富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「日々自分の十字架を背負って」 ルカによる福音書9章18-27節

2022-03-26 02:54:59 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

受難節第4主日     2022年3月27日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

交読詩編   27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書9章18-27節(新p.122)

説  教     「日々自分の十字架を背負って」

祈 祷                                           

讃美歌(21) 299(うつりゆく世にも)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できす。申し込み先Eメール: munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                      次週礼拝 4月3日(日)  午後5時~5時50分

                                                      聖書 ローマの信徒への手紙12章1-8節

                                                     説教題  「なすべき礼拝」

                                                     讃美歌(21) 288 512 27 交読詩編 22

受難節 3月2日(水)~4月16日(土)

     本日の聖書

9:18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」21イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。26わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。27確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。

本日の説教

    ルカによる福音書では、<五千人に食べ物を与えた>出来事のあと、イエスがひとりで祈っておられるとき、共にいた弟子たちに「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とたずねました。

弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』」と言っています。ほかに、『預言者エリヤの再来だ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』という人もいます」と答えました。
 エリヤ(列王記上17・1)は紀元前九世紀に活動した厳格な預言者です。ガリラヤの民衆はイエスを、神が終末の救済のために送られた預言者の一人と見なしたのです。
 イエスは弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。ペトロが弟子たちを代表して答えます。「神からのメシアです」。

キリストの復活前は、ペトロはイエスを<預言者の一人>としてではなく、預言者以上の神の人としての「メシア」という表現で答えました。<メシア>とは、「油を注がれた者」を意味する語です。油を注がれた者とは、神から特別の課題のために選ばれ、それを果たすための力を与えられた者で、終わりの日にイスラエルに遣わされる救済者の称号です。ペトロたちは、イエスこそイスラエルが待ち望んでいた<メシア>だと言い表したのです。これまでイエスの権威に満ちた教えを受け、力ある業や奇蹟を目撃してきた弟子が、イエスをメシアと信じたのです。
 ペトロの信仰表明は、イエスが選んだ弟子たちにだけ与えられた啓示(神が人間に明らかにする真理)でした。後に、イエスは祈りの中で、「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」(ルカ10・22)と言っています。
 イエスはペトロの告白を聞いたあと、このことはだれにも話さないようにと弟子たちに命じました。弟子たちは受難のメシア・イエスの理解が欠けていたからです。
 当時の人々が抱いていたメシア観は、ダビデ王国を再興し、ローマの属領から解放してくれるメシアを期待していました。そのようなメシアと誤解されると、過激なユダヤ人の政治的行為を誘発する危険性が多分にありました。
 イエスは次のように言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 ここで初めてイエスはエルサレムで受けねばならない苦難の使命について述べ、自分の間近い死を弟子たちに予告しました。復活についてはこれまで全く話されていませんでした。苦難の予告は、受難が起こったときに弟子たちがつまずくことがないように、あらかじめ語られたのです。

イエスは、受難して復活する自分のことを<人の子>ということばで表しました。それは<メシア>という言葉が含む誤った政治的意味を全く持たない言葉でした。<人の子>は旧約聖書では、<人間>を表すのに用いられていますが(詩編8・5他)、そのほかにダニエル書7・13~14では、「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、…権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と、神の権威を受けた<人の子>を描いています。イエスは自らを、神の権威を持って終末的に現れることが期待されていた<人の子>であると同時に、旧約聖書のイザヤ書52、53章にある<主の僕の苦難と死>の預言を成就する、<人の子>であることを明らかにしたのです(イザヤ書52:13~53:12、詩編22篇118:22)。

<人の子>イエスは、罪ある人間のために彼らに代わって死ななければなりません。そのためエルサレムで受けねばならない苦難の使命について述べ、自分の間近い死と復活について弟子たちに初めて予告しました。イエスは、これから向かうエルサレムでは、弟子たちの予想とは全く異なって、最高法院を構成する、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、最高法院の判決で殺される運命にあることを打ち明けたのです。<殺され、三日の後に復活することになっている>とは、イエスの受難と死と復活は、究極的に神の意志を実現するために必然のことであることを、<…ことになっている>という言葉によって言い表わしています。<三日の後に復活することになっている>というとき、神のご計画に基づいて実現していくことが強調されています。イエスの死なれた金曜日と、復活した日の日曜日までを含めて三日になります。

「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)
 並行記事は、マルコ8:34-9:1、マタイ16:24-28にあります。イエスは皆に言われた、とあります。福音書記者ルカは、十二弟子たちだけでなく、すでにイエスが復活したことを知っている福音書の読者を含めて「皆」と語っていると思われます。受難予告を聞いた今、弟子たちや読者は新たにイエスに従う決断の前に立たされます。

イエスは、<わたしについて来たい者は>と語りかけます。各自の自発的な意志による決断を求めます。決して強制はしていません。

<自分を捨て>とは、自己中心的な古い自己を捨て、キリストの復活にあずかって、<神にかたどって造られた新しい人を着て>(エフェソ4・24)、生きることです

<日々、自分の十字架を背負って>とは、日々とあることから、具体的な十字架の死や殉教を目指すのではありません。イエスの教えた<福音にふさわしい生活を送る>(フィリピ1・27)ために、苦しむことも、恵みとして受けて、イエスに従うことです。

日毎に<試みにあわせないでください>と主の祈りを祈りつつ、古い自分に死に、キリストにある新しい命に生きることです。<わたしはキリストと共に十字架につけられた>(ガラテヤ2・20)とあるように、主に自分を明け渡すことによって、キリストがわたしの中で主となって生きていただくことです。

<わたしに従いなさい>は、「イエスの後について来なさい」と言うのではなく、弟子になれの意味です。イエス・キリストに対する忠誠を生涯貫くことが求められています。

イエスに従うとは、神のみ心に従うことです。これは人間の努力や熱心によって出来るものではありません。ただ人間以上の力を持たれる聖霊が一人一人に臨むとき初めて可能となるのです。

この世の人が受けるような病気や災いは十字架とは言いません。こういった人間のあらゆる痛みや苦しみは、神の子イエスが同情してくださり、時宜にかなった助けを与えてくださいます(ヘブライ4:15)。

「自分の十字架を負って」は、各人が自分に与えられた独自の、違った、自分の十字架を負うことが示されています。それは人によって違うものですが、しかし同じ主から与えられた一つの十字架なのです。十字架を負うことは、苦しみ・重荷を負うことですが、それは決して自分ひとりだけのことではなく、共に重荷を負い合うこと、分かち合うことが大切です(ガラテヤ6:2)。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。』」

<自分の命を救いたいと思う者>という表現は、元来は殉教の死の問題を扱ったものですが、ここでは一般化され、この世での生き方が問題とされています。イエスに従い、イエスと共に生きる生き方でなく、自分本位の生き方を続ける者は、永遠の命を失い、魂を失ってしまうという意味です。
 <わたしのために命を失う者>とは、キリストのために自分の生命をささげることです。主イエスが教えてくださった愛に生きること、そこにこそ、わたしたちは真実の自分を見出すのです。 

永遠の命とは、自然の死によって亡びてしまう命ではなく、また霊魂不滅というようなものでもなく、神によって与えられる命です。自分本位の生き方を続ける者は、死で終わり、永遠の命を失い、魂を失ってしまいます。キリストのために生きる者には、神から聖霊という永遠の命の賜物を与えられます。その命はすでにこの世において保証として与えられるものです。この世においてもキリストと共にあり、肉体の死に際しても、キリストと共にあり、キリストと共に復活の命に生きる者とされるのです。

自分のあらゆる精力をこの世の目標に集中させて生き、その富と財宝を得るのは人を豊かにするようですが、それはこの世の仮の一時のことであり、それによって神から遠ざかれば無益であると説いています。永遠の命は全世界の富・権力・名誉によっても得られるものではありません。ただイエスに従うことによって与えられるものです。
 「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」
 <わたしの言葉を恥じる>とは、イエスを否認することですが、ここではイエスとその言葉、福音への態度次第で、終末時にその人の運命が決定するという警告です。

<人の子も、その者を恥じる>とは、裁き主としての人の子が、その人を否認して自分の者として受け入れを拒否するということです。
 「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
 イエスの栄光に輝く再来は、彼の同時代の何人かがまだ生存中に起こるだろう。それほど「神の国」の到来は切迫している、ということです。 

ペトロをはじめ弟子たちは、イエスの苦難と死のことが分かるようになったのは、イエスの十字架の死と復活の後でした。イエスの十字架と復活に実際に接し、そしてそのあと聖霊の導きを受けることによって、あの受難のイエスこそ、神の御子、まことの救い主であることがわかったのです。弟子たちは復活の主に出会い、主の限りない赦しの愛を体験しました。
 わたしたちキリスト者も、みことばを通してわたしたちに語りかけるイエスの赦しの招きと愛にふれ、「わが主イエス」と呼び、主イエスを愛し、人々を愛し、聖霊を与えられ、導かれることによって、主イエスに従う者とされ、永遠の命に生きる者とされましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「委ねられた福音のために」 テモテへの第二の手紙1章8-14節 

2022-03-20 15:30:05 | キリスト教

 ↑あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(テモテⅡ、1:14)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

受難節第3主日     2022年3月20日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 300(十字架のもとに)

交読詩編   31(主よ、御もとに身を寄せます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)テモテへの第二の手紙1章8-14節(p.391)

説  教     「委ねられた福音のために」

祈 祷                                           

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 511(光と闇とが)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

              次週礼拝 3月27日(日)  午後5時~5時50分

                                                   聖書 ルカによる福音書9章18-27節

                                                   説教題  「日々自分の十字架を背負って」

                                                   讃美歌(21) 436 299 27 交読詩編 27

受難節 3月2日(水)~4月16日(土)

      本日の聖書

1:8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 9神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、10今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。 11この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 12そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 13キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 14あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

本日の説教

「テモテへの手紙一」、「テモテへの手紙二」と「テトスへの手紙」の三通は、「牧会書簡」と呼ばれています。他の手紙は教会宛てに書かれているのに対して、この三通は、個々の牧会者に宛てられており、牧会者としての働きを指導するために書かれたものだからです。牧会書簡はパウロの投獄、殉教以後の変化した状況、再臨への期待が薄らぎ、異端の脅威の増大の中におかれたパウロの伝統に立つ教会が、手紙の著者をパウロとして書いた文書です。牧会書簡は二世紀初期の著作で、エフェソを含む小アジアで成立したと推定されています。

 「テモテへの手紙二」の宛先人のテモテは、パウロの弟子であり、パウロの伝道旅行の同行者であり、また宣教の同労者でもあります。パウロはテモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています。

 「テモテへの手紙一」が書かれた時には、パウロは自由な身でした。彼はテモテを先にエフェソへつかわしていて、そこでじきに、テモテに会えると思っていました。しかし「テモテへの手紙二」はローマの獄中から書かれたものです。この入獄は、ローマ皇帝に上訴するため護送された入獄ではなく、パウロは、ネロ皇帝により迫害されたキリスト教の分派の指導者として有罪な人間としての第二の入獄であり、彼は予備裁判を終え、今は死刑の宣告を待つばかりの時です。この状況の中で、パウロはテモテへの最後の言葉を書き送ったのがこの手紙です。

 この手紙で、パウロは迫害の時にそなえてテモテを励まそうとしています。そうすることによって、彼は忠実なキリスト教伝道者の姿を全時代のために描いているのです。信仰における自分の愛する子に当てたこの親密な使信の中で、パウロ生涯の道程の終わりに立ち、キリストの使徒としての自らの生涯を回顧し、また墓の彼方にあるキリストと共なる生をを楽しみに待ち望みつつ、自分の深い感情を明らかにしています(4:6-8)。

1章6-7節でパウロは、「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を再び燃えたたせるように」とテモテに勧めています。「神の賜物」は、パウロによれば教会を建てるために各信徒にさまざまに与えられるが(ローマ12:6)、ここでは按手(頭に手を置く祈り)によって教会の職に任ぜられた者に特別に与えられるものと考えられています。神の賜物である聖霊を、再び燃えたたせるようにと、聖霊を火にたとえています。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛との思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」とテモテを思い出させています。

「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」(1:8)

 パウロは、自分の独房からテモテに「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と訴えました。

パウロはローマ皇帝の国家の囚人ではなく、主イエス・キリストの囚人です。それゆえ「主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」と訴えましたた。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試

練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13)、とあります。

「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」(1:9)

「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださった」の「聖なる招き」は、「わたしたちが聖徒となるための招き」(Ⅰコリント1:2)です。救いは神の賜物です。それは、わたしたちの行いによるのではなく、神御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、世界が始まる以前からの神の意図によるもので、キリスト・イエスにおいてわたしたちに与えられるものです。

「聖なる招き」は、信徒が「善い業」に励むべきことをも含みます(Ⅰテモテ2:10参照)。神が招く時、神はその招きを完全なものにする力があります。神は目的に適って召し出した人々を聖化しようとするのです。

「今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」(1:10)

この神の招きは、今、「キリスト・イエスの出現によって明らかにされた」といって、壮大な神の救済史の中に自分たちを位置づけています。始めから意図されていたことが、神御自身(神の御子)の到来によって、その受肉と復活、死にたいする勝利に現われています。イエスは死んで三日目によみがりました。彼は死のむこうにある神の復活の命をあかしされました。彼は弟子たちに、自分は彼らのために場所を備えに行くこと、またもう一度来て彼らが、御自分のいる所におられるように、彼らを迎えに来てくださることを語りました。彼はその弟子たちから死の恐怖を取り除かれました。彼らに天の住家に入る確かな希望をお与えになりました。このように、イエスは不滅の命と不死とを福音によって明らかにされたのです。

永遠において計画された神の救済目的は時間の中で明らかになりました。人類に対する死の力は打破されたのです。なぜなら、「死のとげは罪である」こと、その罪がいまイエスの贖いの死により、人間の罪は破棄されたからです。このことにより、死はもはや恐怖ではなくなり、むしろ、死は、そこを通過して、人がこの破れた世界から神に満たされた命に至る通過点であることが明らかになりました。復活により死を滅ぼしたイエス・キリストによって、世界が始まる以前の神の計画の意味、救済史の意味が明らかにされたのです。

「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」この文は、殉教の死を覚悟しているパウロにとって、深い慰めに満ちた言葉です。

「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」(1:11-12)

パウロは、「宣教者、使徒、教師に任命された」のは、この福音(良い知らせ)、この不滅の命のためであると断言します。パウロはこのような重大な仕事、三つの職名が与えられたことは、彼の権威が神からの、特別のものであることを主張します。また、これらの職が同時に苦しみを伴うことを恥じてはいない、むしろ誇りにしていると言います。それは、自分が信頼する方を知っており、神が彼に委ねられてきたものを、神がかの日まで守ることができるのを確信しているからだ、と述べます。彼は、死んで甦られた生ける主を、これまでの主と共なる歩みの中で、個人的に親しく深く知っています。彼はその方にダマスコ(シリアの)の道の途上で出会いました。彼は牢獄においても主イエスを信頼しています。

「わたしにゆだねられているもの」は、教会の貴重な福音です。「かの日まで」は、神の裁きの前に立つ終末の日まで、神が守ることが出来ると確信しています。

「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。」(1:13)

使徒たちは御子を通して神の愛と信仰を教会に与えます。聖書は福音の健全な言葉を与えます。テモテは、彼が使徒から聞いたこの「健全な言葉」を手本として神に従うように求められています。手本は、この場合は福音の真理を示しています。パウロは手紙によるだけでなく、口頭の指図でも教えたのです(Ⅱテサロニケ2:15)。

「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(1:14)

パウロは、テモテの実力以上のことを彼に頼んではいません。なぜなら、もし彼が力不足であるとしても、聖霊が補い、助けてくれるからです。「あなたにゆだねられている良いもの」、すなわち福音を、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」と勧めます。信頼されて委ねられた人に聖霊による権限が与えられるのです。なぜなら、非常に重大なことを教えられる時、それらのことを守るのに人間の魂の力では十分ではないからです。

今日の1章の中で、「わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」(8節)、「わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません」(12節)、そして、「オネシフォロ・・は・・わたしが囚人の身であることを恥とは思わず」(16節)と三度も「恥じ」についてふれています。1章16節に、「あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました」とパウロは言っています。小アジアからの指導者たちがローマに来たものの、パウロに会わなかったことを指しているようです。彼らはパウロの牢獄にいるのを恥じて見捨てたのでしょう。おそらくテモテも、パウロを恥じる誘惑にさらされていたのでしょう(8節)。実際、パウロを支持する者は誰もなく、皆に見捨てられていた状況にあったのです(4:16)。そこで、パウロは自分の投獄を恥じてはなりません、と訴え、自分は主の囚人として福音のために苦しんでいることを告げ、「神の力によって」、「聖霊によって」委ねられている福音を証しするための苦しみも共にし、それを誇りとするように告げたのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神の武具を身につけなさい」 エフェソの信徒への手紙6章10~20節

2022-03-12 23:47:52 | キリスト教

                                         

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

受難節第2主日     2022年3月13日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 497(この世のつとめ)

交読詩編   27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)エフェソの信徒への手紙6章10~20節(p.359)

説  教     「神の武具を身につけなさい」

祈 祷                                           

讃美歌(21) 392(主の強い御腕よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

  〇オンラインで礼拝に参加できます。                                                                           申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                次週礼拝 3月20日(日)  午後5時~5時50分

                                                聖書 テモテへの第二の手紙1章8-14節

                                                説教題  「委ねられた福音のために」

                                                讃美歌(21) 300 511 27 交読詩編 31

受難節 3月2日(水)~4月16日(土)

本日の聖書

6:10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 19また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 20わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

本日の説教

パウロは、6章10節から20節にかけて、悪の力との戦いのために、最後の奨めを始めます。

 これまでは、キリストの教会に関わる忠告(4章1-16)、異教社会でのキリスト者の生活についての教え(4章17-5章14節)、教会内部の家庭での生活についての教え(5章15-6章10節)でした。ここではこの世の悪の力に囲まれているキリスト者の状況へと拡大されます。

  1. 先ず、神の武器による戦いの必要性を述べます。
  2. 次に、神の武具を身につけることを述べます。
  3. そして、目覚めて祈ることと、宣教者のための執り成しを勧めます。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(6:10-11)

パウロは読者に最後の勧めで、重要な忠告を与えます。それは「主にあって、主の偉大な力によって強くなりなさい」という言葉で始まります。直訳は「強くされなさい」です。

自分が最も弱い時に、強き存在である主を覚え、その主の生きて働く力に身を委ねるのです。「主に依り頼み」、主にあるときに、「その偉大な力によって強く」されるのです。

 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」とパウロは呼びかけます。「悪魔」は神に逆らう悪の力を表します。悪魔はわたしたちと神との間を引き裂き、わたしたちを自分の支配下に移そうとします。悪魔は見えない世を支配する霊であり、人間に対して闘いをいどんできます。悪魔の「策略」とは、こうかつな攻撃です。しかしキリストはすでに十字架の贖いの死と復活によって、この悪魔との戦いにすでに勝利を収めています。またキリストは勝利者として「すべての支配、権威、権力、権勢の上に」(エフェソ1:21)置かれ、闘いの勝利を宣言されたが、完全に闘いは終結していません。終わりの日がくるまで、悪魔は最後のあがきとして闘いをいどんでくるのです。

キリスト者の闘いは、こちらから攻め込む闘いではなく、悪魔の最後のあがきに対して、防備をもって迎え、抵抗するのです。そのために「神の武具を身に着けなさい」とパウロは命じます。目に見えないキリストの偉大な力がキリスト者をどのように強めるかを、当時の兵士の装備にたとえて描写します。この悪魔の策略に対抗し、「堅く立つこと」は、この霊的戦いにふさわしい、勝利を約束する態度なのです。

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(6:12)

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではありません。「血肉」とは、弱い、限界をもった人間を指します。敵は人間ではなく、見えない世界を支配している霊的権威であり、この暗闇の世界の支配者であり、天使的存在の悪の諸霊です。

現代人は悪魔の存在を信じません。古代人が考えた産物であると片付けてしまいます。しかしわたしたちは、これをすべて時代遅れの迷信として退けることはできません。現代の深層心理学は、人間の魂の中に悪魔的な淵(ふち)のあることを明らかにしました。また二度の世界大戦は、広大かつ理不尽な悪の領域を明らかにしました。ヒットラーのユダヤ人殺戮も狂気そのものでした。現代人も悪魔的な力のとりこになる現実があります。それら、悪魔はキリストの支配に服したものであっても(エフェ1:20,4:10などを参照)、いまだ人間の生きかたに影響を与えています(エフェソ2:2、5:15以下参照)。

 「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(6:13)

だからまず神の力によって強められる必要があり(エフェソ1:19参照)、使徒の訓戒と励ましも必要であったわけです。戦うために必要なのは神の武具で身を固めることだけです。なぜなら、この戦いはキリストにおいては初めから勝ち戦であるからです。パウロは悪魔的な力と敵意とが人間社会や組織、共同体、そしてキリスト者の集いである教会にも、まだ働きかけている事実を感じています。

「邪悪な日」とは、邪悪なものが力を有する時はいつでもということであり、悪魔的な権力に抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように、神の武具を身につけなさい、と勧めています。

「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(6:14-17)

キリストの戦士の心構えは「立つ」ことであり、抵抗することです。受け身の姿勢でも逃げの構えでもありません。装備については、ローマ兵士の六つの装備が挙げられています。「帯」「胸当て」「靴」「盾」「兜」「剣」です。帯と靴は戦士の着衣ですが、その他の四つは武具です。体の中央(腰、胸)に始まり、それから足、さらに体全体を守る盾、そして頭に向い(救いの冑)、最後に鋭い武器としての剣をあげ、戦士のすべての部位を守り、戦うことができる装備を挙げています。武具とか衣服そのものよりも、それらが示す働きが問題になっています。真理の帯は体を巻き、引き締めます。兜や盾の甲冑は戦士を守ります。靴は平和拡大のための心備えを示します。つまりこの世の悪に対するキリスト者の戦いの象徴的な描写です。キリスト者は何か不特定の武具ではなく、旧約聖書に示された神の武器を持ちます。「腰に真理の帯する」は、イザヤ書11:5の待望されるメシアが「真実(真理)と義(正義)をもって腰に帯するが示されています。「真理を帯びとして腰に締め」は、この真理とは客観的現実の真理を意味し、個人的関心や、教理的なかたより、またイデオロギー的立場(歴史的・政治的な自分の立場)に制約された考えによるものではありません。

「義の胸当て(鎧と冑)」は、イザヤ書59:17の神が完全武装と勇士として戦う武具です。「正義の胸当て」は、良心の目覚めになくてはならないものです。

 「平和の福音を告げる準備を履物としなさい」は、ローマ兵が用いた短い編上げの軍靴の音ではなく、平和の勝利を告げる喜びのおとずれの足音です。イザヤ書52:7の影響を受けているが、平和と救いを告げる福音、キリストにおいて実現される平和を言うのです。教会はキリストにあってすでに勝利者の自覚を持っており、世にあって戦いつつ、神の平和を宣べ伝え広め。人々の間の平和を促進し、人間の衝突と戦いの中に現れるすべての悪の力に否を言い、抵抗する努力もこれに属します。

「信仰の盾を手に取り」、「救いの兜をかぶる」ことを命じます。兜をかぶることは、ローマ兵士にとって戦いの開始を意味しましたが、「救いの兜をかぶる」ことは、希望に根ざした救いを示しています。それによって悪のすべての火の矢を消すことができるからです。信仰が自己満足に終わるのではなく、確固としたイエス・キリストの救いの出来事に根ざしていることを確認しています。ここにあげられている装備の一つ一つにあまりこだわることはありません。ここでは、当時の武具をあげて、霊的な力にあてはめているにすぎないのです。

最後にパウロは二つの重要な装備について語ります。「神の言である御霊の剣を取りなさい」の神の言は、神が人間に語りかける言葉であると同時に、神がなし給う出来事を意味しています。主イエスは弟子たちに、「聖霊があなたがたに語るべきことを教えるであろう」(ルカ12:12)と語っています。戦いの日にキリストの兵士は、その状況に合致する語りかけを、神に期待することができます。

これらすべての装備は、主イエス・キリストによって備えられ、聖霊によってわたしたちに与えられているのです。この霊の闘いは、わたしたちキリスト者の個人と戦いであると同時に、教会としての「すべての聖徒」の闘いです。

「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(6:18)

平和の福音の闘いのために、共に祈る共同体こそが教会です。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求めなさい」と勧められています。また、「すべての聖なる者たちのために」目を覚まし根気よくとりなしの祈りを続けるように命じています。

「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(6:19-20)

「わたしの宣教のため福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってほしい」と言います。

「福音の神秘」とは、キリストによって人類と和解させる神のご計画の開かれた秘密です。「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、語るべきことは大胆の話せるように、祈ってください」と言います。

キリスト者の闘いは決して悲壮感を帯びたり、玉砕精神に連なるものとは異なる、喜びに満たされたものです。この霊の闘いは、すべての者の祈りによって推進されるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神との和解とは」 ローマの信徒への手紙5章1~11節

2022-03-06 02:38:54 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週  報

受難節第1主日     2022年3月6日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

前 奏               奏楽 田中恵子姉

讃美歌(21) 298(ああ主は誰(た)がため)

交読詩編   22(わたしの神よ、わたしの神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙5章1~11節(新p.279)

説  教     「神との和解とは」

祈 祷                                           

讃美歌(21) 535(正義の主イェスに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。

  申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

             次週礼拝 3月13日(日)  午後5時~5時50分

             聖書 エフェソの信徒への手紙6章10~20節

             説教題  「神の武具を身につけなさい」

             讃美歌(21) 497 392 27 交読詩編 27

 

            受難節は、 3月2日(水)~4月16日(土)

 

本日の聖書

5:1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。  6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

本日の説教

 

本日はローマの信徒への手紙5章の1節から11節までを学びます。

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。」(ローマ5:1)

 「このように」とは、4章で語ったことを受けています。パウロは4章でイスラエルの信仰の父祖であるアブラハムを例にあげ、繰り返し「信仰によって義とされる」ことを説きました。アブラハムは跡継ぎの子どもがありませんでした。年老いてもはやその望みもなくなったが、彼は神の約束を信

じました。その信仰によって義とされたのでした。

 今日の箇所では、信仰によって義とされたものは、神に対して平和を得ている、と言います。平和を得ている、とはどういうことなのでそうか。

 人間が神に対して罪人であるということは、人間が神に逆らっていることであり、そのことによって、神と人間の間には争いがあり、敵対関係が生じているのです。そのため人間はその罪のために絶えず死の不安におびやかされ、神の最後の審判を避けることができません。もちろん、この敵対関係は一方的に人間に責任があります。この敵対関係を克服し、神と人間との間に平和と和解がもたらされるためには、赦ししかないのです。それ故に神は一方的に、神にそむく人間を赦すのです。

 ところで信仰によって義とされるとは、なんの行為も功績もなくとも、キリストにおいて示されている神の恵みを受けいれさえすれば、罪を赦されるということです。そのように

、義とされること、つまり義認の結果、平和ないし和解が成立するのです。

 神は人間の罪に対する怒りをいいかげんに、あいまいには

しませんでした。ただ、神の赦しの愛の方が、神の怒りにまさっていたため、神の怒りを直接人間に向けずに、そのひとり子イエス・キリストに向けました。それが十字架の出来事です。十字架の出来事は,父なる神が人間の身代わりに、ひとり子キリストを十字架にわたし、神の怒りの対象としたということであって、そのことの故に、人間はその罪にもかかわらず、怒りの対象となることを免れ、罪を赦され、「神に対して平和を得」るのです。これが、「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得」ていると喜びの声をあげるのです。神との平和を得たということは、生命の喜びに満たされ、真実な生きがいを知ったことを意味しています。

 「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

(5:2)

 パウロは信仰によって義とされることは、神に対する平和をもたらすだけではなく、神の栄光にあずかるという終末の希望を与えられることだと言います。

 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(5:3-4)

しかも希望を与えられるということと、患難を与えられることを共に喜びとして両者を結びつけています。人生には常にさまざまな問題をはらんでいます。苦しみは避けられません。しかし主にある希望を与えられています。それゆえ、苦しみの中でも、なお耐えることができ、それを受けとめ、乗

り越えることができます。キリスト者はさまざまな悩みや誘惑と戦って生きるのです。キリストのおかげで患難は忍耐することを教え、忍耐は練達―すなわち患難の中で耐え忍ぶ信仰ーを生み出し、練達はいよいよ希望を生み出すというのです。

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(5:5)

そして希望は失望に終わることはない。なぜなら聖霊によって神の愛がそそぎ込まれたからであるというのです。聖霊によって神の愛が体験されるのです。それ故にこそ希望は失望に終わることはないというのです。

 「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(5:6-8)

 6節以下でパウロは愛について詳しく述べます。そのことを一言で言えば、キリストの死は、人間に対する神の愛を示

すものだということです。

 まだ罪と死のとりこであったころ、キリストは神の定めた時に、この世に来て、不信仰者のために死んで下さった。「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう」といます。みしかすると善人のためには進んで死ぬものもあるいはあるかもしれないと言います。そして結論的に、まだわれわれが罪人であった時に、キリストはわれわれのあめに死んで下さったのであって、そのことによって神はわれわれに対

する愛を示されたのだというのです。ここでパウロは、義人や善人のためではなく、キリストが神に反逆する罪人のために死んで下さったことに対する感動を表現しているのです。

 「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」 (5:9-10)

 パウロは9節以下で、人間は神のひとり子キリストの死によって義とされるだけではなく、終末の栄光にあずかることを語ります。

 「キリストの血によって」とは、血は主の最後の晩餐における新しい契約のしるしであり、贖いの血を意味します。私たちはキリストの犠牲の血によって義とされたとなります。

 ところで、パウロにとって義とされるのは「今」の状態です。しかし、パウロは同時に終末的「未来」について言及します。それが、「なおさら、キリストによって神の怒りから

救われるであろう」というのです。

 「わたしたちが敵であったときでさえ」は、「今」ではなく、過去の問題です。キリストを知らず、キリストを信じなかった過去においても、すでにわれわれは御子の死によって和解を受けていたというのです。キリストの死は、神と人間との間の敵対関係に終止符を打ち、両者の間に和解をもたらしたというのです。

 和解を受けている今は、「いのちによって救われるであろう」と表現していますが、もう少し詳しく言えば、「いのちによって」とは、「死人の中からよみがえらされた御子のいのちによって」ということであり、「救われるであろう」と

は、ここでも終末の審判においえてすくわれ、永遠の栄光に

あずかるということです。

 「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」(5:11)

 キリストの死は私たちの不義や罪をゆるし、すべての敵対関係を取り除きました。この贖いのゆえに、私たちは今や、神を喜び、神を誇る者とされたのです。パウロは、もう一度「和解を得させて下さった主イエス・キリスト」を喜び誇るのです。

 神は神にそむく人間に対して、報復すると言うのではなく、赦しの愛をもってのぞむ方であるという事は大きな慰めにほかなりません。しかも人間の反逆に対する怒りをすてるのではなく、神の御子に向けることによって、愛と怒りを共に貫く神なのです。この神の赦しの愛を、人類も実践するなら、人類の平和の問題も解決されるでしょう。あらゆる平和への努力は、神と人間との平和から生み出されるのではないでしょうか。神が人間にもたらす和解は、罪を赦すことによって成り立つ和解です。このような、赦しに基ずく和解こそ、神と人間との関係を正常にすると同時に、人と人との関係をも正常にするものです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする