↑ レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画「最後の晩餐」
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第3主日 2021年4月25日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 206(七日の旅路)
交読詩編 84(万軍の主よ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一、11章23~26節(新p.314)
説 教 「聖餐の意義」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 436(十字架の血に)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 5月2日(日)午後5時~5時50分
聖 書 ローマの信徒への手紙8章1~11節
説教題 「洗礼の意義」
讃美歌(21) 204 67 27 交読詩編 118
本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、11章23~26節
11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
本日の説教
聖餐式の最も古い呼び名は<主の晩餐>(第一コリント11:20)です。聖餐の制定は、イエスが最後の晩餐の席で、で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19-20、第一コリント11:23以下)、と命じられたことによります。
原始教会では信徒が持ち寄って食物を分け合って食べる日常の食事(愛餐)とその食事の席で会食とは区別された、パンとワインを分け合って、キリストの最後の食事を思い起こす祭儀的な意味をもつ共同の食事・「主の晩餐」が行われていました。
ところがコリントでは、パウロが去った後、裕福な霊的熱狂主義者や愛のない祭儀主義者は、早くから集まって、各自が勝手に飲み食いし、酔い潰れている有様で、遅れて来た貧しい人たちは飢えたまま、辱められている状態でした。「主の晩餐」は無秩序の混乱に陥り、貧しい者への愛と配慮に欠いた者たちの振る舞いによってキリストの一つの体である神の集会(教会)の交わりは分裂の危機にありました。この問題への返答として、パウロはイエスと弟子たちの最後の晩餐の伝承を思い起させるのです。パウロはコリントの人々に、イエスの晩餐の制定の言葉に訴えて、コリントの人々に共に食事をし、イエスを思い起すように、主イエスの死を告げ知らせ、コリントの人々の自己中心的な行動を止めさせようとしたのです。
「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と述べています。パウロは主の晩餐を初期のキリスト教の伝承から受けたものです。<主から>受けたというのは、イエス自身が自分の死と新しい契約のしるしとして、パンと杯を分かったことが伝承の源であることを示しています。
「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」(23節b~25節)
<引き渡される夜>とは、イザヤ書53章6節に「わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」とあるように、「神は私たちのために主イエスを死に渡された夜」、と解すべきと思われます。イエスの死は一貫して神の意志に服従した結果であり、同時にそれは世を救うための神御自身の行動だったのです。
主イエスはパンを取り<感謝の祈りをささげてそれを裂かれ>ました。<それを裂き>とありますように、主イエスがパンを裂かれたことから、聖餐式は、「パン裂き」として広まりました(使徒言行録2:42)。また、<感謝>(ギリシア語の「エウカリスティア)という言葉から、聖餐式を意味する「ユーカリスト」という言葉が生まれました。
主イエスはパンを裂いて、<これがあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい>とお命じになられました。<あなたがたのためのわたしの体である>とあるように、主イエスが裂かれたパンは、主イエスのお体を象徴し、十字架のあがないの出来事に結びつけられています。キリストは、弟子たちの命を贖うために、そして聖餐式にあずかるわたしたちのための罪のあがないとして御自身の命を十字架に献げられたのです。
キリストの十字架と復活の出来事を目に見えるかたちで現わしているパンをわたしたちが食べ、そのぶどう酒を飲むとき、イエスの十字架の苦しみがわたしのためであることを、ことばだけでなく、わたしの感覚を通して、その生けるキリストの恵みを味わうのが聖餐式なのです。信仰をもってこの聖餐にあずかる者は、聖霊によって、もろもろの罪を赦され、キリストと一体とされて、キリストが勝ち取られた死に対する勝利や復活の命にわたしたちも与るのです。聖霊によってそれがわたしたちに実現するのです。
主イエスは<わたしの記念として行いなさい>とお命じになりました。主の晩餐の目的は<記念のため>です。教会が十字架とやがて実現する神の国の間で、イエスの死を記憶することなのです。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主の死を告げ知らせるのです」とあるように、この食事は、イエスの死を思い起こし、再び来られるのを待つのです。これは単なる過去の出来事を思い出して懐かしむということではなく、過去の出来事を自分たちのためでもあると、現実の中での出来事として捉えるのです。過去の追憶をこえた主イエスの現在的体験であり、イエスとの神秘的な交わりです。このことが<主の晩餐>の制定であり、聖餐式の意義なのです。この<主の晩餐>は、後に教会の礼典として守られるようになりました。
主イエスは、十二弟子たちに「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われました。<血による新しい契約>とは、どういうことでしょうか。
主イエスが、「わたしの血による新しい契約」と言ったのは、古いモーセによる契約と対比して、主イエス自身が、十字架にかかられたことによって、神と万民との間に新しい契約がたてられたのだ、という意味なのです。古い契約においては、主なる神は動物(雄牛)の犠牲の血によって民の罪を赦されました(出エジプト記24・6~8)。新しい契約においては、キリストの流された血によってわたしたちの罪を赦してくださったのです。<新しい契約>は、エレミヤ記31・31~35(旧p.1237)で言われているように、人間の側の一方的な契約破棄に対して、神が御子の十字架を通して新しい関係を創造されることを示しています。神との契約関係にある民は、神を愛し、隣人を愛するという、神とお互いに対する責任によって結び合わされたのです。この新しい契約の性格が、食事を分かつ時、前面に表れるべきなのです。
ところがコリントの人々の、何も持たない人々を軽視する利己主義の行動が晩餐の意味をあまりにも不明瞭にし、その結果、それはキリストの死を指し示すものではなくなっているのです。主の死の宣言は、裂かれたパンを分かち、注がれたぶどう酒を分かつ時、それが「わたしたちのため」のイエスの死であり、教会員が一致してその死の恩恵にあずかることを表すものなのです。
聖餐式を「ユーカリスト」から「ミサ(聖体祭儀)」と言うようになったのは、六世紀頃からです。カトリック教会の司祭が祝祷の後、退出を命じた「イテ・ミサ・イストIte, missa est.(ite = 行きなさい、missa est = 派遣である)」というラテン語の「ミサ」が聖体秘跡の典礼を指すものとなりました。「イテ・ミサ・イスト」は、文法的には、キリストが私たちのために送られたいけにえなので、「行け、hostia(いけにえ)が神に送られた」という意味です。
プロテスタントの教会ではパンとぶどう酒が実際にキリストの体と血に変わることはなく、象徴的な儀式であり、聖霊の助けを信じ、信仰をもってこれをいただく時にキリストはわたしたち一人一人の内に臨んでくださると信じるのです。
聖餐はいずれわたしたちが迎えられる神の国における祝宴・喜びの先取りです。そのことを祈りつつ今天にある神の国の喜びに聖餐はあずからせてくださるのです。
なぜ、洗礼を受けた信徒たちだけが参加するのでしょうか。心のなかでひそかに信じるだけでも憐れみ深い神は救いを与えてくださるでしょう。しかし心のなかで信じるだけではなく、その信仰を教会の中で、公に言い表すことを神が求めておられるのです。聖書に「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10:10)とあります。この信仰告白により、「キリストの名によって、洗礼を受け」(マタイ28:19)、罪の赦しと聖霊の賜物をいただき、教会の信徒となることを重んじてきました。
聖餐は、繰り返しあずかることのできる恵みです。すでに洗礼によってわたしたしはキリストの贖いの恵みに支配されているのですが、それによってわたしたちは完全に罪の力か
ら自由になっているかというとそうではりません。なお日々
の生活の中でキリストがこのわたしのために十字架にかかってくださった、ということを覚え、キリストの贖いと赦しを信じて聖餐にあずかるのです。聖餐の恵みは、このように洗礼を受けた信徒のためにあるのです。