富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「マグダラのマリアに現れた復活のイエス」 ヨハネによる福音書20章1~18節

2019-04-18 11:52:16 | 説教

   ↑ 【レンブラント】  ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)

       1638年 61 x 49,5 cm バッキンガム宮王室コレクション ロンドン

 981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

 年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

 聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

  復活節第1主日  2016年3月27日(日) 午後5時~5時50分

 

   礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩篇   30(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

共同訳聖書 ヨハネによる福音書20章1~18節(新p.209)

説  教   「マグダラのマリアに現れた復活のいえす」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 325(キリスト・イエスは)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

   本日の聖書 ヨハネによる福音書20章1~18節

   1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

  11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 20:13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

           本日の説教

     過越祭の準備の日(他の福音書では過越祭の日、どちらも金曜日)、主イエスはゴルゴタ(「されこうべの場所」の意味)で十字架につけられました。そこはエルサレムの都に近い場所でした。イエスの十字架のそばに、イエスの母マリアと母の姉妹と、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアが立っていました。(この後、主の母マリアはヨハネの家に引き取られます。)午後3時頃、イエスは息を引き取られました。

    <マグダラのマリア>は、イエスに「七つの悪霊を追い出していただいた婦人」(ルカ8・2)です。彼女はガリラヤ湖西岸の町マグダラ出身の女性です。「七つの悪霊」とは神経系の病気と思われます。当時の人々は目に見えない悪霊が存在して、それが人の精神を乱したり、種々の病気を起こすと信じていました。彼女はひどい心霊的苦悩からイエスによって救い出されたのです。このマリアを、ルカ7章3節にある「罪深い女」と同一視する説がありますが、その根拠は聖書にはありません。マリアは「罪深い女」でも、娼婦でもありません。カトリックの公会議も1969年にマグダラのマリアを「罪深い女」から区別すことを明確にしました。最近では「身分の高い女性」との認識に変わりつつあります。イエスに悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人たちの中には、ヘロデ王の家令クザの妻ヨハナのような貴婦人もいました。彼女たちは自分たちの物を持ち出し合って、イエスの一行に奉仕していました。

      マリアは病気をいやしていただいたことに感謝し、イエスを慕い愛しました。イエスに付き従って行動を共にしたことは自然なことです。彼女のイエスに対する献身と奉仕が誰よりも熱く、イエスも彼女を愛して親しくされたことは、イエスの周囲の女性たちが言及されるときはいつも彼女の名が最初にあげられることからもうかがわれます。

     イエスが十字架につけられた日(金曜日)の日没から、ユダヤでは安息日に入ります。過越祭の特別な安息日です。この安息日になる前に、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身の「身分の高い議員」(マルコ15・43)ヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ローマから派遣されている総督ピラトに勇気を出して願い出て許されました。ヨセフはゴルゴタに行って遺体を取り降ろしました。そこへ、かつてある夜、イエスに会ったことのある「ファリサイ派に属する議員」(3・1~15)であるニコデモが、没薬と沈香を混ぜた物を持って来たので、二人はイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布に包みました。

     イエスが十字架につけられた所には園があり、そこにはだれも葬られたことのない新しい岩を掘って作った墓がありました。この墓が近かったので、そこにイエスを納め、墓の入り口には大きな石を転がして入り口をふさぎました。それは日没前に急いでなされた仮埋葬でした。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていました(マルコ15・47)。

     マリアは翌日(土曜日)の夕方、安息日が終わるのを待って、イエスに油を塗りに行くために香料を買っておきました(マルコ16・1)。

     週の初めの日、日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは、「用意しておいた香料を携えて」(ルカ24・1)墓に行きました。他の福音書では、マリアは数人の女性と共に墓に行ったと記していますが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアが一人で行ったように記し、マリア一人に焦点を当てています。マリアは墓の入り口から石が取りのけてあるのを見ました。マリアは誰かが墓に入って、イエスの遺体を運び去ったと思ってしまいます。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子(「ヨハネ福音書を書いた弟子」19・26)のところへ走って行って彼らに告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と伝えました。

     そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行きました。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着きました。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてありました。しかし、彼は中には入りませんでした。続いて、シモン・ペトロも着きました。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所にはなく、離れた所に丸めてありました。遺体を盗むのであれば亜麻布で包んだままで運ぶはずです。丁重に亜麻布が解かれているのは、イエスの身体がこの場所から出て行ったことを物語っています。それは、イエスの死体が決して盗まれたのではないということの証しになっています。先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じました。彼は、遺体がないのを見て、イエスが復活されたことを信じます。しかしまだ浅い信仰です。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉と結びつけて理解することが、二人はまだ出来ていませんでした。それから、この弟子たちは家に帰って行きました。おそらく、彼らは「不思議に思いながら家に帰って行きました」(ルカ24・12)。

     マリアは二人の弟子が家に帰った後も、墓の外に残って立ち、泣いていました。マリアはその場を立ち去ることも出来ずにいました。彼女は遺体が見つからないことにあきらめきれず、泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。しかしマリアはそれが天使であるとは気付かなったようです。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いました。マリアは、大切な主の遺体がどこかに移されて、見失ってしまった悲しみを訴えます。マリアがいかにイエスを慕い愛していたか、その深い心情が、この言葉に込められています。

     こう言いながら、人の気配を感じたのか、マリアは後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えました。しかし、それがイエスだとは分かりませんでした。イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われました。マリアは、園丁(墓園の管理人)だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。マリアとしてはせめてもイエスの遺体にもう一度丁寧に油を塗って、正式に埋葬したいと願っていたのでしょう。

    

  コレッジョ「ノリ・メ・タンゲレ」   1524 プラド美術館       マドリード 1518-1524年頃 130×103cm

   イエスが、「マリア(ヘブライ語で<ミリアム>)」と言われると、彼女は振り向いて、自分の名を呼んだ方に、思わずヘブライ語で、「ラボニ」と呼びます。マリアは師であるイエスを呼ぶときにいつも用いていた呼び名です。このとき思わずその呼び名が口をついて出たのです。ラボニとは「(わたしの)先生」という意味です。これはマリアの素直な喜びの表現です。復活のキリストを目の当たりにしながらそれと気付かなかったマリアも、自分の名を呼ばれて、初めて霊の目が開かれたのです。

     嬉しさのあまり、マリアは思わずイエスにすがりつこうとしました。そのマリアに、イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。その理由として「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われました。復活したイエスは生前のイエスが現れたのではありません。イエスは地上の体ではなく、天の父なる神のもとへ上る霊の体となっています。おそらくマリアは、生前のイエスに対するのと同じ思いでイエスにすがりつこうとしたのです。しかし、イエスのこの拒否の言葉を聞き、マリアは死の支配に打ち勝たれた復活の主を見ました。イエスはマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」言いなさいと、伝言を託しました。

    キリストが弟子たちをさして<わたしの兄弟たち>と言い、神はわたしの父であって、またあなたがたの父でもあると言われました。イエスはこれから父のみもとに上られることによって、イエスと弟子たちとは、地上のイエスと弟子たちとの関係以上に、共通の絆によって深く結びつくことを告げたのです。

     マグダラのマリアは、イエスを失って失望の底にいた弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。そして、主から言われたことを伝えました。マグダラのマリアは復活されたイエスの最初の証人とされました。女性の証言する能力を認めなかった当時としてはおどろくべきことでした。

     復活したイエスと出会う前、マリアが見ていた墓は死者の世界、死の支配する領域でした。そこにイエスの死体を探し求めていました。愛し、慕っていたイエスとの結びつきは、イエスの死によって引き裂かれ、自分自身も生ける屍のような状況にありました。せめてイエスの死体を手厚く葬りたいと思っていました。しかし、そのご遺体も見い出せない彼女はどんなに傷心したことでしょう。

   東日本大震災による死者数は15894人、その内、まだ行方不明の方は2561人もおられます。ご遺族の方々のご心境が偲ばれ、心が痛みます

    マグダラのマリアは復活したイエスと出会うことによって、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの世界から生命の支配へ、愛と信頼へと変えられました。

   イエス・キリストは復活しました。父なる神によって、陰府(よみ)の世界から復活させられました。主イエスは死に勝たれました。主は、わたしたちに復活の命に生きる希望を与えてくださいます。永遠の命に生かされている保証として、聖霊を与えてくださいます。この神の恵みにあずかろうではありませんか。

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「飲食について、兄弟を裁いてはならない」ローマの信徒への手紙14章1~23節

2016-07-16 15:25:59 | 説教

        981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12   TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

              日本キリスト教 富 谷 教 会

                   週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第10主日    2016年7月17日(日)    午後5時~5時50分

       礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編   68(神は立ち上がり、敵を散らされる)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ローマの信徒への手紙14章1~23節(新p.294)

説  教  「飲食について、兄弟を裁いてはならない」 辺見宗邦牧師

 祈 祷

讃美歌(21) 500(神よ、みまえに)

聖餐式    72(まごこころもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

               次週礼拝 7月24日(日) 午後5時~5時50分

               聖書 コリントの信徒への手紙一、11章23~39節

               説教   「聖餐」

               讃美歌(21)77 81 24 交読詩編78篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙14章1~23節

 1信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。4他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。5ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。6特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」12それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。13従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。14それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。15あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。16ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。17神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。18このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。19だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。20食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。21肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。22あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。23疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

    本日の説教

   パウロの書いた手紙は新約聖書中に十三通あり、新約聖書全体の三分の一強を占めています。その十三の手紙のうちで最も重要な、また有名なのが、「ローマの信徒への手紙」です。それはパウロの神学的な思想が組織を立てて堂々と述べられているからです。この手紙が書かれたのは、彼の宣教活動の最後期に属する紀元56年頃、ギリシャのコリントに三か月間滞在していた時であろうと推定されています。パウロはローマの信徒とはほとんど面識がありません。ローマの信徒の集会は、おそらく最初はローマ在住のユダヤ人の間にもたらされたキリスト教が次第に異邦人に及び、パウロの手紙執筆時には異邦人を主体にして成立していたと思われます。このような未知の教会に手紙を書いた動機は、この未知の教会を訪問するに先立って、自己紹介をすることにあったと思われます。パウロはこの手紙で自己の福音理解を整理して述べたのです。パウロは、福音の中心を<人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による>(3・28)という「信仰義認」においています。

   14章1節からは、パウロはまだ知らない教会に対して、予想される具体的な問題、特に人間関係における問題を取り上げます。信仰の強い人の立場に立って、信仰の強い人たちに対し、<信仰の弱い人>を受け入れなさいと勧めています。<信仰の強い人>とは、<何を食べてもよいと信じている人>です。それに対して、ここで述べられている<信仰の弱い人>とは、<野菜だけを食べている人>です。<信仰の弱い人>を<受け入れなさい>というパウロの勧告は、単にその人たちを配慮し、教え導きなさいということではなく、その人たちの生活習慣に根ざす信念を理解せずに、その人たちをさばき、切り捨ててはならないということです。<信仰の弱い人>は、信念や確信に欠ける人ではなく、むしろ逆で、自分の従来からの生活信条に囚われてそこから自由になることのできない人です。ここでは強い者の弱い者への配慮が問題にされています。

 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は食べる人を裁いてはならないのです。神はそれぞれをしっかりと受け入れて下さっておられる。一体、他人の僕(召し使い)を主人顔をしてさばく権利はあなたにあるのですか。かれが立つか倒れるかはその主人次第なのです。かれは主人によって立つものとなるのです。主は、その人を立たせることがおできになるからです。両者とも同じ信仰者なのです。<神はこのような人をも受け入れられた>ということから相互の交わりを始めるべきだと説いています。

 次に、日の問題に入って行きます。<特定の日を重んじる人>とは、悪霊などによる影響を恐れて、日の良し悪しにこだわる人々や、安息日やユダヤ教の祝祭日を守るユダヤ人キリスト教徒のことを言っているようですが、パウロは、彼らの態度の良し悪しを問わずに、彼らが<主のため>にそのようにしていると解釈しています。ある人は、この日がかの日よりよりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。それは、各自が自分の心の確信に基づいてきめるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじているのです。日を重んじる人も重んじない人も、主のためにそうしているのです。

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

 わたしたちが主のもの、主に属するものとされたのは、キリストの十字架のあがないの死を遂げられ、復活して父なる神の右に座し、全権を委ねられ、世界の主として統治なさるからです。イエスを信じる者は、罪を赦され、神の子とされ、神との交わりの中に入れられ、聖霊を与えられて、罪と死を克服する復活の命と力にあずかり、永遠の命に生きる主のもの、主に属するものとされているのです。

 10節では、再び<兄弟を裁き>、<兄弟を侮る>のは、自分の判断が他の人間の判断する基準であると主張することなのだと諭します。しかし、神こそがすべての判断の基準なのです。自分の判断を基準とする者は、自分を裁判官の席に座らせることになります。しかし実際は、自分たちこそ<神の裁きの座に立つ>のです。互いに受け入れ、裁き合ってはならないという勧告は、神こそが裁き主であるという賛美となります。「「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」(14・11)これはイザヤ書49・18と45・23からの引用による礼拝における賛美です。

 パウロは、<信仰の弱い人>に対するこれまでの議論に<もう互いに裁き合わないようにしよう>と結論を下します。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい、と勧めます。同信の兄弟として共に生きることが大切なのです。「強い者」は「弱い者」に強さを強要するのではなく、その「強さ」によってむしろ配慮することが必要なのです。

 パウロは、強い者の立場に同意しながら、「弱い者」の問題点を指摘します。<それ自体で汚れたものは何もない>と断定し、それは個人的・主観的なものであると言います。<汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです>と、個人の主観的判断には踏み入りません。「強いもの」の確信は、「弱いもの」の信念を侵すことは許されません。自己の<確信>は相手の思うところを裁くのではなく、認めることです。

 「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(14・15~16)

 「強い者」が、兄弟の心の痛みを理解せず、信仰が弱いための自業自得であると見捨てるような態度は<愛に従って歩んでい>るとは言えません。キリストはこの弱い<兄弟のために死んでくださった>のだからです。パウロは<あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい>と勧告します。<そしり>は、教会の外から教会に対して向けられる非難を指します。<神の国は言葉ではなく力にある>(コリント一、4・20)と語ったパウロは、ここでは<神の国は飲食ではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び>であると語ります。自分を喜ばせることではなく、神に喜ばれること、また、自分の義や自分の平安ではなく人々の信頼を得ることが、信仰者の基本的姿勢なのです。

パウロは<肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい>と「強い者」のとるべき態度を語ります。自分の信念を忠実に、確信を持って行動すべきです。他人の行動に気を取られて、動揺したり軽蔑したりすることは正しくありません。確信のない行動は信仰者のとるべき態度ではありません。

 ここには、やはりパウロが、ローマ教会をつまらない事で波風を立たせず、穏便に治め、教会の一致を守って行こうとする姿勢がよくあらわれています。教会の中で信仰の中心にかかわることでなければ、こうでなければならないという人と、そのような固定観念にとらわれない人とが相互に認め合っていくべきであるというのです。

 日本の教会には、アメリカから持ち込まれた清教徒(ピューリタン)信仰が伝えられ、謹厳で潔癖な宣教師たちは禁酒・禁煙を重んじたので、教会の敷居は高いものになり、庶民から孤立しました。韓国のキリスト教会では、禁酒を重んじる傾向があり、ある牧師は信徒の前では飲酒を控えていると語っています。つまずきを与えないように配慮しているのです。

   しかし、ものみの塔(エホバの証人)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、セブンスデー・アドベンティスト、世界平和統一家庭連合(旧:統一教会)等のキリスト教の異端と言われている教会は、種々の戒律を定めています。その戒律を救いに不可欠としているので、これを認めることはできません。これは信仰の中心にかかわることだからです。信仰の中心にかかわることでなければ、私たちは、どのような異なる意見や、信仰の持ち方が異なっていても、互いに受け入れることができます。互いに愛し合って、互いに霊的に成長することができるのです。

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「破局からの救い」 使徒言行録27章33~44節

2016-07-10 00:03:51 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12          TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

        週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第9主日  2016年7月10日(日)午後5時~5時50分

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 462(はてしも知れぬ)

交読詩編   95(主に向かって喜び歌おう)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   使徒言行録27章33~44節(新p.269)

説  教   「破局からの救い」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(旧) 273B(わがたましいを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                               次週礼拝 7月17日(日) 午後5時~5時50分

                                聖書 ローマの信徒への手紙14章10~23節

                                説教   「命の糧」

                                讃美歌(21)56 500 24 交読詩編68篇

  本日の聖書 使徒言行録27章33~44節

 33夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。34だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」35こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。36そこで、一同も元気づいて食事をした。37船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。38十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。39朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。40そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。41ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。42兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、43百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、44残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。

    本日の説教

今日の聖書の箇所、使徒言行録27章27節のところは、パウロが裁判を受けるために他の数人の囚人と共に、帆船でイタリアのローマに護送される途中の出来事です。

カイサリアで監禁されていたパウロは、ローマの市民権を持っていることを理由に、皇帝に上訴したので、ローマの法廷に出頭することになったのです。もし、エルサレムでの裁判に送り返されれば、パウロはユダヤ教の祭司長たちによって途中で殺される運命にありました。

ローマに行くことはパウロの長い間の願いでした。当時、文化と政治の中心である世界の首都ローマにおいて、キリストの福音を証しすることと、ローマにいるキリスト者たちを励まし、信仰による交わりをすることの願いが(ローマ1:13)、囚人としてではありましたが、かなえられる時が来たのです。 

 パウロの身柄は、百人隊長ユリウスに預けられ、カイサリアからアドラミティオン港所属の船で出航しました。アドラミティオン港は、小アジア西北のトロアスの南東のアソスに近い海港都市(現在のトルコの西海岸にあるエドレミトのこと)の港です。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコと、この書を書いたギリシャ人医師ルカが、パウロの世話係として同行を許されました。

地図を見ながら、パウロのローマへの旅をたどってみましょう。

1 このロ-マへの旅は、西暦58年か、59年の8月中旬~9月初旬頃、カイサリアの出港から始まります。

2 翌日シドンに停泊しました。そこから船出しましたが、向い風が強かったので、キプロス島の北を航行しました。

3 ミラで、イタリア行きのアレクサンドリアの穀物運搬の貨客船に乗り変えました。36節に、276人乗船していたと記されているので、かなり大きい帆船(およそ300~500トン)です。

4 強風のため、幾日もかかってようやくクニドス港に近づきました。

5 風に行く手を阻まれてサルモネ岬(岬アクラ・シデロスのことであろう)を回ってクレタ島の陰 を航行しました。

6 「良い港」(現在のカリリメネスか?)と呼ばれるところに着きました。10月の第一週の終わり頃の到着です。かなりの時がたっていて、すでに<断食日>(九月末~十月初め)を過ぎていました。九月中旬から翌年三月までは海が非常に荒れるので航海は危険でした。パウロはこの季節の航海を避けるように人々に説得しました。

7 しかし、百人隊長は、船長や船主の方を信用し、冬を過ごすためにフェニクス港(現在のルートロか?)に行くことになりました。ときに南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、進みました。しかし、間もなく、島のイーディ山(海抜2456m)から吹き降ろす「エウラキロン」(北東から吹く暴風)に船は巻き込まれ流がされるままになりました

8 <カウダ(現在のガウドス)>という島かげに入ったとき、彼らは小舟を引き上げ、綱で船を船首から船尾まで縛りあげ、シルティス(リビアのシルト湾のこと)の浅瀬に乗り上がるのを恐れて、防流錨(いかり)を降ろしたまま流れにまかせました。

  ひどい暴風に悩まされたので、翌日、人々は積み荷を海に捨て、三日目には船具も捨てました。幾日もの間、太陽も星も見えず、自分たちの位置も進路も確認できないまま、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていました。人々は長い間、食事をとっていませんでした。そのときパウロは、皆さん、元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。…わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」と言って励ましました。

 船は、クレタ島の「良い港」を出港してから、十四日間、アドリア海を漂流しました。

   当時は、クレタ島からシチリア島までの領域をアドリア海と呼んでいたようです。その距離は870㎞です。大阪から仙台位までの距離になります。(現在、長靴の形をしたイタリア半島の踵の部分の岬までをアドリア海といいます。その南は、シチリア島までがイオニア海です。それ以上南は地中海です。)

   真夜中ごろ船員たちは陸地が近いと推測し、水深を測ると、一度目は<二十オルギィア(36メートル)>、二度目は<十五オルギィア(27メートル)>でした。船が暗礁に乗り上がることを恐れて、船員たちは錨を船尾から四つ投げ込み、夜明けを待ちました。ところが、船員たちは船首から錨を降ろすふりをして、小舟を降ろし、船から逃亡しようとしました。パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言ったので、兵士たちは小舟をつないでいた綱を断ち切って、小舟を流し、船員たちの逃亡を阻止しました

ここからが、今日の聖書の箇所に入ります。

   夜が明けたころ、パウロは一同に食事をするように勧めました。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言って、パウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づいて食事をしました。乗船者は全部で二百七十六人いました。食後、彼らが満腹した後、船にいた者たちは、座礁を防ぐため、穀物を海に投げ捨てて、船体を軽くしました。

9  翌朝、砂浜のある入り江を見つけました。しかし、砂浜にたどり着く前に座礁してしまい、泳いで陸地に向かい、何とか全員が無事に上陸することが出来ました。その陸地はマルタ島でした。おそらく10月下旬から11月初め頃にかけての到着かと思われます。カイサリアを出帆して2か月経過していました。

   現在マルタ島の北西に聖パウロ湾があり、その入り口に聖パウロ島という小島があります。ここがパウロとその一行が漂着したところだと伝えられています。マルタ島では、冬の間、11、12、1月と3か月過ごし、2月になってローマ行きのアレキサンドリア船で出帆しました。ローマには2月下旬~3月初旬に到着したと推定されます。カイサリアから出発してからおよそ6か月後になります。

 船を航行不能に陥らせたのは、クレタ島から吹いてきた「暴風」でした。南風が静かに吹いてきたので、帆船にとってはこの時とばかり出帆したのに、突然この暴風に見舞われたのです。船は激しい暴風のために地中海を漂流しました。それは想像を絶する14日間にも及ぶ苦難でした。助かる望みは全く消えうせようとしていました。

   私たちの人生にとっても、嵐が訪れるときがあります。それは自然災害であったり、人災による場合や、さまざまな事情による思いがけない出来事による場合があります。

 乗客や船乗りたちが恐怖に駆られ、不安におびえていたとき、パウロは、望みを失うことはありませんでした。パウロは嵐の中でも平静さを失わず、絶望しかけている人々に、だれ一人として命を失うことはないと言って励ましました。パウロのこの確信はどこからきたのでしょうか。

 パウロは次のように言っています。「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』…わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」

 パウロは、エルサレムで兵営に連れていかれた夜、主イエスがパウロのそばに立たれて、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない」(使徒言行録23・11)と言われたことを覚えていました。自分がローマに行くのは神のご意思によるのであるから、自分だけでなく、一緒にいる人々も必ず助かると確信したのです。

 パウロの平安の根拠は、この神の約束を信じときに与えられる聖霊の働きによるものでした。パウロは確信をもって、不安にとらわれている人々を励ますことができたのです。

 パウロは、「あなたがたの髪の毛一本もなくなることはありません」と、天の父のお許しがなければ決して失われることはないという神の摂理、神のご計画と配慮を信じていたのです。

   私たちにとっても重要なのは、どのような状況の中に置かれても、「思い煩うのはやめて、求めているものを神に打ち明け」(フィリピ4:6)、祈ることです。主が共にいてくださり、必ず道を開いてくださることを信じることです。そしてそのような信仰に立つとき、まわりの人々にも平安と恵みが及ぶのです。

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「復活の希望」 使徒言行録24章10~21節

2016-07-03 01:49:50 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本キリスト教 富 谷 教 会

                        週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

          聖霊降臨節第8主日    2016年7月3日)  午後5時~550

        礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  使徒言行録24章10~21節(新p.262)

説  教     「復活の希望」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 545(まことの神)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                         次週礼拝 7月10日(日) 午後5時~5時50分

                                              聖書  使徒言行録27章33~44節

                                              説教   「破局からの救い」

                                              讃美歌(21)462 536 24 交読詩編 54篇

本日の聖書 使徒言行録24章10~21節

 10総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。11確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。12神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。13そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。14しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。15更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。16こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。17さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。18私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。19ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。20さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。21彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」

                本日の説教

 パウロが、シリアのダマスコ付近でキリスト教に回心したのは、紀元33年頃でした。主イエスの十字架の死の三年後のことです。パウロの誕生が紀元10年頃とすると、回心は、彼が23歳前後の頃になります。それはパウロへの主イエスの顕現であり、使徒としての召命でした。

   回心後エルサレムを訪問し、主の兄弟ヤコブに会ったのはその二年後(ガラテヤ1・18には三年後とある)でした。その後、生まれ故郷のキリキア地方のタルソスに行きました。エルサレム教会からシリア州のアンティオキアへ派遣されたバルナバは、タルソスに行き、パウロをアンティオキアに連れ帰りました。二人は丸一年教会に一緒にいて、多くの人を教えました。アンティオキアの信徒が初めて「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれるようになりました(11章26節)。パウロは、先のエルサレム訪問後14年たってから(紀元48年)、バルナバと一緒にエルサレムに上り、異邦人伝道をめぐっての使徒会議に参加しました。

  アンティオキアの教会から送り出されて、パウロは紀元48年に第一回伝道旅行(13章1節~14章28節)にでかけます。パウロによる第二回伝道旅行は、49年~52年にかけて行われました(15章36節~18章22節)。この旅行で福音がオリエント世界(アジア)からギリシャ世界(ヨーロッパ)へと伝えられます。パウロはアテネやコリントで伝道しました。

  第三回伝道旅行は、53年~56年に行われました(18章23節~21章26節)。アジア州の首都エフェソ(ローマの植民都市)で二年間伝道した後、ヨーロッパのマケドニア州とアカイア州(ギリシャ)に行きました。紀元56年、ギリシャのコリントに三か月滞在したあと、異邦人教会からの献金を持ってエルサレム教会を訪問することにしました。しかし、このパウロのエルサレム訪問はどんなに危険なことかを、途中小アジア州のミレトスの港町でエフェソの教会の長老たちを呼び寄せて別れを告げた遺言説教で語っています。

  「今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしは分かっています。」(20章22節~25節)

  このように、パウロのエルサレムへ行く決意は固く、苦難や死をも覚悟したものでした。人々は、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しみました。

  使徒言行録21章17節~26節は、エルサレムに戻ったパウロのことが書かれています。エルサレムで七日過ぎようとしていたときパウロはエルサレム神殿境内でアジア州から来たユダヤ人に捕らえられたのです。パウロが、ユダヤ人しか入れない所に異邦人を連れ込んで神殿をけがしたと誤解され、危うく殺されそうになったとき、ローマから派遣されている守備隊の千人隊長が駆けつけパウロを逮捕して保護したのです。彼は神殿側にあるアントニア城塞の兵営に連行されるとき、民衆に向かって話すことを許され、兵営の階段から民衆に弁明しました(21章27節~22章21節)。しかし、かえって人々の反感を煽るような結果いなってしまいました。

  パウロはローマ帝国の市民権を持っていることを主張したので、鞭打ちの刑は免れました。千人隊長は、翌日祭司長たちと最高法院の議員を招集して、パウロの弁明を聞きました。23章1節から6節には、最高法院でのパウロの弁明が記されています。パウロは議場で声を高めて言いました。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」<死者の復活の望み>とは、イエスの復活で成就した死人の復活の望みです。この弁明の意図はパウロが騒乱を引き起こすようなユダヤ人ではなく善良な人間として認めさせることでした。しかし、パウロがこう言ったので、<復活も天使も霊も否定する>と言われているサドカイ派とこれを認めるファリサイ派との間に論争が生じ、最高法院の議場は騒然となりました。パウロは再び兵営に連れて行かれました。

  その夜、主イエスはパウロのそばに立たれて、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように。ローマでも証しをしなければならない。」と言われたのです。

  その翌日、四十人以上のユダヤ人たちが、パウロを殺すまでは飲み食いしないという暗殺の陰謀を企てていることを知った千人隊長は、パウロをエルサレムからカイサリアの総督フェリクスのもとに護送しました。フェリクスは、ヘロデの官邸にパウロを留置しました。

  その五日後、パウロを告発するため、大祭司アナニヤは長老数名と弁護士テルティロを連れて下ってきました。テルティロは総督フェリクスの前でパウロを訴えました。

  パウロの告発の理由は三つです。

  1.パウロは疫病のような人間で、ローマの平和の騒乱者である。

  2.<ナザレ人の分派>(キリスト者の異端)の首謀者である。

  3.神殿の冒涜者である。

  今日の聖書の箇所は、告発に対するパウロの弁明です。

    世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしているという訴えに対して、パウロは、自分がエルサレムに上ったのは礼拝のためで、暴動を起こすためではないと反論します。エルサレムに滞在したのはたった十二日間で、そんな騒ぎを起こす余裕もないし、それにだれ一人パウロが騒ぎを起こしたのを見たという目撃者が出ないのがその証拠だと主張します。

    次に彼は、彼らが<分派>と呼ぶ<この道>(キリスト教)に従っていることを認めます。けれども、ユダヤ人に「異端」と見做されている自分たちの方が、かえって完全に旧約聖書の教えと一致した教えを守り、特に死人の復活の事柄にも正しくかかわていることを述べて、その正当性を主張します。そしてパウロは、義人も悪人も必ず復活し、神のさばきの前に立たなければならないという復活の信仰を持っていること、またそれだからこそ自分は「いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしていることを陳述します。

     第三の「神殿の冒涜者である」という告発に対しては、自分は神殿を汚すどころか、自分のエルサレム上京の目的は<同胞に救援金を渡すため、また供え物を献げるため>であり、何年ぶりかで帰って来たこと、その供え物のために清めを受けて神殿の中にいたこと、別に群衆の騒動もなかったこと。騒動の原因はすべて、アジア州から来た数人のユダヤの誤解、曲解によるもので、もし告発があるなら、彼らが告発すべきである。問題になった点と言えば最高法院で述べた<死者の復活のこと>で議場が荒れたのであって、これはもとより訴訟の対象になるようなことではない。従ってこの告訴は無効ですと弁明しました。

  総督フェリクスは、この告訴が政治問題ではなく、ユダヤ教内部の宗教問題であったことを知っていたので、判決を出さず、千人隊長が来るまで、裁判を延期することを宣言し、パウロの監禁については、寛大な処置を百人隊長に命じました。この後、パウロはカイサリアで二年間監禁されることになるのです。

   二年後、フェリクスは総督を罷免され、フェストゥス総督が着任し、パウロを裁判いかけると、パウロはローマ皇帝の法廷で裁判を受けたいと上訴しました。パウロはアグリッパ王の前で弁明したのち、ローマへ向かって船出することになります。

   パウロの使徒としての労苦と苦難は、コリントの信徒への手紙二、11章23b~28節に記されてます。「死ぬような目に遭ったことも度々でした」と報告しています。パウロの十字架を負ってイエスに従う生き方はどこから生まれるのでしょうか。それはアグリッパ王の前でも語られるのですが、復活のイエスに出会ったことにあります。復活されたイエスこそ、神の御子であり、旧約聖書に予言されている、人の罪を負う苦難の(しもべ)であるとわかったのです。パウロは、深い愛をもって呼び掛けてくださる生ける主エスとの決定的な出会いを経験したのです。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして…あなたを奉仕者、また証人にするためである」(26章16)と主は言われたのです。主キリスト・イエスによって示された神の愛、そして死んだ方、否むしろ、復活された方であるキリスト・イエスがわたしたちのために神の右に座って執り成してくださるだから、このキリストの愛から、艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、どんな被造物も引き離すことはできない(ローマ8・34~39)というパウロの神の愛に対する確信と復活の信仰が、死をも恐れないパウロの生き方を生んだのです。

  パウロのローマでの殉教は、紀元60年頃と推定されています。回心からの四十年近い人生は、神からの召命に応えるために用いられました。パウロは、主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、キリストのゆえに失ったすべてを塵あくたとみなしています(フィリピ3・8)。生ける復活のイエスとの出会いの体験とその後の主イエスによる恵みが、パウロの使徒としての献身を支えました。私たちもパウロの生き方に学び、与えられている大きな恵みに応える生き方をしたいと思います。



 

 

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「ペトロによる、しるしと不思議な業」使徒言行録9章32~43節

2016-06-24 15:33:49 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会

                       週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第7主日       2016年6月26日)   午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 405 (すべての人に)

交読詩篇   49編(諸国の民よ、これを聞け)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   使徒言行録9章32~43節(新p.231)

説  教    「ペトロによる、しるしと不思議な業」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 481(救いの主イエスの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                       次週礼拝 7月3日(日) 午後5時~5時50分

                                        聖書  使徒言行録24章10~21節

                                        説教    「復活の希望」

                                        讃美歌(21)327 545 24 交読詩編 96篇

本日の聖書 使徒言行録9章32~43節

 32ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。33そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。34ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。35リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。36ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。37ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。38リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。39ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。40ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。41ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。42このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。

             本日の説教

 今日の聖書の個所に入る前に、エルサレム以外のユダヤの地やサマリアの地でのペトロのこれまでの働きについてお話しいたします。

  ンテコステの日に聖霊が弟子たちに降り、主イエスの十二使徒の筆頭であるペトロは、この日から、エルサレム市内や、神殿でユダヤ人の民衆に福音を語り始めました。使徒たちの手によって多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われ、多くの男女が主を信じ、その数がますます増えました。6章には、使徒たちを補佐する七人の人が選ばれたことが記され、その中に、ステファノとフィリポの名があります。7章では、ステファノの説教と殉教が記され、サウロ(後のパウロ)は、ステファノの死を目撃しました。その日、エルサレムの教会に対する大迫害が起こりました。

十二使徒以外の者は、ユダヤ、サマリアの地方に散って行きながら、福音を告げ知らせました。七人の補助者の一人に選ばれたフィリポはサマリアの町に下って行き、人々にイエス・キリストの名についての福音を宣べ伝えました。人々は信じ、洗礼を受けました。エルサレムにいたペトロとヨハネは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、サマリアに行き人々が聖霊を受けられるように祈りました。人々は洗礼を受けていただけで、聖霊はだれも受けていなかったからです。二人はサマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサエムに帰りました。

  その後、フィリポはエチオピアに帰るためガザの方に向かって旅していた高官(宦官(かんがん)・去勢された宮廷に男性)に福音を伝え、洗礼を授けてから、アゾトに姿を現し、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行きました。

  9章には、シリアのダマスコにいるキリストを信じる信徒たちを迫害するために向かったサウロ(ギリシャ名はパウロ)が、ダマスコに近づいたとき、天から語りかける主イエスの声を聞き、回心してイエス・キリストを信じ、ダマスコで福音を伝えました。かなりの日数がたてから、サウロを殺そうとするユダヤ人の手から逃れて、サウロはエルサレムに着き、使徒たちに宣教の報告をしました。エルサレムでも、ギリシャ語を話すユダヤ人たちがサウロを殺そうとねらっていたので、兄弟たちはサウロを連れてカイサリアに下り、そこからサウロの出生地のタルソス(トルコ中南部の都市タルスス。アダナから西へ約40km離れた 地中海沿岸に位置する)へ出発させました。

  こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方に増え、平安を得ていました。主に対する畏れ、主の支配にもとで教会は建てられ、聖霊の励まし、慰めによって、信者の数は増えていきました。

  ここから本日の聖書の箇所に入ります。ペトロは再びフィリポの伝道した後を訪ね、信徒の信仰を一層強めるため、海岸沿いの地域を巡回することにしました。ペトロはエルサレムの北西40キロにあるリダ(旧約聖書ではロド)に行きました。すでに教会はフィリッポの宣教によって設立されており、そこには<聖なる者たち(信徒の意)>がいました。ペトロはアイネアという八年前から床についていた中風(ちゅうぶ)(脳血管障害〈脳卒中〉の後遺症による半身不随の状態を指す言葉です)の人に会いました。おそらく老人だったのではないかと思われます。体の不自由なことは本人にとってつらく苦しいことであり、周囲の者たちにも気の毒に思える状態です。病気、老い、介護の問題は、昔も今も深刻な問題です。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がりました。かつて、ペトロはエルサレム神殿の美しの門で、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、生まれながら足の不自由な人をいやしたことがありました(使徒言行録3・1~10)。そのいやしは、ペトロではなく、「イエス・キリストがいやしてくださる」のです。主イエスご自身も中風の人を癒されています(ルカ5・17~26)。

   いやされたアイネアを見て、リダとシャロン地方(カイサリアからヤッファにかけての海岸地帯)の人々は皆、主キリストを信じるようになりました。

  地中海に面したヤッファ(現在のテル・アビブのヤッファ)の町にヘブライ名はタビタ、ギリシャ名はドルカス(「牝のかもしか」の意)という婦人の信者がいました。彼女は数々のよい働きや慈善をしていた人でした。このような働きによって、ドルカスは教会にとってなくてはならない存在でした。彼女はやもめたちの世話や、自分のできる針仕事で衣服を作り与えていたのです。

  ところが、そのころ彼女は病気になって、ついに死んだのです。ヤッファの教会の人々は悲しみと落胆しました。人々は亡くなった彼女の体を洗い清め、別れを惜しみ、屋上の部屋に安置しました。かつてエリヤが、シドンのサレプタのやもめの子が死んだとき、階上の部屋に子ども寝かせて生き返らせたことがありました(列王記上17・17~24)。タビタも階上の部屋に置かれたのです。

 死は人生の最大の問題です。どうれば死別の悲しみが癒されるのでしょうか。どうしたら死を乗り越え、死に捕らわれない生き方ができるのでしょうか?

  リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼みました。リダとヤッファの距離は近く、18キロでした。ここもフィリポの伝道地でした。使いのしらせを受けたペトロは、リダをたって、その二人と一緒に出かけました。人々はペトロが到着すると、屋上の部屋に案内しました。すると、かつてドルカスから施しを受けていたやもめたちは皆ペトロのそばに寄って来て、泣き悲しみながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せました。ペトロは泣く女たち皆を外に出し、預言者エリヤ(列王記上17・19)やエリシャ(列王記下4・33)のように独りになり、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言いました。すると、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がりました。ペトロは彼女に手を貸して立たせました。そして、信徒たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せました。生き返ったタビタを見た人たちは、この信じられない出来事にどんなに驚いたことでしょう。そして喜んだことでしょう。この奇跡は終末に起きる復活の先取りのしるしでした。

   ペトロがタビタのしたことは、かつて主イエスが会堂長ヤイロの娘を生き返らせた時と似ています(ルカ8・41~56)。主イエスは、娘の父母や弟子たちを残し、人々を外に出しました。そして主イエスは「タリタ・クム」と言われました(マルコ5・41)。これは、「少女よ、(わたしはあなたに言う)起きなさい」という意味です。主は、「タリタ・クム」と言われ、ペトロは「タビタ・クム」と言いました。一字だけ違う大変似た言葉です。手を貸して立たせたことも彼女が生き返ったのを見せたところもよく似ています。しかし、根本的な違いは、主イエスはご自分の力で娘を生き返らせたことです。一方ペトロは、ひざまずいて祈り、主に願ってから「タビタ、クム(起きなさい)」と言ったのです。このペトロの言葉は、主ご自身の言葉として語られたのです。ここに主イエス・キリストが働かれたのです。キリストの復活の力、聖霊の力によって、タビタは生き返ったのです。この奇跡はヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じ、信者になりました。

  主イエスは、会堂長ヤイロの娘と、ナインのやもめの息子(ルカ7・15)と、べタニヤのラザロ(ヨハネ11・43)のと三人を生き返らせています。それはイエスが神の御子であることを証する目的のためであり、愛のあらわれとして行われたものでした。ラザロの場合は、彼の死を悲しんでいる二人の姉妹、マリアとマルタを憐れんだためであり、イエスが生も死もつかさどる神であり、イエスを信じる者は死んでも生きるのであり、決して死ぬことはないことをあかしするためでした。

  使徒言行録は、当時の教会が、言葉と力ある業、多くのしるしによって信者の数を増していったことを、くり返し述べています。奇跡を行う使徒たちの時代は、あの時代だけで終わったのでしょうか。聖霊の働くところ、そこには「イエスは主である」との信仰が生まれ、イエスの名は、天地の創造者である父なる神と同じように、命と死を与える力を持っていることを知らなければなりません。このキリストの偉大な力を受けたパウロは、次のように言っています。
 「異邦人を従順に導くために、キリストが私を通して働かれたこと以外は、わたしはあえて語ろうとは思いません。キリストが言葉とわざにおいて、しるしと不思議を現す力により、御霊(みたま)の力によって働かれたのです(ローマ 15;18~19)。御霊の「しるしと不思議を現す力」は今日も続いています。私たちは罪と死の力の支配に打ち勝つ復活の御霊をいただいているのです。

 

 

 

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