富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「罪に陥った人間とキリストによる救い」創世記3章1~15節

2015-10-31 11:59:57 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

          降誕前第8主日    2015年11月1日(日)       5時~5時50分 

         礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します) 

交読詩篇   51(神よ、わたしを憐れんでください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   創世記3章1~15節(旧p.3)

説  教   「罪に陥った人間とキリストによる救い」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  68(愛するイエスよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                              次週礼拝 11月8日(日)午後5時~5時50分

                                                                   聖書  創世記12章1~9節

                                                                    説教  「神の民の選び」

                                                                   賛美歌(21)151 517  24  交読詩篇 71

        本日の聖書 創世記3章1~15節

  1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

  2女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

    4蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

    6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

    8その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、9主なる神はアダムを呼ばれた。  「どこにいるのか。」

   10彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

   11神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

   12アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

   13主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

  14主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。15お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」

     本日の説教

   創世記1章1節から2章3節までの創造物語は、イスラエルの祭司記者によって、バビロンの捕囚地で書かれたものであることを、先週の礼拝でお話しいたしました。イスラエルの民は国を失い、民族の滅亡の危機にあって、国を失ったのは自分たちの罪のためであったことに気付いて悔い改め、神に選ばれた民である自覚を取り戻し、世界の民を生かしているのは、天地を創造した神であることを、創造物語で告白したのです。

    創世記2章4節bから、3章24節までの楽園の創造と喪失は、神の名が祭司記者が用いた<エロヒーム>というヘブライ語ではなく、<ヤーウェ>という語が用いられており、祭司記者は創世記を書くのにこの資料を用いました。この資料は、捕囚前のソロモン王朝時代に、南ユダ王国で成立したと言われています。

   2章4節bから25節までの2章では、神の意志の実現としての人間の創造が語られました。

   3章は、男と女が、取って食べてはいけないと神から禁止されていた木の実を、蛇にそそのかされて取って食べてしまい、エデンの園から追放されるという物語です。神の意志にそむく人間の罪と神の罰としての呪いのもとにある人間の現実的な姿が描かれます。

   この物語の中で、蛇が神の言葉への不信をもたらすために登場したのが蛇でした。蛇もまた神によって造られたものでした。腹で這い歩く蛇の不気味さを古代人もきらい恐れました。古代エジプトやメソポタミヤでは蛇が知恵の象徴でした。野の生き物のうちで最も賢「」が女に「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と問いかけます。罪に陥ることは、たんなる心の中の現象ではなく、人間の人格に働きかける不気味な力によって惹き起こされる事件として、蛇がそのワキ役でした。主イエスの荒れ野の誘惑のときは、誘惑するものは悪魔でした。この神話では蛇が悪魔の役割を果たしています。

   この蛇の問いかけに注意すると、神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしま」と、神は「すべての木の中の一つだけ」を禁止されたのに対して、蛇が神の禁止の範囲を、ことさらに拡大してみせたのは、女に口を開かせるための誘導尋問でした。神が言われたのは、すべての木に対する禁止命令のように、不満をさそい出すように問いかけています。

   それに対して、女は、一応、神のことばを正しく再確認して、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と言います。<てもいけない>は神の言葉にはありません。女は神の言葉を忠実に守ろうとするあまり、神の言葉を拡大解釈し、自分の言葉を付け加えています。神様の命じた禁止がよりきびしいものとしてうつり不満の思いが生じています。その不満をあおりたてるように、さらに蛇は言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。蛇はまるで神の手の内を知り尽くしているように語ります。人のために配慮して神が禁止したことに対して、神の善意を疑うように語りかけたのです。それを食べると神のように善悪を知るものとなると誘惑したのです。「善悪を知る」とは、全知全能になるということです。神の禁止命令は人間を束縛し、不自由にする悪意あるものではないのかとの疑いをいだいたのです。神に従って生きるのではなく、自由になって、自分の思いに従って生きようと思ったのです。ここに人間の神様に対する背きの罪があります。人が神から自由になって神のように」なりたいと思う傲慢に、聖書は人間の罪の根を見ます。罪の本質は、神に背を向け、神に従うのではなく、自分が主人になり、神様に成り代わろうとすることです。

   女がその木を見ると、いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していました。女が誘惑に敗れた時の三つの語、<おいしそう><目を引き付け>賢くなる>は、人間の欲望やそそります。彼女はついに取って食べ、一緒にいた夫に渡したので、彼も食べました。

  その結果、<目が開け>自分たちが裸であることに気づきました。楽園では、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」のです。しかし今や何かが失われました。人間のあるがままの姿を素直にあらわすことが出来なくなったのです。裸であることに気づいて、その恥と不安を少しでも隠そうとして、二人はイチジクの葉をつづり合わせ腰に巻きました。禁断の木の実を食べるという違反行為は、「神の人への善意を疑う」という、神への不信から生じた結果でした。

   その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきたので、アダムと女が、神の顔を避けて園の木の間に身を隠しました。神のいましめにそむいたため素直に神の前に立てないのです。罪の結果は明白でした。人と妻は神の顔を避けて存在するものとなったのです。神はアダムにどこにいるのかと呼ばれました。罪を犯し、神様の顔を避けて身を隠す人間に、「あなたはどこにいるのか」と神はこう呼びかけられます。わたしたちの魂の在処(ありか)を尋ねる神の声です。

   彼は「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と、答えました。「あなたの目に自分の裸をさらすのが恐ろしいから身を隠した」と答えたのです。「裸」も「恐れ」も、「隠れた」のもほんとうの動機ではありません。本当の動機は、神の命令を破ったからです。しかし、その真実は告白から省かれました。

   神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。すると、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と言う表現で、自分の罪の責任を神と女の両方に転嫁しており、神の言葉を無視した自分の罪を認めようとはしていません。

   神は女に向かって、「何ということをしたのか」と言われました。女は「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えました。女は蛇に自分の罪を転嫁したのです。神への反逆は彼らの連帯責任であったはずなのに、男は女に罪を着せ、女は蛇のせいにしました。今まで一心同体として愛と信頼で結ばれていた夫婦が、自己防衛のためにその一体性を一瞬にして切り捨ててしまいます。その結果、蛇は最も呪われて、きらわれものとなり、女と蛇は恨(うら)み合う仲となりました。「彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」人間と罪の力との間に続く幾世代にも及ぶ闘いが記されています。

  アダムとエバ二人は罰せられ、楽園であったエデンから追放されるのです。神への背きの罪のために、人はいのちの源である神との親しい交わりを失い、死すべきものとなりました。

   アダムとエバの物語は、人間が罪に陥る過程を実にリアルに表現しています。聖書はアダムとエバが罪に陥る物語を通して、わたしたちすべてがかかえている罪の問題を指摘しているのです。

   罪に堕ちた結果は、このように、神との関係が破れて、信頼と交わりが失われ、人間同士もまた対立し、憎み合い。利用し合うようになっている状態をいうのです。しかし神は、これをひどく悲しみ、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけながら、尋ね歩かれるのです。イエス・キリストは、わたしたちを、もう一度、神との交わりに呼び戻そうとして、この世に来られたのです。

   神話の衣をまとった物語の主人公を指す<アダム>という名は、ヘブライ語では「人・人間」という意味の集合名詞で、現実の人類を代表しています。人間そのものの姿をアダムという「一人の人」に起こった出来事として物語っているのです。アダムはすべての人間を代表であり、人間全体の象徴であって、「人間というものは」という全体の問題として創世記に書かれているのです。

   パウロは<罪>について語るとき、<罪>とは、神に背を向かせる方向に働く霊的支配力のことを指しています。

   このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ローマ5・12)。

   このパウロの言葉は、従来アダムの罪が人類に継承され、宿っているという人間の原罪を理解する根拠とされてきました。しかし<すべての人が罪を犯したからです>という理由づけがあるように、罪の責任が個々の人間にあることを語っています。<一人の人>というのは、全人類の代表としての「最初のアダム」のことであり、アダムにおいて、アダムと共に全人類は罪を犯したために、全人類に罪と死が支配しました。<死>とは、ただ身体が死ぬことではなく、霊的存在としての人間全体が命の起源である神から切り離されて死んでいる状態(身体の死はその結果)であり、そのような死をもたらす支配力を言います。罪と死は一体として人間を支配する霊的力なのです。

   実にアダムは、来るべき方を前もって表す者(5・14)>だったのです、とあるように、最初のアダムは、最後のアダム(1コリント15・45)となられた十字架のの贖いによって救いをもたらすイエス・キリストを待ち望む者だったのです。神の恵みにより、<一人のイエス・キリストを通し>て、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。その恵みの賜物は罪とは比較にならないほど大きいのです。

   最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。…わたしたちは、土からできた人の似姿となっているように、天の属するその人の似姿にもなるのです(1コリント1・47~49)。

   なんとすばらしい恵みを、わたしたしはキリストにあって受けているのでしょう。罪と死との支配から解放され、天に属するキリストの似姿にわたしたちは変えられつつ、その完成を目指しているのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天地と人間の創造

2015-10-25 14:34:35 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

       降誕前第9主日  2015年10月25日(日)      5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します) 

交読詩篇  148(ハレルヤ。天において、主を賛美せよ。)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   創世記1章1~5、24~31節a(旧p.1、2)

説  教     「天地と人間の創造」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 281(大いなる神は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

 

                次週礼拝 11月1日(日)午後5時~5時50分

                    聖書  創世記3章1~15節

                    説教  「人間の堕落」

                    賛美歌(21)6 69  24 交読詩篇 51

 本日の聖書 創世記1章1~5、24~31節a

  1初めに、神は天地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

………

  24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

     本日の説教

 創世記の一章一節には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。そして神が宇宙や世界、そしてあらゆる生き物を造られたことが記されています。

  しかし、現代の自然科学的宇宙論や人間を含めて動植物の進化の過程を知っている現代人にとって、聖書の物語はでたらめな神話にすぎないとして、否定してしまう人が多いのではないかと思います。

  自然科学が究明しようとしていることは、自然現象の生成過程についての客観的な事実の解明です。それに対して聖書の記している創造物語は天地の起源という物語を通して、この世界の存在の意味や、人間の生きる目的についての真理を知ることにあります。

  創世記一章は、世界がどのようにして成立したか、を説明するために記したのではありません。そうではなく、世界と人間の存在の確かさ、その意味はどこにあるのか、という根源的な課題に答えたものです。

  創世記一章は、およそ紀元前六世紀頃、バビロニアの捕囚(ほしゅう)地でイスラエルの祭司記者によって書かれました。イスラエルのユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、多くの民は捕囚の民として連れ去られ、苦役に服しました。紀元前597年から538年にかけて、60年近い捕囚の時期がありました。彼らにとって、そこは「異教の地」であり、多神教と偶像礼拝の支配している地でした。当時世界最大の都バビロンでは壮大な祭りが行われていました。新年祭には巨大な神像が運ばれる行列を見て、イスラエルの民は圧倒されたに違いありません。バビロニアの勝利はバビロンの神の勝利であると誇り、イスラエルの敗北と亡国は、彼らの信じるヤーウェ(主なる神)の敗北としてあざけられ、彼らは屈辱を味わいました。イスラエルの国家は滅び、神から与えられたとする嗣業の地を失い、神との契約は破棄され、それまでの社会体制は崩壊しました。それは大きな変動と荒廃の時代でした。このような崩壊と虚無の中から、祭司記者といわれる人々は、まず<世界>の存立の根源を問いはじめました。創世記一章は、こうした激動期に捕囚地バビロニアで成立したのです。

  第一章の創造物語は、バビロニアの創造神話からの影響の下に成立したと言われています。ただバビロニア神話の方は多神教ですが、聖書の創造物語の方は、イスラエルの唯一神教の信仰によって修正され、独創的なものになっています。このように、創世記一章は、世界がどのようにして成立したかを説明するために、記したものではありません。そうではなく、世界と人間の存在の意味、その確かさがどこにあるのか、という当時の緊急かつ根源的な課題に答えたものです。イスラエルの民は、偶像を崇拝するバビロニアの民に精神的に屈することをしませんでした。深い悔い改めとともに、国を失ったのは自分たちの罪の故であることを認め、神に選ばれたイスラエルの歴史を回顧し、唯一の創造神を信じ、神は必ず自分たちを守り、この苦役から解放してくださると期待したのです。

 「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものに見なされる」(イザヤ書四〇・一七)。第二イザヤはその預言の冒頭から、バビロンの巨大な神像は細工人の造ったものに過ぎないこと、真の創造主はマルドゥクの神ではなく、唯一の神ヤーウェであること、それゆえイスラエルは「主を待ち望む」べきことを歌っています。創世記第一章の天地創造物語の背後には、このような信仰の闘いがあったことを知る必要があります。

  「初めに、神は天地を創造された」(一節)。

  一節は創造物語全体を要約する序文です。<初めに>とは、世界の初めのことですが、イスラエルは捕囚という国家と民族の滅亡の危機にあって、自分たちの存在意義とその「救い」を求めるために世界の<初め>を問いました。それは単なる知識の興味としてではなく、彼らの生死をめぐる信仰の闘いの問題としての切実な問いでした。イスラエルの民は、捕囚の中で神の全能とその恵みを知らされ、世界の始原について、「初めに、神は天地を創造された」と告白せざるを得なかったのです。<初め>に おられる方は、創造者にして人格的な唯一の神です。

  <神>は、ヘブライ語の原典では、エローヒーム(力を表わすエルの複数形)という語が用いられています。これは、諸種の働きや、尊厳性の表現としての複数形であって、多神教の神を表しているわけではありません。<天地を>とは、天と地、つまりこの世のすべてのものを、という意味です。<創造された>のヘブライ語バーラ-は神の創造行為にのみ用いられる語で、何らかの材料を用いて作る場合の語はアーサーです。従ってバ―ラーは「無からの創造」を示しているのです。

  イスラエルはこの創造物語において、歴史を開始し、これを治め、これを審き、かつ救う全能の主なる神を告白しているのです。この言葉の根底には一切のものの造り主である創造者への賛美と神への服従があります。

  二節は、独立した句で、一節や三節とのつながりはありません。二節で、深く見つめているのは世界の<不確かさ>です。二節は、<地><深淵><水>が既存のものとして描かれているので、一節の「無からの創造」と矛盾します。これはバビロニアの創造神話の影響によるものです。一節の「無からの創造」との関連を求めるなら、神の創造の第一歩は「混沌」の創造であったことになります。しかし大切なことは、バビロニアの神話を借用しながら、その神々に勝るイスラエルの神の唯一の主権を告白する意図がここにあることです。

  <地は混沌であって>とは、秩序がなくなり、荒廃している様子を示しています。「形も姿もなく」と訳される荒涼とした情景を表現しています。

  <闇が深淵の面にあり>の≪深淵≫とは「原始の大洋」のことで、古代の神話的世界像に共通して見られる宇宙生成以前の状態を海のイメージで表したもので、「底なしの深み」を言います。底なしの深みにしかも≪暗闇≫がおおている世界という見方、それが祭司文書記者の現実認識でした。

  <神の霊>の≪霊≫は、「息」「風」という意味もある語なので、ここは「激しい風」と訳すこともできます。二節は暴風雨のときのような海のイメージで創造以前の状態を描写していると解することができます。

  創世記一章の記者の見つめている現実世界は、強風が間断なく荒れ狂う底知れぬ深みを、暗闇がおおう、混沌とした荒涼世界です。混沌は空しく空虚で、何もありません。聖書はこの死の現実を厳しく見つめます。

  「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(三節)

  <神は言われた>とは、創造は神のみことばによる、ということです。みことばは神の力です。神が<光あれ>と言われたのは、明確な命令のことばであり、神の意志の表現です。神が最初に創造した光は、太陽や星の光ではありません。太陽や星の創造は一六節で語られます。

  この光は天体の光ではありません。混沌や闇や深淵を手に取るように照らし出す、希望と慰めに満ちた光です。この光によってすべてのものが整然と秩序正しく形づくられていくのです。この光はやがて「わたしは世の光である」(ヨハネ9・5)と宣言されたイエスによって、より具体的に輝くのです。この光が暗闇を照らしたことは、

  神の意志が創造された世界に貫徹されたことを意味します。<神は光を見て、良しとされた>。神は創造されたものを、満足と喜びの対象として見られます。底なしの深みと混沌の海を照らした光は夜と昼を分ける秩序の光です。

  世界は神に見捨てられたのではなく、神が語りかけ、それが実現する世界です。

  「神は…闇を夜と呼ばれた」(五節)。<呼ばれた>は、<名づけた>とも訳される語で、これは、神の主権と支配を意味します。神が闇を夜と名づけた、とは、神が闇をご支配のうちに置かれたことを示します。キリストが陰府(よみ)にくだられたのは、キリストが死の深淵の支配者となられたとの勝利の告白です。

  五節は、「こうして夕方となり、朝となった」という文です。イスラエルの一日は夕方六時より始まります。神は地上に家畜、這うもの、地の獣を創造され、これを見て、良しとされました。

  次に、神は御自分にかたどって人を創造されました。神にかたどって創造された。男と女に創造されました(二七節)。

  <ご自分にかたどって>は、ヘブライ語を直訳すると、「われわれの形・像として、われわれの姿・摸像のように」となります。神が自らを<われわれ>と複数形表現しているのは、尊厳の複数形とか三位一体性を意味するとか、いろいろな解釈があります。これは古代オリエント世界の神話を背景とした「主なる神を中心とした天的存在の議会」というイスラエルのイメージに由来するもので、ここでは「神の熟慮・決断」の表現として用いられているようです。<人>は、集合名詞の「人間」「人類」という意味です。人が「神の像として造られた」ということは、人間の外形が神に似ているという意味ではなく、人間が神と霊的に交わることができる、神に向き合う者として造られたということです。人間は「神の像」としての尊厳と地を支配する機能を担うべき存在として創造されたのです。

  <見よ、それは極めて良かった>は、創造全体の総括として最上級の表現を用いています。創世記を記した祭司記者は人間の創造の背後に強烈な神の決意のあることを知ったのです。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這生き物をすべて支配せよ。』」(二八節)。

  「産めよ、増えよ」とは、呪われた世界に対する神の祝福の言葉です。神は彼らを祝福して言われたのです。この祝福は人間に大きく未来を開く生命力を与えるものです。

  「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ十一・三)。

  わたしたちは信仰により、存在するすべてのものを無より創造であることを知り、全能の神を告白するのです。信仰は神のことばを、福音を聞くことにより生じます。この創造の神により頼む人は、詩人も歌っているように助けを得ることができるのです(詩編一二一・一、二)

  「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

2015-10-17 20:44:19 | 説教

       ↑ 「忍耐強く走り抜こう」ヘブライ人への手紙12章1-2節

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

       聖霊降臨節第22主日  2015年10月18日(日)      5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  78(わが主よ、ここに集い) 

交読詩篇   62(わたしの魂は沈黙して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヘブライ人への手紙11章32~12章2節(新p.416)

説  教  「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

 

                                         次週礼拝 10月25日(日)午後5時~5時50分

                                         聖書  コロサイの信徒への手紙1章15~20節

                                          説教  「御子キリストによる創造と和解」

                                          賛美歌(21)6 281  24 交読詩篇 148

    本日の聖書 ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

  11:32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。 33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

     12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 

           本日の説教

   <ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。この書は、<ヘブライ人>に宛てられた手紙となっています。ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。この書の終わりの部分にあたる13章22~25節の挨拶が、手紙の形式をとっているので、手紙という名称がつけられていますが、しかし手紙には欠かせない差出人の名や、宛先人を表す言葉はなく、差出人の挨拶もありません。13章22節に、「以上のような勧めの言葉を受け入れてください」とあるので、この手紙の実質は著者によって実際になされたいくつかの説教を、文書の形にまとめたものと思われます。

  この書は、長い間パウロの書簡とされてきましたが、近代の研究では、バルナバやアポロを著者とする説がなされ、著者が誰であるかは明らかではありません。著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシア語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。

   手紙の受信者は、13・24に<イタリア出身の人たちが、あながたによろしく>とあるところから、イタリアのロ―マに宛てられたと推察されます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などからローマのキリスト者の集会に宛てて書かれたもの見る見方が有力です。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。

    執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されています(10・32~34)。しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆のの場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

   執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと見られます。

   <ヘブライ人への手紙>は、旧約聖書の引用が多く、特殊なキリスト論が展開されています。

  キリストは神の子であって預言者、モーセ、天使以上の方であり、また創造に際してはその仲介者であられ、世界の支配者であられる。神の子であられたが、キリストは人間と等しくなられ、現実に人々の弱さを自らのものとされました。彼は神の子として最初から父なる神と共にいまし、時至って地上に来られ、歴史の中に生き、死後再び天に戻られた。キリストは人間の救いのために立てられた大祭司であって、その働きは地上から天の領域にまで連なっており、その死によって人々が天の聖所に至る道を開かれた。現在彼は天にあって、人々のためにとりなしておられる。

   このキリスト論は救済論と密接に結びついています。神の子キリスト論は、2・5~3・6においては、子らの救いのテーマへと変わっており、4・14以下の大祭司キリスト論も最後には信仰者の救いの問題に移り、完全な者となられたキリストが信仰者にとって永遠の救いの源であるとされる(5・9)。キリストが新約の大祭司として天の至聖所に入り、自らを犠牲として献げられたことにより、われわれの罪がきよめられ、永遠の救いが完成したのです(7・27、9・12、14、28、10・12)。

   この手紙の終末論の性格は、迫害の中にあって苦しみつつあるキリスト者の信仰を励まし、強化するという手紙の著作の目的と密接に結びついています。キリストの再臨の待望(9・28)、天のエルサレムを目標としての前進(12・22~24)、来るべき都の探求(13・14)などについて、著者は情熱をこめて語ります。しかし同時に終末の時がすでにキリストと共に始まっているという、現在的終末論も見られます。

  それでは今日の聖書の箇所の御言葉に耳を傾けましょう。

  11章1節以下は、信仰生活を全うした旧約聖書の人物を列記して、その模範に倣うように勧めます。信仰の歴史を教えて、いっそうの励ましを与えるのです。

   11章30節以下では、イスラエルのカナン征服における二つの信仰的事件を述べます。32節からは、さらに士師、預言者たちの名を列記し、彼らの信仰のことが述べらます。

  <ギデオン、バラク、サムソン、エフタ>は、いずれも士師記に記されている士師たちです。<ダビデ>はイスラエルの代表的な王、<サムエル>は預言者の代表として挙げられています。

   33節の<信仰によって、この人たちは国々を征服し>た人々について、ヨシュアやダビデのような人を思い起させます。<正義を行い>は、イスラエルを治めることを意味し、ダビデやソロモンのような王のことでしょう、<獅子の口をふさぎ>とは、ダビデ(サムエル記上17・34以下)とダニエル(ダニエル書6・22)の例を指しています。

    34節の<燃え盛る火を消し>とは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの出来事(ダニエル書3.25)を指しています。<剣の刃を逃れ>は、モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャのいずれの場合にも当てはまる経験です

   <弱かったのに強い者とされ>というのは、盲目にされたサムソンが最後の力を得て復讐したことを指します(士師記15・19、16・28)。<戦いの勇者となり>は、ゴリアトと戦ったダビデ(サムエル記上17章)を思わせます。

    <敵軍を敗走させました>は、ヒゼキヤが信仰によって、セナケリブとその軍隊を敗退させた(列王記下19・20~37)ことを指しているようです。

   35節の<女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました>は、エリヤにその子の命を生き返らせてもらったサレプタのやもめ(列王上17・22)や、エリシャに子生き返らせてもらったシュネムの女(列王下4・34)のことと関連しています。<他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために>は、預言者たちによって生き返った者たちも結局は死に至らざるを得なかったのに対して、<拷問にかけられ>た信仰の英雄たちは、死そのものの克服としての復活を確信して忍耐したことが強調されています。

   36節の<他の人たちはあざけられ>とは、預言者ミカヤ(列王上22・24)や、エレミヤ(エレミヤ記20・2)たちの屈辱的な経験を、<鞭打たれ>とは、苦難の僕の預言(イザヤ書50・6)を暗示します。<鎖につながれ、投獄される>は預言者エレミヤの運命を思わせます。

   37節の<石で打ち殺され>たのは、祭司ヨヤダの子ゼカルヤであり(歴代誌下24・20以下)、ある黙示文学(「イザヤの昇天」)によればイザヤは木製の<のこぎりで引かれ>ました。<剣で切り殺され>たのは、エリヤの時代のイスラエルの預言者たちであり(列王記上19・10)、預言者ウリヤ(エレミヤ記26・23)でした。<羊の皮や山羊の皮を着て放浪し>たのは、エリヤ、エリシャにあてはまります(列王記上18~19章)。

   38節の<世は彼らにふさわしくなかったのです>というのは、彼らは天国にふさわしい人々であって、世間の人々は彼らをそねみ憎みました。この世は神の国の民の永久の住居に値いしないのです。

  39節、40節は、11章全体の結論を述べています。<約束されたもの>とは、神がご自身を信じる人々に約束された最後的な救いであって、キリストの到来によって初めて明らかに示されました。40節の<更にまさったもの>とはキリストによってしめされた新しい約束、すなわち神の国です。神は、わたしたちのために、更にまさった神の国を計画してくださったので、わたしたちを除いては、旧約時代の信仰の英雄たちは、<完全な状態>に達しなかった、すなわち全き祝福にあずかることができなかったのです。ここには、旧約の信仰者も新約の信仰者も、忍耐と希望を持ち続け、信仰生活のたたかいに耐え、共に全き祝福にあずかる日を待とうではないか、という勧告です。

   12章の1節の<こういうわけで>とは、11章で信仰生活の模範を述べたが、再び次の勧告にうつるためのつなぎの言葉です。11章で挙げられた信仰の偉人たちは、すべて新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々であり、何よりも神の真実を証言した人々でした。

   <このようにおびただしい証人の群れに囲まれて>は、競技場の観衆にたとえて先輩の信者たちを指しています。旧約の信仰の証人たちのことが示された以上、これを模範としてキリスト者も信仰の馳せ場を走ることが求められています。そこでまず身を軽くするために、<すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て>なければなりません。<自分に定められている競走>という言い方は、信仰生活を徒競走にたとえたものです。<忍耐強く走り抜こうではありませんか>とあるように、この競争は途中で止めてはならないのであって、最後まで、つまりこの地上の生を終える時まで走り続けることが求められているのです。

  2節では、これまで旧約時代の多くの信仰の英雄の実例を挙げることのよって読者を励ましたが、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。<信仰の創始者>という語は、「先導者」という意味があります。この語が<完成者>と対をなしつつイエスの業を説明しています。

   イエスにおいて、わたしたちの信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。このようなイエスをひたすら<見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。このイエスのみに注目することが大事なのです。

   イエスが、<御自身の前にある喜びを捨て>とは、天にある喜びであり、この世に来られ前に経験され、地上において放棄されたが、将来再び与えられるはずの祝福を指しています。それがイエスをして<恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍>ばせたのです。この喜び、祝福は<神の玉座の右に>座るここと関係しています。イエスの十字架も厭(いと)わない地上の歩み、死よりの復活と昇天、そして全能の父なる神の右に座られたことが、イエスを信じる信仰者の励ましの根拠なのです。

   わたしたちが<なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上ヘ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです>(コロサイ3・13、14)。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キリストの日に備えて」フィリピの信徒への手紙1章1~11節

2015-10-11 20:39:45 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                   日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

   聖霊降臨節第21主日  2015年10月11日(日) 5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

               司会 永井 慎一兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき) 

交読詩篇   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  フィリピの信徒への手紙1章1~11節(新p.361)

説  教    「キリストの日に備えて」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 361(この世はみな)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                                                   次週礼拝 10月18日(日)午後5時~5時50分

                                                                                        聖書  ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

                                                                                        説教   「天国に市民権を持つ者」

                                                                                       賛美歌(21)78 528  24 交読詩編62篇

本日の聖書 フィリピの信徒への手紙1章1~11節

  1キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 2わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。3わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、4あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。5それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。7わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。8わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

                         本日の説教

   本年7月19日の礼拝でも、「フィリピの信徒への手紙」を取り上げました。そのときは、4章1~3節を扱い、説教題は「女性の働き」でした。

    フィリピは、現在はギリシャ共和国の北東部、東マケドニア地方にある、フィリッポイという町(Filippoi)です。北はすぐブルガリア共和国との国境です。

   パウロが初めて、アジアから、エーゲ海を渡って、ヨーロッパに入り、最初に伝道した地がフィリピでした。フィリピは、当時マケドニア東部の都会で、東西交通の要所でした。

    パウロから福音を聞いて最初に洗礼を受けたのは、リディアという紫布を商う婦人とその家族でした。彼女が洗礼を受けたガギタス川は、現在も清流が流れ、そのほとりには教会が建っています。また、彼女の家で集会がもたれ、教会に成長しました。彼女が住んでいた土地はリディア村と呼ばれ、現在もフィリピの遺跡の西にリディア(Lydia)と呼ばれる町になっています。次に信徒となったのは、看守とその家族でした。(使徒言行録16・11~34)

    このようないきさつで使徒パウロから福音を伝えられたフィリピの教会は、以後、使徒とのきわめて親密な関係を保ちました。折にふれてパウロの宣教活動を援助していたフィリピの教会は、事情があって、一時援助を中断していました。

   しかし、もののやり取りの関係(4・15)が再開し、信徒たちはエパフロディトを代表に立て、贈り物を持たせて、パウロのもとに派遣しました。彼はしばらくパウロのとにとどまって奉仕していましたが、病をえて、フィリピに送り戻されることになりました。この機会に、贈物への感謝を表し、さらに自分の現在の生活と心境とを告げて、彼らに主にある信仰の一致を守り、互いに励んで困難に打ち勝ち、勝利の喜びに生きるように勧める手紙をエパフロディトに持たせました。これがフィリピの信徒への手紙です。

    フィリピ書は、4章からなる小さい手紙ですが、その中に、キリスト賛歌(2・6~11)や、自伝的要素を含んだキリスト信仰の奥義(3・4~14)を伝えています。

  それでは、今日の聖書の箇所の御言葉に耳を傾けましょう。

  「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの 恵みと平和が、あなたがたにあるように。(1・1,2節) 

     この手紙の執筆者はパウロ独りですが、若い弟子にして同労者であるテモテの名も、差し出し人として挙げています。テモテはフィリピ教会の設立に参加しました。手紙の宛先のフィリピの教会の信徒たちを、<キリスト・イエスに結ばれている聖なる者たち>と記しています。<聖なる者たち>とは、聖人という意味ではなく、キリストの血によって潔められ、神の御用をはたすために選びわかたれた者たちという意味です。フィリピの教会の信徒は、決してすべてが模範的な信仰生活を送っていたわけではありませんでした。しかしそれにもかかわらず、彼らはキリストに結ばれているゆえに、キリストの恵みによって新しい命を与えられていうゆえに、<聖なる者たち>と呼ばれているのです。

   手紙の受け取り人として、<監督たちと奉仕者たち>へとありますが、教会の指導者として実務的な仕事と指導に当たった人々を指すと考えられ、後代に確立された監督の職制をあらわす言葉ではありません。

     <わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和>を信徒たちの上に祈り求めています。その<恵みと平和>がなくては、キリスト者として生きることはできません。

 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(1・3~6)

   おそらくパウロは、エフェソの獄中にいると思われますが、いつものようにパウロはまず感謝を神にささげます。それは祈りの中でささげられた感謝です。そして、<いつも喜びをもって祈っています>と言っています。それは、信徒たちが福音に接した日から現在に至るまで、福音に生かされ、福音にあずかっているから感謝しているのです。このことは、フィリピの信徒たちが、キリストの福音にふさわしい生活を送り、福音宣教に協力しながら、キリストのために戦い、苦しむこと、もっと具体的には、<寄付>なども指しています(1・27-30、4・15などを参照)。この事実が<善い業>と呼ばれています<キリスト・イエスの日まで>とは、終末時における主の再臨の日を指します。パウロはその善い業を始められた神が、再臨の日までに、その業を完成させてくださることを確信しています。

     「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」(1・7)

  パウロは自分一人だけが福音に生かされ、福音を伝えているとは考えません。<監禁されているときも>、<法廷に出頭を命じられて、福音を弁明し立証するときも>、つねにフィリピの信徒一同のことを、自分の受けた恵み、すなわち、福音に生き、福音を伝える<恵み>に<共にあずかる者>とみなしているのです。

  「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」(1・8)

    パウロは、フィリピの信徒たちへ愛が、単なる人情ではないことを示すため、<キリスト・イエスの愛の心で>というただし書きを加えています。信徒たちに対してパウロが抱いている熱烈な愛情を伝えているのです。

  「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(1・9~11)

     パウロは信徒たちのために祈りをささげます。まず祈り求められるのは、<愛がますます豊かになる>ことです。キリストにおいて具体化した神の愛に生かされるキリスト者は、自らも愛に生きることを可能とされ、かつそのように生きることを求められます。彼らの全生活が愛によって貫かれるように、キリストの愛に生かされた者にふさわしく、彼らが生きるようにとの祈りです。

  しかし、パウロは単に愛が豊かになるようにとは祈っていません。愛が<知る力と見抜く力とを身に着けて>豊かになるように祈っています。これは神の意志を知り、その神の意志に従う生き方にかなう愛が豊かになるようにと祈っているのです。

   <本当に重要なことが見分けられるように>とは、キリスト者が個々の場面で、何が神の意志に即した行動であるかを、愛にもとづいて、絶えず吟味して生きることが可能となるようにという祈りです。パウロは<愛を豊かにしなさい>と、倫理的な命令として語ってはいません。キリスト者がキリストの愛に徹底的に貫かれて生ることは、最終的にはやはり神の恵み、聖霊の実としての出来事にほかならないからです。

    そして、<キリストの日>、つまりキリストの再臨とともに行われる裁きの日に備えて、信徒たちが<清い者>となり、<とがめられることのない者>とならなければなりません。

      <イエス・キリストによって与えられる義>とは、<律法による自分の義ではありません。それは<キリストへの信仰による義>です。キリストの出来事によって、神が信仰にもとずいて人間に賜物として与える義を意味します。それゆえ義の実は聖霊の実を指します。従って、ここではパウロは、恵みにより、イエス・キリストの出来事のゆえに神に義とされた者は、それに応えて種々の実を豊かに結ぶようにとフィリピの教会の人々に勧めている、ということになります。<清い者、とがめられるところのない者>となることも、この実の一端であるにすぎません。

  <神の栄光と誉れとをたたえることができるように>は、祈りをしめくくる賛美の定型句です。これによって、パウロは、フィリピの人々が」<義の実に満たされることにより、父なる神が栄光を受け、ほめたたえられるようにという願いをあらわしています。そしてこれは、<義の実>はフィリピの教会の人々が自力で結ぶものではなく、神の賜物としての聖霊の実であるゆえ、栄光と誉れは、神にこそささげられるべきである、という指示でもあります。神に栄光を帰し、神をほめたたえることは、自らの栄光を求め、自らを賛美しようとする人間本来の欲求とは厳しく対立します。信徒も、この世にある限り、この欲求から完全に自由ではありえません。キリストの日に、信徒が神に栄光を帰し、神をほめたたえることは、自己中心的な思いや自己本位の行動が、神の恵みによって完全に打ち破られ、神の完全な支配の下に彼らが置かれることをことを指し示しています。

     キリストの日に備えて、わたしたちも、キリストによって与えられる義の実をあふれるほど受けて、聖霊の賜物を満たされ、<清い者、とがめられるところのない者>とされ、父なる神の栄光と主イエスのキリストの恵みをほめたたえる者となることを、切に祈り求めたいと思います。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「奴隷をも愛する兄弟とする福音」フィレモンへの手紙1~25節

2015-10-04 20:39:17 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 聖霊降臨節第20主日  2015年10月4日(日)  5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  78(わが主よ、ここに集い) 

交読詩篇   82(神は神聖な会議の中に立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、

聖 書   フィレモンへの手紙1~25節(新p.399)

説  教  「奴隷をも愛する兄弟とする福音」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                                      次週礼拝 10月11日(日)午後5時~5時50分。  

                                                                      聖書  フィリピの信徒への手紙1章1~11節

                                                                      説教   「審(さば)きの日」

                                                                      賛美歌(21)56 361 24  交読詩編 84篇

   本日の聖書 フィレモンへの手紙1~25節  
  1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、2 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

  4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。6 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。
  8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。

  13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。1

  8彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。19 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。20 そうです。兄弟よ、主によて、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。21 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。22 ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。

  23 キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。24 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

       本日の説教

   この手紙は、パウロがフィレモンという個人に宛てて書いたものです。パウロの書いた手紙の中で、わずか25節からなる最も短い手紙です。フィレモンに宛てて書いた手紙ですが、フィレモンの家にある教会の人たちにも公開される手紙になっています。この手紙は、奴隷制度という歴史的な環境の中で、キリスト者がどのように「愛」(アガぺー)を実践していくべきかということを、教会にもかかわる問題として記しています。

  手紙の本文が明らかにしているように、パウロは獄中にいます。監禁の場としては、ローマ、カイサリア、エフェソなどが考えられますが、そのうちで、可能性が高いのは、エフェソです。それはパウロのいる所と、フィレモンのいる所との距離が、それほど遠くないと思われるからです。フィレモンの家の教会はおそらくコロサイか、その近くの地域と思われています。「コロサイの信徒への手紙」にフィレモンの家の教会のアルキポとオネシモの名前がしるされているからです。(コロサイ書4・9、17)。

   奴隷であったオネシモは、フィレモンのもとから逃亡し、使徒パウロのところに向かい、そこで助けを求めたのです。そしてオネシモはパウロによって入信し、キリスト者となり、パウロの身のまわりの世話をしるようになりました。

  当時の社会は、奴隷制度を容認していたので、見つかった逃亡奴隷を主人のもとに送還することが義務づけられていました。パウロはオネシモを身近に置き続けることはできませんでした。そこでパウロは、オネシモを彼の主人のフィレモンのところに帰るように説得したのです。しかしパウロは、彼を主人フィレモンのもとに送り返すことに不安がありました。フィレモンがはたして福音の教えである「愛」の行動をオネシモにするか否かが疑問でした。そこで、オネシモの送還に当たって、パウロはフィレモンに書き送ったこの手紙は、オネシモを歓迎するよう主人を説得し、オネシモを<愛する兄弟>として迎えて、愛を実践するように訴えたのです。執筆年代は、紀元53~55年頃と思われます。

  1節には、手紙の受取人として、フィレモンの他に、<姉妹アフィア>と<戦友アルキポ>の名が記されていま。<アフィア>はフィレモンの妻であり、<アルキポ>は彼の息子ではないかとも思われています。フィレモンの家は、信徒が集まる家の教会でした。

  挨拶のあと、パウロは、キリスト者としてのフィレモンを称賛し、自分とオネシモとの関係、さらには自分とフィレモンとの関係に言及し、まず受け入れ態勢をととのえさせるよう言葉を尽くしてから、8節以下の本題に入り、オネシモの受け入れを主人フィレモンに願うのです。

 パウロは、福音のためにオネシモを信徒にすることに成功しました。そしてパウロは、オネシモの主人であるフィレモンに対して、この若きキリスト教徒の弁護をするのです。パウロの目的は、かつての逃亡者であり、そして今や帰る者となっているオネシモが、フィレモンと彼の教会で赦しを得、さらにキリストにある兄弟として認められるようにすることでした。そのことのために、パウロはまずオネシモに関する彼自身の願い、自分のところに引き止め置いて、仕えてもらいたいという希望を撤回し、さらにフィレモンが、その男の逃亡と盗み(?)によって被った経済的な損失を、補うつもりであると言っています。そのかわりにパウロは、フィレモンと彼のまわりに集まっている家の 教会の者たちに対して、苦痛に満ち失望をもたらした過去の経験にとどまることなく、オネシモに起こった変化を認め、主にある兄弟として迎え、キリストの愛に生きる者として、新しい関係で出発をして欲しいと、彼らに期待するのです。このことは実際には、フィレモンと彼の家の教会の者たちが、少なくともオネシモと今後信仰と希望と喜びを分かち合うように、さらに彼を主の晩餐を守っている者の群れの中に同等の権利を持った者として受け入れ、同時に彼を自分たちの同労者として新たに尊敬するようにと、パウロによって要請されていることを意味しています。

  パウロは同時に、オネシモがパウロ自身の伝道活動において奉仕するために開放されることが大いに望ましいということをも示唆しています。しかしパウロは、フィレモンがオネシモを現実に開放するか、それとも彼を引き続き彼の家で労働者として働かせるか否かについては、フィレモンの自由な決断にまかせています。そして使徒はそのどちらをも尊重することにしているのです。パウロはフィレモンに対して、フィレモンが彼自身正しいと思う仕方でオネシモに対応するようにと、自由を与えています。<善い行いが、強いられたかたちではなく、自発的になされるように(14)>という言葉に、そのことが表現されています。

  ただフィレモンが守ってもらいたいことは、神の意志としての愛が彼の行為の基準とならなければならないという要請です。オネシモを<愛する兄弟>として受け入れて欲しいという言葉のそのことを表現しています。

  コロサイ人への手紙4・7~9によると、フィレモンはオネシモを赦し、それによってパウロの主要な願いにこころよく応じたのみならず、さらにそれ以上のことをなしたことが読み取れます。彼はオネシモをパウロと伝道の奉仕のために開放しました。そしてオネシモはパウロの使者にふさわしい活動をしました。オネシモは後にエフェソの監督に登用されたと推定されています(アンティオキアの第2代教イグナティオス(35年頃 ~107年?)のエペソ人への手紙に記されている)。

  奴隷制度の時代にあって、パウロは、奴隷であったオネシモを、<わたしの子オネシモ>、<わたしの心であるオネシモ>と呼び、「一人の人間としても、主を信じる者としても、<愛する兄弟>であるはずです(16)」と語っています。さらに、オネシモを<わたしと思って>迎え入れてくださいとあるように、兄弟フィレモンに、パウロ自身と思って奴隷を歓迎するよう主人に命じています。

  偉大な使徒がひとりのただの奴隷にためにいかに力を尽くしているか、そしてその奴隷の解放ではなく、むしろ彼を再び受け入れ赦すように迫っていることは驚くべきことです。このように<愛する兄弟>としてオネシモと接することは、実質的には差別を解消させています。この短い手紙は福音がいかに社会制度に対して大きな影響を及ぼす力を持っていたかを示しています。

  キリストの福音はこのように、人と人との関係を新しくします。人間の社会に存在する身分や、様々な違いによって生じる壁を乗り越えさせ、様々な違いを持った人と人とを、共にキリストに結ばれた愛する兄弟姉妹とする力をイエス・キリストの福音は持っています。この手紙は、そのことを教える手紙でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする