。

主イエスがナインのやもめの息子を復活させたのを見た人々は、この話を思い出し、主イエスのことを、大預言者エリヤやエリシャのような預言者の再来だと思ったのです。主イエスは彼らの再来ではなく、彼らこそ、やがて救い主として来られるイエス・キリストを指し示しているのです。この奇跡は主なる神が働いてくださったことによって起ったのであり、これは神の救いが訪れたことを表現しています。

「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」(7:17)

<イエスについてのこの話>は単なるうわさだけではなく、イエスは主、大預言者であるということの宣教をも意味します。そしてそれはユダヤ全土を超えていくべき性質のものでもあります。

死に対して人間は無力です。愛する家族との死別は人間にとって最もつらい、悲しい出来事です。私は高校生になった頃、いつかやってくる親との死別を思い、この死の問題で悩みました。この死のある世界に生れてこなければよかったと思うようになり、両親にそのことを思いき切って打ち明けました。両親は黙って聞くだけでした。「わたしを生んでくれてありがとう」と言ったのではありません。どんなに両親の心を痛めたか分かりません。

 しかし、高校二年生の頃から教会に行くようになり、礼拝や祈祷会で聖書の教えを聞いて、死は人間の罪の結果によるものであり、その罪を赦し、救うためにイエス様が世に来てくださったことを知り、罪人のために十字架の死を遂げてくださった神の愛を知りました。私が生まれてこなければよかったと思った死のあるこの世界に、神の子イエス様が生まれてくださったということは、わたしにとってありがたい救いとなりました。

こんな、死人を生かす奇跡は本当にあったのか、と誰しもいぶかるのではないでしょうか。主イエスが死人をよみがえらせた記事は、聖書に三つあります。一つはこのナインのやもめの息子、もう一つは会堂長ヤイロの娘(ルカ8:49-56)、そしてヨハネによる福音書にあるラザロです(ヨハネ11:38-44)。

これらの奇跡は主イエスには死を打ち破る力があることを示し、また主イエス・キリストの復活の出来事を指し示し、そしてキリストを主と受け入れる者全てに与えられるまことの救い、すなわち、罪の赦し・体のよみがえり・永遠の命を指し示したのです。

死を悼む際には、涙を流すのが当然です。イエスも、愛する兄弟ラザロを失って泣いているマリアを見て「涙を流されました」(ヨハネ11:35)。悲痛な悲しみを引き起こす死に対して、イエスは二度も憤りました。主イエスは父なる神に願い、ラザロを生き返らせました。

主イエスは私たちにも「もう泣かなくともよい」と言われています。死んだ愛する人は、無の闇の中に失われたのではなく、神の優しく力強い手の中に生かされているのです。主イエスは死を滅ぼし、死のとげ(コリント二,15:56-57)を取り去り、死の恐怖から解放してくださいました。死は終わりではなく、主イエスと共に生きる通過点です。イエスの愛は死の力より強いのです。イエス様はどんなときも共にいてくださり、私たちを天国に導いてくださり、死別した最愛の人たちと共に神の国を継ぐ者としてくださるのです。

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「『愚かな金持』のたとえ」 ルカによる福音書12章16-27

2021-07-03 16:50:08 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

聖霊降臨節第7主日         2021年7月4日(日)

         午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま

わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                       

                             (エフェソ3・16-17)

礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)

交読詩編   49篇(諸国の民よ、これを聞け)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書12章16-27(新p.131)

説  教   「『愚かな金持』のたとえ」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                                                        次週礼拝 7月11日(日)午後5時~5時50分    

                                                        聖 書 ルカによる福音書7章11-17節

                                                       説教題 「やもめの息子を生き返らせる」

                                                      讃美歌(21) 533 474 27 交読詩編 18  

本日の聖書 ルカによる福音書12章13―27

12:13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

本日の説教

群衆の一人がイエスの権威を認めて、<先生>と呼び、遺産の分配について依頼しました。兄弟が父の遺産を分配するときには、長男は二をとり他の人は一を取ると定められていました。ここでは全部兄が取ろうしたのでしょう。

イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」とたしなめられ、この世の問題解決のために、わたしは来たのではないことを明らかにされ、地上の財の調停役を断りました。イエスはこの遺産争いの中に、厭うべき「より多く持ちたい」という人間の貪欲を見抜いたのです。

そこで、群衆一同に言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と教えられました。<貪欲>とは、飽きることなくほしがる欲望、自己中心の欲望です。

それからイエスは、人のいのちと持ち物との関係をたとえで話されたのが、この「愚かな金持のたとえ」です。

ある金持ちの畑が予想以上に豊作でした。金持ちは収穫が多いことを喜び、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」といろいろ考えた末、思いつき言いました。ギリシヤ語原典を直訳すると、「こうしよう。(私の)倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに(私の)穀物や財産をみなしまい」こもう、そして自分(の魂)に言ってやるのだ、「(魂よ、さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。休んで、食べたり飲んだりして楽しめ」と、ひとりごとを言いました。

「私の作物」「私の倉」「私の穀物や財産」「私の魂」と、みな「私の」を追及する自我(エゴイズム)と富が強調され語られています。そして人間として生きる相手、隣人も神も語られていません。あたかも自力で生き続けることが出来るように思っています。また、金持ちは「飲み」「食い」「楽しむ」ことがただちに罪悪ではないが、神の恵みに感謝することのない傲慢と、翌年からは働かずにのんびりと享楽し、たくわえを食いつくそうとする貪欲にとらわれています。

その時、神がこの金持に語りかけます。神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われました。この金持は、神のことも、隣り人のことも忘れ、自分のことしか考えず、ただ現世の生活と安易な人生の享楽のみを求めていました。

 この金持の愚かさには、二つの誤りがありました。一つは、この世の自分の命を、希望通りにいつまでも長く、自分で持ち続けることができると考えていたことです。私たちの寿命は神の御手の中にあるということです。時期が来れば神の御心によって取り上げてしまわれるのです。この摂理を彼は頭に置いていなかったことです。もう一つは、豊作が神の恵みによるものであることを彼は忘れ、自分のためだけに穀物や財産を貯えたことにより、自分の魂に平安を与えることができると考えたことです。肉体的に楽をして、自分の好きなことをしていれば、その暮らしが裕福で、おだやかであり、自分の魂もそれで平安になる、と彼は考えていたことです。これは彼が、人の魂の平安とは何であるか、をわきまえなかったための誤りでした。人の魂の平安は神が共にいて下さり、神が与えて下さるものだからです。

 このような二つの誤った考えのために、この金持は無意味な生涯を閉じななければなりませんでした。そして次の新しい世界、神のみもとへは何一つ持って行けず、彼の魂は神の目には全く価値のないものと認められることになってしまいました。

 私は、1990年(平成2年)、当時56歳だったとき、胆石による胆嚢炎の3回目の再発で入院したとき、死を意識しました。そのとき、死への備えが全く出来ていないこと、天国には全く宝を積んでいないことを思い知らされました。このまま死んでは身の破滅だと思いました。まさに罪の裁きとしての死を覚えました。自分本位の生き方をしてきたことを懺悔いたしました。死ぬ前に生れ変わりたい。自己中心の自我から解放されて、感謝と喜びに満ちた愛の人に生れ変わりたい、と神に祈りました。

この金持は、富は本来神から与えられるものであることを忘れ、あたかも自分の占有物であるかのように思い、自分の富に安住し、自分を満足させるために使おうとしました。彼は、自分のことだけを追い求めないで、神のことを考え、人のことを顧みて、そのために彼の豊かな財産を利用すべきでした。

この愚かな金持のやり方は、人ごとではなく、実はわたしたち自身の現状にも当てはまります。わたしたちは、財産だけに限らず、知識や人格や人からの賞賛を求めて、ますます持ち物を増やして、自分の魂を満足させようと努力しているのではないでしょうか。

イエスは、「愚かな金持のたとえ」と話すにあたって、聴衆に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」と言われました。貪欲は財産だけに限りません。人に見せるための行為も、たとえそれが善行であっても、人からの賞賛を得ようとする行為は自己中心の欲望であり貪欲です。それはいわゆる地上の富です。人は善行をするにあたって、それを他人に見せることを心がけず、むしろ隠れた行為によって神からの報いを受けるという、天上の富をこそ求めるべきなのです(マタイ6:1-4)。

このように貪欲(むさぼり)は人が意識するより強く人々の心を捉えています。人は生まれながら貪欲であって、この欲から自分の力で逃れ出ることはできません。わたしたちはすべての貪欲から解放されて、正しい歩みができるように、主の導きを求めなければなりません。わたしたちは神のもとにいつか帰らなけれなりません。しかしそれはいつのことであるか、わたしたちには分かりません。わたしたちは常に神を意識して天に心をむけ、「神に出会う備え」を常にしていなければなりません。

「神の前に豊かになる」ということは、この世のことのみに捕らわれている小さな自我の束縛から解放され、キリストと共に生きる新しい命を与えられ、「何も持たないようでも、すべてのもの持つ」(コリント一、6:10)豊かな者とされることです。日毎に必要なものを豊かに与えられながら、神の栄光のために、また隣人を愛するために所有物が用いられ、「天に宝を積む」生き方ができるようにされることです。

パウロは、「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」(テモテ一,6:17)と教えています。

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