富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神の子とする霊」 ローマの信徒への手紙8章12~17節

2018-05-27 23:38:28 | キリスト教

          ↑ レンブラント 「放蕩息子の帰還」

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

           日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」                                                                                                                                                                   聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    聖霊降臨節第2主日 2018年5月27日(日)   午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 水田 淳子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

交読詩編   97(主こそ王)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) ローマの信徒への手紙8章12~17節(p.284)

説  教     「神の子とする霊」   辺見宗邦牧師

祈 祷     

讃美歌(21)  12(とうときわが神よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

      本日の礼拝

 日本キリスト教団仙台川平教会の水田淳子姉が、当教会の支援のために、礼拝の司会をしてくださいます。このような教会間の交流と支援は、主にあって教会は一つということの具体的な表れと感謝する次第です。

            次週礼拝 6月3日(日) 午後5時~5時50分

            聖書 使徒言行録4章13~31節

            説教題「伝道する教会」

            讃美歌(21)289 405 24 交読詩編107篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙8章12~17節

 8:12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

    本日の説教

イエス様が世に来られた時代、イスラエルの祭司や律法学者たちは、律法の掟をすべて実行しているという自負心がありました。自分たちに都合の良いように、律法を解釈していました。そこで主イエスは山上の説教で、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」と、律法学者のようにではなく、権威ある者として律法について教えられたのです。

「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と、ヨハネの手紙一1:8-9に記されています。自分たちの罪を神の前に認めなかったイスラエルの祭司たちは、罪から救うために世に来られた、神の子イエスを神を冒涜する者として死罪にしたのです。しかし、キリストは祭司たちによる苦難と死を予知し、そのこを弟子たちにも伝え、人類の罪の贖いのために十字架への道を歩み、復活によって昇天することにより、罪と死に支配下にある人類を救うう道を開かれたのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙で、人間はすべて、真の神を神として礼拝しようとしない、神に背く罪を宿していて、神の「律法」を守ることができない罪人であると説いています。律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(ローマ3・20)。

 7章では、律法の掟を実行しようとすると、自分が望むことは実行できず、かえって憎んでいることをするようになってしまうと深刻な葛藤の体験を述べ、律法の実行によっては罪の自覚しか生じないことを明らかにします。自分の望まないことをしているなら、それをしているのは、もはや自分ではなく、自分の中に住んでいる罪であり、その罪のとりこになっているみじめな人間を誰が救ってくれのでしょうか、と苦悶の叫びをあげます。このような人間を、救ってくださるのがイエス・キリストだと神に感謝するのです。

 神は人間が宿している罪を取り除くために、御子キリストを罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を断罪されました。これがキリストの十字架の死です。わたしたちも洗礼によってキリストと共に葬られました。また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられ、新しい命に生きる者とされたのです。イエスを死者の中から復活させられた方の霊が、わたしたちの内に宿り、「神の霊によって歩む者」とされたのです。

 古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためです。死んだ者は、罪から解放されています。キリスト者は、罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのです。自分自身を死者の中から生き返った者として神に捧げて生きるのです。罪は、もはや、キリスト者を支配することはないのです。キリスト者は、霊に従って歩む者です。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。」(8章12節)

 ここでいう肉とは、人間の肉体という意味ではありません。肉とは、肉体と精神の両方から成る人間とその営みのことです。その全体が「肉の弱さ」の下に、つまり罪の支配下にあるのです。信仰者は新しいいのちに生きる義務を負っています。しかし、その義務は肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

「肉に従って生きるならあなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。」(8章13節)

 肉に従って生きるなら、それは死へと繋がっています。そこで信仰者は肉の働きと絶縁するのでなければないません。<霊によって体の仕業を断つ>というときの、<霊>とは、私たちの心の中にある何らかの霊ではなくて、神の霊、聖霊です。私たちの内側にある力によってではなくて、外から、神から与えられる力によって生かされ、導かれて歩むことによってこそ、私たちは新しく生きることができるのです。<霊によって体の仕業を断つ>とは、自分自身の力でやって行こうと努力することではありません。。霊の働きを求め、私たちを通してキリストに働いていただくことです。パウロの強い勧告は、道徳的な闘いを求めているのではありません。自力で肉の支配に立ち向かっても、罪の力には勝つことはできません。霊に導かれることによってのみ、神の御心に従うことができるのです。

 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(8章14節)

< 神の霊によって導かれる>という表現は、自分の行動の主体が、神の霊であることを意味しています。この霊は、キリストを死者の中から復活させた神の霊です。この神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです。わたしたち人間が<神の子>となることができるのは、神の子キリストによって罪を赦され、神の子キリストと結びついて、神の子等とされ、神の霊である聖霊を与えらえているのです。この神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです。

 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(8章15節)

 主人の目を恐れる生活をしていた奴隷の身分より、キリストの霊を受けたわたしたちは、神の子である身分とされたのです。子供が父親に親しみかかわるように、神を父としてかかわることを許されたのです。あなたがたは、奴隷の霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって<アッバ、父よ>と呼ぶのです。<アッバ>は元来幼児語で、子供の父親に対する呼びかけのアラム語です。ここでは礼拝の中で会衆が挙げる神を呼ぶ声です。したがって、ここで個々の信仰者と神との父子関係は、教会と神との関係、民と神との関係としてとらえ直されています。

 「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(8章16節)

 わたしたちのうちに神の霊が絶えず働かれて、わたしたちが神の子であることを証言してくださり、かつ保証してくださるのです。

 「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(8章17節)

 キリスト者は、<神の相続人>であり、また、<キリストの共同の相続人>でもあります。それは、イエスと栄光を共にし、苦難を共にすることにおいて父の世継ぎとして遺産を継ぐことが可能となるのです。相続する遺産とは、キリストが相続するところのものであり、キリストの受けるべき「神の栄光」であり、「永遠の支配」であり、「永遠の生命」です。わたしたちが受けるべき遺産を完全に所有するのは、終わりの時まで待たなければなりません。「聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである」(エフェソ1・14)と使徒パウロは述べています。

 律法のもとで、奴隷状態であった、古いイスラエルも、この世のもろもろの霊力のもとに縛られていた異邦の民も、御子キリストの十字架の贖いと復活により、すべてが神の子である身分を与えられる道が備えられたのです。わたしたちキリスト者や教会はその初穂なのです。キリストを信じている私たちは、「神の子」とされている自覚をもって、キリストとの交わりを深め、聖霊の力を受け、主の御名をほめたたえつつ、主の愛の証し人となりましょう。

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「聖霊の賜物」 使徒言行録2章1~11節

2018-05-20 02:20:22 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」                                                               聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

   聖霊降臨節第1主日(聖霊降臨日) 2018年5月20日(日) 午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)

交読詩編  122(主の家に行こう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)  使徒言行録2章1~11節(p.214)

説  教      「聖霊の賜物」     辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)        

讃美歌   475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

           次週礼拝 5月27日(日) 午後5時~5時50分

            聖書 ローマの信徒への手紙8章12~17節

            説教題「神の子とする霊」

            讃美歌(21) 155 12 24 交読詩編97篇

  本日の聖書 使徒言行録2章1~11節

 2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

   本日の説教

 教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日です。キリスト教の三大記念日の一つです。「ペンテコステ」とは、ギリシャ語の「50」という意味です。キリストの復活を祝うイ―スターの日から五十日目に当たる日に、イエスの弟子たちに聖霊が降ったことから、この記念日を「ペンテコステ」という名前で呼んでいます。

 この日は、ユダヤ教の過越祭(すぎこしさい)の安息日の翌日(日曜日)から、七週を数えたその翌日、すなわち五十日目の「七週祭(シャーブオート)」の日です(出エジプト記34・22、申命記16・10、レビ記23:15-16)。「刈り入れの祭り」(出23:16)とも呼ばれていました。この日は、ギリシャ語が共通語として使われた時代に、五(ご)旬(じゅん)祭(さい)(ペンテコステ)という別名で呼ばれました。この祭りは<小麦の収穫の初穂>を神にささげる日でした。新しく穫れた小麦粉で作ったパンを神に献げ、収穫を感謝したのです。五旬祭は、後期ユダヤ教時代(B.C.5~3世紀)になると、モーセがシナイ山で律法を授かったことを記念する日とされ、ユダヤ教の三大祝祭(過越祭、五旬祭、仮庵祭)の一つとして大切に守られていました。

 使徒言行録二章には、ユダヤ教の五旬祭(ペンテコステ)の日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が降り、初代教会が創設され、宣教活動が始まったことを伝えています。

 四十日にわたって弟子たちに現れた復活のイエスは、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1:4-5)と命じていました。オリーブ山で昇天するときも、イエスは使徒たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサエムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と言われました。

  イエスの昇天後、使徒たちはすぐに、最後の晩餐が行われた家と思われる、彼らが泊まっていた家の上の部屋に集まりました(使徒言行録1:13)。十一使徒は、婦人たちや、イエスの母、兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていました。ペトロは、ユダに代わる人を選ぶことを、百二十人ほどの人々が集まっているところで提案し、二人の候補者を立てて、くじを引き、マティアを使徒に選びました(使徒言行録1・15)。このようにして、五十日間、主イエスが約束された聖霊の到来を待っていたことが、最初の教会誕生のための準備の期間となりました。

 五旬祭の日に、<一同>が一つになって集まっていました。彼らが泊まっていた家の上の部屋と思われます。聖霊降臨という大きな出来事は、三つの超自然的なしるしを伴っておきました。

その第一は、<突然、激しいが吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に>響きました。<風>は霊の降臨を表現しています。

その第二は、炎のようなが分かれ分かれに現れ、一人一人の上に>とどまりました。、<>は言葉を表しています。聖霊は「言葉」の賜物を伴って臨んだのです。

第三のしるしは、聖霊に満たされた一同が、御霊の語らせるままに語る者となり、<ほかの国々の言葉で>話しだしました。他の国々の人たちの<故郷の言葉>で話し出したのです(2:6、8、10)。彼らは主のよみがえりを証言し、福音を伝える者になりました。彼らは<神の偉大な業>について語り、神を賛美したのです。

 エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいました。エルサレム巡礼に来て、一時的に滞在していた人もいました。国外に離散していた人々で、現在は祖国に帰った人たちや、外国生まれのユダヤ人たちです。ユダヤ教に改宗した異邦人たちも数多く住んでいました。エルサレムに住むこのような大勢の人が、この聖霊降臨の出来事の物音に集まって来ました。そしてだれもかれもが、自分たちが生まれた故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました。自分たちの外国の生まれ故郷の言葉を、ガリラヤ出身の使徒たちが話すのを聞いて驚いたのです。聖霊の賜物は異なった言葉で語るという奇跡的な賜物でした。

 離散のユダヤ人の出身地の地名が、ユダヤを中心にして東方からあげられます。

( 1パルティア、2メディア、3エラム)はローマ帝国外の東方諸地方です。4メソポタミア、ユダヤ(パレスチナ北西部を指す)、そして北西へ、5カパドキア、6ポントス、7アジア、8フリギア、9パンフィリア)は地中北東部の諸地方です。またそこから地中海東南部へ(10エジプト、11キレネ、12リビア)と円を描くように記され、そこから一転して北上し、遠く離れた13ローマがあげられます。<14クレタ、15アラビアから来た者>とは、西方の海洋民と東方の内陸民です。これら15の地域のことばで、キリストの弟子たちが、神の偉大な業を語っているのを聞いて驚いたのです。神の偉大な業の具体的な問題は、14節以下のペトロの説教において明らかになります。

 当時、国外へ離散していたユダヤ人の数は4~5百万人です。エルサレムを含むパレスチナに住むユダヤ人の数はわずか50万人ほどでした。ユダヤを含むシリア地方とメソポタミアの共通語は、その当時はアラム語(ヘブライ語とは方言程度の差)でした。ローマ帝国の支配する地中海沿岸の地域の共通語はギリシア語(コイネー)でした。聖霊降臨の時、使徒たちはこれらの共通語であるアラム語やギリシア語で話したのではなく、十五の地域の、それぞれの言葉で語ったと言うのです。この出来事は、全世界の人々がやがて、自分たちの国語で、イエスの福音を聞く日が来ることを、象徴する出来事でした。

 聖霊降臨で起こった霊の注ぎは、個人の内面にかかわる聖化としてではなく、教会が福音をたずさえて「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆を引き付ける力でした。臆病だった弟子たちに、語るための力が与えられ、言葉の賜物、異なった言語で語るという賜物が与えられたのです。それぞれの地域の人々に理解できるように話す言葉、通じる言葉が与えられたのです。主イエスが昇天の時、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と告げたことが起こったのです。

 弟子たちはエルサレムに住むユダヤ人や改宗した異邦人に、聖霊に満たされて神の偉大な業を語り、賛美しました。この日、ペトロの説教の後、三千人ほどの人が洗礼を受け、仲間に加わりました。ペンテコステの日、教会はこうして誕生しました。「五旬祭」は収穫の感謝として初穂を献げる祭りです。この日、十二使徒の代表ペトロの新正と、彼の説教を通して、洗礼を受けた「三千人ほど」を収穫したのです。ここにキリスト教会誕生というすばらしい初穂が捧げられたのです。

 私たちも、聖霊の力、民衆の場に出て行く力を与えられ、隣人にも福音を伝える者とされましょう。聖霊はわたしたちに聞く価値のあることを語らせてくださる力であり、聞く人に希望といのちと力を与えるのです。聖霊はイエスの十字架と復活を証言する力であり、教会を全世界へと押し出す原動力動です。聖霊に満たされて歩みましょう。

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「聖書の神は語られる神、沈黙し続けない」 ローマの信徒への手紙8章31~39節

2018-05-08 02:19:24 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」                                        聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  復活節第7主日 2018年5月13日(日) 午後0時40分~1時20分

  (仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝) 

     礼 拝 順 序

                司会 野崎 光男兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

交読詩編  115(わたしたちではなく、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ローマの信徒への手紙8章31~39節(p.285)

説  教  「聖書の神は語られる神、沈黙し続けない」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

       合同礼拝について

日本キリスト教団仙台青葉荘教会の壮年会の皆様は、毎年5月第二主日の昼頃から、富谷教会支援のために、富谷教会で合同礼拝をしてくださいます。6名の方が来られます。礼拝の司会も担当されます。富谷教会の方も6名が参加します。礼拝後は、壮年会で用意して下さる弁当をいただきます。昼食後は、茶室で抹茶の接待をし、懇談の時を過ごします。終了は3時頃の予定です。

            次週礼拝 5月20日(日) 午後5時~5時50分

            聖霊降臨日礼拝

            聖書 使徒言行録2章1~11節

            説教題「聖霊の賜物」

            讃美歌(21) 342 529 24 交読詩編122篇

   本日の聖書 ローマの信徒への手紙8章31~39節

 8:31では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。32わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。33だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。34だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。35だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。36「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。37しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

      本日の説教

 昨年、遠藤周作の小説『沈黙』が、イタリア系アメリカ人のスコセッシ監督によって映画化され、上映されました。小説『沈黙』(1966 年)は、キリシタン禁制の時代に、カトリックの司祭が棄教することをテーマにした、作家遠藤周作の作品です。最初からその評価について議論を呼んだ問題作でもあります。

 映画の題名「Silence」は、17世紀の江戸初期の日本を舞台にした、この歴史小説『沈黙』を映像化したものです。この映画を見た多くの方々は、残虐な拷問に圧倒され、沈黙する神に疑問をもち、信仰を捨てる神父たちを見て、複雑な思いを抱かれたのではないでしょうか。そこで映画について解説しながら、神の沈黙について、聖書から学びたいと思います。

 この映画は、激しいキリシタン弾圧の中で棄教した二人の実在した司祭、フェレイラ(1580頃~1650)と、キアラ(1602~1685)をモデルにしています。ポルトガル出身のイエズス会司祭フェレイラは慶長14年(1609年)、長崎に渡来し、迫害下の長崎や大阪で布教しました。寛永10年(1633)、長崎で捕らえられ、数時間の穴吊るし刑の後、棄教しました。日本名を沢野忠庵、妻と30人の奉公人を与えられ、禅宗寺の檀家となり、長崎に住み、キリシタン詮議に協力しました。この棄教はイエズス会をはじめ教会関係者に与えた衝撃は大きく、海外にも大きな反響を与えました。

 キアラはイタリア人で、イエズス会の司祭です。1635年にリスボンを出港、カンボジア布教などに従事したが、日本布教の熱意から寛永20年(1643)、筑前国(福岡県)に潜入するも、間もなく捕らえらえ、幕府側の詮議を受け、念仏を唱え棄教しました。その後、日本名は岡本三右衛門、妻と奉公人10人を与えられ、宗門改め役の配下として江戸切支丹屋敷で死ぬまで幽閉の身となりました。

 映画では、このキアラをモデルにして主役を演ずるのがロドリゴです。島原の乱(1637~1638)が幕府によって鎮圧されて間もない頃、日本で布教していた準管区長のフェレイラが、苛酷な弾圧に屈して棄教したという報せがローマにもたらされました。フィレイラの弟子であるポルトガル人司祭のロドリゴは、恩師の棄教が信じられず、ガルペと共に、日本に潜入するためマカオに立ち寄り、そこで気の弱い日本人キチジローと出会います。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となります。幕府に処刑される信者たちの前に駆け寄ったガルペは殉教します。

 次々と隠れキリシタンが役人によって摘発され、海辺の十字架に磔にされ、藁に包まれたまま海へ投げ入れられるなど、激しい拷問を受けるキリシタンの救いが見えない状況にロドリゴは苦悩します。宣教師である彼も、沈黙を続ける神に疑問を持ちはじめます。「主よ、なぜあなたは黙ったままなのですか」と、ロドリゴは主に訴えます。逃亡するロドリゴは、キチジローの裏切りで密告され、捕らえられます。

 以前はキリスト教に帰依して、洗礼まで受けた長崎奉行の井上筑後は、司祭ロドリゴに、日本人にとって果たしてキリスト教は意味をもつのかと、「日本宣教泥沼論」を語り、神への疑問を植え付けます。歴史上実在した人物、井上(正重)筑後守(1585~1661)をモデルにしています。井上筑後守は、三代将軍家光に仕え、島原の乱で島原や、長崎にも度々行き、キリシタン禁圧政策実行の主導者となり、全国のキリシタン根絶に取り組んだ人物です。

 長崎奉行所で、ロドリゴは、棄教したフェレイラに出会います。神の栄光に満ちた殉教を覚悟で牢につながれたロドリゴに、夜半、フェレイラが語りかけます。囚人の信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り彼らは許されないことを告げます。その棄教の説得を拒絶するロドリゴは、一晩中、拷問にかけられた隠れキリシタンたちのうめき声を聞かされます。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、キリスト教徒を救うべきなのか、究極のジレンマを突き付けられたロドリゴに、フェレイラが、「もしキリストがここにいられたら、キリストは転んだでしょう。愛のために、自分のすべてを犠牲にしても」と語りかけます。フェレイラが棄教したのも同じ理由によることを知り、ついに踏絵を踏むことをロドリゴは受け入れます。

 夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになります。銅板に刻まれた主の顔に近づけた彼の足に激しい痛みが襲います。そのとき銅板のキリストの顔が司祭に向かって言いました。「踏むがよい。お前のその足の痛みを、この私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生れ、十字架を背負ったのだから」と語りかけます。

  こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねます。映画では、キリストが再び、キチジローの顔を通してロドリゴに語りかけます。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と。

 映画の最後は、ロドリゴが亡くなり、仏式の葬儀が行われます。棺桶には座ったロドリゴの遺体があり、ロドリゴの妻がロドリゴの胸のあたりに魔除けの子刀をそっと入れるシーンがあります。このときにロドリゴが最後まで隠し持っていた十字架を入れたのでしょう。ラストシーンは火葬の棺桶の中のロドリゴの遺体の胸には十字架が置かれています。ロドリゴは棄教したのではないことを示しているようです。

 原作の小説では、次のようなロドリゴの独白で終わります。「自分は…あの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」

  遠藤周作とスコセッシ監督は、聖職者も含め人間は拷問の苦痛から逃れるために踏み絵を踏んでしまう、そのような弱い者に焦点を当て、神はそのような弱い者に愛や救済の手をのべて許すほど大きいことをこの小説や映画で訴えようとしたのです。確かにイエスは弟子たちの人間的な弱さを知っていました。だから最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。そして復活した後、弟子たちの会うことを伝えました(マタイ26:31-35)。

 この映画の中で、神への信仰を貫くのか、人を憐れみ信仰を捨てるのか、という二者択一の場面で、「もしキリストがここにいられたら、キリストは転んだでしょう。愛のために、自分のすべてを犠牲にしても」というフェレイラの言葉や、踏絵の前で「踏むがよい。お前のその足の痛みを、この私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生れ、十字架を背負ったのだから」という沈黙を破って語るキリストの言葉は、遠藤周作がロドリゴに踏絵を踏ませ、信徒を死から救うことの方を選ばせるために考えだした小説の作者のことばです。聖書の教えに反するものです。作者は、あの第一の戒めである神を愛すことよりも、第二の戒めである人を愛することの方を優先させ、選んだのです。しかし、それが本当に人を愛することになるのかが問題です。なぜなら、この世での生に執着することにより、復活の命に生きる信仰を失わせ、永遠の命を継ぐ希望を捨てることになるからです。

 主イエスは、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を継ぐ。」(マタイ19・29)「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10・28)と言っておられます。

 遠藤周作は、拷問に屈した者と、屈しなかった者の違いを次のように述べています。「拷問のなかで神のおそろしい沈黙を感じた者は棄教し神もまた自分と共に今、苦しんでいるのだと考えた者はこの責め苦に耐えぬこうとしたのである。」(『遠藤周作文学全集10 評伝1』エッセイ)

 小説にも、映画にも、拷問の時、神は沈黙していた、としています。「沈黙」という題名は、ここからつけられたのです。殉教者に対する、イエスの執り成しによる霊的支えが何もなかったようにその真相を捉えているのです。そして、神が沈黙を破って語るのは、ロドリゴに踏絵を踏ませる時と、キチジローを通して、「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」とロドリゴの棄教を認める時です。殉教者には、神もイエスも沈黙したままであったとしているのです。

 遠藤周作は、小説「イエスの生涯」の後書きで、イエスの復活自体を起こったこととしてではなく、復活をその信仰者たちに信じさせたその力の存在を通して、復活は信仰者たちの心には真実として確かにあり得たのだと言っています。これはイエスの復活を事実として信じる信仰ではありません。十字架と復活のイエスを主と信じる信仰は聖霊によって与えられるのです。知的思索によって得られるものではありません。『沈黙』は洗礼を受けながらも信仰について疑問を持ち、自らとキリスト教の関係について考え続けた遠藤周作の創作であり、小説なのです。 

    聖書の神は「沈黙の神」ではなく、「語られる神」です。偶像の神は「口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」(詩115篇5~7節)、神です。なぜなら、それらは人の手によって造られた偶像だからです。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ人への手紙1章1節)とあるように、天地を創造された聖書の神は、「語られる神」です。

 旧約聖書の中には、沈黙されている神に訴える祈りがいくつも記されています(詩編27篇9節、35篇22節、38篇22節、55篇2~5節)。しかし、「神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。…主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる(38:20,23)」という祈りや信仰が語られています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)で始まる詩篇22篇は、「主は…御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげ」ます(22:25-26)、という神への信頼と賛美は、神が御子イエスを死から復活させられたことによって、成就し、確かなものとなりました。

 今日の聖書の箇所にあるように、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。キリストは聖霊によって弱い者を強め、迫害にも耐えるようにしてくださるのです。神は沈黙していません。キリストはわたしたちの心に住んでくださり、どんな時にも共にいてくださる方です。死も剣もどんなものも、キリストによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないという確信を与えてくださるのです。このような強い信仰をもって拷問に耐えた殉教者たちの存在を、小説「沈黙」では無視しています。神を愛することを第一とする者たちの死は、強い励ましと勇気を与える信仰の証し人となったのです。

 

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「父のみもとへ行く。聖霊をおくる。」 ヨハネによる福音書16章12~24節

2018-05-05 23:13:57 | キリスト教

     ↑ 「ユダが去った後の最後の晩餐で語る主イエス」

 981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」                       聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    復活節第6主日 2018年5月6(日) 午後5時~5時50分  

     礼 拝 順 序

            司会 佐藤 洋子姉  

前 奏                       奏楽  辺見トモ子姉                                               

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)                   

交読詩編   15(主よ、どのような人が)                  

主の祈り   93-5、A                         

使徒信条   93-4、A                          

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書16章12~24節(新p.200)     

司会者祈祷                                                

説  教    「父のみもとへ行く。聖霊を送る。」 辺見宗邦牧師               

祈 祷                                                 

讃美歌(21) 337(たたえよ、この日)                               

献 金                                             

感謝祈祷                                                

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)                                 

祝 祷                                               

後 奏 

   次週礼拝 5月13日(日) 午後0時40分~1時30分

 毎年恒例の、日本キリスト教団仙台青葉荘教会壮年会の皆様との合同礼拝です。礼拝後、茶室での呈茶と懇談会があります。壮年会で全員の弁当を準備してくださいます。 

     聖書  ローマの信徒への手紙8章34節~39節                              

         説教題 説教「生ける神は沈黙しない」 辺見牧師                                

        讃美歌(21)510 511 24 交読詩編115篇                               

        司会 野崎光夫兄  奏楽 松本芳哉兄                                   

        献金感謝祈祷 田中恵子姉

     本日の聖書 ヨハネによる福音書15章1~11節

 16:12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」          16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」 17そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 18また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 19イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。 20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 21女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 22ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

      本日の説教

  ヨハネによる福音書13章から17章までは、最後の晩餐の席での出来事やイエスが弟子たちに話されたことが記されています。「小さい見出し文」に従って、全体を把握しましょう。特に、聖霊について教えている箇所に焦点を当ててみましょう。

 13章1-20節 イエスが弟子たちの足を洗い、弟子たちもするように、模範を示します。                                                   21-30節 ユダの裏切を予告する。ユダは食事の席から出ていきます。      31-35節 新しい愛の掟を与えます。                                36-38節 <あなたのためなら命を捨てます>と言うペトロに対して、イエスは、<あなたはわたしを知らないと言うだろう>とペトロの離反を予告します。

 14章から16章まではイエスの別れの講話が続きます。その中で、イエスが去った後で、弟子たちに与えられる聖霊についての話しがなされます。         14章1-14節 <イエスは天の父に至る道である>ことを教えます。トマスやフィリポの質問に答えます。                                         15-31節 ここから聖霊を与える約束がなされます。                            1 イエスの願いにより、父は別の<弁護者>を送る(14:16)         2 <弁護者>は弟子たちと永遠にいる(14:16)               3 <弁護者>は、<真理の御霊>である(14:17a)             4 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない(14:17b,c)                               5 しかし弟子たちはこの霊を知っている(14:17d)。それは弟子たちと共におり、また弟子たちの内にいるからである(14:17e、また20:22)       6 <弁護者>は<聖霊>である(14:26a)                  7 <聖霊>が弟子たちにすべてのことを教える(14:26a)          8 <聖霊>はイエスが弟子たちに話したことをことごとく思い起させる(14:26b)

 15章1-17節 イエスはまことのぶどうの木であるという宣言と教えです。   18-27節 迫害を受けることを予告します。                  9 <弁護者・真理の霊>は、イエスの昇天後に、イエスについて証しをする(15:26)

  16章1-4a節 これらのことを話したのは、つまずかせないためであるとイエスは話します。                                             4b-15節 聖霊の働きについて話します。                                  10 <弁護者>が来れば、世の誤りを明らかにし、断罪する(16:8)     11 <真理の霊>は、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(16:13a)12 <真理の霊>は、これから起こることをあながたに告げる(16:13b)   13 <真理の霊>は、自分の権威について語らない。イエスに栄光を帰す。イエスのものを受けてあなたたちに告げる(16:13c、d、14)

 16章16-24節 悲しみが喜びに変わると話します。             25-33節 イエスは既に世に勝っていると宣言します。

 17章1-26節 17章は、後に残る弟子たちのための、イエスのとりなしの祈り(大祭司の祈り)です。

  今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書16章12節から、24節までです。

 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:12-13)

 イエスが地上にいる間に言っておきたいこと、まだたくさんあるが、弟子たちはそれを理解できない、とイエスは言われます。 <聖霊>は弟子たちにすべてのことを教える(14:26a)と話されていましたが、弟子たちを真の理解に導く聖霊の働きを、再びイエスは取り上げて話します。<真理の霊は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>。それは同時に、世の虚偽を暴露することでもあります。しかし、真理の霊は、イエスにおける神の啓示に全く新しいことを付け加えるのではなく、あくまでも、イエスの栄光の出来事の意味を告知するものなのです。また、真理の霊の働きとして<これから起こることをあなたがたに告げる>と言われています。<これから起こること>とは、イエスの捕縛であり、十字架の死と復活です。

 「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(16:14-15)

 <その方>・真理の霊がイエスに<栄光を与える>ことが語られます。聖霊こそが、イエスの地上の生涯の間、隠さていた事柄を啓示するのです。地上のイエスの啓示は、弟子たちの理解が弱かったために、ある程度限定されたものでした。もちろん、それは、啓示自体が限定されたものであるということではなく、啓示を受け取る側の理解が限定されたものであったということです。従って、イエスの栄光が完全に開示されるためには、聖霊が必要とされるのです。<父が持っておられるものはすべて、わたしのものである>と、父と子の一体性を再び述べます。それこそが、聖霊がイエスのものを受けて弟子たちに告げることによって、イエスに栄光を与えることの根拠なのです。このような父と子と聖霊の一致は、後の三位一体論につながっていきます。

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」(16:16-18)

 イエスは、これまで別れの講話で語ってきた、イエスが神のもとへ帰ることと弟子たちのところへの再び来ることについて、語ります。しかし、ここでの強調点は<しばらくすると>です。それは、ほんの短い期間を示します。別れの講話を語るイエスにすれば、十字架について地上を去り、聖霊において再来するということは、ほんの短い間に起こることなのです。しかし、<弟子たちの中のある者>は、何のことなのか理解できません。特に、<しばらくすると>にひっかかってしまうのです。<しばらくすると>は、切迫した終末が来ることを意味するものではありません。

「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。(16:19-21)

 弟子たちの疑問を見抜いたイエスは答えます。<はっきり言っておく>は、ギリシャ語原典では、「アーメン、アーメン、わたしは言う」とあり、荘重なことばで言われる発言です。イエスは、現在の弟子たちの悲しみと世の喜びを対比してから、弟子たちの<悲しみは喜びに変わる>ことを宣言するのです。そして、そのことをさらに確かにするために、一つのたとえを語ります。それは産婦の産みの苦しみと誕生の喜びのたとえで、非常に分かり安い印象的なたとえです。産婦の産みの苦しみをたとえとして用いることは、旧約聖書にもたくさんあります(イザヤ書13:8、ミカ4:9など)。そこでは、苦痛だけが問題とされているのですが、その苦しみが子供の誕生の喜びによって忘れられるということがここで言われています。<自分の時が来たからである>とは、妊婦が出産の時を迎えた時を表します。イエスが去ることによって、やがて起こる弟子たちの悲しみ、苦しみも、同様に喜びに変わるとイエスは慰め励ましているのです。イエスの死を<世は喜ぶ>と言っています。この場合の<この世>とは、メシア・イエスを十字架にかける悪の支配する世界です。

 「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:22-24)

 弟子たちも、今、イエスが地上から去ることに悲しんでいるが、それは、産みの苦しみのようなものです。弟子たちの共同体は、復活のキリストに出会い、聖霊における再来のイエスに出会って、<喜ぶことになる>のです。そして、その喜びは、終末の喜びなのです。<その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない>のです。どんなものも、イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです。<その日には>、聖霊の到来によって、イエスが語られ、なさったすべてのことが明らかになり、弟子たちは、もはやイエスに何も尋ねることはなくなるのです。イエスの死は、単なる敗北または挫折ではなく、わたしたちも古い自分、古い生命に死んで、永遠の生命に至るための、道を開くものとなったのです。復活の主に再会することによって、決して奪われることのない喜びを与えられるのです。

 <はっきり言っておく>と再び言われます。「アーメン、アーメン、わたしは言う」です。ここでは、14:13-14、15:16で語られたことが反復されます。イエスの名によってなされるすべての祈りは、イエスの執り成しにより、必ず聞かれ、父なる神によってかなえられる、と明言されます。イエスの名によって願いなさい、そうすれば与えられ、あなたがたは喜びにみたされる。そのことによって、イエスは父と一体であり、イエスは神の位置に立つことが明らかにされるのです。

 イエスの逮捕と処刑は目前に迫っているただ中で、イエスの口から「希望」が、<悲しみから喜びに変わる日のこと>が、<心から喜ぶことになる>ことが語られています。イエスの名による祈りは、わたしたちに明日への希望を与えるものであり、満ち溢れる喜びを約束するものであります。愛だけが永遠に支配する世界に、わたしたちの思いと目を向けさせてくれます。

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