富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「国難に立ち向かうヨシャファト王の祈り」 歴代誌下20章5~19節

2020-12-29 22:59:11 | キリスト教

          ↑ 「国家の脅威を知らされて、ヨシャファト王は恐れた」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

降誕節第二主日 (年始礼拝)  2021年1月3日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

    礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて)

交読詩編    96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)歴代誌下20章5~19節(旧p.695)

説  教  「国難に立ち向かうヨシャファト王の祈り」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 367(偉大なみ神の)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

              次週礼拝  1月10日(日)午後5時~5時50分    

              聖 書   マタイによる福音書7章21~23節

              説教題  「あなたがたのことは知らない」

              讃美歌(21) 476 459 27 交読詩篇 2

本日の聖書 歴代誌下20章5~19節

 20:5ヨシャファトは主の神殿の新しい庭の前でユダおよびエルサレムの会衆の中に立ち、 6こう祈った。「わたしたちの先祖の神、主よ。あなたは天にいます神、異邦人の国をすべて支配しておられる方ではありませんか。御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません。 7わたしたちの神よ、あなたはあなたの民イスラエルの前からこの地の先住民を追い払い、この地をあなたの友アブラハムの子孫にとこしえにお与えになったではありませんか。 8彼らはここに住み、ここにあなたの御名のために聖所を建てて言いました。 9もしわたしたちが裁きとして剣、疫病、飢饉などの災いに襲われたなら、この神殿にこそ御名がとどめられているのですから、この神殿の前で御前に立ち、苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます。あなたはそれに耳を傾け、救ってください。 10今、アンモン人、モアブ人、セイルの山の人々を見てください。かつてイスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、あなたは彼らの土地に入って行くことをお許しになりませんでした。そのためイスラエル人は、彼らを避け、滅ぼさずにおきました。 11御覧のように、今彼らはわたしたちに報いて、あなたがわたしたちにお与えになったこの土地から、わたしたちを追い出そうと攻めて来たのです。 12わたしたちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか。わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。

13ユダのすべての人々がその幼子も、妻も、息子と共に主の御前に立っていた。 14その会衆の中で、アサフの子孫のレビ人ヤハジエルに主の霊が臨んだ。ヤハジエルの父はゼカルヤ、祖父はベナヤ、更にエイエル、マタンヤとさかのぼる。 15彼は言った。「すべてのユダよ、エルサレムの住民とヨシャファト王よ、よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。 16明日敵に向かって攻め下れ。見よ、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたたちはエルエルの荒れ野の前、谷の出口で彼らに会う。 17そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。』」 18ヨシャファトは地にひれ伏し、すべてのユダとエルサレムの住民も主の御前に伏して、主を礼拝した。19レビ人のケハトの子孫とコラの子孫は立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。

 本日の説教

ヨシャファトは、ユダ王国の4代目の王です。35歳で王になり、紀元前873年から849年まで、25年間エルサレムで王位にありました。統一王国分裂後、ヨシャファト王と北のイスラエル王国のアハブ王との和睦によって、60年続いた南北の交戦状態が終わり、友好的な関係になりました。

ヨシャファト王についての記録は、列王記では22章1節~51節に記されています。歴代誌下の記録では、17章で、即位したヨシャファト王は父より受け継いだ熱心な信仰そのままに、民に教えを広めます。

18章では、北イスラエル王と手を組んだことでアラムに敗北し、神さまからの怒りを示されます。

19章では、預言者イエフの言葉を聞き、過ちを糺されながらも、善いところを認められ、再起します。

20章では、ヨシャファト王の戦いのための祈りと勝利が記されています。

ヨルダン川東岸に住むイスラエルの宿敵、<モアブ人>と<アンモン人>が、死海南方に住む<メウニム人>の一部と共にヨシャファトに戦いを挑みました。メウニム人は死海南方のエドム人との関わりが深い人々のことと考えられます。人々がヨシャファト王のところに来て、「死海のかなたのエドムから大軍が攻めて来て、エン・ゲディにいます」と告げました。<エン・ゲディ>は死海西岸の岸辺のほぼ中央にある町です。エルサレムから約40㌔の地点です。ダビデがサウル王の手を逃れて、この要害に身を潜めていたことがあります(サムエル記上24章1節)。

大軍の来襲の報に接したヨシャファト王は非常に驚き恐れました。ユダにも百万を超える兵士がいたはずですが(17: 14節以下)、それでも恐れをなすということは、戦力に大きな開きがあったのでしょう。ヨシャファトはこの時、北イスラエルに援軍を求めませんでした。ただ神の助けに頼るほかなく、軍隊をもってこれに当たることの不可能であることを知り、主に助けを求めることを決意し、全国民に断食を呼びかけました。<断食>は、自分を普段満たしているものを遠ざけて、主を求める思いへと自らを集中させ、主なる神さまへの思いを整えてから祈るのです。災いや危機が襲った際に悔い改めの姿勢を表現し神の介入をうながすためにしばしば断食が布告されました。

 ユダの人々は主を求めて集まりました。ユダのすべての町から人々が主を求めて集まりました。絶体絶命のピンチに、王と民が一つになって主を求めたのです。ヨシャファトは主の神殿の新しい庭(ソロモンの神殿の大庭4:9参照)の前でユダおよびエルサレムの会衆の中に立ち、祈りました。

 <わたしたちの先祖の神、主よ>と呼びかけ、あなたは<異邦人の国をすべて支配しておられ>、<あなたに立ち向かうことのできる者はいません>と全能の主を讃えます。

「わたしたちの神よ、あなたはあなたの民イスラエルの前からこの地の先住民を追い払い、この地をあなたの友アブラハムの子孫にとこしえにお与えになったではありませんか。」

神がアブラハムに「あなたの子孫と契約を結び、カナンの土地を全て与える」と約束し、このカナンの地(パレスチナ)に住む先住民を追い払って、イスラエルにこの地を与えたことを告げます。

「彼らはここに住み、ここにあなたの御名のために聖所を建てて言いました。」これはソロモン王が神殿奉献式で祈った祈りのことを言っています。

「もしわたしたちが裁きとして剣、疫病、飢饉などの災いに襲われたなら、この神殿にこそ御名がとどめられているのですから、この神殿の前で御前に立ち、苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます。あなたはそれに耳を傾け、救ってください。」

これはソロモン王の長い祈りの中の一部分を、凝縮して言っています。ソロモンの祈りは、「またこの地に飢饉が広がったり、疫病がはやったり、黒穂病、赤さび病、いなご、ばったが発生したり、敵がこの地で城門を封鎖したり、そのほかどんな災い、どんな難病が生じたときにも、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、あなたはお住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、こたえてください。」(列王記上8:37-39)と祈っています。

 「剣、疫病、飢饉などの災い」は、民を襲うおそろしい国難です。苦悩の中から助けを求めて叫び、祈るので、そのときには耳を傾けて聞いてくださり、救ってください、と神に願います。今、モアブ人の連合軍がユダを剣で襲撃しようとしています。

ヨシャファトの嘆願は続きます。「今、アンモン人、モアブ人、セイルの山の人々(死海の南のエドムの地、メウニ人)を見てください。かつてイスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、あなたは彼らの土地に入って行くことをお許しになりませんでした。そのためイスラエル人は、彼らを避け、滅ぼさずにおきました。」

<セイルの山の人々>とは、死海の南のエドムの地のこと。イスラエルのエジプト脱出と約束の地に入るまでの旅で、神はエドムの地へのイスラエルの民の進入を認めず迂回させたので、イスラエル人は彼らを滅ぼさずにおいたことを訴えます(民数記20:17-21、申命記2:8参照)。

「御覧のように、今彼らはわたしたちに報いて、あなたがわたしたちにお与えになったこの土地から、わたしたちを追い出そうと攻めて来たのです。」

その彼らが、イスラエルの民を追い出そうと攻撃しようとしえいる現状を神に訴えます。

「わたしたちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか。わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」

 <彼らを裁かないのですか>と、神が彼らの恩義を無にすろ攻撃に報いて天罰をあたえることを求めます。わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、ただあなたを仰ぐことしかできません、とヨシャファト王は祈りました。

ユダのすべての人々がその幼子も、妻も、息子と共に主の御前に立っていました。その会衆の中で、アサフの子孫のレビ人ヤハジエルに主の霊が臨みました。ヨシャファトの祈りに対して神はヤハジエルの口を通して答えられました。彼は、「すべてのユダよ、エルサレムの住民とヨシャファト王よ、よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。明日敵に向かって攻め下れ。見よ、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたたちはエルエルの荒れ野の前、谷の出口で彼らに会う。そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。』」と告げました。

 ヨシャファトを討つ大軍を、神御自身が、恐れる必要などないと言われるのです。神みずから敵を滅ぼしてくださることを約束されました。ヨシャファトは地にひれ伏し、すべてのユダとエルサレムの住民も主の御前に伏して、主を礼拝しました。<レビ人のケハテの子孫>(歴代上6:16)と<コラの子孫>(歴代上6:38)は神殿の詠唱者(合唱隊)です。彼らは大声をあげて神を賛美しました。

翌日朝早く、彼らはテコアの荒れ野に向かって出て行きました。ヨシャファトは「ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。そうすれば勝利を得ることができる」と言いました。軍隊の先頭に聖歌隊を進ませ、「主に感謝せよ。その慈しみはとこしえに」と讃美させて進んだのです。彼らが讃美し始めると、主はユダに攻め込んで来た敵軍に、伏兵を向けられたので(22節)、彼らは破れました。その後、敵軍は同士討ちをして自滅してしまいました(23節以下)。確かにユダの民は、戦わずして勝利を得たのです。

主がイスラエルの敵と戦われたということを聞いて、地のすべての国がどこも神への恐れに襲われました(20:29)。このようなわけで、ヨシャパテの王国は平穏でした。彼の神は、周囲の者たちから彼を守って、平安を与えられました。

王と民が心を一つにしたこと、断食して主を求めたことに主が答えられ、圧倒的な勝利を授けられたのです。 ここに、祈りに答えてくださる主の力が示されています。

世界中の国々が疫病であるコロナ禍の苦難にあるとき、為政者と国民が心を一つにして、主の助けを信じて、この国難を恐れず、おじけず、立ち向かっていかなければなりません。 

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「あなたは奇跡を行われる神」 詩篇77篇1~16節

2020-12-24 22:49:25 | キリスト教

    「あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました。・・・あなたの道は海の中にあり、・・・羊の群れのように御自分の民を導かれました。」(詩篇77篇15、20ー21節)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

降誕節第一主日 (年末礼拝) 2020年12月27日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                      礼 拝 順 序

                   司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)

交読詩編    91(いと高き神のもとに身を寄せて隠れ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩篇77篇1~16節(旧p.911)

説  教  「あなたは奇跡を行われる神」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 351(聖なる聖なる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                           次週礼拝  1月3日(日)新年礼拝 午後5時~5時50分    

                                            聖 書   歴代誌下20章5~9節

                                            説教題  「ヨシャファト王の祈り」

                                            讃美歌(21) 368 367 27 交読詩篇 96

本日の聖書 詩篇77篇1~16節

  1【指揮者によって。エドトンに合わせて。アサフの詩。賛歌。】

2神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます。

神に向かってわたしは声をあげ、神はわたしに耳を傾けてくださいます。

3苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され、わたしの魂は慰めを受け入れません。

4神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます。〔セラ

5あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。

6いにしえの日々をわたしは思います、とこしえに続く年月を。

7夜、わたしの歌を心に思い続け、わたしの霊は悩んで問いかけます。

8「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか。

9主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。

10神は憐れみを忘れ、怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」   〔セラ

11わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わりわたしは弱くされてしまった。」

12わたしは主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、13あなた      の働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします。

14神よ、あなたの聖なる道を思えば、あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。

15あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました。

16御腕をもって御自分の民を、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。     〔セラ

17  大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし、深淵はおののいた。

18  雨雲は水を注ぎ、雲は声をあげた。あなたの矢は飛び交い、19あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。稲妻は世界を照らし出し、地はおののき、震えた。

20  あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。

21  あなたはモーセとアロンの手をとおして、羊の群れのように御自分の民を導かれました。

      本日の説教 

この詩編は個人の嘆きの歌の形式を取っていますが、詩人の「苦難」は、国家的・共同体の苦難の時を指しています。それは長期にわたっており、彼には解決が見えていません。

この状況は今日のコロナ禍の苦難の中にある世界の国々と同じです。この苦難を主なる神はなぜ顧りみられないのかを考えつめて詩人は苦悩しています。

 表題の1節の「エドトン」「アサフ」は、自分たちの父祖と呼んでいる第二神殿合唱隊の祖先の名です(歴代上16:41)。神殿合唱隊指揮者による、アサフ作詞、エドトン作曲のの賛歌です。

「神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ、神はわたしに耳を傾けてくださいます。」(2節)

「神はわたしに耳を傾けてくださいます」と訳すと、神が現実には聞いてくださらないことが、9節までの前半の中心問題なので前後関係が合いません。ATD旧約聖書注解詩編の私訳は「わたしに聞いて下さるように、大声で神に叫ぶ」と訳しています。原語を直訳すると、「わたしは声を上げ、叫んだ、神に向かって。わたしは声を上げ(叫んだ)、私に、神が耳を傾けることを。」となります。二度も声を上げて叫んだのです。

しかし、新共同訳聖書のように、「神はわたしに耳を傾けてくださいます」という訳文の方が良いように思われます。なぜなら、73篇のアサフの詩のように、神についての根本的な真理、77篇では、神が私たちの祈りを聞いてくださるという真理を、導入として歌ってから、3節以下の本題である現状の苦難の詩を歌い始めると解釈できるからです。

詩人は苦難の中で、神に信頼して祈ることが出来ず、神を思うことに転じます。神は三人称で語られます。

「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され、わたしの魂は慰めを受け入れません。神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます。あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。」(3-5節)

3-5節には、詩人が不安に悩まされて、眠れない夜に、「耳を傾けてくださる」神を求め、「手は疲れを知らず差し出して」(祈りの姿勢を示す言葉)求めたが、「魂の慰め」を受け入れることができず、「神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます。」(4節)という苦悩が歌われています。あなたは、私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできません(5節)。4節と10節の最後にある「セラ」は、音楽用語で、休止という意味で、少し間をとるように指示しています

「いにしえの日々をわたしは思います、とこしえに続く年月を。夜、わたしの歌を心に思い続け、わたしの霊は悩んで問いかけます。 (6-7節)

6-7節において、詩人は、昔のことと今のことをあれこれ思い悩むうちに、神の恵みが終わって、神は沈黙されたのではないかという同じ質問を繰り返すだけで終わっています。この心に迫る告白は、彼の時代の悩みがどれほど深く神についての悩みになったかを物語っています。

「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ、
怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」(8-10節)

この言葉は、もはや神は現れることなく隠れてしまい、神に突き放されてしまったのではないかという不安を歌っています。詩人は神の憐れみと恵みがなければ、ますます絶望に駆られます。そこまでどん底に彼の信仰は落ち込み、神の誠実を疑うようになって、詩人は、はっと気づかされました。

この問題に解決をもたらしたのは、11節に見られる転換です。

「いと高き神の右の御手は変わり、わたしは弱くされてしまった。」(11節)という告白によって、詩人の絶望的な認識、はっきり言えば不信仰に詩人は気付かされたのです。詩人は絶望の底に沈んで、始めて自分が人間の尺度で神をはかっていたことに気づき、神を神としない不信仰であることに突如として目ざめたのです。神がイスラエルを捨てたのではない、イスラエルが神を捨て、自分本位に勝手に捨てられた、と思い込んでいたのです。「神の右の手」とは、神のみ力、そして苦悩から御自身の民を救い出されることを表す用語です。イスラエルがエジプトから救い出され、一つの民として守り続けられ、保たれてきたのは、実にこの主の右の手によってでした。神が神である以上、その御心が変わるわけはない、その御手が変わって無力になるなどというわけがないのです。神はイスラエルにどう見えても、イスラエルの神たることに変わりはありません。たとえ捕囚の時代となり、外側がすべて変わってしまったとしても、それをもって神が変わったなどということがあろうはずはありません。イスラエルがそう思いこんで、神との関係を自分の方で心を閉ざしてしまったのです。

このことが分かって詩人は12節以下で改めて神を二人称で「あなた」と呼びかけ、過去の歴史を回顧しつつ、全能なる神の御業をそこに再発見しようとします。

「わたしは主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします。神よ、あなたの聖なる道を思えば、あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました。御腕をもって御自分の民を、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。」(12-16節)

詩人は12-16節において、昔行われた神の奇しき御業を想起し、その御業を賛美することを始めました。詩人は神の聖さ、偉大さを驚嘆します。「あなたは奇跡を行われる神」と告白します。

 17節から、詩人は天地の創造の世界に目を転じます。「大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえ、深淵はおののいた。」ここにおいても神の偉大な業を述べています。20節はまた歴史の世界に戻り、海を渡る紅海の奇跡、シナイの荒野における神の救いは、神の尊厳と威力を示す出来事であることを回想します。

17節に、「大水はあなたを見た」とあり、20節には、「あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。」とあります。神がイスラエルを助けたその道は確かに大水の中につくられたが、その海にできた道・神の「足跡」は、海の中に消えてしまいます。しかしそれは救われた民を通して確かに証しされています。これらのみわざの目的は、神が「モーセとアロンの手をとおして、ご自分の民を、羊の群れのように導く」(20節) ことにあったのです。

それは、ご自身の民を、神が自然を超えたところから支配し、介入することによって、民が苦難の中から救われた出来事でありました。そうであるなら、神は、現在、苦難の中にある民を、今も助けることができる生ける神であるはずです。今は希望のないような現実であっても、この生ける神に、希望を持って完全に身を委ねることが信仰であることを詩人は告白します。そして、同じ信仰がわたしたちに求められています。そこから、希望ある未来へ生きる転換が可能となります。わたしたちも、「あなたは『全能の父なる神』『奇跡を行われる神』」と神の「右の御手」を信じ、賛美しようではありませんか。

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「救い主誕生のしるしとは」 ルカによる福音書2章1~14節

2020-12-15 21:19:27 | キリスト教

         ↑ オランダの画家Govert Flinch(ホーファールト・フリンク)「キリストの誕生を、羊飼いに告げる天使たち」(1639年制作)ルーブル美術館所蔵

日本福音教団 富 谷 教 会

    〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380

  クリスマス礼拝と祝会 2020年12月20日(日) 午後4時~5時30分

  礼  拝 

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏(キャンドル点灯)     奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 260(いざ歌え、いざ祝え)

交読詩編    29(神の子らよ、主に帰せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書2章1~14節(新p.102)

説  教  「救い主誕生のしるしとは」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

聖餐式    72(まごこころもて)

讃美歌(21) 263(あら野のはてに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

本日の聖書

  1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 

本日の説教 

1節の「そのころ」とは、1章5節に示されているように、「ユダヤの王ヘロデ」の時代であり、洗礼者ヨハネが誕生してから六か月(1章26節参照)後の頃です。初代ローマ皇帝アウグストゥスから、帝国内全領土の住民に住民登録せよとの勅令が出ました。税金取り立てのための人口調査です。人々は皆、登録するために自分の出生地へ旅立ました。ヨセフもダビデ王の家系(血筋)の者なので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ、妊娠中の婚約者のマリアを連れて上って行きました。ナザレに住んでいたヨセフが、ベツレヘムへ着くには、歩いては四、五日はかかるきびしい旅でした。ベツレヘムは、エルサレムの南西10キロほどのところにある小さな町です。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは臨月をむかえ、初めての子を産み、他の新生児と同様に体を真っ直ぐに保ち、成長するように、細長い布でくるんで、家畜に餌を与える飼い葉桶を寝台にして寝かせました。聖誕教会に置かれているのは、白色大理石の飼い葉桶です。パレスチナでは、煉瓦で造った円形のくぼみの飼い葉桶があります。 

        

     母マリアに抱かれた幼児イエスと飼葉桶。パレスチナで使われている、煉瓦で造った円形のくぼみの飼い葉桶。

      マリアが赤ん坊のために用いたと思われる当時の石の飼葉桶

宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。その町の近くに「羊飼いの野」があります。羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。すると突然、主の天使が彼らに近づき、主の栄光が周りを照らしたので彼らは非常に恐れました。救い主誕生の知らせは、野原にいる、貧しく身分の低い、安息日も守れない、軽んじられた羊飼い対して、一番先に届けられたのです。主の栄光が照らしたとは、神が現れたのです。

天使は、「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」言い、「今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げたのです。この方こそが、旧約聖書で約束されていた、メシア・救い主であり、主なる神です。」と告げたのです。そして「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」これが「あながたへのしるしである」と言ったのです。

聖書では「しるし」は、多くの場合、奇跡やイエス様のなさった業を指します。ほとんどの場合「しるし」という言葉は、力、権威、栄光を伴って用いられています。しかしこの場合は、人の目には全く小さくつまらない、「布切れにくるまれて飼い葉おけに寝かされている乳飲み子だ」というのです。なぜこれが、あなたがた、わたしたちへのしるしなのでしょう。それは、神の御子が人として生まれたことが奇跡なのです。主イエスは、小さく貧しい姿でこの世界に降ってくださたのです。人間の生と死に加わるために、私たちの苦しみや悩み理解してくださり、助けてくださる方なのです。さらに人間の罪をあがなうために人となられたのです。私たち人間は、どうしても取り去ることのできない罪を取り去ってくださるためです。私たちの人生を主イエスとともに生きることのできるものとしてくださったのです。

 飼葉桶の乳飲み子は生まれた時から、十字架の道を目指しています。しかし、十字架の死で終わるのではりません。十字架の先にある復活によって罪人を義とし、聖霊を与え、永遠の命に生きる者としてくださる救い主なのです。まさに、飼い葉桶の乳飲み子は神様の栄光を顕す奇跡なのです。

 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と神を賛美したのです。この賛美は、主イエス・キリストによって実現する神様の救いをほめたたえたのです。<御心に適う人>とは、主イエスを救い主として信じて受けるすべての人です。御子をこの世に送ったくださった父なる神と私たちと共にいて下さる救い主の御子を、ほめたたえましょう。

 

           次週礼拝 12月27日(日)年末礼拝 午後5時~5時50分    

           聖 書  詩編77篇1-16節

           説教題   「主よ、あなたは奇跡を行われる神」

           讃美歌(21) 464 351 27 交読詩篇 91

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村島潔牧師・スミ子師ご夫妻の送別会ー詩篇121篇の解説

2020-12-11 20:19:09 | キリスト教

                       村島潔牧師・スミ子師ご夫妻の送別会

        2020年12月16日(水)午前11時~午後1時30分

                         富谷教会にて

  参加者:安重植牧師、孫仁子宣教師、朴圭成宣教師、朴エステル師、           

                    辺見宗邦牧師・辺見トモ子姉

礼 拝 

讃美歌(21) 543(キリストの前に)

1 キリストの前によろこび集まり、キリストの愛を 感謝して歌おう。

キリストにならい誰をもへだてず、たがいに励まし たがいに仕えよう。

2 キリストのために自分を捧げて、キリストの道を 助け合い進もう。

キリストは弟子の足さえ洗われ、みずから仕えて 模範となられた。

3 キリストを頼りかしらとあがめて、キリストに応(こた)え真実に生きよう。

キリストの恵みこの世に伝えて、互いに祈ろう、み国が 来るまで。

聖 書   詩編121篇1~8

121:1【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 2わたしの助けは来る天地を造られた主のもとから。 3どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。 4見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。 05主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。 7主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。 08あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

解説 詩編121篇は、表題は巡礼の歌ですが、詩はエルサレムへの巡礼がはっきり示されていません。対話形式は詩人が自問自答と説明する人もいるが、二人の異なる語り手を想定する方が分かり安いのです。旅立つ者と見送る者との対話になっていると考えられます。1節は人生の旅路旅立つ者の問い、2-8節は残される者の言葉と受け取れます。

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」

この詩編は、旅立つ者と見送る者との対話になっています。旅立つ者が旅の不安をおぼえつつ、「わたしの助けはどこからくるだろう」と問つつ、別れを告げようとしています。「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて、足がよろめかなないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。

この2-3節は、旅立つ者の自問自答ではなく、旅立つ者が言った「わたしの助け」を受けて、見送る者が、あなたが求めている「わたしの助け」は、天地の造り主から来ます。神があなたを不幸から守り、生命を守ってくださるように、励まし、祈ることばになっています。

4節から、語り手は一層明確な信頼の基いを見出します。「見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。」5節は、神への全き信頼と安心を伝えます。「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」6-8は、神の守りがあるので、旅人は太陽の光と月の危険を恐れる必要はない。あらゆる危険の中で、神はあなたを不幸から守り、生命を守られる。あなたは「行くにも来るにも」神の守りの下にある。神はあなたがどこにあっても、「今からとこしえまで守ってくださるように」、人生の始め終わりまで、という祈りをささげます。

 この詩編は、人生の旅路、そして人生そのものを支える信頼について語っています。不安な旅路を歩む旅立つ者へ、はなむけに贈る励げましと慰めの祈りの言葉です。この個人的な送別の詩は、後代、危険をともなう都上りの巡礼者の歌として用いられるようになったと思われます。巡礼者は「私たちの助け」というところを「わたしの助け」と言う表現をとるのです。教会はこの詩を、「神我らと共にいます」方であるイキリストによって与えられる助けと守りとして理解するのです。この詩編121篇を、村島先生ご夫妻へのはなむけのみことばといたします。

讃美歌(21) 465(神ともにいまして)

1 神ともにいまして ゆく道をまもり、日ごとの糧(かて)もて、

  つねに支えたまえ。(くりかえし)【また会う日まで、また会う日まで、

                                                                   神のめぐみ たえせず共にあれや。】 

2 荒れ野をゆくときも、 あらし吹くときも、ゆくてをしめして

導きたまえ、主よ。

3 み国に入る日まで いつくしみひろき みつばさのかげに

はぐくみたまえ、主よ。

主の祈り

祝 祷 

 主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。

あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。

今も、そしてとこしえに。

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、

あなたがた一同と共にあるように。アーメン。 

  

茶室にて  粗飯と呈茶

 

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「インマヌエル(神は我らと共におられる)の預言」 イザヤ書7章1~14節

2020-12-08 11:24:49 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

待降節第三主日(アドベント) 2020年12月13日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                     礼 拝 順 序

                    司会 田中 恵子姉

前 奏(242の3 キャンドル点灯) 奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)

交読詩編    46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)イザヤ書7章1~14節(旧p.1070)

説  教    「インマヌエルの預言」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 356(インマヌエルの主イェスこそ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                     次週礼拝 12月20日(日)クリスマス礼拝

                                                     礼拝:午後4時~4時50分 愛餐会:5時~6時    

                                                     聖 書  ルカ2章1~20節

                                                     説教題  「キリストの降誕」

                                                     讃美歌(21) 261 260 27 交読詩篇 29

        本日の説教 イザヤ書7章10~14節

 7:1ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。 2しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
 3主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、4彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。5アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、6『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、7主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。8アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)9エフライムの頭はサマリア、サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
 10主は更にアハズに向かって言われた。11「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」12しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」 13イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。14それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

本日の説教 

インマヌエル預言は、どのような状況の時に語られたかが、イザヤ書7章1節から9節までに記されています。南ユダ王国のアハズ王の治世のことです。アラム国(=シリア)の王レツィンと北イスラエル王国の王ぺカの連合軍が、南ユダ王国の主都エルサレムを攻めるために上ってきて、エルサレムを包囲したが、攻略することができませんでした。それは神の擁護によるものだということが暗示されています。

アハズ王の父ヨタム王の時は、両国は単独でユダ王国を攻めていたが(列王下15:37)、今度はアラムがエフライム(=北イスラエル王国)と同盟したという知らせは、ダビデの家(アハズ王とその一族)に伝えらえ、連合軍に包囲された小さい南王国であるユダの王の心も、民の心も、「森の木々が風に揺れ動くように動揺し」(2節)ました。

この戦争は、アッシリアという巨大国家が勢力を伸ばし、シリアもイスラエル王国もその支配下に置かれ、屈辱的な貢物を強要されたため、シリアと北イスラエルは、反アッシリア同盟を結んで対抗しようとしました。ユダ王国も同盟に参加するように求められたが、強大なアッシリアに抵抗することを恐れたアハズ王は、同盟に加わらなかったので、同盟国から敵と見做され、ユダ王国の首都エルサレムが包囲されたのです。これが紀元前734年に起こった「シリア・エフライム戦争」(列王記下15:37~16:9参照)です。アハズが二十歳で王位についたばかりの時です(列王下16:2)。

北イスラエル王国は、12部族の中の10部族からなり、その初代の王ヤロブアム一世がエフライム出身であったので、紀元前745年頃から、北イスラエル王国をエフライムと呼ぶようになりました。一方、南ユダ王国はユダ部族とベニヤミン部族の2部族なる小国です。

イザヤの預言者としての召命がイザヤ書6章に記されています。主なる神がイザヤに命じます。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池(上の池)からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」(3~4節)

イザヤの息子の「シェアル・ヤシュブ」という名前は、「残りの者は帰って来る」という意味の名です。イザヤがこの息子を連れていくことを命じられたのは、その名がアハズ王に対して無言の警告と約束を意味したからでした。この名により、「北王国は滅びるであろう。しかし、主を信じるユダは残され、救われるであろう」ということを、アハズに示そうとしたのです。

イザヤがアハズと会見した場所の「上貯水池からの水路の外れ」は、エルサレムの北側の門の広場と思われています。

アハズ王は役人たちを連れて、水路の点検に来ていたのでしょう。籠城に際しては飲用水の確保が大切であり、水路が敵の侵入路になることもあるからです。

主なる神は、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」とアハズに告げよとイザヤに言われたのです。「落ち着いて」とは、気を動揺させて、自衛に夢中になるのでなく、真の助けはどこからくるのかに意識を集中させなさい。神が守ってくださるという約束に信頼して、慌てることなく、心を静め、恐れてはならない、ということです。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と、アハズ王に告げるように、神様はイザヤに命じたのです。
 更に恐れる必要がないことを告げます。アラムを率いるレツィンとイスラエルの王ペカが、同盟に参加しないことに激怒して、攻めて来ても、彼らはしょせん、アッシリアに打たれて燃え残り、煙っている丸太に過ぎないのだから、心を弱くしてはならない、というのです。

更にその内容を具体的に告げます。レツィンとペカがもくろんでいることは、ユダの王アハズを廃して、自分たちの意のままになる人物、タべアルの子を王にしようとしている。これが彼らの悪巧みです。タべアルはエルサレムでもその名が知られているアラムの人物と思われます。しかし、そのことは実現しないと、神が言われたのです。アハズが恐れているアラムと言っても、その都はダマスコに過ぎないし、またその王はレツィンに過ぎないではないか。エフライムについても、その都はサマリア、その王はレマルヤの子、ぺカに過ぎないではないか。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する。)

「ユダの頭はエルサレム、エルサレムの頭はダビデの子(アハズではないか)、ダビデの子の頭は主なる神様ではないか」、と言う言葉が暗黙のことばとなっています。何を恐れることがあろう。そして「神の約束を信じないならば、確かにはされない」(9節)と神は告げました。

「神の約束を信じる」の「信じる」という語は、ヘブライ語ではアーマンです。「アーマン」は「アーメン」という語ができました。「アーマン」は「固く信頼する」の意味ですが、受け身形にすると「固く支えられる」の意味になります。神を固く信じるときに、神に固く支えられるのです。「確かにはされない」とは、神に固く信頼することがなければ、神に確かに支えられない、ということです。主なる神は、見える軍勢に恐れ怯えているアハズ王に向かって、唯一の救いの道は物質的施設や政治的策略ではなく、主に対する全き信頼である。この信仰のみがユダを救い、国家の安全を保証するものである。わたしがいる、わたしを信ぜよ、わたしを信じれば神の民は支えられ、守られる、告げたのです。それにもかかわらず、アハズ王は同盟軍を恐れ、これに対抗するため、アッシリアの援助を求めることになります(列王記下16:7-8)。

そこで主は、再びイザヤに命じて、アハズ王に向かって言わせ、決断を求めます。

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」(11節)「しるし」は、預言が必ず成就すること、約束が必ず実行されることを証明するために神が与える出来事を意味します。この文を直訳すると、「あなた自身のために、あなたの神ヤーウェに、しるし(サイン)を求めよー深いところに、または、上の高い所のどちらかに」となります。要するに、近くに安全の保証を求めるのでなく、視野を広くして、深い所なり、高い所に求めよ、という勧告です。具体的には、アッシリヤの援助に安全のしるしを求めるのでなく、深い所も高い所も支配する天地の支配者である神にしるしを求めなさい、という勧めです。

アハズ王は、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」(12節)と、敬虔さを装って断りました。彼は今、主に頼るよりも、アッシリアに頼るほうが、より安全だと思っているので、神に頼ろうとしない自分の不信仰を隠すために、いかにも敬虔らしい言葉で、しるしを求めよとの神の勧告を断ったのです。結局、強国アッシリの助けを求めざる

を得ない自分の姿勢を示したのです。この行為は、神の行為を無視するものであり、結果的には、神と王国を外国に売り渡す、永久的従属でした。(歴代誌下28:20)。アハズの拒絶は王家全体の意思を表すものでもありました。

イザヤは言いました。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。」(13節)

さきの預言は上の水道の端で告げられたが、ここでは「ダビデの家よ」と呼びかけているので、この二度目の預言は、王宮でなされたものでしょう。ダビデの家という呼びかけが王族一族を指すからです。主自身が与えようとするしるしを拒むことは、主の権威を無視しする罪を犯すことになります。アハズの態度は、人にもどかしい思いをさせる優柔不断の態度であり、主をも軽んじ、侮り、欺くことでした。

「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(14節)

神が自から与えるこのしるしを提示します。そのしるしは、一人の女性が、身ごもって、男の子を産み、その名は「インマヌエル」と呼ばれるということです。「インマヌエル」は、「インマ=共に、=わたしたちと、エル=神」(神われらと共にいます)という合成語です。

 この時代にあるおとめから近い将来男子が出生し、その子が神のしるしとなることが告げられたのです。「ユダがシリア・エフライムの脅威から解放された時に人々は心底からこの歌声をあげ、ひとりの男子が神のしるしであることを悟ったことでしょう。しかし「インマヌエル」という名に値する人物は、マリアの子、イエス・キリスト以外にはその名に値する人物は歴史上存在しません。

 イザヤの預言が真実に成就するのは、イエス・キリストの誕生を待たねばなりませんでした。実に、主イエスがおとめマリアから生まれたというクリスマスの出来事は、イザヤのインマヌエル預言から七百年後の神様の御心の成就でした。

マタイによる福音書1章23節には、「インマヌエル預言」が記されています。その予言は、マリアが聖霊によってみごもっていることが明らかになったときときでした。婚約中のヨセフは表ざたにすることを避け、ひそかに婚約を解消しよう決心しました。このように考えていると、天使がヨセフの夢に現れ、マリアが妊娠しているのは聖霊によるものであることを告げ、恐れずマリアを妻として迎え入れなさいと命じました。そして、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:28)と天使は告げました。

このすべてが起こったのは、神が預言者を通して言われていたことが実現するためであった、と説明があり、イザヤの語った預言が記されています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である、と解説しています。

 このインマヌエルのイエス様の誕生は、わたしたちと共にいて下さる神の愛の「しるし」です。イエス様がインマヌエルの預言の成就としてお生まれになったということは、わたしたちの最大の敵である罪の支配からわたしたちを救い、神の民として永遠の命に生きる自由と平和を与えてくださるためでした。イエス様の生涯は、とりわけ十字架による贖いの死と復活、昇天は、わたしたちすべての人間がかかえている罪の根である、神と人に対する誇り、自己顕示欲という罪を取り除き、聖霊によって歩む道を与えてくださるためでした。

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