富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「受難の予告」ヨハネによる福音書6章60~71節

2024-02-29 13:40:03 | キリスト教

  ↑ 「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』」ヨハネ6:68

 〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

受難節第3主日 2024年3月3日(日)午後2時~2時50分

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩篇    90(主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書6章60~71節(新p.176)

説 教       「受難の予告」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

         次週礼拝 3月10日(日)午後2時~2時50分

         聖 書 ヨハネによる福音書12章1~8節

         説教題   「香油を注がれた主」

         讃美歌(21)543 567 27 交読詩篇 2 

 本日の聖書 ヨハネによる福音書6章60~71節

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは“霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

  本日の説教

  今日の聖書の箇所、6章60節に弟子たちの多くの者はこれを聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とイエスにつまずきました。「こんな話」は具体的には、イエスが命のパンであるという話です。先祖は荒野でマンナを食べたが、死んでしまった。マンナと違い、イエスは天から降って来た生きたパンであり、これを食べる者は死なない。その人は永遠に生きる。という話です。

 このことはイエスが神と等しい者であるということをその裏側の意味とした議論でした。この話を聞いて弟子たちの多くの者がつまずいたいたのです。

 さらに51節cの、イエスが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである、から58節まで続く聖餐を具体的な内容とした議論につまずいたのです。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内には命はない」(6:53)や、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(6:55)、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(6:56)と言われたイエスの言葉を指すのでしょう。弟子たちの多くの者は、これを人肉を食うことと解したのです。

 イエスは弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて、「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」と言われました。「一層つまずくだろう」という文章が完結しない形が使われています。イエスが命のパンであると認めることが出来ない者は、ましてや十字架、復活、昇天の一切のことを認めることは出来ません。

  「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と主イエスは言われます。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです(コリント一、2:14)。イエス・キリストによる罪の赦しと復活の信仰をもって、イエス・キリストの体にあずかること、それは聖霊の働きによってのみ可能なのであり、この信仰を抜きにしてパンを食しても何の役にも立たないことが意味されています。

 「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と主イエスは言われます。すべての被造物を創造したのは言であり、命を与えたのも言でした。その意味では神が命をもっておられ、イエスもまたその命を託されているのですが、聖霊もまた、命をもっており、霊自体が命であると言われています。

 「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエス御自身が伝えようとしている真理は、人格的真理であり、それは受け取り手の主体性、自由ということが保証されていなければなりません。信仰は強制されるものではありません。従って信じる者がいる反面、信じない者たちが出てくることは明らかなのです。

 「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ」とイエスは言われました。これは聖霊の働きなしにはだれもイエスを信じると告白することができないということを言っています。このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなりました。

 この翌年の春の過越しの祭りの時には、イエスは過越しのの子羊として十字架の死を迎えなければなりません。また命た命のパンとして御自身の命を与えなければなりません。そのため、ご自分の使命を弟子たちに伝え、受難を予告したのです。しかし多くの弟子たちはそれを理解することができず、つまづきました。残ったのは十二弟子だけでした。

 多くの者が去っていったとき、イエスは残った十二人の弟子たちの心を確かめるために、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。

 シモン・ペトロが、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えました。「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか」という答えには、主よ、わたしたちにはあなたの他にだれのところにも行くところはありませんという反語が秘められています。あなたは永遠の命を与える言をお持ちであり、神から聖別された聖なる方であると信じています。この告白はペトロが弟子たちを代表してイエスに対する信仰を言い表したものです。

  このペトロの告白を主イエスはどんな喜ばれたことでしょう。しかしこのペトロの告白に対するイエスの評価の言葉はありません。マタイ福音書では「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)と語っています。ヨハネ福音書ではペトロの告白はイエス御自身を「あなたは命の言です」とまでは言っていません。また神から来られたメシアですとも言っていません。このペトロは復活されたイエスに出会い、聖霊降臨の恵みを受けた後は、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、神が死者の中から復活させられたイエス・キリスト、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」、と証言するようになります。(使徒言行録4:12)

 すると、イエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と言われました。イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのです。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていました。イエスは御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのです。

 群衆もユダヤ人たちも、弟子の大部分さえも、イエスの語られた御言葉を理解しませんでした。彼らは霊のことよりも、現実のパンをキリストに期待しました。霊の救いよりは、肉の満足と安楽を求めました。彼らには、キリストの霊の言(ことば)、霊の救い、永遠の命などは理解できませんでした。

 今日も主イエスから去って行く人は多いのではないでしょうか。その中にあって、神に選ばれた私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは信仰の実りとして魂の救いを受けているからです(ペトロの手紙一、1章8、9節)。」

 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」あなたと共に生きることができるのは、無上の喜びです。「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください(詩編80:19)。」主イエスが共にいて下さるなら、わたしたちはどんな苦しみも、死でさえも乗り越えて進んでゆくことができます。あなたこそ天から来られた神の子です、と証しし、すべての人が救われることを祈りつつ信仰の歩みを続けてまいりましょう。

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「メシアへの信仰」ヨハネによる福音書9章1~7、13~41節

2024-02-21 16:19:54 | キリスト教

↑ 盲人の目を癒すキリスト」エル・グレコ(ギリシャ人)1567年作                 メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵

解説 生まれつきの盲人を癒す記事は、マタイ9:27-31とヨハネによる福音書にあります。マタイでは二人の盲人を癒しています。絵画の中心ではキリストが盲人の目に触っています。左で空を指さしている人物は、先に視力を取り戻した盲人です。右側の集団は隣人たちとファリサイ派の人たちで、キリストが安息日に癒すことに反対しています。手前の二人は、盲人の両親だと言われています。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

   日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

受難節第2主日 2024年2月25日(日)午後2時~2時50分 

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

交読詩篇    18:26-35(あなたの慈しみに生きる人に)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書9章1~7、13~41節(新p.184)

説 教     「メシアへの信仰」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   449(千歳の岩よ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

         次週礼拝 3月3日(日)午後2時~2時50分

         聖 書 ヨハネによる福音書6章60~71節

         説教題   「受難の予告」

         讃美歌(21) 204 311 27 交読詩篇 90

 本日の聖書 ヨハネによる福音書9章1~7節、13~41節

 9:1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。・・・・・・・

 35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

 本日の説教

 ヨハネによる福音書9章には、イエスが生まれつきの盲人の目を見えるようにされたという奇跡物語と、それに続く長い論争と対話とが記されています。

   主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。その時、主イエスの弟子達が、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」とイエスに尋ねました。弟子達は道ばたで物乞いをしている目の見ない人を見て、この人が何故、目が見えないのかというその苦難の原因を尋ねたのです。理由の分からない苦しみの理由、原因をたずねることは、人間にとって昔からの深刻な問題でした。

  それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、お答えになったのです。弟子たちは、生まれつきの盲目という苦しみの原因とだれの罪かという責任を問うたのですが、イエスはそれに対して、その苦しみの意味と目的を明らかにしたのです。

  更にイエスは、この人の目に唾でこねた泥を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と、言われました。この人が言われた通りにすると、目が見えるようになって帰ってきたのです。

シロアムの池は、ギホンの泉からエルサレムの城内に水を引くため、ヒゼキヤ王の時代に、竪穴を掘って水路を造り、下の池まで水を引いた所されてきましたが、発掘調査によって大きい古池が発見され(現在は池に降りていく階段)、これがヨハネ福音書9章に出てくるシロアムの池と見做されています。 上の地図では、ギホンの泉から(上の池)から縦の赤い点線で示されている古い地表水溝を通って行く先の古池が、新しく発見されたシロアムの池です。

   イエスのこの「だれの罪でもない。神の業が現れるためである」とのお言葉は、その後今日まで、どんなに多くの人々を救いに導いたかは計り知れません。

    ヨハネの9章の8節以下には、イエスによって癒された盲目だった男のその後の人生の歩みが記されています。シロアムの池で目が見えるようになった人が、もとの場所に帰ると、そこで彼を待っていたのは、目が開かれたことを共に喜ぶのではなく、むしろ、彼を質問責めにする人々がいたことを記しています。人々は、「お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで行って洗ったら、見えるようになったのです。」と答えました。人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言いました。

    人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日でした。ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」という者もいれば、「どうして罪ある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいました。人々は盲人であった人に、「お前はあの人をどう思うのか。」と言いました。彼は、「あの方は預言者です」と言いました。

    ユダヤ人たちは、盲人であった人を二度も呼び出しました。この癒された男は、イエスが「神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と答えました。この言葉はファリサイ派の人々を憤慨させました。そこで彼は会堂から追放されました。それは社会的にもユダヤ人としての市民権を失う致命的なことでした。

   イエスは彼が追放されたことを聞き、彼に出会って言いました。「あなたは人の子を信じるか」と言われました。「人の子」とは、救い主を意味する呼び名です。彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われました。彼は目が見えるようになってから今まで、イエスを肉眼で見たことはなかったのです。しかし、今、自分の前にいる方がメシアであることを知り、「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。この盲人だった人は、目が癒されて見えるようになっただけでなく、それ以上にもっと大事なことに目が開かれ、メシア・救い主に出会い、信じることが出来たのです。

 イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「裁くために来た」とは、イエスが来た主なる目的が人の罪を裁くために来たという意味ではなく、むしろ、イエスが人を救うために来た結果、振るい分けが生じ、裁きが起こったという意味です。この方こそ、真に善悪を判断し、裁きをなさることが出来る方でありますが、裁くために来られたのではありません。イエス様がこの世に来たのは、罪人を招いて救うためです。

 「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」見える者とはだれのことでしょう。また、見えない者とはだれのことでしょう。私たち、生まれながらの人は皆見えない者たちです。神に頼らなくても生きていけるという自信の故に、真の光に至る道を、自分たち自ら拒否しているのです。自己を神の前に正しい者とする心が罪の本体なのです。自分の不完全さ、弱さ、病や罪や死の恐怖を認め、真の光として世に来たイエスの光を受け、イエスの愛と憐れみを受け入れ、イエスのみ言葉を信じて受け入れることによって初めて目を開かれ、見える者とされ、救われるのです。わたしたちは、聖霊によってわたしたちの「心の目を開いてくださるように」に、祈り求めましょう。そのとき、更なる大いなる祝福にあずかる者とされるでしょう。 

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「荒れ野の誘惑」マタイによる福音書4章1~11節

2024-02-12 15:42:44 | キリスト教

 ↑ 荒れ野で、四十日間も断食するイエス。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403 

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

受難節第1主日 2024年2月18日(日)午後2時~2時50分

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)

交読詩篇     91(いと高き神のもとに身を寄せて隠れ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書4章1~11節(新p.4)

説 教        「荒れ野の誘惑」 辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式     

讃美歌(21)    284(荒れ野の中で)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

  ◎オン・ラインで、どなたでも礼拝に参加できます。

   090-3365-3019の辺見まで連絡ください。

       次週礼拝 2月25日(日)午後2時~2時50分

       聖 書 ヨハネによる福音書9章13~41節

       説教題   「メシアへの信仰」

       讃美歌(21)288 78 446 27 交読詩篇 18

 本日の聖書 マタイによる福音書4章1~11節

 1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 本日の説教

 2月14日の水曜日(灰の水曜日)から、イースター前日の3月30日までの、6回の日曜日を除く、40日間の受難節(四旬節)に入りました。40日という期間は、主イエスが悪魔から誘惑を受けるために荒野で断食した40日を思い起こして過ごすためです。

 この期間中にある6回の日曜日を除くのは、日曜日をイエスの復活を記念する主の日として、教会で礼拝をするためです。受難節の最後の一週間を受難週と呼びます。イエスが十字架に架かるためにエルサレムで過ごした最後の週として、その苦難を覚えるためです。受難節の間は、主イエスが荒れ野で誘惑に会われ、十字架への道を歩まれたことを思って感謝し、主の復活を祝うイースターに備えるための期間です。

 イエスの「荒野の誘惑」は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されていますが、本日はマタイの福音書からメッセージを与えられたいと思います。

 主イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、悪魔から誘惑を受け、その誘惑に打ち勝つために、聖霊に導かれ荒れ野に行かれました。荒れ野は、エリコから西3キロに広がる「ユダの荒れ野」と推定されています。そこには「誘惑の山」と呼ばれている所があります。

 「誘惑の山」

 イエスは荒野で四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えました。イエスの四十日間の断食と誘惑は、モーセが山で食糧もなく四十日間放浪したこと(出エジプト記34・28、申命記9・9)と関連し、背景となっています。

  イエスは洗礼を受けたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、悪魔の誘惑にあわれるのです。イエスは伝道を始める前に、人間に罪を犯すように誘った悪魔の誘惑に勝たねばならなかったのです。「誘惑する者」の第一の誘惑は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘いでした。

 四十日も断食し、空腹を覚えているイエスにとって、パンは口から手を出したいほど欲しいものでした。悪魔の言うように、イエスは神の子として権能を用いて石をパンにすることは、できないことではありませんでした。

 しかし、イエスは自分をお遣わしになった神の御心を行うために世に来られたことを自覚され、自分の意志を行うために神の子としての権能を用いることはしませんでした。

 イスラエルの民は、シナイ半島の荒れ野の旅で空腹だったとき、指導者のモーセとアロンに不平を述べ立て、必用なものを与えてくださる神を信頼せず、不信仰を表しました(出エジプト記16・3)。しかし、不平を聞かれた神は天からマナを降らせ、うずらの肉を与え、こうして民を守る神であることを知らせたのです。

 主イエスは荒れ野で、イスラエルの民と同じような空腹を味わいましたが、イスラエルの民と同じような不信仰の罪を犯しませんでした。悪魔の誘惑に対して、イエスは神によって命じられたのではない奇跡を行うことを拒絶しました。「『人はパンだけで生きるのではない。人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」と聖書のことばを引用し、現実の空腹に目を留めるのではなく、神に信頼し、神のみ心に従って生きることを宣言したのです。イエスは、申命記8章3節のことばを引用しました。

「人はパンだけで生きるのではない」とは、生きるために人はパンを必要とするが、パンだけで生きるのではない。人は神が与える命のパンで生きる(ヨハネ6:35)、と解することができます。人の生死は神の計らいの中にあり、人は神に生かされている存在です。人には、いのちの霊の糧が必要なのです。

 人は神のことばによって生かされるのです。天地の創造も神のことばによるものでした。万物は神の言(ことば)によって成りました(ヨハネ1:3)。神はことばによって、ご意思を示されます。活ける神は、ものを言わない偶像の神とは違います。神と人との関係は、人格的・霊的なものです。神の言葉は、荒れ野の旅におけるマナのように、私たちに、単なるパンとは違う命の糧を与えて生かし、神に信頼して歩む者としてくださるのです。私たちは、日用の糧とともに、日々神のみことばによる霊の糧で養われて生きるのです。

 次に悪魔は イエスを聖なる都エルサエムへ連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ、神の子なら飛び降りたらどうだ、と誘いました。

 当時のユダヤの人々は、いつの日か自分たちを救いに来てくれるメシアが登場する場所は、このエルサレムの壮大な神殿の、しかも誰からもよく見える屋根である、と信じていたのです。そこに救い主が姿を現して民に救いを告げる。そういう最もふさわしい場所を悪魔は選んだのです。

 悪魔は、「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてあると聖書のことばを用いて、イエスに対して、神の子メシアとしての力を魔術的に行使して自分が神の子たることを示しなさい、と誘ったのです。

  悪魔が引用した聖書のことばは、詩篇です。このように書かれています。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」(詩編91・11~12)とあります。

 悪魔が引用したこの詩篇は、神への全き信頼を示す祈りです。イエスは、悪魔の要求する奇蹟は自分のための悪用であり、神への偽りの信頼への誘いであることを見破り、イエスも聖書の言葉を引用し、「あなたの神である主を試してはならない」と言って誘惑をはねのけました。

 イエスが言われたこの言葉は、モ―セが民に語った言葉です。これは旧約聖書の出エジプト記で語られている出来事を背景にしています。荒れ野で民の飲み水がなかったとき、「イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試し」ました。主は、苦境にあるモーセの祈りを聞き、モーセが岩を打てば、そこから水が出て、民は飲むことができるようにしました(出エジプト記17:1~7)。

 モーセはこの時の出来事を回顧し、イスラエルの民に対し「あなたたちがマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない(申命記6・16)」と語りました。主イエスはこの言葉を引用して悪魔を撃退したのです。イエスはイスラエルが犯した不信仰のあやまちを犯すようなことはしませんでした。

 ここにはイエスの内面的な霊的戦いが描かれています。

 悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行きました。一瞬のうちに世界のすべての国々とその繁栄ぶりを見せました。そして「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ、と言ったのです。この悪魔の言葉は、神の子の権威を表す言葉であり、「すべてのことは、父からわたしに任せられています(ルカ10・22)」というイエスのことばに類似しています。この誘惑はイエスにとって大きな誘惑です。この世の権力と繁栄は、すべての権力者が求めるものであり、この世の繁栄、栄華と富はすべての人を魅了するものだからです。この誘惑は、神の子への権威の約束が暗示されています。「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」(詩篇2:8)とあります。

 悪魔はここで自らを神として、神の子イエスに拝むことを要求したのです。しかし、悪魔に全世界を与える力も権限もあるわけありません。全世界は、神のものだからです。悪魔は、できもしないことを言って、自分を拝ませようとしたのです。

 主イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って悪魔を退けました。

 イエスが用いたこのことばは、モーセがホレブの山(シナイ山)で十戒を与えられたあと、イスラエルの民に神の言葉を取り次いだときの言葉です。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい(申命記6:13)」とモーセは語りました。主イエスは、悪魔をこの聖書のことばで退散させたのです。

 たしたちは、人生において追い求める目標が、富とか地位とか世間での名誉とかいう地上の宝ではなく、何よりもまず、神の国と神の義を求め、主に仕え、隣人を愛すことが大切です。それが「宝を天に積む」ことになり、心はいのちの源である神に結びつけられて、死によっても脅かされることのない、霊の喜びと永遠の命に生きる者とされます。

 悪魔はあらゆる誘惑を終えてイエスを離れました。すると天使が来て仕えました。これは、誘惑に打ち勝たれたイエスに、神の豊かな恵みが伴ったことを示しています。イエスは、わたしたちに赦しと恵みを注ぐために来られたのです。私たちにサタンに打ち勝つ聖霊による力を与え、私たちを罪と死の支配から解き放ち、永遠の命を与えるために、この世に来られたのです。私たちはこの主イエスを信じ、復活されたイエスと結び合わされ、この主イエスと共に生きていくことが出来るのです。そのことによって、私たちも神の子とされるのです。

     

 

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「奇跡を行うキリスト」ヨハネによる福音書6章1~15節

2024-02-08 15:59:56 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

降誕節第7主日  2024年2月11日(日) 午後2時~2時50分

     礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します)

交読詩篇     95(主に向かって喜び歌おう)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書6章1~15節(新p.174)

説 教     「奇跡を行うキリスト」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)    198(二ひきのさかなと)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

 ◎オン・ラインで、どなたでも礼拝に参加できます。          090-3365-3019の辺見まで連絡ください。

          次週礼拝 2月18日(日)午後2時~2時50分

          聖 書 マタイによる福音書4章1~11節

          説教題   「荒れ野の誘惑」

          讃美歌(21)141 78 284 27 交読詩篇 91

 本日の聖書 ヨハネによる福音書6章1~15節

 1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 本日の説教

 今日の聖書の箇所には、主イエスが、二匹の魚と五つのパンで五千人もの人々を満腹させたという出来事が記されています。四つの福音書のどれにも共通に出て来る奇跡物語は、この「パンの奇跡」だけであり、この奇跡の記事の重要さがうかがわれます。この物語は、到底ありえない話として決め付けてしまう人もいると思います。聖書の中には、たくさんの奇蹟物語が記されていますが、その中でもこの奇蹟物語は、まさに信じられないことが起こった奇蹟であり、キリストを信じる者にとっても不思議な話で、つまずきの石となるものです。一体この奇跡はどんなことを私たちに伝えているのでしょう。

 6章1節の「その後」とは、5章の記事がエルサレムでの記録であり、6章はガリラヤ地方の出来事なので、5章の記事とは切り離されています。すると「その後」とは、4章に続くガリラヤ地方の伝道の続きであることがわかります。

ガリラヤのカナで、「水をぶどう酒に変える」最初の奇跡(2:1-11)が行われ、カファルナウムの役人の息子の病気を癒す第二の奇跡(4:46-54)が行われました。エルサレムのベトザタの池では三十八年も病気で苦しんでいるひとを癒されました(5:1-9)。そして、今日の聖書の箇所は、第四の奇跡がガリラヤ湖の向こう岸で行われるのです。

 「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に」渡られました。ガリラヤ湖をティベリアス湖と呼ぶようになったのは、紀元22年にヘロデ・アンテパスがローマのティベリウス皇帝をたたえるために、ガリラヤ湖の西南岸にその名にちなんだティベリアスという町を建てたことに始ります。ティベリアス湖の「向こう岸」とは、カファルナウムから見た向こう岸で、ガリラヤ湖の北東の岸にある町、ルカ福音書によれば「ベトサイダという町」(9:10)です。

 イエスは弟子たちとこの町に渡られました。イエスは群衆から逃れて弟子たちを教えるためだったと思われます。ところが、大勢の群衆がイエスの後を追いました。イエスが病人になさったしるしを見たからです。イエスは、その町から更に人里離れた所に移動し、山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになりました。

 「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいて」いました。この翌年の過越祭のときにイエスは十字架におつきになるのです。過越祭では、神の怒りを過ぎ越すために子羊が屠(ほふ)られ、出エジプトの時のことを記念します。イエスは、人間の罪の贖いとなるため、世に送られた神の小羊です。

 集まってくる大勢の群衆を見て、イエスはフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。こう言ったのはフィリポの信仰をためすためであり、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのです。

 イエス御自身は、ご自分の体を人々に提供し、永遠の命に至るパンを提供することをすでに決心しておられたのです。しかしフィリポはイエスの問いの真意を察することができず、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンがあっても、足りないでしょう」と平凡な答えをしました。

 一デナリオンとは、ローマの銀貨のことで、当時の労働者の一日分の収入だったので、二百日分、つまり七か月分の収入に相当します。これで買うパンは大変な数量になります。これでも十分ではないと答えているのです。

 弟子の一人、ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも足りないでしょう」と言いました。

 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われました。そこには草がたくさん生えていました。男たちがそこに座ったが、その数は五千人でした。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。集めると残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになりました。

 イエスが与えた食事は、過越祭が近いことから、新しいイスラエルにとっての第二の出エジプトを記念するしるしとしての食事でした。またこの供食は、主の晩餐(聖餐)を先取りする食事でした。<十二の籠>の十二という数字はイスラエルの十二部族を示していますが、ここではイエスによって与えられた恵みによって新しいイエスラエルが満たされることを象徴していると思われます。

 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られた預言者である」と言いました。この預言者とは申命記18:15で言われているモーセに代わるイスラエルの指導者を指しています。人々はイエスのなされた奇跡を目の当たりにしても、イエスを神の子と認めず、イスラエルを救うモーセのような指導者と見做すのです。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれました。イエスの奇跡的能力を見てローマ帝国に抵抗する政治的なメシア(救世主)として彼を担ぎ上げようとした群衆の意図は拒否されたのです。

 なぜでしょうか?ご自分を王にしようとするその動機が誤っていたからです。その翌日、群衆がイエスを捜し求めてカファルナウムでイエスを見つけたとき、主イエスは次のように語っています。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(26節)。言い換えれば、民衆は自分を支配する王を迎えていたのではなく、自分の必要を満たす、自分に仕えてくれる存在を求めていたのです。王として担ぎ上げることによって、自分の得になるようなことをしてくれると期待して、王にしようとしていたのです。神が自分の思い、自分の必要をどれだけ満足させてくれたかを基準にして、信じる態度は、本当に神を信じる心ではないからです。それはしばしば、自分の思いを神とする傲慢さを上手に隠した姿であるからです。

 イエスは次のように続けて教えます。「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。…わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(32節~35節)と。このイエスのなされた奇跡は、父なる神の御心を示すためでした。父なる神は必要な日毎の糧を与えるだけでなく、命のパンであるキリストを食べる者に死ぬことのない永遠の命を得させるためでした。

 わたしたちは「主の祈り」で、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ります。<日用の>とは、「日ごと」の、「毎日の」のことです。<糧>とは、原文ではパンです。それは、ただ単に食物としてのパンだけではなく、私たちの生命を維持するために必要なその他の一切のものが意味されています。

また、この祈りは、「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:50)と主が言われたように、わたしたちの内なる生命を養い育てる霊的な食物をさしています。それは永遠の命を与えるパンです。それは主イエスが与えてくださる聖霊です。この祈りは救主キリストの生命を表わすパンとぶどう酒をいただく聖餐と深くかかわる祈りでもあります。

 イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えています。人の生死は神の計らいの中にあるので、神に信頼することのみが人のとるべき道です。イエス・キリストによって示された神こそは命の主であり、すべての恵みの与え主であることを信じて、今日という一日を、思い煩うことなく、すべて神にゆだね、主イエスと共に、わたしたちは生きるのです。

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