981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』
聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)
聖霊降臨節第3主日 2016年5月29日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)
交読詩篇 29(神の子らよ、主に帰せよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節(新p.288)
説 教 「新たな神の民の誕生」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 517(神の民よ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 6月5日(日) 午後5時~5時50分
聖書 ヨハネ第一の手紙2章22~29節
説教 「信仰の道」
賛美歌(21) 227 458 24 交読詩編 16篇
本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節
1兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。2わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。3なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15遣わされないで、どうして宣(の)べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
本日の説教
異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは<兄弟たちよ>と、読者であるローマの信徒たち一同に対して呼びかけ、パウロは祖国を同じくするユダヤ人が救われることを心から願い、神に祈っていると伝えます。パウロは、ユダヤ人たちが<神に熱心であった>ことを認めています。この<神への熱心>とは、ユダヤ教とその律法への熱心です。パウロ自身もかつて律法に熱心でした(ガラテヤ1:12、フィリピ3・6)。しかし、その熱心は<正しい認識に基づくものではない>と言っています。それは神の義を正しく理解し、それにふさわしくうやまう態度をとらなかった、ということです。<神の義>を無視して、<自分の義>を建てることに熱心であって、<神の義>に従わなかったのです。
<自分の義>は、人間が自分のした働きと功績によって、神に要求するメリット(わけまえ、報酬、手柄)としての義を獲得しようとすることであり、神に自分を正しい者として認めさせようとすることです。しかし人は律法を行う力がないこと、従って律法によっては義とされることは不可能なことを、パウロは繰り返し述べてきました。主イエスは、律法を守っていると自負しているユダヤ人に、山上の説教で「殺すな」という命令については、<腹を立てるな>、<ばか者>と言う者は火の地獄に投げ込まれると教え、「姦淫するな」という命令については、みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである、もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさいと教え、律法の戒めを完全に実行することの不可能なことを教えています。
それに反して<神の義>は、神から人に恵みの賜物として与えられる義であり、神がつくり出す救いとしての義であり、神がその人を全く罪のない正しい人と認める赦しの恵みです。人はただこれを信じて受け入れるだけなのです。それはただ神の義の福音を聞いて信じ服従することによって与えられるものです。ところがユダヤ人はこのことを知らないで、自分の義を立てようとしました。これは自己主張であり、自己を誇ることであり、神への不服従なのです。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。神は人を救うために御子をこの世に送られ、人の罪をイエス・キリストに負わせて、神の徹底的な審(さば)きと赦しの御業を行われました。ただキリストによる罪のつぐないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。信仰とは、このイエス・キリストを信じることです。、私たちを罪なきものとしてくださる神の義を正しく知り、全存在をもって受け入れることです。そのとき、キリストは聖霊としてしっかり私たちの心のうちに住み、私たちの存在の中心になってくださるので、その聖霊の力を受けて良き業を行う者とされます。
キリストは、「信じる者すべてに義をもたらすために」、<律法の目標>となられました。キリストを信じる信仰の道が開かれた今は、律法的努力は不必要となりました。キリストは律法に終止符を打たれたのです。神はイエス・キリストにおいて律法を<終わり>とされたのです。律法に代わってキリストの支配する新しい世界が始まっているのです。神を愛し、人は互いに愛し合いなさい、ということが新しい律法となったのです。
「モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。」(5節)
パウロは、レビ記18章5節の「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」のことばを、<掟を守る人は掟によって生き>る、として引用しています。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されています。パウロは、この言葉に律法の要求が簡潔に示されていると理解して、このことばを<律法による義>についての聖書の証明としています。
人間は律法を完全に行うことはできません。6節から8節にかけては、申命記30章11~14節の引用です。申命記には、「あなたは…それを行うことができる」と結論していることをパウロは全く無視して、律法のわざによらず、ただ信仰によって義とされるという<信仰による義(信仰義認)>の聖書証明としています。
申命記30章11節以下は、ユダヤ人が、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として親しんでいたものです。パウロにとって、旧約聖書の神の言葉の近さは、キリストによってまさに文字通り完全に実現したと認識したのです。
<心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない>という勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられたのです。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用なのです。自分の力で<キリストを引き降ろ>すようなことはすべきではありません。こう述べて、自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命記30・12の引用文でパウロは正したのです。
また、<「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。 これはキリストを死人の中から引き上げることになります>という勧めも、申命記30・13の言葉を引用して「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めています。
<御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。>これも申命記30・14の引用の言葉です。この<御言葉>とは、律法の戒めではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。
キリストは旧約においてすでに、契約の主、恵みの言葉として、その民の近くにおられたが、今やすでに世に来られて救いの働きを完成された方として、宣教の言葉を通して出会われる近くにおられる方です。これにこたえるのが信仰です。
パウロは、律法を最大の関心事とする旧約聖書から、一方では律法の領域、他方では信仰の領域についての全く逆方向の証言を導き出すことに矛盾を感じてはいません。パウロは旧約聖書がその根本においてキリスト証言であることを示そうとしているのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本性質を洞察できなかったために、キリストの救いを拒否してしまったのです。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(9節)
<口でイエスは主であると告に言い表し>とあるのは、原始教会における最も根本的な信仰告白です。この告白によって人々はキリスト者とされました。
「聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。」(11節)
11節では、イザヤ書の28・16にある「…信ずる者は慌てることはない」という言葉を用いて、主を信じる者はだれも失望するようなことがない、と言っています。
そして、12節で、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<主>として用いることによって、神の民が拡大されました。さらに、ヨエル書3・5を引用し、13節では、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」としています。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)
これは、ガラテヤ人への手紙3章2節に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰の聞くことを鋭く対立させ、業によってではなく、信仰の聞くことから聖霊を受けると強調しています。このように、<信仰はキリストの言葉、福音を聞くことによって始まる>は、パウロの基本的な福音理解の一つです。
最初の信仰告白は「主イエス」、原典ではギリシャ語の<キュリオス イエスース>という二語が、初代教会の信徒の最も簡潔な信仰告白でした。《キュリオス》というのは全世界の主権者を意味し、イエスが復活して天に上げられ、神の右に座す方となられたことを言い表す称号でした。<主イエス>を信じ、告白する者は、ユダヤ人も異邦人も「すべて」、なんのいさおし(功績や手柄)がなくても、神に義と認められます。律法はユダヤ人と異邦人を区別し、分離しました。しかし、主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです。