富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「最後の晩餐でのイエスの祈り」ヨハネによる福音書17章1~13節

2022-05-29 02:48:32 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第7主日   2022年5月29日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見姉順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 289(みどりもふかき)

交読詩編  102(主よ、わたしの祈りを聞いてください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書17章1~13節(新p.202)

説  教   「最後の晩餐でのイエスの祈り」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                           

讃美歌(21) 540(主イェスにより)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

の辺見の電話に、携帯電話で申し込みください。

      次週礼拝 6月5日(日)聖霊降臨日  午後5時~5時50分

      聖書  使徒行伝2章1-11節

      説教題  「聖霊の賜物」

      讃美歌(21) 342 343 27 交読詩編 122 

本日の聖書 

 17:1イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 2あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 3永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。 6世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。 7わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。 8なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。 9彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。 11わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。 12わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。 13しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

本日の説教

 ヨハネ福音書の最後の晩餐は、共観福音書の過越の食事とはちがって、その前日であり(13:1)、過越の羊がほふられる時とイエスの十字架の時と一致させています。この晩餐の後、主イエスは捕らえられ、翌日には十字架につけられて殺されるのです。

13章から始まった最後の晩餐での洗足の教えにつづいて、新しいいましめに始まる長い告別の説教をイエスは語りました。その説教の後、17章では、弟子たちのために祈られました。その執り成しの祈り(11節)は三つの部分に分けられます。

第一の部分は、1~5節です。イエスが御自身のために栄光を求める祈りです。第二の部分は、6~19節です。後に残される弟子たちを守り、聖化るための祈りです。第三の部分は、20~26節です。主イエスを信じる、後の時代の人々のための祈りです。そこには私たちも含まれます。教会一致のための祈りがなされます

本日は、1~13節までの部分を、お話しいたします。1節に「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」とあります。「父よ、時が来ました」。これが祈りの最初の言葉です。「時がきました」とは、神から定められた時であり、イエスにとっては、十字架によって、天へ帰る時であり、子なる神であるキリストが栄光を現わすと同時に、それを通じて、父の栄光も現わされる時です。また弟子たちとの別離の時でもあります。それは具体的には、イエスは捕らえられ、十字架につけられて死に、そして復活して天の昇る、その時が来た、ということです。このことによって、私たち人間の罪の赦しが実現し、永遠の命の約束が確かなものとなり、私たちの救いが実現するのです。主イエスはこの祈りを、私たちの救いのために祈って下さったのです。

それは子なる神イエスの天を仰いでの祈りです。この世に派遣されたイエス・キリストが、神の子であり、神そのものであることを、この祈りにおいても明らかにしています。

 2節には「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」とあります。父なる神は子である

主イエスに、「すべての人を支配する権能を」お与えになったのです。その権能とは、救いの権能です。そして、その救いを最もよく現わすのは「永遠の命」を与えることです。私たち人間は、誰もが、いつか必ず肉体の死があり、限りある命に生きていますが、その私たちに主イエスは、肉体の死を超えて神によって生かされる命、もはや死の力に支配されてしまうことのない永遠の命を与えてくださるのです。神の独り子である主イエスは、そのために人間となってこの世に来てくださいました。現在、イエスを神から遣わされた神の子と信じることを決断する者は、永遠の命を与えられるのです。従って、父から「委ねられた人」とは、「独り子を信じる者」であり、イエスを「受け入れた人、その名を信じる人々」です。こうして彼らは、神の命にあずかり、神の子らとされるのです。

3節には、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。永遠のい命とは、死んだ後のことではありません。今、この人生の中で、永遠の命に生き始めるのです。永遠の命とは、神とイエス・キリストを「知ること」です。言うまでもなく、「知ること」とは、人格的な関係の中で起こるものです。ヨハネ福音書における「知ること」は、神あるいはキリストとの人格的な交わりであり、父と子と弟子たちの間に「知る」関係が成立するのです。イエス・キリストを知ることは、イエス・キリストによって愛されていることを知ることであり、またイエス・キリストを信じて生きることでもあります。永遠の命を与えてくださる唯一のまことの神と御子キリストの愛を信じ、キリストと共に生きるところにこそ、死の支配と恐怖から解放された新しい命、永遠の命があります。今この時から、私たちは永遠の命に生きることができるのです。

 4節には、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とあります。イエスが業を成し遂げて、父の栄光を現わしたことが明らかに言われています。「業を成し遂げて」とは、永遠の命を与える救いを成し遂げ、父なる神の栄光を現わしたことが言われています。その最後には十字架の死が待ちうけているが、すでになすべきことはすべてなし終えたこことがここで宣言されています。十字架上のイエスは、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と語っています。

5節は「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」という願いです。十字架と復活を経て、父のもとに行く主イエスの栄光が明らかにされるのです。神から託された業はここにおいて終わりに到達したので、御父との栄光における一致を祈り求めました。地上のイエスは、人間と同じ者になるため、神に身分を捨て、へりくだり、十字架の死に至るまで神に従順でした。その卑賤の姿から、先在の栄光の姿が隠されていました。今、イエスは、世の来られる前にもっていた神の子の栄光を求めるのです。

6節に「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。」とあります。「彼ら」弟子たちとは、父なる神が世から選び出して主イエスに与えて下さった人々なのです。その人々に、主イエスは父なる神の御名を現わしました。彼らはそれによって父なる神を信じるようになったのです。「彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」とも語られています。「御名」は、神の救いのみ心またはその働きを指します。弟子たちが選ばれ、神のものであったということは、人間に信仰と知識を与える神の主体性が表現されています。弟子の共同体は、「御言葉」を守ったということが言われています。その御言葉とは、イエス・キリストの啓示を通して明らかにされたすべてのことを指し示しています。弟子たちはイエスの教えにより、イエスを神の子と信じました。

7~8節に「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからですと語られています。父なる神が与えて下さった弟子たちに、主イエスは父から受けたみ言葉を伝え、彼らはそれを受け入れたのです。そして、主イエスが父なる神のみもとから出て来た独り子であり、父から遣わされた救い主であることを信じたのです。それが「彼らは、御言葉を守りました」ということの意味です。御言葉を守ったというのは、主イエスがお語りになった神の言葉を受け入れ、主イエスは神の子、救い主と信じたということなのです。主イエスの言葉を聞いて、父なる神を信じ、主イエスが父から遣わされた独り子、救い主であると信じた者たち、それが弟子たちです。

 9節には「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」とあります。弟子の共同体のためのイエスのとりなしの祈りが始まります。イエスとその弟子の共同体に敵対し迫害を加える「世」のためではなく、イエスに属する者たちのために、祈りがささげられます。

10節には「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました」とあります。弟子たちの共同体は、父のものであると同時に。父と一体である子なる神のものだからです。イエスは、こうして、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と言います。

11節には「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」とあります。イエスは、十字架の直前という死を意識しながら、弟子たちを「守ってください」というとりなしの祈りを述べます。イエスは十字架につき、この世を去ります。イエスは、天に所在を移すのに対して、弟子たちの共同体はこの世に取り残されることになります。指導者なき後の弟子たちの間に不一致や分争の生じることが、イエスの大きな心配でした。だからこそ、弟子たちのための祈りがささげられるのです。「御名によって彼らを守ってくだいさい」という、その「御名」とは、イエスにより啓示された、神の救いのみ心またはその働きを指します(6節)。「わたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」(17:26)。ここに言われているように神の救いの御心は、天の父なる神と地上のイエスが一体であるように、神の愛、キリストの愛を土台として、彼らが一つになって造られる共同体です。弟子たちの共同体も「一つとなるため」に、キリストは執り成しの祈りをささげます。それが彼らをこの世から守るのです。

12節には「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」とあります。イエスが地上にいる間、「御名によって」、神の栄光の力によって、弟子たちを守り通しました。そこでは、「滅びの子のほかは、だれも滅び」なかったのです。ここで、ヨハネは、弟子の一人であるイスカリオテのユダが裏切って滅びに至ったことを指摘し、それが神の意志によるものであることを主張します。

13節では「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」とあります。イエスは、今や、十字架について、神のもとに行こうとしています。しかし、すでに、16章22節で、「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたに会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われたように、弟子たちの共同体の上には、喜びが「満ちあふれるようになる」のです。イエスが去り、聖霊における再来によって弟子たちに出会うことによって、終末の救いは完成に向かうのです。

主イエスは目を天に上げて父なる神に祈りました。このことこそ、主イエスが私たちに示して下さったお手本です。私たちも、私たちも、神の子とする霊をうけて、「ァッバ、父よ」(ローマ8:15)と、目を天に上げて祈ることができます。この世界を造り、支配しておられる唯一のまことの神と、救い主であり、独り子なる神、主イエス・キリストが復活して天に昇り、父なる神のもとにいて、この世界を、そして私たちの人生を、支配し、守り、導いて下さったいる、その主イエスの栄光を仰ぐことが出来ます。そして、この父と子なる神から、聖霊が遣わされて私たちと共にいて下さっています。そのことによって、私たちは既に、永遠の命に生き始めているのです。

 

 

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「神の御許に行く」ヨハネによる福音書16章12~24節

2022-05-21 12:32:48 | キリスト教

↑ 「弟子の足をあらうキリスト」作者ティントレット(イタリア人)   制作年(1548年~1549年)寸法:228×533㎝ マドリード・プラド美術館所蔵

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第6主日  2022年5月22日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

交読詩編   15(主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書16章12~24節(新p.200)

説  教      「神の御許に行く」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                           

讃美歌(21) 336(主の昇天こそ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

の辺見の電話に、携帯電話で申し込みください。

            次週礼拝 5月29日(日)  午後5時~5時50分

            聖書  ヨハネによる福音書17章1~13節

            説教題  「キリストの昇天」

            讃美歌(21) 289 336 27 交読詩編 102 

本日の聖書 

 16:12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」17そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」18また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」19イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。21女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。22ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 

本日の説教

 ヨハネによる福音書13章から17章までは、最後の晩餐の席での出来事やイエスが弟子たちに話されたことが記されています。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書のこと)では、最後の晩餐は過越の食事であり、そこで聖餐が制定されますが、ヨハネでは、晩餐は過越の食事の前日のものであり、聖餐制定の代わりに、弟子たちの足を洗う「洗足」の記事(13章1-20節)となっています。

 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して」、弟子たち全員の足を洗い、模範をしめされました。そして、ユダによる裏切りのを予告します(13章21-30節)。

13章31節でから、イエスの「別れの説教(訣別説教・告別説教)」が始まります。イエスは「新しい掟」を与えます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と教えます。

共観福音書にはありません。「別れの説教」は、6ぺージにも及びます。別の時に語ったイエスの教えも、まとめて福音書記者が記したと思われます。

ペトロの「主よ、あなたのためなら命を捨てます」という決意に、イエスは、「三度もわたしのことを知らないと言うだろう」と予告します。

14章は、「あなたがたのために、父の家に場所を用意しに行く」と、「聖霊を与える」という約束をします。

15章1節の「イエスはまことのぶどうの木」の説話から、第二の別れの説教が始まります。15章18節からは、弟子たちの上に予想される迫害に備えての勧めです。16章1節では、「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」と語ります。

 16章4b-11節では、受難と十字架を前にして、神のもとに行こうとしている地上のイエスと、世が弟子たちを憎み、迫害することを予告します。イエスは、御自分が神のもとに去っていくことは、弟子たちの益となることを語ります。「弁護者(聖霊)」が、イエスが地上を去ると共に、到来するからです。

ヨハネによる福音書16章12-15節は、地上のイエスに対する弟子たちの無理解が指摘された後、弟子たちを真の理解に導く聖霊の働きが、再び取り上げられることになります。残される弟子たちへの慰めと励ましを述べます

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:12-1

イエスが地上にいる間に言っておきたいこと、まだたくさんあるが、弟子たちはそれを理解できない、とイエスは言われます。<聖霊>は弟子たちにすべてのことを教える(14:26a)と話されていましたが、弟子たちを真の理解に導く聖霊の働きを、再びイエスは取り上げて話します。<真理の霊は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>。それは同時に、世の虚偽を暴露することでもあります。しかし、真理の霊は、イエスにおける神の啓示に全く新しいことを付け加えるのではなく、あくまでも、イエスの栄光の出来事の意味を告知するものなのです。また、真理の霊の働きとして<これから起こることをあなたがたに告げる>と言われます。<これから起こること>とは、イエスの受難と復活の出来事を意味していると思われます。

「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(16:14-15)

<その方>・真理の霊がイエスに<栄光を与える>ことを語ります。聖霊こそが、イエスの地上の生涯の間、隠さていた事柄を啓示するのです。地上のイエスの啓示は、弟子たちの理解が弱かったために、ある程度限定されたものでした。もちろん、それは、啓示自体が限定されたものであるということではなく、啓示を受け取る側の理解が限定されたものであったということです。従って、イエスの栄光が完全に開示されるためには、聖霊が必要とされるのです。<父が持っておられるものはすべて、わたしのものである>と、父と子の一体性を再び述べます。それこそが、聖霊がイエスのものを受けて弟子たちに告げることによって、イエスに栄光を与えることの根拠なのです。このような父と子と聖霊の一致は、後の三位一体論につながっていきます。

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」(16:16-18)

イエスは、これまで別れの講話で語ってきた、イエスが神のもとへ帰ることと弟子たちのところへ再び来ることについて、語ります。しかし、ここでの強調点は<しばらくすると>です。それは、ほんの短い期間を示します。別れの講話を語るイエスにすれば、十字架について地上を去り、聖霊において再来するということは、ほんの短い間に起こることなのです。しかし、<弟子たちの中のある者>は、何のことなのか理解できません。特に、<しばらくすると>にひっかかってしまうのです。<しばらくすると>は、切迫した終末が来ることを意味するものではありません。

「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。(16:19-21)

弟子たちの疑問を見抜いたイエスは答えます。<はっきり言っておく>は、ギリシャ語原典では、「アーメン、アーメン、わたしは言う」とあり、荘重なことばで言う発言です。イエスは、現在の弟子たちの悲しみと世の喜びを対比してから、弟子たちの<悲しみは喜びに変わる>ことを宣言するのです。そして、そのことをさらに確かにするために、一つのたとえを語ります。それは産婦の産みの苦しみと誕生の喜びのたとえで、非常に分かり安い印象的なたとえです。産婦の産みの苦しみをたとえとして用いることは、旧約聖書にもたくさんあります(イザヤ書13:8、ミカ4:9など)。そこでは、苦痛だけが問題とされているのですが、その苦しみが子供の誕生の喜びによって忘れられるということがここで言われています。<自分の時が来たからである>とは、妊婦が出産の時を迎えた時を表します。イエスが去ることによって、やがて起こる弟子たちの悲しみ、苦しみも、同様に喜びに変わるとイエスは慰め励ましているのです。イエスの死を<世は喜ぶ>と言っています。この場合の<この世>とは、メシア・イエスを十字架にかける悪の支配する世界のことです。

 「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:22-24)

弟子たちも、今、イエスが地上から去ることに悲しんでいるが、それは、産みの苦しみのようなものです。弟子たちの共同体は、復活のキリストに出会い、聖霊における再来のイエスに出会って、<喜ぶことになる>のです。そして、その喜びは、終末の喜びなのです。<その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない>のです。どんなものも、イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです。<その日には>、聖霊の到来によって、イエスが語られ、なさったすべてのことが明らかになり、弟子たちは、もはやイエスに何も尋ねることはなくなるのです。イエスの死は、単なる敗北または挫折ではなく、わたしたちも古い自分、古い生命に死んで、永遠の生命に至るための、道を開くものとなったのです。復活の主に再会することによって、決して奪われることのない喜びを与えられるのです。

<はっきり言っておく>と再び言われます。ここでは、14:13-14、15:16で語られたことが反復されます。イエスの名によってなされるすべての祈りは、イエスの執り成しにより、必ず聞かれ、父なる神によってかなえられる、と明言されます。イエスの名によって願いなさい、そうすれば与えられ、あなたがたは喜びにみたされる。そのことによって、イエスは父と一体であり、イエスは神の位置に立つことが明らかにされるのです。

イエスの逮捕と処刑は目前に迫っているただ中で、イエスの口から「希望」が、<悲しみから喜びに変わる日のこと>が、<心から喜ぶことになる>と語っています。イエスの名による祈りは、わたしたちに明日への希望を与えるものであり、満ち溢れる喜びを約束するものです。愛だけが永遠に支配する世界に、わたしたちの思いと目を向けさせてくれます。

別れの説教の中心的な目的は、地上に残される弟子たちの不安を取り除くことにあります。その根拠としてイエスの再来、弁護者である聖霊の到来、この世が与えるものとは異なる平安の実現を約束します。それによって弟子は、イエスの不在に耐えて行くことが出来るのであり、さらに神の栄光を現わしていくことができるのです。

16章33節には、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」という、別れの説教のしめくくりにしたイエスの宣言があります。キリストと共にある生活、キリストに支えられる生活、キリストに従う生活こそが、私たちを支え、力づけ、世に勝つ道なのです。

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「神の民」ペトロの手紙一、2章1~10節

2022-05-15 16:30:52 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

復活節第5主日     2022年5月15日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   155(山べにむかいて)

交読詩編   34(どのようなときも、わたしは主をたたえ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ペトロの手紙一、2章1~10節(新p.429)

説  教       「神の民」     辺見宗邦牧師

祈 祷                                           

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21)  579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。富谷教会に電話で申し込みください。

                                        次週礼拝 5月22日(日)  午後5時~5時50分

                                        聖書  ヨハネによる福音書16章12~24節

                                        説教題  「父のみもとへ行く」

                                       讃美歌(21) 474 337 27 交読詩編 15 

本日の聖書 

 2章1だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 2生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 3あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 4この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 5あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 6聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」7従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、 8また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。9しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。10あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

本日の説教

 この手紙は、迫害のもとで苦しんでいたキリスト者の教会に対し、洗礼の恵みを思い出させ、終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方をすすめた文書です。

この手紙は伝統的には、使徒ペトロが、ローマ帝国のネロ皇帝の迫害(64年頃)によって殉教の死を遂げたと言われる直前、当時バビロンと呼ばれていたローマ(5・13)から小アジア地方(現在のトルコのアジア側の大部分)の諸教会(1・1)にあてた手紙か、もしくは、その迫害の直後、67年頃に、シルワノ(5・12)がペトロの遺志を汲んで書いた手紙と考えられてきました。<シルワノ>は使徒言行録15・22の「シラス」と同一人物です。聖書として成立したのは紀元67年頃と推定されています。

 1章1節に記されている手紙の宛先であるポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアとは、一~二世紀のローマ帝国の四つの属州の名であり、現在のアジア側トルコの大部分の地域です。手紙の受け取り人は、キリスト教に改宗する前は、ユダヤ教の生き方に賛同していた異邦人であったと思われます。その多くは社会的地位も低く、奴隷や異教徒の夫を持つ婦人や若者たちがかなり多くいたようです(2・18-3・7、5・5)。著者は実際に起こっていた迫害状況に即して具体的に語っているので、その迫害はローマ帝国による公的迫害というより、ある地方における一般的な中傷や非難であったと考えられます。本書では<長老>のみが教会の職務として記されており、奉仕者や監督についての職制が定立される以前の単純な組織体としての教会であったと思われます。

1章1~2節の挨拶のあと、1章3節~12節では、まず主イエス父である神を讃美します。わたしたちを救ってわたしたちを新たに生まれさせ、キリストの復活によって生き生きとした希望を与え、天に蓄えてある財産を受け継ぐ者としてくださった神の救いを述べます。あなたがたは、終末の時の救いを受けるために、<神の力により、信仰によって守られている>と励まします。

福音の本質を語った後、1章13~25節では、希望に生きるキリスト者の基本的な生活態度として、「聖なる生活をしよう」と、清さと神への畏敬と兄弟愛を勧告します。

 そして、2章1-3節では、キリスト者の基本的な生活態度として、神の民としての共同体形成を勧告します。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」(2章1-3節)

ここに列記されている悪徳の項目、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」はすべて兄弟愛を疎外するものです。「捨て去って」は、初代教会の浸水洗礼では改心者は衣服を完全に脱いで受洗したので、この語は洗礼を象徴し、また、キリスト者になる以前の生活態度を捨てるという意味のことばとなっているようです。衣服を脱ぐというよりも悪を悔い改めるという意味が強いことばです。

「生まれたばかりの乳飲み子」という表現から、この手紙の読者の多くが最近改心したばかりの信徒であることが推定されます。「霊の乳」は、誕生したばかりの信徒に必要なのはまさに神の霊によって与えられる生きた神の言葉の乳です。キリスト者はたえず御言葉の乳によって成長してゆかねばならないという意味で、常に乳飲み子であるとみなされています。乳を飲むということは、「主が恵み深い方だということ」を味わい経験することだと著者は言います(詩篇34:9参照)。

「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」(2章4-5節)

「この主のもとに来なさい」は、信徒は「たえず」キリストのもとに近づくという意味と、「石」が次から次へと「かなめ石」であるキリストのもとに集められて「霊的な家」が築き上げられてゆく状況が示されています。死に勝ち復活したキリストは霊的な永遠の「生きた石」です。「霊的な家」は、ここでは、洗礼を受けキリストと結合されて真の神の神殿を建築するキリスト者共同体を意味し(1コリント3:9-17)、またそれが、古いイスラエルの、人間の手によって建てられた物質的な神殿と対比された霊的なものであることが強調されています。

「祭司」は祭司集団を意味します。キリスト者全体が祭司集団なのであって、教会は神に仕える祭司共同体です。キリスト者がささげる「いけにえ」はユダヤ教や他宗教のささげる物質的いけにえと異なり、「霊的」と呼ばれます。キリスト者の感謝・讃美・清さと畏敬と兄弟愛の生活、そして「くだけた魂」、すなわち、キリスト者共同体の自己奉献こそが「霊的ないけにえ」です(ローマ12:1)。キリスト者の自己奉献は、「イエス・キリストを通して」、すなわち、イエスの自己犠牲によって神に近づくことが可能とされ、その「いけにえ」とひとつとされてなされるものです。

「聖書にこう書いてあるからです。(6節)『見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、(7節)『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』のであり、また、(8節)『つまずきの石、妨げの岩』」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。」(2章6-8節)

 「尊い、生きた石」であるキリストについて、それを信じる者とそれにつまずいて信じない者のことが旧約聖書に書かれています。(6節)は、イザヤ書28章16節、(7節)は詩篇118篇22節、(8節)はイザヤ書8章14節からの引用です。この三つの引用に共通している主題は、人間の運命がキリストに対する態度によって決定されるということです。キリストを「尊いかなめ石」と信じる者は彼自身「かけがいのないもの」とされて栄光に導かれるが、信じない者(読者を迫害している人々)はつまずくのです。

この箇所の「かなめ石」とは、建物の隅に据える建築構造上大切な礎石、つまり隅の親石なのか、それとも建物のアーチの頂上にあるかなめ石(くさび石)、建物の最後の仕上げで煉瓦塀などの頂上に置く笠石(冠石)なのかはっきりしません。著者の関心は、建築上の石の機能そのものにあるというより。「選ばれた尊い」という石の性格とそれに対する人間の態度にあったと思われます。たしかに、福音は人間に服従を要求し、それへの不服従はつまずきをもたらすのであるが、ここでは、不信仰者はキリストがかなめ石であるという言葉につまずく、という意味もこめられていると思われます。キリストにつまずき、御言葉を拒否する者は、信じる者が救いへと定められているように(1:2)、つまずきに、すなわち、破滅へと「以前から定められている」と著者は言います。しかし、ここから神の選びの二重決定論を引き出すのは誤りです。著者は、服従、不服従という個人の人格的な決断を強調しているのだからです。

「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(2章9節)

 9節には救いに定められたキリスト者の身分が格調高い言葉で語られています。「選ばれた民」は、血族関係を表す民の語があり、教会は新たに生まれた者達が構成する神の家族です。「王の血統を引く祭司」は、教会は神に仕えるために選ばれた神の霊によって支えられているゆえに「聖なる」集団であり、まさに神が御自身の所有とされた「民」です。

「力ある業」とは、初代教会にとってはイエスの死からの旅立ち、すなわち、キリストの十字架と復活による新生の出来事です。「広く伝える」には礼拝によって公に示すという意味が込められており、「霊的な家」でささげられる礼拝、ことに聖餐式における感謝讃美のいけにえ、教会の自己奉献の行為そのものが神の力ある業の宣言、すなわち、教会の宣教活動である、という理解がここにはあります。

 「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けてい』」のです。」(2章10節)

 著者は以上のことを、ホセアの言葉を組み合わせて結論的に要約します。ホセアはゴメルとの間に生れた子供たちの名前の中に神がイスラエルを拒否し、またそれを受け入れるといった神の摂理を見たが、著者はその物語を解釈して、異教の民から神の民とされたアジアのキリスト者たちの中に働く神の力ある業を見ました。

 イスラエルは「選ばれた民」、「祭司の国」、「聖なる国民」、「神につける民」でした。しかし今は、教会が新しいイスラエルとしてこのように呼ばれます。その理由は、旧いイスラエルが成就することが出来なかったことを教会が与えられているからです。すなわち教会は神のあわれみによって人々を罪と死の支配(やみ)から贖い出し、神の生命の支配(光)に招き入れて下さった方、すなわちキリストの御業を語り伝えることを命じられています。この御業にあずかるのは、ひとえに神のあわれみによります。

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「まことの羊飼い」エゼキエル書34章7~16節4

2022-05-07 22:46:36 | キリスト教

   ↑ 「まことの羊飼い」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第四主日     2022年5月8日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  97(羊飼いの羊飼いよ)

交読詩編   23(主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)エゼキエル書34章7~16節(旧p.1352)

説  教     「まことの羊飼い」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                           

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。富谷教会に電話で申し込みください。

           次週礼拝 5月15日(日)  午後5時~5時50分

           聖書  ペトロの手紙一、2章1~10節

           説教題  「神の民」

           讃美歌(21) 155 579 27 交読詩編 95 

本日の聖書 

34:7それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。8わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。 9それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。10主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。 11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 12牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。 13わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。 14わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。 15わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。16わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。

本日の説教

エゼキエルとは「神強めたもう」という意味であり、祭司の子(1:3)です。紀元前597年の第一回捕囚の時にバビロンに移され、捕囚の第5年、593年に預言者としての召命を受け、以後二十年ほど預言者として活動しました。エレミヤの少し後の時代です。

 彼はテル・アビブに住み、同胞たちがエルサレムの神殿に空しい望みをかけて不信・不誠実であったので、彼らに対する神の審判を語り、彼らに悔い改めることを強く勧めました。しかし586年にユダヤが完全に滅亡し、捕囚のイエスラエルの民が神への信頼を失い、絶望的になると、エゼキエルは調子を変えて、慰めと復興の希望を語りました。

 エゼキエルは32章までは、イスラエル(および諸外国)にもっぱら「裁きの預言」を語りましたが、33章からは突然「救いの預言」を語り始めます。33章21-22節にエルサレム陥落のニュースが届いた記事が記されているが、これを契機に裁きの預言から救済の預言に転換しました。祭司であったエゼキエルにとって、特に神殿破壊という出来事は、最後の望みを断たれた致命的なものでした。これは妻の死もそれに比べることができないという象徴行為によっても示されます(24:15-24)。このような全くの絶望状況の中で、エゼキエルは突然、民に救いの預言を語るように神に命じられます。

34章は「イスラエルの牧者」についての預言です。1-16節では、主によって悪い牧者(イスラエルの指導者)が裁かれ、その後、主なる神自らが牧者となることが言われています。17節以下は、牧者である主が良い羊と悪い羊・家畜の間を裁き、23節以下は、新しいダビデ的支配者が立てられるという来るべきメシアの時代の描写の預言です。

 イスラエルの牧者とは、イスラエルの指導者のことです。牧者であるべき指導者が、その群れをよくやしなわないので、主自らがよき牧者となります。支配者を牧者として表すのは、古代近東全体に広く伝えられています。ダビデも古い伝承によれば、若い時、牧者でした。神もしばしば牧者として表現されます(詩篇23篇)。エレミヤはユダの指導者に好んでこの牧者という用語を用いました(3:15,22:22)。ここのエゼキエルの預言は、エレミヤ書23:1-2がモデルになっています。さらにこの預言に基づいてゼカリヤ11:4-17が形成され、また新約聖書にも影響を与えています(ヨハネ10:1-18)。

 34章の1-6には、主の言葉がエゼキエルに臨みます。イスラエルの牧者たちに対して預言し、彼らに語りなさいと命じられます。

「主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは、牧者は群れを養うべきではないか。」イスラエルの牧者たち」とは、イスラエルの支配者階級、特にユダ末期の諸王を指しています。

「イスラエルの牧者」として立てられた国の指導者たちが主から託された群達を養わず、ただ自分自身を養うことにのみ生き、国を滅ぼした彼らの偽りの統治に対する非難です。

彼らは群を養うことをしていなかったのです。その現実は、「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われた者を探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らが飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。またわたくしの群れは地の前面に散らされ、だれひとり探す者もなく、尋ね求める者もいない」(3-6節)、というものです。

「野の獣」は、諸外国の民を指し、群れには真の牧者がいないので、諸外国の民に侵略され、散らされたことを「餌食とされ」と語っています。「地の全面にちらされ」とは、バビロン捕囚だけでなく、北王国のアッシリア捕囚や、その他の追放全体が含まれています。エゼキエルは、それを、主なる神の言葉として明らかにしています。民を牧する指導者がそれにふさわしい務めを果たさないと、その被害を受けるのは民です。その結果、民のある者は捕囚とされました。エゼキエルもその一人でありました。

 エレミヤも同じ預言をしています。「『あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する』と主は言われる」((エレミヤ23:1,2)と預言しています。

「それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」 (エゼキエル34:7-8)

「わたしは生きている」は、神の厳粛な裁きを導入する「誓いの言葉(定型句)」です。

「それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。」(34:9-10) 

真実の働きをしない「牧者たちに立ち向かい」「彼らに群れを飼うことをやめさせ」る、神は言います。

「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」(11-12)

「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする 」という、主自身が良き牧者として、失われものを探すと、言います。ルカ15:4-6に、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る羊飼いのたとえを主イエスは話しています。

「雲と密雲の日」は、「主の日」のことを指します。かつては神がイスラエルのすべての敵を滅ぼし、平和と繁栄を与える「喜びの日」として期待された日のことですが、ここでは、紀元前587年のエルサレムの破壊の日を指します。「すべての場所」は、バビロンだけでなく、多くの人が逃れたエジプトも含む場所で、そこから救い出す、と言っています。

主なる神の歴史への介入、新たな歴史支配によって実現する事がここに明らかにされています。イスラエルの牧者たちの権力の源泉が神にあるとすれば、彼らの偽りの支配を止めさせるのもまた神です。神は、この歴史の現実に介入し、真の牧者としてのつとめをされることを明らかにされるのです。歴史の主、世界を支配されている王なるお方としての主の救い、慰めと慈しみに満ちた真の牧者としての主の意思がここに明らかにされています。

「わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。」(13-15)

「良い牧草地」は、詩篇23:2の「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」の句を思い起させます。

この世に来られた主イエスは、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」、そして、「雇い人であって、羊のことを心に留めない」(ヨハネ10:8、13)と言われました。そして、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10-11)と言われました。

良い羊飼いとは羊を知り、羊の先にたって指導し、羊に牧草を与えるものだと語り、「羊のために命を捨てる」と語られました。旧約聖書には記されていない画期的な驚くべきお言葉です。イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と教えておられるが、羊である人のために命を捨てると言われる主イエスのお言葉は、まさに人間に対する神の愛を示しています。まことの羊飼いである主イエスは十字架の上で文字通り羊のために命を捨てくださり、復活して、わたしたちに永遠の命を与えてくださる神の子です。

 旧約聖書で預言者を通して、「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる」と宣言された主なる父なる神は、御子を「まことの羊飼い」として世に送り、わたしたち羊の群れである人間を導き、養い、憩わせ、命を捨て、救ってくださるのです。

「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」(エゼキエル34:16)という意思を示されるこの神こそ、その悲惨な民の現実を変える唯一の揺るぎない方です。わたしたちもまた、大牧者であられる神の支配と導きの中に入れられていることを覚える時、大きな安らぎと神の愛に包まれます。

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