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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「聖餐の意義」 コリントの信徒への手紙一、11章23~26節

2021-04-24 12:23:11 | キリスト教

               ↑ レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画「最後の晩餐」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週 報

復活節第3主日  2021年4月25日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                      礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編   84(万軍の主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一、11章23~26節(新p.314)

説  教      「聖餐の意義」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                    

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                            次週礼拝  5月2日(日)午後5時~5時50分    

                                                            聖 書 ローマの信徒への手紙8章1~11節

                                                            説教題  「洗礼の意義」

                                                           讃美歌(21) 204 67 27 交読詩編 118  

本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、11章23~26節

 11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。                                                                   

 本日の説教

  聖餐式の最も古い呼び名は<主の晩餐>(第一コリント11:20)です。聖餐の制定は、イエスが最後の晩餐の席で、で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19-20、第一コリント11:23以下)、と命じられたことによります。

原始教会では信徒が持ち寄って食物を分け合って食べる日常の食事(愛餐)とその食事の席で会食とは区別された、パンとワインを分け合って、キリストの最後の食事を思い起こす祭儀的な意味をもつ共同の食事・「主の晩餐」が行われていました。

ところがコリントでは、パウロが去った後、裕福な霊的熱狂主義者や愛のない祭儀主義者は、早くから集まって、各自が勝手に飲み食いし、酔い潰れている有様で、遅れて来た貧しい人たちは飢えたまま、辱められている状態でした。「主の晩餐」は無秩序の混乱に陥り、貧しい者への愛と配慮に欠いた者たちの振る舞いによってキリストの一つの体である神の集会(教会)の交わりは分裂の危機にありました。この問題への返答として、パウロはイエスと弟子たちの最後の晩餐の伝承を思い起させるのです。パウロはコリントの人々に、イエスの晩餐の制定の言葉に訴えて、コリントの人々に共に食事をし、イエスを思い起すように、主イエスの死を告げ知らせ、コリントの人々の自己中心的な行動を止めさせようとしたのです。

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と述べています。パウロは主の晩餐を初期のキリスト教の伝承から受けたものです。<主から>受けたというのは、イエス自身が自分の死と新しい契約のしるしとして、パンと杯を分かったことが伝承の源であることを示しています。

「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」(23節b~25節)

<引き渡される夜>とは、イザヤ書53章6節に「わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」とあるように、「神は私たちのために主イエスを死に渡された夜」、と解すべきと思われます。イエスの死は一貫して神の意志に服従した結果であり、同時にそれは世を救うための神御自身の行動だったのです。

主イエスはパンを取り<感謝の祈りをささげてそれを裂かれ>ました。<それを裂き>とありますように、主イエスがパンを裂かれたことから、聖餐式は、「パン裂き」として広まりました(使徒言行録2:42)。また、<感謝>(ギリシア語の「エウカリスティア)という言葉から、聖餐式を意味する「ユーカリスト」という言葉が生まれました。

主イエスはパンを裂いて、<これがあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい>とお命じになられました。<あなたがたのためのわたしの体である>とあるように、主イエスが裂かれたパンは、主イエスのお体を象徴し、十字架のあがないの出来事に結びつけられています。キリストは、弟子たちの命を贖うために、そして聖餐式にあずかるわたしたちのための罪のあがないとして御自身の命を十字架に献げられたのです。

 キリストの十字架と復活の出来事を目に見えるかたちで現わしているパンをわたしたちが食べ、そのぶどう酒を飲むとき、イエスの十字架の苦しみがわたしのためであることを、ことばだけでなく、わたしの感覚を通して、その生けるキリストの恵みを味わうのが聖餐式なのです。信仰をもってこの聖餐にあずかる者は、聖霊によって、もろもろの罪を赦され、キリストと一体とされて、キリストが勝ち取られた死に対する勝利や復活の命にわたしたちも与るのです。聖霊によってそれがわたしたちに実現するのです。

主イエスは<わたしの記念として行いなさい>とお命じになりました。主の晩餐の目的は<記念のため>です。教会が十字架とやがて実現する神の国の間で、イエスの死を記憶することなのです。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主の死を告げ知らせるのです」とあるように、この食事は、イエスの死を思い起こし、再び来られるのを待つのです。これは単なる過去の出来事を思い出して懐かしむということではなく、過去の出来事を自分たちのためでもあると、現実の中での出来事として捉えるのです。過去の追憶をこえた主イエスの現在的体験であり、イエスとの神秘的な交わりです。このことが<主の晩餐>の制定であり、聖餐式の意義なのです。この<主の晩餐>は、後に教会の礼典として守られるようになりました。

主イエスは、十二弟子たちに「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われました。<血による新しい契約>とは、どういうことでしょうか。

主イエスが、「わたしの血による新しい契約」と言ったのは、古いモーセによる契約と対比して、主イエス自身が、十字架にかかられたことによって、神と万民との間に新しい契約がたてられたのだ、という意味なのです。古い契約においては、主なる神は動物(雄牛)の犠牲の血によって民の罪を赦されました(出エジプト記24・6~8)。新しい契約においては、キリストの流された血によってわたしたちの罪を赦してくださったのです。<新しい契約>は、エレミヤ記31・31~35(旧p.1237)で言われているように、人間の側の一方的な契約破棄に対して、神が御子の十字架を通して新しい関係を創造されることを示しています。神との契約関係にある民は、神を愛し、隣人を愛するという、神とお互いに対する責任によって結び合わされたのです。この新しい契約の性格が、食事を分かつ時、前面に表れるべきなのです。

ところがコリントの人々の、何も持たない人々を軽視する利己主義の行動が晩餐の意味をあまりにも不明瞭にし、その結果、それはキリストの死を指し示すものではなくなっているのです。主の死の宣言は、裂かれたパンを分かち、注がれたぶどう酒を分かつ時、それが「わたしたちのため」のイエスの死であり、教会員が一致してその死の恩恵にあずかることを表すものなのです。

聖餐式を「ユーカリスト」から「ミサ(聖体祭儀)」と言うようになったのは、六世紀頃からです。カトリック教会の司祭が祝祷の後、退出を命じた「イテ・ミサ・イストIte, missa est.(ite = 行きなさい、missa est = 派遣である)」というラテン語の「ミサ」が聖体秘跡の典礼を指すものとなりました。「イテ・ミサ・イスト」は、文法的には、キリストが私たちのために送られたいけにえなので、「行け、hostia(いけにえ)が神に送られた」という意味です。

プロテスタントの教会ではパンとぶどう酒が実際にキリストの体と血に変わることはなく、象徴的な儀式であり、聖霊の助けを信じ、信仰をもってこれをいただく時にキリストはわたしたち一人一人の内に臨んでくださると信じるのです。

 聖餐はいずれわたしたちが迎えられる神の国における祝宴・喜びの先取りです。そのことを祈りつつ今天にある神の国の喜びに聖餐はあずからせてくださるのです。

なぜ、洗礼を受けた信徒たちだけが参加するのでしょうか。心のなかでひそかに信じるだけでも憐れみ深い神は救いを与えてくださるでしょう。しかし心のなかで信じるだけではなく、その信仰を教会の中で、公に言い表すことを神が求めておられるのです。聖書に「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10:10)とあります。この信仰告白により、「キリストの名によって、洗礼を受け」(マタイ28:19)、罪の赦しと聖霊の賜物をいただき、教会の信徒となることを重んじてきました。

聖餐は、繰り返しあずかることのできる恵みです。すでに洗礼によってわたしたしはキリストの贖いの恵みに支配されているのですが、それによってわたしたちは完全に罪の力か

ら自由になっているかというとそうではりません。なお日々

の生活の中でキリストがこのわたしのために十字架にかかってくださった、ということを覚え、キリストの贖いと赦しを信じて聖餐にあずかるのです。聖餐の恵みは、このように洗礼を受けた信徒のためにあるのです。

 

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「新しい命に生きる」 コロサイの信徒への手紙3章1~11節

2021-04-16 12:49:28 | キリスト教

        ↑ 「新しい命(現実)に生きる」コロサイ3:1~11

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

復活節第3主日  2021年4月18日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

        礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)

交読詩編  116(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コロサイの信徒への手紙3章1~11節(新p.371)

説  教      「新しい命に生きる」     辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                        

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

               次週礼拝  4月25日(日)午後5時~5時50分    

               聖 書 コリントの信徒への手紙一、11章23~26節

               説教題  「聖餐の意義」

               讃美歌(21) 77 81 449 27 交読詩編 84  

本日の聖書 コロサイの信徒への手紙3章1~11節

 1さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。 5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 6これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 7あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。 8今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 9互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 10造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。 11そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

 本日の説教

  コロサイの町は、現在のトルコ共和国の壮大な石灰棚で世界遺産となっているパムッカレの近くにあった町です。コロサイは、トルコのエーゲ海に面した港湾都市イズミールの南およそ75キロに位置するエフェソ=エペソ(現在名はエフェスー遺跡として有名)より東200キロほど内陸部にあり、東西の交通の主要道路に面していたことと、毛織物の産地であったことで繁栄した町です。パウロの時代は、小さな町になっていました。そこより30キロほど下流には、石灰棚で有名な世界遺産のパムッカレ(綿の城の意)があります。

    

  キリスト教の福音がコロサイを含むアジア州に広まったのはパウロの第三伝道旅行(紀元53~56年)の途中、パウロがエフェソに約2年滞在中のことです。(使徒言行録19:1、10参照)コロサイ出身の異邦人エパフラスがパウロの伝える福音をエフェソで聴いて信仰に入り、コロサイに福音を伝えました(コロサイ4:12以下)。コロサイの信徒たちはユダヤ人ではなく異邦人が多数を占めていました。

コロサイ書は、フィリピ、フィレモン、エフェソ書とともに、パウロの獄中書簡と呼ばれています(コロサイ4:3、10、18)。コロサイ書が書かれた場所は、パウロがエフェソで約二年いた間(53~54年の前後)に投獄された期間とする説が有力です(コリント一、16:8)。エパフラスは、コロサイのキリスト者たちのキリスト・イエスに対する信仰と、すべての信徒たちに対して抱いている愛を、エフェソで捕らわれの身となっているパウロを訪ねて知らせたのです。パウロはそれを聞いて神に感謝しています(1:3~8)。しかし同時に、この教会は異邦人が多かったので(1・27、2・13)、欲望を欲しいままにする異教の習慣に逆戻りする危険性がありました(3:5~11)。そこで、パウロは道徳的にすぐれたキリスト者の生活を具体的に教える必要がありました(3:12~4:1)。更に、コロサイの教会に、キリストの信仰を危うくするような異端的教えが入ってきたので、パウロは黙しきれず筆をとったのがコロサイ書です。

この異端的な教えにより、「手をつけるな。味わうな。触れるな」といった戒律に縛られている信徒たちがいました(2:21、23)。これらは、人の規則や教えによるもので、独りよがりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えるが、何の価値もなく、人間の言い伝えにすぎない教えであり、自己満足させるだけなのだと、パウロは手紙で警告します(2:18、23)。

パウロはこうした霊力を信じる信仰の間違いであることを示すために、キリストは御使いも含めたあらゆる被造物の上に立つ方であって、創造に関与し、被造物を支えておられ(1:15~17)、キリストこそ宇宙の安定と調和の基礎であることを説き、彼こそ天への唯一の、神から遣わされた仲介者であることを信じて、高らかに歌い励ましています(1:15以下

の賛歌)。また御子・キリストは、その体である教会の頭であり(1:18)、初めの者、死者の中から最初に生まれた方であり、神は十字架の血によって、万物をただ御子によって和解させ

られたのであり、神はあなたがたと御子の死によってて和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(1:22)、とパウロは説いたのです。そして、このキリストを信じて救われている信徒が、今更他の諸霊力を崇拝し、また戒律の規定に従うべき理由がないことを教えています(1:13~3:4)。

さらにパウロは、今日の聖書の箇所3章1節から~4章6節で、キリスト者の実際生活を論じます。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(3:1-2) 

「上にあるものを求めなさい」の「上にあるもの」とは、そこは神の領域であり、天であり、キリストのいるところです。「地上のものではなく、上のものを求める」(3:1,2,5)ようにと命じて励ますことの根拠は、コロサイの信徒たちが古い支配に死んだこと(2:20)であり、今はキリストと共に復活して、新しい命にあずかっている事実です。彼らの命の源は、彼ら自身の命ではなく、キリストの命を生きていることなのです。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(3:3-4)

わたしたちが、キリストと共にすでに復活したことは、わたしたちは死んだのであり(過去)、わたしたちの新しい命は、今はキリストの命と共に神のうちに隠されているのです(現在)。その完成は将来のキリストの現れを待つ必要があります(将来)。ここにキリストにある過去・現在・将来がはっきり描かれています。三回も「キリストと共にある」と記されています。だからこそ、使徒は信徒たちを励まして、「上のものを求めなさい」と命じています。キリストと共に信徒たちがすでに復活したと考えられるのは、頭であるキリストの体である信徒たちは、すでにキリストのものであり、彼と切り離すことができない一体なものであり、キリストの働きにより、支えられ、結び合わされ、神によって育てられているからです(2:19-20)。ここにわたしたちの自力によらない倫理的な歩みがあります。。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪

欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 」(3:5-6)

まず、地上的な五つの罪があげられます。<①みだらな行い、②不潔な行い、③情欲、④悪い欲望、⑤貪欲>です。これらは欲望に属する罪として記されています。このような倫理的教えはすべて、わたしたちが神によって育てられていく姿にほかなりません。<みだらな行い>は、性的な不品行であり、<不潔な行い>は、汚れた放らつな生活であり、<情欲>は悪しき情熱、良くない<悪い欲望>であり、<貪欲>は、より多くを所有したいというむさぼりの欲望です。特に異邦人の信仰者は、ここにあげられている罪のリストに注意を払わなければなりません。異邦人は、性的不道徳に対して寛容な文化の中に育っており、地上のものに心を寄せるという意味で偶像礼拝者です。「貪欲」に対しても無頓着です。そこで異邦人は、そうしたことに厳しい態度をとっているユダヤ人以上に、警戒が必要なのです。

<捨て去りなさい>は、原語では「殺しなさい」という、とても厳しい命令であり、信徒たちはキリストと共に死に、彼の新しい命を生きる以上は、「地上的なもの」、即ち、罪の現れとしての性的な放縦、貪欲、ときっぱりと別れて、歩むように勧められます。これが「地上の肢体」への抵抗の根拠と力になるのです。わたしたちの「命」が「キリストと共に栄光のうちに現れる」ことが確実であるからこそ<地上的なもの>への闘いに立ち上がることができるのです。ところでこうした罪の根源は、「偶像礼拝」(5節)であり、それゆえ「神の怒り」の対象になります(6節)。従ってこれらの罪の克服は真の礼拝に立ち返る他ありません。罪に対して直接立ち向かうだけでは新しい道徳主義、自力主義になるだけで、それでは「ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではありません」(口語訳聖書2:23)。パウロの強い勧告は、道徳的な闘いを求めているのではありません。「上にあるものを求めよ」ということを前提にしているのです。

「上なるものを思い」、自らの「貪欲」による「偶像礼拝」を捨て、「霊の導きに従って歩く」ならば、「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5:16)。ローマ書にも、「霊ではなく、肉に従って歩む者は、肉に属することを考えます。…肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。…肉に従って生きるならあなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます」(ローマ書8章5~13)とあります。

「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」(3:7-8)

パウロははっきりと言います。「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました」と。この「以前」の生活は、「今は」キリストと共にあることによって「過去」とされたのであり、「過去」のこととしなければならないのです。

先の5節の罪は自己に関する罪とすれば、8節の罪は他者に関わる罪です。①<怒り、②憤り、③悪意、④そしり、⑤恥ずべき言葉>、の五つの言葉や感情に関する罪をあげています。ここでも「捨てなさい」と命じています。

「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(3:9-10)

そして最も端的なまとめとして、「うそをついてはなりません」と警告しています。見えを飾ることも、過度の謙遜も、陰口も、この世に毒された「うそ」です。新しい人とされたわたしたちは、古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、<造り主の姿に倣う新しい人を身に着け>て歩むように勧めています。古いアダムの秩序ではなく、新しい人、神の姿に倣うキリストにある望ましいあり方に、日々新たにされて、この人格的に新たにされることこそが、「真の知識」に至るのです。それを完成させてくださるのは、「あなたがたの中で善い業を始められた方(神)」であり、「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださるのです」(フィリピ1章6節)。

「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」(3:11)

<新しい人>には、人間的な差別はありません。民族的差別(ギリシア人とユダヤ人)、宗教的、習慣的差別(割礼を受けた者と受けていない者)、身分的、階級的差別(奴隷と自由人)、及び文化的差別(未開人、スキタイ人)の一切が越えられ、差別が取は払われるのです。性別の差別(男も女)もありません(ガラテヤ書3:28)。キリストがすべてであり、それは、「神の右に座しておられる」イエス・キリストの主権がこの世界の間化の機構のすべてを打ちこわし、自らこの世界の「すべて」となり、「すべてのもののうちにいます」という支配を確立するからです。わたしたちは皆、キリスト・イエスにおいて一つなのです。

わたしたちは、イエス・キリストの死にあずかることによって、全く完全な者になったのでしょうか。わたしたちは現在「神の子です」。しかし、そのことはもう完成したというわけではなく、まだ完成していない面があります。「私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。」(ヨハネ一、3・2)このように、今与えられている約束は、やがてその成就があります。「このような望みをいだいている者は皆、彼がきよくあるように、自らをきよくします。」パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです(フィリピ3:12)」、と言っています。目標をめざしてひたすら走るべきなのです。それぞれ、到達したところに基づいて進むべきです。わたしたちは、人間の力によるのではなく、救い主の力といのちにあずかる時、日々新たにされていくのです。

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「見失った一匹の羊のたとえ」 ルカによる福音書15章1-10節

2021-04-11 02:00:59 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

復活節第2主日  2021年4月11日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

     礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書15章1-10節(新p.138)

説  教    「見失った一匹の羊のたとえ」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                        

讃美歌(21) 200(小さいひつじが)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏  

                                                          次週礼拝  4月18日(日)午後5時~5時50分    

                                                         聖 書 コロサイの信徒への手紙3章1~11節

                                                         説教題  「新しい命」

                                                        讃美歌(21) 197 436 27 交読詩編 116篇1~14節

  本日の聖書 ルカによる福音書15章1-10

15:1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

   本日の説教

ルカによる福音書15章には三つのたとえがあります。「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」のたとえです。この三つのどれもが、なくしたものを見つけた喜びについて語っています。初めの二つは非常に似ていて、終わりには

、どちらも「悔い改めた罪人」について述べています。これは第三の罪を悔いた者が戻ってくるという物語の最後のたとえを補う効果をはたしています。

 このたとえが語られる状況は、三つの報告から成っています。イエスは徴税人と罪人とを近くに寄らせていること、ファリサイ人と律法の専門家は、こうした人々を受け入れたり、彼らと食事をしたりするイエスの態度を非難したこと、イエスはそれにたとえで応じる、といったものです。

 「徴税人」とは、ユダヤを支配するローマ政府の手先となって徴税を請負い、自国のユダヤ人から税金を徴収し、私腹を肥やす人達です。彼らは、当時ユダヤ人から貪欲な者、不正な者と思われ、民衆から嫌われていました。また「罪人たち」とは犯罪人だけでなく、道徳的に品行のいかがわしいとみなされる者たちです。遊女や、安息日の律法を守っていない羊飼いをも含む人々です。「徴税人や罪人」は、当時の社会では汚れた者として軽蔑され、交際を断たれていた人々です。イエスはそのような人々を歓迎して、食事を共にしたりして、受け入れていました。徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来ました。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とつぶやき、不平を言い、非難しました。

そこで、イエスは、最初に「見失った羊」のたとえを話されました。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている男の人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と言われました。

いなくなった羊は、イエスの話を聞きに来た罪人として語られており、見つかるまで捜されるのです。この優しい羊飼いのイメージは、エゼキエル書34:12、イザヤ書40:11、49:22にさかのぼります。これらの箇所では、神が、失われた羊を捜し、それを温かい心で取り戻そうとする羊飼いとして描かれています。失われた羊に対する愛が非常に強いので、九十九の羊は、その捜索が行われているあいだ、野原(人の住んでいない荒野)に置きざりにして、羊飼いは捜しに行くのです。彼は失われた羊を愛していて、見つけるまでは彼自身の命を含めたすべてを危険にさらしているのです。「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と、このたとえ話は、聴く側の共感と同意を求めています。

                    

                         フィリップ・ド・シャンパーニュ「善き羊飼い」

そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、見つけた本人だけが喜ぶのでなく、友達や近所の女たちを呼び集めて、「一緒の喜んでください」と言うであろう、とイエスは言われました。この友達や近所の女たちに対するこの頼みは、イエスの徴税人や罪人たちと一緒の喜びの食事を冷たく監視するファリサイ派の人々や律法学者らへの頼みでもあります。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」、と主イエスは言われます。

失った羊とは罪人のことであり、見つかったことは罪人が改心したことを指します。「悔い改め」とは、イエスに見つけられ、イエスのもとに戻ることです。罪人の側からはイエスを受け入れるということです。マタイにおけるこのたとえ話(マタイ18:12-14)は、大筋において一致するが、マタイでは、失った羊の発見の喜びではなく、羊飼いの捜索活動の熱心さに重点を置いており、弟子たちがこれを模範とするようにとの奨励に意図が込められています。ルカの場合は「悔い改め」それ自体をテーマとしています。「悔い改めを必要としない」多数に対して、一人の悔い改めの大切さが強調され、失われた者を捜し求める神の愛が、すでに、いまここに、イエスとともにあるのです。そして、そのイエスによって、失われた罪人が取り戻される喜びが語られています。

だが、これを認めることが出来ず、認めようともせず、喜びに対して嫉妬と怒りをあらわにする「正しい人」がいます。彼らは医師も必要とせず、その往診をも拒む健康な人なのです。しかし主イエスが来られたのは、そういう者を招くためではありませでした。病人をこそ探し求め、招き寄せ、癒すためです。その病人こそ、はっきり「罪人」と記します(ルカ5:31,32)。そして、そういう人々が「皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた」のでした。

続いて、イエスは「無くした銀貨」のたとえを話されました。「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」、と問われます。羊の関するたとえでは、羊飼いは男ですが、硬貨のたとえでは女です。二つのたとえは明らかに組になっています。「ドラクメ銀貨」は、当時の労働者一日分の賃金に当たります。ドラクメ銀貨十枚は、十日間の賃金にあたり、彼女が何か月も節約してためたものです。この貧しい女が、その一枚の銀貨を、家の中で無くしたのです。彼女にとっては大切なお金です。ここでは女のさがし方の念入りさを強く描かれています。当時のこととして、ガラス窓のない、うす暗い家の中を、「ともし火をつけて」、家を掃きさがす、念入りな捜し方が強調されています。なくなった銀貨を見つけた時の大きな喜びを表すため、「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」とイエスは言われました。喜びを共に分かち合って欲しいと願うことは、その喜びがどんなに大きかったかを表現しています。

「失われた銀貨」とは、一体誰を指すのでしょうか。使徒言行録には、ギリシアのコリントにいた使徒パウロに、次のような神の言葉があったことが記されています。「この町には、わたしの民が大勢いる」(18:10)、「恐れるな。語り続けよ」と神が言われました。コリントの町の異邦人を、神は「わたしの民」と言われています。神は自らの愛を受け入れる存在として人間を創造し、自由な意思を与えられました。しかし人間は神の愛にそむき、自らの意思によって、神の御心に反する道を歩み、あるべき状態を失いました。それが罪なのです。「失われた銀貨」で表されている罪人はコリントの町にもいたのであり、その様な意味で、あらゆる時代、あらゆる地方にも「失われた銀貨」が存在し、それが捜し求められているのです。神がその失われるいることに痛み、熱心に捜索し、必ず見出して喜ぶ―そういう一人の人間として、わたしたちはすべての聴衆に語ることが出来るのです。「イエスの話を聞こうとして近寄ってきた人々は、主イエスにとってそのような人でした。

失われた銀貨としての人間は、自らの力で神を見出すことは出来ません。「悔い改め」とは、ここでは人間を捜し求めてやって来る神に見出されることであり、自分自身を神によって見つけられるままに委ねること、そしてその神を承認することです。神はイエス・キリストにおいてわたしたちのところに来られます。神をそのような方として承認し、イエス・キリストにおいて見出され、赦され、喜ばれている自分であることを受け入れることが、わたしたちの「悔い改め」です。

「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言われました。「言っておくが」という預言的断言によって、一人の罪人の改心への喜びが確認されています。神の天使たちの喜びは、神御自身の喜びにほかなりません。神の民の群れである教会は、この神の喜びにあずかって共に喜ぶのです。

人間はみな、一人一人、迷い出た一匹の羊なのです。その一匹の羊である私たち一人一人を神は愛しておられ、捜し求めておられるのです。神に立ち帰ることが、神の大きな喜びとなるのです。この神の愛は、十字架と復活へと歩み、天上から私たちを執り成し、導く、御子イエス・キリストによって私たちに示されています。 

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「主イエスが復活された朝と夕の出来事」 ヨハネによる福音書20章1-31

2021-04-03 23:22:40 | キリスト教

                               ↑ 復活のイエス、弟子たちに現れる。ヨハネ20:19-29

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

復活節第1主日復活日(イ―スター)  2021年4月4日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

      礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 325(キリスト・イエスは)

交読詩編   30(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書20章1-31(新p.209)

説  教 「主イエスが復活された朝と夕の出来事」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                        

讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 礼拝後、茶室にて、イースターを祝い喫茶のひと時を過ごします。ご参加ください。

                次週礼拝  4月11日(日)午後5時~5時50分    

                聖 書  ルカによる福音書15章1-10

                説教題  「見失った羊のたとえ」

                讃美歌(21)332 200 27 交読詩編 16   

本日の聖書 ヨハネによる福音書20章1-31

20:1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10それから、この弟子たちは家に帰って行った。 11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

   本日の説教

<マグダラのマリア>は、イエスに「七つの悪霊を追い出していただいた婦人」(ルカ8・2)です。彼女はガリラヤ湖西岸の町マグダラ出身の女性です。「七つの悪霊」とは神経系の病気と思われます。当時の人々は目に見えない悪霊が存在して、それが人の精神を乱したり、種々の病気を起こすと信じていました。彼女はひどい心霊的苦悩からイエスによって救い出されたのです。

マリアは病気をいやしていただいたことに感謝し、イエスを慕い愛しました。イエスに付き従って行動を共にしたことは自然なことです。彼女のイエスに対する献身と奉仕が誰よりも熱く、イエスも彼女を愛して親しくされたことは、イエスの周囲の女性たちについて言われるときはいつも彼女の名が最初にあげられることからもうかがわれます。

イエスが十字架につけられた日(金曜日)の日没から、過越祭の特別な祝いの安息日(土曜日)が始まります。この安息日になる前に、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身の「身分の高い議員」(マルコ15・43)のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ローマから派遣されている総督ピラトに勇気を出して願い出て許されました。ヨセフはゴルゴタに行って遺体を取り降ろしました。そこへ、以前のある夜、イエスに会ったことのある「ファリサイ派に属する議員」(ヨハネ3・1~15)であるニコデモが、没薬(樹木から分泌する防腐剤と香料)と沈香を混ぜた物を持って来たので、彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布に包みました。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、アリマタヤのヨセフの、だれも葬られたことのない新しい岩を掘って作った墓がありました。彼らはそこにイエスを納め、墓の入り口には大きな石を転がして入り口をふさぎました。それは日没前に急いでなされた仮埋葬でした。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていました(マルコ15・47)。マリアは翌日(土曜日)の日没後、安息日が終わるのを待って、イエスに油を塗りに行くために香料を買っておきました(マルコ16・1)。

週の初めの日、日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは、「用意しておいた香料を携えて」(ルカ24・1)墓に行きました。他の福音書では、マリアは数人の女性と共に墓に行ったと記していますが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアが一人で行ったように記し、マリア一人に焦点を当てています。マリアは墓の入り口から石が取りのけてあるのを見ました。マリアは誰かが墓に入って、イエスの遺体を運び去ったと思ってしまいます。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネ)のところへ走って行って彼らに告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と伝えました。 

そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行きました。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着きました。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてありました。しかし、彼は中には入りませんでした。続いて、シモン・ペトロも着きました。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所にはなく、離れた所に丸めてありました。遺体を盗むのであれば亜麻布で包んだままで運ぶはずです。丁重に亜麻布が解かれているのは、イエスの身体がこの場所から出て行ったことを物語っています。先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、遺体がないのを見て、イエスが復活されたことを信じます。しかしまだ浅い信仰です。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉と結びつけて理解することが、二人はまだ出来ていませんでした。それから、この弟子たちは家に帰って行きました。彼らは「不思議に思いながら家に帰って行きました」(ルカ24・12)。

マリアは二人の弟子が家に帰った後も、墓の外に残って立ち、泣いていました。マリアはその場を立ち去ることも出来ずにいました。彼女は遺体が見つからないことにあきらめきれず、泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。しかしマリアはそれが天使であるとは気付かなったようです。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いました。マリアは、大切な主の遺体がどこかに移されて、無くなってしまった悲しみを訴えます。マリアがいかにイエスを慕い愛していたかが、この言葉に込められています。こう言いながら、人の気配を感じたのか、マリアは後ろを振り向くと、誰かが立っておられるのが見えました。しかし、それがイエスだとは分かりませんでした。イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われました。マリアは、園丁(墓園の管理人)だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。マリアとしてはせめてもイエスの遺体にもう一度丁寧に油を塗って、正式に埋葬したいと願っていたのでしょう。

イエスが、マリアと呼ぶと、彼女は振り向いて、自分の名を呼んだ方に、思わずヘブライ語で、「ラボニ」と呼びます。マリアは師であるイエスを呼ぶときにいつも用いていた呼び名です。このとき思わずその呼び名が口をついて出たのです。ラボニとは「(わたしの)先生」という意味です。これはマリアの素直な喜びの表現です。復活のキリストを目の当たりにしながらそれと気付かなかったマリアも、自分の名を呼ばれて、初めて霊の目が開かれたのです。マグダラのマリアが一番初めに復活の主を見たということは、マリアがキリストによって霊的苦悩から癒されたことを感謝し、キリストを救い主と信じて敬愛し、奉仕するためにガリラヤからキリストに従ってきた婦人であり、キリストの遺体を求めては墓に立ちつくし、悲しんでいたからです。

    

   コレッジョ「ノリ・メ・タンゲレ」  プラド美館マドリード 1518-1524年頃 130×103cm

マリアは嬉しさのあまり、思わずイエスにすがりつこうとしました。そのマリアに、イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。その理由として「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われました。生前のイエスが現れたのではありません。イエスは地上の体ではなく、天の父なる神のもとへ上る霊の体となっています。おそらくマリアは、生前のイエスに対するのと同じ思いでイエスにすがりつこうとしたのです。しかし、イエスのこの拒否の言葉を聞き、マリアは死の支配に打ち勝たれた復活の主を見ました。イエスはマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」言いなさいと、伝言を託しました。

キリストが弟子たちをさして<わたしの兄弟たち>と言い、神はわたしの父であって、またあなたがたの父でもあると言われたのです。イエスはこれから父のみもとに上られることによって、イエスと弟子たちとは、地上のイエスと弟子たちとの関係以上に、共通の絆によって深く結びつくことを告げたのです。

マグダラのマリアは、弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。そして、主から言われたことを伝えました。マグダラのマリアは復活されたイエスの最初の証人とされました。女性の証言する能力を認めなかった当時としてはおどろくべきことでした。使徒パウロも女性たちの名を、復活の証言者の名の中にあげていません(コリント一、15:5-8)。

その日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。逮捕され、処刑されることを恐れていたのです。一緒に集まっていた弟子たちのところへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。イエスの与える平和は、日常的な挨拶の言葉としての平和ではなく、神が共にいてくださることによって与えられる特別な平安です。最後の晩餐の席で、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14・28)と言われた約束が、ここで実現しました。

イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の跡があり、わき腹には槍で刺された傷跡がありました。十字架の上で人々の罪のために身代わりとなって死んでくださったイエスが復活されて現れたのです。弟子たちは、イエスが死によって奪い去られたのではなく、新しい復活の命をもって彼らの前に現れたことを喜びました。もはや彼らはユダヤ人を恐れて、隠れている必要がなくなったのです。イエスが、「あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあながたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(16・23)と約束された言葉が実現しました。

イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主は弟子たちに、この世への宣教の派遣を命ぜられました。父なる神が、御子イエス・キリストに託された宣教の業が、今度は、復活の主によって弟子たちに託されたのです。そう言ってから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」イエスの弟子たちは、復活の主イエスにより、聖霊が与えられることを通して、罪と死の支配から解放され、神の子である身分と永遠の命に生きる新しい人間に再創造されるのです。

イエスは弟子たちに聖霊によって執行される罪の赦しの権威を与えます。この権威は父なる神が子なるイエスに託しておられる権威です(5・19)。聖霊の導きと、聖霊の力により弟子たちは、確信をもって、罪の赦しを告げ知らせ福音を宣べ伝えることができる者とされたのです。

主イエスが復活された。死んだ人間が復活する。どうしてそんなことが起こるのか。多くの人がこのことについて疑問を持つでしょう。ところが不思議なことに、これを信じ、キリスト者になる人たちが今日まで続いているのです。イエスの使徒とされたパウロも、以前はイエスの復活を信じませんでした。イエスを復活した救い主と信じ、宣べ伝えるキリスト者たちを迫害するため、シリアのダマスコ途上にいた時、復活したイエスが天上から、彼を呼ぶ声を聞き、彼は主の復活を信じました。パウロはこの時のことを、「キリストが、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れ、・・すべての使徒に現れ、そして最後に、わたしにも現われました」(コリント一、15:3-9)と言っています。

パウロだけではありません。すべての信徒は、復活のイエスとの出会いを通じて、主の復活を信じるようになったのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽せないすばらしい喜びに満ちあふれています(ペトロ一、1:8)」、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです(コリント一、12:3)」、と聖書にしるされています。聖霊によって、主イエスとの出会いと交わりが与えられるのです。

マグダラのマリアも弟子たちも、復活したイエスと出会うことによって、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの世界から生命の支配へ、愛と信頼へと変えられました。

主イエス・キリストは復活しました。父なる神によって、陰府(よみ)の世界から復活させられました。主イエスは死に勝たれました。「キリスト・イエスは、死んで、否、甦って、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして(ローマ8:34)」くださいます。復活されたイエスは、目には見えませんが、今なお、いつも私たちと共にいてくださり、私たちを護り導いてくださる救い主です。私たちを罪と死の支配から解放してくださり、永遠の命を与え、神の子として下さる方です。復活されたイエスを信じ、共に、神の恵みに満たされようではありませんか。

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