日本福音教団富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師

辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週土曜日か、前日の金曜日に掲載いたします。

「神の御許に行く」ヨハネによる福音書16章12~24節

2022-05-21 12:32:48 | キリスト教

↑ 「弟子の足をあらうキリスト」作者ティントレット(イタリア人)   制作年(1548年~1549年)寸法:228×533㎝ マドリード・プラド美術館所蔵

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第6主日  2022年5月22日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

交読詩編   15(主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書16章12~24節(新p.200)

説  教      「神の御許に行く」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                           

讃美歌(21) 336(主の昇天こそ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

の辺見の電話に、携帯電話で申し込みください。

            次週礼拝 5月29日(日)  午後5時~5時50分

            聖書  ヨハネによる福音書17章1~13節

            説教題  「キリストの昇天」

            讃美歌(21) 289 336 27 交読詩編 102 

本日の聖書 

 16:12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」17そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」18また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」19イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。21女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。22ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 

本日の説教

 ヨハネによる福音書13章から17章までは、最後の晩餐の席での出来事やイエスが弟子たちに話されたことが記されています。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書のこと)では、最後の晩餐は過越の食事であり、そこで聖餐が制定されますが、ヨハネでは、晩餐は過越の食事の前日のものであり、聖餐制定の代わりに、弟子たちの足を洗う「洗足」の記事(13章1-20節)となっています。

 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して」、弟子たち全員の足を洗い、模範をしめされました。そして、ユダによる裏切りのを予告します(13章21-30節)。

13章31節でから、イエスの「別れの説教(訣別説教・告別説教)」が始まります。イエスは「新しい掟」を与えます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と教えます。

共観福音書にはありません。「別れの説教」は、6ぺージにも及びます。別の時に語ったイエスの教えも、まとめて福音書記者が記したと思われます。

ペトロの「主よ、あなたのためなら命を捨てます」という決意に、イエスは、「三度もわたしのことを知らないと言うだろう」と予告します。

14章は、「あなたがたのために、父の家に場所を用意しに行く」と、「聖霊を与える」という約束をします。

15章1節の「イエスはまことのぶどうの木」の説話から、第二の別れの説教が始まります。15章18節からは、弟子たちの上に予想される迫害に備えての勧めです。16章1節では、「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」と語ります。

 16章4b-11節では、受難と十字架を前にして、神のもとに行こうとしている地上のイエスと、世が弟子たちを憎み、迫害することを予告します。イエスは、御自分が神のもとに去っていくことは、弟子たちの益となることを語ります。「弁護者(聖霊)」が、イエスが地上を去ると共に、到来するからです。

ヨハネによる福音書16章12-15節は、地上のイエスに対する弟子たちの無理解が指摘された後、弟子たちを真の理解に導く聖霊の働きが、再び取り上げられることになります。残される弟子たちへの慰めと励ましを述べます

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:12-1

イエスが地上にいる間に言っておきたいこと、まだたくさんあるが、弟子たちはそれを理解できない、とイエスは言われます。<聖霊>は弟子たちにすべてのことを教える(14:26a)と話されていましたが、弟子たちを真の理解に導く聖霊の働きを、再びイエスは取り上げて話します。<真理の霊は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>。それは同時に、世の虚偽を暴露することでもあります。しかし、真理の霊は、イエスにおける神の啓示に全く新しいことを付け加えるのではなく、あくまでも、イエスの栄光の出来事の意味を告知するものなのです。また、真理の霊の働きとして<これから起こることをあなたがたに告げる>と言われます。<これから起こること>とは、イエスの受難と復活の出来事を意味していると思われます。

「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(16:14-15)

<その方>・真理の霊がイエスに<栄光を与える>ことを語ります。聖霊こそが、イエスの地上の生涯の間、隠さていた事柄を啓示するのです。地上のイエスの啓示は、弟子たちの理解が弱かったために、ある程度限定されたものでした。もちろん、それは、啓示自体が限定されたものであるということではなく、啓示を受け取る側の理解が限定されたものであったということです。従って、イエスの栄光が完全に開示されるためには、聖霊が必要とされるのです。<父が持っておられるものはすべて、わたしのものである>と、父と子の一体性を再び述べます。それこそが、聖霊がイエスのものを受けて弟子たちに告げることによって、イエスに栄光を与えることの根拠なのです。このような父と子と聖霊の一致は、後の三位一体論につながっていきます。

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」(16:16-18)

イエスは、これまで別れの講話で語ってきた、イエスが神のもとへ帰ることと弟子たちのところへ再び来ることについて、語ります。しかし、ここでの強調点は<しばらくすると>です。それは、ほんの短い期間を示します。別れの講話を語るイエスにすれば、十字架について地上を去り、聖霊において再来するということは、ほんの短い間に起こることなのです。しかし、<弟子たちの中のある者>は、何のことなのか理解できません。特に、<しばらくすると>にひっかかってしまうのです。<しばらくすると>は、切迫した終末が来ることを意味するものではありません。

「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。(16:19-21)

弟子たちの疑問を見抜いたイエスは答えます。<はっきり言っておく>は、ギリシャ語原典では、「アーメン、アーメン、わたしは言う」とあり、荘重なことばで言う発言です。イエスは、現在の弟子たちの悲しみと世の喜びを対比してから、弟子たちの<悲しみは喜びに変わる>ことを宣言するのです。そして、そのことをさらに確かにするために、一つのたとえを語ります。それは産婦の産みの苦しみと誕生の喜びのたとえで、非常に分かり安い印象的なたとえです。産婦の産みの苦しみをたとえとして用いることは、旧約聖書にもたくさんあります(イザヤ書13:8、ミカ4:9など)。そこでは、苦痛だけが問題とされているのですが、その苦しみが子供の誕生の喜びによって忘れられるということがここで言われています。<自分の時が来たからである>とは、妊婦が出産の時を迎えた時を表します。イエスが去ることによって、やがて起こる弟子たちの悲しみ、苦しみも、同様に喜びに変わるとイエスは慰め励ましているのです。イエスの死を<世は喜ぶ>と言っています。この場合の<この世>とは、メシア・イエスを十字架にかける悪の支配する世界のことです。

 「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:22-24)

弟子たちも、今、イエスが地上から去ることに悲しんでいるが、それは、産みの苦しみのようなものです。弟子たちの共同体は、復活のキリストに出会い、聖霊における再来のイエスに出会って、<喜ぶことになる>のです。そして、その喜びは、終末の喜びなのです。<その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない>のです。どんなものも、イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです。<その日には>、聖霊の到来によって、イエスが語られ、なさったすべてのことが明らかになり、弟子たちは、もはやイエスに何も尋ねることはなくなるのです。イエスの死は、単なる敗北または挫折ではなく、わたしたちも古い自分、古い生命に死んで、永遠の生命に至るための、道を開くものとなったのです。復活の主に再会することによって、決して奪われることのない喜びを与えられるのです。

<はっきり言っておく>と再び言われます。ここでは、14:13-14、15:16で語られたことが反復されます。イエスの名によってなされるすべての祈りは、イエスの執り成しにより、必ず聞かれ、父なる神によってかなえられる、と明言されます。イエスの名によって願いなさい、そうすれば与えられ、あなたがたは喜びにみたされる。そのことによって、イエスは父と一体であり、イエスは神の位置に立つことが明らかにされるのです。

イエスの逮捕と処刑は目前に迫っているただ中で、イエスの口から「希望」が、<悲しみから喜びに変わる日のこと>が、<心から喜ぶことになる>と語っています。イエスの名による祈りは、わたしたちに明日への希望を与えるものであり、満ち溢れる喜びを約束するものです。愛だけが永遠に支配する世界に、わたしたちの思いと目を向けさせてくれます。

別れの説教の中心的な目的は、地上に残される弟子たちの不安を取り除くことにあります。その根拠としてイエスの再来、弁護者である聖霊の到来、この世が与えるものとは異なる平安の実現を約束します。それによって弟子は、イエスの不在に耐えて行くことが出来るのであり、さらに神の栄光を現わしていくことができるのです。

16章33節には、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」という、別れの説教のしめくくりにしたイエスの宣言があります。キリストと共にある生活、キリストに支えられる生活、キリストに従う生活こそが、私たちを支え、力づけ、世に勝つ道なのです。

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