富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天のエルサレムに近づいている」 ヘブライ人への手紙12章18~29節

2020-06-25 12:28:54 | キリスト教

       ↑  「わたしたちの神を見よ。」「あなたがたは天のエルサレムに近づいたのです。」(ヘブライ12:22)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

              日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

             聖霊降臨節第五主日  2020年6月28日(日)     午後5時~5時50分

                                       礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 497(この世のつとめ)

交読詩編   48(大いなる主)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙12章18~29節(p.418)

説  教     「天のエルサレムを目指して」

祈 祷                 辺見宗邦牧師                

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                          次週礼拝 7月5日(日)  午後5時~5時50分  

                                                          聖 書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

                                                           説教題   「異邦人の救い」

                                                           讃美歌(21) 405 579 交読詩篇 84

      本日の聖書 ヘブライ人への手紙12章18~29節

   12:18あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、19ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。20彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。22しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、23天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 24新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。25あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。26あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」27この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。28このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。29実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

                       本日の説教

 ヘブライ人への手紙のヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしも必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13:24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないし、首都のローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る見方が有力です。

  ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。<ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。最初の挨拶の言葉もなく、いきなり本文で始まるので、手紙よりも論説や説教のようなものです。 

   この書は、長い間パウロの書簡とされてきましたが、近代の研究では、バルナバやアポロ、プリスキラという人物を著者とする説が有力ですが、明らかではありません。

【バルナバ(キプロス島出身のユダヤ人、アンティオキア教会の指導者-使4:30,11:22,13:1)。アポロ(アレキサンドリア出身のユダヤ人・雄弁家-使18:24、コリント一1:12)。プリスキラ(ローマを退去してコリント、そしてエフェスに移住した、アクラの妻で、ポントス[現在のトルコの黒海に近い町]で生まれのユダヤ人-使18:2,16)。】

   著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13:23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されていますし(10:32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

 執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10:32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10:25)、異なった教えに迷わされ(13:9)、みだらな生活に陥る(13:4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。  

 ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1:1~4:13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4:14~10:31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10:32~13:19)。最後の添え書きは「祝福の祈りと終わりの挨拶」(13:20~25)です。

 今日の聖書の箇所は、第三部に属しますが、新共同訳は12章14-29節を一区切りにして「キリスト者にふさわしい生活の勧告という表題をつけています。すべての人との平和を、また聖い生活を追い求めなさい(14節)。また、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように(創世記25:34-35)、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけなさい(16節)と勧告します。

 18節の最初のことばは、原典では、接続詞の「なぜなら、なぜかというと」を意味するギャル(γὰρ)で始まっています。前の文を受けて、聖い生活をするのも、俗悪な者とならないように気をつけるのは、なぜなら、シナイ山のような恐ろしい山が近づいているのでなく、すばらしい神の都(天国)が近づいているからです、と迫害下にある信徒を励ますのです。ここには旧約聖書に出てくるシナイ山と比較して、天国はそのようなものとは全く違うものであることが述べられています。

あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。」(18~19節)

 イスラエルの民が荒野でさまよったとき、シナイ山で経験した恐ろしい体験を例にあげて語ります。<あなたがた>は、この手紙の受け取り人である迫害によって散らされたキリスト者たちです。<手で触れることのできるもの(山)>は、出エジプト記19:13によれば、主はモーセに対して、「山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ」と、民が山に近づかないように忠告しています。<黒雲>(出19:16~18、22:18)、<暗闇>(申命記4:11)、<暴風>は神が住まわれる場所、<ラッパの音(角笛)>(出19:16,19、20:18)は、神の顕現を現しています。<聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような>(出20:19)、<言葉の声>(出19:19、申4:12)とは、イスラエルの民が「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」(申18:16)とモーセに願い、直接神の声を聞くことに対して極度の恐怖心を抱きました。このように荒れ野のイスラエルの民がシナイ山のふもとで経験した恐ろしい光景が語られ、そのような出来事が近づいたのではないと言っています。

  「 彼らは、『たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない』という命令に耐えられなかったのです。」(20節)

 出エジプト記19:12~13からの引用です。<彼ら>はイスラエルの民のことです。この<命令>は、神がモーセに、イスラエルの民に告げるように命じたのです。イスラルの民が神を畏れて罪に犯さないようにするためです。

また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。」(21節)

 申命記9:19との関連で語られています。シナイ山(ホレブの山)のふもとで、モーセが山に登り、契約の板を受け取る間に、イスラエルの民は金の子牛を造り、拝んだので、主を怒らせました。民の罪に怒る神の前では、イスラエルの民はもとよりモーセでさえ恐れたのです。

しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、」(22~23節)

 12章の18節~24節は、古い契約が与えられた山と新しい約束が与えられている山を比較します。古い契約はシナイの荒れ野の中のシナイ山でモーセを通して結ばれました。それは律法を守らない者は死ぬという厳しさの中にありました。新しい契約はエルサレムのシオンの山(丘)で結ばれました。それは神の御子イエスによって与えられた福音です。あなたがたはすでに贖われて、天の国の住人になっているのだと、信徒を励まします。

 あなたがたに<近づいたのは>、むしろ救いの神に近づいたことが語られます。シナイにある山ではなく、シオンにある山です。けれども、今地上にあるエルサレムにある山のことではありません。ここで言われている<シオンの山>とはシナイ山のような現実の山ではなく、「生ける神の都」「天にあるエルサレム」を指します。「天上のシオン」の<シオン>は、エルサレムの元々の名称で、後にソロモン王が神殿を建ててからは、神殿を含めて「シオン」と呼ばれるようになりました(列王記上8:1)。シオンの名称は、詩的用法で用いられ、神ヤーウェが住まわれる都としてのエルサレムを意味します。<天に登録されている長子たちの集会>とは地上の教会に属するキリスト者に約束されている終末の教会のことです。<すべての人の審判者である神>の<すべての人>とは、生きている者と死んだ者のすべてを指します。<完全なものとされた正しい人たちの霊>とは、キリストの出現を待ち望み、その贖罪によって初めて完全なものとされた旧約の義人たちを指します。

新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(24節)

 古い契約の仲介者モーセに対して、<新しい契約の仲介者>イエスが天のエルサレムのシオンの丘におられる様が語られます。<アベルの血よりも立派に語る注がれた血です>の<注がれた血>とはイエスが十字架上に流された贖いのための血です。その血はかつて<アベルの血>(創世記4:10~11)、すなわち兄カインによって殺された弟アベルの犠牲の血よりも、はるかにまさった犠牲と和解のしるしとなっていることを伝えています。それは復讐を叫ぶアベルの血ではなく、恵みに満ちた罪の赦しを与える血でした。

あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。」(25節)

語っている方>とは、天から語っておられる復活のイエスを指しています。天からのイエスによる救いのメッセージは、私たちにとって拒むべきべきではないことが警告されています。この勧めは、み言葉を聞いた者がその生活において積極的な生き方をするように求められているという意も含まれているのです。<地上で神の御旨を告げる人>とはモーセのことで、天から語っておられる方と対比させられています。地上で神の言葉を語ったモーセを拒否し、その言葉に背いた者は罰を逃れることはできませんでした。イスラエルの人々がシナイの荒れ野でとった態度を思い起させることにより、神に逆らうことの意味を教えています。今私たちは、かつての地上における声、つまり代弁者モーセを通して語られた声ではなく、「天から」遣わされた御子イエスを通して語られる御声に背を向け、拒否するなら神の罰はなおさら逃れることはできないことが語られています。

あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」(26節)

 <あのとき>は、神がモーセを通して語られた時です。<その御声が地を揺り動か>したとは、律法が伝えられた時シナイ山が震えたこと(出19:18)を指し、この神顕現の光景は、終末の日の状況を想起させます。詩編18篇8節に「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ」とあります。<わたしはもう一度…>はハガイ書2・6の引用です。ハガイは、バビロンからの帰還者たちに、神殿を中心とするイスラエルの再建を語り、神殿完成後にメシアの時代が到来することを預言しました。著者はこのハガイの預言を世界の終末と受け止め、ここに引用したものと思われます。終わりの日には<地だけではなく天をも揺り動かそう>と主は言われます。

この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。」(27節)

 もう一度、地だけでなく天も揺り動かされるのは、<揺り動かされないものが存続するため>です。<揺り動かされないもの>とは、28節の<揺り動かされることのない御国>のことです。著者は、読者であるキリスト者に御国の一員である自覚をうながして、喜びの確信の中にある幸いを示します。それはそのまま28節の「神への感謝、そして奉仕」につながります。

 「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」(28節)

 キリスト者は今すでに終末的な約束としてこのような御国を与えられています。神の恵みを受けとめることのできる者のみが、まことの感謝を神にささげることができるのです。また<感謝の念>と<畏れ敬う>神への思いは、<神に喜ばれるように仕え>るということで姿勢が生まれ、ふさわしい礼拝の態度が生まれます。

 「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(29節)

 申命記4:24の引用です。新しい契約においては神はすべてのものを<焼き尽くす火>のような厳しさを失われません。恵みと厳しさは並存します。キリスト者が神の恵みに甘えて福音の言葉を拒否するならば、神との永遠の交わりに入ることはできません。審判を恐れつつ、仕えてゆくことが求められています。

 世界を創造し、支配し、その世界を揺り動かす力を持っておられる方、それがイエスによって啓示されました。同時に、イエスはこの「揺り動かされることのない御国の」の王であり、キリスト者はその御国の一員です。この御国にある<天のエルサレム>こそ、私たちが目指す<神の都>です。<天のエルサレム>は、11章には、「神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都」(11:10)とあり、信仰の先達たちが熱望した「天の故郷」(11:16)です。それゆえに、今、置かれている生活の場がどのような苦境にあったとしても決して絶望に終わることはありません。私たちはしっかりとイエス・キリストにとどまり続け、神に喜ばれるように仕えながら、天のエルサレムを目ざして歩んでまいりましょう。

 

 

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「信仰の道」 ヨハネによる手紙一、2章22~29節

2020-06-21 13:39:01 | キリスト教

          ↑「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどです。」(ヨハネの手紙一,3:1)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL: 022-358-1380  FAX:022-358-1403

       日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

      聖霊降臨節第四主日   2020年6月21日(日)     午後5時~5時50分

                          礼 拝 順 序

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 227(主の真理(まこと)は)

交読詩編   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる手紙一、2章22~29節(p.443)

説  教     「信仰の道」

祈 祷                 辺見宗邦牧師                

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 458(信仰こそ旅路を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                               次週礼拝 6月28日(日)    午後5時~5時50分  

                                                聖 書 ヘブライ人への手紙12章18~29節

                                                説教題   「天のエルサレム」

                                                讃美歌(21) 498 579 交読詩篇 84

        本日の聖書 ヨハネによる手紙一、2章22~29節

  2:22偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。23御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。24初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。25これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。26以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。27しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。28さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。29あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。

                      本日の説教

ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、用いられている用語や表現などが極めて似ているところから、同じ教会(仮にヨハネの教会と呼ばれている)の中で成立したと考えられています。

ヨハネによる福音書は、イエスの十二弟子の一人のヨハネの権威の下に、ユダヤ教会堂に対してキリスト教の信じる神の独り子イエス・キリストを明らかにするために、紀元80年から後半から90年頃にかけて書かれました。

ヨハネの手紙(一、二、三)は、ヨハネの教会の指導的位置にあったユダヤ人キリスト者の長老が、教会内部に起こった福音理解についての異端に対応するために、紀元100年前後に書いた勧告や手紙です。

なお、ヨハネによる黙示録は、ローマの属州アジア州(現在のトルコ西部)に対する迫害が厳しくなったドミティアヌス帝の治下、紀元95年頃、福音宣教のためにパトモスの島に流刑の身となった教会の予言者を自称する僕(しもべ)ヨハネが、さし迫ったキリストの再臨、この世の終末と完成を告げ、諸教会を励ました文書です。

ヨハネ黙示録も、用語・表現がヨハネによる福音書やヨハネの手紙とかなりの関連があるので、これらを総括して「ヨハネ文書」と呼んでいます。

ヨハネの手紙二、三は、長老が教会や個人に書いた手紙ですが、ヨハネの手紙一は手紙というより勧告であり説教のようなものとして書かれています。

 1章から2章27節までに書かれていることは、御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つための道として、①光の中を歩くこと(1・7)、②戒めを守ること(2・3)、③兄弟を愛すること(2・10)、④反キリストの惑わしと誤り(2・17)、⑤伝統的信仰を守ること(2・24)の五つのことを論じ勧めています。

2章18節以下に示されているように、この手紙の著者ヨハネは、グノ―シス的思想傾向を持つ教会内部のグループの誤りを論じ激しく攻撃しています。終末の時に現れる<反キリスト>こそ、今、教会を惑わしている異端であるとし、その異端の内容が父なる神と子なるキリスト・イエスとの正しい関係を認めず、ひいてはイエスがメシアであることを否定していると主張しています。

 当時の異端であるグノ―シス的思想とは、紀元1世紀から2世紀にかけて盛んになり、3世紀には衰微した思想運動です。グノーシスとは、「知識」を意味するギリシヤ語です。グノーシス主義は、人間はある「霊知」(グノーシス)を持つことによって救われると教えました。そしてその「霊知」をもたらすのがキリストだというのです。徹底した霊肉二元論の立場を取り、霊は純粋で神秘なもの、肉(物質)は罪悪性を持ち堕落したものであるとしました。絶対者である唯一の神が万物の創造者であるという教理を否定し、イエス・キリストは受肉した神の御子であるという教理を否定し、人間は恵みと信仰によって救われるという教理を否定しました。グノーシス主義は、肉体のみを罪悪視したため、内面にある罪の問題を考えることができませんでした。その教えは、禁欲的、戒律的なものとなると同時に、霊の神秘性を強調したために神秘的儀礼を重んじました。これは、福音とは全く異質の教えです。グノーシス主義は当初からキリスト教に浸透し、教職の位階制度を批判するなどしました。その結果教会は、自己の内部にキリスト教グノーシス派という危険な敵を抱えることになったのです。

 「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(22節)

<偽り者>とは嘘をつく者の意ですが、具体的には異端教師を指します。当時の異端説は、イエスがメシア(救世主)であることを否定する者のことです。特に御父と御子を認めないことがメシア性の否定とつながっています。異端説は、神の子が人間となって世にこられたという受肉を認めず、キリストを単なる霊的存在とし、父なる神と御子イエスとの父子関係を否定しました。

御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。」(23節)

 イエスこそ神と等しい者であるという告白する正しい信仰には神との交わりが伴います。この独り子なる神イエスを認めない者には神との交わりは回復されないことが語られています。

初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」(24節)

 <初めから聞いたこと>は、ここではイエス・キリストの福音を聞いた当初のことです。伝統的信仰を堅く保つように勧めています。そうすれば、御子と、また父なる神の内にいつもいることになりますと教えています。

 「これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。」(25節)

 24節のことばは、御子キリストが約束されたことであり、神との交わりを持つことが、すなわち永遠に命なのです、と教えています。

以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。」(26節)

 以上の部分が、異端に導く者たちについての警告ですと結んでいます。

しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(27節)

<御子から注がれた油>とは、聖霊です。聖霊はすべてのことを教え、思い起させ(ユハネ14・26)、真理をことごとく悟らせます(ヨハネ16・13)。だから他に教える者を必要としないと言うのです。だから御子の内にとどまることが強調されています。

さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」(28節)

<子たちよ>と、神の子たちである教会員に呼びかけます。ふたたび、<御子のうちにとどまりなさい>と命じています。キリストといつも一体であるなら、<御子が現れる>再臨の日に、神の赦し、神の愛に対する確信が与えられて安心し、裁きに対して<御前に恥じ入る>ようなことはありません、と勧めます。

あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」(29節)

イエス・キリストが正しい方である(2・1)ことを知っていれば、<義を行う者>も皆、神から生まれた神の子であることが分かるはずだ、というのです。<義を行う者>とは、神の目に正しいとされる者のことで、ここでは福音を受けいれ、特に異端に走らず正しい信仰告白にふみ留まり、互いに愛し合う者のことです。

ヨハネは、「あなた方の内には、御子から注がれた聖霊がある」と説き、信仰は聖霊によって与えられたものであり、「御子の内にいつもとどまりなさい。」と勧めます。主イエスを信じて洗礼を受けた者、主イエスによって一切の罪を赦され救われた者が、その救いの恵みの中にとどまり続け、主イエスを愛し、主イエスとの親しい交わりの中に生き続けることをヨハネは勧めているのです。

しかし私たちは恵みの中にあることをしばしば忘れ、まるで自分の力だけで生きているかのように錯覚して、様々な不安にさいなまれることもあります。しかし、そのような時こそ、「御子の内にいつもとどまりなさい。」と語りかける御言葉に耳を傾けるべきです。キリストと一つにされた恵みは、私たちから失われることは断じてありません。この私たちの歩みを導くために、神様は私たちに聖霊を与えてくださっています。私たちがイエス様を神の御子と信じることが出来るのも、イエス様の十字架と復活によって救われていること信じることが出来るのも、聖霊なる神様のお働きによってです。私たちが自らその罪に気づき悔い改めることが出来るのも、そこから歩み直すことが出来るのも、すべては聖霊なる神様によってです。神様は私共が救われるようにと御子イエス・キリストを与えてくださっただけではなくて、その救いの御業に与ることが出来るように、その御子の内にとどまることが出来るようにと、私たちのために聖霊をも与えてくださっているのです。

5章1節~4節に、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。・・・神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」とあります。

私たちは「御子の内にとどまり」、「御子から聖霊を注がれ、この世に打ち勝つ<信仰の道>を歩んでまいりましょう。イエスをキリストとして知りながらも、イエスが生けるキリストとして、私たちの内に宿り、その栄光が私たちを通してこの世に輝やかなければ、私たちも「偽り」者であり、「反キリスト」につながることになることを自戒しなければなりません。

 

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新しい神の民の誕生」 ローマの信徒への手紙10章5-17節

2020-06-14 00:54:01 | キリスト教

「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる。」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

   日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第三主日  2020年6月14日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

            礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 219(夕日落ちて)

交読詩編   29(神の子らよ、主に帰せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙10章5~17(p.288)

説  教     「新しい神の民の誕生」

祈 祷                 辺見宗邦牧師                

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                   次週礼拝 6月21日(日)    午後5時~5時50分  

                   聖 書 一ヨハネによる手紙2章22~29節

                   説教題   「信仰の道」

                   讃美歌(21) 227 458 交読詩篇 16

本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章5~17

  10:5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

     本日の説教

パウロは8章で、御子をくださった神の愛により信仰によって義とされた新しい神の民のゆるぎない勝利が宣言されました。信仰によって義とされることが確認された今、神の民はこの信仰者を指すことになります。そうすると、神がイスラエルの民と結ばれた、神と選民イスラエルの関係、その約束はどうなってしまうのかが問題となります。新しい神の民である信仰者の生活を12章以下で語る前に、9章から11章にかけて、3章1節以来の神と選民イスラエルの関係について論じます。

第一に、神の絶対的自由につて。

神の自由意志(9:6-18)

神の憐れみ(9:19-29)

第二に、神の民の側の問題性について。

   イスラエルの福音へのつまずき(9:30-10:4)

   万人の救い、信仰義認に対する拒否(10:5-21)

第三に、人間の思いを越えた神の深い知恵

    残りの者(11:1-10)

    不信のイスラエルの意義(11:11-24)

    神の秘義(11:25-36)

 今日の聖書の箇所(10:5-17)は、第二の「万人の救い」に当たります。

 10章の1節から4節までは、次のような言葉で始まります。

「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」

キリストの使徒とされたパウロは<兄弟たちよ>と、読者であるローマの信徒たち一同に対して呼びかけます。パウロは祖国を同じくするユダヤ人が救われることを心から願い、神に祈っていると伝えます。パウロは、ユダヤ人たちが<神に熱心であった>ことを認めています。この<神への熱心>とは、ユダヤ教とその律法への熱心です。パウロ自身もかつて律法に熱心でした(ガラテヤ1:12、フィリピ3・6)。しかし、その熱心は<正しい認識に基づくものではない>と言っています。それは神の義を正しく理解し、それにふさわしくうやまう態度をとらなかった、ということです。<神の義>、すなわち神に御前に立つことのできる資格(正しさ)であり、神の救いと言いかえてよい神の御業を無視して、<自分の義>を建てることに熱心であって、<神の義>に従わなかったのです。

義の意味は、第二イザヤから始まったと言われていますが、第二イザヤでは神の義とは、神が天地を創り、イスラエルを選び、彼らを通して世界を救おうとする神の計画、配慮を指したのです。パウロは神の義を、イェス・キリストにおいて人を救おうとする神の御業を、神の義と言っています。

<自分の義>とは、自分自身の努力で律法の要求を満たすことによって自らを正しいものとし、神に自分を正しい者として認めさせようとすることです。しかし人は律法を行う力がないこと、従って律法によっては義とされることは不可能なことを、パウロは繰り返し述べてきました。

<神の義>は、神から人に恵みの賜物として与えられる義であり、神がつくり出す救いとしての義であり、神がその人を全く罪のない正しい人と認める赦しの恵みです。人はただこれを信じて受け入れるだけなのです。それはただ神の義の福音を聞いて信じ服従することによって与えられるものです。ところがユダヤ人はこのことを知らないで、自分の義を立てようとしました。これは自己主張であり、自己を誇ることであり、神への不服従なのです。

キリストは、「信じる者すべてに義をもたらすために」、<律法の目標>となられました。<目標>と訳さている原語のテロス(τέλος)は、終わり(end)と解すべきであり、<信じる者すべてに義をもたらすために>キリストは律法に終止符を打たれた、という意味です。キリストを信じる信仰の道が開かれた今は、律法的努力は不必要となりました。神はイエス・キリストにおいて律法を<終わり>とされたのです。律法に代わってキリストの支配する新しい世界が始まっているのです。神を愛し、人は互いに愛し合いなさい、ということが新しい律法となったのです。

「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。」(5節)

パウロは、レビ記18章5節の「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」のことばを、<掟を守る人は掟によって生き>る、として引用しています。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されています。パウロは、この言葉に律法の要求が簡潔に示されていると理解して、このことばを<律法による義>についての聖書の証明としています。

「しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(6-8節)

6節から8節にかけては、レビ記18:5と申命記30:11-14との引用です。レビ記には、「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。」とあります。

申命記には、「11わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。12それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。13海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。14御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」とあります。特に申命記からの引用は、律法を指しているのですが、これをパウロはキリストのことにあてはめたのです。

申命記30章11節以下は、ユダヤ人が、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として親しんでいたものです。パウロにとって、旧約聖書の神の言葉の近さは、キリストによってまさに文字通り完全に実現したと認識したのです。<心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない>という勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられたのです。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用なのです。自分の力で<キリストを引き降ろ>すようなことはすべきではありません。こう述べて、自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命記30・12の引用文でパウロは正したのです。

 また、7節の「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」の勧めも、申命記30・13の言葉を引用して「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めています。

 8節の「では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」も、申命記30・14の引用の言葉です。<御言葉>とは、律法の戒めの言葉ではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。

キリストは旧約においてすでに、契約の主、恵みの言葉として、その民の近くにおられたが、今やすでに世に来られて救いの働きを完成された方として、宣教の言葉を通して出会われる近くにおられる方です。これにこたえるのが信仰です。

パウロは、律法を最大の関心事とする旧約聖書から、一方では律法の領域、他方では信仰の領域についての全く逆方向の証言を導き出すことに矛盾を感じてはいません。パウロは

旧約聖書がその根本においてキリスト証言であることを示そうとしているのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本性質を洞察できなかったために、キリストの救いを拒否してしまったのです。

  「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(9節)

<口でイエスは主であると告に言い表し>とあるのは、原始教会における最も根本的な信仰告白です。この告白によって人々はキリスト者とされました。<心で・・・信じるなら>とあります。<心で>とは私の全人格、私の存在全体をもってと言う意味なのです。

 「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10節)」

 信仰とは、イェス・キリストにおいて示されている神の義を正しく洞察し、これを全存在をもって受け入れることです。私たちが心からアーメンと言い表して救われるのです。そのとき、キリストはしっかり私たちの心の内に入り、住みたもうのです。だから信仰は業や功績では全くありませんが、信仰は業を生むのです。神の義は単なる言葉ではなく、力だからです。

「聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。」(11節)

11節では、イザヤ書の28・16にある「それゆえ、主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』」の「…信ずる者は慌てることはない」という言葉を用いて、主を信じる者はだれも失望するようなことがない、と言っています。

そして、12節で、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<主>として用いることによって、神の民が拡大されました。

さらに、ヨエル書3:5「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」から引用し、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13節)としています。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(14節)

14節以下では、伝道者について語っています。

「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(15節)

伝道とは人間が自らの小さな知恵や力でする業ではなく、神から遣われた業です。だから説教を通して、イェス・キリストが臨在してくださるのです。イザヤ書52:7「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」のメシア証言を、教会の宣教、パウロをも含む使徒たちの宣教を指しています。

 「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。」(16節)

 16節で、イスラエルの拒否を念頭に、<すべての人が福音に従ったのではありません>と語られます。少しの者しか信じなかった、という消極的な意味です。すべての者へと開かれている福音が、「すべての者が信じたわけではない」ということは、福音の側にではなく、受け取る側に問題があることになります。イザヤ53:1(七十人訳)からの引用で、その問題が「聞くー信じる」の間にあることが明らかにされます。<わたしたちから聞いたこと>は教会の使信を意味します。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)

これは、ガラテヤ人への手紙3:2に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰の聞くことを鋭く対立させ、業によってではなく、信仰の聞くことから聖霊を受けると強調しています。

福音を聞いて、主イエスを信じ告白する者は、ユダヤ人も異邦人も区別なく、すべてが、なんのいさおし(功績や手柄)がなくても、神に御前に立つことのできる資格(正しさ)を認め、その人を全く罪のない者とみなしてくださり、神の救いにあずからせてくださるのです。

主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです。

 

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「信仰の戦い」 一テモテへの手紙6章11節ー16節

2020-06-06 02:22:44 | キリスト教

                        ↑ 「信仰の良き戦いを戦いなさい。」(一テモテ6章12節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL : 022-358-1380  FAX:022-358-1403

    日本福音教団 富 谷 教 会     週  報

聖霊降臨節第二主日  2020年6月7日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                  礼 拝 順 序

                司会 斎藤 美保姉                                                   

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉                                       

讃美歌(21) 351(聖なる聖なる)                                             

交読詩編   37(悪事を謀る者のことでいら立つな)                                     

主の祈り   93-5、A                                                   

使徒信条   93-4、A                                        

司会者の祈り                                                       

聖 書(新共同訳)一テモテへの手紙6章11~16節(p.389)                                   

説  教     「信仰の戦い」                                              

祈 祷                 辺見宗邦牧師                                    

讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)                                             

献 金                                                     

感謝祈祷                                                            

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)                                       

祝 祷                                                       

後 奏

                   次週礼拝 6月14日(日)    午後5時~5時50分  

                   聖 書 ローマの信徒への手紙10章5~17

                   説教題   「神の民の誕生」

                   讃美歌(21) 219 41 交読詩篇 29

   本日の聖書 一テモテへの手紙6章11~16節

  6:11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 13万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。 14わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。 15神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 16唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

   本日の説教

 この手紙の著者は、「パウロ」(1:1)とあるが、最近ではパウロ以後のパウロの信仰の遺産を十分に継承した彼の弟子、あるいは後継者によって書かれたものと言われています。そして、この手紙の書かれた目的は、三章十五節に明記されています。「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」から、と言い、「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」とあります。この書簡はエフェソを含む小アジアで成立したと推定されています。

 テモテはパウロの弟子であり、パウロの伝道旅行の同行者であり、また宣教の同労者でもあります。パウロはテモテを、「わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれているわたしに生き方を、あなたがたに思い起させることでしよう」(コリント一、4・17)と紹介しています。テモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています。

 テモテの手紙一の冒頭でパウロはテモテに偽預言者や偽の教理に騙されないようにと警告します。しかし手紙の大部分は牧師としての行動がどうあるべきなのかについて書かれています。パウロはテモテにどう礼拝すべきなのか(2章)、また教会の為に成熟した指導者達を送り出す為にはどうすればいいかを指導します(3章)。この手紙には個人的な生活習慣、偽教師達についての注意、罪に陥ってしまった教会員や、やもめ、長老や奴隷達に対する教会の責任についての教えが書かれています。手紙全体を通してパウロはテモテに堅く立ち、耐え忍び、召しに従って歩み続けるようにと励まします。

 4章では、背教を予告し、キリスト・イエスの立派な奉仕者になりなさいと勧めます。5章では、教会の人々に対してどのよう接すべきか、細かい指示を与えています。

 6章1~10節では、信心は、満ち足りることを知る者には大きな利得の道です、と教えます。金持ちになったり、有名になったりすることは決して悪いことではありません。クリスチャンには、自分に与えられている富や才能を正しく管理する使命が与えられています。自分の使命に忠実な人は、結果的に、裕福になったり、有名になったりする確率が高くなります。しかし、金持ちになったり、有名になったりすることを人生のゴールにするのは、間違っています。クリスチャンのゴールは、愛に生きることであり、神の栄光を表わすことです。成功した人は、それを神のご計画のために用い、天に宝を積むべきです。

 「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」(6:11)

 11-16節には、テモテによって代表される教師者たちへの勧告です。洗礼あるいは按手礼の際の勧告の伝承が挿入されているように思われます。

 「神の人」は旧約聖書ではふつう神の僕、神の使者を指しします(ヨシュア記14:6)。ここでは教職者としてのテモテを神の僕の意味で用いているものと思われます(テモテ二、3・17に<神に仕える人>とあります)。あなたは<これらのこと>を避けなさい。<これらのこと>とは、金銭に対する誤った態度からくる危険を避けなさい、ということだけでなく、これまで警告されたすべてのことを指しています。実りのない、つまらない口論を避けなさい。できるだけ、人々を傷つける貪欲で、わけのわからない話をして災いの元をつくる人々との間に距離を置くように、と勧めています。

 次に、<追い求めなさい>と勧めます。神自身の性質を正確に反映する特質、つまり、<正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい>と勧めています。六つの徳目があげていますが、これらは聖霊が結ばせてくださる実です。

 信仰の戦いは、まず<避けること>、次に<求め、備えること>を勧めています。

 「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(6:12)

 <信仰の戦い>は異端との戦いとも一般的にこの世の悪との戦いとも取れます。信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい、と勧めます。同時に、パウロは、テモテに<、永遠の命を手に入れなさい。命を得るため、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです>と記しています。<多くの証人の前での信仰の立派な表明をしたのは、洗礼と按手礼の両方を指しています。このことは多くの証人の面前でなされたテモテの信仰告白を指しています。その召命に忠実でありなさい、とパウロは勧めているのです。

 「万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。」(6:13)

 <万物に命をお与えになる神>という言葉で最初の創造と新らしい創造(救済)の神を指します。<立派な宣言に>よるイエスの証しとは、が神の子であるという証しをして自ら死を引き受けられたのです。この神とイエス・キリストの御前で厳かに教会の職務は引き受けられなければなりません。

 「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」(6:14)

 再び来られるときまで>は、キリストの再臨を指します。パウロは、手紙の終わりに近いこの段落で、勧告を最後の審判の文脈に置くことにより、あたかも「万物に命をお与えになる神の御前」(13節)にいるよに、その勧告には激しさを加えています。テモテは、厳かにおちどなく、非難されないように、この掟を守>るように勧められています。どんな掟でしょうか。その従うべき命令は彼の最初の信仰告白に付随したものです。洗礼式あるいは任職式の際に与えられた信仰と生活の教え全体を指すように思われます。

 「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」(6:15-16)

 キリストの再臨は救済史の中で神によって<定められた時に>実現します。あらゆる歴史的なものの勢力が神の審きの下に立つのを最終的に明らかにするのでが、それは、王の王、主の主として啓示される、祝福された唯一の主権者により約束されているのです。

 頌栄に現れる神の一連の称号、<祝福に満ちた唯一の主権者>、<王の王、主の主>、<唯一の不死の存在>、<近寄り難い光の中に住まわれる方>、<だれ一人見たことがなく、見ることのできない方>は、当時の教会で用いられた典礼文からの引用と思われます。神は唯一であることが強調され、他の神的権威(異教の神々、皇帝など)に対して神の絶対的卓越性が主張されています。

 11節の「追い求めなさい」という表現や、12節の「信仰の戦いを立派に戦い抜き」、「永遠の命を手に入れなさい」という一連の表現は、いずれも「努力主義」や「自力本願」を説いているように聞こえ、「信仰により、恵みにより救われる」ことを力説するパウロの教えとは相反するのではないかとの疑念が生じます。しかし、恵みがすべてに先行すことは言うまでもありません。人は、受けた恵みに自由に応答すべきですが、自由な応答さえも恵みの影響下にあることも認めるべきです。善い行いは、恵みによって生きている者が、必然的に結ぶ実なのです。

自分の力に頼るのでなく、キリストに心を向け、力がないときは力をくださいと祈り、知恵が足りないときは知恵をくださいと祈り、愛と忍耐が足りないときは愛と忍耐をくださいと祈り、悪魔の誘惑を覚えているときはお守りくださいと祈り、主のみこころを成し遂げたときは、「すべては恵みです」と告白できる者となりましょう。救いはキリストによる恵みであり、救われた後もキリストによる恵みに生きるのです。

 

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