富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

受難週ヴィア・ドロローサ 「十字架への道」 ヨハネによる福音書18章1~14節

2016-03-20 21:30:44 | 説教

                              ↑ イエスの時代のエルサレム

  ①イエスはベタニアの家を出てエルサレムに向かう。 ②食事の準備が整えられた2階の広間に行く。                              ③食事の途中でユダが部屋を去り、当局に通報するため、おそらく近くのカィヤファの家に行く。 ④食事を終えたイエスは弟子たちと、ケデロンの谷を通って、ゲッセマネの園に向かう。 ゲッセマネの園でイエスは捕らえられる。 

   

             ↑ 現在のエルサレム旧市街 ヴィア・ドロローサ(苦難の道)                   

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

              日本キリスト教 富 谷 教 会

                        週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 

受難節第6主日     2016年3月20日(日)     午後5時~5時50分

            礼 拝 順 

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 299(うつりゆく世にも)

交読詩篇   62(わたしの魂は沈黙して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書    ヨハネによる福音書18章1~14節(新p.)

説  教     「十字架への道」          辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 297(栄えの主イエスの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                                                  次週礼拝 3月27日(日)午後5時~5時50分

                                                      イースター礼拝

                                                                 聖書 ヨハネによる福音書20章1~18節

                                                                 説教   「キリストの復活」

                                                                 賛美歌(21) 325 327 24  交読詩篇 30 

             本日の聖書 

  1こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。2イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。3それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。4イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 5彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。6イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。7そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。8すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」9それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。10シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」12そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、13まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。14一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

           本日の説教

   2月10日水曜日から始まった受難節も、いよいよ今日から最後の一週間の受難週に入ります。今日の主の日は、棕櫚の日曜日と言われ、主イエスがろばの子に乗り、柔和な平和の王としてエルサレムに入場した日です。ヨハネによる福音書では12章12節以下に、イエスが群衆にホサナと叫ばれて迎えられたことが記されています。ホサナは「今、救い給え」の意味が転じて歓迎の叫びになった言葉です。

   ヨハネによる福音書では13章から過越祭の前の日に入り、イエスは弟子たち最後の夕食の時を過ごします。夕食の時、イエスは食事の席から立ち上がって弟子たちの足を洗い、再び席に着かれました。ユダの裏切りの予告をします。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行きました。イエスは弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい」という新しい掟を与えました。また、「主よ、あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロに、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うでだろう」とペトロの裏切りを予告しました。

 14章から弟子たちと別れる訣別の説教が始まります。イエスは「父に至る道」を話し、「聖霊を与える約束」をします。そして、31節で「さあ、立て。ここから出かけよう。」と弟子たちに声をかけます。しかし、15章、16章には弟子たちと別れる前の訣別の説教が続きます。15章では「イエスがまことのぶどうの木」であることを話したあと、「迫害に遭われることを予告」します。16章では「聖霊の働き」を話し、「悲しみが喜びに変わる」ことを予告します。そして「イエスは既に世に勝っている」ことを宣言します。17章ではイエスの大祭司としての祈りが記されています。そして今日の18章に入ります。

  今日の聖書の箇所はイエスが逮捕される場面です。この場面については、四つの福音書がそれぞれ伝えていますが、ヨハネによる福音書だけが伝える記事があります。

     イエスは弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれました。キドロン(濁り水の色からか、「黒い」の意味)の谷は、エルサレムの町とオリーブ山の間にあり、冬の雨季にだけ水が流れる峡谷です。その向こう側に園があり、イエスは弟子たちとその中に入られました。その園をマタイとマルコ福音書は、ゲッセマネ(「オリーブの油絞り」の意)と呼んでいます。

  イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていました。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからです。野宿の場所だったと思われています。イエスは、わざわざ、発見されやすい場所に赴いたことになります。イエスが受難を自ら引き受けようとしている姿が強調されています。そこで、ユダが一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来ました。松明やともし火や武器を手にしていました。「一隊の兵士」とはローマの兵士たちです。そのことを他の福音書は報告していません。エルサレム神殿の北西隅に接するアントニアの塔(要塞)にローマ兵が常駐しており、特に祝祭の時は、治安維持のためにカイサリアから援助の部隊が来ていました。「一隊」とは600人の部隊を指す語ですが、時には三分の一の1200人の編成をも意味したようです。ここではどの程度の兵士かは定かではありませんが、かなり多い兵士をが派遣されたことを表しています。

   主イエスの前に、政治的、軍事的力と宗教的力とが結束して向かってきたのです。主イエスは最後の晩餐の席においてこう語られました。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」(14:30)。イエスは御自分に起こることを何もかも知っておられたのです。

 イエスは逮捕者の一団の前に進み出て、「だれを捜しているのか」と言われました。イエスは捕らえられることを承知で、自分から進んで、語りかけたのです。イエスが捕えられるのは自発的なことであることが強調されています。このことはすでに10章18節で、あらかじめ暗示されています。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」と主イエスは言われています。

   逮捕者の一団が「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と名乗りました。この<わたしである>というこの言葉は、「わたしは主なる神である」という宣言に等しい言葉なのです。「わたしである」という言葉は、神がモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3・14)と語った言葉に由来している聖なる神の名を表す言葉です。

   6章には弟子たちがガリラヤ湖の上で嵐に遭った時、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいてきたという不思議な話があります(6:16以下)。その時、風の波に翻弄されていた弟子たちに、「わたしだ(わたしである)。恐れることはない」(6:20)と主イエスは言われました。この時も、イエスは「わたしである」という神名を使っています。

 主イエスは裏切られ、逮捕されるという絶対絶命の状況にありながら、自らを神として現すのです。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいました。この場面では、他の福音書のようにユダはイエスに口づけし、捕まえる人を教える必要はありません。イエスが「わたしである」と言われたとき、イエスを逮捕するためにやって来た一団は、後ずさりして、地に倒れました。イエスの神としての権威の前にひるんだのです。それは、イエスの逮捕ということも、人間には何の力もないことを暗示しています。もし、イエスが進んで逮捕を受け入れなければ、どのような企ても無力なのです。逮捕という受難物語の最初から、イエスは主導権を握っておられるのです。そのことは、ヨハネ福音書では終わりまで、一貫して変わることがありません。それはこの世の力に対するキリストの勝利を指し示す象徴的な出来事として記されているのです。

  そこで、もう一度イエスは「だれを捜しているのか」と逮捕のために向かって来た者たちに尋ねました。彼らは「ナザレのイエスだ」と言いました。すると、イエスは「わたしである」と言ったではないか、と逮捕されるために進み出て、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と共にいた弟子たちを去らせ、御自分ひとりが受難を引き受けようとされました。それはこの福音書を書いた記者ヨハネによると、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(6章30節)と言われたイエスの言葉が実現するためでした。

  シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としました。手下の名はマルコスでした。この出来事は他の福音書にも報じられているが、ただ人物の名をペトロとマルコスに特定しているのは、ヨハネ福音書だけです。そのような行動に打って出たペトロをいさめるように、イエスは「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言われました。イエスは父なる神の意志に従う決意をペトロに伝えました。ぺトロは、主イエスを守ろうとして抵抗する必要はなかったのです。公務執行妨害を犯し、危害を加えたペトロをイエスが守ったのか、ペトロは逮捕されませんでした。

 ヨハネによる福音書には、ゲッセマネの園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」というイエスの苦悶の祈りはありません。12章27節から29節にかけて、「今、わたしは心騒ぐ」で始まる似た祈りは記されていますが、ゲッセマネの園の場面では省略されています。その意図は、やはり、積極的にイエスが受難を受け入れようする点にあります。ヨハネ福音書ではどこまでも、受難に心騒ぐイエスではなく、受難にしっかりと立ち向かう栄光と権威に満ちたイエスを描いています。その故に、ゲッセマネでは「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」という前向きのことばになって記されています。明らかに、他の福音書のゲッセマネの祈りを反映していることばです、「杯」とは、神の定めた苦難を表すユダヤ的用語です。イエスは、今進んでその苦い杯を飲もうとしているのです。

   この場面において力ある御方として立っているのは主イエスだけです。宗教的な権力や国家権力による世の力も、主イエスに対して無力です。主イエス様は弟子たちを、いわば体を張ってこの世の力から守られたのです。

   なぜイエスはこのような十字架の死への道を自分の道として選ばれたのでしょうか。「人の子がこの世にきたのは、多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10・45)と言っておられます。神から離れている人間の罪の身代わりなり、永遠の命を与えるために十字架の道を取られたのです。

  「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16・33)と言われる天上におられる主イエス、わたしたちに聖霊を送って共にいてくださる主イエスと共に、勇気を与えられてこの世の旅路を歩むことができる幸いを感謝しようではありませんか。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自分の命を失う者と永遠の命に至る人」  ヨハネによる福音書12章20~28節

2016-03-13 01:11:37 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

             週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

          受難節第5主日        2016年3月13日(日)  午後5時~5時50分

                       礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 225(すべてのものらよ)

交読詩篇   22(わたしの神よ、わたしの神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書12章20~28節(新p.192)

説  教   「自分の命を失う者と永遠の命に至る者」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 502(光のある間に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                                                   次週礼拝 3月20日(日)午後5時~5時50分

                                                   聖書 ヨハネによる福音書18章1~14節

                                                   説教   「十字架への道」

                                                   賛美歌(21)299 297 24  交読詩篇 64 

    本日の聖書 ヨハネによる福音書12章20~36節

  20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

    27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

                      本日の説教

   過越祭の六日前の土曜日に、ベタニアに住むマリアがイエスに高価なナルドの香油を塗る出来事がありました。

   その翌日、過越祭の五日前の日曜日に、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出ました。そして、「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように、イスラエルの王に」と叫び続けました。ホサナとは、「どうぞお助けください」という意味でしたが、その意味が薄れて喜びの感動を表す歓声に転化していました。群衆はイエスを凱旋する王のようにして迎えたのです。イエスのなされた奇跡を聞いた群衆は、イエスを政治的解放者として、今こそ救いの時が到来したと信じ歓呼してイエスを迎えたのです。イエスはロバの子を見つけてお乗りになりました。それはゼカリヤ書9・9に描かれている、すべての武器を廃棄して争いをやめる平和の王、柔和なメシアを象徴する姿でした。群衆の期待とイエスの意図とは大きく隔たっていました。政治的な力を持つメシアを期待した群衆は、十字架への道を歩むイエスにつまずき、この後、結局イエスを拒み、イエスを十字架につけよと叫ぶようになるのです。

   この「棕櫚(しゅろ)の日曜日」から、いよいよイエスが十字架への道を歩む最後の一週間の記事に入ります。ギリシア人がイエスに会いに来たのは、その翌日の月曜日か火曜日の出来事になります。おそらく場所は神殿の異邦人の庭と思われます。

    過越祭の一週間、多くのユダヤ人たちがエルサレムに上って来ました。同様にギリシア人たちも、この祭りのために来ました。異邦人の中にはユダヤ教へ改宗した巡礼者や、割礼は受けてはいないが、ユダヤ教を信奉する神を畏れる人々がいました。イエスに会いに来た何人かのギリシア人はおそらく後者の人々と思われます。

    ギリシア人たちは直接イエスのところへ行かないで、「リラヤのベトサイダ出身のフィリポ」に「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と仲介を頼みました。フィリポに頼んだのは彼の名がギリシア名だったので、話しかけやすかったからかも知れません。フィリポもアンデレに話し、アンデレとフィリポが連れ立ってイエスのもとに行き、イエスに伝えました。

   すると、この異邦人を含む祭りに来ていた群衆にイエスは語り始めました。今や福音はユダヤ民族の壁を破って、広くギリシア世界にまで伝えられる時がきたのです。

   人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

    栄光という言葉は、神が神であられることが分かり、神の御姿が栄光に満ちることです。イエス自身の姿もまた神に等しい者であり、栄光に輝くということです。ここで言われている「栄光をうける」とは、イエスが十字架で死ぬことを意味し、その十字架の死を通してイエスが再び天のみ座につくことを意味しています。17章1節のイエスの祈りは、「父よ時が来ました、あなたの子があなたの栄光を現すように、子に栄光を与えてください」と祈っています。「時が来た」とは十字架で死ぬ時です。これまで何回か「私の時はまだ来ていない」と繰り返され語られてきました(2・4、7・6、7・30、8・20)。しかし、今その時が来た、イエスは言われました。

   はっきり言っておく、イエスは言葉を続けます。一粒の麦は、そのまま、とって置かれたなら一粒のままにとどまる。しかしこれが蒔かれて地に落ちると、この一粒の麦自体は死ぬが、ここから芽が出て多くの実を結ぶようになる。ここではイエスが十字架について死ぬことによって多くの者たちが永遠の命を与えられ生かされるという逆説的真理が語られています。農耕生活を営み、特に小麦の栽培をしていたパレスチナ地方の人々には非常に分かりやすいたとえでした。しかしそこにイエスの死の深い意味がたとえの形で宣言されています。

   自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

   「自分の命を愛する者」という時の「いのち」は、生まれながらの自然的生命です。そしてこの生命によってのみ生きようとする者は、その生命を失うことになる、というのです

    これは、この世に生かされている命を愛し、感謝することを否定している教えではありません。ここで言われている<自分の命を愛する者>とは、神様からいただいている命、神様から頂いているすべての恵みや賜物を私物化し、神様から離れて、自己中心の生き方をする者のことです。この世の価値だけを追い求め、そこに人生の意味や充実を追い求める生き方です。それは快楽や名誉などだけではなく、教養や芸術など内面的・精神的価値をも含みます。そのような価値に自分の命の充実を求める者は、死によってすべてを失います。

   「永遠の命に至る」という時の「永遠のいのち」は、神の国の生命であり、霊的生命です。<この世で自分の命を憎む者>とは、神様から離れて自己中心に生きようとする罪から離れて、イエスに仕え、イエスに従う者のことです。

   主イエスは自己中心の生き方から、神に仕え、神に従う神中心の生き方へと転換することを要求しておられるのです。しかしながら、人は誰でもあくまで自己を主張してやまない自己中心の心があり、地上的な自分の生活への執着があります。神中心の生き方へ転換しようとすれば、そこに内的な葛藤が始まります。それは自分の意志や努力では解決できません。イエスに従っていた弟子たちも、イエスの十字架の死のとき、皆イエスを捨てて逃げました。復活のイエスに出会い、聖霊の降臨を受けて再び立ち上がったのです。

   人間はより大きな神の恵みを受けることによってのみ、神中心の生きかたができるのです。主イエスの場合は父なる神と密接な愛で結ばれ、祈りの対話があり、必ず復活させてくださるという全能の神への信頼がありました。私達の場合は活ける主イエスとの「生命の交わり」に入れられ、聖霊の力をいただくことによってのみ、罪の自分を憎み、罪に打ち勝ち、イエスに従うことを喜ぶことができるのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなた(父なる神)と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17・3)」というイエスの祈りのことばがあります。イエスを受け入れたときから、死と罪の支配からの解放が始まり、永遠の命の歩みが始まり、最後に永遠の命に至るのです。<自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る>ということは、ただイエスの十字架と復活、そして昇天によって明らかにされた真理です。

  自分の命を犠牲にする自爆テロリストたちは、その犠牲的死によって英雄として天に迎えられるというあやまった信仰を抱いています。それは自暴自棄的行為を正当化した信仰です。人を憎み、無差別に人間を殺傷する行為は自己満足の自殺行為以外の何ものでもありません。

 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

  「わたしのいるところ」とは、イエスが復活し、間もなく昇る天にある栄光の座のことです。イエスに仕えようとする者は、イエスに従いなさい。そうすればイエスのいる栄光の座に、イエスに仕えた者もいることになる。父なる神がイエスを尊重されたように、イエスに従い仕える者を父なる神は大切にし、尊重してくださるという約束がなされています。

  今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。

  この27―36節はヨハネ福音書のゲッセマネの園と言われる箇所です。「今、わたしは心騒ぐ。」イエスも人の子として、心の葛藤を経験されたことが、ここに示されています。死の時を直前にした人の子イエスの叫びです。<自分の命を愛する>心と、神にみ心に従おうとする心の葛藤で、イエスの心は動揺したのです。イエスは今父なる神との祈りを通し、霊的交りを経てて、自ら十字架の道を決断するのです。

  父よ>という呼びかけはイエス御自身の口から神に対してなされています。イエスの神との親密な父子関係が現わされています。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と死を避けたい思いがありました。<この時>とは十字架の死の苦しみの時です。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」という自覚と決意が生まれます。<このことのために>とは、人間の罪の身代わりとなって十字架の死を遂げることです。神のみ旨がそこにあるなら私は喜んで父の意に従い、十字架を負おう、とイエスはついに決断したのです。<父よ、御名の栄光を現してください>とは、神の偉大さ、すばらしさを現してくだい、という祈りです。ヨハネ福音書17・1でイエスは次のような祈りをしています。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。

  すると、天から声が聞こえました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。

  イエスの業を通して神の栄光が既に明らかにされた。これからイエスの十字架の業によって再び栄光を現そう。このことによってイエスが神から遣わされた救い主であることを明らかにする、と言われました。イエスにたいする父なる神の声は、大きな励ましをイエスに与えました。このような励ましに支えられてイエスは使命を果たされたのです。

  主イエスに従うわたしたちも、主イエスの祈りに学び、絶えず神に祈りつ、聖霊の励ましと力をいただき、神のみ栄えを現しましょう。

 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(ヨハネの手紙一、5・14)

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「イエスに香油を注いだマリアの信仰」 ヨハネによる福音書12章1~8節

2016-03-06 00:05:28 | 説教

             ↑  イエスに香油を注ぐベタニアのマリア

  981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本キリスト教 富 谷 教 会

              週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    受難節第4主日   2016年3月6日(日)  午後5時~5時50分

     礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 543(とびらの外に)

交読詩篇    2(なにゆえ国々は騒ぎ立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書12章1~8節(新p.191)

説  教   「イエスに香油を注いだマリアの信仰」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 567(ナルドの香油)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                     次週礼拝 3月13日(日)午後5時~5時50分

                     聖書 ヨハネによる福音書12章20~36節

                     説教   「十字架の勝利」

                     賛美歌(21)225 502 24  交読詩篇 22

 本日の聖書 ヨハネによる福音書12章1~8節

  1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

  本日の説教

  今日の聖書の箇所は、十一章との関連で書かれています。十一章には、ベタニア村に住むマリアとその姉妹マルタの兄弟ラザロが病気になり死んだとき、このラザロをイエスがよみがえせた事が記されています。ラザロのよみがえりの出来事は、主イエスが復活であり、命であることを示された最後のしるしでした。イエスがラザロをよみがえらせたことは大きな波紋を巻き起こしました。このままでは皆がこの男を信じてしまう。そう思った大祭司と祭司長たちはイエスを殺そうとたくらみました。そこでイエスと弟子たちは、一時ベタニアを去り、荒れ野に近い地方のエフライムの町に滞在していました。

  過越祭が近づいた頃、イエスはエルサレムに行くことを決意され、またベタニアに行かれました。ベタニアは、エルサレム近郊の村で、オリーブ山の東南の麓にあり、エルサレムまでは3㎞の距離にあります。ベタニアにはイエスが愛したラザロとその姉妹マルタとマリアの他に、イエスが癒した重い皮膚病だったシモンの家がありました(マルコ14・3)。ベタニアはイエスが地上での最後の日々、夜を過ごした村でした(マルコ11・11~12)。

  イエスがベタニアに行かれたのは過越祭の六日前です。イエスにとって最後の過越祭です。<過越祭>はかつてエジプトにおいて奴隷状態であったイスラエルが、神の導きによって脱出したことを記念する祭りです。神がエジプト人の初子を殺したとき,仔羊の血を鴨居と入口の二本の柱に塗ったユダヤ人の家だけは過ぎ越したという出来事にちなむ祭です。新約時代には過越祭の行事はユダヤ歴ニサン月(三月~四月)の十四日の午後、神殿での羊の屠りで始まります。この日は、エルサレムの住民が各家庭で過越祭を祝って食する羊をほふるため、神殿に羊を連れて来るので、神殿境内は人と羊であふれます。当時エルサレムの人口は約三万人ですが、神殿境内にはおよそ六四〇〇人が神殿につめかけたと推定されています。夕方までに祭司とレビ人による屠りと奉献の儀式があり、 祭司の手によって羊の血が祭壇に注がれます。その儀式を終えてから、日没後各家庭でこの肉を食します。例年、過越祭には外地から十万を超える巡礼者が訪れたと言われています。

  イエスは六日後の過越祭の初日、神殿で羊の屠りが行われる時に十字架の死を遂げることになるのです。そのような差し迫った状況の中で、イエスはベタニアに行かれました。そこにはイエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいました。イエスのために夕食が用意され、マルタは給仕をしていました。ラザロはイエスと共に食事の席についた人々に中にいました。

 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。

  <一リトラ>は約326gです。缶ジュース一本ぐらいの量です。<ナルドの香油>とは、インドやネパールが原産で、ヒマラヤの高地に自生する高さ15~30㎝位の植物の根茎から抽出する精油で、英名はスパイクナード、別名ナルデと言い、主に鎮静作用があり、皮膚の保湿効果もがあります。当時は、ギリシア、ローマ世界で珍重された高価な香油です。ソロモン王の栄華を伝えるために雅歌にも出てきます(4・13)。

         ナルド、おみなえし科の植物

  同じ、香油注ぎの話(平行記事)が、マルコ福音書14・3~9、マタイ福音書26・6~13にあります。また似た話がルカ福音書7・36~49にあります。ルカ福音書では、イエスのガリラヤ伝道の時に、ファリサイ派の人の家で「一人の罪深い女」がイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗った話になっています。この女がマグダラのマリア(ルカ8・2)の同一視されるようになったのは、後世の教会伝承によるもので、聖書にはその根拠はありません。

 マリアはイエスの足に香油を塗っていますが、それは当時饗応の食事の場合は、身を横にして、左手で頬杖をつき、右手で食事をするという姿勢だったので、足が後ろの方にあうので、容易に足に塗ることができたのです。

 マリアが高価な香油を惜しみなくイエスの足に塗り、<自分の髪でその足をぬぐった>行為は、普通では誰も思いつかない奇抜な行為でした。香油の香りで家はいっぱいになりました。

 その場にいた人たちは、マリアの振舞いを理解できなかったと思います。イエスの弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と彼女の無駄と思える浪費をとがめました。

  <三百デナリオン>とは、労働者のおよそ三百日分の収入に相当します。それだけの費用があれば、貧しい多くの人を助けることが出来ると、ユダは言ったのです。しかし、ユダがこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではありません。「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と、福音書記者の説明があります。ユダは金銭への執着がありました。ユダは人間的な欲望のために、やがて悪魔の誘惑に陥りました。過越しの食事の後、ユダは祭司長たちから銀貨三十枚をもらってイエスを売り渡し、裏切りました(マタイ27・3、4)。

 ユダの非難を聞いたイエスは言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

  マリアのイエスに対する振舞いは、兄弟のラザロをよみがえらせてくださったイエスへの深い感謝と、自分たち家族を愛してくださるイエスへの尊敬と謙遜と愛を表す素直な思い切った行動でした。イエスはそれをお認めになり、お喜びになられたのです。

  マリアがイエスの死を予感し、その準備のために香油を貯えていたのかどうかはわかりません。また、イエスの死の備えをするために香油を注いだのかどうかも分かりません。しかし、主イエスはその日のマリアの振舞いをご自分の死への準備とし、死体への塗油の先取りとして受けとられたのです。ユダヤでは遺体を埋葬するとき、遺体に香油を塗り、布で包んで墓に納めました。それが「葬りの備え」です。イエスはマリアの香油の塗油をご自分の埋葬の準備としてお受けになったのです。

  イエスは言われます。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

  ここで主イエスが言っていることは、いつでもできる事と、今しか出来ない事というものがあるということです。「わたしはいつも一緒にいるわけでなはない」と言われて、人々の罪の贖いとなって十字架の死に向かわれる方に、マリアはおそらく意識しないまま、その時彼女ができる最善のことをしたのだと思います。彼女の振る舞いは、この六日後には十字架上で死に、ゴルゴダの墓に葬られる死者イエスの塗油の先取りであり、一回限りの最終的表現でした。

 日本には、「一期一会」という言葉があります。人と人との出会いは、常に人生で一度きりのものと心得て、相手に対して精一杯の誠意を尽くさなければならない、という意味で用いられる茶の湯の教えの言葉です。マリアは意識していたわけではなかったと思いますが、これから自分にかわって十字架にかかってくださるイエス様に、私の救いのために命を捨ててくださるイエス様に、せめて自分の大切な宝、出来る限りの最高の贈り物をしようとした香油注ぎは、時に適う一期一会の行為でした。

  ベタニアのマリアのイエスへの香油注ぎは、信仰によるものでした。マリアはなぜか無口です。イエスの一行がベタニアの村に最初行かれたとき、マルタはイエスを迎え入れました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていました。信仰は主のみことばを聞くことにより始まるのです(ローマ10・17)

  その後、兄弟のラザロが死んで墓に葬られたとき、イエスが来られ、マリアを呼んでいるとマルタから聞いたマリアは急に立ち上がって出て行き、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言っています。マリアが口に出して行った言葉は、この一言だけです。しかし、マリアはイエスがラザロを生き返らせたことを目撃しました。イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じました。

 姉のマルタは、「わたしは復活であり、命である。…このことを信じるか」とイエスに問われたとき、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると信じております」と告白しています。ラザロを生き返らせた奇跡を目撃したマリアも、イエスを神の子、メシアと信じたに違いありません。

 貧しい者を助け、隣人を愛することも大切ですが、神を愛することはさらに大切です。しかし、人はパンを与えることはできますが、命のパンを与えることはできません。命のパンを与えてくださるのは神であり、神の子イエスだけです。マリアのイエスへの香油注ぎは、神の子イエスへの礼拝行為なのです。あのイエスの前に座ってイエスの言葉を聞いていたマリアは、聞くだけの人ではなく、聞いたあと、思い切った行動をする信仰の人でもありました。

  マリアはイエスの足もとにひざまずき、罪人をも愛してお救い下さる、永遠の命を与えてくださるイエス、復活される永遠の命であるイエスを信じ、彼女もてる宝を捧げつくし、献身のしるしとしたのです。家中にいっぱいになったナルドの香油の香りは、彼女のかぐわしい信仰の香りでした。イエス様は「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう(マルコ14・8~9)」と言って称賛されました。

  イエスに対するマリアのこの香油注ぎを、わたしたちも称賛しようではありませんか。いや、称賛するだけではなく、マリアの主イエスを愛する信仰を学び、「増させたまえ、主を愛する愛を」(讃美歌21,483番)と、わたしたちもひたすら祈り求めたいと思います。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする