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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第7主日 2022年5月29日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 辺見姉順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 289(みどりもふかき)
交読詩編 102(主よ、わたしの祈りを聞いてください)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書17章1~13節(新p.202)
説 教 「最後の晩餐でのイエスの祈り」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 540(主イェスにより)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019
の辺見の電話に、携帯電話で申し込みください。
次週礼拝 6月5日(日)聖霊降臨日 午後5時~5時50分
聖書 使徒行伝2章1-11節
説教題 「聖霊の賜物」
讃美歌(21) 342 343 27 交読詩編 122
本日の聖書
17:1イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 2あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 3永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。 6世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。 7わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。 8なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。 9彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。 11わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。 12わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。 13しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
本日の説教
ヨハネ福音書の最後の晩餐は、共観福音書の過越の食事とはちがって、その前日であり(13:1)、過越の羊がほふられる時とイエスの十字架の時と一致させています。この晩餐の後、主イエスは捕らえられ、翌日には十字架につけられて殺されるのです。
13章から始まった最後の晩餐での洗足の教えにつづいて、新しいいましめに始まる長い告別の説教をイエスは語りました。その説教の後、17章では、弟子たちのために祈られました。その執り成しの祈り(11節)は三つの部分に分けられます。
第一の部分は、1~5節です。イエスが御自身のために栄光を求める祈りです。第二の部分は、6~19節です。後に残される弟子たちを守り、聖化るための祈りです。第三の部分は、20~26節です。主イエスを信じる、後の時代の人々のための祈りです。そこには私たちも含まれます。教会一致のための祈りがなされます
本日は、1~13節までの部分を、お話しいたします。1節に「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」とあります。「父よ、時が来ました」。これが祈りの最初の言葉です。「時がきました」とは、神から定められた時であり、イエスにとっては、十字架によって、天へ帰る時であり、子なる神であるキリストが栄光を現わすと同時に、それを通じて、父の栄光も現わされる時です。また弟子たちとの別離の時でもあります。それは具体的には、イエスは捕らえられ、十字架につけられて死に、そして復活して天の昇る、その時が来た、ということです。このことによって、私たち人間の罪の赦しが実現し、永遠の命の約束が確かなものとなり、私たちの救いが実現するのです。主イエスはこの祈りを、私たちの救いのために祈って下さったのです。
それは子なる神イエスの天を仰いでの祈りです。この世に派遣されたイエス・キリストが、神の子であり、神そのものであることを、この祈りにおいても明らかにしています。
2節には「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」とあります。父なる神は子である
主イエスに、「すべての人を支配する権能を」お与えになったのです。その権能とは、救いの権能です。そして、その救いを最もよく現わすのは「永遠の命」を与えることです。私たち人間は、誰もが、いつか必ず肉体の死があり、限りある命に生きていますが、その私たちに主イエスは、肉体の死を超えて神によって生かされる命、もはや死の力に支配されてしまうことのない永遠の命を与えてくださるのです。神の独り子である主イエスは、そのために人間となってこの世に来てくださいました。現在、イエスを神から遣わされた神の子と信じることを決断する者は、永遠の命を与えられるのです。従って、父から「委ねられた人」とは、「独り子を信じる者」であり、イエスを「受け入れた人、その名を信じる人々」です。こうして彼らは、神の命にあずかり、神の子らとされるのです。
3節には、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。永遠のい命とは、死んだ後のことではありません。今、この人生の中で、永遠の命に生き始めるのです。永遠の命とは、神とイエス・キリストを「知ること」です。言うまでもなく、「知ること」とは、人格的な関係の中で起こるものです。ヨハネ福音書における「知ること」は、神あるいはキリストとの人格的な交わりであり、父と子と弟子たちの間に「知る」関係が成立するのです。イエス・キリストを知ることは、イエス・キリストによって愛されていることを知ることであり、またイエス・キリストを信じて生きることでもあります。永遠の命を与えてくださる唯一のまことの神と御子キリストの愛を信じ、キリストと共に生きるところにこそ、死の支配と恐怖から解放された新しい命、永遠の命があります。今この時から、私たちは永遠の命に生きることができるのです。
4節には、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とあります。イエスが業を成し遂げて、父の栄光を現わしたことが明らかに言われています。「業を成し遂げて」とは、永遠の命を与える救いを成し遂げ、父なる神の栄光を現わしたことが言われています。その最後には十字架の死が待ちうけているが、すでになすべきことはすべてなし終えたこことがここで宣言されています。十字架上のイエスは、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と語っています。
5節は「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」という願いです。十字架と復活を経て、父のもとに行く主イエスの栄光が明らかにされるのです。神から託された業はここにおいて終わりに到達したので、御父との栄光における一致を祈り求めました。地上のイエスは、人間と同じ者になるため、神に身分を捨て、へりくだり、十字架の死に至るまで神に従順でした。その卑賤の姿から、先在の栄光の姿が隠されていました。今、イエスは、世の来られる前にもっていた神の子の栄光を求めるのです。
6節に「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。」とあります。「彼ら」弟子たちとは、父なる神が世から選び出して主イエスに与えて下さった人々なのです。その人々に、主イエスは父なる神の御名を現わしました。彼らはそれによって父なる神を信じるようになったのです。「彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」とも語られています。「御名」は、神の救いのみ心またはその働きを指します。弟子たちが選ばれ、神のものであったということは、人間に信仰と知識を与える神の主体性が表現されています。弟子の共同体は、「御言葉」を守ったということが言われています。その御言葉とは、イエス・キリストの啓示を通して明らかにされたすべてのことを指し示しています。弟子たちはイエスの教えにより、イエスを神の子と信じました。
7~8節に「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」と語られています。父なる神が与えて下さった弟子たちに、主イエスは父から受けたみ言葉を伝え、彼らはそれを受け入れたのです。そして、主イエスが父なる神のみもとから出て来た独り子であり、父から遣わされた救い主であることを信じたのです。それが「彼らは、御言葉を守りました」ということの意味です。御言葉を守ったというのは、主イエスがお語りになった神の言葉を受け入れ、主イエスは神の子、救い主と信じたということなのです。主イエスの言葉を聞いて、父なる神を信じ、主イエスが父から遣わされた独り子、救い主であると信じた者たち、それが弟子たちです。
9節には「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」とあります。弟子の共同体のためのイエスのとりなしの祈りが始まります。イエスとその弟子の共同体に敵対し迫害を加える「世」のためではなく、イエスに属する者たちのために、祈りがささげられます。
10節には「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました」とあります。弟子たちの共同体は、父のものであると同時に。父と一体である子なる神のものだからです。イエスは、こうして、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と言います。
11節には「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」とあります。イエスは、十字架の直前という死を意識しながら、弟子たちを「守ってください」というとりなしの祈りを述べます。イエスは十字架につき、この世を去ります。イエスは、天に所在を移すのに対して、弟子たちの共同体はこの世に取り残されることになります。指導者なき後の弟子たちの間に不一致や分争の生じることが、イエスの大きな心配でした。だからこそ、弟子たちのための祈りがささげられるのです。「御名によって彼らを守ってくだいさい」という、その「御名」とは、イエスにより啓示された、神の救いのみ心またはその働きを指します(6節)。「わたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」(17:26)。ここに言われているように神の救いの御心は、天の父なる神と地上のイエスが一体であるように、神の愛、キリストの愛を土台として、彼らが一つになって造られる共同体です。弟子たちの共同体も「一つとなるため」に、キリストは執り成しの祈りをささげます。それが彼らをこの世から守るのです。
12節には「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」とあります。イエスが地上にいる間、「御名によって」、神の栄光の力によって、弟子たちを守り通しました。そこでは、「滅びの子のほかは、だれも滅び」なかったのです。ここで、ヨハネは、弟子の一人であるイスカリオテのユダが裏切って滅びに至ったことを指摘し、それが神の意志によるものであることを主張します。
13節では「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」とあります。イエスは、今や、十字架について、神のもとに行こうとしています。しかし、すでに、16章22節で、「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたに会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われたように、弟子たちの共同体の上には、喜びが「満ちあふれるようになる」のです。イエスが去り、聖霊における再来によって弟子たちに出会うことによって、終末の救いは完成に向かうのです。
主イエスは目を天に上げて父なる神に祈りました。このことこそ、主イエスが私たちに示して下さったお手本です。私たちも、私たちも、神の子とする霊をうけて、「ァッバ、父よ」(ローマ8:15)と、目を天に上げて祈ることができます。この世界を造り、支配しておられる唯一のまことの神と、救い主であり、独り子なる神、主イエス・キリストが復活して天に昇り、父なる神のもとにいて、この世界を、そして私たちの人生を、支配し、守り、導いて下さったいる、その主イエスの栄光を仰ぐことが出来ます。そして、この父と子なる神から、聖霊が遣わされて私たちと共にいて下さっています。そのことによって、私たちは既に、永遠の命に生き始めているのです。