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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第20主日 2016年9月25日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)
交読詩編 65(沈黙してあなたに向かい)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 コリントの信徒への手紙二、5章1~10節(新p.330)
説 教 「永遠の住み家」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 10月2日(日) 午後5時~5時50分
聖書 フィリピの信徒への手紙1章12~30節
説教 「キリストにある生」
讃美歌(21)194 518 24 交読詩編 73篇
本日の聖書 コリントの信徒への手紙二、5章1~10節
1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 3それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。 4この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。 5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。 6それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 8わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
本日の説教
今日の聖書の箇所は、死について書き出しています。すでにコリントの第一の手紙15章で死と復活について教えてています。「この死ぬべきものが死なないものを必ず着る」とか、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着る」(一、15:52)という表現をしています。
コリント第二の4章においても、7節以下でわたしたちの体を「土の器」にたとえ、その壊れやすい「土の器」に偉大な神の力を納めていると語りました。パウロは謙遜の意味で自分のことを「土の器」と呼んでいるのではありません。パウロにとって「土の器」とは、神によって自分が砕かれ、醜いもの、弱いものとされていくとき、宝である力強い十字架の主を宿すのです。それで、いつもイエスの死を体まとっているが、それは死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるためであり、イエスと共に復活にあずかるためです、と語っています。
16節以下では、わたしたちの体を「外なる人」と呼び、わたしたちの霊を「内なる人」と呼んで、「外なる人」は衰えていくとしても、「内なる人」は日々新たにされていく、と教えています。
「外なる人」としての肉体は、弱いもろい土の器です。この外なる人が衰えていき、日々、死へ向かっていても、「内なる人」は日々新たにされていく、と書いています。老いゆく肉体を持ちながら、霊的に成熟していくことの大切さを教えています。外的な肉体のみの人間を考えるならば、衰え滅びる存在ですが、霊的な見方からするならば死は終わりではなく、死の向かうに、永遠の栄光を受ける、キリストにある自分を見ているのです。
4章の終わりの18節以下では、わたしたちの肉体を「見えるもの」、霊的なものを「見えないもの」としてとらえ、「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」のですと教えています。
多くの人は死を苦しみや悲しみとしてとらえています。死を恐れこそすれ、その死を越えて先を見ようとはしません。そして、死んだらすべては終わりだという考えにとらわれていまうす。自分の罪のゆえに、本当に死を恐れるとき、自分の罪の大きさとその赦しのありがたさを初めて経験できるのです。そして罪の赦しの喜びを自己のものとさせていただき、死を恐れず、見えない世界へ向かって旅立つことができるのです。
パウロは5章の1節以下で、信仰者の肉体から離れる死をわかりやすく説明するために幕屋と建物を例にとって説明します。死とは仮の住居である幕屋(テント)から去って、人手によらない建物(住居)に移ることだと説明します。わたしたちの滅びゆく体を<地上の幕屋>にたとえて語り、人間の魂の行く家は人間の手で作られたものではない、神による本建築の家であるというのです。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(5:1)
コリントの人々は、死についてギリシャの哲学思想の影響を受けていました。肉体は魂を閉じ込める墓場や牢獄と考え、死によって魂は肉体の束縛から自由にされるという考えが支配的でした。聖書では肉体を神の被造物と見做しています。肉体を嫌悪してはいません。なぜなら肉体は聖霊を宿す宮だからです。死とはそのままで救いではなく、キリストの生命によって克服されるべきものでした。パウロは、死は、聖霊の宮とされているテント住まいから神の用意した永遠の住み家に移るという教えを新しく説かなければならなかったのです。
パウロは、自分が使徒の務めを果たすことに落胆しない理由を明らかにし、希望の内容をさらに明確にしようとします。<地上の住みかである幕屋>とは、朽ちていく人間の体のことです。朽ちることのない霊の体は永久に変わらない建物にたとえられています。人間の体を<地上の幕屋>と呼ぶことによって、その弱さ、はかなさ、不安定さを表現しています。<幕屋が滅びても>は、人間の死を意味します。人間は天上の家を目指して歩むのです。そこには、<人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか>が備えられています。それは霊の身体、復活の身体の約束を説明しています。このことがパウロの地上における仕事の支えになっていました。第一の手紙15章では、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(一、15:53)と表現しています。パウロは復活信仰を持っていたからこそ苦難の中で毅然として生きていけたのです。死後直ちに霊の体を与えられるとは述べていません。
次に「家」のたとえから「着物」のたとえに移ります。
「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」(5:2)
新しい霊のからだを<着る>、<上に着る>と言い表しています。キリスト者は栄光を約束され、ひごとに新しくされて生きるのですが、なお地上では救いの完成を待ち望んでいます。新しい霊のからだを着ることを切望しつつ、<地上の幕屋にあって苦しみもだえています>。死後、この上に完全な永遠の衣服を着たいためです。コリントの信徒に対して、パウロは「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願う」生き方で、死に対する恐れから解放される生を教えたのです。この地上では罪の体からあがなわれることを願って、わたしたちは苦しみもだえているのです。パウロが本当に考えていたことは、家が与えられることではなく、「神の子」としての身分を与えられること、そして何よりも、今はおぼろげに見ているイエスを顔と顔とをあわせるように身近に仰ぎ、そしていつまでも神の身許におつかえできる者となることでした。
2節は、ローマ書8:23の<被造物だけではなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます>につながる表現です。
「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」(5:3)
その地上の体を、着物を脱ぐように脱いでも、裸のままではおりません。神が新しい、復活の体を与えてくださるからです。
「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(5:4)
<重荷>とは、パウロが負っている患難であり、人生の人生の悲しみの重荷です。死もまた大きな重荷です。<脱ぐ>というのは肉体をかたわらにおくということで、<着る>というのは永遠の住み家に入ることです。死ぬべきものがより高い存在の状態に引き上げられるのです。使徒は人生の重荷に悩みもだえるよりも、この永遠の住み家にあずかること切に慕うことにもだえているのです。
4節の<天から与えられる住みかを上に着たいからです>は、フィリピ3:20~21にかけての、<キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです>と同じ内容です。
「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(5:5)
私たちのすべては神の前では裸同然です。パウロにとって死は恐怖でした。自分のこれまでしてきたこと、あるいは、しなかったことに対して、どんな申し開きをすることができるのだろうか。何とかして自分の裸をおおいたい、そして何とかして死の恐怖を乗り越えたい。これが、神と共にある御国を熱望したパウロの課題でした。
パウロは言います。このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、人間の力によるものではなく、必要な資格は神によって与えられたものです。イエス・キリストを信じる信仰によって罪の赦しを与えられ、神の子とされ、同時に罪を悔いる砕けた魂へと変えられ、心の潔さを与えられました。そういう魂に神は御霊を送って下さり、私たちに「アバ、父よ」と叫んで神に近づく喜びを与えてくださるのです。こういう御霊の執り成しがあるので、私たちは、こんな罪深い者にも拘わらず、自分が神のものであることを確信できるのです。そして、そのように確信できるからこそ、死を越えてイエスの身許に迎えられることを確信できるのです。私たちは祝福された永遠の命という栄誉の確かな保証として、神から聖霊を与えられているのです。<保証>は、売買契約を結んだ際に支払われる手付金の意味もあるが、前もってそれを味わうという意味もあります。5節を、エフェソ1:13~14では、<あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです>と表現しています。
「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。」(5:6)
永遠の住みかを信じるパウロの心には、安心感と信頼信とがあります。その確信の力は聖霊の内住からくるものです。しかし、この地上の体を住み家としているかぎり、完成された神の国に生きているのではなく、なお待望の歩みをしています。
「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」(5:7)
現在は復活の主を直接見ることはできず、ただ信仰によって主との交わりを許されているのです。
「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」(5:8)
聖霊の保証を与えられているので、わたしたちは心強い。にもかかわらず、使徒の究極の願いは、この世を離れ、この体を離れて、キリストと共にいることを願い求めているのです。
8節の願いは、フィリピ1:23の言葉を連想させます。「……一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」
「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(5:9)
だから、生きるにしても、死においても、主に喜ばれる者となることを願いつつ生きるのが、キリスト者の歩みなのです。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(5:10)
テント生活から神による建物に移されるとき、裁きの座に立たねばならないことをパウロは説いています。パウロは「わたしたちは皆」と、自分を含めて信仰をもつ者みな、キリストから審判を受けなければなあないことを説いています。
死後イエスと共にいることが、パウロの死に対する恐れをなくしていることがわかります。しかし、死において裁きがある、ということが人々から忘れ去られようとするとき、パウロは裁きの事実をつきつけています。しかし、「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(一、3:15)とあるように、裁きとともに赦しも備えられていることを約束しておられるのです。人が救われるのは信仰によるのであり、その人の行為によるものではありません。おそらくパウロがここで意味したことは、人間のなした善悪に対してそれ相当報いが与えられるということであって、人間のなした善悪に基づいて神から義とされるというのではありません。信者といえども裁きから除外されるのではないということは、現世において身をつつしむことが求められているのです。信仰者は罪と戦い、神に服従し、義と愛の実を結ぶ生活に歩むのです。パウロはわたしたちが、「キリストの日に備えて清い者、とがめられるところのない者」(フィリピ1:1)となるようにと祈っています。
わたしたちが世の生まれたのは、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するためです。こうして人生を過ごし、やがて年老いていきます。からだは衰えていきます。上智大学の学長をされ、1977年に亡くなったホイヴェルス神父の書いた「人生の秋に」という本のなかで、神父が故郷の南ドイツに帰った時、友人からもらった「最上の業」という題の詩が紹介されているそうです。その詩の一部を紹介します。「……弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。…こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌(祈り)はできる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。」 孤独となり、内にこもり、外との関係が失われているように見えても、イエス様がわたしたちと共にいてくださるのです。たとえ、何もできないような状況であっても、祈ることが許されているのです。
わたしたちは、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」(コリント二、4:12)、という生き方を与えられています。神の愛とキリストの愛を受けながら、神のもとに迎えられる喜びに生きる信仰を与えられていることに感謝いたしましょう。