富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「永遠の住み家」 コリントの信徒への手紙二、5章1~10節

2016-09-25 01:00:14 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会        週 報

聖霊降臨節第20主日  2016年9月25日(日)   午後5時~5時50分

 礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編   65(沈黙してあなたに向かい)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 コリントの信徒への手紙二、5章1~10節(新p.330)

説  教   「永遠の住み家」     辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                   次週礼拝 10月2日(日) 午後5時~5時50分

                                   聖書  フィリピの信徒への手紙1章12~30節

                                   説教   「キリストにある生」

                                   讃美歌(21)194 518 24 交読詩編 73篇

 本日の聖書 コリントの信徒への手紙二、5章1~10節

  1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 3それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。 4この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。 5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。 6それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 8わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

       本日の説教

   今日の聖書の箇所は、死について書き出しています。すでにコリントの第一の手紙15章で死と復活について教えてています。「この死ぬべきものが死なないものを必ず着る」とか、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着る」(一、15:52)という表現をしています。

   コリント第二の4章においても、7節以下でわたしたちの体を「土の器」にたとえ、その壊れやすい「土の器」に偉大な神の力を納めていると語りました。パウロは謙遜の意味で自分のことを「土の器」と呼んでいるのではありません。パウロにとって「土の器」とは、神によって自分が砕かれ、醜いもの、弱いものとされていくとき、宝である力強い十字架の主を宿すのです。それで、いつもイエスの死を体まとっているが、それは死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるためであり、イエスと共に復活にあずかるためです、と語っています。

  16節以下では、わたしたちの体を「外なる人」と呼び、わたしたちの霊を「内なる人」と呼んで、「外なる人」は衰えていくとしても、「内なる人」は日々新たにされていく、と教えています。

  「外なる人」としての肉体は、弱いもろい土の器です。この外なる人が衰えていき、日々、死へ向かっていても、「内なる人」は日々新たにされていく、と書いています。老いゆく肉体を持ちながら、霊的に成熟していくことの大切さを教えています。外的な肉体のみの人間を考えるならば、衰え滅びる存在ですが、霊的な見方からするならば死は終わりではなく、死の向かうに、永遠の栄光を受ける、キリストにある自分を見ているのです。

  4章の終わりの18節以下では、わたしたちの肉体を「見えるもの」、霊的なものを「見えないもの」としてとらえ、「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」のですと教えています。

   多くの人は死を苦しみや悲しみとしてとらえています。死を恐れこそすれ、その死を越えて先を見ようとはしません。そして、死んだらすべては終わりだという考えにとらわれていまうす。自分の罪のゆえに、本当に死を恐れるとき、自分の罪の大きさとその赦しのありがたさを初めて経験できるのです。そして罪の赦しの喜びを自己のものとさせていただき、死を恐れず、見えない世界へ向かって旅立つことができるのです。

   パウロは5章の1節以下で、信仰者の肉体から離れる死をわかりやすく説明するために幕屋と建物を例にとって説明します。死とは仮の住居である幕屋(テント)から去って、人手によらない建物(住居)に移ることだと説明します。わたしたちの滅びゆく体を<地上の幕屋>にたとえて語り、人間の魂の行く家は人間の手で作られたものではない、神による本建築の家であるというのです。

 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。(5:1)

  コリントの人々は、死についてギリシャの哲学思想の影響を受けていました。肉体は魂を閉じ込める墓場や牢獄と考え、死によって魂は肉体の束縛から自由にされるという考えが支配的でした。聖書では肉体を神の被造物と見做しています。肉体を嫌悪してはいません。なぜなら肉体は聖霊を宿す宮だからです。死とはそのままで救いではなく、キリストの生命によって克服されるべきものでした。パウロは、死は、聖霊の宮とされているテント住まいから神の用意した永遠の住み家に移るという教えを新しく説かなければならなかったのです。

  パウロは、自分が使徒の務めを果たすことに落胆しない理由を明らかにし、希望の内容をさらに明確にしようとします。<地上の住みかである幕屋>とは、朽ちていく人間の体のことです。朽ちることのない霊の体は永久に変わらない建物にたとえられています。人間の体を<地上の幕屋>と呼ぶことによって、その弱さ、はかなさ、不安定さを表現しています。<幕屋が滅びても>は、人間の死を意味します。人間は天上の家を目指して歩むのです。そこには、<人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか>が備えられています。それは霊の身体、復活の身体の約束を説明しています。このことがパウロの地上における仕事の支えになっていました。第一の手紙15章では、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(一、15:53)と表現しています。パウロは復活信仰を持っていたからこそ苦難の中で毅然として生きていけたのです。死後直ちに霊の体を与えられるとは述べていません。

  次に「家」のたとえから「着物」のたとえに移ります。

 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。(5:2)

    新しい霊のからだを<着る>、<上に着る>と言い表しています。キリスト者は栄光を約束され、ひごとに新しくされて生きるのですが、なお地上では救いの完成を待ち望んでいます。新しい霊のからだを着ることを切望しつつ、<地上の幕屋にあって苦しみもだえています>。死後、この上に完全な永遠の衣服を着たいためです。コリントの信徒に対して、パウロは「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願う」生き方で、死に対する恐れから解放される生を教えたのです。この地上では罪の体からあがなわれることを願って、わたしたちは苦しみもだえているのです。パウロが本当に考えていたことは、家が与えられることではなく、「神の子」としての身分を与えられること、そして何よりも、今はおぼろげに見ているイエスを顔と顔とをあわせるように身近に仰ぎ、そしていつまでも神の身許におつかえできる者となることでした。

    2節は、ローマ書8:23の<被造物だけではなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます>につながる表現です。

   それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。(5:3)

  その地上の体を、着物を脱ぐように脱いでも、裸のままではおりません。神が新しい、復活の体を与えてくださるからです。

  「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。(5:4)

  <重荷>とは、パウロが負っている患難であり、人生の人生の悲しみの重荷です。死もまた大きな重荷です。<脱ぐ>というのは肉体をかたわらにおくということで、<着る>というのは永遠の住み家に入ることです。死ぬべきものがより高い存在の状態に引き上げられるのです。使徒は人生の重荷に悩みもだえるよりも、この永遠の住み家にあずかること切に慕うことにもだえているのです。

  4節の<天から与えられる住みかを上に着たいからです>は、フィリピ3:20~21にかけての、<キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです>と同じ内容です。

 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。(5:5)

  私たちのすべては神の前では裸同然です。パウロにとって死は恐怖でした。自分のこれまでしてきたこと、あるいは、しなかったことに対して、どんな申し開きをすることができるのだろうか。何とかして自分の裸をおおいたい、そして何とかして死の恐怖を乗り越えたい。これが、神と共にある御国を熱望したパウロの課題でした。

  パウロは言います。このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、人間の力によるものではなく、必要な資格は神によって与えられたものです。イエス・キリストを信じる信仰によって罪の赦しを与えられ、神の子とされ、同時に罪を悔いる砕けた魂へと変えられ、心の潔さを与えられました。そういう魂に神は御霊を送って下さり、私たちに「アバ、父よ」と叫んで神に近づく喜びを与えてくださるのです。こういう御霊の執り成しがあるので、私たちは、こんな罪深い者にも拘わらず、自分が神のものであることを確信できるのです。そして、そのように確信できるからこそ、死を越えてイエスの身許に迎えられることを確信できるのです。私たちは祝福された永遠の命という栄誉の確かな保証として、神から聖霊を与えられているのです。<保証>は、売買契約を結んだ際に支払われる手付金の意味もあるが、前もってそれを味わうという意味もあります。5節を、エフェソ1:13~14では、<あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです>と表現しています。

  「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。(5:6)

  永遠の住みかを信じるパウロの心には、安心感と信頼信とがあります。その確信の力は聖霊の内住からくるものです。しかし、この地上の体を住み家としているかぎり、完成された神の国に生きているのではなく、なお待望の歩みをしています。

 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。(5:7)

  現在は復活の主を直接見ることはできず、ただ信仰によって主との交わりを許されているのです。

  「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。(5:8)

  聖霊の保証を与えられているので、わたしたちは心強い。にもかかわらず、使徒の究極の願いは、この世を離れ、この体を離れて、キリストと共にいることを願い求めているのです。

     8節の願いは、フィリピ1:23の言葉を連想させます。「…一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

  「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。(5:9)

  だから、生きるにしても、死においても、主に喜ばれる者となることを願いつつ生きるのが、キリスト者の歩みなのです。

  なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(5:10)

   テント生活から神による建物に移されるとき、裁きの座に立たねばならないことをパウロは説いています。パウロは「わたしたちは皆」と、自分を含めて信仰をもつ者みな、キリストから審判を受けなければなあないことを説いています。

  死後イエスと共にいることが、パウロの死に対する恐れをなくしていることがわかります。しかし、死において裁きがある、ということが人々から忘れ去られようとするとき、パウロは裁きの事実をつきつけています。しかし、「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(一、3:15)とあるように、裁きとともに赦しも備えられていることを約束しておられるのです。人が救われるのは信仰によるのであり、その人の行為によるものではありません。おそらくパウロがここで意味したことは、人間のなした善悪に対してそれ相当報いが与えられるということであって、人間のなした善悪に基づいて神から義とされるというのではありません。信者といえども裁きから除外されるのではないということは、現世において身をつつしむことが求められているのです。信仰者は罪と戦い、神に服従し、義と愛の実を結ぶ生活に歩むのです。パウロはわたしたちが、「キリストの日に備えて清い者、とがめられるところのない者」(フィリピ1:1)となるようにと祈っています。

    わたしたちが世の生まれたのは、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するためです。こうして人生を過ごし、やがて年老いていきます。からだは衰えていきます。上智大学の学長をされ、1977年に亡くなったホイヴェルス神父の書いた「人生の秋に」という本のなかで、神父が故郷の南ドイツに帰った時、友人からもらった「最上の業」という題の詩が紹介されているそうです。その詩の一部を紹介します。「……弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。…こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌(祈り)はできる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。」 孤独となり、内にこもり、外との関係が失われているように見えても、イエス様がわたしたちと共にいてくださるのです。たとえ、何もできないような状況であっても、祈ることが許されているのです。

   わたしたちは、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」(コリント二、4:12)、という生き方を与えられています。神の愛とキリストの愛を受けながら、神のもとに迎えられる喜びに生きる信仰を与えられていることに感謝いたしましょう。

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「日本の茶道へ及ぼしたキリスト教の影響」

2016-09-22 12:16:39 | キリスト教

  「日本の茶道へ及ぼしたキリスト教の影響」 

                                                      茶道裏千家終身正会員    辺見宗邦(むねくに)(茶名:宗邦(そうほう))

 1 「茶の湯」と「茶道」と言う言葉

   茶を飲む風習は、奈良時代に遣唐使や中国から日本へやってきた僧たちによってもたらされました。「茶の湯」という言葉が使われるようになったのは、15世紀半ば(応仁の乱前)頃からと言われています。それまでは「茶(ちゃ)湯(とう)」という用語が用いられていました。16世紀に入ると「茶の湯」が庶民にひろまり、中国的な名称の「茶湯」という言葉は次第に使われなくなりました。江戸時代初期になると、茶の湯は場所や道具よりも精神性が重視されるようになり、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った"道"に発展し、「茶道(さどう)」と呼ばれるようになりました。このように中国から伝えられた茶の風習は、日本で独自の発展を遂げ、日本の風土や日本人の心情に合った伝統文化としての茶道となりました。「茶道」は正称で、「茶の湯」は雅称ないし愛称とされ、両者が併用されて今日に至っています。最近では「茶道」は稽古、すなわち修行に、「茶の湯」はもてなしに重きをおいた表現として用いられてます。

 2  茶の湯とキリスト教の出会い

    茶の湯とキリスト教との最初の出会いは、安土桃山時代、和泉(いずみ)(国(のくに))と呼ばれていた大阪府の堺市で始まりました。日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルが堺の茶人日比屋了慶(ひびやりょうけい)(了桂)の家を訪ねたことに始まります。現在堺市には、天文19年(1550年)に堺に来たイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルを、手厚くもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡につくられた「ザビエル公園」があります。毎年10月の第3土日に開催される「堺まつり」では、堺の表千家、裏千家、武者小路千家が一堂に会した「利休のふるさと・堺大茶会」の会場となっています。このザビエル公園から真南に五百メートルほどの所に、堺の商人で茶道を大成した千利休(1522年生、1591年没)の屋敷跡(宿院町西一丁)があります。また、ザビエル公園の近くには、キリシタン大名として有名な小西行長の生家跡や同じく堺の豪商で千利休の茶道の師である武野紹鴎(1502年生、1555年没)の屋敷跡があります。

    カトリック教会の修道会の一つである、イエズス会員のフランシスコ・ザビエルは布教のため、東インド(ポルトガル領インド)に派遣されましたが、マラッカで、日本人アンジローと出会い、アンジローを案内役として、同僚のトルレス(神父)、フェルナンデス(修道士)を伴い鹿児島に上陸したのは、天文18年(1549)8月15日のことでした。

    ザビエルは、天皇に謁見し、布教の許可を得たいとの思いから、上京のため船旅に出ます。天文19年(1550)の暮れ、ザビエルが堺の町に入ったとき、その面倒を見た人が、堺の豪商であると同時に、茶人でもあった日比屋了慶の父でした。了慶は貿易にたずさわり、当時珍しかった瓦葺き木造三階建ての屋敷に住む大豪商でした。京都へ行ったザビエルでしたが、応仁の乱(1467~1477年)による戦禍で京都市中は焼け野原であり、後奈良天皇の権威は失墜し、布教の許可を得ることも出来ず、わずか11日の滞在であきらめて堺へ帰りました。それから1ヶ月あまりザビエルは了慶の屋敷に滞在しました。当然、茶の湯のもてなしを受けたものと思われます。ザビエルは日本滞在2年3ヶ月で中国に向かいます。

 3 ザビエル以後の宣教師の活動と茶の湯の関わり

    ザビエルが日本を去った後、八年後の永禄二年(1559年)十月には、ヴィレラ神父が堺の町にやって来ました。このときのヴィレラにはロレンソ、ダミアンなど三人の日本人が従い、彼らが通訳をかねていました。了慶はこのときも布教を応援しました。永禄4年(1561年)八月にヴィレラが再び堺の地にやって来ました。了慶の屋敷は櫛屋(くしや)町にありましが、屋敷内の三階建の建物を、了慶は聖堂にあてて宣教師を宿泊させ、自らも洗礼を受けて洗礼名をディオゴと称し、日比屋家の人々もそのほとんどが入信しました。それ以来一年間、ヴィレラは日比屋家に滞在し、日中は布教に当っていました。1563年12月には、了慶」の屋敷でクリスマスが行われたといわれています。永禄7年(1564年)十二月になると、今度はアルメイダとフロイスが豊後からやって来ましたが、これを迎えたのもやはり了慶でした。アルメイダが、同年の暮に、北河内(きたかわち)の飯盛城に滞在するヴィレラに会うため堺を離れることになったときなどは、了慶はアルメイダを茶事に招いて別れを惜しんだと言われています。こうして了慶は堺における切支丹の先駆であったと同時に、多数の茶人を切支丹に導く上でもおおいに力を尽したのでした。

    ザビエルが了慶の家に滞在した時、利休は28歳でした。利休も堺の商人です。了慶の屋敷から500mの所に千利休の屋敷がありました。了慶と利休は茶人仲間であり、互いの交流がありました。了慶の屋敷内の聖堂で、宣教師が畳の上でミサの儀式を行うのを見て、そのミサに強い影響を千利休は受けたと思われます。

 4 日比屋了慶の家でのキリシタン茶会

    了慶の家でキリシタンとしての茶の湯が行われていたことは、ルイス・フロイの「日本史」に記されています。茶の湯と西洋人が(それは宣教師でありましたが)初めて出会った感想が書き残されています。時は1565年2月、堺の商人日比屋了慶の屋敷にはルイス・アルメイダという碧眼の修道士が逗留しており、日比屋了慶の家は堺のキリシタンの中心となっていました。都をめざしていたアルメイダ修道士はひどい風邪のため、日比屋の家で一ケ月療養し、いよいよ出発という時、了慶は茶会を催(もよお)して送りました。アルメイダ修道士はこのように書き残しています。

   【これが行われる場所は、この儀式のためにのみ入る特定の室で、その清潔さ、造作、秩序整然としていることを見ては驚嘆に価します…私たちがきわめて清潔な敷物である優美な畳の上に坐りますと、食事が運ばれ始めました。日本は美味の物産が乏しい国ですから、私は差し出された食物を賞讃しませんが、その席での給仕、秩序、清潔、什器は絶賛に価します。そして私は日本で行われる以上に清潔で秩序整然とした宴席を開くことはあり得ないと信じて疑いません。と申しますのは、大勢の人が食事をしていても、奉仕している人々からはただの一言さえ漏(も)れ聞こえないのであって、万事がいとも整然と行われるのは驚くべきであります。食事が終ってから、私たち一同は跪いて我らの主なるデウスに感謝いたしました。こうすることは、日本のキリシタンたちの良い習慣だからです。ついでディオゴ(了慶の洗礼名)は手ずから私たちに茶を供しました。それは既述のように、草の粉末で、一つの陶器の中で熱湯に入れたものです。】(ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史1』中央公論社、2000年 255頁以下)

    西洋人が初めて茶会に招かれた時に感動が、このアルメイダの手紙から伝わってきます。キリシタン日比屋了慶の茶会は、いわゆる懐石料理・感謝の祈り・亭主による手前の順に進んでいまして、キリシタンたちが中立ちの時に祈祷会をもっていたことがわかります。これは清潔で整然とした儀式のような茶の湯に、キリスト教の宣教師が驚きをもって出会ったということです。

 5 千利休(せんのりきゅう)(1522~1591)とキリスト教

    キリスト教が日本に伝わって来た時代と、茶道が確立された時代はほとんど重なります。客とともに抹茶を楽しむ茶の湯は、鎌倉時代に宋から伝えられました。中国(宋)で臨済禅を学んだ栄西が茶の種とともに、茶の湯の道具、礼式を持ち帰ったことから、寺院での茶の儀式が行われるようになりました。それ以来、茶の湯は禅宗と結びついて発展しました。

    室町時代には書院の茶となり、戦国時代には、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、武野紹(じょう)鴎(おう)により、唐物の高価な茶器のかわりに日常雑器を茶の湯に取り入れた、質素な茶室で静かに茶をたのしむ「わび茶」が生まれました。

    安土桃山時代になって、わび茶の大成者となる千利休が茶の湯の世界に登場し、活躍を始めます。当時茶の湯は武士の嗜(たしな)みであり、客人をもてなす社交として重んじられていました。利休は17歳で茶道を志し、58歳の時信長に茶頭(ちゃがしら)として仕え、続いて70歳まで秀吉に茶頭として仕えました。静けさの中にも活動力を潜めた侘(わ)び茶は、戦国の世にあって下剋上の気風を求めた活動的な武士に支持されました。キリスト教の伝来と普及の時代だったので、多くのキリシタン大名が生まれました。1553年(天文21年)から,1620年(元和6年)の67年間に、キリシタンになった大名は87人(洗礼名が分かる大名は66人)に及びます。当時のキリシタン人口は15万とも22万とも言われ、キリシタン大名が三割に達していました。利休の七人の高弟のうち、明らかに高山右近、蒲生(がもう)氏(うじ)郷(さと)、牧村兵部(ひょうぶ)の三人はキリシタン大名でした。古田織部はキリスト教の理解者でした。このようにキリスト教の広まりが茶道に影響を与えたのは当然のことと思われます。

    了慶の屋敷で宣教師が行うミサの儀式を観察したと思われる利休は、ミサという「聖なるもの」と同一になるという精神性に、自分の進むべき道を見出し、自らの茶の湯の中心にその所作を取り入れたのではないかと推察されています。利休の考案したにじり口は「狭き門より入れ」という言葉を想起させますし、世俗と切り離された茶室という空間で、身についた全てを捨て去り、ただ亭主と客というだけの関係の中で、茶の湯の亭主は、さながらミサにおける司祭のごとく儀式を司っているようにも見えます。

    宣教師として日本に来ていたフロイスやロドリゲスは京都や堺や安土で、利休をはじめ多くの茶人と親交をもちました。彼らは茶道の影響を受けました。ザビエルから三十年後に来日した巡察使のヴァリニヤーノは、すべてのカザ(修院)に茶の湯の場所を設け、かつ茶の心得のある日本人の同宿(宣教師に補佐する役)を置かなくてはならない、特に立派な人々が集まるところではそうするようにという通達を出しました。

 6 ミサと茶の湯のどんなところが似ているのか

    武者小路千家14代家元千宗守氏は、かつてヨハネ・パウロ二世教皇あての書簡に,「私は京都のカトリック系の学校に通っていたころを思い出します。すでに茶の湯の心得があったので、チャペルでのミサに出席するときも、茶道との共通点を少なからず発見しました。…司祭だけでなくキリシタンの武士や商人を相手に、千利休が語りあう機会は多かったはずです。妻(後妻(ごさい)おりき)と家族(娘)も信者であり、ミサにあずかっていたと思われます。ただし自身は、利休がキリスト教徒だとは公言していません。…茶道への新たなとりくみを模索していた千利休は、ミサという最後の晩餐の再現に深い感銘を受けたのだと、私は考えます。」と書いています。個々の所作において、双方がそっくり同じであるというわけではありません。千利休は、ミサにおける個々の所作を真似たというよりは、ミサの所作に触発されたものを、茶の湯の点前の流れに合うように取り入れていったと言うのが正確かもしれません。どのようなものがミサにおける所作と似ているのかローマ・カトリック典礼書をもとに見てみましょう。茶の湯では、まず亭主が食籠(じきろう:菓子器)を持ち出し、食籠を主客に預け客は食籠に盛った菓子を取り回していく作法があるわけですが、ミサにおいてもパテナ(聖体皿)に置いた聖体(水と小麦粉だけで作られた「種なしパン(イースト菌の入っていないパン)」)を取り回しして頂く所作があります。茶の手前では、茶碗の中に茶巾を入れ、茶筅を真ん中に入れ、その右に茶杓を伏せて置き、仕組んで、茶室に運び出しをするわけですが、ミサにおいてもカリスと呼ばれる杯を仕組んで運び出しをします。濃茶の作法で男子同士の場合、茶を頂いた後茶碗と出し(だし)袱紗(ぶくさ)を畳の上に置き、右手で懐紙で飲み口を拭き、次客に手渡しますが、ミサにおいてもカリスの飲み口を拭いて順次手渡していく所作があります。この濃茶の飲み回しの事を「吸い茶」と言いましたが、この「吸い茶」は利休が始めたとされています。利休がまだ27歳の天文17年の頃は、濃茶の飲み方は、決して飲みまわすものではなく、一人一人への各腹だてでした。「吸い茶」の記録は、天正14年の茶会記に初めて出てくるのです。
 また、帰ってきた茶碗に湯を入れ回してすすぎ、湯を建水に捨ててから、茶巾で茶碗を拭きますが、ミサにおいても拝領が終わったあとパテナを拭き、カリスに水を注いですすぎ、プリフィカトリウム(清掃布)で拭く所作をします。他にも、茶道のしぐさの多くはミサのしぐさと共通したものが多くあります。利休は、茶室を世のものから分離された静かな場所、身分に関わらず誰もが平等で、互いを尊敬しあうところにしようとしましたが、それはキリスト教の精神に基づいてのことでした。

    千宗守氏はバチカン宮殿で先のローマ法王ヨハネ・パウロ二世に謁見したとき、「茶の湯の中心であります濃茶席における飲み回しというものは、利休が堺においてキリシタンバテレン(神父)の行うミサの儀式を取り入れたものである」という説を述べられたとのことです。これはミサのおり、ぶどう酒のカップを、司祭と助祭とで回し飲みすることからヒントを得たものでしょう。

   茶道裏千家の先代家元、千宗室氏は、茶庭の二重路地は、利休が秀吉に仕えた10年間に考案されたとし、茶室のにじり口は利休の創作だと言われています。露地の中門も狭い門であり、にじり口も狭い入口です。「狭い門から入れ」(マタイ福音書7:13)の聖書の言葉に通じると言っています。

 7 キリシタンの茶道具

    キリスト教と茶の湯は、想像以上に密接な関係をもっていたと言えます。ホスチア(=聖餅)とよばれる小さな丸い種無しパンを入れる聖餅箱に蒔絵を用いたり、調度品をはじめ彼らの好みのものを職人に作らせることによって、南蛮の意匠、思想が取り入れられ、東西文化の融合の結晶として新たな工芸品が生まれました。それらが茶人たちに影響を与えたことは否定できません。教会あるいはキリスト教を信仰する大名の特注茶道具、洗礼盤、聖水瓶、燭台、向付、皿などが作られ、十字架文(もん)(印)が明瞭に描かれています。古田織部の指導で作られた織部焼には、十字のクルス文、篦(へら)彫りの十字文が茶碗・鉢に施されています。 また、織部灯籠は、「十字灯(どう)籠(ろう)」または「切支丹(きりしたん)灯籠」とも呼ばれています。

 8 キリスト教への弾圧と払拭

  以上考察してまいりましたように、キリスト教は日本の茶道に大きな影響を及ぼしたことは否定できません。しかし、慶長7年(1612年)徳川幕府によるキリシタン禁教令の発布により、260年に及ぶ日本全土へのキリスト教の弾圧と排除により、茶道に及ぼしたキリスト教の影響も全く払拭されたかに見えました。明治6年(1873年)になり、キリシタン禁制の高札は撤去され、ようやく茶道に及ぼしたキリスト教の影響が取り上げられるようになりました。今日、茶道にキリスト教が深く関係していることを、裏千家、武者小路千家等のお家元も公に認めるようになりました。

 9 おわりに

  キリスト教は、その精神面でも茶道に大きな影響を与えているのです。かつての切支丹(きりしたん)の茶人たち、特に高山右近のように、キリスト教の精神に根ざした茶道を復活させたいと心から願わざるを得ません。主イエスが最後の晩餐で弟子たちの足を洗い、仕えたように、亭主が客に徹底して仕える茶の湯の道は聖書に通じています。キリスト者が茶の湯に親しみ、床に聖書のみことばが書かれた掛け軸を掛け、神のみ声に耳を傾ける霊的な聖潔の場とすることは、茶道の精神にかなうものです。茶花を野にある花のように花入れにかざり、「野の花を見よ」と言われたイエス様のことばを思い起こし、また、静寂のうちに、一椀のお茶を共に一座の人と味わい、神が共にいます恵みに感謝する、そのような交わりの場、親交の深め方がなされてこそ、今後の茶道の隆盛があり、発展があるのではないでしょうか。

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「キリシタンの世紀と迫害について(特に東北地方)」

2016-09-20 08:11:29 | キリスト教

       ↑ カトリック水沢教会(岩手県奥州市水沢区大手町)作成

「キリシタンの世紀と迫害について(特に東北地方)」

             宮城県富谷市、富谷教会牧師 辺見宗邦

  キリシタン>という言葉は、ポルトガル語のキリスト教徒を意味するcristão[クリスタゥン]を音写したもので、漢字では切支丹の字が当てられました。日本では、戦国時代、天文18年(1549年)にイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルや、その後、フランシスコ会、ドミニコ会によって伝えられたキリスト教を信じるカトリックの信徒を、キリシタンと呼びます。

  鹿児島への初めての布教から40年余りで戦国大名の中にキリスト教を保護または改宗するものが現れます。これがキリシタン大名です。特に有名なキリシタン大名は、大分の大友宗麟、長崎の大村純忠、長崎港を開港した日野江城主・有馬晴信、大阪府高槻城主・高山右近父子、熊本県の宇土城主・小西行長、福島県会津城主・蒲生氏郷などです。

  初めての布教から50年後の頃はキリシタン信徒は30万人、伊達政宗が支倉常長をローマに派遣する頃は50万人であったと言われいます。天下を取った織田信長は、天正7年安土に教会や神学校の建立を許可し、伴天連を優遇しました。

 ザビエルの渡日(1549年)から、鎖国(1633)までの、およそ一世紀は「キリシタンの世紀」とも呼ばれており、キリスト教は民衆の支持を得て脅威的に増えました。

 当時、全国には200近い班があり、そのうち60以上もの領主(大名)がキリシタンになりました。

 しかし、豊臣秀吉が天正5年(1587年)に、九州攻めの後、突然<伴天連(神父・司祭)追放令>を出します。この時、高山右近も棄教を迫まられ、大名の地位を捨てて、一時身を隠します。加賀藩の前田利家の招きで、匿われることになります。

 秀吉が伴天連追放令を出した理由は、キリスト教が、ひとつは封建主義にとって相容れない領主(関白・太閤・天皇等)以上の絶対的存在を説くこと、もうひとつはこの頃から強化された身分制度の否定(神の御名において万民は平等である)につながる思想であったこと、そして一向宗に悩まされた経験からの宗教勢力の早期排除であるとされています。長崎港が南蛮(スペイン・ポルトガル)に植民地化されていると危惧したことも原因と考えられています。

 江戸時代の初め、実権をにぎる徳川家康が、慶長18年(1613年)に、二代将軍秀忠の名で全国に<キリシタン禁教令>を出します。それから、260年後の明治6年(1873年)に、明治政府がキリシタン禁制の高札を撤去し、キリスト教を解禁するまで、棄教をしないキリシタンは、仏教徒を装い隠れキリシタンとなりました。

 元和2年(1616年)将軍秀忠が、キリシタン禁令の高札を全国に設置し、禁制を強化します。キリシタンへの宗教弾圧は苛烈を極めます。当初は流刑程度であったものが斬首刑・磔刑・火刑が次々と執行される。処刑人数は不明ですが、およそ全国で4000人~5000人と言われています。

 東北での本格的なキリシタンの宣教は、1611年、伊達政宗がルイス・ソテロを仙台に招いたことによって始まります。1614年1月(慶長18年12月)徳川幕府の「伴天連追放令」が発せられ、京阪で迫害が始まります。同年4月、畿内のキリシタン71人が津軽に追放されました。こうした追放者や、避難した信徒たちが東北地方で布教し、各地に信徒の群れが出来ました。東北地方の宣教は迫害により散らされた信徒たちと、生命をかけて牧会を続けた神父たちの苦難によるものでした。

 東北布教の最盛期は、支倉常長がイスパニア派遣されていた時期の1613年~1620年で、伊達政宗の家臣後藤寿庵のいる水沢を拠点にして津軽、秋田、南部、最上、米沢など東北各地への宣教が行われました。

 東北地方[陸奥(むつ)]では、ドミニコ会は、エルキシア神父。フランシスコ会は、ガルペス、バラハス、クルス、サンフランシスコ、アンドレ、オゾリオ神父が、仙台ー会津ー山形ー米沢ー庄内を巡回し伝道しました。イエズス会は、アンシュリス、アダミ、カルヴァリヨ、ディエゴ結城神父、ジュアン修道士、マルチノ式見神父、ポルドゥーノ、ポルポ神父、カスイ岐部(きべ)神父が、会津―仙台ー弘前ー秋田(久保田)ー南部ー米沢ー二本松ー白河を巡回し、伝道しました。東北の信徒数は2万人~3万人

 宮城県の富谷市を含む黒川郡地方は、元和(1615~24)・寛永(1624~44)の迫害がようやくキリシタンに加えられたころ、仙台領内にイエズス会、フランシスコ会の二派が存在し、互いに布教活動をしていた。ソテロの死亡後ディエゴがフランシスコ会の担任となり活躍した。ディエゴが黒川郡吉岡、富谷地方のキリシタン衆に宛てた書簡が、大正時代に仙台で発見され、現在はローマ・ヴァチカンにある。書簡の日付は寛永5年(1628)4月16日で、全文が日本語で書かれている。

 この書簡の宛名は、石積衆、大童衆、前野衆、沼田衆、檜和田衆、吉岡衆、成田衆、渡戸衆、長芝(長柴)衆の9ヶ所であり、寛永5年にはこれらの地方にキリシタンが存在していたことを証明している。また、昭和38年(1963)6月、東京の聖三木修道院長チークリス神父によって、ローマ博物館からの新発見資料が届けられた。これによって黒川地方にかなり多数のキリシタンが元和(1615~24)のころ存在していたことが証明された。黒川郡関係の部分を紹介すると、元和3年(1617)10月18日に、一関村・三関村・石積村のキリシタン数は350余名。主だった15人の個人名も記されている。この書簡によって仙台領内に7ヶ所の教会が存在したことや、教会の代表的信徒の名がわかる。

 富谷地方にキリシタンが隆盛を見た理由として、支倉六右衛門の影響が大であったからとされている。常長は帰国2年後に病死したことになっているが、黒川郡大谷村の東成田西光寺で余生を送ったとも言われいる。当時この地方に支倉氏の領地があったことも無縁ではないようである。 常長の実父である常成が、政宗から領地50余町を賜り、同郡大森邑(村)に住み、その後同郡富谷下の原里に移っている。富谷原区の奈良木付近にあったとされている。

 仙台でキリシタン弾圧のあった元和6年(1620年)には日本の人口が2300万人、そのうちキリシタン信徒が75万人であったと言われ、当時の人口の3パーセントに近い人々がキシタン信徒でした。ここまで驚異的に増えたのはなぜでしょうか。当時は戦国時代ですが、このような戦乱時代、神の愛と赦しを信じ、永遠の命に生きる、平和の宗教であるキリスト教が新たな救いとして入信者を増やすことになったと思われます。 

 東北の六県の殉教者は1176人に、のぼりました。そして、500人(内家臣が40人)が潜伏キリシタンになりました。宮城県(仙台藩)の殉教者は550人、岩手県(南部藩)は154人、青森県(津軽の弘前藩)は88人、秋田県(久保田藩)は126人、山形県は合計161人(山形藩は39人、米沢藩は74人、庄内藩は25人、新庄藩10人)です。福島県は合計97人(会津藩は58人、二本松藩14人、白河藩は16人)です。

 キリシタンにとって教義に殉じて死を迎えるものは栄光ある死であり、高貴な死であるとされ殉教者として讃えられたため、改宗拷問が行われることになります。拷問には水牢責め、火炙りなどが用いられる凄惨を極めるものでした。

 1837年(天保8年)、大籠村(現在の岩手県一関市藤沢町大籠)のキリシタン類族が絶えたことになっていますが、昭和60年頃、四国地方で大籠村の隠れキリシタンの所持していた厨子が発見されたことにより、1645年(正保2年)から1871年(明治4年)までの226年間、右衛門他の隠れキリシタンがいたことが分かりました。厨子の中には、十字の印(しるし)が付いた抹茶茶碗や、十種類のキリシタン遺物が納めてありました。

 明治6年、キリスト教が解禁されたとき、長崎の浦上のキリシタン信徒数は1万5千人を数えました。

 ローマ帝国のネロ皇帝は、紀元64年に起こったローマの大火の犯人をキリスト教徒になすりつけ、キリスト教徒を迫害しました。それ以来たびたび迫害が続き、キリスト教徒はカタコンベ(地下の墓所)に逃れました。キリスト教が公認されるのは、紀元313年、コンスタンティヌス大帝のミラノの勅令によってです。ネロ皇帝以来、実に249年を経た後のことです。そしてヨーロッパ全土にキリスト教が波及し、キリスト教の国々となるのです。

 日本の場合は、キリスト教弾圧は、さらに10年も長い260年間続いたのです。殉教者を最後まで支えたのは聖霊による主イエスでした。殉教者は主の尊い証人となったのです。必ず日本にリバイバルが起こる日が来るでしょう。 主イエスによる神の国は来たりつつあります。 

  

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「神の救いのご計画の深い富と知恵」 ローマの信徒への手紙11章28~36節

2016-09-17 23:24:14 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本キリスト教 富 谷 教 会

                          週    報

聖霊降臨節第19主日  2016年9月18日(日)   午後5時~5時50分

                      礼 拝 順 序

                  司会 永井 慎一兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  37(いと高き神に)

交読詩編  139(主よ、あなたはわたしを究め)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ローマの信徒への手紙11章28~36節(新p.291)

説  教   「神の救いのご計画の深い富と知恵」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 165(心をつくして)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

           次週礼拝 9月25日(日) 午後5時~5時50分

           聖書  2コリントの信徒への手紙5章1~10節

           説教   「永遠の住み家」

           讃美歌(21)204 579 24 交読詩編 65篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙11章28~36節

 28福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 29神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。 30あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。 31それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。 32神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 34「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。 35だれがまず主に与えて、
その報いを受けるであろうか。」 36すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

    本日の説教

   パウロは八章まで、神の救いについて述べています。人間がいかに罪深い者であるかということ、そしてそのままでは滅びるほかないこと、しかし、神の恵みによって救われる道が用意されていること、その救いにはユダヤ人も異邦人も差別がないことを述べました。ところが、ユダヤ人は行いによって達せられるかのように考え、律法を誇りとしながら律法を破って神を侮っています。

 ところが、律法とは関係なく、しかも律法と予言者によって立証されて、イエス・キリストを信じることにより与えられる神の義と救いが示されました。義を求めなかった異邦人が信仰による義を得て、ユダヤ人よりも異邦人の方がどんどん救いに入れられるようになっていきます。当然そこに疑問がわいてきます。神の選民とされたはずのユダヤ人は捨てられてしまったのだろうかという疑問です。

   異邦人のための使徒(11:13)とされたパウロは、自分の属するイスラエル民族について九章から十一章にかけて述べます。パウロは自分がユダヤ人であり、とくに、神に選ばれた民族であることを誇りとしていました。ユダヤ人は神の約束のもとにあり、律法をさずけられていました。しかしユダヤ人の多くはイエスをキリスト(救世主)と認めず、イエスの福音を受け入れようとはしませんでした。パウロにとって、自分の属する民族の問題は切実な問題でした。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」、兄弟たち、同胞のためならば、「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(9:2,3)と言っています。彼は、どうしたら同胞が神によって救われるかということを真剣に考えたのです。

 パウロは次のように考えました。アブラハムの子がすべて神の約束を受け継ぐわけではない。たとえば、イサクの子エサウとヤコブのうち、ヤコブだけが約束を受け継ぎました。「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれた子供が、子孫とみなされる」(9:8)と考えたのです。それは神の選びの計画によるのであって、人間の行為によらず神のご意思によって約束をうけつぐものとなるのです。それゆえ、ユダヤ人が自分たちがアブラハムの子孫であり神の民であるという血統を誇っても意味がないことを説いたのです。

 次に、パウロが考えたのは、イスラエル民族の歴史のなかに示され神の忍耐と導きです。神がいかに忍耐強く、寛容をもってイスラエル民族を導いてこられたかということでした。そして神の忍耐は、今も、イスラエル民族のうえにあるということです。ユダヤ人がイエス・キリストによる救いを受け入れず、十字架につけたのは、神の義を律法によって追及し、自分たちの努力で得られると過信したためです。自分たちの罪を認めようとしない誇りがあったのです。それはユダヤ人の神を求める姿勢が間違っていたのであって、神の選びの計画は不変なのです。

わたしは彼ら(ユダヤ人)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」(10:1)と叫ぶパウロの耳もとには、「神は御自分の民を退けられたのであろうか」(11:1)という問いが響いてきます。それに対して、パウロは「決してそうではない」と言います。自分も「イスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」と告げます。

 パウロは秘められた計画をぜひ知ってもらいたいと、異邦人の兄弟たちに語ります。すなわち「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われる」(11:25)ということです。このような言葉を裏付ける聖書のことばとして、パウロはイザヤ書59章20~21節、および、イザヤ書27章9節を結合したと思われる言葉を引用します。

救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」(11:26b,27)

 <救う方>とは罪からの開放者であり、待望さえたメシア(救い主)です。<シオンから>とは、エルサレムのシオンの丘、すなわちエルサレムの郊外で十字架にかけられ、死んで葬られ、よみがえって聖霊を与えられた主イエス・キリスト、その方こそ「救う方」であるというパウロの信仰がここにあります。そして、その「救う方」が、ヤコブ(イスラエル)の不信な者を追放し、真に罪を除き去る時、神の救済のご計画は成就するのです。このイザヤの予言は、パウロにとって主イエス・キリストによる全イスラエルの救いの日の喜びと重なっています。その日、その時が神とイスラエルとの契約の成就の時でもあります。

福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。」(11:28)

パウロにとって福音というのは、「御子に関するもの」(1:3)であり、御子はイスラエル人の不従順によって十字架につけられたのであり、主イエスによってもたらされた福音を受け入れないので、神に敵対している状態にあります。これが歴史的現実です。しかし、神の選びについて言うならば、イスラエルの始祖アブラハム時から、イサク、ヤコブ、またその子孫たちは、神に選ばれた民であり、神の愛の対象であることは変わりありません。これがもう一つの「神の選び」の現実です。「神の賜物と召しとは、変えられることがない」(29節)と記されているように、たとえ人間の犯した数々のあやまちがあったとしても、神ご自身がそれを変更されない限り選びは絶対に変えられるものではありません。

 異邦人たちが、かつては神に不従順であったが、ではイスラエル人が不従順になっています。その結果、イスラエル人の不従順がかえって異邦人たちがあわれみを受ける結果となりました。これと同じように、不従順であるイスラエル人は異邦人の受けたあわれみによってあわれみを受けるのです。その時は遠い未来のことではなく今であるとパウロは言います。パウロにとって歴史は今やまさに終わろうとしています。

異邦人は、福音が啓示されそれを受け入れる以前には、不信仰の状態でした。しかし、終末時の今、イスラエル人の不信仰によって、福音を信じた異邦人は神に正しい者と認められ、義とされています。そのように、イスラエル人も今、不信仰の中にいるが、それは、神の最終的救いのまさに来たらんとする今、全世界の救いの完成としてイスラエル人が救われるためなのです、とパウロは主張しています。

 このことから、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(32節)という結論に至ります。これは人間の論理を超え、人間の知恵をはるかに超えた事実です。パウロは全人類の救いを望んでいるかに見えます。そして、イスラエルも、ついには、ことごとく救われるに至るとの信仰に、彼の心は躍りました。彼は神への限りない感謝と賛美をもって閉じます。

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。

 神への讃嘆の言葉がパウロの口をついて発せられます。<富>は神の賜物の無限に満ちていることを指し、<知恵>はながく隠されていたが、今や現された秘められた知恵であり、<知識>は神の秘められた洞察(見通し)です。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています(コロサイ2:3)。この三つはたがいに結びあい、結局イエス・キリストによって示された、恵みによる神の救いを指し示しています。これは、<神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもので……この世の支配者たちはだれ一人、……理解し>えなかったものです。このような神の無限の深さは、神から与えられる理解力によって知るほかないのです。

  神はこのような深い恵みによって異邦人とイスラエル人に臨んでくださるのです。そのことを考えれば、「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節b)ということになります。<神の定め>は「神の審判」、神の義とする行為を指します。<神の道>もここでは神の救済の仕方を指します。パウロはさらに、「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」と記します。神のこころの深みには人間の手はそのままではとどかないことを知らせています。どんな偉大な知恵者でも、救いの計画について神と協議してそれを実行に移すというようなことはできないのです。人間の限界は神の深いみこころの前に立てば立つほどいよいよ明確になってくるのです。

 神の偉大さに対する讃嘆が、しめくくりの言葉としての頌栄となります。

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(36節)

<すべてのもの>とは、文脈から、「異邦人もイスラエル人もすべてが」の意と解することができます。神は、万物の創造者であり、支配者であり、完成者です。万物は神に導かれ、神にむかっています。パウロは「栄光、とこしえに、神に」と賛美と頌栄の声をあげて、救いが全世界大のもの、<永遠>のものであることを賛美しています。イスラエルと全世界に対する神の救済行為の深さは、理解の対象ではなく、賛美と礼拝の対象なのです。「アーメン」、「まことにそうです」と力強くしめくくっています。

 神は私のような者をも選び、救い、召してくださった方です。すべての者を憐れみ、救おうとされる、赦しと愛に満ちた方です。「ご計画に従って…万事を益として下さる」(8:28)全能者です。愛と憐れみに満ちた万物の主なる神を心から喜び、ほめたたえましょう。

 

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聖(きよ)めの式

2016-09-17 10:14:59 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日    本キリスト教 富 谷 教 会

  聖潔(きよめ)の式    2016年9月16日(金)午前10時30分~11時

 前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

招 詞 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書57:15)

讃美歌(21) 451(くすしき恵み)

主の祈り

受聖者の願い              田中恵子姉

聖 書  ローマの信徒への手紙6章3節~11節(新共同訳p.280)

勧 め   「聖霊により聖なる者とされる」 辺見宗邦牧師               

按 手              辺見牧師・武田牧師

独 唱                  田中恵子姉

讃美歌    「御手の中で」

感謝祈祷                 田中恵子姉

祝 祷                 

後 奏  

  

 出席者:武田和弘牧師、田中恵子姉(し)、田中翠(みどり)姉、伊藤蓮(れん)兄(けい)、他。

呈 茶 聖潔(きよめ)の式の後、茶室(天心庵)で、祝いのおもてなしがあります。

 本日の聖書 ローマの信徒への手紙6章3節~11節

 3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです 5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 7死んだ者は、罪から解放されています。 8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 勧め

 茶室の床の間には、大阪のみとキリスト教会牧師で現在聖句書道センター主宰の佐藤義行牧師に揮毫(きごう)していただいた掛け軸をかざっています。先生の雅号は望雲(ぼううん)です。次のようなことばを書いていただきました。ローマの信徒への手紙6章4節のことばを短くしたものです。

「わたしはキリストと共に死んだ。 今、わたしはキリストの復活にあずかって、新しい命に生かされている。」ロマ書6・4 

 洗礼は、キリストの死と復活にあずかる式です。信仰生活を続けていくうちに、道からそれることもあるでしょう。そのときには、いつもこの洗礼を受けた時に戻って、そこから再スタートするのです。洗礼の時に、キリストと一体とされたことが、人生のスタート点でもあり、またゴール地点でもあるのです。田中姉は洗礼をご主人と共に教会で受けられましたが、イエス様の十字架の死が自分の罪をあがなう死であったという自覚が十分でなかったと反省しています。

 洗礼を受けたキリスト者も、人生の途上で、神のみこころに反することを行ってしまうこともあるでしょう。そのときには、神の前にへりくだって赦しをこいねがうことです。「主の祈り」の中にも、「我らの罪をも赦したまえ」という祈りがあります。

 田中姉は「心の奥底に眠る罪の塊(かたまり)が私を苦しめ、家族をも苦しめてしまいます」と告白しています。自分ではどうにもならないのが罪の正体です。使徒パウロも、ローマの信徒への手紙7章13節以下で、自分の中に住んでいる罪に苦しみ、救いをも求めたことを記しています。キリストに結ばれ、神の霊、すなわち、聖霊を受け、キリストを心に宿し、キリストと一体となるときに、この罪と死に打ち勝ち、解放されるのです。田中姉は、聖霊をいただき、罪から解放され、聖なる者としていただくために、今日の聖めの式を希望されました。武田先生と私は田中姉に、聖霊を受けるための按手をいたします。按手というのは、姉(し)の頭に手を置き、聖霊が与えられ、満たされるように祈る行為です。使徒ペトロとヨハネも、サマリアに行き、聖霊を受けるように、人々の頭に手を置いて祈ったことが、使徒言行録8章14節以下に記されています。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、だれの上にも聖霊が降っていなかったからです。

 讃美歌21の445番に次のような、歌詞があります。

 2節 罪深い過去を 背負う者をいかに主は愛し ゆるされたか

 3節 人をゆるさない この私の大きな罪さえ 主は負われた

 4節 ゆるせない心 主よきよめて平和の人へと かえてください

 田中姉は、まさに4節の歌詞にあることを求めているのです。必ず姉の願いは、イエス様に聞き届けられ、その願いはかなえられます。

わたしたちの人生の歩みは、聖霊の豊かな恵みをいただき、キリストを心に宿し、全く聖なる者とならせていただくことを目指して歩む旅です。(テサロニケ一、5:23)

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