富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『見失った羊』のたとえ」 ルカによる福音書15章1-7節

2021-06-27 04:44:19 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第6主日   2021年6月27日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

      礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 218(日暮れてやみはせまり)

交読詩編   23(主は羊飼い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書15章1-7(新p.138)

説  教  「『見失った羊』のたとえ」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 200(小さいひつじが)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                       次週礼拝 7月4日(日)午後5時~5時50分    

                       聖 書 ルカによる福音書12章16~20節

                       説教題 「『愚かな金持』のたとえ」

                       讃美歌(21) 197 456 27 交読詩編 143  

本日の聖書 ルカによる福音書15章1-7節

 15:1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 15:2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 15:3そこで、イエスは次のたとえを話された。 15:4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 15:5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 15:6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

              本日の説教

 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。」(15章1-3節)

徴税人や罪人が皆>、イエスの話を聞こうとして近寄てきました。<徴税人>は、徴税人の頭(19:2)のような一定区域の徴税権をローマ政庁やヘロデ王家から買い取った富裕な徴税請負人の下請け人のことで、徴税現場で、上部に支払う「規定以上のものを取り立てる」(3:1)ことから、「奪い取る者、不正な者」(18:11)として、ことにユダヤを支配するローマのために税金を集めることから、同胞のユダヤ人から憎まれ、軽蔑され、社会から除外されていました。

<罪人たち>も社会から除外されていた点では同じで、詐欺師をはじめ、すべての犯罪人だけでなく、道徳的に品行のいかがわしいと見做される者たちで、高利貸、賭博師、遊女、羊飼いなどです。羊飼いは、一定の頭数を請け負って遊牧飼育に従事する零細な請負人を意味し、他人の土地へ不法に羊を追い込んだりする不届き者という社会的通念と蔑視が一般化していました。このような者たちが<皆>、イエスのもとへ来ていました。

 すると、<すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。>

 5章27-30節では、レビという徴税人の家でイエスが徴税人たちと盛大な宴会をしていたとき、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスの弟子たちに、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と不平を言い出しましたことが記されています。ファリサイ派の人々は神の戒めを固く守り、自分たちこそ正しい人間であうと自負していた人達で、他人を見下げている人達です。罪人と席を同じくすることは、自分をけがすことだと考えていました。彼らの多くはイエスの敵でした。彼らは宗教の外面的な形式に注意を払う偽善者であり、心の中は傲慢で、へりくだりの思いもなく、真の神を知りたいという願いも全くありませんでした。彼らは貧しい人々に重荷を負わせ、助けようなどどとは少しも考えませんでした。

ここでは、非難の矛先が直接イエスに向けられています。そこでイエスは、次のたとえを話されました。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(15章4節)

イエスは、<あなたがたの中に>と聴衆に呼び掛けて、羊を飼う人がいて、こんな立場に立ったら、このようなことをするではないか、と言って話を進められます。羊飼といえば、当時の人にはきわめて身近な人たちでした。羊百匹を持っているのは、ありふれた羊飼のことのようです。

羊が一匹いなくなると、羊飼は残り全部を放っておいて、その一匹を捜しに行ってしまう。当時のだれもがとるであろう対処の仕方です。

羊飼の頭の中は、見えなくなった一匹の羊を<見つけ出すまで>、さまよっていそうな所を、山を越え、谷をわたり、草木を分けて捜しまわり、引き返そうとしません。

「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(15章5-6節)

そしてやっと見つけた時は、嬉しくてたまらないので、さまよって疲れ動けなくなった羊の前肢をたばねるようにして、自分の肩にかついで家に連れ帰ります。

           

 彼は黙っておられず、友達や近所の人たちまで呼び集めて、<見失った羊を見つけたので喜んでくれ>、と言います。この招待には、祝宴が予定されています。いなくなった一匹のため、他の九十九匹を野原に残して捜し回るのは賢明ではないが、失われたものへの心配と愛着はそれを超えます。

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15章7節)

「罪人」は、ギリシア語で「ハマルトロー」で、「罪」は「ハマルティア」と言い、本来は「まとはずれ」という意味があり、的を射はずすときに使われたもので、そこから「罪過」の意味にも用いられます。神は御自身の愛を受け入れる存在として人間を創造し、自由な意志を与えられました。しかし人間は神の愛にそむき、自らの意志によって、あるべきでない方へとさまよい、的をはずれてしまいました。それが「罪」なのです。罪(ハマルティア)はキリスト教の罪悪を示しています。人間は自分の欲望によって神から離れ、死と罪が支配する絶望の世界に迷いこんだのです。

失った羊を見つけることは、「悔い改める一人の罪人」のことです。もちろんたとえですから、神は九十九人を放っておくという結論はできないが、失ったものへの心配を印象づけています。

 羊飼とその羊との関係、羊飼としての主と民との関係は、旧約の多くに箇所で言及されています。エゼキエル書34章11-12節,23節には、「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。・・・わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる」とあります。イザヤ書53章6節には、「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」とあります。羊は神の子らを表すとともに、迷い出て失われた罪人を表します。

 「見失った羊のたとえ」のクライマックスは、羊を見つけた時の羊飼いの「喜び」です。羊飼は重い羊を、自分の肩にかつぐほど、うれしくてたまりませんでした。神は愛である方です。その愛にそむいた人間を探しておられるのです。罪に陥った一人が悔い改めて神のもとへ帰ることが、神の側ではどんなに大きな喜びであるかが、巧みに説明されています。「大きな喜びがある。」イエスを満たしているのは、天の喜びです。神の王座の前で燃え上がるような喜びです。その罪人を神の国へ招くためにこそ、わたし(イエス)はこの世に来たのである、ということが説かれたのです。

<悔い改める必要のない九十九人の正しい人>には二つの解釈が可能です。「自らを正しいと思っているファリサイ派の人々、律法学者たち」か、または、すでに見つけられている罪人たち、心もイエスのもとにある人々です。「悔い改める必要のない人」とは、自分自身、悔い改める必要がないと考えているファリサイ派の人々を表しています。この人々も、いま一緒に喜ぶことが求められています。

<悔い改め>とは、イエスに見つけられ、イエスのもとに戻ることであり、罪人の側からはイエスを受け入れるということであります。

この大きな喜びは、実は更に大きな悲しみがその前にあったからこそなのです。羊飼いは、残された九十九匹のことも、あるいは自分のことさえも忘れしまうほど悲しみに満たされていたに違いありません。あとのことなど忘れてしまって、夢中で捜しに出かけて行ったのです。この悲しみこそ、神が人に対して持っておられる愛の悲しみに他なりません。預言者イザヤは神の言葉として、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわあしにそむいた。牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかし、イスラエルは知らず、わが民は悟らない」(イザヤ1:2-3)と言っています。

神が自分で造られ、そして育ててこられた人類は、自分の創造者を忘れてさまよい歩いています。そのために神は、この羊飼のように、人々が帰って来るのを悲しみをもって追い求めておられるのです。この羊飼いこそ、主イエスです。この羊飼いによって、主イエスは神の愛をしめしておられます。どのように小さく貧しい者でも、見捨てられ、失われたような者でも、主イエスは愛し、捜し求めておられるのです。

 「わたしは迷える羊ではない。残りの九十九匹の羊の中にいるのだ」という人がいるでしょうか。悔い改めを必要としない人間などは一人もいないのです。

わたしたちは、わたしたち一人一人を必死に捜し求める神に気づくことです。神から愛され、求められている自分の価値を認めることです。そして、自分が神に立ち帰ることが神の大きな喜びであることを、このたとえ話から聞き取りましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「思いわずらわないで、祈りなさい」 フィリピの信徒への手紙4章4~9節

2021-06-19 16:03:14 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第5主日 2021年6月20日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

       礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂のひかり)

交読詩編   23(主は羊飼い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)フィリピの信徒への手紙4章4~9節(新p.366)

説  教 「思いわずらわないで、祈りなさい」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

聖餐式    72(まごこころもて)

讃美歌(21) 493(いつくしみ深い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 リモートで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。

ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                次週礼拝 6月27日(日)午後5時~5時50分    

                聖 書 ルカによる福音書15章1-7

                説教題 「見失った一匹の羊のたとえ」

                讃美歌(21) 218 200 27 交読詩編 23  

本日の聖書 フィリピの信徒への手紙4章4~9節

 4:4主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 6どんなことでも、思い煩うのなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 8終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 9わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

本日の説教

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4:4)

 4章4節から、名高い「喜びの勧め」が語られます。<主において喜びなさい>は、3章1節bでも、「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。」と言われていました。

<主において>は、主こそがパウロの喜びの源泉であり、この喜びは主との交わりから生まれます。<主において>は、主キリストを根拠とした喜びであり、主イエスと共にあることの喜びです。これは、主との交わりを深め、主に信頼し、主に従うことにより実現される信仰者の喜びの体験を深めなさい、という勧告のことばです。

 パウロはこの手紙を、捕らわれの身である獄中から送って送っています。1:17に、「獄中のわたし」とあります。

フィリピの手紙では、次のように<喜び>という言葉が繰り返し使われています。

1:4「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」

1:18「だが口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」

1:25「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがたと共にいることになるでしょう。」

2:2「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」

2:17「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」

2:18「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」

2:28「そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。」

4:1「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり」

4:10「あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。

4:18「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」

4章からなるこの短い手紙には、<喜び>という言葉が16回も用いられ、手紙の内容も<イエス・キリストにある喜び>で満ちているところから、「喜びの書簡(手紙)」とも呼ばれています。「主において常に喜びなさい」とは、主イエスに結ばれていること、主と共にあることをいつも、どんなときも喜びなさい、と勧めているのです。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(4:5)

広い心は、寛容、温和さ、忍耐深さをもって他人と平和に過ごすことを意味しています。キリストの実践した、敵をも愛す広い心です。具体的には、フィリピ教会を脅かす内外の人々に対する報復を控え、かえってかれらに寛大な態度を示せ、という勧告です。

<すべての人>は、フィリピ教会を外から脅かしている反対者たち(1:28)と、かれらの影響を受けて教団の一致を損なっている人々の両者を指しています。

<主はすぐ近くにおられます>は、主の来臨による救いが近づいている状況の中で、主に関心が向くとき、何ごとにもこだわらない<広い心>が与えられます。そしてこれが<どんなことでも、思い煩うのはやめなさい>との勧めにつながていくのです。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(4:6)

<思い煩う>は、神の保護と配慮に対する確信を欠くために、神の支配に一切を委ねることをこばみ、自分の能力を頼りとして自己の運命を開き、それを手に入れようとする人間のあがき、無駄な努力を意味します。この煩いは、「神の国と神の義を求める」(マタイ6:33)ことを妨げるたぐいの悩みです。

<どんなことでも、思い煩うのはやめなさい>は、教団が直面しているすべての問題を、世のすべてを支配する神に委ねることを命じています。

<求めているもをのを神に打ち明けなさいは、自力で自己を守ろうとする思い煩いを打ち砕かれ、人間の計画による実現よりも、はるかにこえて働く神、すなわち一切を支配し、人間を配慮する神にすべての願いを委ねよ、との命令です。

<感謝を込めて祈りと願いをささげ>は、<求め>を神に知らせるのですが、それは、神が正しく配慮してくださるという確信に基ずく求めであり、神にすべてを委ねるということですから、神への信頼と感謝がともなうのです。

「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(4:7)

<神の平安>は、たんなる心のやすらぎや思い煩いのない状態以上のキリスト・イエスの働きによる神の救いの力を受けることを指します。

<あらゆる人知を超える>は、思い煩う人間の計画による実現よりも、はるかに超えてそれ以上になる、という意味です。

<心と考えは、どちらも欲し、企画し、思いめぐらす人間を指します。

<キリスト・イエスによって守るでしょう>は、神の平安、神の救いが、イエス・キリストによって現実になるであろう、という意味です。

「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」(4:8)

<終わりに、兄弟たち>は、4章1節に続く手紙の結びのことばです。<真実なこと>、<気高いこと>、<正しいこと>、<清いこと>、<愛すべきこと>、<名誉なこと>の六つの徳目に、<すべて>という語が繰り返し付け加えられています。七つめの<徳>、八つめの<称賛に価いすること>という徳目は他の徳を総括しています。

<それを心の留めなさい>の<それを>は、八徳目を受け、<心に留めなさい>は、単に考慮せよというのではなく、実行する意図をもって心に留めることを意味しています。

「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」(4:9)

9節では、パウロは、彼自身の従来の教えと生き方を実行することを命じます。

<そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます>の、<平和の神>という表現は、神の救い、神の救いの力を指します。フィリピの教会の人々が、パウロの教えと生き方を実行するならば、神はかれらを終わりの日に、さばきではなく救い、すなわち祝福に入れられるという約束のことばです。

以上、今日の聖書のみことばについて、解説してまいりました。その中で、「主において常に喜びなさい」というみことばがありました。<常に>、いつも、とあるように、継続的な喜びです。この<常に>喜んでいる秘訣は「主にあって」ということばによって示されています。「主にあって」生きる人生は、自分で生きるのではなく、主に生かされる人生であり、どんな状況ある時も、主が共にいてくださり、支え、導いて下さる人生です。悲しみも苦しみも、悩みさえも、主のなぐさめと励ましを受けて、生きている喜びを味わうことができるのです。

また、パウロは、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と勧めています。私たちはいろいろなことが心配です。思い煩いは、まだ起こりもしないことを、あれこれと頭の中で想定して、心配するのです。第一ペトロの手紙5:7には「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」とあります。パウロは、思い煩わないで生きていく秘訣を教えています。それは、私たちのすべてを知っておられ、私たちを愛してくださっている全能の神と御子キリストとの交わりをもち、祈りと願いとをすべて打ち明け、ゆだねることです。

 わたしたちは、聖霊によって、「天の父なる神様」と呼びかけ、祈るのです。わたしたちはどう祈るべきかを知らなくても、祈りがうめきであっても、聖霊は神と祈る者との間を執り成してくださり、「万事が益となるように共に働いてくださいます」(ローマ8:28)。

パウロはエフェソの手紙3:20で、神を「わたしたちの内に働く御力によってわたしたちが求めたり、思ったりするすべてを、はるかに超えてかなえることのできる方」と言っています。思い煩わないで、神に祈り、より頼む時、御霊による平和な心と神の力が与えられて、立ち上がり、困難な現実にも立ち向かうことができるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キリスト賛歌と讃美歌『主は命を』の作詞者」 フィリピの信徒への手紙2章6~11節

2021-06-13 03:15:56 | キリスト教

    The Crucifixion , fresco by a master of the Lombard school, Church of St Sebastian (16th century), Biella, Piedmont, Italy.

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第4主日   2021年6月13日(日)       午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3・16-17)

                   礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  13(みつかいとともに)

交読詩編   67(神がわたしたちを憐れみ、祝福し)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)フィリピの信徒への手紙2章6~11節(新p.363)

説  教 「キリスト賛歌と讃美歌『主は命を』の作詞者 」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

讃美歌(21) 513(主は命を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 韓国と名古屋から、星野兄と辺見兄が参加します。   

〇 リモートで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。

ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                                                              次週礼拝 6月20日(日)午後5時~5時50分    

                                                                聖 書 フィリピの信徒への手紙4章3~9節

                                                             説教題 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」

                                                             讃美歌(21) 213 493 27 交読詩編 73  

本日の聖書 フィリピの信徒への手紙2章6~11節

 2:6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

本日の説教

「キリスト賛歌」と言われる、フィリピ2章6-11節は、詩形で書かれています。この賛歌はパウロの創作ではなく、当時の教団で用いられていた賛歌の引用です。パウロがこの賛歌を引用したのは、フィリピ教会のある人々が敵対者たちの影響をこうむり、その結果利己心や虚栄心により、信仰生活、とくに教会員の一致が脅かされていたことによります。そこでパウロはこの賛歌を引用することにより、かれらにまずキリストの救いに出来事の確認を迫り、この救いにあずかっているものとして救い主キリストのへりくだりをかれらの模範とすることを勧めています。すでに完全なものであることを誇り、すでに栄光を受けていると主張した敵対者影響下にあるフィリピ教会の者たちに対し、パウロは従順のゆえに天にあげられたキリストの道を示すことにより、完全な栄光は、へりくだりを経てはじめて与えられる将来における約束の賜物であることを教えます。

この賛歌の構造は、6-8節と、9-11節、すなわち前半と後半の二部から成り立っています。前半では、主体はキリストで、フィリピの教会の人々に、へりくだりと従順のゆえに天にあげられたキリストの歩んだ道を示すためでした。8節は「死にいたるまで従順でした」で完結していた賛歌に、パウロは「十字架の死」という句を加え、キリストの十字架こそが実は決定的な救いの出来事であったことを強調しました。

後半は、父なる神が主体で、自分を空しくし、人間になるほどへりくだった御子、さらに十字架の死に至るまで父なる神にみこころに従った御子を、父なる神は大いに高め、あらゆる名にまさる名、いいかえれば全被造物にまさる位と権能とを「恵み」としてお与えになったことが賛美されています。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(2:6-7)

<神の身分でありながら>とは、人間となられる前のキリストの神的力や神的実態を意味します。

<神と等しいもの者>は<神の身分>と同じ意味で、先在者キリストが神的存在であり、その意味で神と等しい存在であったことを述べています。

<固執しようと思わず>は、その神的な存在を固持しようと欲しなかった、ということです。当然享受してしかるべき<神と等しい者として>の権利にこだわらなかった>ということです。

<自分を無にして>は、先在者キリストの人間化の自発性が示唆されています。

<僕の身分になり>は、先在者の単なる人間化ではなく、苦難の神の僕としての人間化が語られており、従順、へりくだりが人間化の動機に重ねられています。

<人間と同じ者になられました>は、人間と本質的に同一である、真に人間になった、という意味です。

人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(7b-8)

 <人間の姿で現れ>は、地上において人となった潜在者は、人々みよっても、まさしく人間として見られた、の意であり、完全に人間化した先在者の地上の生を語っています。

 <へりくだって>は、神に対して先在者の地上の生を従順とへりくだりの道として特徴づけています。

<死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした>は、先在者の、真の、そして徹底的な「人間化」を表します。<それも十字架の死>は賛歌の詩形を乱すパウロの付加によるものですが、フィリピの教会の人々が、「十字架の敵対者」(3:18)と特徴づけられている人々の影響を受けていたことにかかわっています。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(2:9)

賛歌は前半(6―8節)では、先在者-キリストのへりくだりの行為を中心主題〔テーマ〕とし、後半(9-10節)では、キリストの対する神の行為を主題として述べています。

<このため、神はキリストを高く上げ>は、先在者の完全な人間化とキリストの死に至るまでの従順の死を受けて、従順の褒賞として、神がキリストを高くあげた、という意味です。この場合、従順が神から果報を引き出すための条件としては考えられていないこと、「お与えになった」とあるように、神が主権をもって恵みとして与えたという意味です。

 <高く上げる>は、これに続く「あらゆる名にまさる名をお与えになりました>と内容的に同じであり、神がキリストに全世界を支配する権能を与えたことを意味します。

 <あらゆる名にまさる名をお与えになりましたは、11節bの「主」を指示しています。古代世界では一般に「名」はその保持者の尊厳と権能をあらわします。従って「主」の名を受けるということは、神的機能と尊厳を与えられるということに他なりません。それは、キリストが高く上げられことは、ここでは、世の全体にかかわる救いの出来事として捉えられているのです。

 「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、」(2:10)

 神がかれを高くあげ、すべての名にまさる名を与えた(9節)のは、すべてひざまずき(10節)、またすべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、神に栄光を帰すためである(11節)ということになります。ここには一神論的信仰が全体を鮮明に貫いています。だが、10-11節は、9節同様、一神論に抵触しない仕方で、イエスの位と権能をも言明しています。

 <イエスの御名>に言及するのは、主という名を与えられた者が、ナザレのイエスという歴史的人格であることを確認し、かつ、それゆえに全宇宙の礼拝は、このナザレのイエスという歴史に介入した人格に対してひざまづくことであることを鮮明にあらわすためでしょう。

<天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてという表現は、宇宙の全被造物を指します。

<イエスの御名にひざまずき>は、イエスの名が呼ばれつつなされる礼拝の姿勢をあらわしています。

「すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(2:11)

<すべての舌>は、旧約聖書イザヤ書45:23の<わたしの前に、すべて膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て・・・・>という言葉と、その引用と思われるローマ書14:11の<わたしは生きている、すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる>という言葉と関連しています。

賛歌は、<神をほめたたえる>の神を、<イエス・キリストは主である」という告白に代えることにより、天に上げられたイエス・キリストがかかる神的機能を与えられて主として全宇宙の霊的諸力を支配することを鮮明にします。

<父である神をたたえるのです>という最後の句は、イエスにひざまずき、主であると告白することは、同時に神に栄光を帰すことに通じるという事態を明らかにします。キリストを高く挙げ、主の名を恵みとして与えたのは神です。それゆえにイエスにひざまづき、主と告白することも実現しました。従って、最後に神に栄光が帰せられるのです。

<父である神>の父は、おそらく直接にはキリストの父を指示しています。だが父は、エフェソ書1:10に、「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられるのです」とあるように、神と世の新しい関係をも示唆していると思われます。主イエスは、「われらの父よ」と呼びかけ祈りなさいと教えてくれました(マタイ6:9)。また主は神を「わたしの父であり、あなたがたの父である方」と言ってくださいました(ヨハネ20:17)。

イエスは、「間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(7b-8)とあるようにイエスはまさしく人間であられました。けれども、一方で聖書は、イエスを神としてあがめます。そのことは、イエスの復活に現わされています。「イエスはよみがえられた」ということは、イエスが神であるといっていることです。

主イエス御自身も、弟子たちに三度もエルサレムでの受難の死と復活を予告していました。ペトロたち、弟子たちもイエスの復活の証人です。キリストの復活については、「彼は陰府(よみ)に捨ておかれず、その体は朽ち果てることがない」(詩篇16:20)と預言されていたことでした。イエスによって福音を伝える使徒とされたパウロも天から語りかけるイエスの声を聞き、復活されて生きておられるキリストを信じました。

イエスは十字架の死に至るまで、神のみこころに従順でした。神の愛(アガペー)に生きるまことの人間をイエスによって知らされ、イエスによって人間のあるべき道が示され、救いの道が与えられる、このときに、イエスがまことの神であることがわかります。 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)イエス以外に真の神を知ることができないのです。

「キリスト賛歌」に、キリストは「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。それは私たち人間を救うためでした。わたしたちのために貴い命を与えてくださった主イエスに、わたしたちはどう応えたらよいのでしょうか。

この主を讃えるにふさわしい讃美歌の一つが、讃美歌21の513番(讃美歌332番)「主は命を」です。作詞者はイギリス人女性のフランシス・ハヴァガル(1836~1879)です。この讃美歌がつくられ、教会で歌われるまでの経緯についてお伝えいたします。

      フランシス・ハヴァガル

彼女は英国国教会の聖職者の娘で、イングランドの西部ウスタシャー州のアストレー(Astley)という村の牧師館で三女二男の末っ子として生れました。彼女は広い教養と詩的天分、音楽的素質、語学の才能にも恵まれていました。彼女は22歳の時、ドイツのデュセンドルフの市立美術館で、イタリアの画家ドメニコ・フェッツィ(1589~1623)の描いた「エッケ・ホモ」(「見よ、この男だ」ヨハネ19:5)という題の絵を見ました。【この絵は、現在ドイツのミュンヘンにある国立美術館に所蔵されています。】

それはいばらの冠をかぶせられ、鞭打たれたったキリストが描かれていました。キャンバスの下の方に、ラテン語の文字が書かれていました。Ego pro te haec passus sum(わたしはあなたのためにこの苦しみをうけた)Tu vero quid fecisti pro me(今あなたはわたしのために何をしますか)

   

  ドメニコ・フェッツィの作品「エック・ホモ」。

彼女はその場に釘づけになり、しばらく凝視していましたが、やがて鉛筆を取りだし、紙片にI Gave My Life For Thee(私はあなたのために私の命を与えた)というキリストのことばを詩文として書き留めました。そして帰国後、それをもとに作詞しようとしたのですが、どうにも思うように書けません。駄目だと思ってメモしたものをストーブに投げ込んだのですが、偶然その紙が床に落ちます。それを拾い、後でそれを父に見せました。父は初めの1行を書き直すように勧めました。「私はあなたのために命を与えた」とキリストの言葉に書き直すと父はそれをほめ、それに曲をつけて歌ってみせました。後に、アメリカの19世紀の優れた讃美歌作曲者フィリップ・ブリスの曲が付けられました。教会で歌う場合には「あなたの命は私に与えられた」に変更されました。このようにしてこの讃美歌が誕生したのです。

病弱な彼女は42歳の若さで、腹膜炎のため亡くなりました。彼女の家のベットの下に、彼女の好きな聖句を書いた紙がはさんであり、その一枚には、「神の子イエス・キリストの血、すべての罪よりわれらを潔む」(一ヨハネ1:7)と書かれていました。彼女の遺体は、アストレーという町にある聖ペテロ教会の墓地に、父の墓と並んで葬られました。

  

 彼女の墓碑には、「神の子イエス・キリストの血、すべての罪よりわれらを潔む」(一ヨハネ1:7)の聖句が刻まれています。彼女は多くの宗教詩を残しました。512番「主よ献(ささ)げます」と536番「み恵みを受けた今は)も彼女の作詞によるものです。アストレー(Astley)に住んだのは数年間で、その後は、南ウェールズのゴーワー岬にある家です。そこには、記念碑が建っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「へりくだった心をもちなさい」 フィリピの信徒への手紙2章1~5節

2021-06-06 03:36:02 | キリスト教

     ↑ 「へりくだった仕える人になりなさい。」(フィリピ2:3)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第3主日 2021年6月6日(日)    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

       礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 497(この世のつとめ)

交読詩編  90(主よ、あなたは代々にわたしたちのやどるところ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)フィリピの信徒への手紙2章1~5節(新p.445)

説  教   「へりくだった心をもちなさい」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

讃美歌(21) 543(キリストの前に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 韓国と名古屋から、星野兄と辺見兄が礼拝に参加します。どなたでも参加できます。希望の方はお申込みください。メールアドレスは munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp  ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

〇礼拝後、田中恵子姉によるグレイス・タイムがあります。

 

                   次週礼拝 6月13日(日)午後5時~5時50分    

                   聖 書 フィリピの信徒への手紙2章6~11節

                   説教題 「キリスト賛歌」

                   讃美歌(21) 543 513 27 交読詩編 67  

  本日の聖書 

 2:1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

  本日の説教

 パウロは1章27~30節で、フィリピの教会の人々が、外部の反対者たちに屈しないで、一つ心で福音の信仰のために戦い、苦難に耐えるようにとの勧告のことばを記しました。そして2章1節以下では、これをうけて、いわば内部の敵、すなわち「党派心や虚栄」を克服し、真の一致に至る道を「へりくだった心」として勧告します。

 2章1節で、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心」という信仰者のうけている四つの力と根拠を確認し、次にそれにもとずいて、彼らが「同じ思い、同じ愛、心を合わせ、思いを一つ」になること、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」と警告し、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と、一致への強い勧めをしています。 

 「利己心」は、自分や自分たちの利益のみを追及する姿勢、生き方を指します。このような自己追及、我欲が支配するところでは、当然ながら愛は育たないし、「同じ思いを」抱く共同体の一致は形成されません。

「虚栄心」は、すでに完全な者であることを誇り、すでに栄光を受けているという主張が虚栄心であり、その虚栄心は他の者を軽蔑することにつなって、教会の一致を損なうと警告します。栄光は、信仰者にとって、将来に約束されていることにすぎないのです。

 「へりくだる」ことは、教会の他のメンバーを自分と同等の存在として認めるということだけでなく、さらに他人を自分よりすぐれた存在として尊敬するということにたつながります。キリストのへりくだりに倣って自らを他に対して低くへりくだって、同じ思いをいだく(2節)ことに他なりません。「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」は、この点を強調したことばです 。

 「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」の「自分のこと」とは、自分の利益ではなく、他人の利益をも追及せよという一般的勧告ではなく、自分の受けている賜物を過大評価したり、これに心を奪われることなく、他の人の受けている賜物をも注視せよ、というより限定された意味で用いられています。

 パウロはキリストに出会い、救われる前は、ファリサイ派に属する宗教家で、自分を誇っていました。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ3:5-6)と言っています。自分を誇っていたパウロは、キリストを信じる信仰によって義とされる救いにあずかったことにより、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないことを」知りました。「律法によっては、罪の自覚しか生じない」(ローマ3:20)からです。律法によってだれも神の御前で義とされないことは明らかです。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(フィリピ3:9)と述べています。以前は自分の過ちと罪のために死んでいた者を神は恵みにより、信仰によって救われました。「このことは自らの力に依る者ではなく、神の賜物です。行いによるのではりません。それは誰も誇ることがないためです。」(ローマ2:8-9)と述べています。

高慢なことを戒め、へりくだること、謙虚、謙遜であるべきことを勧告したパウロは、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」(フィリピ2:5)と述べ、キリストのへりくだりを模範とせよと勧めるのです。

虚栄を捨てて神の前に謙遜にされた人間は、社会の人々に対してもまた「へりくだった心」を持たなければなりません。

曽根暁彦著の「若き魂への福音」の「虚栄」という項目に次のような文章が書かれているので、紹介いたします。

「虚栄の社会は対立の社会であり、争いの社会であり、お互いに裁き合う人間の集まりです。そこでは人間は高慢です。冷酷です。その中にあって虚栄を捨て、へりくだった心で生きて行こうすることは決してやさしいことではりません。しかし、それこそ『キリストの福音にふさわしく生活』(フィリピ1:27)することなのです。『あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜っている』(フィリピ1:29)とあるように、この世での苦難は救いにあずかる者への、神からの賜物であることを忘れてはなりません。」(p.119)

私は父から、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということばを教わりました。稲の穂に実が入り、内容が充実すると、ますます重くなって、穂が低く頭を垂れる様子を詠んだものです。人間も人物ができてくればくるほど謙遜になるものだということを、教えた言葉です。

讃美歌21の543番「キリストの前に」の作詞者、奥野昌綱(1823-1910)は、明治維新後、米国宣教師ヘボンの日本語教師となり、感化されてキリスト教に入信。日本のプロテスタントで二番目の牧師となりました。一番目は、大阪の澤山保羅牧師です。奥野牧師は聖書、讚美歌の翻訳に、またキリスト教の伝道に貢献した人物です。次のような短歌を詠んでいます。

  「キリストを人に見せばやわれはその

   かげにかくれてありとしらさで」

イエス・キリストを主と仰ぐ奥野牧師の、へりくだった心境がよくあらわれている短歌です。謙遜な伝道の姿勢がうかがわれます。キリストの大きな愛によって生かされている恵みを自覚する時、人間はへりくだって謙遜になれるのではないでしょうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする