富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「異邦人の救い」エフェソの信徒への手紙2章11~22節

2024-06-22 13:05:37 | キリスト教

   ↑ 「キリストにおいて一つとなる」(エフェソ2;11-22)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節6主日 2024年6月23日(日)午後3時~3時50分

                      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 194(神さまは、そのひとり子を)

交読詩篇    126(主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られと聞いて)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新p.418)

説 教      「異邦人の救い」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  402(いともとうとき)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

     オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019(牧師携帯)

     へ申し込み下さい。歓迎いたします。

         次週礼拝 6月30日(日)午後3時~3時50分

         聖 書 使徒言行録9章36~43節

         説教題   「生命の回復」

         讃美歌(21)405 518 27 詩編9:36-43 

 本日の聖書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

 2:11だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 本日の説教

 エフェソの信徒への手紙は、宛先がエフェソの教会となっていますが、他のパウロの手紙とは異なり、ただ一般的な教えが説かれているだけであって、差出人と受取人の具体的な状況記述がなく、宛先も不確かです。この手紙の著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場と、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があるからです。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています。これは読者の状況の違いや著者の目指した主題の相違などによる結果とも思われます。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。

  いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。

 内容は、1章~3章の終わりまでが教理的部分であり、人類に対する神の大いなる救いの計画と、キリストによるその実現と、さらにキリストの教会の意義とがしめされています。

 4章以下は、それに対する実践的な部分です。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。また、夫婦、親子、主人と奴隷などの関係をも説き、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励ましています。

 本日の聖書の箇所は,2章11節から22節までです。「だから、心に留めておきなさい。」(11節)という言葉で新しい話が始まっています。「だから」とは、直前の言葉を受けています。直前の8節から10節にはこのように書かれています。

 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(2:8-10)

 エフェソの人々に与えられた神様の救いは、自分の力、人間の行いによってではなく、神様の恵みによって、御子キリストを信じる信仰によって救われたのです、とあります。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それはだれも誇ることがないためなのです、とあります。私たちは神によって、イエス・キリストにあって造られた者であり、神が前もって準備してくださった善い業を行って歩むようにしてくださったのです、と語っています。そして今日の箇所に入ります。

 「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」(2:11)

 読者の多くはユダヤ人ではなく異邦人でした。「あなたがた」は、以前は異邦人であり、契約の民の所属のしるしとしての肉に手で施されたいわゆる「割礼を身に受けている人々からは」、「割礼のない者」と呼ばれていました。

 「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(2:12)

 以前は、神がイスラエルの民に与えた「約束を含む契約」に関しては全く関係がなく、「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きて」いました。真の神を知らず、何が罪であるかも知らず、それ故まことに正しい道も知らず、死んだら終わりという思いに生きていました、と言っています。

 「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(2:13)

 私たちは神様の救いから遠く離れていた異邦人でした。しかし「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」このように「以前は自分の過ちと罪のために死んで」(エフェソ2:1)いた者を、あわれみ深い神はキリスト・イエスにあって生かしてくださったのです。異邦人のクリスチャンは、常に自分の現在と過去とを比較することによって、神の恵みの偉大さを知るべきです、と説いています。

 一方、ユダヤ人たちは、自分たちの先祖にはアブラハムがいる、自分たちには神の約束があると言いながら、実際には「約束の契約」を守らず、神のみこころに背いた生活をしていました。それにもかかわらず、彼らは自分たちの置かれた神の民としての立場を誇り、他の民族を「異邦人」と呼び、心の底では穢れた民として彼らをさげすんでいたのです。

 しかし、今や神の御計画に基づいて、キリスト・イエスの血により、「遠い者」(異邦人)も、「近い者」(ユダヤ人)も、共に神との和解にあずからせていただいたのです。

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(2:14-16)

  「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」キリストがご自分の死によって敵意という「隔ての壁」を打ち破り、規則と戒律ずくめの律法を廃棄してくださったからです。「平和」という語は、ギリシャ語ではおおよそ戦争のない時期を示しているが、聖書では平和な時期よりもむしろ平和な関係を示す語です。ここでは神と人、人と人との関係が平和であることを語っています。ユダヤ人も異邦人も罪深い者であり、偏見と高ぶりに満ちていました。このような両者を「一つの体」とするために支払われた代価は、神の御子の十字架の死です。イエスの十字架のあがないの血によって、神と罪人との和解は成立し、人と人との間の平和も確立できるようになったのです。今では、キリストにおいて、ユダヤ人もなければ異邦人もありません。ただあるのは「一人の新しい人」です。

 「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(2:17)

 キリストはこの世においでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいるユダヤ人にも、平和の福音を告げ知らせました。

 「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(2:18)

 キリストの和解と平和の業の最終目的は、キリストによって、あなたがたが、互に「一つ体」となり、「一つの霊」に結ばれて、「父に近づく」ことです。

 エルサレムの神殿に異邦人は入ることが禁止され、もし神殿境内の中庭に入ると、それは死罪にあたりました。至聖所は年に一度、なだめの日、和解の日に大祭司のみが近づき、入ることが許され、また聖所へは祭司のみが近づくことができました。このような「壁」は取り壊され、だれもが、子が父に、赤子が母に対するように、親しみと信頼をもって、父なる神に近づくことができます。これこそイエスの福音であり、その時代が到来したことを告げています。

 「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(2:19)

 最も遠い関係である「外国人」と「家族」の関係を例にとり、この世から召し出された聖徒たちの新しい関係を表現しています。ユダヤ人も異邦人も「キリストによって」一つの国民とされ、神の民として聖徒と呼ばれていることを明らかにしています。そればかりでなく、クリスチャンは「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができ」、神の家族とされているのです。家族とは、この世の中で最も基本的な単位です。神の家族の長は父なる神であり、御子イエスは長子です。

 「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(2:20-21)

 「使徒と預言者」とは、福音を伝える使徒と、使徒に並んで福音の釈明と宣教に協力した、初代教会のみ霊に満たされた人々のことです。ここで聖徒の群れを建物にたとえています。この「建物」の構造は、キリスト・イエスを隅石(礎石)とし、使徒と予言者を土台とし、選ばれた信徒を一つ一つの素材として、「組み合わされた」ものです。この建物の背景はイザヤ書28:16にある、「それゆえ、主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石。固く据えられた礎(いしずえ)の、貴い隅の石だ。』」にあります。

 各人が生きた石であるように積み上げられることにより、建物全体が成長して行くところの建築のイメージをもって説かれています。このように、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。しかし教会は建物・建造物のことではなく、生きている人間とその共同体、「あなたがた」、聖徒の群れ、神の家族、信仰者の共同体を、建物に例えて語っているのです。

 「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(2:22)

 22節で初めて目標に達します。キリスト者が聖徒であるのは、彼らが使徒と預言者の土台の上に築き上げられ、またキリストにあって、共に建てられ、霊の働きによって神の住まいへと築き上げられるからです。「神に住まい」は、同時に彼らがこのようにして「神の家族」(2:19)となったことを思い起させます。

 かつて異邦人であったわたしたちは、キリストによって救われ、「新しい人」とされ、聖なる神に属する者とされました。神はわたしたちを「生きた石」として用いて、霊の働きによって、成長する「聖なる神殿」、「神の住まい」とされました。いずれも「キリストにおいて」、「霊のはたきによって」という限定がなされています。教会こそ神の住まわれるところであるとの保証は、まさに主と霊の働きの中にのみ得られるのです。ここに神が住んでおられる。神が生きておられることは、まさにこの教会において知られるのです。教会堂という建物においてではありません。キリストの体である教会を指す「一人の新しい人」であり「神の家族」である、わたしたちのうちにあるのです。

 教会(エクレシア)は、「呼び出された者」を意味し、信徒の集まりをさしているのですが、現在では信徒が集まる建物をさすことが多いようです。

 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(コリント一、3:16)とあります。わたしたちは自分が「神の神殿」であり、「神の霊」が自分たちの内に住んでいることを自覚し、「生ける石」とされて、「神の住まい」の成長に役立つものとされることを感謝したいと思います。

 

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