富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「信仰は、キリストの言葉を聞くことによって始まる」 ローマの信徒への手紙10章14ー21節

2021-08-27 23:43:09 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第15主日  2021年8月29日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)

交読詩編  103(あたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙10章14-21節(新p.288) 

説  教     「信仰は聞くことによる」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 356(インマヌエルの主イェスこそ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                                                                                    次週礼拝 9月5日(日)午後5時~5時50分    

                                                                                   聖 書 ローマの信徒への手紙1章16-17節

                                                                                    説教題  「わたしは福音を恥としない」

                                                                                    讃美歌(21) 206 405 27 交読詩編 96   

本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章14-21節

10:14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 15遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 18それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。 19それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。 20イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。 21しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

本日の説教

 異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは、10章1節で「兄弟たちよ」と、読者であるローマの信徒たち一同に対して呼びかけ、パウロと祖国を同じくする「彼ら(ユダヤ人)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と、パウロは伝えています。

パウロは、ユダヤ人たちが「神に熱心であった」ことを認めています。この<神への熱心>とは、ユダヤ教とその律法への熱心です。パウロ自身もかつて律法に熱心でした(ガラテヤ1:12、フィリピ3・6)。しかし、その熱心は「正しい認識に基づくものではない」とパウロは断言します。それは神の義を正しく理解し、それにふさわしくうやまう態度をとらなかった、ということです。「神の義」を無視して、「自分の義」を建てることに熱心であって、<神の義>に従わなかったのです。

<自分の義>は、人間が自分自身の努力で律法の要求を満たすことによって、自らを正しい者とすることであり、神に自分を正しい者として認めさせようとすることです。しかし人は善をなそうとする意志があっても、それを実行できない自我という罪があるので、律法の要求を完全に行う力がないことを、パウロは繰り返し述べてきました。

それに反して<神の義>は、神から人に恵みの賜物として与えられる義であり、神がつくり出す救いとしての義であり、神がその人を全く罪のない正しい人と認める赦しの恵みです。人はただこれを信じて受け入れるだけなのです。それはただ神の義の福音を聞いて信じ服従することによって与えられるものです。ところがユダヤ人はこのことを知らないで、自分の義を立てようとしました。これは自己主張であり、自己を誇ることであり、神への不服従なのです。

 キリストは、「信じる者すべてに義をもたらすために」「律法の目標」(10:4)となられました。キリストを信じる信仰の道が開かれた今は、律法的努力は不必要となりました。キリストは律法に終止符を打たれたのです。神はイエス・キリストにおいて律法を「終わり」とされたのです。律法に代わってキリストの支配する新しい世界が始まっているのです。神を愛し、人は互いに愛し合いなさい、ということが新しい律法となったのです。

「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。」(10:5)パウロは、モ―セの語ったレビ記18章5節の「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」の言葉を<掟を守る人は掟によって生きる>と言いなおしたのです。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されたのです。しかし、人間はこれを完全には行うことができませんでした。

  しかし、「信仰による義」について「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにことに他なりません。また「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」(10:6-7)とパウロは述べます。この勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられたことによる救いです。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用なのです。自分の力で<キリストを引き降ろす>ようなことはすべきではありません。また、人間が陰府(よみ)に下るようなことをすべきではありません。パウロは、自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命30:12-13の引用文によって正したのです。「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めたのです。

「では、何といわれているのだろか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(10:8)

 それでは、旧約聖書は、何と言っているか。パウロは申命記30:14の言葉を引用します。この<御言葉>とは、律法の戒めではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。

申命記30章12~14節の元の意味は、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として、ユダヤ人が親しんでいたものです。申命記には、「あなたは…それを行うことができる」(申命記30:14b)と結論しているこの御言葉をパウロは無視して、律法のわざによらず、ただ信仰によって義とされるという<信仰の言葉>として受け取り、旧約聖書の神の言葉の近さは、キリストによってまさに文字通り完全に実現したと認識したのです。

 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10:9-10)

<口でイエスは主であると公に言い表し>とあるのは、原始教会における最も根本的な信仰告白です。この告白によって人々はキリスト者とされました。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。神は人を救うために御子をこの世に送られ、人の罪をイエス・キリストに負わせて、神の徹底的な審(さば)きと赦しの御業を行われました。ただキリストによる罪のつぐないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。信仰とは、このイエス・キリストを信じることです。私たちを罪なきものとしてくださる神の義を正しく知り、全存在をもって受け入れることです。そのとき、キリストは聖霊としてしっかり私たちの心のうちに住み、私たちの存在の中心になってくださるので、その聖霊の力を受けて良き業を行う者とされるのです。

  「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。」(10:11)

イザヤ書の28:16にある<信ずる者は慌てることはない>という言葉を用いて、主を信じる者はだれも失望するようなことがない、とパウロは言います。そして、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」(10:12)とパウロは語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<主>として用いることによって、神の民が拡大されました。

さらに、ヨエル書3:5を引用し、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(10:13)としています。 

パウロの旧約解釈は、わたしたちが旧約聖書をキリスト証言として受け取る道を示したのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本精神を見抜くことができなかったのです。

そして今日の聖書の箇所に入るのです。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(10:14)

確かに信じたことのない方を、呼び求めることはできません。それならば、どうして信じることができるかと、すぐそのあとを受けて<聞いたことのない方を、どうして信じられよう>とたたみかけてきます。<信じる>ということは、その前に<聞く>ということが先にあります。聞いて、その結果として<信じる>ということが起きるのです。聞くためには、<宣べ伝える人>、伝道者、福音の宣教者がいなければ、聞くことはできません。

「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(10:15)

宣教者は神によって召され、遣わされた者として、福音を宣べ伝えることができます。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と福音を宣べ伝える者に対する賛美の言葉が語られています。これは、イザヤ書52:7の引用で、イスラエルがバビロン捕囚から釈放されて帰ってくる、という喜ばしい知らせを歌ったものです。これをパウロは、キリストの福音を宣べ伝える者に当てはめて言ったのです。

「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」(10:16)

<すべての人が福音に従ったのではありません>とは、ユダヤ人を指しています。そのためパウロは9章以下でユダヤ人の救いという問題を取り上げています。パウロは、イザヤ書53:1を引用しています。<聞く>ということは、いかにもやさしいことのように思うのですが、自分の考えとか、信念とか、自我を捨てて、受け入れるとが必要なのです。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(10:17)

これは、ガラテヤ人への手紙3章2節に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰の聞くことを鋭く対立させ、業によってではなく、信仰の聞くことから聖霊を受けると強調しています。このように、<信仰はキリストの言葉、福音を聞くことによって始まる>は、パウロの基本的な福音理解の一つです。

 「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」(10:18)

 <彼ら>とはユダヤ人(イスラエル人)のことを言っています。詩篇19:14を引用し、<その声(福音)>は全地に響き渡って>いるのに、彼らは聞いているのに、信じないのです。

 「それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、『わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう』と言っています。」(10:19)

 <分からなかった>とは、聞いても、それを悟らなかたということです。そして信じることが出来なかったということです。それについて申命記32:21の言葉を引用します。申命記のもとの意味は、イスラエルが偶像を拝んだために、神様はイスラエルよりも他の民、つまり神を知らない異邦の民、つまり、愚かな民を愛して、イスラエルにねたみを起させ、怒らせよう、という意味です。それが今、その通りになったとパウロは言うのです。

「イザヤも大胆に、『わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した』と言っています。」(10:20)

次に、イザヤ書65:1を引用して、<わたしを探さなかった者たち>、<わたしを尋ねなかった者たち>は、異邦人を指しています。異邦の民によって神は見いだされ、また神も御自分を顕した。選民イスラエルが、神の民でありながら、神をしらないでいることを嘆いているのです。この預言も、今、その通りになったとパウロは言うのです。

「しかし、イスラエルについては、『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています。」(10:21)

イザヤ書65:2節を引用し、そのような<不従順で反抗する民>イスラエルに、神は、<一日中手を差し伸べた>というのです。イスラエルに、なお、救いの望みが残されているのです。

律法はユダヤ人と異邦人を区別し、分離しました。しかし、主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです。

「わたし(神)は、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」というイザヤ書の元の意味は、異邦人に向けて語られたものでした。神は異邦人にも、ユダヤ人にも<一日中手を差し伸べ>ておられるのです。

日本にカトリックの宣教がなされてから四百七十年以上(1546年~)、また、新教(プロテスタント)の宣教がなされてから百六十年以上(1861年~)も経つのに、大部分の日本人はいまだに福音に耳を傾けようとしない現実があります。終日手を差し伸べてくださっている神の憐れみをと忍耐を覚えつつ、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによて始まる」のであから、みことばを熱心に宣べ伝えなければなりません。

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「土の器に納めた宝」 コリントの信徒への手紙二4章7-15節

2021-08-20 00:47:17 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第14主日  2021年8月22日(日) 午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二4章7-15節(新p.329) 

説  教      「土の器に納めた宝」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                    次週礼拝 8月29日(日)午後5時~5時50分    

                    聖 書 コリントの信徒への手紙10章14-21節

                    説教題  「信仰は聞くことによる」

                    讃美歌(21) 149 356 27 交読詩編 103    

本日の聖書 コリントの信徒への手紙二4章7-15節

4:7ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 11わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 12こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。 13「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 14主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 15すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

本日の説教

コリント(現在名はコリントス)は、古代ギリシャの都市て、ローマ帝国時代(B.C.27~)、パウロの時代は、現在の

ギリシャ全土の北部を除いた地域(アカイア州)の首都でした。現在の首都アテネから西78㌔にあります。

 パウロが第一の手紙を書き送ってから約一年半位後に書いたのが第二の手紙です。パウロがコリントを去った後、他のキリスト教共同体からコリントにやってきた宣教者たちが、パウロの弱さや欠点をとらえて攻撃し、パウロの使徒職を否定しようとしました。「使徒」とは、「特別な使命を受けて派遣された者」と言う意味です。パウロは「神に御心によって召されてキリスト・イエスの使徒」(1:1)とされました。

パウロは、教会に対して自分の使徒職を説明し、弁明するためにこの手紙を書きました。「わたしのことを『手紙は重々しく力強いが、実際会って見ると弱々しい人で、話もつまらない』と言う」批判者がいることをパウロは10章10節で述べています。

自分の弱さについては、だれよりもパウロ自身が知っているので、弁明する必要がありました。ギリシャの最大の貿易港であったコリントは、陶器の産地としても有名でした。壺の胴に黒絵で人体を描き、舞い、運動する人体が巧みに描かれたことで有名になりました。

パウロは、コリントの人なら誰でも知っている陶器について話します。芸術的な装飾のギリシャ陶器(ケラミコス〔黙示録2:27〕)も、素焼した土の器に釉薬で彩色して焼き上げたものです。パウロは彩色をほどこす前の素焼きの「土の器」(オストラキノス)を用いて、人間を表現します(Ⅱコリント4:7、Ⅱテモテ2:20)。

旧約聖書では、「災いだ、土の器(アダマー)のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。」(イザヤ45:9)とあるように、人間が神に造られたものであることを表し、あ

るいは「貴いシオンの子等、金にも比べられた人々が、なにゆえ、土の器(チェレス)とみなされるのか」(哀歌4:2)とあるように、人間の脆さ、弱さ、価値のなさを表しています。旧約聖書では、「土の器」の土は、ヘブライ語「アダマー」や「チェレス」が用いられています。

       

                          コリント産のギリシャ陶器

 パウロは、マイナスのイメージをもつ「土の器」を、救い主キリストを宿す「土の器」として、プラスのイメージに変えたのです。それは、『力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』(12:9)と主イエスから示されたことによるものであったと思われます。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ・・迫害・・状態にあって、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っています(12:9-10)。

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(4:7)

「このような宝」とは、1)パウロの使徒職の務め、2)パウロがキリスト者になった時に心を照らし出した光、3)キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光(4:6)、4)使徒の伝える福音と理解することもできます。そして5)イエス・キリスト御自身です。

このような宝は、並外れた偉大な力を宿しています。「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」(ローマ1:16)。この神の力が、福音宣教の力、使徒職の力、彼の奇跡の力、、患難に耐える力、復活の力となるのです。使徒として生きるパウロにとって、この力に満たされることは、きわめて現実的なものでした。

 このような宝を納める「土の器」とは、安くて、もろいものです。「土の器」は、ここではパウロの使徒の務めに関する肉体と心のもろさや弱さであり、死ぬべき肉体をも意味しています。宝、それは神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために、「土の器」に納めています。

かつて、パウロはファリサイ派の人であったとき、自分が土の器である自覚はありませんでした。だが、福音を伝える使徒職の委託を主からうけた時、福音そのもののもつ神の力は偉大さに比べて、その福音伝道者としての弱さを自覚したのです。しかし、伝道者の弱さの中で、福音そのもののもつ神の力は、著しく現われました。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(4:8-9)

「四方から苦しめられ」、「行き詰まり」、「途方に暮れ」、「虐げられ」、「打ち倒される」、こうした状況は、肉体をもつ弱い人間であるために引き起こされる状況であり、まさに彼が「土の器」であるためであることを示しています

。しかし、自分がどんなに落胆せざるを得ないような状況に突き落とされても、人々の非難や中傷にさらされることや、鞭打たれたり投獄されたりというような数々の経験をさせられても、どのような患難や、絶望的状況も、パウロを押しつぶすことはありませんでした。それは神の超越的な力が、彼を支えていたからです。パウロの力の源が、自分のうちにあるのではなく、神の恵みのうちにあったからです。神の力はパウロの弱さの中でこそ、完全に現わされました(12:9)。そこには問題は現実にあっても、首尾よく導いてくださる神の力があります。

「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)

「力」の代わりに「命」という言葉が何度も出てきます。力とは、ここでは命の力、自分を生かす「イエスの命」なのです。「イエスの死(ネクロ―シス)」は、死そのもでなく、死んでいくことを示します。自分はしかし、いつもイエスの死をこの身に負うています。ここで言われている死(ネクロ―シス)は、「死につつある人々の状態」、「死のさま」を意味し、通常用いられる死(サナトス)ではありません。

「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(4:11)

イエスのために死(ネクロ―シス)にさらされている」は、イエスの十字架の死への歩みに、わたしたちはさらされているのです。イエスの命は、イエスの死と深く関わります。それは、死ぬはず(スネテー)のこの身にイエスの死(ネクロ―シス)を負うわたしたちに、あらわれるものなのです。生きている者が、絶えず死に向かう。死への道に歩ませられる。この死は、他者のための死です。生きているからこそ歩むことのできる道です。死ぬからこそ、命に至る道でもあります。そこでこそ復活の命、永遠の命が現れるのです。

「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」(4:12)

「わたしたちの内には死(サナトス)が働き、あなたがの内には命が働いていることになります。パウロがキリストの死を通して死にさらされていることによって、キリストに回心する人々を獲得し、それがコリントの信徒に命をもたらすのです。パウロが死にさらされているのは、自分自身のためっではなく、彼らのためです。パウロの苦しみがキリストの苦しみの欠けた所を補うものであり、教会のためのものです(コロサイ1:24)。

「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」(4:13)

パウロはギリシヤ語訳の詩篇116:10を引用して、詩篇の作者は、主を信じ、御名を呼んで救われ、語ったが、詩篇作者に働きかけた「同じ霊」の働きによって、今の自分も主を信じ、語っている、と言います。

「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(4:14)

いかなる迫害にもめげず、主キリストを告げていくための原動力を、ここでは特に、御子を復活させた御父に求めています。わたしたちもやがてよみがえります。そしてすべて教会に生きる者と共に、神のみまえに義なる者として立たせてくださる。この命の力を知っているということこそ信仰なのです。この信仰を与えるのが霊なのです。その命の望みが、今ここにおける患難に生きる力となるのです。

「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(4:15)

信徒たちへの使徒的働きかけとその効果とが、結局は神への感謝と賛美、神への栄光につながっていくのです。

わたしたちの毎日は、イエスの死をわが身に負って、愛に生きるのです。そのように生きていくとき、さらに自我が砕かれ、醜いもの、弱いものされ、「土の器」とされていきます。しかしこの「土の器」の中に、宝である主イエスがやどってくださり、偉大な神の力を発揮するのです。このような生き方が今、わたしたちキリスト者に求められているのではないでしょうか。偉大な力に生かされましょう。

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「神の摂理ーヨセフの生涯」 創世記45章1-15節 

2021-08-15 01:34:25 | キリスト教

     ↑ 創世記 神の摂理 創世記50章18節の場面か? 兄たち10人がヨセフの前にひれ伏している。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

聖霊降臨節第13主日   2021年8月15日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩編   46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 創世記45章1-15節(旧p.81)

説  教    「神の摂理による人生」    辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みくだ

さい。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                     次週礼拝 8月22日(日)午後5時~5時50分    

                     聖 書 コリントの信徒への手紙二4章7節

                     説教題  「宝を土の器に」

                     讃美歌(21) 206 492 27 交読詩編 96    

 

本日の聖書 創世記45章1-15節

45:1ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。 2ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。 3ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。 4ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 5しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 6この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。 7神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 8わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。 9急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。 10そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。 11そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』 12さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。 13エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」 14ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。 15ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。

   本日の説教

 ヤコブの息子たちは、後にイスラエルの12部族となる12人です(創世記35:16-26)。

  1. ルベン(1) 2.シメオン(2) 3.レビ(3) 4.ユダ(4) 5.イサカル(9) 6.ゼブルン(10) 以上の6人は レアから生まれた息子たち

 7.ヨセフ(11) 8.ベニヤミン(12) この二人はラケルから生まれた息子たち。

 9.ダン(5) 10.ナフタリ(6) この二人の母は、ラケルの召し使いビルから生まれた息子たち。

11.ガト(7) 12.アシュル(8) この二人はレアの召し使いジルパから生まれた息子たちです。

 生まれた順序は()の赤数字で示しています。

ヨセフが17歳の時(べニヤミン1歳の頃)、兄たちによって宍に投げ込まれ、その後に、通りかかったミディアン人の商人に穴から引き上げられ、エジプトに下るイシュマエル人の隊商に銀20枚で奴隷として売られてしまいました。兄たちは、それを隠すために、ヨセフが悪い獣に噛み裂かれたかのように見せかけて、父をだましました。ヤコブは、ラケルとの間に生まれた子、ヨセフとベニヤミンとを溺愛しました。ヨセフは、ヤコブが91歳の時に、異国の地ハランで、母ラケルから生まれた11番目の息子です。ヨセフの弟のベニヤミンは、ヤコブがハランを去って父の住む故郷カナンの地のヘブロンに行く途中、ベツレヘムへ向かう道の辺りで、ラケルが産気づき、ヤコブが107歳頃、12番目の子ベニヤミンを生みました。ラケルは難産のため出産後に息を引き取りました。

ヤコブは12人の子供たちの中で、ヨセフとベニヤミンを特に可愛がりました。それは、愛する妻ラケルの産んで子たちであり、ヤコブの「年寄り子」で、母に死なれた子たちだったからです。ベニヤミンが赤子の頃、ヨセフだけが特別な裾の長い晴れ着を着せられたいました。この偏愛は腹違いの兄たちのヨセフに対する妬みと憎しみ生みました。

ヨセフが17歳の時(べニヤミン1歳の頃)、ドタンで兄たちによって宍に投げ込まれ、エジプトに下って行こうとしているイシュマエル人に売ろうとしていました。ところがミディアン人の商人たちが通りかかり、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でエジプトに下るイシュマエル人の隊商に奴隷として売られてしまいました。兄たちは、それを隠すために、ヨセフが悪い獣に噛み裂かれたかのように見せかけて、父をだましました。

ヨセフは、エジプトで奴隷として仕えることになった主人の信頼を得て家の切り盛りを任されるまでになったのですが、主人の妻に無実の罪を着せられて牢獄に捕われる身となってしまいました。しかしそこで、同じく捕えられていたエジプト王ファラオの役人の夢の意味を解き明かしたことがきっかけとなり、ファラオの夢を解き明かすために召し出され、それを見事に解き明かしたためにファラオの全幅の信頼を得ました。

ヨセフはファラオに、豊作の七年の間に、飢饉に備えて産物を備蓄するようにと進言しました。このヨセフの進言に感心したファラオは、聡明で知恵のあるヨセフを、エジプト全土を支配する、王に次ぐ位の司政者に任じました。このときヨセフは30歳でした。ヨセフが解いた夢のように、七年の大豊作のあと、七年の飢饉が始まりました。

一方、ヨセフがいなくなってから、20年後、カナンの地でも飢饉が始まりました。それから2年後、ヤコブは、末の子ベニヤミンを残して10人のヨセフの兄たちを、穀物を買いにエジプトに遣わしました。

 エジプトに下って、ヨセフの前に現れた兄たちは、エジプトの司政者がヨセフだとは気付きませんでした。ヨセフは兄たちだと分かったのですが、自分の身を明かさず、兄たちをエジプトを探りにきた回し者だと決めつけ、その疑いを晴らすために、弟(ベニヤミン)を連れて来るように命じ、シメオンを人質にとり、穀物を与えて、兄たちをカナンに帰しました。

飢饉が続き、ヤコブは仕方なく、ベニヤミンを連れて、兄たちが、穀物の買い出しに行くことを認めました。エジプトに再び戻った兄たちを、ヨセフは自分の屋敷に迎え、シメオンも連れてきて、食事でもてなしました。その間に、ヨセフは、執事に、兄弟たちの袋に運べるかぎりの食料で満たし、銀の代金もめいめいの袋に返し、一番年下の者の袋にはヨセフの銀の盃を入れておくように命じました。

次の朝、兄たち一行を見送ったヨセフは、一行が町を出たころ、追手を送り、ヨセフの銀の盃を盗んだ者を連れ帰るように命じました。ベニヤミンの袋から、ヨセフの銀の盃が見つかったベニヤミンだけでなく、兄たちもエジプトの司政者のもとに戻りました。ユダは、司政者にベニヤミンの代わりに、自分を奴隷として残してくださいと嘆願しました。あの二十二年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのはこのユダでした。ユダを始めとする兄たちは、二十二年前に自分たちが犯した罪と向き合い、そのことを心から後悔し、悔い改めているのです。

ここからが、今日の聖書の箇所に入ります。

ユダの誠意と切実な嘆願に心を打たれたヨセフは、その時平静を装うことはできなくなり、兄弟たちにこう言うのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」(4~8節)そして父と家族をエジプトへ連れてくるように話しました。

ヨセフは兄たちに、22年前に自分をエジプトへ売ったことを、悔やんだり、責め合ったりする必要はない、と言ったのです。ヨセフが兄たちに「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神がそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」と語り、兄たちを赦しました。人の悪い企み、人間の悪の計画、悪しき行為も、神は善きことに変えてくださり、多くの人を救おうとされる、神の摂理に対する信仰がここに言い表されています。

「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」とあります。今、兄たちとヨセフの間に、語り合いが、交わりが、平和が回復されました。

その後、ヤコブの一行、総数七十名は、エジプトのゴシェンの地に移住し、ヤコブはヨセフと対面を果たしました。ヤコブはこのあと、十七年間幸せな日を過ごしました。 ヤコブは死ぬ前にヨセフの子ら、エフライムとマナセを養子にし、ヨセフをヤコブの後継者として祝福しました。

ヨセフの兄弟たちは、父が死んだあと、ヨセフが恨みを晴らすために、自分たちの犯した悪に仕返しするのではないかと恐れて、人を介して、ヨセフに、「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と詫びを入れました。ヨセフがエジプトに連れて行かれてから、40年近く経っているのに、兄たちの罪の意識は、まだ消えていませんでした。

兄たちの詫びの言葉を聞き、ヨセフは涙を流しました。この涙は、「なぜ、そんなことをずっと長いこと思っていたのですか」という思いと、兄たちがあまりにもこのことで苦しんできたことを思っての涙と思われます。ヨセフの前にひれ伏し、「私どもはあなたの僕です」と言うと、ヨセフは17年前に、自分の名を明かした時と同じように言いました。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしたが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう」と、兄たちの恐れを取り除き、兄たちを慰め、優しく語りかけたのです。

   神様こそがただ一人本当に裁きをなさる方である、ということを告げ、神は人間の悪、罪をも用いて恵みのみ業を成し遂げて下さる方であると、ヨセフは語ったのです。もはや父から言われたからではなく、ただ神が赦されたので、ヨセフも兄たちを赦したのです。

ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、110歳まで生きました。イスラエルの民がエジプトに寄留した年数は、430年と記されています(出エジプト記13:19)。ヨセフの死から、数えると、凡そ350年後に、出エジプトの出来事が起こるので (ヤコブ一族のエジプト移住1660頃、ヨセフの死1590年、出エジプト1230年、として計算。)

ヨセフ物語は、神の摂理ということを教えています。「摂理」とは、神様がこの世の全てのことを支配し、導いておられる、ということです。私たちの人生と、そこに起る全てのことが、神様のご支配、導きの中にあると信じる、それが神の摂理を信じることです。これは、聖書が語る信仰の中心をなす大切な教えです。神を信じるとは、神の存在を信じることに留まるのではなくて、神の摂理を信じることなのです。

<摂理>と言う言葉は、<自然の摂理>と言うときは、「自然界を支配する法則」を言いますが、<神の摂理>というときは、「すべてのことが神の配慮によって導かれている>という意味になります。摂理信仰とは、このように神の世界支配を信じ、創造者である愛の神様が、ご自分の意志によって私たちの人生を導いてくださり、すべてを益となるように働いてくださるということです。このことを信じて生きる時に、いかなる時も希望をもって生きることができ、人生に絶望するということがなくなるのです。

創世記全体を通して言えることは、何度も神に背き、罪を犯す人間が赤裸々に記されていることです。それは一人の人生の中でも言えることです。然し、それらを越えて、人を愛し、救おうとする神様の計画、御業がなされたことが、一貫して創世記を通して語られています。この世界は運命や宿命によって支配されているのではなく、愛なる神の摂理の支配の中にあることを信じるときに、わたしたちは平安を与えられます。

父なる神は御子キリストによって、罪と死に打ち勝つ復活と永遠の生命と、神の国を、私たちのために用意してくださった方です。ですから、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8:28)とパウロは語るのです。

キリストを信じるとき、わたしたちは、偶然や運命に支配されているものではなく、誕生も結婚も職業も病気も死も、その生涯すべてが神の摂理にあることを覚え、主の導きに信頼し、主イエス共に歩むのです。

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「パウロの愛の賛歌」 コリントの信徒への手紙一13章1-13節

2021-08-06 16:55:52 | キリスト教

  マザー・テレサからいただい手紙。「すべては御祈りすることから始まります。愛を神様に求めることがなければ、わたしたちは愛の心を持つことが出来ません。」と書いてあります。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第12主日  2021年8月8日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)

交読詩編   62篇(わたしの魂は沈黙して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一13章1-13節(p.317)

説  教    「パウロの愛の賛歌」      辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

讃美歌(21) 512「主よ、捧げます」

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                次週礼拝 8月15日(日)午後5時~5時50分    

                聖 書 創世記45章1-15節

                説教題  「神の摂理による生涯」

                讃美歌(21) 57 81 355 27 交読詩編 46  

  本日の聖書 コリントの信徒への手紙一13章1-13節

13:1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

 11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 13それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

本日の説教

 パウロが愛について書いたのは、教会内で起こっている分裂や種々の問題の原因は、教会の信徒たちに最も大切な愛が欠けていたからです。ここで用いられている「愛」という原語は、ギリシャ語のアガペー(agape)です。

 当時、ギリシャでは「愛」表す四つの語がありました。

  1. エロース(eros)は、男女関係における愛です。
  2. フィリア(philia)は、友人間の愛です。
  3. ストルケー(storge)は、親子・兄弟間の家族愛です。

    以上の三つは、生まれつき誰もが持っている一般的な愛です。これらの愛も認めなければなりませんが、自己本位の愛なので、破綻もあり、完全な愛とは言えません。

    4.   アガぺー(agape)は、自己犠牲をもいとわない無償の愛です。キリストによって示された神から与えられる愛です。 

 更に、もう一つは、アガぺーが、対象そのものを愛する他者本位のキリスト教的愛に対して、真・善・美のような価値あるものを求める自己本位の愛を、エロ―スと呼びます。

   わたしたちは、「あの人は愛のある人だ」とか、「愛にあふれた人間だ」とか言います。その時、愛はその人の資質のように考えています。しかし、愛(アガペー)は単なる人間の愛情や思いやりではなく、前の章の終わりに、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」とあるように、神の与える霊的な賜物なのです。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(コリント一12:21)とパウロは語り、コリントの教会の人々が思ってもみなかった「愛の道」を、<もっと大きな賜物>として示すのです。

 コリント13章は、通常「愛の賛歌」と呼ばれるが、正確には愛を主題とした「愛の教え」です。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(13:1)

 <人々の異言、天使たちの異言>は、単に偉大な雄弁さで語ることを意味しているのではありません。聖霊の特別な霊感を受けて、天的存在が話す言葉を話すことを言っています。もしあなたが天使の語る天上の言葉を話すことができても、愛がなければあなたの高い調子はの語りは役者の言葉を空しく反響させる<騒がしいドラ>か、熱狂した異教礼拝の騒がしさとなる<やかましいシンバル>となるのです。

 「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(13:2)

 <預言>は、神からの言葉を集まった会衆に語ることです。<あらゆる神秘とあらゆる知識>を理解することは、神の計画について内部の情報を入手することを意味します。神秘的真理の理解を啓示の経験によって得ても、また哲学的省察によって得ても、それらの知識は愛がなければ無に等しい。同様に、信仰によって山を動かすほどの奇跡を行うことができる人も、愛がなければ無に等しい、と語ります。

 「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(13:3)

 自分の<全財産を貧しい人々のために>与えようとも、もしわたしが<終末の時に報いを誇り、喜ぶために、体を自己犠牲として手渡しても>、自己犠牲に愛が無ければ何も得るものがないと主張します。コリントの教会の人々が誇っていた霊の賜物も、愛がなければすべて無に等しいと断言するのです。愛が伴うことによって、すべての霊の賜物は正しく用いられるのです。

 4節以下の愛についてですが、わたしたちの愛というものは、実は、わたしたしの中にあるのでなくて、キリストのわたしたちに対する愛に対する感謝にすぎないのです。愛そのものであるキリストに救われて、その愛に、こたえて、神のために生きようとするのが、わたしたちの愛なのです。愛というのは、キリストの愛にこたえて生きる生き方なのです。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い」(13:4)は、他の箇所では神の属性」です。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのか」(ローマ2:4)とあります。<情け深い>と<慈愛>は、同じギリシャ語が用いられています。

神の忍耐と慈愛は、神のさばきに価いする者に対して怒りをもってのぞむのを控え、満ちあふれる慈愛を注ぐのです。私たちはこの神の忍耐と慈愛に応えて人々に情け深い者となるのです。

「ねたまない」の<ねたみ>は、人の心の奥底に潜む最も醜い罪です。<ねたみ>は自分よりすぐれたり、恵まれたりしている者に対して、うらやみ、くやしがり、憎らしく感じます。人をうらやむねたみは、分裂と争いに引き起こしてしまいます。コリントの教会内で起きた党派争いの原因も「ねたみ」でした。

どのようにしたなら、ねたみに対して打ち勝つことができるのでしょう。神の愛、キリストの愛が、ねたみに打ち勝つのです。キリストは、御自身を捨てられて、すべてを私たちのために与え尽くされました。私たちが、もしこの与え尽くす愛に満ちあふれているなら、ねたみは私たちの心に入る余地はありあせん。愛は人をねたまないのです。「ねたみ」に打ち勝つのはキリストの愛に満たされることであり、聖霊の働きによるのです。

「自慢しない」は、実際以上に自己を良く見せようとしないことをいいます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリピ2:3)なさいと、パウロは勧めています。

 「高ぶらない」の<高ぶり>は、自分よりも社会的位置の低い者に対して、差別し見下す態度をいいます。高慢は罪の根源であり罪の本質です。高慢(高ぶり)は、自我から生まれる心のおごりです。高慢が、ねたみと共に、コリントの教会の分裂の原因でした。

 高慢に打ち勝つ道は、神の御前に罪を赦された者として、自分を低くすることです。そのとき、聖なる愛が心に満ち、高慢の心は、取り払われるのです。パウロは「罪人の頭である」という自覚を持っていました。

 「礼を失せず」(13:5)は、実際は恥ずべき行い、ふさわしくない振る舞いをしないことです。相手を重んじ、礼儀に反しない行動をすることです。

 「自分の利益を求めない」は、「自分の益ではなく多くの人の益を求め>(10:33)るということです。愛は自己中心、利己主義でないことです。自分の利益を求めない愛です。パウロは「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(10:24)と勧めています。

「いらだたない」、の<いらだち>は感情的に激して怒りやすくなることです。自分の意に反するものの存在とか、中傷、悪口などによって感情が高ぶり、腹を立てて、興奮して気が荒くなることです。<いらだたない>は、急にかっとなって心の平安を失うようにならないことです。いらだちは短気の特徴です。人間の罪に対して主イエスは怒られましたが、個人的に悪口を言われたり、ののしられたりしたことに対しては怒られませんでした。<恨みを抱く>とは、自分に加えられた損害を数え挙げて他人を恨むことです。<恨みを抱かない>とは、人の悪を心の中にとどめず、執念深く考えず、赦し忘れることです。

 「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(13:6)<不義を喜ばない>とは、神の正義を喜び、不義と邪悪を排してすべてのことに耐えぬく生き方です。主イエスの不正を喜ばない態度は、私たちの不義をあがなうために、身代わりとなって十字架の処刑を受けて死んで下さったことによって、最もよく表れています。

<愛は真実を喜ぶ>とありますが、<真実>は原語ではアレセイア(真理)と言う意味の語です。「真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」(ヨハネの手紙三、4)とあります。キリストの教えに従って、愛に歩むことが、真理に歩むことです。<愛は真実を喜ぶ>とは、愛を擬人化していますが、愛は私たちが愛に歩むこと、すなわち、真理に歩むことを喜ぶのです

「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:7)とは、徹底的に自分を捨て、他人のために生きる姿がえがかれています。「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」(ペトロ一4:8)。愛はすべてを信じ、信頼するのです。一切のことが必ずよくなることを信じ、希望をもって待つのです。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となうようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)という句は、信仰と望みとが、どんなに深く結びついているかを、よく示してくれています。その上で、愛はすべてを耐えるのです。

「愛は決して滅びない」(13:8)は、この世においても来るべき世においても。変わることがない、という意味です。神の愛によって生まれた愛は、このような力を持つのです。

「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」終末はまだ来ていないが、神が直接支配する終末には、預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れます。コリントの教会の一部の人々が自分たちを既に終末時の完成者とみなしていたのに対し、パウロはここで、終末はまだ来ていない、彼らの思い込みは間違いであると論争的に語っています。パウロは、特に預言を取り出して、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だからです、と言います。<完全なもの>が来たときには、部分的なものは廃れてしまうのは必然だと語ります

 「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」(13:11)コリントの教会の一部の人々のように、不完全なものを完全なものと思い込み、それを誇るようなことは、ことがらをはっきり分かっていない<幼児>なのだと批判します。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていたが、成人した今は、幼子のことを棄てたように、教会の現在の霊的賜物も終末には忘れられるのです。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる(13:12)

最後に一つの類比がパウロの要点を強調します。霊的賜物によって与えらえる知識は、鏡に映っている像のように不明瞭です。神がモーセにしたように、神が<顔と顔とを合わせて>私たちと話す「時は来る」と断言します。神の国が完成する「その時」に、神が私たちを現在すでに完全に知っているのと同じように、私たちが完全に神を知ることになります。私たちは、「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ4:9)のです。

「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13:13)

終末到来までの間、いつまでも存続し続けるのは信仰と希望と愛です。信仰は、神に向ける私たちの信頼です。私たちが、キリストによって救われ、神に愛されていることを信じるのです。希望は、罪に満ちたこの世が神によって正しい完全さで回復される神の国を望むことです。そして愛は、神との最終的な永遠の交わりです。恵みによって今私たちに与えられた兄弟姉妹たちとこの交わりを分かち合っています。

 愛が三つの中で最も大いなるのは、啓示の賜物と違い、また信仰と希望とも違い、永久に持続するからです。信仰と希望は、神から与えられた人間の特質です。「神は愛です」(ヨハネ一、4:16)とあるように、愛は神の本質です。私たち、キリスト者の愛は「神から出るのです」(同4:7)。神が永遠に生きておられるので、愛も永遠に存続するのです。信仰、希望、愛、この三つの中で最も偉大なものは愛なのです。愛を上位におくことによって、パウロは愛がすべてのものの基礎にあること、<最高の道>であることを説いています。

 今、キリストによって示された愛こそが私たちに必要であり、この愛を、この世も求めていることを知らなければなりません。この愛に欠けるために、多くの不幸な出来事が起こっているのです。親子の愛でも、恋愛でも、その相手というのは、自分の好きな相手で、愛といっても、いつも、自分が好きであるということから離れないのです。好きというのは、自分のためということで、結局は、自分を愛していることで、ほんとうの愛にはならないのです。自分のことしか考えない自我のため、人間の愛は、ここで挫折するのです。それゆえ、神の愛が必要なのです。この自我が滅せられ、救われるためには、神の救いの愛を知ることにあります。そこから、神への愛が生まれます。また、人への愛がでてきます。こうして人間は、神の愛によって、新しく創造されて、信仰者とならなければ、真実の愛とは無関係のままで、終わるのです。

私たちはキリストによって示された愛の足りないことを覚えて、愛を増し加えて下さいと祈りながら、キリストの愛に満たされて、世を救うキリストの愛の証し人とならなければなりません。

讃美歌21の512番「主よ、捧げます」の4節にあるように、主に、私の愛も、知恵も力も、宝も、すべて献げましょう。私のうちに、あなた(イエス様)に住んでいただき、みむねのままに、用いていただきましょう。私のうちに、イエス様に住んでいただくなら、これにまさる恵みは何もありません。心のうちにイエス様に迎えて住んでいただくなら、神を愛し、隣人を愛する満ちあふれる愛に満たされるのです。

 

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