富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「ペトロによる、しるしと不思議な業」使徒言行録9章32~43節

2016-06-24 15:33:49 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会

                       週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第7主日       2016年6月26日)   午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 405 (すべての人に)

交読詩篇   49編(諸国の民よ、これを聞け)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   使徒言行録9章32~43節(新p.231)

説  教    「ペトロによる、しるしと不思議な業」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 481(救いの主イエスの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                       次週礼拝 7月3日(日) 午後5時~5時50分

                                        聖書  使徒言行録24章10~21節

                                        説教    「復活の希望」

                                        讃美歌(21)327 545 24 交読詩編 96篇

本日の聖書 使徒言行録9章32~43節

 32ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。33そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。34ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。35リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。36ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。37ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。38リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。39ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。40ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。41ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。42このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。

             本日の説教

 今日の聖書の個所に入る前に、エルサレム以外のユダヤの地やサマリアの地でのペトロのこれまでの働きについてお話しいたします。

  ンテコステの日に聖霊が弟子たちに降り、主イエスの十二使徒の筆頭であるペトロは、この日から、エルサレム市内や、神殿でユダヤ人の民衆に福音を語り始めました。使徒たちの手によって多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われ、多くの男女が主を信じ、その数がますます増えました。6章には、使徒たちを補佐する七人の人が選ばれたことが記され、その中に、ステファノとフィリポの名があります。7章では、ステファノの説教と殉教が記され、サウロ(後のパウロ)は、ステファノの死を目撃しました。その日、エルサレムの教会に対する大迫害が起こりました。

十二使徒以外の者は、ユダヤ、サマリアの地方に散って行きながら、福音を告げ知らせました。七人の補助者の一人に選ばれたフィリポはサマリアの町に下って行き、人々にイエス・キリストの名についての福音を宣べ伝えました。人々は信じ、洗礼を受けました。エルサレムにいたペトロとヨハネは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、サマリアに行き人々が聖霊を受けられるように祈りました。人々は洗礼を受けていただけで、聖霊はだれも受けていなかったからです。二人はサマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサエムに帰りました。

  その後、フィリポはエチオピアに帰るためガザの方に向かって旅していた高官(宦官(かんがん)・去勢された宮廷に男性)に福音を伝え、洗礼を授けてから、アゾトに姿を現し、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行きました。

  9章には、シリアのダマスコにいるキリストを信じる信徒たちを迫害するために向かったサウロ(ギリシャ名はパウロ)が、ダマスコに近づいたとき、天から語りかける主イエスの声を聞き、回心してイエス・キリストを信じ、ダマスコで福音を伝えました。かなりの日数がたてから、サウロを殺そうとするユダヤ人の手から逃れて、サウロはエルサレムに着き、使徒たちに宣教の報告をしました。エルサレムでも、ギリシャ語を話すユダヤ人たちがサウロを殺そうとねらっていたので、兄弟たちはサウロを連れてカイサリアに下り、そこからサウロの出生地のタルソス(トルコ中南部の都市タルスス。アダナから西へ約40km離れた 地中海沿岸に位置する)へ出発させました。

  こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方に増え、平安を得ていました。主に対する畏れ、主の支配にもとで教会は建てられ、聖霊の励まし、慰めによって、信者の数は増えていきました。

  ここから本日の聖書の箇所に入ります。ペトロは再びフィリポの伝道した後を訪ね、信徒の信仰を一層強めるため、海岸沿いの地域を巡回することにしました。ペトロはエルサレムの北西40キロにあるリダ(旧約聖書ではロド)に行きました。すでに教会はフィリッポの宣教によって設立されており、そこには<聖なる者たち(信徒の意)>がいました。ペトロはアイネアという八年前から床についていた中風(ちゅうぶ)(脳血管障害〈脳卒中〉の後遺症による半身不随の状態を指す言葉です)の人に会いました。おそらく老人だったのではないかと思われます。体の不自由なことは本人にとってつらく苦しいことであり、周囲の者たちにも気の毒に思える状態です。病気、老い、介護の問題は、昔も今も深刻な問題です。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がりました。かつて、ペトロはエルサレム神殿の美しの門で、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、生まれながら足の不自由な人をいやしたことがありました(使徒言行録3・1~10)。そのいやしは、ペトロではなく、「イエス・キリストがいやしてくださる」のです。主イエスご自身も中風の人を癒されています(ルカ5・17~26)。

   いやされたアイネアを見て、リダとシャロン地方(カイサリアからヤッファにかけての海岸地帯)の人々は皆、主キリストを信じるようになりました。

  地中海に面したヤッファ(現在のテル・アビブのヤッファ)の町にヘブライ名はタビタ、ギリシャ名はドルカス(「牝のかもしか」の意)という婦人の信者がいました。彼女は数々のよい働きや慈善をしていた人でした。このような働きによって、ドルカスは教会にとってなくてはならない存在でした。彼女はやもめたちの世話や、自分のできる針仕事で衣服を作り与えていたのです。

  ところが、そのころ彼女は病気になって、ついに死んだのです。ヤッファの教会の人々は悲しみと落胆しました。人々は亡くなった彼女の体を洗い清め、別れを惜しみ、屋上の部屋に安置しました。かつてエリヤが、シドンのサレプタのやもめの子が死んだとき、階上の部屋に子ども寝かせて生き返らせたことがありました(列王記上17・17~24)。タビタも階上の部屋に置かれたのです。

 死は人生の最大の問題です。どうれば死別の悲しみが癒されるのでしょうか。どうしたら死を乗り越え、死に捕らわれない生き方ができるのでしょうか?

  リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼みました。リダとヤッファの距離は近く、18キロでした。ここもフィリポの伝道地でした。使いのしらせを受けたペトロは、リダをたって、その二人と一緒に出かけました。人々はペトロが到着すると、屋上の部屋に案内しました。すると、かつてドルカスから施しを受けていたやもめたちは皆ペトロのそばに寄って来て、泣き悲しみながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せました。ペトロは泣く女たち皆を外に出し、預言者エリヤ(列王記上17・19)やエリシャ(列王記下4・33)のように独りになり、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言いました。すると、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がりました。ペトロは彼女に手を貸して立たせました。そして、信徒たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せました。生き返ったタビタを見た人たちは、この信じられない出来事にどんなに驚いたことでしょう。そして喜んだことでしょう。この奇跡は終末に起きる復活の先取りのしるしでした。

   ペトロがタビタのしたことは、かつて主イエスが会堂長ヤイロの娘を生き返らせた時と似ています(ルカ8・41~56)。主イエスは、娘の父母や弟子たちを残し、人々を外に出しました。そして主イエスは「タリタ・クム」と言われました(マルコ5・41)。これは、「少女よ、(わたしはあなたに言う)起きなさい」という意味です。主は、「タリタ・クム」と言われ、ペトロは「タビタ・クム」と言いました。一字だけ違う大変似た言葉です。手を貸して立たせたことも彼女が生き返ったのを見せたところもよく似ています。しかし、根本的な違いは、主イエスはご自分の力で娘を生き返らせたことです。一方ペトロは、ひざまずいて祈り、主に願ってから「タビタ、クム(起きなさい)」と言ったのです。このペトロの言葉は、主ご自身の言葉として語られたのです。ここに主イエス・キリストが働かれたのです。キリストの復活の力、聖霊の力によって、タビタは生き返ったのです。この奇跡はヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じ、信者になりました。

  主イエスは、会堂長ヤイロの娘と、ナインのやもめの息子(ルカ7・15)と、べタニヤのラザロ(ヨハネ11・43)のと三人を生き返らせています。それはイエスが神の御子であることを証する目的のためであり、愛のあらわれとして行われたものでした。ラザロの場合は、彼の死を悲しんでいる二人の姉妹、マリアとマルタを憐れんだためであり、イエスが生も死もつかさどる神であり、イエスを信じる者は死んでも生きるのであり、決して死ぬことはないことをあかしするためでした。

  使徒言行録は、当時の教会が、言葉と力ある業、多くのしるしによって信者の数を増していったことを、くり返し述べています。奇跡を行う使徒たちの時代は、あの時代だけで終わったのでしょうか。聖霊の働くところ、そこには「イエスは主である」との信仰が生まれ、イエスの名は、天地の創造者である父なる神と同じように、命と死を与える力を持っていることを知らなければなりません。このキリストの偉大な力を受けたパウロは、次のように言っています。
 「異邦人を従順に導くために、キリストが私を通して働かれたこと以外は、わたしはあえて語ろうとは思いません。キリストが言葉とわざにおいて、しるしと不思議を現す力により、御霊(みたま)の力によって働かれたのです(ローマ 15;18~19)。御霊の「しるしと不思議を現す力」は今日も続いています。私たちは罪と死の力の支配に打ち勝つ復活の御霊をいただいているのです。

 

 

 

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「異邦人の救い」 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

2016-06-19 02:15:46 | 説教

「981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第6主日       2016年6月19日)  午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 405(すべての人に)

交読詩篇  126編16節(主がシオンの捕らわれ人を)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新p.354)

説  教    「異邦人の救い」       辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                     次週礼拝 6月26日(日) 午後5時~5時50分

                                      聖書  使徒言行録9章36~43節

                                      説教    「生命の回復」

                                      賛美歌(21)405 481 24 交読詩編 49篇

           

                本日の聖書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

 11だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

            本日の説教

   エフェソの信徒への手紙は、宛先がエフェソの教会となっていますが、他のパウロの手紙とは異なり、ただ一般的な教えが説かれているだけであって、差出人と受取人の具体的な状況記述がなく、宛先も不確かです。

     この手紙の著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場と、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があるからです。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています。これは読者の状況の違いや著者の目指した主題の相違などによる結果とも思われます。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。

   いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。

    内容は、1章~3章の終わりまでが教理的部分であり、人類に対する神の大いなる救いの計画と、キリストによるその実現と、さらにキリストの教会の意義とがしめされています。4章以下は、それに対する実践的な部分です。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。また、夫婦、親子、主人と奴隷などの関係をも説き、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励ましています。

   本日の聖書の箇所は,2章11節から22節までです。「だから、心に留めておきなさい」という言葉で始まります。「だから」とは、2章1節から言われていたことを受けています。2章1節から10節までで言われていたのは、「あなたがた」も、「わたしたち」も、以前は「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたので」、生まれながら神の怒りを受け、滅ぶべき存在だった、と言っています。しかし、このような罪に死んでいた私たちを、神は御子の十字架と復活にあずからせて、キリストと共に生かし、復活させ、天の王座に着かせてくださったのです、と語っています。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。御子キリストを信じる信仰によって救われたのです。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それはだれも誇ることがないためなのです、とあります。私たちは神によって、イエス・キリストにあって造られた者であり、神が前もって準備してくださった善い業を行って歩むようにしてくださったのです、と語っています。そして今日の箇所に入ります。

   読者の多くはユダヤではなく異邦人でした。「あなたがた」は、「肉によれば異邦人」の生き方していました。以前は、神がイスラエルの民に与えた「約束を含む契約」に関しては全く関係がなく、「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きて」いました。真の神を知らず、何が罪であるかも知らず、それ故まことに正しい道も知らず、死んだら終わりというところに生きていました、と言っています。私たちは神様の救いから遠く離れていた異邦人でした。しかし「今や」、「キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

   このように「以前は自分の過ちと罪のために死んで」(エフェソ2・1)いた者を、あわれみ深い神はキリスト・イエスにあって生かしてくださったのです。異邦人のクリスチャンは、常に自分の現在と過去とを比較することによって、神の恵みの偉大さを知るべきです、と説いています。

   一方、ユダヤ人たちは、自分たちの先祖にはアブラハムがいる、自分たちには神の約束があると言いながら、実際には「約束の契約」を守らず、神のみこころに背いた生活をしていました。それにもかかわらず、彼らは自分たちの置かれた神の民としての立場を誇り、他の民族を「異邦人」と呼び、心の底では穢れた民として彼らをさげすんでいたのです。

   確かに異邦人は「神を知ら」ない人達で、以前は「キリストと関わりはなく」、そのままでは望みのない人たちでした。しかし、今や神の御計画に基づいて、キリスト・イエスの血により、「遠い者」(異邦人)も、「近い者」(ユダヤ人)も、共に神との和解にあずからせていただいたのです。

   実に、キリストはわたしたちの平和であります。」キリストがご自分の死によって敵意という「隔ての壁」を打ち破り、規則と戒律ずくめの律法を廃棄してくださったからです。「平和」という語は、ギリシャ語ではおおよそ戦争のない時期を示しているが、聖書では平和な時期よりもむしろ平和な関係を示す語です。ここでは神と人、人と人との関係が平和であることを語っています。

   こうしてキリストは、「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

   ユダヤ人も異邦人も罪深い者であり、偏見と高ぶりに満ちていました。このような両者を「一つの体」とするために支払われた代価は、神の御子の十字架の死です。イエスの十字架のあがないの血によって、神と罪人との和解は成立し、人と人との間の平和も確立できるようになったのです。今では、キリストにおいて、ユダヤ人もなければ異邦人もありません。ただあるのは「一人の新しい人」です。

   この「一人の新しい人」というのは、キリストの体である教会を指しています。キリストはこの世においでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいるユダヤ人にも、平和の福音を告げ知らせました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができ、アバ父よといって祈り、神の家族となるのです。

   「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です。」最も遠い関係である「外国人」と「家族」の関係を例にとり、この世から召し出された聖徒たちの新しい関係を表現しています。ユダヤ人も異邦人も「キリストによって」一つの国民とされ、神の民として聖徒と呼ばれていることを明らかにしています。そればかりでなく、クリスチャンは「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができ」、神の家族とされているのです。家族とは、この世の中で最も基本的な単位です。神の家族の長は父なる神であり、御子イエスは長子です。

  ここで聖徒の群れを建物にたとえています。この比喩によってパウロが明らかにしようとしている真理の一つは、教会が地上における「神の住まい」となるということです。この「建物」の構造は、キリスト・イエスを礎石とし、使徒と予言者を土台とし、選ばれた信徒を一つ一つの素材として、「組み合わされた」ものです。私たちは、教会の構造の中に全体として組み合わされ、神の栄光を現す役割を果たさなければなりません。各人が生きた石であるように積み上げられることにより、建物全体が成長して行くところの建築のイメージをもって説かれています。使徒や預言者、そしてキリストさえ建物全体の素材の一部と見られています。キリストは「隅の親石」あるいは要石(かなめいし)」に譬えられています。ギリシャ・ローマ世界において、建築現場で大理石を積み上げて行く時、まずははじめに、「隅に親石」を置き、そして礎石、それから次々に大理石を積み上げて組み合わせていきます。アーチの頂点に最後にはめこむのが「要石(かなめいし)」です。体なる教会におけるキリストの機能の一つが「組み合わせる」ことですから、キリストは「隅の親石」に譬えられます。キリストなくしては建物はばらばらになり、分裂分派してしまいます。また、建物全体が、終末の完成をめざしているので、その完成である「頭」であるキリストへと向かって成長するので、キリストは「要石」に譬えられるのです。

  このように、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。教会が「聖なる神殿」にたとえられています。しかし教会は建物・建造物ではありません。聖徒の群れ、神の家族、信仰者の共同体を、建物に例えて語っているのです。あなたがたは神の神殿です」(Ⅰコリント3・16~18)キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。主の名のもとに二、三人いるところには、御霊の主が共におられ、聖霊が働いておられます。この霊の働きによって、聖徒の群れは神の住まい、神の家族となるのです。手紙は「あなたがた」と、直接呼び掛けて、一人一人が教会の成長と完成に向かって、協力し励むように励ましています。神は私たちを用いて個々の教会の成長のための人材としてくださるとともに、キリストを頭とする世界規模の神の家族としての教会の一員であることも覚えて、そのための教会形成の役割をも担っていること忘れてはならないと思います。

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「天のエルサレムを目指して」 ヘブライ人への手紙12章18~29節

2016-06-11 23:53:01 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   聖霊降臨節第5主日       2016年6月12日)   午後5時~550

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 498(道、真理、命)

交読詩篇   84(万軍の主よ)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヘブライ人への手紙12章18~29節(新p.)

説  教  「天のエルサレムを目指して」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                                     次週礼拝 6月19日(日) 午後5時~5時50分

                                                     聖書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

                                                     説教    「異邦人の救い」

                                                     賛美歌(21)405 402 24 交読詩編 126篇1~6節

              本日の聖書 ヘブライ人への手紙12章18~29節

 18-19あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。20彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。22しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、23天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 24新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。25あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。26あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」27この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。28このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。29実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

             本日の説教

   ヘブライ人への手紙は、宗教改革以前はパウロの著作とみなされていましたが、現在では、バルナバ(キプロス島出身のユダヤ人)やアポロ(アレキサンドリア出身のユダヤ人)といった人物が著者として支持されています。著者はテモテを知っている(13・23)、第二世代のキリスト者であり、ステファノやフィリポたちの立場を受け継ぐ人物です。

   受信者はヘブライ人とありますが、必ずしもユダヤ人に限られず、13・24の<イタリア出身の人たち>という句はイタリアないしローマを予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、離散したユダヤ人がいるローマの教会が予想されます。

   この文書は手紙とされていますが、手紙につきものの最初の挨拶がなく、13・22以下の終わりの挨拶部分は、後から特定の教会に送るために付加されたもので、手紙というよりも、著者によってなされた幾つかの説教を文書の形にまとめたものです。執筆年代は80~90年頃と予想されます。

   ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)です。

   今日の聖書の箇所では、第三部に属します。12章の18節~24節は、古い契約が与えられた山と新しい約束が与えられている山を比較します。古い契約はシナイの荒れ野の中でモーセを通して結ばれました。それは律法を守らない者は死ぬという厳しさの中にありました。新しい契約はエルサレムのシオンの丘で結ばれました。それは神の御子イエスによって与えられた福音です。あなたがたはすでに贖われて、天の国の住人になっているのだと、信徒を励まします。

  あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。」(18~19節)

   イスラエルの民が荒野でさまよったとき、シナイ山で経験した恐ろしい体験を例にあげて語ります。<あなたがた>は、この手紙(説教)の受け取り人である迫害によって散らされたキリスト者たちです。

   手で触れることのできるもの(山)>は、出エジプト記19・13によれば、主はモーセに対して、「山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ」と、民が山に近づかないように忠告しています。<黒雲>(出19・16~18、22・18)、<暗闇>(申命記4・11)、<暴風>は神が住まわれる場所、<ラッパの音(角笛)>(出19・16,19、20・18)は、神の顕現を現しています。<聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような(出20・19、申5・25、18・16)、<言葉の声>(出19・19、申4・12)とは、イスラエルの民が「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」と願い、直接神の声を聞くことに対して極度の恐怖心を抱きました。このように荒れ野のイスラエルの民がシナイ山のふもとで経験した恐ろしい光景が語られ、そのような出来事が近づいたのではないと言っています。

   彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。」(20節)

   出エジプト記19・12~13からの引用です。<彼ら>はイスラエルの民のことです。<命令>の言葉は、契約を守らないイスラルの民に対する神の怒りと憤りが現れています。

   また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。」(21節)

   申命記9・19との関連で語られています。人間の罪に怒る神の前では、イスラエルの民はもとよりモーセでさえ震えあがらざるを得ませんでした。シナイ山のふもとでは、イスラエルの民は神の怒りの前に近づいた経験をしたのです。迫害下にあるキリススト者たちが今経験していることも、神の怒りの前に恐れるということにおいてイスラエルの民の経験と共通する経験をしているのです。

   しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、」(22~23節)

  ここからはキリスト者が今現在直面している状況の下でいかにあるべきかが語られます。あなたがたが<近づいたのは>、むしろ救いの神に近づいたことが語られます。シナイにある山ではなく、シオンにある山です。けれども、今地上にあるエルサレムにある山のことではありません。ここで言われている<シオンの山>とはシナイ山のような現実の山ではなく、「生ける神の都」「天にあるエルサレム」を指します。「天上のシオン」の<シオン>は、エルサレムの元々の名称で、後にソロモン王が神殿を建ててからは、神殿を含めて「シオン」と呼ばれるようになりました(列王記上8・1)。シオンの名称は、詩的用法で用いられ、神ヤーウェが住まわれる都としてのエルサレムを意味します。<天に登録されている長子たちの集会>とは地上の教会に属するキリスト者に約束されている終末の教会のことです。<すべての人の審判者である神>の<すべての人>とは、生きている者と死んだ者のすべてを指します。<完全なものとされた正しい人たちの霊>とは、キリストの出現を待ち望み、その贖罪によって初めて完全なものとされた旧約の義人たちを指します。

  新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(24節)

  古い契約の仲介者モーセに対して、<新しい契約の仲介者>イエスが天のエルサレムのシオンの丘におられる様が語られます。<アベルの血よりも立派に語る注がれた血です>の<注がれた血>とはイエスが十字架上に流された贖いのための血です。その血はかつて<アベルの血>(創世記4・10~11)、すなわちアベルによって流された犠牲の血よりも、はるかにまさった犠牲と和解のしるしとなっていることを伝えています。それは復讐を叫ぶアベルの血ではなく、恵みに満ちた罪の赦しを与える血でした。

   あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。」(25節)

   語っている方>とは、天から語っておられる復活のイエスを指しています。天からのイエスによる救いのメッセージは、私たちにとって拒むべきべきではないことが警告されています。この勧めは、み言葉を聞いた者がその生活において積極的な生き方をするように求められているという意も含まれているのです。<地上で神の御旨を告げる人>とはモーセのことで、天から語っておられる方と対比させられています。地上で神の言葉を語ったモーセを拒否し、その言葉に背いた者は罰を逃れることはできませんでした。イスラエルの人々がシナイの荒れ野でとった態度を思い起させることにより、神に逆らうことの意味を教えています。今私たちは、かつての地上における声、つまり代弁者モーセを通して語られた声ではなく、「天から」遣わされた御子イエスを通して語られる御声を聞くのです。

  あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」(26節)

   あのとき>は、神がモーセを通して語られた時です。<その御声が地を揺り動か>したとは、律法が伝えられた時シナイ山が震えたこと(出19・18)を指し、この神顕現の光景は、終末の日の状況を想起させます。詩編18篇8節に「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ」とあります。<わたしはもう一度…>はハガイ書2・6の引用です。ハガイは、バビロンからの帰還者たちに、神殿を中心とするイスラエルの再建を語り、神殿完成後にメシアの時代が到来することを預言しました。著者はこのハガイの預言を世界の終末と受け止め、ここに引用したものと思われます。終わりの日には<地だけではなく天をも揺り動かそう>と主は言われます。

   この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。」(27節)

  もう一度、地だけでなく天も揺り動かされるのは、<揺り動かされないものが存続するため>です。<揺り動かされないもの>とは、28節の<揺り動かされることのない御国>のことです。著者は、読者であるキリスト者に御国の一員である自覚をうながして、喜びの確信の中にある幸いを示します。それはそのまま28節の「神への感謝、そして奉仕」につながります。

   このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」(28節)

   キリスト者は今すでに終末的な約束としてこのような御国を与えられています。神の恵みを受けとめることのできる者のみが、まことの感謝を神にささげることができるのです。また<感謝の念>と<畏れ敬う>神への思いは、<神に喜ばれるように仕え>るということで姿勢が生まれ、ふさわしい礼拝の態度が生まれます。

  実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(29節)

   申命記4・24の引用です。新しい契約においては神はすべてのものを<焼き尽くす火>のような厳しさを失われません。恵みと厳しさは並存します。キリスト者が神の恵みに甘えて福音の言葉を拒否するならば、神との永遠の交わりに入ることはできません。審判を恐れつつ、仕えてゆくことが求められています。

  世界を創造し、支配し、その世界を揺り動かす力を持っておられる方、それがイエスによって啓示されました。同時に、イエスはこの「揺り動かされることのない御国の」の王であり、キリスト者はその御国の一員です。この御国にある<天のエルサレム>こそ、私たちが目指す<神の都>です。<天のエルサレム>は、11章には、「神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都」(11・10)とあり、信仰の先達たちが熱望した「天の故郷」(11・16)です。それゆえに、今、置かれている生活の場がどのような苦境にあったとしても決して絶望に終わることはありません。神に喜ばれるように仕えながら、天のエルサレムを目ざして歩んでまいりましょう。

 

 

 

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「信仰の道」 ヨハネ第一の手紙2章18~29節

2016-06-05 01:07:17 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

              週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

  聖霊降臨節第4主日       2016年6月5日)   午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 227(主の真理(まこと)は)

交読詩篇   16(神よ、守ってください)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヨハネ第一の手紙2章18~29節(新p.443)

説  教      「信仰の道」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 458(信仰こそ旅路を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                                       次週礼拝 6月12日(日) 午後5時~5時50分

                                         聖書 ヘブライ人への手紙12章18~29節

                                         説教    「天のエルサレム」

                                         賛美歌(21)498 579 24 交読詩編 84篇


本日の聖書 ヨハネ第一の手紙2章18~29節

 18子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。19彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。20しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。21わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。22偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。23御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。24初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。25これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。26以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。27しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。28さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。29あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。

               本日の説教

 ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、用いられている用語や表現などが極めて似ているところから、同じ教会(仮にヨハネの教会と呼ばれている)の中で成立したと考えられています。

ヨハネによる福音書は、イエスの十二弟子の一人のヨハネの権威の下に、ユダヤ教会堂に対してキリスト教の信じる神の独り子イエス・キリストを明らかにするために、紀元80年から後半から90年頃にかけて書かれました。

ヨハネの手紙(一、二、三)は、ヨハネの教会の指導的位置にあったユダヤ人キリスト者の長老が、教会内部に起こった福音理解についての異端に対応するために、紀元100年前後に書いた勧告や手紙です。

なお、ヨハネによる黙示録は、ローマの属州アジア州(現在のトルコ西部)に対する迫害が厳しくなったドミティアヌス帝の治下、紀元95年頃、福音宣教のためにパトモスの島に流刑の身となった教会の予言者を自称する(しもべ)ヨハネが、さし迫ったキリストの再臨、この世の終末と完成を告げ、諸教会を励ました文書です。

ヨハネ黙示録も、用語・表現がヨハネによる福音書やヨハネの手紙とかなりの関連があるので、これらを総括して「ヨハネ文書」と呼んでいます。

 ヨハネの手紙二、三は、長老が教会や個人に書いた手紙ですが、ヨハネの手紙一は手紙というより勧告であり説教のようなものとして書かれています。

 1章から2章27節までに書かれていることは、御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つための道として、①光の中を歩くこと(1・7)、②戒めを守ること(2・3)、③兄弟を愛すること(2・10)、④伝統的信仰を守ること(2・24)の四つのことを勧めています。

今日の聖書の箇所は、福音を正しく受け取ろうとしない<異端者>について語り始めます。今や多くの反キリストが現れているので、終わりの時が来ていると分かるというのです。<反キリスト>はキリストを否定する悪霊をうけた教師たちのことで、当時このような教師が多数出て教会を乱し、教会に分裂をきたしました。<終わりの時>はキリストの再臨が近づいた時期を意味しています。彼らはもともと仲間ではなかったので、わたしたちから去って行ったと告げ、残留した信徒に動揺しないように、また彼らの誘いにのらないように、自覚をうながしています。

 「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」(20節)

 <聖なる方>とは、神であるイエス・キリストを指します。<油を注がれている>とは、聖霊が与えられていることを表現しています。油(オリーブ油)はユダヤ教では聖別のために用いられ、頭に油を塗る塗油(とゆ)と聖霊が下ることが密接に関係しています。聖霊は真理の霊です(ヨハネ福音書14・17)。聖霊は真理の霊です(ヨハネ福音書14・17)。<皆、真理を知っています>は、イエス・キリストあるいはその福音を知っていることを意味しています。

 「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(22節)

 <偽り者とは嘘をつく者の意ですが、具体的には異端教師を指します。当時の異端説は、イエスがメシア(救世主)であることを否定する者のことです。特に御父と御子を認めないことがメシア性の否定とつながっています。異端説は、神の子が人間となって世にこられたという受肉を認めず、キリストを単なる霊的存在とし、父なる神と御子イエスとの父子関係を否定しました。

 「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。」(23節)

 イエスこそ神と等しい者であるという告白する正しい信仰には神との交わりが伴います。この独り子なる神イエスを認めない者には神との交わりは回復されないことが語られています。

 「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」(24節)

 <初めから聞いたこと>は、ここではイエス・キリストの福音を聞いた当初のことです。伝統的信仰を堅く保つように勧めています。そうすれば、御子と、また父なる神の内にいつもいることになりますと教えています。

 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。」(25節)

 前節のことばは、御子キリストが約束されたことであり、神との交わりを持つことが、すなわち永遠に命なのです、と教えています。

以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。」(26節)

 以上の部分が、異端に導く者たちについての警告ですと結んでいます。

 「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(27節)

 <御子から注がれた聖霊は、すべてのことを教え、思い起させ(ユハネ14・26)、真理をことごとく悟らせます(ヨハネ16・13)。だから他に教える者を必要としないと言うのです。御子の内にとどまることのみが強調されています。

 「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」(28節)

 <子たちよ>と、神の子たちである教会員に呼びかけます。ふたたび、<御子のうちにとどまりなさい>と命じています。キリストといつも一体であるなら、<御子が現れる>再臨の日に、神の赦し、神の愛に対する確信が与えられて安心し、裁きに対して<御前に恥じ入る>ようなことはありません。

 「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」(29節)イエス・キリストも正しい方である(2・1)ことを知っていれば、<義を行う者>も皆、神から生まれた神の子であることが分かるはずだ、というのです。<義を行う者>とは、神の目に正しいとされる者のことで、ここでは福音を受けいれ、特に異端に走らず正しい信仰告白にふみ留まり、互いに愛し合う者のことです。

 5章1節~4節に、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。…神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」とあります。

この世に打ち勝つ<信仰の道を歩んでまいりましょう。また、私たちは異端とも戦わなければなりません。

エホバの証人 (ものみの塔聖書 冊子協会)がキリスト教の異端であるのは、イエス・キリストを神と認めないからです。救いは信仰よると一応説くが、実際には行いによる救いを説く。その行いのうちで最高のものが伝道であると教えています。

また、モルモン教(末日聖徒イエス・キリストの教会)が異端であるのは、神について聖書の教えとは異なる神を信じているからです。人間と同じ肉体を持つ天父と天母、その多無数の神々を信じているのです。天より高い階段を昇るために、地上で忠実にモルモン教のおきてを守り、儀式を受けなければならないと教えているのです。

              キリスト教の異端早見表  MGF資料マラナサ・グレイス・フェローシップ)

 

 

正統派

キリスト教系の二大異端

キリスト教

(プロテスタント)

エホバの証人
(ものみの塔聖書
冊子協会)

モルモン教
(末日聖徒イエス・
キリスト教会)

 

父、子、聖霊の三位一体。
万物の創造主。

エホバという名を持つ。
天使長ミカエルのみを創造。

人間と同じ肉体を持つ天父(エローヒム)と天母、その他無数の神々。

 

イエス・
キリスト

神と同じ本質を持ち、処女マリヤより人間として誕生。
肉体を持って復活。

天使長ミカエルが人間イエスになった。
万物を創造。

エローヒムが生み出したエホバをイエスと呼ぶ。ルシファーの兄。イエスは万物を創造。

 

聖霊

父、子と同じ本質を持つ。
特にキリストを証しする。

神の非人格的な活動力。

父なる神、イエスとは異なり、骨肉の体を持たない。

 

正典

「聖書」

(旧約27巻、新約39巻、計66巻)

「新世界訳聖書」

「聖書の研究」(全7巻。上記を補強する中心的教典)

「聖書」
「モルモン経」「教義と聖約」
「高価なる真珠」

 

人間

神の被造物で、最も尊い。

死後神の裁きを受ける。

霊を生命力とみるので、死とともに消滅する。

掟を守って結婚をした者は、死後神になる。そうでない者は、

死後天使になる。

 

救い

人の行ないではなく、神の恵みによって罪が赦され、永遠の天国に入る。

イエス以後の選ばれた14万4千人が天に行き、その他の者は、地上の楽園に入る。

死後神になって、新しい宇宙を造って治めるようになる。

 

救いの条件

イエス・キリストを罪からの救い主として信じる。

統治体の取り決めに従い、バプテスマを受け、訪問伝道を行う。

イエスを信じ、悔い改め、バプテスマを受け、聖霊の賜物を得る按手礼を受け、すべての戒めに従う。

 

社会

神の愛、隣人愛をもって社会に積極的に働きかける。

堕落した社会を支持することになるので、政治活動を行なわない。

政府に従い、法律を守る。
一夫多妻も、アメリカの法律のゆえに、中止した。

 

 

特殊な教理
の例

三位一体の神。
イエスの処女降誕、

肉体を持った復活。

キリストは1914年に不可視的に再臨。
輸血禁止。十字架を杭とする。

不滅の魂と地獄の存在の否定。

アメリカ大陸に、新エルサレムが建てられる。教会は、1世紀と同じ組織を持つ。
コーヒー、お茶等を飲んではいけない。

 

 

1884年にアメリカにてチャールズ・テイズ・ラッセルが創始。日本においては約21万人の伝道者が活動している。

 

1830年アメリカにてジョセフ・スミス・ジュニアが創始。日本における信者数は12万人。

 



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