富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「東方の学者たちの来訪」 マタイよる福音書2章1~12節

2017-12-29 01:35:27 | キリスト教

           ↑  Abraham Bloemaert 1623-24

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

    降誕節第1主日(年末礼拝)2017年12月31日(日)                  午後5時~5時50分

                  礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)

交読詩編   72(神よ、あなたによる裁きを、王に)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) マタイよる福音書2章1~12節(新p.2)

説  教    「東方の学者たちの来訪」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   258(まきびとひつじを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏 

                        次週礼拝 1月7日(日)午後5時~5時50分

                           聖書 ルカによる福音書2章41~52節  

                           説教題  「少年イエスのエルサレム訪問」

                           讃美歌(21)368 507 24  交読詩編89篇

   本日の聖書 

1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

    本日の説教

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれました。ヘロデ大王は、紀元前40年に、ローマの元老院に承認されてパレスチナの王に任命されました。王にされたのは、彼がローマとオクタヴィアヌスに奉仕しとことに対する報いによるものでした。彼はローマの傀儡であり、ユダヤの南に隣接するイドマヤ出身で、生粋のユダヤ人ではありません。実際の彼の統治は紀元前37年に始まり、紀元前4年の死をもって終わりました。

  オクタヴィアヌスの治世は、ローマの共和制時代(紀元前44年/42年)から始まり、アウグストゥスの称号を受け、ローマ帝国最初の皇帝としては紀元前27年から紀元後14年まで君臨しました。ルカによる福音書2章には、皇帝アウグストゥスが全領土の住民に対して住民登録の勅令を出したことのより、ヨセフとマリアがベツレヘムに行くことになったことが記されています。

 イエスの誕生した年は、現在の研究では、ヘロデ王が死ぬ紀元前4年頃には生まれていたとされています。紀元前6年~7年頃とする説もあります。

  そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言いました。

  <占星術の学者たち>とは、本来ペルシアの祭司階級に属する人達です。それもたぶんゾロアスター教の学者たちと思われます。彼らは、天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈をよくし、人の運命や世の動きについて神意を伝える人たちでした。<東の方>とは、おそらくペルシア(イラク)かアラビア(サウジアラビア)と思われます。

  この学者たちが、はるばるメシアを求めてやってきました。メシア待望が、アッシリアやバビロニア(イラク)によって国外に散らされたユダヤ人やユダヤ教への改宗者を通じて、東の国々に伝わり、ユダヤ人でない者にとっても、ユダヤの地からメシアが登場することが期待されていたと思われます。異邦人である外国人が、イエスの誕生に登場し、イエスを礼拝するのは、神の国が今やユダヤ人以外の異邦人に与えられることを伝えています。後にイエスは、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言っています(マタイ21・43)。

 <ユダヤ人の王として生まれた方>のことを聞いて、ヘロデ王は不安を抱きました。王としての自分の権威の失墜を意味したからです。ヘロデは晩年には、ことに猜疑心が強くなっていたため、王権維持のために、あらゆるヘロデに反対する動きには徹底的な弾圧を加え、身内の者達をも殺害しました。メシア誕生の知らせに、エルサレムの民衆もうろたえました。エレサレムの群衆は、ピラトの裁判の時も、イエスを「十字架につけろ」と叫んだ人々でした(マタイ27・22)。

  王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただしました。。<祭司長たち>とは、大祭司一門に属する者達で、神殿の職務をする高級祭司や神殿財務担当祭司などを指すと思われます。また<律法学者>は、律法の書である旧約聖書の学問的研究に専念し、その解釈と教育に当たった平信徒の職業的な学者です。彼らの聖書解釈は民衆の生活を律していました。律法学者の上級の者は最高法院のメンバーでした。ユダヤ教の首脳部であるこの二つのグループは、メシア誕生の地は、「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』(ミカ書5・1、サムエル記下5・2)」と言いました。彼らは聖書を正しく解釈し、メシアの誕生の場所まで知りながら、メシアを迎えようとはしませんでした。

  そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめました。その時期を知ることのよって、その子の年齢を割り出そうとしたのです。ヘロデは、メシア誕生の地は、ユダヤのベツレヘムであることを伝え、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って、ベツレヘムへ送り出しました。イエス抹殺の意志は、この時すでに明らかでした。

 東方の学者たちが王の言葉を聞き、聖書の預言を知って出かけると、再び東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。学者たちはその星を見て喜びにあふれました。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられました。ヨセフの名が記されていないのは、聖霊によって妊娠した処女マリアの特別な位置を示唆しています。

  彼らはひれ伏して幼子をひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄光が宣べ伝えられる」(イザヤ書60・6)という預言のことばがここに響いています。黄金は王にふさわし贈り物です。乳香はアラビア、インド、ソマリアに成育する香木であり、没薬はアラビア、エチオピア、スーダンに成育するミルラ樹の樹液です。どちらも、宗教儀式で用いられ、没薬は薬品としても用いられ、当時は非常に高価な輸入品でした。現在はカイロの市場などで手軽に求められます。

  今日の聖書の箇所は、<ユダヤ人の王>としてのイエスをめぐって二つの人物群が全く反対の態度をとったことが語られています。外国の学者たちは、遠路はるばるイエスを訪ねて来て、彼を礼拝しました。他方ユダヤ王ヘロデは、新しい王の誕生を聞いて、その幼児を抹殺することを企てるのです。また、祭司長たちや律法学者たちは、メシア誕生の地を知りながら、世に誕生したメシアを迎えようとはしませんでした。エルサレムの住民も同様でした。救い主イエスの誕生をめぐってのこの二つの態度は、一人一人の人間の心に中にもあります。神の御子の主権の前にひれ伏して拝するか、それても、自分の主権を守ることを完全にはやめようとはしないのか、の二つの相反する心があります。

  クリスマス・シーズンは、十二月二十五日のクリスマスの一週間後に当たる新年の元旦の「キリストの割礼日(ルカ2・22以下)」を経て、一月六日の公現日まで、十二日間続きます。降誕節の最後にくるのが「公現日」「栄光祭」と呼ばれる日です。外国人であり、異教徒であった東方の国の学者たちが、世界の救い主の出現をたずねてベツレヘムに到着し、ついに幼児イエスに出会ったというマタイ福音書の記事を主題として礼拝を守る日です。キリストの出現は、イエスの誕生にとどまらず、真理の光が現され、それが世界の隅々にまで実現していく出発点になりました。主の栄光が特定の人々にではなく、公に現された日です。

  「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」このイザヤ書60章1節の預言が現実のものとなりました。クリスマス・シーズンは、御子の降誕を感謝し、祝うと共に、再び来たりたもう御子の再臨を待ち望むときでもあります。

 この一年間、御子の十字架と復活によって、救いを与えられ、守られ、導かれて過ごすことが出来たことを感謝し、新たに恵みの年を迎えてたいと思います。多くの人々が、わたしたちに対する神の大きな愛を知り、救いにあずかって、幸せな人生を送ることができるように祈りたいと思います。

 

 

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「キリストの降誕」 ルカによる福音書2章1~20節

2017-12-24 16:45:18 | キリスト教

            ↑ 「羊飼いへの告知」(1663年)、オランダの画家アブラハム・ホンディウス(Abraham Hondius/1625–1691)の作品

天使から主メシヤ誕生を告げられるシーンを描いたこの絵画は、17世紀による1663年の作品「羊飼いへの告知」。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

   待降節第4主日(クリスマス礼拝)2017年12月24日(日)

                                     午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 267(ああベツレヘムよ)

交読詩編   98(主こそ王)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書2章1~20節(新p.102)

説  教    「キリストの降誕」     辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   263(あら野のはてに) 

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏 

                     次週礼拝 12月31日(日)午後5時~5時50分

                         聖書 マタイによる福音書2章1~12節  

                         説教題    「東方の学者たちの来訪」

                         讃美歌(21)464 258 24  交読詩編72篇

本日の聖書 

1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

     本日の説教

 ルカによる福音書は、イエスの誕生をローマ皇帝アウグストゥスの治世の時代として記しています。この政治の枠組みに入れた理由は、イエスがすべての人(世界)のために生れたということを明らかにするためと思われます。当時、この皇帝は「全世界の救い主」と称され、人々から「アウグストゥスの平和」とも言われていたので、イエスこそが真の平和の救い主であることを言い表そうとしているのです。皇帝として彼は、紀元前27年~紀元後14年の間、在位しました。

 当時の世界最大の強者である皇帝は、全領土の住民に住民登録の勅令を出しましたが、それは知らずに神の救いの計画に奉仕しているのです。ナザレにいたヨセフといいなずけのマリアが、ダビデ王の出身地ベツレヘムに行くことになったからです。ベツレヘムはメシアが生まれると預言されていたダビデの故里です。彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは出産の日をむかえて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったので、牛やろばを飼う家畜小屋を宿としたのです。

 

 ベツレヘムの町の近郊には「羊飼いの野」があります。羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。すると突然、主の天使が彼らに近づき、主の栄光が周りを照らしたので彼らは非常の恐れました。救い主誕生の知らせは、宮殿の広間ではなく、野原にいる、貧しく身分の低い者に対して、一番先に届けられたのです。「貧しい人に良い知らせを伝える」(イザヤ61・1)の預言が成就したのです。

 

 天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と言いました。「この方こそ、主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるあろう。これがあなたがたへのしるしである」と天使は告げました。

 

 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言いました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しました。平和を帝国内に確立したとされるアウグストゥス皇帝らが当時「救い主」と呼ばれていたため、イエスこそ真の救い主として対比させています。イエスは「御心に適う人に」平和をもたらす者であり、「平和の君」(イザヤ9・5)として旧約の預言を成就されることが言われています。「御心に適う人に」とは、制限ではなく、人類すべてを含むものなのです。「地の上に平和が人類すべてにあるように。神の御心に適う者に」という意味です。

 

「主メシア」という称号は、使徒ぺトロがエルサレムで、聖霊降臨のペンテコステの日に、説教した中で用いている復活したイエスに対する称号です。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またキリスト(メシア)となさったのです」と言っています。これによるとイエスは「復活して生けるキリスト」となられた方であり、従って、誕生における「主メシア(キリスト)」も、将来復活して、すべての者に命を与えて救う使命をもった主として生まれたということです。

 

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と天使たちは歌い、羊飼いたちに平和を告げました。この歌は、イエスがエルサレムに近づいた際に、弟子たちが自分の見た奇跡のことで喜び、神を賛美し始めた歌に反響しています。「主の名によって来られ方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19・38)と歌っています。「天には平和」とあるように、この平和は、神と人との和解による神からの平和です。罪から解放され、神の子とされた人間は、人間相互の平和を実現する幸いな人とされるのです(マタイ5・9)。

 

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった現実に起きたことを見ようではないか」と話し合い、羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。羊飼いたちは、野原で天使の告知を聞き、天の大軍の賛美を耳にしました。彼らは今それを自分の目で確かめました。羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思いましたが、信じようとはしませんでした。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、その意味を思い当てようとしていたのです。あの受胎告知の天使のお告げ以来の事件、羊飼いの突然の訪問の意味についてです。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。彼ら自身のうちに神との平和は回復され、いと高い天にいます神に栄光を帰しています。このようにして彼ら自身の上に救い成就しています。

 

 「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がしるしである」と、天使が告げたからこそ、羊飼いたちはその乳飲み子が救い主であるとわかったのです。天使がしるしだと言わなければ、それが救い主のしるしであることに誰も気づかないのです。この「しるし」は、神様の救いの恵みが他ならぬこの自分たちに与えられていることを彼らが確信するために与えられているのです。羊飼いたちは、天使が去っていくとすぐに「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と語り合い、ベツレヘムへと急いで行ったのです。そして、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」というしるしがこうして現実となったのです。羊飼いたちは天使の言葉を信じたからこそ、飼い葉桶の中の赤ちゃんのイエス様に会うことができたのです。 

 

 神がなさる奇跡は、必ずしも超自然的な出来事とは限りません。むしろ、自然に起こることの中に、神の大いなる力が隠されており、現されるのです。神が私たちにその事を示してくださらなければ、誰もそれを知ることは出来ないのです。聖書を読む中で、また礼拝をする中で、神が私たちに働きかけてくださるからこそ、主イエス・キリストを真の神の独り子、真の救い主と認めることができるのです。

 

神はその独り子を最も貧しい、最も卑しい者として生まれさせました。この乳飲み子のうちに、神様の救いが隠されているのです。救い主である方は、乳飲み子のすがたで生まれたことによって、私たちと同じまことに一人の人間となられたのです。そして、罪のない一人の人となられたことによって、私たちの罪をご自分の身におわれて、私たちの代わりに十字架にかかられ、私たちの代わりに裁かれました。死んで陰府(よみ)にまで下ったイエスは、復活し、昇天し、父なる神と共に、世を支配する方となられました。そのことによって、はじめて私たちの罪があがなわれ、神の子され、永遠の命が与えられ、救われるのです。

 

  ルカによる福音書は、イエスの誕生をローマ皇帝アウグストゥスの治世の時代として記しています。この政治の枠組みに入れた理由は、イエスがすべての人(世界)のために生れたということを明らかにするためと思われます。当時、この皇帝は「全世界の救い主」と称され、人々から「アウグストゥスの平和」とも言われていたので、イエスこそが真の平和の救い主であることを言い表そうとしているのです。皇帝として彼は、紀元前27年~紀元後14年の間、在位しました。

 当時の世界最大の強者である皇帝は、全領土の住民に住民登録の勅令を出しましたが、それは知らずに神の救いの計画に奉仕しているのです。ナザレにいたヨセフといいなずけのマリアが、ダビデ王の出身地ベツレヘムに行くことになったからです。ベツレヘムはメシアが生まれると預言されていたダビデの故里です。彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは出産の日をむかえて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったので、牛やろばを飼う家畜小屋を宿としたのです。

 ベツレヘムの町の近郊には「羊飼いの野」があります。羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。すると突然、主の天使が彼らに近づき、主の栄光が周りを照らしたので彼らは非常の恐れました。救い主誕生の知らせは、宮殿の広間ではなく、野原にいる、貧しく身分の低い者に対して、一番先に届けられたのです。「貧しい人に良い知らせを伝える」(イザヤ61・1)の預言が成就したのです。

 天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と言いました。「この方こそ、主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるあろう。これがあなたがたへのしるしである」と天使は告げました。

 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言いました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しました。平和を帝国内に確立したとされるアウグストゥス皇帝らが当時「救い主」と呼ばれていたため、イエスこそ真の救い主として対比させています。イエスは「御心に適う人に」平和をもたらす者であり、「平和の君」(イザヤ9・5)として旧約の預言を成就されることが言われています。「御心に適う人に」とは、制限ではなく、人類すべてを含むものなのです。「地の上に平和が人類すべてにあるように。神の御心に適う者に」という意味です。

「主メシア」という称号は、使徒ぺトロがエルサレムで、聖霊降臨のペンテコステの日に、説教した中で用いている復活したイエスに対する称号です。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またキリスト(メシア)となさったのです」と言っています。これによるとイエスは「復活して生けるキリスト」となられた方であり、従って、誕生における「主メシア(キリスト)」も、将来復活して、すべての者に命を与えて救う使命をもった主として生まれたということです。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と天使たちは歌い、羊飼いたちに平和を告げました。この歌は、イエスがエルサレムに近づいた際に、弟子たちが自分の見た奇跡のことで喜び、神を賛美し始めた歌に反響しています。「主の名によって来られ方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19・38)と歌っています。「天には平和」とあるように、この平和は、神と人との和解による神からの平和です。罪から解放され、神の子とされた人間は、人間相互の平和を実現する幸いな人とされるのです(マタイ5・9)。

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった現実に起きたことを見ようではないか」と話し合い、羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。羊飼いたちは、野原で天使の告知を聞き、天の大軍の賛美を耳にしました。彼らは今それを自分の目で確かめました。羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思いましたが、信じようとはしませんでした。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、その意味を思い当てようとしていたのです。あの受胎告知の天使のお告げ以来の事件、羊飼いの突然の訪問の意味についてです。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。彼ら自身のうちに神との平和は回復され、いと高い天にいます神に栄光を帰しています。このようにして彼ら自身の上に救い成就しています。

 「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がしるしである」と、天使が告げたからこそ、羊飼いたちはその乳飲み子が救い主であるとわかったのです。天使がしるしだと言わなければ、それが救い主のしるしであることに誰も気づかないのです。この「しるし」は、神様の救いの恵みが他ならぬこの自分たちに与えられていることを彼らが確信するために与えられているのです。羊飼いたちは、天使が去っていくとすぐに「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と語り合い、ベツレヘムへと急いで行ったのです。そして、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」というしるしがこうして現実となったのです。羊飼いたちは天使の言葉を信じたからこそ、飼い葉桶の中の赤ちゃんのイエス様に会うことができたのです。 

 神がなさる奇跡は、必ずしも超自然的な出来事とは限りません。むしろ、自然に起こることの中に、神の大いなる力が隠されており、現されるのです。神が私たちにその事を示してくださらなければ、誰もそれを知ることは出来ないのです。聖書を読む中で、また礼拝をする中で、神が私たちに働きかけてくださるからこそ、主イエス・キリストを真の神の独り子、真の救い主と認めることができるのです。

神はその独り子を最も貧しい、最も卑しい者として生まれさせました。この乳飲み子のうちに、神様の救いが隠されているのです。救い主である方は、乳飲み子のすがたで生まれたことによって、私たちと同じまことに一人の人間となられたのです。そして、罪のない一人の人となられたことによって、私たちの罪をご自分の身におわれて、私たちの代わりに十字架にかかられ、私たちの代わりに裁かれました。死んで陰府(よみ)にまで下ったイエスは、復活し、昇天し、父なる神と共に、世を支配する方となられました。そのことによって、はじめて私たちの罪があがなわれ、神の子され、永遠の命が与えられ、救われるのです。

 

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「先駆者」 イザヤ書40章1~11節

2017-12-14 22:09:01 | キリスト教

                                  ↑ 第二イザヤ

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

         待降節第3主日   2017年12月17日(日)     午後5時~5時50分

            礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)

交読詩編   85(主よ、あなたは御自分の地を)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)  イザヤ書40章1~11節(旧p.1123)

説  教    「先駆者」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   441(信仰をもて) 

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

                                         次週礼拝 12月24日(日)午後5時~5時50分

                                             聖書  ルカによる福音書2章1~20節  

                                             説教題    「キリストの降誕」

                                             讃美歌(21)267 263 43 交読詩編98篇

     本日の聖書 イザヤ書40章1~11節

 1慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。2エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。6呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。7草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。 8草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。 9高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。10見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。11主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

                   本日の説教

 イザヤ書40章から55章までの無名の著者を、旧約聖書学では第二イザヤと呼んでいます。その預言の歴史的背景は、紀元前6世紀の中頃(B.C.546~538年)と推定されています。イザヤ書1章から39章までの預言者であるエルサレムで活動したイザヤは、アッシリア帝国の時代を歴史的背景としていますが、バビロンで活動した第二イザヤは、バビロン帝国時代よりペルシヤ帝国が勃興する時代を背景としています。イザヤと第二イザヤの間は、150年以上の開きがあります。第二イザヤの時代は、多くのユダ王国の民はバビロンに捕囚され、祖国の都エルサレムは荒廃し、ユダ王国を滅ぼしたバビロニアはその国運が傾き、ペルシア王キュロス(B.C.557~529年)が現れて、バビロニア軍を破り、捕囚の民イスラエルに解放を告げる時代でした。異教徒の王キュロスは、「主が油を注がれた人」(イザヤ45・1)と呼ばれ、神の意志を知らずして、捕囚民の解放を行うことになります。

  第二イザヤはバビロン捕囚のユダヤ人の間から召された一預言者です。彼の名前も、出生についても、預言者としての召命も伝えられていません。しかし彼は、イスラエルの最大の預言者の一人です。第二イザヤは、ユダヤ人のバビロン捕囚という現実にも神の意志(審き)を見(40・2)、捕囚からの解放と祖国帰還にも神の意志(救い)を見ました(44・28)。

  第二イザヤが預言活動を開始したときは、イスラエルの民の捕囚期間が、短い人でも50年になろうとしていました。イスラエルの民は、「いつまで、主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(詩篇89・46)と故国を失ったことを嘆いていました。そのような人々に、長い間隠れたまま応答をしなかった神が現れ、第二イザヤに語るべき預言を与えました。彼は民に捕囚からの解放の時が来たことを告げ、神が民の罪を赦してくださったことを説き続けました。彼の預言は、捕囚解放前の預言を集めた40~48章と、解放後の預言を集めた49~55章の二部構成になっています。

  本日とりあげるイザヤ書40章1節~11節の預言は、イスラエルの捕囚の民が、奇跡的に故国へ帰還することになるという内容ですが、同時にこの部分は、第二イザヤ全体の預言の序言でもあります。ここで告知されているのは、解放であり、救済です。その基調となる慰めが、預言者の一貫した叫びです。捕囚の民の帰還についての詳細な事情は、具体的には語られていませんが、神の憐れみが語られ、イスラエルの審判は過ぎ去り、そのとがはゆるされ。服役の期(とき)は終わり、神自身が解放者として来臨することが語られています。

  「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イザヤ40・1~2)

   第二イザヤの預言の最初は、<慰めよ、慰めよ>で始まります。<慰めよ、わたしの民を慰めよ>で始まる神のことば(1~2節)は、直接預言者に対して語られているのではなく、天上の会議に出席している天的存在のひとりが、居並ぶ他の天的存在に向かって語っているのです。預言者は、神の王座を中心とする天上の会議に耳をすませて、その声を聞いているのです。神がイスラエルのことを、<わたしの民>と言っています。現実には国を失ったユダヤ王国の民です。民は神に対して罪を犯したために、今は捕囚の身ですが、神は依然として<わたしの民>と呼び、御自分を<あなたがたの神>と言っています。民は神に対して罪を犯し、神の民としての神との契約を破りましたが、神は、契約関係を破棄されないのです。<エルサレムの心に語りかけ>とありますが、<<エルサレム>とは、彼らの都の名であると共に、捕囚民を含めたユダの民全体を象徴することばです。<心に語りかけ>とは、嘆きとあきらめのために意気消沈し、固く閉ざした心を開かせて、切々と訴えかけなさい、そしてその民に呼びかけなさい、ということです。<苦役の時は今や満ちた>と呼びかけなさい。捕囚の期間の苦しい服役は終わったことを言っています。<罪のすべてに倍する報い>とは、罪に対する十二分の刑罰を、神から受けたと言っています。服役は完了した。罪は処理され、イスラエルの民は赦された。そこには捕囚からの解放が待っているばかりです。神がイスラエルの罪を赦しの理由は、必ずしもイスラエル人が受けた捕囚の苦難の量や、民が悔い改めたためではなく、神の側の民に対する愛と憐れみにあります。こうして、新しい解放の時代は罪の赦しをもって始まるのです。

   イスラエルの<苦役>としての捕囚が終わりに近いことは、新興国のペルシア帝国の強力な攻撃によって、周囲の国々が次々に占領され、バビロンも攻撃されるだろうと、預言者は察知したためと思われます。ペルシアは、戦勝した支配国に対して、その国の自治を認めるなど、寛容な政策をとっていました。バビロンを占領した後、ペルシアは、第二イザヤの預言どうりユダヤ人捕囚民が祖国に帰還することを許しました。

   「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(3~5)

   <呼びかける声>は、天上の会議にて天使が別の天使に呼びかける声です。それは深い慰めの声です。なぜなら、<主のために荒れ野に道を備える>ということは、イスラエルが出エジプトの時代、シナイ半島の荒れ野をを40年間さまよった時代、神が雲の柱、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれ、約束の地、カナンへ導かれたように、今やまさに新しい出エジプトが始まろうとする前ぶれだからです。バビロンとエルサレムの間の荒れ野と砂漠に、あたかも王の凱旋道路のように道が作られる。山はけずられ、谷はうずめられる。行く手をはばむものは除かれる。これは天使たちに命じられているのです。人の力によるものではなく、天的存在を用いる作る道であり、神自身のみ業によるものです。解放されたイスラエルの民は、その備えられた道を歩むことになります。これによってすべての人類が、世界に対する神自身の業を見ます。こうして世界にむかっての神の栄光があらわされます。民の解放とその故国への帰還が、主なる神の栄光の顕現となるのです。<主の口がこう宣言される>とは、ここでは神のことばを取り次ぐ天使ですが、預言者も神の口となって宣言するのです。

   呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(6~8)

   <呼びかけよ>と語る声は、天使の声です。<わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか>は、命じられているのは預言者の第二イザヤです。ここに天上の声と地上の預言者(第二イザヤ)の対話があります。ここに第二イザヤの召命経験が記されているとも言われています。彼は宣べ伝える言葉も方策も何も持たぬ、無力な、人間です。彼は、民に向かって<何と呼びかけたらよいのか>と答えます。すると、再び、声は言います。6節cから8節までは、天使の声です。<人はみな草に等しい>と、人は野の草のように無力な人間でしかないことを告げます。人間とその力が野の草花のように枯れ、死ぬのは、アラビヤから吹きつける熱風のような神の烈しい裁きの結果であることを、天使は告げます。<この民は草に等しい>は、神の民であるイスラエルの民も、同じように野の草に等しいことを語っています。地上のすべての被造物はうつろい去って行く。しかし、神の言葉は、全てが枯れ果ててしまったかのように見える中で、堅く立ち、存続し続ける、永遠の真理である、と告げます。この神への信仰が、イザヤに希望を与え、イザヤを立たせました。そして、イザヤをして、イスラエルの民に深い慰めと力強い言葉を語らせたのです。

   「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力振るって声をあげよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」(9~10)

   舞台は天上から地上に移ろうとしています。伝令を命じているのは天使です。<良い知らせをシオンに伝える者よ>は、天上の会議における神の福音をシオンに告げるための預言者です。シオンはユダ王国の首都エルサレムの南東部の丘で、エルサレム全体を象徴的に指しています。シオン、あるいはエルサレムと呼ばれるイスラエルの民は心を閉ざし、慰めをかたくなに拒絶している者たちです。その者たちに捕囚からの解放の福音を伝えよ、と命じます。福音を伝える者、第二イザヤは高い山に登り、声をあげ、ユダの町々に<見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神>が力をおびて来られる、と喜びの音信を伝えよ、と命じられます。<見よ、見よ、見よ>と神の顕現と来臨の告知の三重の歓呼がなされます。<恐れるな>は、この奇跡が完遂されないのではなかなどと恐れるな、という意味でしょう。あたかもその神の来臨と支配を眼前に見るように、神は地上を統治されます。<力を帯びて>、<御腕をもって>とは、神の審判と救済の力を象徴しています。かつてイスラエルの民をエジプトから導き出したその<腕>は、今、彼らを捕囚の地バビロンから導き出すのです。神は王としてイスラエルと諸国民の上に君臨します。<主のかち得られたもの>とは、捕囚の民を指します。<主の働きの実り>は、主が代価を払って買い戻したイスラエルの民です。神の帰還は神の単独帰還ではありません。民が、神の<御もと>にあり、<御前に進む>、堂々たる神と民との凱旋です。

  「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(11節)

   11節は、羊飼いとしての神を語っています。「主は羊飼い」で始まる有名な詩篇二十三篇をはじめとして、旧約の中にしばしば、主が羊飼いであることが語られています。<羊飼い>と言う言葉は、迷った羊を探し集めるように、失われた者をふたたび集める、特に故国から散らされて行った者をふたたび集める、ということを言い表わします(エレミヤ23・1以下、エぜキエル36・24)。イスラエルが母子の羊にたとえられます。神の力強い腕と、同じ神の羊飼いとしての腕が、やさしい羊飼いとして、迷いがちな小羊を繰り返し集め、その羊をふところに抱え、母羊を共に導くのです。イスラエルが祖国に帰還するということだけが喜ばれているわけではなく、隠れた神が再び現れる希望が告げられ、喜び歌われています。それは王や政治的指導者としての牧者像をはるかにこえている、歴史を支配する<良い羊飼い>としての主なる神です。

   このイザヤ書40章の予言の言葉は、紀元前538年に、実際に起こった、ユダヤ民族のバビロン捕囚からの解放を告げています。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」で始まるこの預言は、世界の民に対する神の愛と憐れみに満ちた救いの御ことばでもあります。ヘンデルの作曲した「メサイア(救世主)」も、「慰めよ、慰めよ、わが民を。Comfort ye comfort ye my people.」と歌うテノールの声で始まります。イザヤ書40章の言葉は、世に来られたキリストを予言しています。世の救い主であるキリストが現れるとき、その先駆者が現れ、主イエス・キリストの到来を告げられます。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」というイザヤの予言の言葉の成就として、洗礼者ヨハネが現れました。そして、神の言葉の永遠性は、イエス・キリストの復活と昇天によって明らかにされました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と言われています。羊飼いとして、私たちを神の国に導いてくださるのは、私たちの主イエス・キリストです。

 

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クリスマス茶会、礼拝の部でのメッセージ

2017-12-09 22:15:10 | キリスト教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380  FAX:022-358-1403

   日本キリスト教富谷教会、茶席松風亭にて

  第26回クリスマス茶会    2017年12月9日(土)

 礼拝の部 12時~12時30分   

                  司会 辺見宗邦牧師            

 前 奏            奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 265(天めなる神には)

 主の祈り

 聖 書  マタイによる福音書2章1~7節

      ヨハネによる福音書3章16節~17節

 メッセージ 「救い主の誕生」    辺見宗邦牧師

 祈 祷

 讃美歌(21) 268(朝日は昇りて)                 

 祝 祷              平井孝次郎牧師             

 後 奏 

                   〇午前の茶会 10時~12時

       〇礼拝    12時~12時30分

                     〇食事の時間 12時30分~13時

                     〇午後の茶会 13時~15時

          クリスマスのメッセージ

 ヨセフといいなづけのマリアは、住民登録をするため、イスラエルのガリラヤ地方のナザレから、サマリア地方を通って、都エルサレムのあるユダヤ地方のベツレヘムに行く旅をしました。ヨセフの先祖がベツレヘム出身のダビデ王の家系だったからです。妊娠中の身重のマリアを連れて、四、五日はかかる旅でした。やっとベツレヘムに着くと、宿屋は満員で、泊まる場所がありませんでした。そこで、宿屋に付属する家畜を飼う小屋を借りました。二人がベツレヘムにいる間に、マリアは男の子を出産しました。赤子を布にくるんで、家畜の餌を入れる飼い葉桶を寝台にして寝かせました。 

この地方の<羊飼いの野>で夜通し羊の群れを守るために野宿しながら、見張り番をしていた羊飼いたちに天使が現れました。神の栄光が彼らを照らしたので、彼らは非常に驚きました。天使は、「今日ダビデの町にあなたがたのために救い主が生まれました。この方こそが神であられる

<メシア>です。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶

の中に寝ている乳飲み子を見つけるでしょう。これがあな

たがたへのしるしです」と告げました。

 天使が羊飼いたちに、救い主と誕生を告げると、突然、この天使に大軍が加わり、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と神を賛美しました。 

救い主誕生の<しるし>が<飼い葉桶に寝ている赤子>だというのです。<しるし>とは、神がなさる業や奇跡です。家畜小屋に、救い主の誕生が誕生するとは、とても信じられない出来事です。しかし、天使は、この<乳飲み子

>を、<主メシア>だと言いました。イエスの弟子たちは、復活したイエスが彼らに現れてくださったことによって、初めてイエスが神であり、罪からの救い主であることが分かったのです。弟子のペトロは、聖霊が降った日の説教で、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神はとし、またメシアとなさったのです」(使2・36)と語っています。

誕生した<主メシア>は、将来復活して、すべての者に永遠の命を与えて救う使命をもった主として生まれた、と天使は告げているのです。

 マリアは聖霊によって妊娠し、この赤子を産んだのです。まさに奇跡が起こったのです。メシア(救世主)は、ダビデ王の家系から、その出生地であるベツレヘムで生まれると、紀元前700年も前からイザヤやミカによって預言されていたことが起こったのです。この赤子は、ダビデ王の血筋にあたるヨセフの実子ではありません。神の独り子がマリアの腹を借りて、人間の子となって誕生したのです。ヨセフはイエスの親権者となり、イザヤの預言が実現しました。

 神はその独り子を極貧の中で、最も卑しい者として生まれさせました。この乳飲み子のうちに、神様の救いが隠されているのです。イエスは生まれたときから、人類の罪をあがなうための十字架の道を歩むのです。しかし、十字架の死で終わったのではありません。飼い葉おけの御子は、十字架の先にある救い主であることをも示しているのです。イエスは復活して天に上り、父なる神と共に、永遠の王として世を支配する方となり、弟子たちに聖霊を与えて罪に打ち勝つ力を与え、世の終わりまで共にいてくださる救い主となられたのです。天使たちは、飼い葉桶に眠る御子に、この神の救いを見通していたので、神を賛美したのです。

 主イエスがこの世に来られたことを、ヨハネ福音書は次のように記しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」このみことばは、本日の薄茶席の床の間の掛け軸にも書かれています。この言葉の次には、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。人生は死をもって終わるものではありません。死は天国へ行くための通過点です。

 自然の人は、神の霊に属するこの救い受け入れません。それは愚かなことであり、理解できないのです。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言えないのです。世の知恵によっては、神の子の誕生も、復活も理解できないのです。神は、世の知恵を愚かにされました。それは誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

 今年92歳になられた脚本家の橋田寿賀子さんが、「安楽死で死なせてください」というショッキングな題名の本を、8月に出版しました。橋田さんは、「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」のドラマ脚本家として有名な方です。9月26日に、NHKが「92歳の‘安楽死宣言’橋田寿賀子・生と死を語る」という、本人と談話する番組を放映しました。「家族がいれば、子どもや孫の成長を見届けたがったり、できるだけ生きて欲しいと望まれることでしょう。けれども、私は、夫に先立たれ、子どももなく、親しい友人もいない。天涯孤独の身の上です」と、橋田さんは言われました。橋田さんは戦争一色の青春時代をすごし、高卒後、親元を離れて、堺市から上京し、東大受験は失敗し、日大に入学しました。25歳で松竹に入社し、TBSのプロデューサの岩崎氏と結婚するも、平成元年に肺がんの夫と死別しました。橋田さんは、これまでなんでも一人でやってきた、と言われます。「人様に迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです」と彼女は言います。自殺ほう助が認められているスイスの民間団体「ディグニタス」への登録を考えているそうです。ネットで調べると、登録料は70万円です。日本人の会員は17人いるようです。橋田さんは、「生まれる自由はないのだから、せめて死の自由は欲しい」と言います。「これからは自分で死を選べる時代にならないと、みんなに迷惑をかけるし、自分もつらい」と言うのです。自立して生きようとする知識人としての橋田さんの死生観には、永遠の命にいきる希望は見られません。その姿は、いさぎよく、恰好よく見えるが、死をもってすべて終わってしまいます。

 近所の68歳の男性の方が、肺がんが転移して、胃がんで入院していることを、7月に知りました。8月のお盆までは、もたないと、奥様から聞きました。奥様と病院を訪ねて、本人にお会いしました。ただ死ぬ時を待つ身の暗い表情を目にしました。五、六回、見舞ううちに、お祈りさせてもらうようになりました。私は、次のような祈りをすることを勧めました。そして一緒に祈りました。

 「天の父なる神さま、私のような者をも愛し、すべての罪をお赦しくださり、永遠の命を与えてくださったことを感謝いたします。今、私は復活の命を与えられ、日々イエス様と共に生きていることを信じ、感謝いたします。すべてを神さまに、おゆだねして生きたいと思います。病気になり、世話になっている妻と、娘たち家族をこれからもお守りください。イエス様のみ名を通して祈ります。アーメン。」本人も、はっきりと「アーメン」と唱えました。8月17日に亡くなりました。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とは、このような救いにあずかることではないでしょうか。世を愛し、救いを与えるために来られたイエス様の誕生を感謝し、祝うのが、今日のクリスマス茶会です。

 

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「旧約における神の言」 エレミヤ書36章1~10節

2017-12-07 20:00:47 | キリスト教

                 ↑ ギュスターヴ・ドレ1832~1883(フランスの画家)「エレミヤの預言を記すバルク」(個人所有)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

   降誕前第3主日  2017年12月10日(日) 午後5時~5時50分

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編   19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)  エレミヤ書36章1~10節(旧p.1245)

説  教    「旧約における神の言」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   231(久しく待ちにし) 

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

 

           次週礼拝 12月17(日)午後5時~5時50分

            聖書  イザヤ書40章1~11節  

            説教題    「先駆者」

            讃美歌(21)231 441  交読詩編85篇

本日の聖書 エレミヤ書36章1~10節

 1ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。 2「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。 3ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」 4エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。 5エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。 6お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。 7この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」 8そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ。 9ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。 10そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々に読み聞かせたのであるが、それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった。

      本日の説教

    イザヤかが活動した後、73年後に再びエルサレムに偉大な預言者が現れました。それがエレミヤです。預言者エレミヤが召命を受けたのは、バビロニヤがアッシリアより独立し、勃興し始めた頃の紀元前627年です。預言者としての活動は、南ユダ王国が滅亡し、第二回目のバビロンへの捕囚があった紀元前586年頃まで、約40年間続きました。

   エレミヤが召命を受けたのは、ユダ王国の名君と言われたヨシヤ王(治世:紀元前640年~609年)の時代です。エレミヤや若者でした(エレミヤ書1章)エレミヤは、ユダ王国がバビロン捕囚という破局に向かって進んでいた時代に、預言者として神のことばを語ることを命じらました。

 エレミヤは、全力をあげてヨシヤ王の宗教改革(626年)を支えましたが、(エレミヤ書11章)、先頭に立つヨシヤ王が戦死したことによって改革は挫折し、ヨヤキム王の時代を迎えるころにはふたたび宗教が自由化され、偶像礼拝がはびこるようになりました。

 エレミヤはエルサレム神殿にて、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(エレミヤ記7・4)ときびしく非難し、このまま形ばかりの礼拝を続けるならば、エルサレムは滅亡するであろうと預言したので、人々の反感をかい、迫害されました(エレミヤ書26・8)。エレミヤの生涯のうちで、最も苦悩に満ちた時期でした。

 「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。 ……なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い生涯を恥の中に終わらねばならないのか」(エレミヤ書20・14、18)。迫害のために、涙にあけくれる日々が続いたが、それでも、孤独な戦いをやめませんでした。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、それは彼の味わった苦悩の深さを示しています。彼はつらい経験を通して神の御心を深く知り、神と一層親しく交わったのです。そしてついに、エレミヤは「新しい契約」という預言をするるに至りました。

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記すわたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ書31・31~33)。神が民と結ぶ契約ではなく、神が個人と結ぶ契約です。個人が自分自身の責任において神と出会い、「心に記された律法」に従って生きるという預言です。

 今日の聖書の箇所は、ヨシヤ王の子、ヨヤキム(治世:紀元前608年~598年)が、王になって四年目のことです。バビロニアの王ネブカドネツァルが即位した翌年です。

 主の言葉がエレミヤに臨みました。「わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を、巻物に残らず書き記しなさい」と言われたのです。「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」という主のことばでした。

 エレミヤ書35章12節以下に、イスラエルの民が、「悪の道を離れて立ち返り、行いを正せ。他の神々に仕え従うな。」という主のことばに耳を傾けず、主に聞こうとしませんでした。そのため、主はユダ王国と首都エルサレムの全住民に裁きとしての災いを送ることにしたことが記されています。

 エレミヤは書記のバルクを呼び寄せて、エレミヤの口述する主が語られた言葉をすべて巻物に書き記させました。エレミヤはバルクに命じました。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」と語りました。エレミヤが神殿に入ることを禁じられている理由については、神が神殿を破壊する預言(7章、26章)などの神の裁きを預言したために祭司たちの反発を招いたためと思われます。バルクは、32章12節にも登場するが、、年代的には。26章の方が先になります。32章1節のゼデキヤ王も、年代的にはヨアキム王より、二代後の王で、ユダ王国の最後の王(在位:紀元前597年~586年)です。

 そこで、バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読みました。ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出されたからです。この布告は紀元前604年の冬にあたります。そのとき、バルクは、エレミヤに言われた通りに、主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読みました。断食日の布告の理由は書かれていませんが、バビロニアの来襲による危機があったために、緊急時に布告されたものです。

 朗読が行われた場所は、シャファンの子ゲマルヤの部屋です。階上にあるこの部屋からは、下に集まる群衆を良く見渡すことができたと思われます。シャファンはヨシア王の書記官です。バルクは書記官や、すべての人々に読み聞かせたのですが、その部屋は主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにありました。

 11節~19節では、巻物が役人たち全員に読み聞かされ、さらに王に伝えられるに至ったいきさつを語っています。20節~26節では、巻物朗読に対する王の拒絶を語ります。王は巻物を切り裂いて燃やしました。預言の言葉を無力化しようとしたのか、あるいは、激怒の結果と思われます。27節以下には、新しい巻物に再び記した経緯について語ります。王が巻物を焼き捨てても、神の言葉が無に帰すことはありません。巻物はすべての言葉を元どおり記し、さらに追加を行いました(32節)。ヨアキム王に対する神の裁きの言葉が語られます。

  神は民の滅亡を望んでいるのではありません。預言者の言葉を警告として聞き、立ち返り、悔い改めるように招いておられたのです。民の側に残されたわずかな可能性に神がなお期待しておられたのです。しかし、今や、王家と、エルサレムの住民、ユダの人々に対する災いの預言は、以前のわずかながらも立ち返るかもしれない可能性を含むものから、断固として避けられないものになってしまいます。

 エレミヤの預言の言葉が、書記バルクによって巻物に記されたことを伝えるこの36章は、預言が文字化されて保存・伝承される経緯に関する貴重な証言となっています。かつて、モーセのときに十戒を刻んだ石の板が砕かれて、もう一度書き直さなければならなかった(申命記34・1)ように、エレミヤの預言を書き記した巻物も焼かれても、再び書き直されるのです。エレミヤもモーセのような預言者と見做されています。旧約の神の言葉は、預言者を通して語られましたが、それが巻物に記され、聖書となり、今日のわたしたちも、聖書を通して神の言葉を聞くことができる恵みを与えられていることに感謝しなければなりません。

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