↑ 「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』」ヨハネ6:68
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
受難節第3主日 2024年3月3日(日)午後2時~2時50分
礼 拝 順 序
前 奏 辺見トモ子姉
司 会 邉見 順子姉
讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)
交読詩篇 90(主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書6章60~71節(新p.176)
説 教 「受難の予告」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 311(血しおしたたる)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
次週礼拝 3月10日(日)午後2時~2時50分
聖 書 ヨハネによる福音書12章1~8節
説教題 「香油を注がれた主」
讃美歌(21)543 567 27 交読詩篇 2
本日の聖書 ヨハネによる福音書6章60~71節
60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは“霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
本日の説教
今日の聖書の箇所、6章60節に弟子たちの多くの者はこれを聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とイエスにつまずきました。「こんな話」は具体的には、イエスが命のパンであるという話です。先祖は荒野でマンナを食べたが、死んでしまった。マンナと違い、イエスは天から降って来た生きたパンであり、これを食べる者は死なない。その人は永遠に生きる。という話です。
このことはイエスが神と等しい者であるということをその裏側の意味とした議論でした。この話を聞いて弟子たちの多くの者がつまずいたいたのです。
さらに51節cの、イエスが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである、から58節まで続く聖餐を具体的な内容とした議論につまずいたのです。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内には命はない」(6:53)や、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(6:55)、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(6:56)と言われたイエスの言葉を指すのでしょう。弟子たちの多くの者は、これを人肉を食うことと解したのです。
イエスは弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて、「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」と言われました。「一層つまずくだろう」という文章が完結しない形が使われています。イエスが命のパンであると認めることが出来ない者は、ましてや十字架、復活、昇天の一切のことを認めることは出来ません。
「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と主イエスは言われます。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです(コリント一、2:14)。イエス・キリストによる罪の赦しと復活の信仰をもって、イエス・キリストの体にあずかること、それは聖霊の働きによってのみ可能なのであり、この信仰を抜きにしてパンを食しても何の役にも立たないことが意味されています。
「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と主イエスは言われます。すべての被造物を創造したのは言であり、命を与えたのも言でした。その意味では神が命をもっておられ、イエスもまたその命を託されているのですが、聖霊もまた、命をもっており、霊自体が命であると言われています。
「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエス御自身が伝えようとしている真理は、人格的真理であり、それは受け取り手の主体性、自由ということが保証されていなければなりません。信仰は強制されるものではありません。従って信じる者がいる反面、信じない者たちが出てくることは明らかなのです。
「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ」とイエスは言われました。これは聖霊の働きなしにはだれもイエスを信じると告白することができないということを言っています。このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなりました。
この翌年の春の過越しの祭りの時には、イエスは過越しのの子羊として十字架の死を迎えなければなりません。また命た命のパンとして御自身の命を与えなければなりません。そのため、ご自分の使命を弟子たちに伝え、受難を予告したのです。しかし多くの弟子たちはそれを理解することができず、つまづきました。残ったのは十二弟子だけでした。
多くの者が去っていったとき、イエスは残った十二人の弟子たちの心を確かめるために、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。
シモン・ペトロが、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えました。「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか」という答えには、主よ、わたしたちにはあなたの他にだれのところにも行くところはありませんという反語が秘められています。あなたは永遠の命を与える言をお持ちであり、神から聖別された聖なる方であると信じています。この告白はペトロが弟子たちを代表してイエスに対する信仰を言い表したものです。
このペトロの告白を主イエスはどんな喜ばれたことでしょう。しかしこのペトロの告白に対するイエスの評価の言葉はありません。マタイ福音書では「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)と語っています。ヨハネ福音書ではペトロの告白はイエス御自身を「あなたは命の言です」とまでは言っていません。また神から来られたメシアですとも言っていません。このペトロは復活されたイエスに出会い、聖霊降臨の恵みを受けた後は、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、神が死者の中から復活させられたイエス・キリスト、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」、と証言するようになります。(使徒言行録4:12)
すると、イエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と言われました。イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのです。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていました。イエスは御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのです。
群衆もユダヤ人たちも、弟子の大部分さえも、イエスの語られた御言葉を理解しませんでした。彼らは霊のことよりも、現実のパンをキリストに期待しました。霊の救いよりは、肉の満足と安楽を求めました。彼らには、キリストの霊の言(ことば)、霊の救い、永遠の命などは理解できませんでした。
今日も主イエスから去って行く人は多いのではないでしょうか。その中にあって、神に選ばれた私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは信仰の実りとして魂の救いを受けているからです(ペトロの手紙一、1章8、9節)。」
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」あなたと共に生きることができるのは、無上の喜びです。「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください(詩編80:19)。」主イエスが共にいて下さるなら、わたしたちはどんな苦しみも、死でさえも乗り越えて進んでゆくことができます。あなたこそ天から来られた神の子です、と証しし、すべての人が救われることを祈りつつ信仰の歩みを続けてまいりましょう。