富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天地と人間の創造」 創世記1章1~5、24~31節a

2019-10-22 23:14:45 | キリスト教

     ↑「ミケランジェロの「天地創造」の一部 制作期間:1508年〜1512年 寸法:40.5 m x 14 m 展示:バチカン市国システィ―ナ礼拝堂天井画

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380

                        FAX:022-358-1403 

 

        日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

   聖霊降臨節第21主日  2019年10月27日  午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

           礼 拝 順 序

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを讃美します)

交読詩編  104(わたしの魂よ、主をたたえよ)                    

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)創世記1章1~5、24~31節(旧p.1、2)

説  教    「天地と人間の創造」    辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21) 223(造られたものは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

              次週礼拝 11月3日(日)  午後5時~5時50分 

              聖 書 創世記3章1~15節

              説教題   「堕落」

              讃美歌(21) 6 69 交読詩編 51

    本日の聖書 創世記1章1~5、24~31節

 1:1初めに、神は天地を創造された。 2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。         ・・・・・・                                24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。 25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。 26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。 31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

        本日の説教

 創世記の一章一節に、「初めに、神は天地を創造された」とあります。そして神が宇宙や世界、そしてあらゆる生き物を造られたことが記されています。しかし、現代の自然科学的宇宙論や人間を含めて動植物の進化の過程を知っている現代人にとって、聖書の物語はでたらめな神話にすぎないとして、否定してしまう人が多いのではないかと思います。

 自然科学が究明しようとしていることは、自然現象の生成過程についての客観的な事実の解明です。それに対して聖書の記している創造物語は天地の起源という物語を通して、この世界の存在の意味や、人間の生きる目的についての真理を知ることにあります。

 創世記一章は、世界がどのようにして成立したか、を記したものではありません。そうではなく、世界と人間の存在の確かさ、その意味はどこにあるのか、という根源的な課題に答えたものです。

 創世記一章は、およそ紀元前六世紀頃、バビロニアの捕囚地でイスラエルの祭司記者によって書かれました。イスラエルのユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、多くの民は捕囚の民として連れ去られ、紀元前597年から538年にかけて、60年近い捕囚の時期がありました。彼らにとって、そこは「異教の地」であり、多神教と偶像礼拝の支配している地でした。イスラエルの敗北と亡国は、彼らの信じるヤーウェ(主なる神)の敗北としてあざけられ、彼らは屈辱を味わいました。それは大きな変動と荒廃の時代でした。このような崩壊と虚無の中から、祭司記者といわれる人々は、まず<世界>の存立の根源を問いはじめました。創世記一章は、こうした激同期に捕囚地バビロニアで立したのです。

 第一章の創造物語は、バビロニアの創造神話からの影響の下に成立したと言われています。ただバビロニア神話の方は多神教ですが、聖書の創造物語の方は、イスラエルの唯一神教の信仰によって修正され、独創的なものになっています。

 このように、創世記一章は、世界がどのようにして成立したかを説明するために、記したものではありません。世界と人間の存在の意味、その確かさがどこにあるのか、という当時の緊急かつ根源的な課題に答えたものです。

 一節の「初めに、神は天地を創造された」(1・1)、は創造物語全体を要約する序文です。<初めに>とは、世界の初めのことですが、イスラエルは捕囚という国家と民族の滅亡の危機にあって、自分たちの存在意義とその「救い」を求めるために世界の<初め>を問いました。それは単なる知識の興味としてではなく、彼らの生死をめぐる信仰の闘いの問題としての切実な問いでした。イスラエルの民は、捕囚の中で神の全能とその恵みを知らされ、世界の始原について、「初めに、神は天地を創造された」と告白せざるを得なかったのです。<初め>に おられる方は、創造者にして人格的な唯一の神です。

 <神>は、ヘブライ語の原典では、エローヒーム(力を表わすエルの複数形)という語が用いられています。これは、諸種の働きや、尊厳性の表現としての複数形であって、多神教の神を表しているわけではありません。

 <天地を>とは、天と地、つまりこの世のすべてのものを、という意味です。<創造された>のヘブライ語バーラ-は神の創造行為にのみ用いられる語で、何らかの材料を用いて作る場合の語はアーサーです。従ってバ―ラーは「無からの創造」を示しているのです。

 イスラエルはこの創造物語において、歴史を開始し、これを治め、これを審き、かつ救う全能の主なる神を告白しているのです。この言葉の根底には一切のものの造り主である創造者への賛美と神への服従があります。

 二節は、独立した句で、一節や三節とのつながりはありません。二節で、深く見つめているのは世界の<不確かさ>です。二節は、<地><深淵><水>が既存のものとして描かれているので、一節の「無からの創造」と矛盾します。これはバビロニアの創造神話の影響によるものです。一節の「無からの創造」との関連を求めるなら、神の創造の第一歩は「混沌」の創造であったことになります。しかし大切なことは、バビロニアの神話を借用しながら、その神々に勝るイスラエルの神の唯一の主権を告白する意図がここにあることです。

 <地は混沌であって>とは、秩序がなくなり、荒廃している様子を示しています。<形も姿もなく>と訳される荒涼とした情景を表現しています。<闇が深淵の面にあり>の≪深淵≫とは「原始の大洋」のことで、古代の神話的世界像に共通して見られる宇宙生成以前の状態を海のイメージで表したもので、「底なしの深み」を言います。底なしの深みにしかも≪暗闇≫がおおている世界という見方、それが祭司文書記者の現実認識でした。<神の霊>の≪霊≫は、「息」「風」という意味もある語なので、ここは「激しい風」と訳すこともできます。二節は暴風雨のときのような海のイメージで創造以前の状態を描写していると解することができます。

 創世記一章の記者の見つめている現実世界は、強風が間断なく荒れ狂う底知れぬ深みを、暗闇がおおう、混沌とした荒涼世界です。混沌は空しく空虚で、何もありません。聖書はこの死の現実を厳しく見つめます。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(1・3)<神は言われた>とは、創造は神のみことばによる、ということです。みことばは神の力です。神が<光あれ>と言われたのは、明確な命令のことばであり、神の意志の表現です。神が最初に創造した光は、太陽や星の光ではありません。太陽や星の創造は一六節で語られます。この光は天体の光ではありません。混沌や闇や深淵を手に取るように照らし出す、希望と慰めに満ちた光です。この光によってすべてのものが整然と秩序正しく形づくられていくのです。この光が暗闇を照らしたことは、神の意志が創造された世界に貫徹されたことを意味します。

 <神は光を見て、良しとされた>。神は創造されたものを、満足と喜びの対象として見られます。底なしの深みと混沌の海を照らした光は夜と昼を分ける秩序の光です。世界は神に見捨てられたのではなく、神が語りかけ、それが実現する世界です。

 「神は…闇を夜と呼ばれた」(1・5)。<呼ばれた>は、<名づけた>とも訳される語で、これは、神の主権と支配を意味します。神が闇を夜と名づけた、とは、神が闇をご支配のうちに置かれたことを示します。キリストが陰府(よみ)にくだられたのは、キリストが死の深淵の支配者となられたとの勝利の告白です。

 五節は、「こうして夕方となり、朝となった」という文です。イスラエルの一日は夕方六時より始まります。神は地上に家畜、這うもの、地の獣を創造され、これを見て、良しとされました。

 次に、「神は御自分にかたどって人を創造されました。神にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」(1・27)<ご自分にかたどって>は、ヘブライ語を直訳すると、「われわれの形・像として、われわれの姿・摸像のように」となります。神が自らを<われわれ>と複数形表現しているのは、尊厳の複数形とか三位一体性を意味するとか、いろいろな解釈があります。これは古代オリエント世界の神話を背景とした「主なる神を中心とした天的存在の議会」というイスラエルのイメージに由来するもので、ここでは「神の熟慮・決断」の表現として用いられているようです。<人>は、集合名詞の「人間」「人類」という意味です。人が「神の像として造られた」ということは、人間の外形が神に似ているという意味ではなく、人間が神と霊的に交わることができる、神に向き合う者として造られたということです。人間は「神の像」としての尊厳と地を支配する機能を担うべき存在として創造されたのです。

 「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(1・28)。<産めよ、増えよ>とは、呪われた世界に対する神の祝福の言葉です。神は彼らを祝福して言われたのです。この祝福は人間に大きく未来を開く生命力を与えるものです。

 <見よ、それは極めて良かった>(1・31)は、創造全体の総括として最上級の表現を用いています。創世記を記した祭司記者は人間の創造の背後に強烈な神の決意のあることを知ったのです。

 ヨハネによる福音書には、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1節)とあります。<初めに言があった>とは、天地創造の時、神が「光」あれと言われ、神の言葉によって天地創造が始まったと聖書は語ります。神の<言>はあらゆる被造物が造られるより先にあり、創造以前に存在していたと主張しているのです。そして<言>は被造物ではないので、神に属する存在であり、神が語りかけた時に神と共にあり、神と本質的に等しいと言っているのです。<言>は、神と共にあった独り子である神イエスであり、この方が人となった世に来られたイエスです。

 イスラエルは捕囚という滅亡の危機にあって、自分たちの存在意義とその「救い」を求めるために世界の<初め>を問いました。イスラエルの民だけではありません。人間は自分が生きていることにどんな価値があるのか、どんな意味があるのか、なぜ自分に醜い心があるのか、愛する者との死別があるのか、それが分からないと空しく、不安になってしまうのが、私たち人間です。

  この私たち人間を救うために、神はその御子イエスを惜しまず与えてくださったのです。神は私たちを造られた方であり、私たちを愛してくださっており、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得させようとしています。ここに私たちに存在の意味と価値とが与えられています。この神の恵みと愛によって、見失っていた自分の存在の価値を、もう一度見いだすことができるようになるのです。

「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソ2・8)とあります。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10・17)。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(ローマ12・3)。

  この「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ11・2)。

 

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「聖書時代年表、人物と諸書について 」    

2019-10-21 15:21:21 | キリスト教

            ↑ 旧約聖書の人物の年代順表

聖書時代年表、人物と諸書について」(2019・10・21) 辺見宗邦作成

     作成資料1新共同訳旧約聖書注解I、Ⅱ、Ⅲ巻(日本基督教団出版局)     

                       付録「古代イスラエル時代年表」                                                                                                           

     作成資料2 聖書大百科(創元社)巻末の聖書資料集・預言者の活動期間      

   

  原 初 時 代  

1 アダム・エバ   創世記2章

2 アベル・カイン  創世記4章

3 エノク      創世記5章

4 ノア       創世記15章29節~

 

  人 物・諸 書      <年代は紀元前>

1 アブラハム(族長) 創12章  1950頃   エジプト第12王朝(1991~1778)

2 イサク(族長)    創24章  1850頃    

3 ヤコブ(族長)   創27章  1800頃   ヤコブ族のエジプト移住(1650)

4 ヨセフ(族長)   創37章  1700頃 ヨセフのエジプト下り1700頃

5 モーセ(民族指導者・預言者) 出エジプト2章  出エジプト1280頃

                         エジプト、ラメセスⅡ世時代

6 ヨシュア(民族指導者) ヨシュア1章 1220頃 イスラエル民族のパレス

                          チナ定着 1200頃

7 デボラ(士師) 士師4章   1120頃  士師時代(~1020頃まで)

8 ギデオン(士師) 士師6章   1100頃  ペリシテ人、パレスチナに進出

                                                1060頃  

9 サムエル(士師・預言者)サムエル上1章 1030年頃登場    

10 サウル(王)     サムエル上10章 1020~1004(即位) 

                      統一王国時代(1020~922)

11 ダビデ(王)     サムエル上16章 1000~961(治世) ルサレ

                            ムを首都とする992

12 ソロモン(王)    列王上2章   961~922(治世)  第一神殿

                         建造950 王国分裂922

13 エリヤ(預言者)  列王上17章  870~850頃 カルメル山上対決

                       860頃 サマリア遷都870頃   

14 エリシャ(預言者) 列王上19章  855~800頃 アッスリヤ勃興

                             850頃

15 アモス(預言者)   760~750頃       アッスリヤ帝国934~609

16 ホセア(預言者)   750~720頃活動

17 イザヤ(預言者)    739~700活動 サマリア陥落 北イスラエル

                               王国滅亡721

               701ユダ王国アッシリヤの属領となる

18 ミカ(預言者)      735~710頃

19 ヨナ(物語の主人公) 背景785~745時代、捕囚期後成立 

20 ゼファニヤ(預言者)   640~6 0 9頃               

21 ナホム(預言者)     686~612頃

22 エレミヤ(預言者)  召命627~586頃  バビロニヤ時代626

                                  539                               

                 エルサレム陥落597 ユダ王国滅亡586

          第一回捕囚597、第二回捕囚586、 第三回捕囚583

              バビロン捕囚期597~538(59年間~48年間)

23 ハバクク(預言者)    605~6 0 0頃 

24 ダニエル(物語の主人公)背景606~547時代、164頃成立 

25 ヨブ(物語主人公) 背景600頃・5世紀頃成立    

26 エゼキエル(預言者)  593~573頃

27  哀歌           586~580

28 オバデヤ(預言者)    586頃

29 第二イザヤ(イザヤ書40~55) 546~538 

             ペルシャ時代539~332バビロンを征服539

            第一回捕囚民(第一陣)帰還538、(第二陣)帰還521

                       神殿再建再開520、完成515 

            第ニ回エズラの帰還458、第三回ネヘミヤの帰還445

30 第三イザヤ(イザヤ書56~66)539~441  

31 ハガイ(預言者)    522~515頃

32 ゼカリヤ(預言者)   522~515頃 

33 第二ゼカリヤ(預言者) 332頃

34  エステル(王妃)    背景486頃 150~130成立

35 マラキ(預言者)    465頃

36 エズラ(祭司)     458頃 エズラの宗教改革

37 ヨエル(預言者)    539~331頃

38 ネヘミヤ(総督)    445頃

39 ルツ(物語女主人公)  430~400頃成立

40 歴代誌         350頃                      

               マケドニヤのアレキサンドロス大王東征開始334

               ギリシヤ・ヘレニズム時代332~37

               ユダヤ教徒に対する大迫害167~164

               ハスモン時代(ユダヤ王朝)167~63 

41  箴言  (内容は961~)300~250頃編集

42 雅歌           300~250頃成立 

43 コヘレト         300~200頃成立 

               ローマのポンペイウス将軍、エルサエムを占領63

44 詩編(内容は1000~)150~100頃成立 ローマ時代37~AD324

 

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「天国に市民権を持つ者」 ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

2019-10-18 20:54:22 | キリスト教

                     ↑「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」ヘブライ人への手紙12章2節

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

     聖霊降臨節第20主日  2019年10月20日    午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                        礼 拝 順 序

                                                司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩編   78(わたしの民よ、わたしの教えを聞き)                    

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙11章32~12章2節(p.416)

説  教  「天国に市民権を持つ者」   辺見宗邦牧師

祈 祷                  

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                              次週礼拝 10月27日(日)  午後5時~5時50分 

                               聖 書 創世記1章1~5、24~31節

                               説教題   「創造」

                               讃美歌(21) 6 223 交読詩編 104

       本日の聖書 ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

 11:32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。 33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。 12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

                            本日の説教

  ヘブライ人への手紙という名称から、ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13・24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る見方が有力です。 

著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されていますし(10・32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。

ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

11章1節以下は、信仰生活を全うした旧約聖書の人物を列記して、その模範に倣うように勧めます。挙げられているのは、①アベル:神の喜ぶささげものをしました(アダムとエバの子、創世記4:4)。②エノク:自分の息子が生まれてから、自発的に神とともに歩みました(創5:21)。③ノア:神に従う正しい人で箱舟を作り救われました(創6:13)。④アブラハム:永遠の神の都を待ち望みました(創12:1)。⑤サラ:アブラハムの妻、諸国民の母とされました(創17:16)。⑥イサク:アブラハムの息子、彼の子孫によって諸国民は祝福を得ます(創26:4)。⑦ヤコブ:旅の途中、天に達する階段の正夢を見ました(創28:10)。⑧ヨセフ:ヤコブの息子で、エジプト全国の上に立つ王位に次ぐ地位を与えられ、ヤコブ一族をエジプトに迎えました(創41:41)。⑨モーセ:この世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選び取りました(出エジプト記2:2)。

11章30~31節では、イスラエルのカナン征服における最初のエリコの陥落は、城壁の周りを信仰によって七日間回った後に崩れ落ちたこと、⑩遊女ラハブ:異邦人でありながらも、命懸けで神の側につき、偵察者を迎え入れました(ヨシュア2:1)。

 そして、32節からは、さらに士師、預言者たちの名を列記し、彼らの信仰のことが述べらます。⑪ギデオン:石橋を叩いて渡るような小心者が戦いの戦士として尊く用いられました(士師記6:11)。⑫バラク:女預言者デボラと共に戦った士師(士4:6)。⑬サムソン:怪力の士師(士13:24)。⑭エフタ:娘を主に捧げた士師(士11:30)。⑮ダビデ:少年の時、ペリシテ人の巨人ゴリアテを石一つで倒したイスラエル統一王国の神と国民に愛された王(サムエル記上17:46)。⑯サムエル:主の預言者として、イスラエルの人々に信頼された(サム上3:20)等、16人の個人名が挙げられています。

また、32節bの<預言者たち>とは、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤなどを指しなす。33節の<信仰によって、この人たちは国々を征服し>た人々とは、ヨシュアやダビデのような人を思い起させます。<正義を行い>は、イスラエルを治めることを意味し、ダビデやソロモンのような王のことでしょう、<獅子の口をふさぎ>とは、ダビデ(サムエル記上17・34以下)とダニエル(ダニエル書6・22)の例を指しています。

34節の<燃え盛る火を消し>とは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの出来事(ダニエル書3.25)を指しています。<剣の刃を逃れ>は、モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャのいずれの場合にも当てはまる経験です。

<弱かったのに強い者とされ>というのは、盲目にされたサムソンが最後の力を得て復讐したことを指します(士師記15・19、16・28)。<戦いの勇者となり>は、ゴリアトと戦ったダビデ(サムエル記上17章)を思わせます。

<敵軍を敗走させました>は、ヒゼキヤが信仰によって、セナケリブとその軍隊を敗退させた(列王記下19・20~37)ことを指しているようです。

35節の<女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました>は、エリヤにその子の命を生き返らせてもらったサレプタのやもめ(列王上17・22)や、エリシャに子生き返らせてもらったシュネムの女(列王下4・34)のことと関連しています。<他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために>は、預言者たちによって生き返った者たちも結局は死に至らざるを得なかったのに対して、<拷問にかけられ>た信仰の英雄たちは、死そのものの克服としての復活を確信して忍耐したことが強調されています。

36節の<他の人たちはあざけられ>とは、預言者ミカヤ(列王上22・24)や、エレミヤ(エレミヤ記20・2)たちの屈辱的な経験を、<鞭打たれ>とは、苦難の僕の預言(イザヤ書50・6)を暗示します。<鎖につながれ、投獄される>は預言者エレミヤの運命を思わせます。

37節の<石で打ち殺され>たのは、祭司ヨヤダの子ゼカルヤであり(歴代誌下24・20以下)、ある黙示文学(「イザヤの昇天」)によればイザヤは木製の<のこぎりで引かれ>ました。<剣で切り殺され>たのは、エリヤの時代のイスラエルの預言者たちであり(列王記上19・10)、預言者ウリヤ(エレミヤ記26・23)でした。<羊の皮や山羊の皮を着て放浪し>たのは、エリヤ、エリシャにあてはまります(列王記上18~19章)。

38節の<世は彼らにふさわしくなかったのです>というのは、彼らは天国にふさわしい人々であって、世間の人々は彼らをそねみ憎みました。この世は神の国の民の永久の住居に値いしないのです。

39節、40節は、11章全体の結論を述べています。<約束されたもの>とは、神がご自身を信じる人々に約束された最後的な救いであって、キリストの到来によって初めて明らかに示されました。40節の<更にまさったもの>とはキリストによってしめされた新しい約束、すなわち神の国です。神は、わたしたちのために、更にまさった神の国を計画してくださったので、わたしたちを除いては、旧約時代の信仰の英雄たちは、<完全な状態>に達しなかった、すなわち全き祝福にあずかることができなかったのです。ここには、旧約の信仰者も新約の信仰者も、忍耐と希望を持ち続け、信仰生活のたたかいに耐え、共に全き祝福にあずかる日を待とうではないか、という勧告です。

12章の1節の<こういうわけで>とは、11章で信仰生活の模範を述べたが、再び次の勧告にうつるためのつなぎの言葉です。11章で挙げられた信仰の偉人たちは、すべて新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々であり、何よりも神の真実を証言した人々でした。

<このようにおびただしい証人の群れに囲まれて>は、競技場の観衆にたとえて先輩の信者たちを指しています。旧約の信仰の証人たちのことが示された以上、これを模範としてキリスト者も信仰の馳せ場を走ることが求められています。そこでまず身を軽くするために、<すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て>なければなりません。<自分に定められている競走>という言い方は、信仰生活を徒競走にたとえたものです。<忍耐強く走り抜こうではありませんか>とあるように、この競争は途中で止めてはならないのであって、最後まで、つまりこの地上の生を終える時まで走り続けることが求められているのです。

2節では、これまで旧約時代の多くの信仰の英雄の実例を挙げることのよって読者を励ましたが、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。<信仰の創始者>という語は、「先導者」という意味があります。この語が<完成者>と対をなしつつイエスの業を説明しています。

イエスにおいて、わたしたちの信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。このようなイエスをひたすら見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。このイエスのみに注目することが大事なのです。

イエスが、<御自身の前にある喜びを捨て>とは、天にある喜びであり、この世に来られ前に経験され、地上において放棄されたが、将来再び与えられるはずの祝福を指しています。それがイエスをして<恥をもいとわないで十字架の死をない地上の歩み、死よりの復活と昇天、そして全能の父なる神の右に座られたことが、イエスを信じる信仰者の励ましの根拠なのです。

わたしたちが<なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上ヘ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです>(コロサイ3・13、14)。

 信仰の競争は、おびただしい証人の群れかなる観衆に囲まれ、見守られ、声援を送られての競争です。信仰の競争には、絡みつく罪や重荷をイエス様に取り去っていただき、かなぐり捨てて、走らなければなりません。途中で苦しくなって脱落しないように、大切なことは、自分を見ないで、<信仰の創始者(導き手)であり、またその完成者でもあるイエス>に目を注ぎながら走ることです。わたしの中に信仰を始めて下さった方は、また完成してくださる主イエスなのです。イエス様は、わたしと一緒になって走ってくださる方でもあるのです。なんと力強い助け手、導き手ではないでしょうか。

 

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「金持ちと貧者」 ヤコブの手紙2章1~9節 

2019-10-10 07:55:45 | キリスト教

           ↑ 「信仰と偏愛(差別の警告)」ヤコブの手紙2章1~13節

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

  聖霊降臨節第19主日 2019年10月13日  午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

            礼 拝 順 序

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)

交読詩編   73(神はイスラエルに対して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書   ヤコブの手紙2章1~9節(新共同訳)(p.422)

説  教   「金持ちと貧者」      辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21) 545(まことの神)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

           次週礼拝 10月20日(日)  午後5時~5時50分 

           聖 書 ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

           説教題   「天国に市民権を持つ者」

           讃美歌(21) 403 475 交読詩編 78

     本日の聖書 ヤコブの手紙、2章1~9節

 2:1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。 8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。

        本日の説教

 ヤコブ書では、<行い>が強調されています。<行いのない信仰は人を救うことができない>(2:14)という主張がなされています。神がアブラハムを義とされたのは、アブラハムの信仰が行いによって完成されたからであると大胆に主張しています(2:22)。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2:16)と述べるパウロに反対の立場にあるように見えます。

パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマーマ3:20、ガラテヤ2:16)とあります。パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:7)神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派な行いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださると説いています。

ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教え、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)という教えに反対しているのではありません。救われた者の生活における行いの重要性について述べているのです。パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。人間に救いをもたらす信仰は、愛によっていきいきとしたものとされ、その愛によって必ずよい行いを伴うということを説いているのです。主イエスも、山上の説教の終わりで、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と語り、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7:21、26)と言われています。使徒パウロも、「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするように」(使徒言行録26:20)とすべての人に伝えました。

  今日の聖書の箇所について学びましょう。

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(2:1)

この1節の文は、直訳すると「人の分け隔ての中で、わたしたちの栄光の主イエス・キリストの信仰をもつことがないように」となります。<人を分け隔て>するとは、えこひいきすることです。神は人をえこひきなさいません。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべく神、人を偏り見ず…」(申命記10・17)とあります。神はえこひいきなさらないのですから、キリスト者もまた他人に対して、そうでなければなりません。

これは、わたしたちのキリストを信じる信仰は、それにふさわしい行動を伴わない場合は空しいものであるというヤコブ書の中心的な主張そのものであり、それを次の2~4節で、教会の中での人の分け隔て扱いという実際的な場面で具体的に説明することになります。

「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あながたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」(2:2-4)

<あなたがたの集まりに>の「集まり」は、本来ユダヤ教の会堂を表す語が用いられていますが、ここではキリスト教の教会を指しています。ヤコブにとっては、会堂も教会も共に礼拝のために人々が集まることが基本であると考えたから、この語が用いられたものと思われます。

<金の指輪をはめた立派な身なりの人>とは、パレスチナでよく見られた金持ちを指しています。しかしここでは必ずしもユダヤ人に限られず、むしろ異邦人の可能性の方が強いようです。ともかくもそのような人々が教会の集会に訪れた際の迎え方が問題とされています。これとは対照的に<汚らしい服装の貧しい人>も来ます。紀元一世紀後半頃のシリアや小アジアのキリスト教会のメンバーは、大体貧しい人が多かったのです。このような二種類の人々を迎える教会員の態度が示されます。

最初の<立派な身なりの人>にたいする教会の態度は、確かに相手を丁重に扱い、尊重しているようですが、実際はその身なりによってそのような姿勢を示しているに過ぎません。次に<貧しい人たち>への態度ですが、相手を粗末に扱い、見下しています。このような差別は人間の利己的判断に基ずくものであり、この世の基準によったもので、教会的判断とは到底言えないものです。<誤った考えに基づいて判断を下>すとは、教会が教会であるための最後のよりどころである、キリストの福音に対する信仰告白を放棄してしまっていることになります。

「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。」(2:5~7)

<世の貧しい人たち>とは、物質的窮乏のゆえに様々な不利益を被っている人たちを指しています。たしかに彼らは社会的には不遇ですが、しかしそのことは信仰の面からは何らマイナスではなく、むしろ神によって選ばれ、<信仰に富>む者とされ、神を<愛する者に約束された国を、受け継ぐ者と>されたのです。貧しさそのものが称賛されているのではありません。ヤコブが貧しい人たちへの約束を語るのは、その貧しさに信仰が加わり、神への愛が伴われていることが条件になっています。

だが、あなたがた(教会の人達)は<貧しい人>に対して不当な態度を示したことを想定してこれを非難しています。このような態度は、ちょうど<富んでいる者たち>が貧しいキリスト者を告発し、<裁判所へ引っ張って行く>のと全く同じことだと、ヤコブは主張します。自分たちと同じ貧しい人に対しては、その人の側に立って援助しなければならないのに、これをはずかしめることによって自分たちを富んでいる者たちの立場においてしまっていることになります。

<あなたがたに与えられたあの尊い名>とは、キリストの名のことです。貧しい者をはずかしめ、虐げることはとりもなおさずイエス・キリストの名を汚すことになります。<彼らこそ>は、直接には<富んでいる者たち>を指すが、あなたがたも同じ立場にあると言っているのです。

「もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」(2:8~9)

<隣人を自分のように愛しなさい>という隣人愛の戒めが引用されます。この句はレビ記19・18によるものです。主イエスがこの句を引用されてた時には、その前に申命記6・5の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」の言葉と共に引用することでこれを福音による律法として新しく生かしておられ(マタイ22:39)、パウロもその線を継承しているのですが、ヤコブの場合にはその面が弱いと言えます。むしろ彼は旧約聖書の忠実な継承者と見ることができます。しかしたとえ不十分であるとはいえ、これを<最も尊い律法>と呼んでいる場合、単なる道徳を越えたものと考えていることは確かです。ヤコブは聖書の戒めに対して示している姿勢は純粋なものです。これに従わないことは<罪を犯すこと>であり、その結果<違反者と断定され>るのです。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。この方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたしの内に示されました。イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。イエス・キリストが十字架に架かられたのは、すべての人のためです。神にはえこひいきはありません。この混じりけのない愛を知った時、私たちは真実の愛が分かりました。

「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされるのです」(ヨハネの手紙一、4・16)とあります。神様に愛されて、初めて愛を知った。その愛の神様のうちに留まることで、私たちのうちに愛が完全なものとなるのです。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。「これが、神から受けた掟です」とヨハネの手紙は勧めています。

使徒パウロは、コリントへの手紙一の13章で、真実の愛について教えた後で、「愛を追い求めなさい」(14・1)と勧めています。神の霊的賜物としての愛を祈り求めなさいと勧めているのです。分け隔てのない愛に富む者に、日毎に造りかえていただきましょう。愛がなければ、たといどのような強い信仰があろうとも、また、全財産を貧しい人々に施そうと無に等しいのですから。

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「世の富」 テモテへの手紙一、6章1~12節

2019-10-06 15:34:26 | キリスト教

      ↑ ㇵインリッヒ・ホフマン "キリストと金持ちの青年", 1889年

   聖霊降臨節第18主日  2019年10月6日  午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

      礼 拝 順 序

                 司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編   49(諸国の民よ、これを聞け)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)テモテへの手紙一、6章1~12節(p.389)

説  教   「世の富」         辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

            次週礼拝 10月13日(日)  午後5時~5時50分 

            聖 書 ヤコブの手紙、2章1~9節

            説教題   「金持ちと貧者」

            讃美歌(21) 197 545 交読詩編 73

   本日の聖書 テモテへの手紙一、6章1~12節

 6:1軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。 2主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。これらのことを教え、勧めなさい。 3異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、 4その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、 5絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。 6もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 7なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 8食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 9金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 10金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。 11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 12信仰の

戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

     本日の説教

「テモテへの手紙一」、「テモテへの手紙二」と「テトスへの手紙」の三通は、「牧会書簡」と呼ばれています。他の手紙は教会宛てに書かれているのに対して、この三通は、教会の監督、牧師であるテモテとテトスに対して牧会者としての働きを指導するために書かれたものだからです。また異端に対する反論と、異端思想により教会内の分裂を生じないための教会制度や組織を整えるように勧めていることから、この手紙が書かれたのは紀元一世紀後半から二世紀前半に出されたものと思われています。したがって、この手紙の著者は、「パウロ」(1:1)とあるが、最近ではパウロ以後のパウロの信仰の遺産を十分に継承した彼の弟子、あるいは後継者によって書かれたものと言われています。そして、この手紙の書かれた目的は、三章十五節に明記されています。「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」から、と言い、「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」とあります。この書簡はエフェソを含む小アジアで成立したと推定されています。

「テモテへの手紙一」の宛先人のテモテとパウロの出会いは使徒言行録に記されています。パウロはガラテヤのリストラという町で、ユダヤ人を母に持ちギリシア人を父に持つテモテと出会い、彼と共に宣教旅行に出かけました(16章)。

 テモテはパウロの弟子であり、パウロの伝道旅行の同行者であり、また宣教の同労者でもあります。パウロはテモテを、「わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれているわたしに生き方を、あなたがたに思い起させることでしよう」(コリント一、4・17)と紹介しています。テモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています。

 「テモテの手紙一」の1章3~4節によると、パウロはエフェソを離れてマケドニヤ州へ出発するときに、テモテをエフェソに残し、異端に対処するように命じたと書かれています。エフェソは政治、文化、商業の中心地でした。エフェソの町は「偉大アルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役」として信じられており、キリスト教信仰からすれば、異教の町でした。

 1章3節以下11節までは、福音と異なる教え(異端)についての警告です。12節から17節までは、パウロの回心と使徒としての召命について語られ、イエスにおいて現された神の絶大な愛の証です。18節から19節にかけては、テモテに対し、異端から教会を守る戦いの中で、任職の時の預言を支えとし、教会的信仰と正しい良心とを持って、雄々しく戦いなさいと命じています。20節の「ヒメナイとアレクサンドロ」の二人は、牧会書簡成立時に活動していた異端グル―プの指導的人物であったと考えられます。彼らの処罰はパウロの名により使徒的権威をもって行われました。

 2章1節から3章6節までは、著者の重視する教会の秩序の維持にたいする、テモテによって代表される教会指導者たちに対する教会指導の手引きです。

 2章3-7節は、人々のため、支配者のために祈るよう勧めた理由が述べられています。8-15節は、男性と女性に対して具体的な勧めがなされます。

 3章1-16節では、「監督」と「奉仕者」の資格について述べ、「信心の秘められた真理」という見出しの段落が続きます。

4章1-5節では、偽善的教えと戦うための教しえです。6-10節は、テモテに対しよき奉仕者となるための教えです。11-16節は、信じる人々の模範となるための具体的な教えです。

5章1節から6章2節では、教会にいける様々な立場の人々に対し、どのような対処と指導をしたら良いのかという「教会指導の諸問題」について、具体的な指示の展開が示されます。そして今日の聖書の箇所に入ります。

 「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。」(6:1)

 <軛の下にある奴隷>という言葉から、自由を奪われた奴隷の苦境が示されています。ここではキリスト教徒の奴隷です。<主人を十分尊敬すべきものと考え>ることは、模範的な奴隷として主人に服従し、仕えることです。それは教会の外の者たちのあいだでキリスト教の評判を悪くしないためです。

 「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。これらのことを教え、勧めなさい。」(6:2)

  奴隷と主人の両方がキリスト教徒である場合ですが、信仰上の兄弟であるからといって、相手の立場に対する当然の考慮を怠って振る舞うことのないようにいましめています。むしろ、<いっそう熱心に仕えるべ>であるとすすめています。その主人は<神に愛されている者>だからです。<これらのことを教え、勧めなさい>と教会の長老たちに命じています。

初期のキリスト教会の信徒の中で、奴隷の占める割合は大きかったので、奴隷に関する勧めがなされ、主人に対する奴隷の義務だけが語られているが、奴隷に対する主人の態度にはふれていないのが問題です。奴隷制度が当然のものとしていた当時の社会常識なるものの限界を明らかにしています。

「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。」(6:3-4a)

 <異なる教え>に対する警告がここでも繰り返されます。<わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉>とは、イエスの教えです。<信心>とは、「神に対して人間が本来的に取るべき態度や姿勢」を意味し、「神への畏敬」と同じであると言えます。すなわち神への畏れに基づく真の教えを受け入れない者は、<異なる教えを説く>ことになり、いくら説いても、どんなに議論しても、高慢に目をくらまされて、何もわかってはいないと言います。

 「そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。」(6:4b-5)

イエス・キリストを否定し、信心しない、異端の生き方のあやまりのもたらす結果が悪徳があげられます。<ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争い>です。異端教師は<信心を利得の道と考える>人たちです。その教えを聞く者達から法外な多額の謝礼金を要求したのです。正しい信仰の欠如は、実に愛の、それも隣人愛の欠如につながっていくのです。

「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」(6:6)

しかし、信心は人間が<満ち足りることを知る>ことです。信心は人間に平静さと自足をもたらし、さらに永遠の命を約束するゆえに大いに益があります。

「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。(6:7)

人の命は財産によってどうすることもできません。人間は本来無一物なのです。

「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」(6:8)

<食べる物と着る物>は聖書においても、生きるための最小限の要求とされています。「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしたちのために定められたパンでわたしたちを養ってくさい。飽きたりれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません」(箴言30:8-9)福音書の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6・33)とあります。ヨブ記1:21には、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う、主の御名はほめたたえられよ」とあります。

 いずれにせよ、ここで重んじられている「清貧」は、単なる「貧しさ」、「簡素さ」そのものを目的にしているのではなく、教会の指導者たちの「牧会活動や宣教活動」とかかわりのある限りでの、それらの活動を益する限りでの「清貧」です。

「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。。」(6:9)

 著者は<富んでいる人々>(6:17)ではなく、<金持ちになろうとする者>を批判しています。<金持ちになろうとする者>の金銭欲のもたらす害悪が述べられます。ここでは特に異端教師を考えているようです。その欲望は<誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥り>、人を破滅に陥れてしまいます。

「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(6:10)

<金銭の欲は、すべての悪の根です>は、当時一般に知られていたことわざです。金銭欲のゆえに信仰から脱落し、さまざまの精神的苦痛(幻滅、良心の呵責(かしゃく)、死後の不安など)に悩まされている者たちのことを読者に想い起させます。

 関西電力は幹部ら20人が高浜原発がある福井県高浜町の元助役から金品等 、約3億2千万円を受けたいたことが話題になっています。 工事を受注した吉田開発から出た金が元助役の森山栄治という人を通して、渡されたものです。九十歳で亡くなった元助役の住民の評価は分かれるが、貧しい高浜町の救世主として評価されていたとのことです。危険な原発稼働のかげに、電力会社幹部の金銭欲があったことは、嘆かわしいことです。

聖書では、金持ちになったり、有名になったりすることは悪いことなのでしょうか。いや決して悪いことではありません。クリスチャンには、自分に与えられている富や才能を正しく管理する使命が与えられています。自分の使命に忠実な人は、結果的に、裕福になったり、有名になったりする確率が高くなります。しかし、金持ちになったり、有名になったりすることを人生のゴールにするのは、間違っています。クリスチャンのゴールは、愛に生きることであり、神の栄光を表わすことです。成功した人は、それを神のご計画のために用い、天に宝を積むべきです。聖書を配布するクリスチャン事業のギデオン協会は、実業家やその家族などによって運営されています。

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