富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「分け隔てをしない真実の愛」ヤコブへの手紙2章1~9節 

2015-09-27 12:35:00 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

           日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

    聖霊降臨節第19主日  2015年9月27日(日)    5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 219(夕日落ちて) 

交読詩篇   73(神はイスラエルに対して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、

聖 書   ヤコブへの手紙2章1~9節(新p.422)

説  教    「分け隔てをしない真実の愛」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 483(わが主イエスよ、ひたすら)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                        次週礼拝 10月4日(日)午後5時~5時50分。  

                        聖書  フィレモンへの手紙1-25節

                        説教   「弱者をいたわる」

                        賛美歌(21)78 449 24  交読詩編 82篇

  本日の聖書 ヤコブへの手紙2章1~9節

  1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。 8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。

          本日の説教

  ヤコブの手紙の著者は、「神とイエス・キリストの僕であるヤコブ」(1:1)とありますが、使徒的権威のあるイエスの弟ヤコブ(パウロの殉教の数年後、紀元62年にエルサレムで殉教)とする説があります。しかし手紙で用いられている流暢なギリシャ語やその内容から、イエの弟ヤコブの名を借りた手紙とするのが最近の有力な学説です。著者はその思想内容(イエスの山上の説教と関連する)からみてユダヤ人キリスト者と思われています。

  宛先は<離散している十二部族の人たち>(1:1)と記されていますが、ユダヤ民族をさす<十二部族>という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられています。

  この手紙の中では、イエス・キリストの名は二回しか用いられておらず(1:1と2:1)、キリストの信仰との関係の薄いユダヤ教的色彩の濃厚な実践的教訓や宗教的格言で満たされています。執筆場所は不明です。

  パウロの信仰義認が、無律法的な信仰になっていることを戒めていることから、この手紙はパウロの死後(パウロは紀元60年頃ローマで殉教)、紀元100年頃(二世紀の初め)に書かれたと推定されてます。

  ヤコブ書では、<行い>が強調されています。<行いのない信仰は人を救うことができない>(2:14)という主張がなされています。神がアブラハムを義とされたのは、アブラハムの信仰が行いによって完成されたからであると大胆に主張しています(2:22)。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2:16)と述べるパウロに反対の立場にあるように見えます。

  パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマーマ3:20、ガラテヤ2:16)とあります。パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:7)神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派行いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださると説いています。

  ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教えに反対しているのではありません。救われた者の生活における行いの重要性について述べているのです。パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。人間に救いをもたらす信仰は、愛によっていきいきとしたものとされ、その愛によって必ずよい行いを伴うということを説いているのです。主イエスも、山上の説教の終わりで、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と語り、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7:21、26)と言われています。使徒パウロも、「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするように」(使徒言行録26:20)とすべての人に伝えました。

  今日の聖書の箇所について学びましょう。

 「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(2・1)

  この1節の文は、直訳すると「人の分け隔ての中で、わたしたちの栄光の主イエス・キリストの信仰をもつことがないように」となります。<人を分け隔て>するとは、えこひいきすることです。神は人をえこひきなさいません。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべく神、人を偏り見ず…」(申命記10・17)とあります。神はえこひいきなさらないのであるから、キリスト者もまた他人に対して、そうであらねばなりません。

  これは、わたしたちのキリストを信じる信仰は、それにふさわしい行動を伴わない場合は空しいものであるというヤコブ書の中心的な主張そのものであり、それを次の2~4節で、教会の中での人の分け隔て扱いという実際的な場面で具体的に説明することになります。

   「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あながたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

   <あなたがたの集まりに>の「集まり」には《シュナゴゲー》という語が用いられています。これは本来ユダヤ教の会堂を表す語ですが、ここではキリスト教の教会を指しているのです。ヤコブにとっては、会堂も教会も共に礼拝のために人々が集まることが基本であると考えられたから、この語が用いられたものと思われます。

  <金の指輪をはめた立派な身なりの人>とは、パレスチナでよく見られた金持ちを指しています。しかしここでは必ずしもユダヤ人に限られず、むしろ異邦人の可能性の方が強いようです。ともかくもそのような人々が教会の集会に訪れた際の迎え方が問題とされています。これとは対照的に<汚らしい服装の貧しい人>も来ます。紀元一世紀後半頃のシリアや小アジアのキリスト教会のメンバーは、大体貧しい人が多かったのです。このような二種類の人々を迎える教会員の態度が示されます。

    最初の<立派な身なりの人>にたいする教会の態度は、確かに相手を丁重に扱い、尊重しているようですが、実際はその身なり によってそのような姿勢を示しているに過ぎません。次に<貧しい人たち>への態度ですが、相手を粗末に扱い、見下しています。このような差別は人間の利己的判断に基ずくものであり、この世の基準によったもので、教会的判断とは到底言えないものです。<誤った考えに基づいて判断を下>すとは、教会が教会であるための最後のよりどころである、キリストの福音に対する信仰告白を放棄してしまっていることになります。

  「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。」(2:5~7)

   <世の貧しい人たち>とは、物質的窮乏のゆえに様々な不利益を被っている人たちを指しています。たしかに彼らは社会的には不遇ですが、しかしそのことは信仰の面からは何らマイナスではなく、むしろ神によって選ばれ、<信仰に富>む者とされ、神を<愛する者に約束された国を、受け継ぐ者と>されたのです。貧しさそのものが称賛されているのではありません。ヤコブが貧しい人たちへの約束を語るのは、その貧しさに信仰が加わり、神への愛が伴われていることが条件になっています。

 だが、あなたがた(教会)は<貧しい人>に対して不当な態度を示したことを想定してこれを非難しています。このような態度は、ちょうど<富んでいる者たち>が貧しいキリスト者を告発し、<裁判所へ引っ張って行く>のと全く同じことだと、ヤコブは主張します。自分たちと同じ貧しい人に対しては、その人の側に立って援助しなければならないのに、これをはずかしめることによって自分たちを富んでいる者たちの立場においてしまったのです。

  <あなたがたに与えられたあの尊い名>とは、キリストの名のことです。貧しい者をはずかしめ、虐げることはとりもなおさずイエス・キリストの名を汚すことになります。<彼らこそ>は、直接には<富んでいる者たち>を指すが、あなたがたも同じ立場にあると言っているのです。

   「もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」(2・8~9)

   <隣人を自分のように愛しなさい>という隣人愛の戒めが引用されます。この句はレビ記19・18によるもので、イエスもこの句を引用して、福音による律法として新しく生かしています(マタイ22・39)。ヤコブの場合は、旧約の忠実な継承者のようですが、この句を<最も尊い律法>と呼んでいます。この律法を実行しているなろよろしいいが、もし、この<尊い律法>に従わず、<人を分け隔てするなら>、<罪を犯すこと>であり、その結果<律法の違反者と断定され>るのです。

  神は、独り子を世にお遣わしになりました。この方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたしの内に示されました。イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。イエス・キリストが十字架に架かられたのは、すべての人のためです。神にはえこひいきはありません。この混じりけのない愛を知った時、私たちは真実の愛が分かりました。

  「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされるのです」(ヨハネの手紙一、4・16)とあります。神様に愛されて、初めて愛を知った。その愛の神様のうちに留まることで、私たちのうちに愛が完全なものとなるのです。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。「これが、神から受けた掟です」とヨハネの手紙は勧めています。

   使徒パウロは、コリントへの手紙一の13章で、真実の愛について教えた後で、「愛を追い求めなさい」(14・1)と勧めています。神の霊的賜物としての愛を祈り求めなさいと勧めているのです。分け隔てのない愛に富む者に、日毎に造り替えていただきましょう。愛がなければ、たといどのような強い信仰があろうとも、また、全財産を貧しい人々に施そうと無に等しいのです。

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「富にではなく、神に望みを置くように」 

2015-09-20 02:30:10 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

      聖霊降臨節第18主日  2015年9月20日(日)    5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

                                      司会 永井 慎一兄

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを) 

交読詩篇   19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、

聖 書 テモテへの手紙一、6章1~12節(新p.389)

説  教  「富にではなく、神に望みを置くように」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 530(主よ、みこころ)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                    次週礼拝 9月27日(日)午後5時~5時50分。  

                     聖書  ヤコブへの手紙2章1-9節

                     説教  「金持ちと貧者」

                     賛美歌(21)  545 24

                     交読詩編  73 

   本日の聖書 テモテへの手紙一、6章1~12節

 1軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。 2主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。これらのことを教え、勧めなさい。 3異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、 4その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、 5絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。 6もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 7なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 8食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 9金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 10金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。 06:11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 06:12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

        本日の説教

    テモテへの手紙は、使徒パウロがテモテへ宛てて書いた手紙ですが、パウロとテモテの関係は、パウロがローマ帝国のガラテヤ州リカオニア地方の植民地リストラに最初の伝道旅行(紀元48年頃)を行ったときにはじまりました(使徒言行録14・8~23)。パウロがリストラを再訪問した第二伝道旅行(49年頃)のときには、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父に持つ、テモテという弟子がいました。彼は、リストラやイコニオンのキリスト教信者たちの間で評判の良い人でした(使16・1~3)。

 

   テモテの母エウニケと祖母ロイスは、パウロの導きで回心した敬虔なユダヤ人キリスト者でした(テモテ二、1・5)。テモテは割礼を受けていなかったが、幼い日からヘブライ語聖書を良く学んでいました(テモテ二、3・15)。パウロはテモテを自分の伝道旅行の同行者に選び、連れていくことにしました。パウロはその地方に住むユダヤ人を配慮して彼に割礼を授けました。テモテとパウロは、伝道のためにヨーロッパの土を踏んだ最初のキリスト者でした(使16・9)。

 

   テモテはパウロの同行者として使徒言行録にはしばしば現れます。また、パウロの手紙の冒頭の挨拶にも、パウロの協力者として名をつらねています(コリント二、フィリピ、コロサイ、テサロニケ一、二、フィレモン)。テモテは<信仰によるまことの子>(テモテ一、1・2)、また<愛する子で、主において忠実な者>(コリント一、4・17)と言われているように、パウロの大事な同労者です。テモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています(テサロニケへ[テサロニケ一、3・2]、フィリピへ[フィリピ2・19~24]、コリントへ[コリント一、4・16~17])。パウロとテモテは二年以上もエフェソで働きを共にし、パウロは、将来、テモテをエフェソの教会の主任牧師にしようと考えていました。

 

  テモテの手紙一によると、パウロとテモテはエフェソで一緒に活動していましたが、パウロはやがてマケドニアに向けて出発し、テモテは異端から教会を守るためにエフェソに留まりました(1・3)。エフェソでは、内部の者たちが問題を起こしていました。教会は、按手した長老たちにより誤った道に導かれていました(テモテ一、3・2、5・17)。不品行な者たちが公然と教師に任命され、彼らはとくに若い女性たちの、中でもやもめの弱さを食い物にしていたのです(テモテ一、2・9~15、5・3~16)。彼らによる破壊的仕業がテモテへの手紙一の執筆を要する緊急事態でした。パウロはテモテに自分の重大な召命にふさわしく行動すうように勧めたのです

  しかし、このよう状況は、使徒言行録や他のパウロの手紙にも見出すことが出来ません。また、用語、文体、教会制度、などから判断すると、著者をパウロとする伝統的な立場には疑問が残ります。著者は、パウロ以後の教会に必要と思われる牧会上の勧告をパウロの名によって権威づけようとしたものと思われます。著作年代は二世紀初めと推定されています。テモテへの手紙一、二と、テトスへの手紙は、「牧会書簡と呼ばれ、牧会上の注意・勧告からなっています。

 

  テモテの手紙一の冒頭でパウロはテモテに偽預言者や偽の教理に騙されないようにと警告します。しかし手紙の大部分は牧師としての行動がどうあるべきなのかについて書かれています。パウロはテモテにどう礼拝すべきなのか(2章)、また教会の為に成熟した指導者達を送り出す為にはどうすればいいかを指導します(3章)。この手紙には個人的な生活習慣、偽教師達についての注意、罪に陥ってしまった教会員や、やもめ、長老や奴隷達に対する教会の責任についての教えが書かれています。手紙全体を通してパウロはテモテに堅く立ち、耐え忍び、召しに従って歩み続けるようにと励まします。

 

 今日の聖書の箇所である6章1節から12節までのパウロの教えを学びましょう。

 

  「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。」(6・1、2a)

 

  初期のキリスト教会の信徒の中で奴隷の占める割合は大きく、パウロの手紙には奴隷に関する勧めがしばしば見られます(エフェソ6・5~、コロサイ3・22~、テトス2・9~)。ここでは主人がキリスト教徒でない場合(1節)とキリスト教徒の場合(2節)について指示が与えられています。<軛の下にある>は、低い身分で、やむを得ず力を奪われた人々の休息のない労働を意味しています。

 

  ここではキリスト教徒の奴隷が考えられています。<主人を十分尊敬すべきものと考え>るとは、模範的な奴隷として主人に服従し、仕えなさいということで、それは教会の外の者たちの間でキリスト教の評判を悪くしないためであると言われています。

 

  2節の奴隷と主人の両方がキリスト教徒である場合には特別な問題が生じます。<軽んじる>は軽蔑するというよりもむしろ相手の立場に対する当然の考慮を怠って振る舞うことです。そいうことのないように、いっそう熱心に仕えるべきであると教えています。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、神に愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。

 

  「これらのことを教え、勧めなさい。異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。」(6・2b~5)

  <異なることを教え>とは、異端の教えです。もし、だれかが別の教えを選択させようとして、違うように教ようとするならば、彼らはそれにより、<わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉>や、信心に基ずく教えから離れようとしているのです。<信心>は神への畏敬とそれにふさわしい生活態度のことです。イエスの健全な言葉を図々しく拒否する者たちは、高慢になって何も見えず、自ぼれで得意満面になっていました。彼らは最高の知識を持つかのように人を欺いていたが、実は何も分からずにいました。自己の教えを主張し、人々にあえて、議論や口論を引き起こすようなことを語ることに病みつきなっています。彼らの道は、「精神の腐っいる人々の間にねたみ、争い、中傷、邪推、言い争いを生じさせます。これらのことは<信心を利得の道と考える者>の間で起こるものです。異端教師は、自分たちの教えを聞く者たちから多額の謝礼を要求していたようです。テモテは「年が若いということで、だれからも軽んじられてはならず(4・11)、これらのことを教え、勧めなければならないのです。

 

  「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(6・6~10)

 

  信心は、<この世と来るべき世で命を約束するので>(4・8)、すべての点で益となり、<満ち足りる>ことの平静さをもたらし、さらに永遠の命を約束するゆえに大いに益があります。<なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。>この言葉はヨブ記1:21や、コヘレト5・15でも用いられており、当時の世界でよく知られていたようです。次の<食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです>も、申命記10・8やイザヤ書3・7で用いられおり、当時生きるための最小限の言葉として知られていたようです。

 

  <金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。>金持ちになりたいという欲望は現代社会に浸透しています。お金さえあれば、人は、幸せになれると思い込んでいる人たちも多いと思います。「無分別で有害なさまざまな欲望」と言われているように、人の欲望は限りないものです。人は、無分別にも、すなわち、愚かにも、いろいろな欲望に支配されてしまうものです。例えば、金銭欲、所有欲、権力欲、名誉欲、また、性的な欲望もあるでしょう。そして、それらに支配されてしまえば、人は「滅亡や破滅に」陥るでしょう。

 

  <金銭の欲は、すべての悪の根です>も当時一般に知られていた諺です。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3・5)とあるように、富に対するあくなき欲望は偶像礼拝です。生ける神に望みを置くのでなく(6・17b)、富に望みを置くからです。これが「金銭の欲は、すべての悪の根」である理由です。金銭欲のゆえに信仰から脱落し、さまざまの精神的苦痛に悩まされた者たちのことを想い起こさせます。

  法外な金銭欲が、ユダにイエスを裏切るように仕向け、アナニアとサフィラに偽りの報告をさせ(使5・1~11)、して愚かな金持ちがすべて安泰であると思い込むようにそそのかしたのです(ルカ12・13~21)。同じような多くのことが社会には絶えることなく起っています。それゆえ金銭欲を捨てなさい、と言っています。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもともできないからである(ルカ12・15)」と主イエスは教えています。

 

  「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(6・11~12)

 

 「神の人」という表現は、<神の人モーセ>(申命記33・1)というようにも用いられました。パウロは、テモテを「神の人」と呼んでいます。教職者としてのテモテを神の僕と意味で用いているものと思われます(テモテ二、3・17に<神に仕える人>とあります>)。あなたは<これらのこと>を避けなさい。<これらのこと>とは、金銭欲だけではなく、これまで警告されたすべてのことを指しています。これらのことを<避けなさい>と命じています。実りのない、つまらない口論を避けなさい。できるだけ、人々を傷つける貪欲で、わけのわからない話をして災いの元をつくる人々との間に距離を置くように、と勧めています。

 

 次に攻撃です。神自身の性質を正確に反映する特質、つまり、正義を追い求めなさい。<正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい>と勧めています。六つの徳目があげていますが、これらは聖霊が結ばせてくださる実です。これらの善をもって、悪に立ち向かい、信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい、と勧めます。同時に、パウロは、テモテに<、永遠の命を手に入れなさい。命を得るため、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです>と記しています。<多くの証人の前での信仰の立派な表明をしたのは、洗礼任職式(按手礼)の両方を指しています。このことは多くの証人の面前でなされたテモテの信仰告白を指しています。その召命に忠実でありなさい、とパウロは勧めているのです。

 

  このテモテへの手紙の最後の部分でも、パウロは次のようにテモテに勧告します。

 

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのでなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」(6・17~19)

 

 

 

 

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「すべてを主イエスの名によって行い、神に感謝しなさい」コロサイの信徒への手紙、3章12~17節

2015-09-12 20:33:14 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会

            週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

     聖霊降臨節第17主日  2015年9月13日(日) 5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  10(今こそ人みな) 

交読詩篇   33(主に従う人よ、主によって喜び歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、

聖 書 コロサイの信徒への手紙、3章12~17節(新p.371)

説  教  「すべてを主イエスの名によって行いなさい」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                       次週礼拝 9月20日(日)午後5時~5時50分。  

                        聖 書 テモテへの手紙一、6章1-12節

                        説 教    「世の富」

                        賛美歌(21)521 530 24

                        交読詩編  19篇

 本日の聖書 コロサイの信徒への手紙、3章12~17節

  12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

          本日の説教

  コロサイの町(トルコ西部のホーナズ近郊)は、ローマ帝国のアジア州に属するフリギア地方にあり、リュコス川上流の南の小さな丘の上にあります。コロサイは未発掘の丘の下に眠っています。そこより17キロ下流に、黙示録に出てくる七つの教会のうちに数えられているラオディキア(現在のデニズリの近郊)と、さらに15キロほど下流にヒエラポリスがあります。ヒエラポリスの近郊に温泉の湯煙と石灰棚で有名な世界遺産のパムッカレ(綿の城の意)があります。

  コロサイは、トルコのエーゲ海に面した港湾都市イズミールの南およそ75キロに位置するエフェソ(現在名はエフェス)より東200キロほど内陸部にあり、東方に向かう主要道路に面していたことと、毛織物の産地であったことで栄えていましたが、パウロの時代は、小さな町になっていました。

    イエスの福音がコロサイを含むアジア州に広まったのはパウロの第三伝道旅行(紀元53~56年)の途中、エフェソに約2年滞在中のことです。(使徒言行録19章1、10節参照)。コロサイ出身の異邦人エパフラスがパウロの伝える福音をエフェソで聴いて信仰に入り、パウロの協力者となったエパフラスが、コロサイに福音を伝えました(コロサイ4・12以下)。コロサイの信徒たちはユダヤ人ではなく異邦人が多数を占めていました。

  このように、コロサイやラオディキア、ヒエラポリスなどへは、エフェソからパウロの仲間たちが出掛けて宣教したようです(コロサイ4・13)。また、おそらくエフェソ出身のティキコをパウロはコロサイに遣わし、教会の事情を報告させています(4・7以下、使徒言行録20・4)。パウロはコロサイには行ったことがないように思われるのは、次のような文面から予想されます。

 「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人々のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」(2・1)

  コロサイの伝道は、エパフラスによってなされたことは、次の文面から読み取れます。

 「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はあなたがたのが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、非常に労苦しています。」(コロサイ4・12~13)

  コロサイ書は、フィリピ、フィレモン、エフェソ書とともに、パウロの獄中書簡と呼ばれています(コロサイ4・3、10、18)。従来、投獄されていた場所として、ローマ、カイサリアが想定されてきましたが、エフェソで約二年いた間(53~54年の前後)に投獄されたとする説が有力です(コリント一、16・8)。

  しかし、手紙の文体や語彙や表現形式などと、思想がパウロの真正な手紙ではないとし、パウロの死後に弟子によって80年代に書かれたと推察する説があります。

  エパフラスは、おそらくエフェソで捕らわれの身となっているパウロを訪問し、コロサイのキリスト者たちのキリスト・イエスに対する信仰と、すべての信徒に対する愛を知らせたのでしょう。パウロはそれを聞いて神に感謝しています(1・3~8)。しかし同時に、この教会は異邦人が多かったので(1・27、2・13)、欲望を欲しいままにする異教の習慣に逆戻りする危険性がありました(3・5~11)。そこで、道徳的にすぐれたキリスト者の生活を具体的に教える必要がありました(3・12~4・1)。

  更に、コロサイの教会に、キリストの信仰を危うくするような異端的教えが入ってきたので、パウロは黙しきれず筆をとったのがコロサイ書です。パウロは、「あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」、また、「人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」と警告しています。

   この異端はユダヤ教の律法遵守と関係があったらしく、割礼や食べ物についての禁止規定、祭り、安息日を強調する点ではユダヤ的です(2・11、16)。また「天使礼拝」や「幻を見る」といった神秘主義的傾向があり(2・18)、哲学的な議論をし(2・8)、「手をつけるな。味わうな。触れるな。」といった霊力としての律法的規定を神聖視して、その束縛の下に立っていたのです(2・21、23)。「汚れ」や「不完全さ」を克服しようとして、からだを敵視した不自然な生活や修行・禁欲を行い、それをもって天に至る準備とすることは、しばしば、底知れない傲慢と利己主義をはぐくむ霊性や宗教となる危険を手紙は警告しています(2・18、23)。 

   パウロはこうした霊力を信じる信仰の間違いであることを示すために、キリストは御使いも含めたあらゆる被造物の上に立つ方であって、創造に関与し、被造物を支えておられ(1・15~17)、キリストこそ宇宙の安定と調和の基礎であることを説き、彼こそ天への唯一の、神から遣わされた仲介者であることを信じて、高らかに歌い励ましています(1・15以下の賛歌)。 

  また御子・キリストは、その体である教会の頭であり(1・18)、初めの者、死者の中から最初に生まれた方であり、神は十字架の血によって、万物をただ御子によって和解させられたのであり、神はあなたがたと御子の死によってて和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(1・22)、とパウロは説いたのです。そして、このキリストを信じて救われている信徒が、今更他の諸霊力を崇拝し、また律法の規定に従うべき理由がないことを教えています(1・13~3・4)。

  さらにパウロは、3章1~4章6節で、キリスト者の実際生活を論じています。

  「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい(3・1)」。このことは、わたしたちの古い習慣をぬぎ捨て、真の知識を語り、赦し合い、キリストにある家庭を築き、客をねんごろにもてなすことであると教えています(3・1~4・6)。

  今日の聖書の箇所3章12~17節を学びましょう。

  3章1~11節のところでは、十の悪徳が述べられ、それらを捨てなさい、命じています。「地上的なもの、すなわち、①みだらな行い、②不潔な行い、③情欲、④悪い欲望、および⑤貪欲を捨て去りなさい。……今は、そのすべてを、すなわち、⑥怒り、⑦憤り、⑧悪意、⑨そしり、口から出る⑩恥ずべき言葉を捨てなさい。」

   わたしたちは、イエス・キリストの死にあずかることによって、全く完全な者になったのでしょうか。わたしたちは現在「神の子です」。しかし、そのことはもう完成したというわけではなく、まだ完成していない面があります。「私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。」(ヨハネ一、3・2)このように、今与えられている約束には、やがてその成就があります。「このような望みをいだいている者は皆、彼がきよくあるように、自らをきよくします。」パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです(フィリピ3・12)」、と言っています。目標をめざしてひたすら走るべきなのです。それぞれ、到達したところに基づいて進むべきです。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣い新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」わたしたちは、人間の力によるのではなく、救い主の力といのちにあずかる時、日々新たにされていくのです

  12節では、信徒たちは「神に選ばれ、聖なる、愛されただから」と呼びかけられ、五つの徳目が記されています。憐れみの心、②慈愛、③謙遜、④柔和、⑤寛容を身にまといましょう」と勧められています。

   パウロはコロサイの信徒が、神に選ばれ、罪を赦され、義とされ、聖なる神の子とされ、キリストに愛されている者であることの自覚をうながします。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めているのです(ローマ8・37)」ということを伝えたいのです。そして、キリストを模範とし、キリストに倣う者となりましょう、と五つの徳目を身につけるように勧めたのです。

  互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい(3・13)」。

   「主があなたがたを赦してくださったように」とあります。私たちは、主に罪をゆるされる者として、互いに隣人の罪をも赦し合う者へと変えられていくのです。

  「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです(3・14)」。

  なによりもすべてをはぐくむ「」を身につけるようにと命じられます。それはすべてを完成へと導く絆となると勧めています。「たとえ、完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい(コリント一、13・2)」のです。

 「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい(3・15)。

  キリスト者が各自ばらばらでなく、一体となるように召されたのは、キリストの平和が実現するためです。主から与えられる赦しと愛の力によって問題を解決し、平和に到達することを、神はわたしたちに求めているのです。

  いつも感謝するようにと勧められています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい(テサロニケ一、5・16~18)」、<これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに求めておられることです>とパウロは勧めています。 

  「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい3・16)」。

  キリストの言葉とは、聖書でイエスが語った言葉だけでなく、キリスト自身をわたしたしの内に宿し、霊的に生けるキリストの言葉を宿し、キリストから与えられる知恵を尽くして、互いに教え、諭すことが求められています。

  「詩編と賛歌と霊的な歌」は、当時の教会の讃美歌の分類だったのかも知れません。賛美の歌も感謝にあふれたものにするようにと勧めています。

  「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい(3・17)」。

  パウロは、話すにも、行うにも、すべて主イエスの名によってなされ、イエスによって父なる神へ感謝するようと、勧めています。すべてはキリスト中心です。キリストという言葉が二度も使われています。感謝という言葉も二度も出ています。

   エフェソ5・19には、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」とあります。神の力といのちによって、日々新たに造りかえられ、すべてを主イエスの名によって行い、神に感謝する日々を送りましょう。

 

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「十字架の他に誇るものなし」ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節

2015-09-06 20:26:07 | 説教

        ↑ ピシディアのアンティオケ(アンティオキア)からガラテヤ地方のベッシヌス→アンキラ(アンカラ)→ドルライスへの矢印つき点線は、北ガラテヤ説のパウロの通った道をしめす。

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会

        週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと

願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 聖霊降臨節第16主日  2015年9月6日(日) 5時~5時50分 

         礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ) 

交読詩篇  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

聖 書 ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節(新p.350)

説  教  「十字架の他に誇るものなし」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 297(栄の主イエスの)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏

 

                                         次週礼拝 9月13日(日)午後5時~5時50分。  

                                      聖書 コロサイの信徒への手紙、3章12-17節

                                      説教  「新しい人間」

                                         賛美歌(21)10 436 24

                                         交読詩編 33篇

 本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節

  11このとおり、わた しは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。12肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。13割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。17これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。18兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

       本日の説教

     パウロが「ガラテヤの信徒への手紙」を書き送った<ガラテヤの諸教会>については二つの説があります。

 一つは、パウロが第一回伝道旅行(紀元46~48年頃)で訪れ、第二回伝道旅行(紀元49~52年頃)で再び訪れたローマの属州であるガラテヤ州の南部のフリギア、ピシディア、リカオニア地方のアンティオキア、イコニオン、リストラ(使徒言行録13・3~14・27参照)の諸教会とする「南ガラテヤ説」があります。

   もう一つは、パウロが第二回と第三回伝道旅行(紀元53~58年頃)に訪れた可能性のあるガラテヤ州北部の本来のガラテヤ人定住地のアンキラ(現トルコの首都アンカラ)を中心とする地域一帯にできた諸教会とする「北ガラテヤ説」があります。

    このガラテヤ書が、どちらの教会に宛てられたのかは、学説が二つに分かれ、決定することは難しいのですが、「南ガラテヤ説」によれば、この手紙は第一回伝道旅行後のエルサレム使徒会議(紀元48年頃)の直前か直後に、シリアのアンテオキアか、エルサレムへ行く途上で書かれたとされています。

 「北ガラテヤ説」によれば、この手紙は、第三回伝道旅行中、おそらくエフェソに二年間滞在していた時(紀元53~54年頃)に書かれたと推定されています。今日の学会では北ガラテヤ説が有力視されています。使徒言行録18・23に「パウロは…ガラテヤやフリギアの地方を次々と巡回し」とあり、16・6にも、「彼らは…フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」と、フリギアとガラテヤが併記されているからです。この場合のガラテヤは地方のガラテヤのことであり、北部ガラテヤを指すとしか考えられないからです。

   この手紙を書いた執筆の動機は、パウロがガラテヤの諸教会を立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者に惑わされて、信徒たちが「真の福音」から離れて、ほかの福音に移っていく重大な事態が生じたからです(ガラテヤ1・6)。

  ユダヤ人キリスト者の教師たちは異邦人キリスト者に律法、ことに割礼の遵守を迫りました。彼らは教会を乱し、パウロの使徒職を疑問視し、パウロとパウロの教えを排除しようとしました。パウロにとって、彼らのそのような言動を放っておくことはできません。彼らの教えは福音が与える「律法からの自由」を失い、キリストの十字架の死によって成し遂げられた救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものをユダヤ教に換えてしまうことに他なりません。

  そこでパウロは、福音とは何であるかを説明します。彼は先ず、自分が説く福音は、キリストの啓示にもとづくものであり、エルサレムの使徒から受けたのではなく、独自のものであることを、具体的な事実により主張します(1・11~2・21)。こうしてパウロは、自己の回心と召命の事実を語り、エルサレムの使徒たちと対等の立場にある、キリストによって選ばれた使徒であることを宣言します。次いで、すべての人は律法の行いによるのではなく、救い主キリストを信じる信仰によって救われるという「信仰義認」を説きます(2・15~21)。

  パウロはユダヤ人の父祖アブラハムを諸民族の「祝福の源」として神が選んだのは、神は初めから罪人を信仰によって義と認める計画を立てていたからだと説きます。神がユダヤ人にモーセを通して律法を授けたのは、アブラハムから430年後のことであり、それは人が律法を行おうとして罪の意識と自覚を与えるためであり、キリストの救いに導く養育係りの役目を果たすためである(3章6~25)。

  罪の支配されている人間は、神の律法を完全に守ることができません。(律法はキリストが山上の説教で教えたように、罪ある人間にとっては実行不可能な戒律です。)罪人が聖なる神との交わりを回復する救いの道は、キリストの十字架の死によるあがないと、罪と死に勝利した復活による救いを信じることによって開かれる。キリストを信じて神との交わりを回復した者は、神の子とされ、御子キリストの聖霊を受ける。人を律法の呪いから贖い出して、信じる者に御霊を与えて、神との生ける交わりのうちに歩む新しい生活へと導く入れることが出来るのは、十字架と復活のキリスト、この福音のみである。人はキリストを信じる信仰によってのみ、神によって義と認められ、神の子として受け入れられ聖なる神との交わるにあずかることが出来るのである。このようにパウロは福音について教え、説いたのです。

  パウロの反対者たちは、パウロの福音は律法の行いを無視し、無律法主義の危険を招くと批判しました。このような非難や疑問に答えたのがガラテヤの手紙5章以下です。

   御霊が創造する新しいいのちは、人間生活を道徳的にする原動力となる。信仰によってキリストに結ばれているとき、その人は御霊によって歩み、肉の欲望に打ち勝つ力を与えられ、御霊の実を結ぶ生活に導かれる(5・16~23)。それゆえ、キリスト者の自由は無律法主義の危険を克服し、愛をもって互いに仕え合う生活をすることによって、キリストの律法を全うするのです(5・13~14)。

  キリスト者の自由は、キリストと共に十字架につけられ、キリスト共に復活させられた者となり、キリストの御霊との親密な交わりのうちに歩むことにあります。肉の欲望と行いを聖霊の力をいただいて退け、霊の導きに従ってたゆまず善をを行い、愛の実践に励む信仰こそが大切なのです(5・25~6・10)。これがパウロの説いた福音に生きる者の生き方です。

   今日の6章11~18節は、手紙の結びの言葉です。

このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

  当時の手紙は口述筆記です。パウロの語ったことを筆記者に書かせたのです(ローマ16・16)。筆記者による口述筆記は6章10節で終わり、手紙の結びはパウロが直筆で書くのです。他のパウロの書いた手紙では、結びは短い挨拶の言葉と祝祷だけパウロが親しみを込めて書いています(コリントの信徒への第一の手紙やテサロニケの信徒への第二の手紙参照)。だが、このガラテヤの信徒への手紙では、かなり長い結びの言葉になっています。<こんなに大きい字で、自分の手で書いています>と、通常の手紙には意外と思われる断り書きがあります。大きな字で書いたのは、パウロが眼病を患っていたからとする説がありますが、この強調は、重事を改めて、まとめて告げようとする意図がこめられたものと思われます。

 「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。

  いつわりの福音を伝える敵対者たちを思い起させ、<肉において恰好よくみなされたい>と願って、あなたがたに割礼を強いるのは、ユダヤ教徒から背教者として迫害されることを恐れ、身の安全を守ろうとする自分たちのためを思ってのこと以外のなにものでもない。パウロは彼らの魂胆を暴いてみせます。<キリストの十字架>が原因である迫害を逃れようとすることは、パウロにとって福音の否定することであり、彼らの立場には同情の余地がありません。

 「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。

    彼らの考えと行動のあざむきを暴いたパウロは、今度はその矛盾を皮肉な調子で指摘します。あなたがたに割礼を望む彼らの意図は、<あなたがたの肉について誇るためであり>、それはユダヤ教徒の迫害を免れさせることになうからです。割礼を受けている彼ら自身は、実は律法を守ってはいないのですから、割礼を勧めるの彼ら身の動機はまったくの自己満足と形式主義に過ぎないのです。

 「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

  パウロは彼らの誇りについて語ったので、今度は自分自身の誇りについて高らかに宣言します。その誇りとは、<主イエス・キリストの十字架>以外に<誇るものが決してあってはなりません>という断固とした調子で宣言しています。

 「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

  ここで言われている<世>とは、<律法>を生きるよりどころとするような人間の生の現実を表しているとみなされます。わたしと世とは互いに相手に対して十字架にはりつけにされている、つまり縁もゆかりもなくなってしまっているのです。

  「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されされることです。

  キリスト者の実存が、ではなくキリストをこそよりどころとするものであることが強調されています。<古い人>から<新しい人>への転換は、洗礼によって実現されるのですが、<新しく創造されること>とは、キリスト者がキリスト者であること、またそれにふさわしく生きることです。

 パウロはコリントの信徒への手紙二の5章17節で「キリトと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と述べています。

  こうしてキリストを通して始められた新しい創造の御業に与ることこそが、救いにとって重要な事柄なのです。

  「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

  パウロは当時の書簡形式に従って終わりの挨拶に移ります。<平和と憐れみ>を、神とキリストに願い求める祝福が述べられています。<このような原理>とは、「キリストの十字架」と「新しい創造」のことです。すなわち、キリストを実存のよりどころとするキリスト者のことです。<神のイスラエル>は、<肉によるイスラエル>との対比が意識された表現です。真の意味で{アブラハムの子・イスラエルの民となっているキリスト者を指しています。

  「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。

   <煩わす>とは、言うまでもなく、ユダヤ人キリスト者の<偽りの福音>に惑わされて、パウロの伝えた<真の福音>から離れ、偽りの神々に仕えるかつての「奴隷状態」へ逆戻りの道を歩むことであり、パウロの心を痛ませ、悩ませ、そしてこのような手紙を書かせることです。<焼き印>は奴隷が主人の所有物であることを表す入れ墨のようなしるしですが、パウロはこの語を用いることによって、自分が「主であるキリスト」に仕える奴隷となっており、またその保護下にあることを示そうとします。同時に、この「焼き印」は彼が宣教中キリストのゆえに被った迫害の傷痕であり、それもキリストの受難に参与する証しとして理解された傷痕を意味すると考えらえます。これはイエスに仕える真の使徒であるという主張に他なりません。

  「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

   パウロの手紙の末尾の祝福です。<兄弟たち>と呼びかけ、祝福が<あなたがた>に向けられています。祝福の語として、イエス・キリストから、したがって神から与えらえる恵み」があるように祈られています。<アーメン>は、アラム・ヘブライ語の音訳で、「まことに、確かに(そうであるるように)の意味があり、祈りの末尾に添えられるものです。

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