富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「東方の占星術の学者たちの礼拝」 マタイによる福音書2章1~12節

2018-12-29 00:28:16 | キリスト教

           ↑ レンブラント(1606-1669)の「マギ(占星術の学者たち)の礼拝」1632年の製作 エルミタージュ美術館

  後ろに立っている王らしい人物は、ヘロデ王です。学者たちが礼拝する幼子を殺そうとする人物です。幼子は十字架の殉難の死を受けるためにこの世に生れた「ユダヤ人の王」であり、世界の民を救うメシアであることが表現されています。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

降誕節第1主日  2018年12月30日(日)   午後5時~5時50分                         (年末礼拝)            

                   礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 258(まきびとひつじを)

交読詩編   21(主よ、王はあなたの御力を喜び祝い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書2章1~12節(新p.2)

説  教 「東方の占星術の学者たちの礼拝」辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21) 358(小羊をばほめたたえよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                  次週礼拝 年始礼拝1月6日(日)午後5時~5時50分 

                                     聖 書  ルカによる福音書3章15~22節

                                     説教題   「イエスの洗礼」 

                                     讃美歌(21) 368 278  24 交読詩編 104

         本日の聖書 マタイによる福音書2章1~12節

 2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

                     本日の説教

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれました(マタイ2・1)。この王は、紀元前40年に、ローマ帝国の元老院に承認されて「ユダヤの王」の称号を与えられ、イドマヤを含む、ユダヤ全土の支配者に任命されました。彼はエルサレム神殿を改築するなどの偉業を成し遂げたので、ヘロデ大王と呼ばれました。彼はユダヤの南に隣接するイドマヤ出身で、イドマヤ人とユダヤ人との間に生れた人です。生粋のユダヤ人ではありませんでした。彼の統治は紀元前4年の死をもって終わりました。イエスの誕生した年は、ヘロデ王が死ぬ前の紀元前6年~4年頃になります。

  その時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」人々に尋ねました。<占星術の学者たち>とは、本来ペルシアの祭司階級に属する人達です。彼らは、天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈をよくし、人の運命や世の動きについて神意を伝える人たちでした。ユダヤの<東の方>とは、おそらくペルシア(イラク)、当時はパルティア王国と思われます。彼らは千数百キロもある道をメシア(救世主)を求めてやってきたことになります。四か月もかかる旅でした。ペルシアの他にアラビア説もありますが、アラビアはユダヤの南になります。  

    

 この学者たちが、はるばるメシアを求めてやってきました。メシア待望が、アッシリアやバビロニア(イラク)によって国外に散らされたユダヤ人やユダヤ教への改宗者を通じて、東の国々に伝わり、ユダヤ人でない者にとっても、ユダヤの地から世界を救うメシアが登場することが期待されていたと思われます。

  <占星術の学者たち>は、星を見て神に示され、世界の救い主となる「ユダヤ人の王」が生まれたことを知り、星による神の不思議な導きによって、<東の方から>ユダヤの都エルサレムを目指してやってきたのです。

  これは民数記に記されている預言が実現したことになります。「ひとつの星がヤコブから進み出る。…ヤコブから支配する者が出る」(民数記24・17,19)とあります。神は星を用いて世界の救い主となる方の誕生を知らせたのです。メシア誕生の知らせが、エルサレムにいる王や祭司長たち、ユダヤ人に伝えられたのではなく、当時は地の果てにも等しいペルシアの、神の救いの計画から遠いと思われたていた異邦人に伝えられたのです。後にイエスは、神のことばを拒み、救い主を受け入れないユダヤ人に対して、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言っています(マタイ21・43)。

   ところがこれを聞いたヘロデ王は動揺しました。ヘロデは自分こそユダヤ人の王であると自認していました。自分の知らないところで、新しく王となるべき子が誕生したという噂(うわさ)を聞いて、不安に思ったのは当然です。ヘロデはユダヤ人とされていますが、純粋なユダヤ人ではなくエドム人とユダヤ人の間の子でした。ヘロデ王は、民に認められた王というよりは、ローマに認められた王でした。いつか誰かに王位を奪われないかと常に猜疑心の強い王でした。ヘロデは王権維持のために、あらゆるヘロデに反対する動きには徹底的な弾圧を加え、弟を暗殺し、妻を処刑し、二人の息子まで処刑したのです。

   またメシア誕生の知らせに、<エルサレムの人々>も同様に不安を抱いたとあります。神の民として選ばれながら、メシアを受け入れようとしない、心が頑なで、不信仰なユダヤ人を示しています。エルサレムの人々は、律法学者や祭司ら共に、キリストを十字架につけることを求めた民衆でした(マタイ27・22)。

  王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただしました。<祭司長たち>とは、大祭司一門に属する者達で、神殿の職務をする人たちです。また<律法学者>は、律法の書である旧約聖書の学問的研究に専念し、その解釈と教育に当たった職業的な学者です。彼らの聖書解釈は民衆の生活を律していました。律法学者の上級の者は最高法院のメンバーでした。

   ユダヤ教の首脳部であるこの二つのグループは、メシア誕生の地は、「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』(ミカ書5・1、サムエル記下5・2)」と言いました。彼らは聖書を正しく解釈し、メシアの誕生の場所まで知りながら、メシアを迎えようとはしませんでした。

  そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめました。その時期を知ることのよって、その子の年齢を割り出そうとしたのです。ヘロデは、メシア誕生の地は、ユダヤのベツレヘムであることを伝え、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って、ベツレヘムへ送り出しました。ヘロデがメシア誕生の場所を尋ねたのは、そこへ行ってメシアを拝むためではなく、メシアを殺すためだったのです。後に、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、メシアとなる男の子の年齢を割り出し、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残さず殺したのです(2章16~17節)。

  イエスの生まれたベツレヘムは、エルサレムの南約9キロメートル、標高約750メートルの小高い丘の上に位置しており、古代イスラエル統一王国を築いたダビデ王の誕生の地です。東から来た学者たちが王の言葉を聞き、聖書の預言を知って出かけると、再び東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。学者たちはその星を見て喜びにあふれました。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられました。ヨセフの名が記されていないのは、聖霊によって妊娠した処女マリアの特別な位置を示唆しています。

   彼らは床にひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。床にひれ伏して拝む行為は、幼子を救い主として礼拝したのです。彼らが見出した幼子は後光もなく、王冠も王座もありませんでした。ごく当たり前の一人の幼児でした。しかし彼らはメシアであると信じたのです。光り輝く星がそのしるしであり、神が与えたあかしでした。

   学者たちはメシアを拝んだだけではなく、宝の箱を開けて、彼らの最も大切な宝、最も高価な、黄金、乳香を献げました。乳香はや北東アフリカや東南アラビアで産するの力ンラン科のニュウコウジュから採れる芳香のある白色の樹脂であり、神に供え物とともに香炉で焚いてにささげる香です。没薬も、北東アフリカや南東アラビアなどに産するカンラン科のミルラ低木から採った少し黄色い樹脂で、香料や薬用、防腐剤として用いました。古代エジプトではミイラ製造の際に用いました。

「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄光が宣べ伝えられる」(イザヤ書60・6)という預言のことばがここに響いています。黄金は高価な宝です。乳香は高価なアラビア産の芳香のある樹脂であり、没薬もアラビア産のミルラ樹の香料の樹脂です。どちらも、宗教儀式で用いられ、没薬は薬品としても用いられ、当時は非常に高価な輸入品でした。

 学者たちは、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。学者たちは夢で主の示しを受けたのです。

   今日の聖書の箇所は、<ユダヤ人の王>としてのイエスをめぐって二つの人物群が全く反対の態度をとったことが語られています。外国の学者たちは、遠路はるばるイエスを訪ねて来て、彼を礼拝しました。他方ユダヤ王ヘロデは、新しい王の誕生を聞いて、その幼児を抹殺することを企てるのです。また、祭司長たちや律法学者たちは、メシア誕生の地を知りながら、世に誕生したメシアに無関心であり、迎えようとはしませんでした。エルサレムの住民も同様でした。救い主イエスの誕生をめぐってのこの二つの態度は、一人一人の人間の心に中にもあります。神の御子の主権の前にひれ伏して拝するか、それとも、自分の主権を守ることを完全にはやめようとはしないのか、の二つの相反する心があります。

    イエスの誕生は、真理の光が世に現れ、それが世界の隅々にまで現れていく出発点になりました。主の栄光が特定の人々にではなく、公に現された日です。       「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」このイザヤ書60章1節の預言が現実のものとなりました。クリスマス・シーズンは、御子の降誕を感謝し、祝うと共に、再び来たりたもう御子の再臨を待ち望むときでもあります。今日は年末礼拝です。御子の十字架と復活によって、救いを与えられ、この一年を守られ、導かれて過ごすことが出来たことを感謝し、新たに恵みの年を迎えてたいと思います。多くの人々が神の大きな愛を知り、救いにあずかって、幸せな人生を送ることができるように祈りたいと思います。

  

 レンブラント 1657年製作 「王たち、マギたちの礼拝」英国王室コレクション

 この絵もレンブラントの作品です。右手に見えるのがヘロデ王です。幼子のそばに立っている人物は、王冠のようなものを持っています。幼子が王冠を受けるのにふさわしいことを表現しているのでしょうか。ヘロデ王はそれを見て驚いています。

  

   ルーベンス 製作年 1609-1629 プラド美術館  立っている赤い衣の人物は、ヘロデ王。その後ろの集団は幼児を殺そうとする者たちでしょうか。

 

 

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「クリスマスー世の罪を取り除く神の小羊の誕生」 ルカによる福音書2章1~20節

2018-12-14 22:16:58 | キリスト教

 ↑「羊飼いの礼拝 Adoration of the Shepherds」バルトロメ・エステバン・ムリーリョ   スペインの画家(1668年の作品) ロンドン, Wallace Collection

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

  降誕前第1主日  2018年12月23日(日)    午後4時~4時50分 

         礼 拝 順 序

                   司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)

交読詩編   97(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書2章1~20節(新p.102)

説  教  「クリスマスー世の罪を取り除く神の小羊の誕生」  辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21) 235()

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

 礼拝後、牧師館リビングルームで愛餐会を催します。午後5時から6時までの予定です。ご参加ください。

      聖書 ルカによる福音書2章1~20節

  2:1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

 15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

                      本日の説教

    ルカによる福音書は、イエスの誕生をローマ皇帝アウグストゥスの治世の時代として記しています。この政治の枠組みに入れた理由は、イエスがすべての人(世界)のために生れたということを明らかにするためと思われます。当時、この皇帝は「全世界の救い主」と称され、人々から「アウグストゥスの平和」とも言われていたので、イエスこそが真の平和の救い主であることを言い表そうとしているのです。皇帝として彼は、紀元前27年~紀元後14年の間、在位しました。

 当時の世界最大の強者である皇帝は、全領土の住民に住民登録の勅令を出しましたが、それは知らずに神の救いの計画に奉仕することになるのです。皇帝アウグストゥスは、神の意図の道具なのです。ナザレにいたヨセフといいなずけのマリアが、ダビデ王の出身地ベツレヘムに行くことになったからです。旧約聖書の預言(ミカ書5・2)には、ダビデの出生地であるベツレヘムがメシアが生まれる所とされています。彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは出産の日をむかえて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったので、牛やろばを飼う家畜小屋を宿としました。

    ベツレヘムの町の近郊には「羊飼いの野」があります。羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。すると突然、主の天使が彼らに近づき、主の栄光が周りを照らしたので彼らは非常の恐れました。救い主誕生の知らせは、宮殿の広間ではなく、野原にいる、貧しく身分の低い者に対して、一番先に届けられたのです。「貧しい人に良い知らせを伝える」(イザヤ61・1)の預言が成就したのです。

    天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と言いました。「この方こそ、主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるあろう。これがあなたがたへのしるしである」と天使は告げました。「メシア」の原語は「クリストス(キリスト)。「主」の原語は、「キュリオス(主、神)」。「主メシア」は神である救い主、を表します。

   すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言いました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しました。イエスは「御心に適う人に」平和をもたらす者であり、「平和の君」(イザヤ9・5)として旧約の預言を成就する人です。「御心に適う人」とは、制限するのではなく、人類すべてを含むものなのです。「地の上に平和が人類すべてにあるように。神の御心に適う者に」という意味です。

 

「羊飼いへの告知」アブラハム・ホンディウス  オランダの画家アムステルダム国立博物館所蔵(1663年の作品)

  「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と天使たちは歌い、羊飼いたちに平和を告げました。この歌は、イエスがエルサレムに近づいた際に、弟子たちが自分の見た奇跡のことで喜び、神を賛美し始めた歌に反響しています。「主の名によって来られ方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19・38)と歌っています。「天には平和」とあるように、この平和は神と人との和解による神から与えられる平和です。罪から解放され、神の子とされた人間が、人間相互の平和を実現する幸いな人とされるのです(マタイ5・9)。

    天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったことを見ようではないか」と話し合い、羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。

「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がしるしである」と、天使が告げました。それはあまりにも貧弱な小さなしるしでした。救い主であられる方は、乳飲み子のすがたで生まれたことによって、私たちと同じまことに一人の人間となられたのです。

 「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」がメシアのしるしであるとは、栄光の神の子としての輝かしい風格を捨て、天上の最も高いところから、わたしたしの罪をすべてを負いうために、地上最も低いところに、最も貧しい、最も卑しい者として生まれた神の御子でした。「飼い葉桶の乳飲み子」は、私たちの罪の贖いのために捧げられる動物の小羊ではなく、罪のない神の御子が完全な贖いとなるために、「神の小羊」となって、神の裁きを受けるために世に来られたことを示すしるしです。しるしとは単なる目印ではなく、神の救いの御業を示すしるしです。ヨハネ黙示録(5・12)では、天使たちが「屠られた小羊」を賛美しています。

   ムリ―リョの1668年の絵(最初に紹介した絵)には、「飼い葉桶の乳飲み子」の前に、足を縛られた小羊が描かれているからです。犠牲として捧げられる小羊です。ムリ―リョはこの絵で、「飼い葉桶の乳飲み子」を、私たちに代わってその罪を贖い、犠牲として捧げられる「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29)として表現しています。ムリ―リョは、この絵を描く11年前の1657年頃に描いた絵には、小羊を描きませんでした。

     

「羊飼いの崇拝」バルトロメ・E・ムリ―リョ 1657年頃の作品(プラド美術館)マドリッド・スペイン

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2・6-8)

  主の僕は、「苦役を課せられて、…屠り場に引かれる小羊のように…裁きを受けて彼は命を取られた」(イザヤ書53章7節)と預言されていました。キリストは神の身分を捨てて「神の小羊、苦難と僕」となり、人々から排斥され、軽蔑される、貧しい、無力な乳飲み子となって誕生し、その寝床を家畜小屋の飼い葉桶とされたのです。そこにはすでに「十字架の死に至るまで」という「神の小羊」となる道が備えられているのです。クリスマスは天地創造以来の「神の愛」による奇跡と出来事です。世のすべての人の救い主となるこのメシアの誕生を天使たちは賛美しました。

 羊飼いたちは、この「しるし」につまづくことなく、この乳飲み子を迎え入れ、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思いましたが、信じようとはしませんでした。マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、その意味を思い当てようとしていました。

 乳飲み子は成長し、成人となり、神の福音を宣べ伝え、イエスと共に、神の支配が世に来ていることを、神の国についての教えや、さまざまな癒しの奇跡などを通じて、神の愛を伝え、イエスは父なる神の御意志に従い、贖いの業を全うするメシアであることを告げて、十字架の死を遂げられました。死んで陰府(よみ)にまで下ったイエスは、復活し、昇天し、父なる神と共に、世を支配する方となられました。そのことによって、はじめて私たちの罪があがなわれ、神の子され、永遠の命が与えられ、救われるのです。神は、その独り子をお与えになったほどに、わたしたちをわたしたちを愛してくださいました(ヨハネ3・16)。この御子の御降誕をみ使いたちと共に賛美しようではありませんか。

               

  

ヘンドリック・ド・クレルク(ベルギーの画家)

               エル・グレコ(スペイン)

  

アブラハム・ホンディウス  オランダの画家

    

 

 

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「主なる神は我らと共にいます」 ゼファニヤ書3章14~18節

2018-12-11 21:44:34 | キリスト教

                   ↑    預言者ゼファニヤ

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

         日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

        待降節第3主日 2018年12月16日(日)   午後5時~5時50分 

                            礼 拝 順 序

                                                司会 佐藤 洋子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 132(涸れた谷間に野の鹿が)

交読詩編   85(主よ、あなたは御自分の地をお望みになり)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ゼファニヤ書3章14~18節(旧p.1473)

説  教  「主なる神は我らと共にいます」辺見宗邦牧師

祈 祷                 

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 236(見張りの人よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                 次週礼拝  クリスマス礼拝12月23日(日) 

                                     礼拝:午後4時~4時50分 愛餐会:5時~6時

             聖 書  ルカによる福音書2章!~20節

             説教題 「キリストの降誕」 

             讃美歌(21) 231 235 24 交読詩編97

     本日の聖書 ゼファニヤ書3章14~18節

 3:14娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
15主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。
16その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。
17お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
18わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた。                                            19見よ、そのときわたしは、お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。                                20そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で、お前たちの繁栄を回復するとき、わたしは、地上のすべての民の中で、お前たちに誉れを与え、名をあげさせると、主は言われる。

           本日の説教

     ゼファニヤは紀元前640年頃、預言者として主に立てられた、南王国ヨシヤ王時代(前640-609年)に活動した預言者です。ヨシヤが八歳で王となった頃です。1章1節は次のように記されています。

 「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。」(1:1)

 彼は、四代前のヒズキヤ(ヒゼキヤ)王の血を引く王家の人です。このゼファニヤの預言活動が、ヨシヤ王が27歳の時に始めた神殿改革(列王記下23:1-3)をもたらしたと言われています。

  ゼファニヤ書の時代は、アッシリアの滅亡(B.C.609年に首都ニネベ陥落)を預言をしているので(2・13)、その主都ニネベがまだ存在している時代の預言と思われます。ユダ王国の社会の悪弊を訴えているので、ヨシヤ王の宗教改革(621~622年)の前と考えられ、ヨシヤ王(32年間在位)の時代の初期、すなわち紀元前640~621年の間の預言と思われます。預言者エレミヤ(627~586)やナホム(686~612)と同時期に預言活動を行った人と考えられます。<ゼファニヤ>の名は「主が隠される」、あるいは、「主が隠し、秘め置いている事柄」という意味になります。それは同時に、秘められた事柄が主を尋ね求める者によってのみ開示されることを示唆しているとも考えられます。

 ヨシヤ王以前、ユダはアッシリアの植民地とされ、ヨシヤ王の父アモン王(B.C.642~641)と祖父マナセ王(前687-642年)はアッシリアの祭儀を取り入れ、国中に異教礼拝が蔓延していました。異教礼拝の蔓延は政治の堕落、民の倫理の低下を招き、不正がはびこっていました。そのような時代にゼファニヤは主の裁きの日が来ることを預言して、社会に警鐘を鳴らしました。

 ゼファニヤ書は、1章2節~2章3節に、中心主題である「主の日」の告知がなされます。地上から悪を除き去る「主の日」が近づいていることが告げられます(1・7)。人間だけではなく、全被造物に対する裁きと滅亡が告げられる預言です。<地の面から>、<一掃する、絶つ>という言葉が繰り返して用いられ、裁きが徹底的であることが強調されています。人間の罪により、被造物全体が罪に染まったので、神の審判は被造物全体にも及ぶことが語られます。裁きの中心は神の民ユダとのエルサレムに対する裁きです。神は、南のユダ王国の人々、また、特に、神殿があるエルサレムに住みながら、他の神々を拝むエルサレムの住民に、御自分の強い手を伸ばして審判を行います。なぜなら、彼らは、偶像であるバアルの「あらゆる名残(なごり)」(1・4)を、すなわち、カナンの先住民族の神であるバアル礼拝をまだ続けていたからです。また、神は、バアルに仕える神官や祭司といわれる人々を審判し断ちます。また、「天の万象を拝む者」(1・5)、すなわち、アッシリア人の神々である太陽・月・星の天体礼拝を家の屋上の平らな屋根で行う者たちを審判します。また、<マルカム>にも誓いを立てる者を絶ちます。<マルカム>はアンモン人の神「ミルコム」のことで、天体(特に金星)と関係します。また、イスラエルの真の神に背を向け、イスラエルの真の神を尋ねもせず、求めもせず、心を向けない者たちを審判します。

 ゼファニヤは<主の怒りの日が臨まないうちに、主を求めよ>(2:2-3と叫びます。

  2章4節-15節は諸国民の滅亡の預言です。ユダ王国の東西南北の周囲の異教民族(ペリシテ2・5〔ユダ王国の西〕、モアブとアモン2・8〔東〕、エチオピア〔=クシュ〕2・12[南]、アッシリア2・13[北])は罪ゆえに審判されます。イスラエルの民、ユダ王国の周囲の異教民族は、イスラエルの民を苦しめ続けました。また、イスラエルの真の神を信じず、高ぶり、傲慢に嘲り続けました。神は、イスラエルの罪を審判するとともに、イスラエルの周囲の東西南北の異教民族の罪も審判します。ゼファニヤが予告した20年後頃に、ユダ王国はバビロン帝国に攻撃されます。主なる神は、バビロン帝国を用いて、諸国をも審判されるのです。しかし、バビロンもやがて滅ぼされます。

  3章1節~5節では、ヨシや王が宗教改革をする前のユダ王国の人々、エルサレムに住む人々の罪とを指摘します。この都は神の声を聞かず、神の律法を守らなかった。暴力に訴え、うそ偽りは平気でつき、他の人を騙し、裁判官は、わいろをもらって裁判を捻じ曲げ、にせ預言者たちは、神の御心でないことを平気で語り、エルサレム神殿の祭司たちは、神の聖なる律法を破った。不正を行う者は恥を知らず、平気で不正を行っている。明確な断罪のことばがエルサエムに向けられました。 

  3章6節では、主が諸国の民を滅ぼしたことが告げられます。7節では、エルサレムの人々が「必ず主を畏れ、戒めを受け入れる」ことを主は思い、主はエルサレムをどんなに罰しても、「その住む所が断たれることはない」と告げます。しかし、諸国の民はますます堕落を重ね、悪事を行った、と告げます。

 8節では、主は、「主が立ち上る日を待つがよい」とエルサレムの人々に言われます。主は諸国の民を集め、諸王国を呼び寄せて、彼ら、堕落した民を攻撃させ、焼き尽くすと告げます。

 9節から10節では、ゼファニヤは、これまで「主の日」の審判を預言しましたが、それは民を滅ぼすためではなく、救うために為されたのであることがわかります。「主の日」の裁きの後に、エルサレムの贖いの日、回復の日が来ることが告げられるからです。「その日」神は、世界の諸国民の罪を赦し、救い、清い唇を与えてくださるので、周囲の異教民族も、イスラエルの真の神の名を呼んで、ひとつの心となって、真の神を賛美し、礼拝するようになることが約束されます。「唇」をもって「主の名」を呼ぶことは、賛美や礼拝と関係しています。「クシュの川の向こうから」とは、エチオピアを指すので、地の果てからを意味する表現です。

 11節の「その日」とは、エルサレムの罪の贖い日であり、回復の日です。主は「勝ち誇る兵士」を追い払うのです。「残りの民」の特徴は「不正を行わず」、へりくだった人々であり、神以外に頼る者がいない人たちです。

 12節には、「苦しめられ、卑しめられた民を残す」とあります。卑しめられた民、イスラエルの民から、神を真実に信じて喜んで生きる残りの者たちが起こされるのです。

 13では、イスラエルの残りの者たちは「聖なる山」、エルサレムの小高い丘の上に、神殿を再建して、再び、神殿で神を礼拝できるようになります。残りの民は、おごり高ぶることなくへりくだって神を敬い、「不正を行わず、偽りを語らない」、「欺く舌」を持たない心の清い人々であることが明らかにされています。

  

  次の14節からが、今日の聖書の箇所です。

 「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」(3:14-15)

 「娘シオン」は、親しさ愛らしさを込めた、人格化された都、エルサレムを指します。エルサレムよ、イスラエルよ、と呼び掛け、歓呼の声をあげ、心の底から喜び躍れ、と告げます。主はお前に対する裁きをとりさげ、お前の敵を追い払われたと預言します。イスラエルの王であられる主なる神は、お前の中におられる。だからもはや災いを恐れることはないと告げます。「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」との言葉は、今なお苦難の中にある民に向けられた言葉です。

 「その日、人々はエルサレムに向かって言う。『シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。』」(3:16~17)

 お前の主なる神は<お前のただ中におられ>と、ここでも繰り返して、主が共におられることを告げます。イスラエルは敵を恐れる必要はなくなり、不安や恐れから解放されるのです。主が勇士であり、勝利を与え、安全と繁栄を保証するのです。

 14節で、エルサレムよ喜び躍れ、と語った主が、ここでは、<お前のゆえに>主御自身がその民を喜び楽しむというのです。主は愛によってエルサレムの人々を新たに造り変え、イスラエルの民のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる、というのです。ここには、神に選ばれた残りの民に大きな喜びが与えられ、神が民に臨在され、共におられることが歌われています。

 「わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた。」(3:18)

 イスラエルの民の回復は、最終的には「約束の地への帰還」につながります。18節は、離散の民に対する神の慰めの言葉です。「祭りを祝えず苦しめられていた者」とは、離散の地にいるので、主に対する祭りができないことを意味しています。わたし、主は、そのような苦しめられていた者を、主は集める、と告げます。 <彼ら>とは、離散の地にいるくるしめられていた人々です。<お前>とは、罪を赦されるエルサレムであり、イスラエル人です。離散の民は、エルサレムから追いやられ、遠く離れた地におり、外国で恥を受けた民となり、イスラエルの民の重い恥となっていました。

 「見よ、そのときわたしは、お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で、お前たちの繁栄を回復するとき、わたしは、地上のすべての民の中で、お前たちに誉れを与え、名をあげさせると、主は言われる。」(3:19-20)  

 <見よ、そのとき>とは、16節の「その日」であり、主の日です。人々がエルサレムに向かって言う日です。<わたしは>とは、主なる神です。19節の<お前>は単数形で、<エルサレム>・<イスラエル>を指しています。20節は<お前たち>と複数形で語られています。離散の民の一人一人を指しています。

 主の日に、イスラエルの民が受けた恥に対して、まず苦しめた者たちを罰し、滅ぼします。それから、「シオンの娘」を単に「集め」「連れ帰る」だけでなく、彼らに本来与えられていた名誉と栄誉という特権を回復してくださるのです。このことによって、彼らの恥辱が拭われます。そしてイスラエルの人々がシオンに帰還する喜びを述べます。特に20節は捕囚からの帰還を想定した表現で、後代の挿入とされています。厳しい神の裁きの言葉で始まったゼファニヤ書は、散らされた者たちが帰還し、安全と繁栄を与えられとき、地上のすべての民の中で、名誉と称賛が与えられることが約束されています。。

 ゼファニヤは、ヨシア王の宗教改革の先駆者でした。彼はユダの人々の罪に対して、主の裁きを告げています。周囲の大国が興亡する中で、彼は、生きる道を失い、乱れに乱れている民に対して、厳しい警告を告げると同時に、神は民を愛し、力づけてくださること、主に希望をおき主に立ち返る者が救われることを、神の怒りをしのぐ大きな喜びとして伝えます。

 ゼファニヤは、このような「主の日」の希望を後代の民に与えました。そして、「残りの者」については、イスラエルだけでなく諸国民をも含む広がりを与える救いの希望を与えた預言者でした。「主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」との言葉を二度も繰り返して言っています。ゼファニヤのこの預言は、インマヌエル(「神は我々と共におられる」という意味)の主イエスを迎えたことで現実のものとなりました(マタイ1・22-23)。救い主イエス・キリストのご降誕を心から喜び、主の再臨の日の訪れを待ち望みましょう。

 

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「旧約における神の言の力」 イザヤ書55章1~11節

2018-12-07 20:20:10 | キリスト教

                ↑ 第二イザヤ (40章~65章)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

     待降節第2主日 2018年12月9日(日)   午後5時~5時50分 

        礼 拝 順 序

                                                司会 佐藤 洋子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 356(インマヌエルの主イェスこそ)

交読詩編   19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)イザヤ書55章1~11節(旧p.1152)

説  教   「旧約における神の言の力」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                          次週礼拝 12月16日(日) 午後5時~5時50分

                                             聖 書 ゼファニヤ書3章14~18節

                                             説教題   「先駆者」 

                                             讃美歌(21) 132 236 24 交読詩編85

              本日の聖書 イザヤ書55章1~11節

55:1渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
2なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
3耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
4見よ、かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし、諸国民の指導者、統治者とした。
5今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主、あなたに輝きを与えられる。イスラエルの聖なる神のゆえに。
6主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 7神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。
8わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。9天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。
10雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。 11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。

                                本日の説教

 イザヤ書は66章までありますが、年代が違う三人の預言者の書とされています。全体の表題は、「イザヤ書」という最初に活動した預言者イザヤの名がつけられています。イザヤ書の全体(66章)は恐らく、紀元前350年頃にいたってようやく完了したと考えられています。 

   最初のイザヤは、紀元前739~750年、北イスラエル王国がアッシリアの攻撃を受けて滅亡した時代、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。1章から39章までが、イザヤの預言です。

    第二イザヤ(仮称)は、おそらく捕囚の地で生まれた第二世代の人であり、祭儀と深く関係していた人物と推測されます。預言者として活動したのは、イザヤから200年後、バビロン捕囚の末期から、捕囚解放、そしてエルサレム帰還にいたるまでの、紀元前546~538年、に活動した預言者です。40章から55章までが、第二イザヤの預言です。

   第三イザヤ(仮称)は、第二イザヤの弟子であったと考えられ、ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(紀元前515年)直後まで、(539~441年)、活動した預言者です。56章から66章までが、第三イザヤの預言です。

   南王国ユダは、バビロニアによって攻撃され、紀元前587年に滅亡しました。王や住民の重立った者たちは、597年、586年、581年と三度にわたってバビロンへ捕え移されました(エレミヤ書52・28-30)。総数は4600人です。これがバビロン捕囚です。

   イスラエルの人々は異国の地で捕囚の民として屈辱と苦難をあじわいました。生活それ自体は、必ずしも悲惨ではなかったようですが、神の民としてのイスラエル民族にとって、国を失い、捕囚の民とされたことは、「主はわたしを見捨てられた」(49・14)のではないかという思いと、イスラエルの神に対して、バビロニアの神々が勝利したのではないかという疑問が生まれ、偶像礼拝へ走ろうとする者達もいました(44・9-17)。第二イザヤは、この捕囚の民の中にあって、自分もその苦しみを深く味わいながら、唯一の神が共にいたもうこと、主(ヤーウェ)なる神は必ずイスラエルをあがないたもうことを力強く語り、希望と平安をもって生きることをすすめました。

    今日のイザヤ書55章は、第二イザヤの最後の締めくくりをなす重要な章です。預言者は神に代わって、イスラエルの人々を、無償で与えられる神の饗宴に招きます。それは「永遠の契約」への神の招きです。

   「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(55・1)

   バビロンに捕らわれているイスラエル人は、救いを求めてあたかも渇ける者のように、また飢える者のようです。「渇きを覚えている者は皆」という冒頭の語はそれを表しています。それゆえ、預言者は神に代わって「水のところに来るがよい」と呼びかけるのです。この「水」は必ずしも物資的な水そのものを意味するのでなく、霊的水であり、救いを意味しています。それゆえ「渇き」も肉体的なものでなく精神的なものです。

 バビロンの文化は盛んで華やかなものであったでしょう。この国に捕らわれていたイスラエル人は、必ずしもその自由を全く拘束されたものではなかったと言われています。エレミヤはかつて、彼らがバビロンで家を建て、子をもうけ、落ち着いた生活をするように励ます手紙を送っていますが(エレミヤ29章)、彼らは異国での捕囚に満足するはずはなかったでしょう。彼らは解放の日を切に待ち望んでいたことでしょう。

   水は近東の地にふんだんにあるものではありません。砂漠では金を出して買わなければなりません。その尊い水を金を払わないで口にしなさいと言うのです。神はそれを無償で与えるというのです。それのみではありません。「ぶどう酒と乳を得よ」といわれるのです。ぶどう酒と乳とは生命をさらに豊かにするものです。それは渇きを止め、飢えを満たすこと以上の賜物です。

「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」(55・2)

 大部分の捕囚民はエレミヤのすすめに従って、バビロンの生活にすっかり同化し、物質的にも、精神的にも、生命の糧以外のものの獲得に憂き身をやつすようになってしまっていたと思われます。イスラエル人は愚かにも「糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労」しています。彼らが労して得たものもその心を満たすことは不可能です。それは空しい労苦ではなかろうか。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」神の言葉を心より聞くことこそ「良い食べ物を食べ」「豊かさを楽しむ」道である。神の国はもちろん飲食、あるいは「娶(めと)ったり、嫁いだりすること」ではないが、結婚が神と民との契約の象徴となり得るように、飲食もまた神との交わりの手段として、象徴的な意味をもつのです。

   「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」(55・3)

    3節で預言者は今一度会衆に耳を傾けることが真に生きることになることを述べます。神に代わって預言者が「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」と語りかけます。神の言を聞くことは、食べることよりもさらに重要な生命の道です。次に神自身が「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」と民に語りかけます。「とこしえの契約」を結ぶとあるように、これは契約の永遠性を示します。エレミヤ書31章の新しい契約が、旧いシナイ契約の更新であったように、これはダビデの契約(サムエル記下7章16節、詩篇18・51、)の更新です。

  「見よ、かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし、諸国民の指導者、統治者とした。今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主、あなたに輝きを与えられる。イスラエルの聖なる神のゆえに。」(55・4-5)

  「見よ、かつてわたしは彼を立てて」は、過去のダビデと交わされた約束が未来のメシアによって実現することを言って。過去のダビデは政治的に諸国を支配するに至った王でした。しかし未来のメシアは霊的に全世界を統治する君です。それで、「彼を立てて諸国民への証人とし」と言われています。このメシアが神に代わて諸国民を招き、彼らはあなたのもとにあつまるでしょう。あなたの神である主が、イスラエルに与えられる永遠の契約による輝きのもとに。諸国民、あなたは知らなかった国に呼びかけ、それらの国々にも主の救済は波及することが預言されています。これはエルサレムのイザヤの幻でもありました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ書9・1、11・10)。

 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」(55・6)

 ふたたび預言者が語り手となって、イスラエルに最後の神への復帰をすすめます。神に帰えることと神の赦しなしには、新シオンの市民権は与えられず、出バビロンも無意味だかです。時は縮まっている。その縮まる時に彼らは神の呼びかけを素直に聞き、本来の自己に立ち帰るべきです。

「神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(55・7)

 「主を尋ねよ、呼び求めよ、帰れ」、いよいよ間近かに迫った終わりの時を前にして、預言者の切なる勧告がなされます。「神に立ち帰るならば」、先行する神の恵みに応えるために、代贖の義の迫りのゆえに、すでに宣せられている赦しを得るために、われわれは神に帰らねばなりません。主は「豊かに赦しを与えられるから」です。

  「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。」(55・8) 

   神さまと人間との距離は無限大に開いている。神の思い人の思い、神の道と人の道とまったく違うということがまずここに言われています。

  「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(55・9)

    神と人との隔たりは、あたかも天と地の隔たりの如くである。神は神であり、人は人である。そこに神の神聖、至高の位置があります。しかしそれは必ずしも神に審判のみを意味せずその憐憫を示している。神は無限の憐憫をもって人に心からの悔い改めを期待しておられる。人間の希望はそこに繋がれている。神と人とは無関係であるのではない。

「  雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。」(55・10)

   天地を結ぶものは雨や雪である。それは恵みの「雨」であり、憐れみの「雪」である。これによって地の渇きは潤され、自然は生命によみがえる。

  「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(55・11)

    そのように神と人とを連ねるものは神の「口から出る言葉」である。この言葉は審きの言葉ではなく、人を救う言葉である。しかも神の言葉はただ神の意思、感情、思想の表現に止まらない。それはその意味するところを必ず実現していく力をそれ自身の中に含んでいる。

   そして、12~13節では、解放された民が安全に荒れ野を通って故国に帰ることが告げられています。捕囚の民がエルサレムに帰還を赦されるのは、第一回目の捕囚の時から58年後です。ぺルシア王・キュロスがバビロンを攻撃し、占領しました。翌年に、「キュロスの勅令」の発布により(エズラ記1:2-4参照)により、帰還が許されたのです。

  旧約聖書では「言葉」は理解と結びつくと共に、それ以上に行動と結びつく。ですから罪の赦しと救いの約束はただ神の約束に止まらず、必ずその約束の如くになる。具体的にいえば、捕囚のイスラエル人はバビロンより解放されて再び祖国に帰り、荒れ廃れた国を復興するに至るんである。それが神の救いの約束の具体的な成就として実現される。イスラエルの救いこそ、神の「望むこと」であり、「与えた使命」である。こうして神の約束はイスラエル人の解放として実現する。それは「むなしくはわたしのもとに戻らない」。すなわちその目的を達せずには終わらないのです。

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「キリストの教えと和敬清寂」

2018-12-06 21:50:50 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380  FAX:022-358-1403

   日本福音教団富谷教会、茶席松風亭にて

   第27回クリスマス茶会

          2018年12月8日(土)

   礼拝の部 12時~12時30分              

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 258(まきびとひつじを)

主の祈り 

新共同訳聖書 マタイによる福音書5章

 「1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

  メッセージ 「キリストの教えと和敬清寂」 辺見宗邦牧師

  イエス様が教えた山上の説教と、茶道の和敬清寂の精神と共通しているところがあり、イエス様の教えや聖書のことばはそれをさらに深め、実行可能とする働きをします。和敬清寂は、利休の茶道の精神(お茶の心)を要約したものです。

   和とは、お互いに心を開いて仲良くするということです。席中亭主と客が和合し、一体感を生ずるとき、充実した茶会になります。人と人との心の調和を大切にするので、 英語ではHarmonyと訳しています。

   和敬の敬とは、互いの思いやり、お互いに敬(うやま)いあうという意味です。人を敬い、自らを慎み、謙遜であることです。お互いが慎みあい、敬い合うことがなければ、どんな茶事や茶会でも自己満足で終わってしまいます。英語ではRespectと訳します。

   清寂の清とは、清(きよ)らかという意味ですが、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるということです。英語ではPurityと訳します。

   清寂の寂とは、どんなときにも静かでなにものにも乱されることがない心を表しています。客は静かに心を落ち着けて席入りし、床の前に進む。軸を拝見しそこに書かれた語によって心を静め、香をきき花を愛で、釜の松風を聴く。そして感謝を込めてお茶をいただく。そうした心のゆとりの中に、静寂、質素、わびの美しさを楽しむのです。茶道はそのような心の平安を目指しています。Tranquility(平安、平静)と言う英語で寂を表します。精神安定剤をトランキライザーというのは、精神を落ち着かせる薬だからです。<寂>とは、乱されない平和な心です。

 にあたる聖書のことばは、「柔和」です。マタイ5・5に、「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」とあります。「柔和」という日本語は、どちらかというと弱々しい響きがありますが、ここで言われている「柔和」はそうではありません。イエス様は父なる神様の赦しを伴う愛によって、敵をも赦し、罪深い人間を救ってくださった方です。イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」って教えられました。「柔和な人々」とは、人との和を大切にする人達であり、愛に満ちた人のことです。「その人たちは地を受け継ぐ」とは、イエス・キリスとともに来ている神の支配する天地を継ぐ人とされることです。

 にあたる聖書のことばは、「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」(ローマ12・10)です。イエス様は、どんな人をも、差別なく、神にとって価高い者として愛され、尊ばれました。御自分を「柔和で謙遜な者」(マタイ11・29)と言っています。

 にあたる聖書のことばは、マタイ 5・8にある「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」です。「心の清い人々」とは、正しい良心をもち、悪意を全くいだかない者のことです。清い心は、ダビデ王が「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しい確かな霊を授けてください」と罪を悔い、祈ったように、イエス様から聖霊を受けて清い心が与えられるのです。イエス様は、「その人たちは神を見る」と約束されました。イエス様に罪を赦され、霊の交わりを与えられている心の清い者には、顔と顔を合わせて見るという神との親しい交わりが約束されているのです(コリント一、13:12)。

 にあたる聖書のことばは、「平和(平安)な心」です。「キリストの平和あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ3・12)とあります。マタイ5・9には「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とあります。ここで言われている平和は政治的な平和ではなく、平和の神が人の罪を赦し、人と和解することです。それは、罪を容認したり、真理をあいまいにするものではなく、御子キリストの十字架による贖いによる罪の赦しであり、神の正義が貫かれています。イエスさまによるこの平和を受けた者が、その平和を、自分の周りの人々にもたらすように努力します。そのような人々が、ここでいう「平和をつくる者」です。

 <幸いである>とは一般的な幸運ではありません。<幸い>とは神と人とが正しい関係にあることであり、神の至福を現在受けているからこそ「幸い」なのです。「その人たちは神の子と呼ばれる」とイエス様は言われています。すでにキリストを信じて、恵みによって神の子とされたものが、将来神の子と呼ばれるにふさわしい状態になることを言っています。

 茶道の和敬清寂の精神は、日常の生活においてもその実践を心がけることが求められます。イエス様の教えは、和敬清寂の精神をさらに深める教えではないでしょうか。その教えを実行できるのは、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3・13)とあるように、主イエスの赦しを受け、イエス様との交わりを与えられ、イエス様の愛を受けて、できることなのです。

 イエス様の愛に生きた七歳の少女を紹介いたします。名前は高橋順子(1959-1967)さんです。彼女は、讃美歌21の533番「どんなときでも」の作詞者です。順子さんは作詞当時、骨肉腫の患者として病床にありました。片足を切断する手術を四日後に控えたとき、ベットの上で書いた詞を、順子さんのピアノの先生でもあり、教会学校の先生でもあった冷泉アキさんが、讃美歌委員会に応募作品として送りました。その詞に曲がつき、こどもさんびか1に、亡くなる前の年の1966年に収録されました。そして、讃美歌21にも収録されたのです。順子さんは七年間の短い生涯を終えて、天に召されました。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5・3)と主イエスは言われました。「心の貧しい人」とは、「神に全く依り頼んでいる人」のことです。順子さんは「心の貧しい人」でした。「どんなことがあっても」くじけない、平安な心(寂)、キリストの愛を受けていました。痛い、苦しい闘病生活で、くじけそうになる小さいからだの少女を励ましてくださったのは、イエス様の愛でした。少女、順子さんは、その身を持ってキリストの愛を証ししました。この少女の作詞した讃美歌が多くの人に歌われ、人々を励ます歌になっています。

  たとえ、希望が失われるような苦しい時にも、悲しい時にも、なおも主イエスの愛が私たちと共にあるなら、どんな場合にも、くじけることがないのです。このようなイエス様を迎える御降誕を感謝し、心から祝いたいと思います。祈 祷

讃美歌(21) 260(いざ歌え、いざ祝え)                 

祝 祷                         

後 奏

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