富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「祝福の永遠の契約」創世記9章8~17節 

2022-10-27 13:43:12 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前8主日  2022年10月30日(日)   午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 351(聖なる聖なる)

交読詩編    1(いかに幸いなことか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  創世記9章8~17節(旧p.11)

説  教       「祝福の契約」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

讃美歌(21) 425(こすずめも、くじらも)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

  に、申し込み下さい。

           次週礼拝 11月6日(日)  午後5時~5時50分

           聖 書  創世記18章1~15節

           説教題  「神の民の選び」

           讃美歌(21) 214 458 27 交読詩編 105:1-11

本日の聖書 創世記9章8~17節

9:8神はノアと彼の息子たちに言われた。 9「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。 10あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。 11わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」 12更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。 13すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 14わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、 15わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 16雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」 17神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 本日の説教

 創世記は、イスラエルの民がバビロンに捕囚(紀元前597~538年)になっていた頃、偶像神を崇拝するバビロンの地にあって、イスラエルの祭司たちがバビロニヤの神話なども援用して、イスラエルに伝わる伝承をもとに、人間の悪をも救いに変える唯一神の支配による世界と人類の創造から始まる原初時代の歴史(1ー11章)とイスラエルの族長時代の歴史を記した文書です。この書を通し、神に対する罪のゆえに、捕囚の身になっているイスラエルの民は、再び罪を赦され、捕囚から解放される日がくることを確信し、待ち望んだのです。

天地創造の物語は、自然科学的な宇宙生成論ではなく、人類創造の物語・神話であって、神と人間との密接な関係、すなわち神が人間を神にかたどって造ったことが強調されています。神に「かたどって」とは「神のかたち」の特性を人間が与えられたということで、人間は神の支配権の地上における代行者の位置と、神との交わりを与えられ、そこから理性・道徳・人格・意志などが人間の特性となります。創造物語は神話的な表象が用いられていますが、そこに言い表されている信仰と世界理解は驚くほど深く、現代のわたしたちにも訴える力を持っています。

 創世記6章は、ノアの洪水のことが記されています。地上は神の前に堕落し、悪が増したことにより、神は地上に人を造ったことを後悔しました。アダムとエバが、神に与えられた自由意志を、神に逆らうことの方に用いて罪を犯して以来、時を経て人間の数が増えても、人間の悪を選ぶ傾向は変わらず、むしろどんどんひどくなり、人は神から離れ、罪も拡大しました。神はもはや放置できない状態になりました。人だけでなく鳥も家畜も造ったことを神は後悔し、地もろともに彼らを滅ぼすことにします。ここに神が洪水を起こす理由があります。

しかしノアはただ一人、神と共に歩む、神に従う無垢な人でした。神はノアと妻子や嫁たちを生き延びるように、箱舟の造り方を指示しました。舟の大きさは、長さ135メートル、幅22.5メートル、高さ13.5mの三階建てです。コールタールで防水します。

それは大きな箱のような舟で、舵も帆も櫂もありま せん。自力で航行できない舟です。そしてすべての生き物の雄と雌を、一つがいずつ箱舟に連れて入るように命じました。主は地上に洪水をもたらし、地上の全てのものを滅ぼすことにしたのです。ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たしました。

   

    箱舟の模造船

7章には、洪水が起きたことが書かれています。ノアが六百歳のとき、第二の月に洪水が地上で起きました。雨が四十日四十夜、地上に降り続きました。洪水は地上を覆いました。箱舟は水の面を漂いました。高い山々も水で覆われました。地上の生き物はすべて死にました。水は百五十日の間、勢いを失いませんでした。

  

    アララト山は、現在のトルコの最東端。アッシリアの右上に「アララトの山」とあります。

 8章には洪水後のことが記されています。その後、水が減り始めました。百五十日の後、水が減って、第七の月に、箱舟はトルコの東方に実在するアララト山(標高5165m)の上に止まりました。洪水が始まって五か月後のことです。山々の頂が現れたのは、その後、二か月半ほど過ぎた頃です。

さらに四十日たって、地の面から水がひいたかどうかを知るため、烏を放ったり、鳩を放ったりしたが、箱舟に戻ってくるので、更に七日待って、再び鳩を放つと、夕方鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえて帰ってきました。ノアは水のひいたことを知りました。さらに七日後、鳩を放ったところ住むところを見つけたらしく帰ってこないので、地面が乾いたことを知りました。

ノアが六百一歳の一月一日に地上の水は乾きました。ノアは箱舟の覆いを取り外しました。地がすっかり乾いたのは、ノアが百一歳の第二の月でした。ノアが箱舟の中に一年以上もいたことになります。

 神はノアに「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟を出なさい。連れてきた生き物も連れ出しなさい」と仰せになりました。ノアは主のために祭壇を築いて、すべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげました。神に対して感謝することから新しい生活を始めようとしたのです。主はそれを喜び、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と決心されます。これは人間のどうしようもない、アダム以来の罪です。洪水後に変わったのは、人間に対する神様の御心です。

 9章1節~7節には、神がノアを祝福されたことが記されています。神はノアと彼の息子たちを祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」と子孫の繁栄を約束されました。そして「地上のすべての生きものは、あなたたちの手にゆだねられる。すべてあなたたちの食料とするがよい。これらすべてのものを青草と同じようにあなたたちに与える」と言われました。また、「人は神にかたどって造られたのだから」、お互いの人間の命を大切にするようにと勧められました。

「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。」(9:9-10

神はノアと彼の息子たちと、更に後に続く子孫と、すべての生き物と契約を立てると言われます。契約とは神の人間に対する恵みの約束です。

「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」(9:11)

二度と洪水によって生き物のすべてを滅ぼさない。洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない、と神は誓いました。

「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(9:17)

更に神は言われました。神が立てる契約のしるしは、雲の中の虹だと言います。虹が現れると、神はそれを見て、この永遠の契約を心に留め、約束を守ると言われました。このノアとの「永遠の契約」は、モーセとのシナイ契約となりましたが、律法を遵守できない人間の罪のゆえに無効となっていましたが、やがてイエス・キリストの十字架において新しくされました。主イエスは最後の晩餐の席で、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14:24)と言われました。

ノアと契約した神の約束は、罪の支配のためにわたしたちが滅ぼされることのないように、父なる神が御子にわたしたちの罪を負わせることによって、わたしたちを贖(あがな)い、罪と死の支配から救うことによって、守られています。しかし、この神の慈愛と寛容と忍耐」(ローマ2:4)を軽んじてはなりません。神の憐れみはわたしたちを悔い改めに導くためです。

ノアに与えられた祝福が、主イエス・キリストを通して、教会に召し集められたわたしたちにも与えられています。神に従い、神と共に歩んだノアの信仰に習い、神の祝福に預かりつつ、主のみこころに従ってまいりましょう。

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「天地の創造者と争うヨブ」ヨブ記38章1~18節

2022-10-17 00:02:45 | キリスト教

  ↑ 「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」ヨブ記38:1-3

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前9主日  2022年10月23日(日)   午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                司会 辺見 順子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します)

交読詩編  148(ハレルヤ。天において主を讃美せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   ヨブ記38章1~18節 (旧p.826)

説  教   「天地の創造者と争うヨブ」     辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

讃美歌(21) 157(いざ語れ、主の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オン・ラインで礼拝に参加できます。連絡ください。

          次週礼拝 10月30日(日)  午後5時~5時50分

          聖 書  創世記9章8~17節

          説教題  「保存の契約(ノア)」

          讃美歌(21) 351  425 27 交読詩編 1:1-6

 本日の聖書 ヨブ記38章1~18節

38:1主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。2これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。3男らしく腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。4わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。5誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。6基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。 7そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い神の子らは皆、喜びの声をあげた。 8海は二つの扉を押し開いてほとばしり母の胎から溢れ出た。9わたしは密雲をその着物とし濃霧をその産着としてまとわせた。10しかし、わたしはそれに限界を定め二つの扉にかんぬきを付け 11「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。 12お前は一生に一度でも朝に命令し曙に役割を指示したことがあるか 13大地の縁をつかんで神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。14大地は粘土に型を押していくように姿を変えすべては装われて現れる。15しかし、悪者どもにはその光も拒まれ振り上げた腕は折られる。16お前は海の湧き出るところまで行き着き深淵の底を行き巡ったことがあるか。17死の門がお前に姿を見せ死の闇の門を見たことがあるか。18お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。

本日の説教

ヨブ記は、「なぜ正しい人に苦難がのぞむのか」という人間の疑問に対する物語です。ヨブ記の著者はバビロン捕囚期以後の時代、紀元前5世紀前半のユダヤ人と推定されています。著者はイスラエル以外の知恵や宗教伝承も含む、長い成立過程を経て出来上がっていた口伝をもとに編集し、ヨブ記を書いたとおもわれます。ノア、ダニエル、ヨブの三人は、正しい人物としてエゼキエル書14:14に記されているが、ヨブは実在の人物かどうか立証できません。

 ヨブはイスラエルの地以外の東方の「ウツ」に住んでいた異邦人と考えられています。ヨブは正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きていました。「ヨブ」という名前はヘブルで語では「敵対する」という意味で、「ヨブ」は神に「なぜ」と訴えているように思われる人物です。

ヨブはサタンの試みを受け(1:11、2:5)、次々と災難に襲われました。二度も天災に遭い、財産も、家畜も、使用人たちも、さらには七人の息子と三人の娘たちも、すべてを失ってしまいました。それでも、ヨブは神を呪いませんでした。ヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:21)と言って、神を非難することもなく、罪を犯しませんでした。

さらに、サタンの二回目の試みを受け(2:7)、ヨブは頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかり、ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしって苦しみに耐えました。彼の妻は、夫のあわれな姿を見るにしのびなく、「どこまでも純真でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と告げました。ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(2:10)と妻をたしなめました。このようになっても、彼は神を呪いませんでした。ここまでが序文です。

ヨブは表面的には神への信仰を保持し、告白しています。しかし彼の内面では、神に対する疑いが生じ、苦悩していました。それが3章から42章6節までの主要部で、詩文で記されています。

ヨブと親しいエリファズ、ビルダト、ツォファルの三人の友は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来ました。彼らは遠くからヨブを見ると見分けられないほどあわれな姿になっていたので、しばらく茫然とし、嘆きの声をあげました。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていましたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできませんでした。(2:13)

7日間経過後に、ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪います。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生れてすぐに息絶えなかったのか」(3:11)、と。ヨブが死を願う独り言を言い始めたことから、三人の友人たちは、次々にヨブを説得します。

最初にエリファズが、すべての人には罪があると言い(4:17)、神のこらしめに対して叫びを上げるヨブは誤っている(5:17)、とヨブの罪をほのめかします。だが、罪を犯した覚えのないヨブの挑戦的な態度が増していきます。ビルダトは「あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、彼らをその罪の手にゆだねられたんだ。」(8:4)だと言います。無遠慮なツォファルは「神があなたの罪の一部を見逃していてくださった」(11:6)とあからさまに言います。ヨブは友人たちを批判し、「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ」(13:3)と言います。「罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎(つみとが)を示してください」(13:23)と神に訴えます。

 三人の友との二回目の議論は、15章から21章まで続きます。ヨブは、「天にはわたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(16: 19-20)と、仲保者キリストを預言するような言葉を言います。そして「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」と彼を滅ぼす神ではなく、彼の正しさや潔白を証明し、彼を弁護してくれる神は生きておられ、最後には必ずこの地上に立ってくださることを信じ(19:25)、待ち望みます。

三人の友との三回目の議論が22章から28章まで続きます。友人たちはあくまでも正義の神を擁護しようとし、苦しみにはそれなりの原因があるはずだと、因果応報によってヨブを裁きます。友人たちとヨブの議論は決着のつかないまま終わり、ヨブは嘆きの独白を始めます。(29章1節~31  章40節)「ヨブは語り尽くしました。(31:40b)

もう一人の友人エリフが現れ、三人の友人とヨブに語り始めます。32章から37章まで続きます。エリフはヨブに反論できない三人に対して怒り、ヨブに対しても「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない(33:13)と語ります。彼は苦難には教育的な意味があると諭します(36:9-11)。そして次第に、神の支配する世界には人間の識では理解できないことが多くあるのだ(37:24)と、先人の知恵によって説得しようとしました。エリフの主張までが、ヨブを苦しめました。潔白を訴えるヨブの主張を信じる者は一人もいませんでした。

主は、ヨブの「全能者がわたしに答えられますように」の願いに対して、「嵐の中からヨブに答え」(38:1)られます。「嵐の中から」は、神の顕現に伴う現象です。神は激しさをもって、全力を傾けてヨブの前に立たれたのです。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。」(38:2)<経綸>とは、神の計画とその実現の御業をまとめて言う言葉です。これまで、「なぜですか」と神に問い続けたヨブは、逆に神から問われるものとなり、男らしく「腰に帯し」、自分を整えて神の前に立つことを求められました。神は「わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」と命じました。

神が天地創造のとき、土台をすえた作業は神であることが語られます。誰が広がりを定めたか。誰が測り縄をはったか。<隅の親石>(38:6)は家を建築する時、敷地の四隅を掘り、壁が直角に交わる隅を支える石のことです。誰が隅の親石を置いたか。基の柱はどこに沈められたか。神は自分の造った世界を肯定しており、天使たちも喜びの声をあげました。神の創造の業がヨブの思いを越えた絶大なる知恵によるものであることをヨブに想起させました。

 母なる大地である奥底からあふれでた大水が、扉をもってせき止められて、海となったことが語られます。海の創造が嬰児の出産にたとえられています。神が水に限界を定め、かんぬきと扉とを設けたと言います(38:8-11)。太陽は一定の場所から出て、一定の道を通り、一定の所に沈みます。その最初の出発点である「朝」に命令し、曙に役割を指示したことが、生まれてから一度でも、お前はあるのかと神はヨブに問います。(38:12)混沌とした世界に朝の光が段々と強くさしてきて、野も山もはっきりした形をとり、しかも衣のようにきれいな色に染まります。裁判は朝、行われ、悪人は光を奪われ、力を誇り高姿勢な腕は折られると神は語ります(38:13-15)。ヨブは「海の湧き出るところ」や海の「深淵の底」まで行ったことがあるのかと問われます。「死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。」<死の門>、<闇の門>は海の底にあると考えられています。大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ、とヨブは問われました。(38:16-18)。

この後も、神は、自らを世界の創造者として示します。続いて、神は無と混沌の世界に秩序を与え、自然や動物の存在を許し、ヨブもまた、神の全能と愛の対象であることを示しました。

40章1-2節で、主は「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」と問いかけます。人は神からの問いかけによって初めて自らを知り、自らの位置と意味を知るに至ります。ヨブは主に「わたしは軽々しくものを申しました」と詫び、「もう主張しません」と誓います(40:3-5)。

主は、再び嵐の中からヨブに答えて仰せになります(40:6)。「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪にするために、わたしを有罪とさえするのか」と問いかけます。ヨブは「あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました、あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:2-6)と主に答えました。

ヨブは神の語られるのを聞いて、神が生ける神であるゆえに、理由なしに信じたのです。これが真の礼拝です。ここに、「ヨブは理由なしに神を恐れましょうか」(1章9節)というサタンの言葉に対する答えがあります。ヨブは神と出会うことによって、自分の無知を悟り、苦難を神の給う苦難として受けとめることができました。

ヨブ記は、人間の罪とその解決に対する重大な問題が答えられていません。人間には原罪があります。アダムの罪により全ての人に罪が及び、被造物は虚無に服し、死ぬ者とされました(ロ-マ8:19)。それゆえ、不条理に思える世界がありますが、主イエスが世に来られたことによって、神の支配する神の国が実現しつつあります。

ヨブは自分の義を主張し、神と対決しました。しかし、「人を義としてくださるのは神なのです(ローマ8:33)」世に来られたキリストは十字架の贖いの死と復活によって、人間のすべての罪を赦し、罪と死から解放してくださいました。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます(ローマ4:4)。人間にいかなる苦難が起ころうとも、神とキリストの愛が、苦難に勝利させてくださるのです。

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「天国に市民権を持つ者」 ヨハネの黙示録7章2~4節、9~12節

2022-10-11 23:13:46 | キリスト教

    黙示録7章:白い衣の大群衆

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週  報

聖霊降臨節第20主日 2022年10月16日(日)   午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

交読詩編  146(ハレルヤ。わたしの魂よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヨハネの黙示録7章2~4節、9~12節(新p460)

説  教    「天国に市民権を持つ者」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オン・ラインで礼拝に参加できます。連絡ください。

                                     次週礼拝 10月23日(日)  午後5時~5時50分

                                     聖 書  ヨブ記38章1~18節

                                    説教題  「創造」

                                   讃美歌(21) 6 59 27 交読詩編 148

 本日の聖書 ヨハネの黙示録7章2~4節、9~12節

7:2わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、3こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」 4わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。・・・・・・              9この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、10大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」11また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、12こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」

 本日の説教

 人類救済の歴史を記すために、旧約聖書は創世記の天地創造から始めます。それに呼応して、新約聖書が記す救いの歴史は、ヨハネの黙示録の世の終末と新天新地の出現をもって終わります。黙示録は聖霊に満たされた預言者ヨハネの幻視による壮大な終末の描写です。世の終わりに来臨する勝利の君、さばき主・キリストはサタンと最後の決戦をして、神の国を来たらせます。黙示録にえがかれているのは、世の終わりに起こる神の審判と、神の完全な支配です。黙示録は神の秘密を解き明かす文書です。黙示文学に特有なシンボルや奇異な視覚的表現が用いてられているのは、キリスト教徒を迫害する圧制の中では、ローマ帝国に対する神の裁きをあからさまに言えないからなのです。この黙示録では、キリストを小羊という言葉で表現しています。また、破滅するローマの都をバビロンという言葉で表現しています。

第一世紀の終わり頃、ローマ帝国の属州であったアジア州(トルコ)の諸教会は、紀元95年頃、ドミティアヌステ帝の時に行われたキリスト教の迫害によって、殉教者が出始めました。教会内部でも偽りの使徒により内部分裂の危機にさらされていました。福音宣教のためにパトモスの島に流刑の身となっていた預言者ヨハネは、キリストの再臨と勝利、この世の終末と神の国の完成を告げて、殉教の危機にさらされている諸教会と信徒を激励し、忍耐をもって信仰を守り抜かせるために、書いたのが黙示録です。

黙示録の構成は、次のようになっています。

預言・手紙の序文と挨拶 1章1節―8節 

第一部 1章9節―3章22節 七つの教会に宛てた手紙

A 1章9節-20節 天上におられるキリストの姿

B 2章-3章 七つの教会への手紙     

第二部 4章1節-18章24節 バビロン(ローマ都)   

に対する災いと裁き

 A 4章-5章  天上の礼拝と巻物を開く小羊    

B 6章1節-18章 第一~六の封印 

  7章 幕間劇(まくあいげき) 第六と第七の場面の間の劇中劇です。本日の説教箇所です。 

  8章1節-5節 第七の封印が開かれる

      8章6節-9章21節 天使のラッパと災い

  10章1節ー11章14節 幕間劇 天使が巻物を渡す

  11章15節ー19節 第七のラッパ

     12章ー13章 悪の力とキリストの戦い

  14章ー15章 小羊と勝利者たちの歌   

  16章 第一~七つの鉢

    17章ー18章24節 大淫婦バビロンの滅亡       

 第三部 19章1節ー22章5節 聖なる都の回復

 A 19章1ー10節 天上界のハレルヤ・コーラス

 B 19章11節ー22章5節 最後の七つの幻視

   19章11節ー16節 白馬の 騎手の君臨                              

   19章17節ー21節 最後の決戦

  20章1節ー3節  サタンの捕縛

  20章4節ー6節 千年間の支配(千年王国)

  20章7節ー10節 ゴグ・マゴグ(サタン)の敗北 

  20章11節ー15節 最後の裁き

  21章1節ー22章5節 新しいエルサレム            

全体の結び 22章6節ー21節 キリストの再臨 

 

 4章と5章には、預言者ヨハネが見た天上の光景が一つの劇のように描かれています。これは聖霊によってヨハネが幻視した礼拝の劇(ドラマ)です。

 天上に神の玉座があり、その玉座に座っている方がおられた。玉座の周りに二十四の座があって、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。玉座の前には七つのともしびが燃えていた。これは神の七つの霊である。玉座の周りには四つの生き物がいた。獅子のようなもの、若い雄牛のようなもの、人間の顔のようなもの、鷲のようなものがいた。

それぞれ六つの翼があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく、神をほめたたえていた。二十四人の長老はひれ伏して礼拝し、冠を玉座の前に投げ出した。玉座にいる方の右の手に巻物が見えた。巻物は七つの

封印で堅く封じられていた。七つの封印を開いて、巻物を開くことができるのは神の小羊(キリスト)です。小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。

6章は、小羊が六つ目の封印の第一から第六の封印を開く場面です。その封印が次々に開かれて行った。白い馬、赤い馬、黒い馬、青白い馬が現れた。恐るべき審判の光景が次々に現れた。殉教者の一人一人には白い衣が与えられ、待つように言われた。大地震がおきました。神と小羊の怒りの大いなる日が来たので、地上の人々は恐れて隠れました。

7章の1~17節は、預言者ヨハネが第6と第7の封印の場面の間に、苦難と災いに打ち勝った勝利の賛美・礼拝のドラマを見た、礼拝劇の中の幕間劇です。

7章1~4節は、大地の四隅に四人の天使が立っていて、四隅から吹く風を災いの風をおさえていた。もう一人の天使が神の刻印を持っていて、四人の天使に大声で、「神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」と叫んだ。刻印を押された人々の数は、イスラエルの十二部族の中から選ばれた十四万四千人でした。

7章9~10節には、この後、世界の民の中から集まった大群衆が白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、王座と小羊の前に集まりました。<白い衣>は、勝利を得る者、殉教者に与えられるものです。<なつめやしの枝>も<白い衣>と同様に勝利や賛美の形容で、キリストのエルサレム入場を迎える群衆の如く、喜びを象徴しています。

彼らは、大声で<救いは王座に座っておられるわたしたちの神と小羊とのものである>と叫びました。救いと勝利の信仰は、神とキリストから与えられると彼らは大声で賛美したのです。

7章11~12節には、天使たちが皆、<玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して>、<アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。>と言いました。<アーメン>で始まり、<アーメン>で終わる神への賛美でした。

白い衣を着た人々は、殉教者(6・9~11参照)であり、信仰の勝利者であり、あらゆる国々から来た人々でした。彼らは<大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(7:13~14)。彼らは、キリストの十字架によって、罪を赦され、迫害や偶像礼拝を克服した者たちです。彼らは、終わりの日に臨む苦難を乗り越えた信仰の勝利者です(黙1:4~5)。

それゆえ、迫害に耐えた信仰者や殉教者が、天上の礼拝に迎えられ、神とキリストと共に、永遠の命に生きることができることが約束されているのです。玉座の中央におられる小羊のキリストが「かれらの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」のです(7:17)。

このことは、キリスト教徒にとっては大きな慰めであり、励ましとなる御言葉です。彼らは「天国に市民権を持つ者たち」とされているのです。

黙示録の最後に記されている主イエスの言葉は、「然り、わたしはすぐ来る。」です。わたしたちも、それに応えて、「アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙22:20)と言いましょう。 「マラナ・タ」は、アラム語で、<主よ、来てください>の意です(第1コリント16:22参照) 。

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「栄光のキリストを伝える喜び」コロサイの信徒への手紙1章21~29節

2022-10-08 10:38:55 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第19主日  2022年10月9日(日)   午後5時~5時50分

                          礼 拝 順 序                    

                司会 辺見 順子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 405(すべての人に)

交読詩編   43(神よ、あなたの裁きを望みます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) コロサイの信徒への手紙1章21~29節(新p369)

説  教 「栄光のキリストを伝える喜び」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

讃美歌(21) 461(みめぐみゆたけき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オン・ラインで礼拝に参加できます。連絡ください。

       次週礼拝 10月16日(日)  午後5時~5時50分

       聖 書  黙示録7章2~4節、9~12節

       説教題  「天国に市民権を持つ者」

       讃美歌(21) 476 72 579 27 交読詩編 146

 本日の聖書コロサイの信徒への手紙1章21~29

1:21あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 22しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 23ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 24今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 25神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 26世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 27この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 28このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 29このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

本日の説教

   コロサイの町は、トルコ共和国のエフェソ(現在名はエフェス)より東200キロほど内陸部にあり、壮大な石灰棚で世界遺産となっているパムッカレ(綿の城の意)の近くにあるメアンダ―ル川の支流のリュコス川の南岸にあった町です。

イエスの福音がコロサイを含むアジア州に広まったのはパウロの第三伝道旅行(紀元53~56年)の途中、パウロがエフェソに約2年滞在中のことです。(使徒言行録19章1、10節参照)。コロサイ出身の異邦人エパフラスがパウロの伝える福音をエフェソで聴いて信仰に入り、パウロの協力者となったエパフラスが、コロサイに福音を伝えました(コロサイ4・12以下)。

コロサイの教会は異邦人が多かったので(1・27、2・13)、欲望を欲しいままにする異教の習慣に逆戻りする危険性がありました(3・5~11)。そこで、パウロは道徳的にすぐれたキリスト者の生活を具体的に教える必要がありました(3・12~4・1)。更に、コロサイの教会に、キリストの信仰を危うくするような異端的教えが入ってきたので、パウロは黙しきれず筆をとったのがコロサイ書です。

この異端はユダヤ教の律法遵守と関係があったらしく、割礼や食べ物についての禁止規定、祭り、安息日を強調する点ではユダヤ的です(2・11、16)。また「天使礼拝」や「幻を見る」といった神秘主義的傾向があり(2・18)、哲学的な議論をし(2・8)、「手をつけるな。味わうな。触れるな。」(2・21)といった霊力としての律法的規定を神聖視して、その束縛の下に立っていたのです。「汚れ」や「不完全さ」を克服しようとして、からだを敵視した不 自然な生活や修行・禁欲を行い、それをもって天に至る準備とすることは、しばしば、底知れない傲慢と利己主義をはぐくむ霊性や宗教となる危険を手紙は警告しています(2・18、23)。

パウロはこうした霊力を信じる信仰の間違いであることを示すために、キリストは御使いも含めたあらゆる被造物の上に立つ方であって、創造に関与し、被造物を支えておられ(1・15~17)、キリストこそ宇宙の安定と調和の基礎であることを説き、彼こそ天への唯一の、神から遣わされた仲介者であることを信じて、高らかに歌い励ましています(1・15以下の賛歌)。

また御子・キリストは、その体である教会の頭であり(1・18)、初めの者、死者の中から最初に生まれた方であり、神は十字架の血によって、万物をただ御子によって和解させられたのであり、神はあなたがたと御子の死によって和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(1・22)、とパウロは説いたのです。そして、このキリストを信じて救われている信徒が、今更他の諸霊力を崇拝し、また律法の規定に従うべき理由がないことを教えています(1・13~3・4)。

今日の聖書の箇所から、みことばをいただきましょう。

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1・21-22)

パウロはここまでキリストのみわざについて語りましたが、ここではコロサイの信徒たちを、「あなたがたは」と名指しして、福音に生かされる以前の生き方を思い起させています。以前は神から離れた生活を送っていた過去の事実と、現在の福音に生かされている生き方とを、対比しています。その過去の状況から解放されて、<聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者>としてくださったのは、キリストの苦難と死によってもたらされたものであることを思い起させます。私たちも同じ状況にあります。

「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」(1・23)

<揺らぐことなく信仰に踏みとどまる>ようにとの勧告は、明らかに建築のイメージからきています。信仰は神の真実のうちにふみとどまることです。ここに福音の望みがあります。あなたがたが聞いたこの福音の希望から離れてはならないと励まします。この福音はすべての人のためのものであり、世界中に宣べ伝えられており、この目的に仕えるためにパウロは神から与えられたすべての力を用いて労するのです。

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(1・24)

パウロは<今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし>と言い、コロサイの信徒たちのための苦難が、福音に仕える使徒としての活動にとって必然であり、喜びであると言います。<キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています>の文章は、さまざまな解釈がなされています。それはキリストの苦難にまだ欠けたところがあって、パウロが補わなければならないということなのか、キリストのために苦しむということなのか、あるいは、神秘的にキリストに一致したパウロの経験したキリストの苦しみのことなのでしょうか。十字架における御子のあがないと和解のわざはそれだけで完全であって、もはやなんの補足も必要としない一回限りですが、それを分け与え伝える聖餐は繰り返し行われるように、使徒は自らもこの一回限りの贖いの業にあずかりつつ、これを宣教し、今もなおこの務めを果たしており、もろもろの苦しみを受けながら、キリストの贖いの苦難を証ししているのです。キリストの救いの業と共に、使徒の働きは、人々をキリストの前に全き者として立たせることを目指す(1・22)宣教です。

「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」(1・25)

パウロは、<御言葉ををあなたがたに伝える>という務めを神から与えられたことによって、キリストの体である教会に仕える者になったと、使徒としての抱負と使命を述べます。

「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」(1・26-27)

パウロは神の言葉である<秘められた計画>(奥義)に従って、その計画を異邦人たちに明らかにし、実現するために仕える務めを神に託されました。<秘められた計画>とは、神の御心のうちに隠されている将来の出来事ではなく、今、異邦人に与えられている<栄光に満ちた>神の働きです。それは<あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望>です、とあるように、<わたしたちの内におられるキリスト>、<わたしたちの内に>住んでくださる<キリスト>こそがわたしたちにとって、栄光に満ちたものであり、栄光の希望なのです。

「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」(1・28-29)

<このキリスト>をパウロたちは宣べ伝えており、<すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように>、使徒はすべてのひとりひとりの人を訓戒し、教えています。使徒自身は、<わたしの内に力強く働>いておられる方、キリストの力によって、それも<苦闘しながら>その務めを果たしています。それだからこそ、からだの苦難も、使徒にとっては喜びのしるしであり、与えられた使命を確かなものにしているのです。

私たちが救われたのは、私たちが立派で善い行いを積んだからではありません。私たちは「かつては悪い行いをして神から離れ」(21節)ていた者でした。しかし、神様は、このような私たちのために御子を死に渡し、贖うことで赦し、神様と和解させてくださったのです。それは私たちを「聖なる、傷のない、責められるところのない者」(22節)として神のみ前に立たせるためです。それは御子イエス様がわたしたちの内に住んでくださることによって実現します。この救いの恵に預かった私たちは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、人々の救いを願って宣教することが求められています。

獄中でこのように記したパウロは、口先だけで愛するのでなく、身をもってキリストのからだなるコロサイ教会のために、喜んで様々な苦難を引き受け、主に仕えました。パウロは自分の経験している苦しみを「キリストの苦しみのなお足りないところ」を自分の体をもって補っていると言います。パウロが命がけで伝えていたのは今まで長い間隠されていたが、いまや明らかにされた奥義でした。それは、まさにキリストを指し示すものであり、このキリストが私たちのうちにいてくださる、住んでくださるということです。

パウロは、自分の力によってではなく、自分の内に力強く働く、キリストの力によって宣教のために、労苦することを喜び、闘っていると言います。

 キリスト者は、栄光のキリストを身に宿している者です。死を超えた、永遠の命の希望を持っている者として、周りの者に生きる力と勇気とを与え、永遠の命の希望をも指し示しているのです。私たちも、わたしたちのうちにいてくださる栄光のキリストの力強い働らきをいただいて、それぞれに与えられている使命を成し遂げましょう。

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「キリストに贖われた教会」ヘブライ人への手紙9章23~28節

2022-10-01 14:19:32 | キリスト教

                   幕屋の平面概略図  

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第18主日   2022年10月2日(日)  午後5時~5時50分

         礼 拝 順 序                    

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヘブライ人への手紙9章23~28節(新p335)

説  教   「キリストに贖われた教会」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

讃美歌(21) 431(喜ばしい声ひびかせ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇礼拝後、田中恵子姉の司会によるグレイス・タイムです。

〇 オン・ラインで礼拝に参加できます。教会に連絡ください。

          次週礼拝 10月9日(日)  午後5時~5時50分

          聖 書  コロサイの信徒への手紙1章21~29節

          説教題  「キリストに仕える喜びと苦難」

          讃美歌(21) 405 461 27 交読詩編 96 

   本日の聖書 

9:23このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 24なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 25また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 26もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 27また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 28キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。 

本日の説教

 本日の聖書の箇所に入る前に、9章1節以下に記されている記事についてお話しいたします。神に選ばれたイスラエルの民は、モ―セの指導のもとにエジプトでの奴隷としての苦しみから脱出し、「乳と蜜の流れる地」カナンを目ざして荒野の旅を経験しました。モーセの律法はこの地上をさまよう民の信条であり、神が与えた法でした。律法は、民が幕屋を建ててその聖所で礼拝を捧げることを命じました。礼拝の中心は「清め」であって、それにはいけにえとして献げられた動物の血が有効とされ、律法には事細かにそれらのことが規定されました。

9章1節から、地上の幕屋の構造が述べられ、祭司や大祭司の勤めが記されています。<大祭司>は、神と人との仲介者として一年に一度、贖罪日(しょくざいび)に、<罪の贖い>(神様と隣人とに対して犯してきたもろもろの罪が拭い去られ、帳消しにされ、赦されること)のために、まず自分自身とその家族のために雄牛の血をたずさえて、神が臨在する幕屋にもうけられた聖所に入り、礼拝を献げ、次いで民全体のために雄山羊の血をたずさえて執り成しの礼拝を献げました。(レビ記16:11~34、ヘブライ9:7)

しかしこのようなモーセによって設けられた地上の幕屋、その延長の地上の神殿が存続しているかぎり、まことの聖所への道、すなわち神のおられる所への道がまだ開かれていないことを示し、キリストが入られた天にあるまことの聖所が明らかにされなくなるのです。

地上の幕屋は、「天にあるものの写しと影」であり、「本物の模型」です。本物である天を指し示しているのですが、実体ではないということです。地上の幕屋と、礼拝の規定は、本質的にからだに関する規定であり、心の中までの影響力を有していません。したがって、この幕屋自体に、また、そのいけにえと捧げ物自体に、私たちの罪を完全に贖う力を持っていません。「礼拝する者の良心を完全にすることはできない」のです。 <贖う>とは、奴隷を身代金を出して自由にすることを意味し、そこから罪を除くとか、罪からの赦しや解放を意味しています。

 13節以下には、次のようなことが記されています。キリストは世に来られ、十字架の贖いを成し遂げられ、よみがえり、天に昇られました。キリストは恵みの大祭司としておいでになったのですから、キリストの入られた幕屋は人間の手で造られたものでない、この世のものではない、さらに大きく、完全な天の幕屋を通って聖所に入られたのです。

地上の大祭司は雄牛や山羊の血をたずさえて至聖所に入りましたが、キリストは命を献げられ、御自分の血をたずさえて、父なる神のおられるまことの至聖所に入られ、<ただ一度>の、しかも<永遠の贖い>を成し遂げられました。

このように祭儀的な動物の血もまた清める力を持っているとすれば、キリストの血はそれとは比較にならないほど優れた力を持っています。<御自身をきずのないものとして神に献げられた>キリストが流された贖いの血は、祭儀的な動物の犠牲の不完全さに比較して完全なものであることが示されます。キリストの十字架の死による贖いは、<永遠の聖霊>も働きもあり、神に献げられたとうとい血によるものです。祭儀的な供え物といけにえが献げられても、外的な身体や生活を清くするのみで、「礼拝をする者の良心を完全にすることはできません」(9:9)。それに対して<キリストの血>、すなわち、キリストの犠牲は、神から離れ罪の支配下にあって堕落している人間の良心を、信仰なき業から清め、生ける神に仕え礼拝するようにさせます。

最初の契約の下で犯されたイスラエル民族の律法に対する不従順の罪が、イエスの十字架の死と復活と天に挙げられたことによって除去され赦されたのです。今やキリストを信じるすべての者が、新しい契約による罪の贖いにより、永遠の財産を受け継ぐ者とされたのです。神と人との新しい関係は「キリストの死」によって初めてその効力を発揮したのです。

モーセの時代の契約に動物の血が用いられたことが説明されます。贖罪の日(民数記19:6、18)の清めの水や緋糸(ひいと)の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書と民全体とに振りかけられました。このように神と民との契約には契約の血が必要だったのです。また、幕屋建設の時には、幕屋とすべての祭具に血が振りかけられました。

民の命の贖いの儀式で、生き物の血が用いられるのは、生き物の命が血の中にあるからです(レビ記17:11)。キリストの清い、汚れのない命が神の前に献げられることによってのみ、罪は赦されるのであって、それ以外のいかなるものによっても不可能です。ここに明確な贖罪についての聖書の人間観が表現されています。

 23節から28節にかけては、「罪を贖う唯一のいけにえ」という小見出しがついています。

 「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。」(23節)

 <天にあるものの写し>、すなわち、地上の聖所とそれに属するすべてのものは、動物の血によって清められる必要がありました。しかし動物の血では、心の中の汚れを取り除くことができません。天の聖所は、地上と同様、ここでも血による贖いが必要ですが、それは動物の血<よりまさったいけにえに>寄って清められねばなりませんでした。それはキリストの血によって清められる必要がありました。

 「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。」(24節)

なぜならキリストは、天にあるものの写しにすぎない、地上の聖所にではなく、天の聖所に入られ、わたしたちの罪の犠牲として、今やこの終わりの時代に、<神の御前に現われて下さった>のです。かつて大祭司は、写しに過ぎない地上の幕屋で、神の現存の象徴である香の煙の前に立ちました。

「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。」(25節)

 旧約の大祭司は<年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入る>のに対して、キリストはただ一回、御自身を献げ、御自身の血を流されることによって完全な贖罪のわざを果されました。

 「もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(26節)

 <もしそうだとすれば>とは、大祭司のように、キリストも年ごとに聖所に入る必要があったならば、天地創造の時からキリストは贖いのために苦しまねばならなかった、という仮定です。ここでは創造以来の人類の救済が考えられています。キリストの死のゆえに、創造の時からの人間もその罪を贖われたことを語っています。<この世の終わり>の時代、すなわち新約の時代に、<ただ一度現われて下さった>とは、キリストが具体的に歴史の中に誕生されたということを表しています。<ただ一度>は、キリストの犠牲の一回性、完全性を表しています。

 「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(27-28節)

一度限りの人生ということが、人間の死と死後の審判という面から述べます。キリストにとってもわたしたちにとっても、死は新しい存在に至る入口を意味します。キリストがかつて地上に来られたのは<多くの人の罪を負うため>であったのであり、それは<ただ一度>の十字架の出来事で完成したのです。

 二度目には、罪を負うためではなく、キリストの再臨を待望している人々に<救いをもたらすために>再び現れてくださるのです。キリストの十字架を信ずる者にとって、最後の審判は救いの完成の時なのです。キリストは今や天にいまして真の大祭司としてとりなしの働きをされています。

私たち日本人の宗教では、水による「身の清め」とか、お祓いによる穢れの清めとかがあります。聖なる神と私たちの関係は、そのような表面的な関係でよいのでしょうか。神の子イエスは御自分を全人類の罪の贖いとして十字架に架(か)かられました。主イエスは私たちの永遠の大祭司です。私たちは主イエスによる贖罪の恵みにあずかっていることを感謝し、救いの確信に支えられて、毎週の礼拝で主をほめたたえ続けるのです。

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