富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神に属する者」 ヨハネの第一の手紙5章10~21節

2016-08-27 18:27:06 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

       週    報

    聖霊降臨節第16主日  2016年8月28日(日)  午後5時~5時50分

      礼 拝 順 序

 前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編   65(沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヨハネの第一の手紙5章10~21節(新p.446)

説  教    「神に属する者」     辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                 次週礼拝 9月4日(日) 午後5時~5時50分

                 聖書  ペトロの第二の手紙2章11~25節

                 説教   「上に立つ人々」

                 讃美歌(21)169 357 24 交読詩編 23篇

本日の聖書 ヨハネの第一の手紙5章10~21節 

 10神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。11その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。12御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

 13神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。14何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。15わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。16死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。17不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。18わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。19わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。20わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。21子たちよ、偶像を避けなさい。

    本日の説教

  5章6節以下には、次のようなことが言われています。イエス・キリストは、<水と血>とをとおってこられた方です、とあります。<水と血>をとおってこられた方とは、バプテスマと十字架の死を受けられ方である、ということです。つまり、イエス・キリストが完全に人間として生まれ、人間として死んだ、まことの人となられた方(受肉者)であるということです。イエス・キリストの十字架の死によるわたしたちの罪の赦し(罪をあがなう死)の事実を表すと同時に、この手紙の読者である信徒たちにとっても、現在、彼らがあずかるバプテスマと聖餐において生けるイエス・キリストとして、その人々の許に来ることが起こることを指し示していると考えられます。偽預言者たちのさまざまな異端の考え方が否定されています。

 その証し(確かであるという証明)をするのは、真理の御霊です。イエス・キリストという歴史的人物・その生涯を通しての示される聖霊の証しです。また。洗礼や聖餐という聖礼典において現在も確かめることができる、御子について立てられた証しです。<水>と<血>と<御霊>の三つが一致して御子について立てられた証しです。

 これは地上の証言ですが、神の証しはさらにまさっています。その内容については語っていませんが、福音書から類推すると、その証しの内容は十字架と復活であり、それを通して神とイエス・キリストと教会(弟子たち)とが一つであるここと考えられます。

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。」(10節)

 神の子を信じる人と神を信じない人とが対比されています。当然、イエスを神の子と信じる人は神を信じることになり、その人の内には水と血と霊との三つが働いていることを指しています。神が御子イエス・キリストを十字架につけてまで人々の罪を赦し、救おうとされたのに、その証しを信ぜず、神の愛を受け入れない人は、神を信じられず、その頑なさによって、神の証しを偽りだとし、神御自身を偽り者としていることになるのだと警告しています。

 「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」(11節)

 <その証し>の内容とは、イエスの十字架のあがないの死による罪の赦しと死者からの復活において、神が人間に与えてくださったのは<永遠の命>を生き始めるという恵みです。そして、<この命が御子の内にあるということです>。

御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」(12節)

 神と人との交わりが和解を得て回復されたのは御子イエス・キリストの贖罪(罪を赦すイエスのあがないの死)によるのだから、イエスぬきには永遠の命をもつことは出来ません。神とキリストと教会の一体性にある者は命をもち、それにあずかっていない者は永遠の命はありません。

 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(13節)

 この手紙の読者たちは、惑わす者や偽預言者たちの活動によっても、ある者たちのように教会から出てゆくことをせず踏みとどまった人々です。そのあなたがたにとってはその<永遠の命>を得ていることを悟らせ、その恵みの事実について気付かせることが手紙を送った動機であり目的だと述べています。

 永遠の命は終末において、将来与えられるものというのではなく、イエス・キリストがこの世に来たことによって始まった終末の時の中で、主イエスによって与えられる永遠の命に生かされるということであって、罪の結果としての死、滅びを経験しないということです。生きるにも、死ぬにも、イエス・キリストと共にあり、その命に与って生きるということです。

 「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(14節)

 <神の御心(みこころ)>に適う願いであるなら、どんな願いでも神は、その願い、その祈りを聞き入れてくださる、というのが神に対するわたしたちの確信です、と述べています。<神の御心に適う>とは、「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを、行っているから」(3・22)です。「その掟とは、キリストを信じ、互いに愛し合うことです」とあります。神に対するこの確信と信頼をもって祈ることができることはなんと力強い励ましでしょうか。このことを信じて忍耐深く祈り続けましょう。人間の自然的欲求の赴くままに何を祈ってもよいという事を意味してはいません。人間の欲望に奉仕する神は偶像です。

 「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(15節)

 人間にとって根源的な必要は神との交わりの回復でした。それを人間の罪が妨げていました。その罪を御子は取り除いてくださったのです。その根源的な必要、祈りを神は聞き届け、その願いをかなえてくださっておられます。そ

のことが基盤にあるので、他のすべてのことにおいても、<神に願ったことは既にかなえられていることも分かる>、というのです。

 「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。」(16節)

 <死に至らない罪>と<死に至る罪>とが対比されています。<死に至る罪>とは、おそらくキリストを否定する罪を言うようです。具体的には、反キリスト、惑わす者、偽預言者らとその輩を指しているようです。著者は少なくともこの罪人について祈ることを禁じていません。ヤコブの手紙5・19~20には、真理から迷い出た罪人を連れ戻す人は、「その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになる」と知るべきですとあります。

 <死にいたらない罪>を犯している兄弟たちへの執り成しの祈りが勧められています。弱さや無知や過失によって犯された罪に苦しむ人を見たら<願い求めなさい>と勧めています。キリスト者の交わりとは、このようなとりなし、またとりなされる祈りの交わりに他なりません。こうしてこそ罪人は<命>へと回復されるのです。

 「不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。」(17節)

<不義>とは、1章9節では、「自分の罪を公に言い表すなら、神は…罪を赦し、あらゆる<不義>から清めてくださいます」とあります。また、3章4節で言われているように、<不義>とは、法に背くことです。御子は罪を除くために現れたのです。

 次に、「わたしたちは知っています」と、三つの確信が語られます。

 「すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」(18節)

 第一の確信は、<神から生まれた者>は罪を犯さないということです。その根拠は、キリストが神と共にその人たちの中に住み一体となってくださるのだから、その保護により、悪魔も手をふれることができない、と言っています。

わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(19節)

  第二の確信は、わたしたちは<神に属する者>ですが、この世は悪魔と罪と死が支配している闇の世界です。しかし、この闇に打ち勝つ勝利がすでにイエス・キリストの十字架と復活によって確定されていることを信じ、そこに希望をおいて証し続けるのが神に属するわたしたちです。

神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(20節)

  第三の確信は、神の子イエスがこの世に来てくださって、<真実な方>である神を示し、神を知る力、すなわち御霊を与えてくださいました。そして信じる者は、この<真実な方>なる神の内におり、また、その御子イエス・キリスト>の内におると言うのです。神とキリストと教会との一体性がここでも明言されています。この方は、<真実の神であり、永遠の命>です、イエスを神とする告白があります。キリストもその本質においては、父なる神と区別はないことを表しています。

  「子たちよ、偶像を避けなさい。」(21節)

   最後に、<偶像を避けなさい>との勧めがなされます。<偶像>とは、神ならぬものを神として拝することです。旧約聖書の歴史は偶像崇拝との戦いでした。今ヨハネの教会において戦われているのも、神ならぬものを神とする異端との戦いなのです。そして、わたしたちの戦いもまた<偶像>との戦いです。この日本にはまことの神でない偶像が祭られ、偶像を拝する人が満ちています。神仏の偶像だけではなく、「貪欲(むさぼり)」また、偶像(コロサイ3・5)です。わたしたたちはこれらの偶像を避けなければなりません。

   信仰者は世に生きる現実は、罪の世のただ中で、きびしく、自分の弱さのために罪を犯す事態に引きずり込まれて悩み、失望することがあるかもしれません。しかし、信仰者は聖霊によって、「イエスは主である」と告白し、その罪を赦された者であり、洗礼において古い自分はすでに十字架につけられ、主イエスとともに死んで葬られ、主イエスの復活にあずかって新しい命に生きている者です。キリストと一体にされているゆえに、悪魔も手を出すことはできないことを覚えつつ、神に属する者として神の栄光を現す生涯を送りましょう。

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「新しい人間」 エフェソの信徒への手紙5章11~20節

2016-08-20 21:11:26 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

   週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第15主日   2016年8月21日(日)   午後5時~5時50分

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 220(日かげしずかに)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 エフェソの信徒への手紙5章11~20節(新p.358)

説  教   「新しい人間」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 461(みめぐみゆたけき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                    次週礼拝 8月28日(日) 午後5時~5時50分

                    聖書  ヨハネ第一の手紙5章10~21節

                    説教   「神に属する者」

                    讃美歌(21)214 521 24 交読詩編 65篇

   本日の聖書 エフェソの信徒への手紙5章11~20節

11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」15愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。16時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。17だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。18酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、19詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。20そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

   本日の説教

 この手紙は紀元80年代に編纂されました。著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場と、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があるからです。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。

    内容は、1章~3章の終わりまでが教理的部分であり、人類に対する神のキリストを中心とする偉大なる救いの御計画(1・3~14)と、キリストによるその実現と、さらにキリストの教会(1・23等)の意義が示されています。救いがただ恩寵のみによること(2・5等)、「この世で希望もなく神もなかった」(2・12)救われる前の<古い人>と、救われた後の<新しい人>との対比、人間の敵意という「隔ての中垣」(2・14)がただキリストの十字架のみによって取り除かれるということ等が説かれています。

 これらの基本的事実の確認を土台として、それに対する一般的なキリスト教の倫理が展開されています。4章以下がその実践的な教えです。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。

 ① 初めに4章17~24節で、バプテスマとの関連で、キリスト者の倫理生活の基礎づけを行っています。パウロは、「以前のような生き方、滅びに向かっていた古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません」と4章22,23節で勧めました。それは、<古き人>を脱ぎ捨てて「新しい人を着るべきである」の一言に要約されます。

 ② 4章25~32節では、その基礎づけを聖霊の面から行っています。「御霊に導かれた生活」について語ります。

 ③ そして次に,5章1~14節では、それを父なる神に愛されている者、すなわち神の子らの生活として、規定しています。

 ④  5章15~21節は、各論に入る前に、総論的に、キリスト者の生活を「互いに仕え合う」生活として簡潔に要約しています。その次に各論に入ります。

 ⑤  夫と妻(5・22~31)

 ⑥  親と子(6・1~4)

 ⑦  奴隷と主人(6・5~9)

 ⑧  信仰の戦いとその栄光に満ちた勝利について述べ、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励まし(6・10~20)、全体を結んでいます。

………………………………………………………………………………………………………………         

   今日の聖書の箇所は、5章6節の光の子として生きるようにとの勧めに続いています。

  実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。(5・11、12)

  <やみのわざに加わる>とは仲間にならないことを意味します。そのために必要なことは、や  みのわざを指摘し、それを明るみにだすことです。キリスト者の存在はキリストにあって光であり、やみの世界に影響力をもつ者となっているのです。神のことばは人間と世界の醜い状態を暴露し、いっさいをさらけ出すことの中で悔い改めに人を導きます。

  14節の眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

 これは罪と死との異教の眠りからさめるように、との呼びかけであり、キリストが彼の真実の救いの光を、回心者の上に照らすであろうという約束を伴っています。キリストの光が死と暗黒の中にいるものを新しいいのちの中によみがえらせるのです。

  5章15~21節は、リスト者の生活についての勧めです。 

  愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。(5・15)

 賢さとは神から与えられた知恵をもって生きることです。彼は正しく判断する能力をもち状況を観察し、決して自己の主観的感情に溺れません。彼はすでに「あらゆる不義と悪と貪欲と悪意」を捨て、新しい人を着たのです。ヤコブ(ヤコブの手紙3・13~17)も「上からの知恵」と「地上の知恵」とを分けています。上からの知恵は、<柔和、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません>。地上の知恵は、<ねたみや利己心、自慢や混乱、あらゆる悪い行い>です。

  時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(5・16)

  <時をよく用いる>とは、キリスト者は自分の<おわり>と向きあいつつ、残されたあらゆる機会を生かして用い、主の御心を実践することです。

  無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。(5・17)

 <分別のある者>とは、主のみ旨を悟っている者のことです。主の支配に完全に復するときに、主のみ旨は与えられます。私たちはキリストに服従しそこに生まれる信仰により自分を治めるのです。

   酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。(5・18)

 キリストへの服従は生活に歓喜をもたらし、判断と決断をより賢明にさせます。それは酒に酔う以上のすぐれた喜びを与えます。パウロは飲酒を禁ずるために酒に酔うなと言ったのではありません。御霊による喜びと陶酔を排除し、喜びの提供を手近なところに求める心根のいやしさを戒めたのです。 

  むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(5・19)

 「霊に満たされる」とは、私たちの霊と体が、全く御霊の支配のもとに置かれ、しかも常にそのような状態にあることです。教会で<詩編と賛歌と霊的な歌>があふれるだけでなく、日々昼も夜も、主に向かって心から歌い、賛美する生活を送ることが大切です。「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。」(詩編147・1)とあります。<語り合い>とは、共同の告白のもとに生きる教会の姿です。

  そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(5・20)

 このような生活には、父なる神に対する感謝が絶えることはありません。神が私たちに与えてくださるすべてのことについて、神に感謝しなければなりません。私たちは神に願い事の祈りを捧げることが多いのではないでしょうか。しかし、それ以上に常に神を第一に考え、神に感謝し、神を賛美することが大切ではないでしょうか。

  「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二、5・17)」

  滅びに向かっていた「古い人」を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、キリストに結ばれた「新しい人間」としての自覚に立ち、愛に根ざした正しい清い生活を送り、救いの御業が多くの人々に及ぶように福音を伝えていこうではありませんか。人を幸せにするのは、キリストと共に生きることであり、聖霊の働きをいただいて愛に生きることにあると思わせられます。

 

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「霊に従う生活」 ローマの信徒への手紙7章1節~6節

2016-08-14 16:24:26 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380                  FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第14主日   2016年8月14日(日)    午後5時~5時50分

  礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)

交読詩編   86(主よ、わたしに耳を傾け)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ローマの信徒への手紙7章1節~6節(新p282)

説  教   「霊に従う生活」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                                   次週礼拝 8月21日(日) 午後5時~5時50分

                                                     聖書  エフェソの信徒への手紙5章11~20節

                                                     説教   「新しい人間」

                                                     讃美歌(21)220 461 24 交読詩編 96篇

本日の聖書 ローマの信徒への手紙7章1節~6節

1それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。2結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。3従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。4ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。5わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。6しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

本日の説教

   パウロは6章で、罪の支配の問題と罪からの開放と自由について語りました。更に7章では、律法から解放されるときに救いがあることを語ります。

   今日の聖書の箇所は、信仰によって義とされた者が律法とその働きの下にはなく、聖霊の支配の下にあることを結婚関係の譬えを通して語っています。

  <律法を知っている人々>は通常ユダヤ人を指すが、この手紙の最初の読者の多くがユダヤ人でなかったことを考え合わせると、この<律法>は、ユダヤ教の律法に限定されず、より広く「法律で定められている秩序を指す」と考えられます。当時の婚姻法によれば、妻は夫の生存中はこれにしばられているので、他の男性と関係を持てば姦淫罪となるが、夫が死ねばそういう束縛から解放されるというわけです。

   律法そのものは聖であるので、律法そのものが、罪ではありません。律法は人間を不自由にするために、人間を規則にがんじがらめにする目的ではなく、突き詰めれば、神の愛のあらわれです。逆に不自由さや、規則からの解放を願っているのです。律法が罪を引き起こすのは、私たちの律法に対するかかわり方であり、それが「律法主義」だからです。「律法主義」は、法律、戒律さえ守っていれば良いとし、神から罰を受ける事はないとし、見せ掛けだけの行いに終始する生き方です。問題なのは、そのような律法主義的な私たちの生き方でです。私を死へ導く「律法主義」、そして、その様な生き方を引き起こす「律法そのもの」の死について、どうしても語らければならないのです。そのために、パウロはここでは「律法の死」を夫の死になぞらえて語ったのです。「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた」のです(10・4)。

 律法主義に対する私たち日本人の問題は、完全無欠な行為が出来ないことは分かっているが、より完全な人間になろうとする努力を、神は望んでおられるのではないかと考える人が多いことです。そうした努力さえしない人間を神が救ってくださるはずがない、と考えるのです。自分のつつましい努力を、救いの権利の資格として捉えることになり、結局は自分の行為によって義を得ようとする、神の前に自分を誇ろうとする罪がそこに潜むことになるのです。行いの実行に頼る人は、だれも神の前で義とされないことは明らかです。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」(申命記27・26)と書いてあるからです。なぜなら「正しい者は信仰によって生きる」からです(ガラテヤ3・11)。私たちが救われるのは、不信心な者を義としてくださる神を信じて救われるのです。ただ、一方的な神の恵みを信じて救われるのです。

   7章4節からは、視点を変えて、律法の死ではなく、律法的な生き方をしていた「私」の死について語ります。信仰者は<キリストの体>を通して起こったこと、つまり十字架において起こり、洗礼において実現する「からだの死」を通して律法に死んだのだから、もはや律法にはしばられない、という主張です。私たちは律法に対して死んでいるから、律法は私に何の権利もない、ということです。律法に対して死んだ私たちは、死者の中から復活した主イエスのものとなり、神に対して実を結ぶようにされたのです。

   5節に「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」とあります。この<肉に従って生きている間>というのを、ほとんど人は直感的に肉体的欲望とか肉欲とかというふうに解釈してしまいます。パウロが「肉にある」というとき、それは「古き世にある」ということと同じで、律法の支配の下にあることを言い、律法によって生きようとする所、そこに罪が猛威を振うのだということを語っているのです。<罪へ誘う欲情>とは、私たちの自尊心をくすぐる様にして、駆り立てる空しい自分の義の追及のことです。問題は神に対して心を開かないで、いつも自分を中心にして、自分の求める義を求め、自分の義を立ててしまう生き方です。それは死のために実を結ばせることでしかないのです。

「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

  6節は、この肉の生に対比される形で霊の生が語られます。本来律法は神の律法です。その律法を通して、その文字を通して、神の語りかける声を聞かなくてはならないはずです。「殺すな」という文字を通して、「兄弟に対して怒ってはならない」と言う、神の声を聞かなくてはならないはずなのです。しかし、自分の義を求める人間は、そうした他者の声を聞かず、律法を表面的な文字に限定し、固定化してしまい、生ける神に仕えることはしないのです。

   従って、律法から解放されるのは、<律法の文字に従う古い生き方>から解放されることなのです。聖霊に従って生きる時、「外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされて」(コリント二、4・16)いきます。霊によって生きる場合には、もはや今までの自分とらわれず、絶えず自分を捨てていくことができます。自分を捨てていくことが容易になる時、私たちは新しい生き方で神に仕えるようになるのです。このように、キリストの十字架によって私たちが律法から解放される所に、真の生命と力が働くのです。キリストが支配する生の結果として出てくるものを<霊の実>として、ガラテヤ書5章19節以下に肉と霊を対照させています。

 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」

 

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永眠者記念礼拝「復活と命の主イエス」 ヨハネによる福音書17章17~27節

2016-08-13 21:31:11 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12                                                     TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 永眠者記念礼拝  2016年8月11日(日)   午後2時~2時40分

礼 拝 順 序

前 奏          奏楽 辺見トモ子姉 

招 詞 「主をたたえよ。日々、わたしたちを担い救われる神を。この神はわたしたちの神。主、死から解き放つ者。」(詩編68篇20-21節)

讃美歌(21) 382(力に満ちたる)

交読詩編   84(万軍の主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヨハネによる福音書17章17~27節   (新共同訳p.189)

説  教   「復活と命の主イエス」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 532(やすかれ、わがこころよ)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

  呈茶 2時40分~3時 茶室の方で、薄茶(抹茶)を喫してお休みください。

  墓参 3時に宮城霊園の富谷教会墓地へ参ります。現地で4時前に解散の予定です。

               本日の聖書 ヨハネによる福音書11章17~27節

 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

    説 教

永眠者記念礼拝」とは、神に召されて亡くなった方々を覚えて礼拝することです。昨年までは、11月の第一日曜日の「聖徒の日」に近い11月3日の文化の日に、富谷教会では、「永眠者記念礼拝」と墓参を行っていましたが、今年は、学校が夏休み中のお盆の入り日に近い、今日の「山の日」の祝日に実施することにいたしました。

 「永眠者」の<永眠>という言葉は、<永い眠り>という意味で、<永遠の眠り>という意味ではありません。「召天(しょうてん)者」とか、「逝去(せいきょ)者」という呼び方をする教会もあります。亡くなった方々の魂が既に主なる神様のもとに迎えられ、主イエスと共にある平安を与えられています。ステパノは、死の直前、聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言いました。死の瞬間、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と叫びました。こうして魂は「主のもとに住む」(コリント二、5・8)、「労苦から解かれて、安らぎを得る」(ヨハネ黙示録14・13)のです。この礼拝は、亡くなった方を思い起こして礼拝するということに留まらず、亡くなった方々が、天にあって、私たちと一緒に礼拝しておられることを覚えて、天にある者も、地にある者も、神を礼拝するのです。

詩編84は、亡くなった者が、天に迎えられ、神を賛美することができたなら、どんなに幸いなことかを詠っています。「命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。…いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら(詩編84・3,5)」とあります。 

 今日の聖書の箇所は、ベタニアに住むマルタにイエスが「復活と命の主」であることを教えます。ベタニアは、エルサレム近郊の村で、オリーブ山の東南の麓にあり、エルサレムまでは3㎞の距離にあります。ベタニアにはイエスが愛したラザロとその姉妹マルタとマリアが住んでいました。イエスの一行がベタニアの村に最初行かれたとき、マルタはイエスを迎え入れ、接待で忙しくしていたとき、マリアは主の足もとに座って、イエスの話に聞き入っていたことが、ルカ福音書10章38~42節に記されています。

 その後、兄弟のラザロが死んで墓に葬られ、四日もたったとき、イエスが来られました。マルタはイエスを迎えに行き、イエスに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言いました。しかし、主イエスが病を癒す方であることは信じていても、死の力をも克服する方であるとは信じてはいないことが次の会話で明らかになります。

 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言うと、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。

  当時の多くのユダヤ人は、この世が終わる日まで死人は眠っていて、その終わりの日に死人の復活と神の審判あると信じていました。マルタはそのことを知ってはいたが、イエスに「あなたの兄弟ラザロは復活する」と言われても、現在ラザロが復活することは考えられないのです。そこで、イエスは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われました。「生きていてわたしを信じる者はだれも死ぬことはない」というのは、この世で死ぬことがないというのではなく、主イエスによって与えられる永遠の命に生かされるということであって、罪の結果としての死、滅びを経験しないということです。生きるにも、死ぬにも、イエス・キリストと共にあり、その命に与って生きるということです。そこに、真の慰めがあるのです。イエスが復活と命の主であることを知った姉のマルタは言いました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と告白しました。この後、マルタもマリアも、イエスがラザロを生き返らせたことを目撃しました。ラザロのよみがえりの出来事は、主イエスが復活であり、命であることを示された最後のしるし(奇跡)でした。

 イエスが死を覚悟してエルサレムに行く前に、マリアは、十字架につかれるイエスの死を予感して、イエスの足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪の毛でその足を拭き、イエスに対する信仰行為を表しました。ベタニアはイエスが地上での最後の日々の夜を過ごした村でした(マルコ11・11~12)。

 神の御子イエス・キリストは、この罪と死の支配するこの世に来られ、十字架の死によるあがないによって人間の罪を赦し、陰府(よみ)にまで降って、死を打ち破って復活し、天に昇られました。イエスは最後の晩餐の席で、私たちのために「場所を用意しに行く」と言われました。イエスは私たちに復活と永遠の命を与えてくださる神の子です。

 使徒信条にも主イエスの再臨を待ち望む信仰が告白されています。世の終わりの時、キリストが来られて、「生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。…罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず」とあります。しかし、身体のよみがえり・復活という出来事は、もはや遠い将来のことではなくて今既に自分の中に起きていることなのです。

  聖霊を与えられ、主イエスと共に生きる者とされた私たちは、世の終わりに起こる「身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)」を、現在、聖霊によって保証され、そのよみがえりの命に生かされているのです。パウロは「わたしは…世を去る時が近づきました」と語り、「今や、義の栄冠を受けるばかりです」と言っています。その後に「審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」と言っています。<かの日>とは、終末の審判の日です。パウロはこの日を遠い将来の日とは思っていません。審判の日に復活の霊の体を与えられるまでを「眠りにつく」、「眠っている」と言う表現がありますが、「目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるために」、主はわたしたちのために死なれたのです(一テサロニケ5・10)。イエスが十字架上につけられたとき、両脇に犯罪人も十字架につけられました。その一人の犯罪人が「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と頼みました。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。あなたは今日、わたしと一緒に神の祝福と喜びに入る、と約束されたのです。主イエスを信じる者の死は、天の御国への凱旋なのです(テモテ二、4・18)。

 この福音を聞いて加藤さんご夫妻や私の兄も、その生涯を終えました。人生は死をもって終わるものではありません。亡くなった方々は、この世にある私たちにとって、<しばらくの間の眠り>であります。主イエスの再臨の日、私たちは、キリストと顔と顔とを合わせてお会いすることになり、愛する人たちとの再会があります。その時には、神を賛美し、手と手をとり合って共に喜びに溢れるでしょう。その喜びを奪い去る者はだれもいません。死に勝利させてくださる十字架と復活の主と、御子を世に送って下さった父なる神に感謝をささげましょう。

   祈 り

 聖なる天の父よ、きょうわたしたちは過ぐる日にみもとに召された兄弟・姉妹を覚え、世におられた日をしのび、ご遺族の方々と共に、今は天の主のみもとにおられる兄弟・姉妹覚えつつ、共に永眠者記念礼拝をささげることができましたことを感謝いたします。どうか、ご遺族の方々をはじめ、わたしたちにも、主の慰めとみ恵みとを豊かに与えてください。兄弟、姉妹が世にあったとき、主にある交わりを与えられ、共に主の恵みあずかったことを深く感謝いたします。今は主のみもとに受け入れられ、平安と祝福とのうちにあることを信じて、み名をあがめます。わたしたちも兄弟姉妹のよい模範にならい、主の備え給う道を歩む者とならせて下さい。  救い主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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「神のために力を合わせて働く」 コリントの信徒への手紙一、2章10節~3章9節

2016-08-06 20:51:22 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どお

り永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第13主日  2016年8月7日(日)  午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 561(平和を求めて)

交読詩編  127(主御自身が建ててくださるのでなければ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 コリントの信徒への手紙一、2章10節~3章9節(新p.301

説  教   「神のために力を合わせて働く」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                次週礼拝 8月14日(日) 午後5時~5時

                聖書  ローマの信徒への手紙、7章1~6節

                説教   「霊に従う生き方」 辺見宗邦牧師

                讃美歌(21)343 475 24 交読詩編87篇

本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、2章10節~3章9節

2章10節 わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。11人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。12私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。13そして、わたしたちがこれについて語れるのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊によって教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。14自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。15霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。16「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、私たちはキリストの思いを抱いています。3章1兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。2私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。3相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。4ある人が「私はパウロにつく」と言い、他の人が「私はアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。5アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。6私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。7ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。8植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。9私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

  本日の説教

 当時コリントの教会には、さまざまな道徳上の問題や分派争いがありました。コリントからエフェソにいるパウロのもとにやってきた人々からコリントの教会の事情を聞き、さらに具体的な問題に関する質問もあったので、パウロがさっそく書いたのがこの手紙です。

 コリントの教会における分派争いの根本原因は、人間的なことを神よりも重大視したところにありました。彼らの中には、<パウロにつく>人々や、<アポロにつく>人々がおり、なかには、<キリスト派>という分派がありました。このような分派争いは、「キリストの十字架を無力なもの」にしてしまうと、パウロは厳しくいましめました。

 コリントの教会には社会的に身分の低い人々が多くいました。パウロは、党派をつくって知恵のあるようにふるまっている人々に対して、神は知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び、地位ある者を無力な者とするために選ばれ、救われたのだ、と説きました。それは、だれ一人神の前で誇ることがないようにするめだ、と説いたのです。

  パウロは、アテネでは知恵や工夫をこらして語りましたが、伝道は失敗しました。それでコリントでは、「巧みな知恵のことばによらないで、霊と力との証明によって」伝道することを決意しました。人々から嘲笑されても、キリストの十字架以外のことは語るまいと決心したのです。信仰による真の知恵を生まれながらの人間はうけつけません。その知恵を、パウロは神の与える<霊の賜物>と呼んでいます。このような真の知恵を私たちに示すのが<キリストの十字架>以外にないことをパウロは知ったのです。

わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(2章10節)

 <わたしたち>とは、パウロを含む<神を愛する者たち>です。<そのことを明らかに示した>とは、神の隠された真の知恵です。十字架につけられたキリストが<栄光の主>(2・8)であるという知恵です。そのことを、神はわたしたちに神の霊によって明らかにされました。この世の知者や支配者たちが、この知恵を理解していたなら、<栄光の主イエスを十字架につけはしなかったでしょう>。

 <神の霊>、<神からの霊>(2・10)は、神を信じる者の<内に宿る>(ローマ8・9)霊でもあります。パウロはローマの信徒への手紙で、神の霊は人間の全生活を新たにする力として説いています。しかしこの場合は、それは人間の心に入って、すべての事、<神の深み>さえも探り知るに働きをするというのです。被造物も知ることのできない神の人類に対する計画を示し教えるものは、実にこの神の霊の外にはないのです。

人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(11節)

 ちょうど個々人が考えていることは、その人以外に知ることができないように、神のみが神についての真実を知り、伝えることができるのです。この深い神の真実を知る霊が、私たち信仰者に与えられているのです。

私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(12節)

  私たちは、<この世の霊>ではなく、<神からの霊>受けました。それで私たちは、<神から恵みとして与えられたもの>、すなわち、神がキリスト・イエスを通して人類に授け給う救いの恵みを悟るようになりました。しかるに世の多くの人々はこの神の恵みを知りません。

そして、わたしたちがこれについて語れるのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊によって教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」(13節)

 この<神からの恵み>・福音は個人の胸の中に、あるいは小さな教会の内に秘めておくべきではありません。ひろく万民に伝えなければならない喜びの音信です。<これについて>大胆に語れるのも、<人の知恵に教えられた言葉による>のでも、人間的な弁舌の技巧によるものでもありません。神の霊感を受けつつ語る言葉によらなければなりません。<御霊の賜物について語る>場合には、<御霊の教える言葉>以外には語ることができません。

 「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(14節)

 <自然の人>・生まれながらの人は、神の霊から離れて、自然の状態で生きており、真理を知らないで生きています。<自然の人>の心は、霊に属する福音の宣教を受け入れません。なぜならそれは愚かに聞こえるからです。彼は霊的真理を理解できないからです。霊的真理は霊によって判断されるべきだからです。

 「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(15節)

 人は神の霊を受けることによって、すべてのものを正しく判断するように導かれます。この世界と人間、自己自身を含めてそれらがいかなる者お権威のもとに置かれているかを洞察し、現実的に、公正に「すべてのものを判断します。しかしその人は、生まれながらのだれからも判断されません。<生まれながらの人にとって、その人は謎的存在(「愚か」)になるのです。

 「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、私たちはキリストの思いを抱いています。」(16節)

  パウロはイザヤ書40章13節を引用します。「主の心を測りうる者があろうか。だれもいない」という否定的な答えを仮定しています。神の霊以外に神の深みをうかがい知る者は誰もいません。私たちキリスト者は霊を受けたのだから、「キリストの思い(霊)を抱いている」のであり、私たち、霊を受けた者が知っているのです。

 パウロは<信仰の成熟した人たち>(2・6)の間では知恵を語ります。それは<隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたしのために栄光を与えるために、世の始まる前から定められていた知恵です>。パウロは<信仰の成熟した人たち>を<霊の人>と呼びます。パウロはコリントの教会の人たちには、<霊の人>に対するように語ることが出来ませんでした。パウロは彼らに<肉の人>、つまり<乳飲み子>に対するように語ったのです。彼らは信仰的に未熟でした。彼らの間に<ねたみや争いが絶えないのは、まだ<肉の人>なのです。彼らは聖霊によって心を動かされ、福音を信じる者となり、キリスト教の基本の教えについては一応知識を得ていたが、一向に神の奥義を知るに至らず、ただの人として歩んでいる<肉の人>にすぎない人たちでした。

 コリントの教会には、自分たちは成熟した霊的な人物であると自負する高慢な<霊的熱狂主義者>と言われる人たちがいたのです。パウロは、その人たちに対してあなたがたは、霊的に未熟な「肉の人」だと非難したのです。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」と戒めています。

  <ねたみ>とは、ささいなことをめぐってコリントの人々がねたみをもって口論していた、というのではなく、恐らく宗教的熱心さで、真剣な神学的理解や、宗教的実践をめぐる教会を分裂させるような問題で争っていたのです。しかし教会内で争い、不統一をもたらす党派は、<霊の人>ではなく、<肉の人>だと言うのです。コリントの人々は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」という党派意識を持っていたのです。コリントの人々は「この世」の基準に従って判断し、行動していたので、教会に分裂が起こったのです。パウロはこのようなコリントの信徒を批判し、「キリストの思い」を抱かせ、彼らの霊的な誇りを戒めたのです。

 パウロは、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と語りかけます。彼らは作物を植えたり、耕す務めを与えられた農業労働者です。パウロは最初に現場に到着し、コリントに教会を建てました。そしてアポロは後から来て、作物に水をやりました。しかしおのおのは神から割り当てられた務めを果たしたに過ぎません。彼らの努力は神から指示と能力を与えられなければ、全く役に立ちません。農業労働者はやるように言われたことはできるが、種を芽生えさせることはできません。それは神の不思議な力によるのです。福音の言葉を根づかせ、信仰の生きた共同体を生じさせるのは、神です。「植える者と水を注ぐ者は一つです」とは、この人々の努力が一つの農作業を補い合うということです。協力、団結を強調したパウロは、同時に各自の個性、個人的責任を認めています。

  教会は神の畑なのです。大切なのは、豊作をもたらす作物の栽培です。教職者も信徒も神の畑を協力して耕すように働くのではなく、なわばり争いに巻き込まれることを避けなければなりません。神のために力を合わせて働く者でなければなりません。

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